文集
3月27日(土)
さて、実家でお昼を食べていると、
「ちょっと見てほしいものがあるのよ」
「何?」
「今度、文集に書かなくちゃいけなくて、原稿を書いてみたんだけど、読んでみて、おかしなところがあったら直してちょうだい」
「文春?」
「文集」
「なんだ、文集か」
どうやら喜寿の記念に、高校時代の仲間で、思い出話を綴った文集を作る、ということらしい。
見ると、テーブルの上に400字詰め原稿用紙があり、3枚にわたって謹厳な文字で文章が書かれている。
いまどき、400字詰めの原稿用紙に文章を書く、なんてことはトンと見たことがないから、新鮮というか、微笑ましい感じがした。
「読んでくれた?」
「いままだご飯を食べてるんだよ。そんなに早く読めるかよ!」
とにかく、早く読んでもらいたくて仕方がないらしい。
お昼を食べ終わり、いよいよ原稿用紙に目を通す。
そこには、母の青春時代の話が書かれていて、読んでいて少し面映ゆくなった。
母は田舎町の中学校を卒業したあと、バレーボールを続けたいということで、同じ県内にある、スポーツが盛んな高校に入学した。入学直後から、バレーボールの練習に明け暮れることになる。遅くまで練習が続き、電車がなくなって家に帰れなくなって友達の家に泊まることもしばしばだった。当時、家に電話がなかったから、近所の酒屋さんに電話をかけて、今日は帰れないと家に言づてを頼んだことが何度もあった。
バレーボールの強豪校であったこともあり、毎年のように国体に出場し、そのたびに遠征をした。ある年は、北海道への修学旅行と遠征の日程が重なり、泣く泣く修学旅行を諦め、宇部の大会を優先させたのだが、その代わりに、宇部の大会が終わったあと、周辺をみんなで旅行して修学旅行気分を味わった。
運動能力には誰にも負けない自信があり、全校生徒が参加するマラソン大会で、1年生の時に3年生の先輩とゴールを争って肩の差で2位になった。
昨年、バレー部のキャプテンが亡くなった。闘病生活を続け、ことあるごとに励ましていたが、昨年はコロナ禍のために直接お見舞いに行けなかったことが悔やまれた。告別式でようやくキャプテンの顔を見ることができたが、その顔は実に安らかだった。
のちに娘さんが、遺品の中からメモを見つけ、高校のバレー部のみんなに励まされたことがとてもうれしかったと書いてあったと知らせてくれた。
母の文章は、情緒的に過ぎず、淡々と書かれていた。決してうまい文章とはいえなかったが、この素朴な味を壊してはならないと、修正は最小限にとどめた。
最後の数行には、いまに至る人生が少しばかり書かれていた。その後結婚し、同居している夫の両親の津軽弁がわからず苦労したが、最終的には東京生まれの夫よりも津軽弁が聞き取れるようになった。その夫も3年前に亡くなり、いまはできるだけ子どもたちに迷惑をかけないように終活をしたい、とあった。
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