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○○の業(ごう)

4月20日(火)

午後、新年度最初の全体会議をなんとか無事に乗り越えた。

…にしても、身体がツラいツラい。午前の会議では、Zoomの画面に顔出しをしているにもかかわらず、ウツラウツラしてしまった。というか、よく居眠り運転もせずに2時間以上かけて出勤できたものだ。

明らかに寝不足なのだろう。だったらブログを書くのを休めばいいのだが、これが神田伯山がいうところの、「物書きの業(ごう)」なのだろう。

最近、ラジオで講談師の神田伯山先生が、「○○の業(ごう)」という言葉を多用していて可笑しかった。伊集院光氏を「喋り手の業」と言っていたのはわかるとしても、松尾貴史氏を「キッチュの業」と言ったのは、もはやナンダカワカラナくてたまらなく可笑しい。

伯山先生が「○○の業」を多用したがるのは、「落語とは、人間の業(ごう)の肯定である」という立川談志の名言の影響を受けたものであろう。

ここでいう「業」とは何か?

僕なりの解釈をすると、「そうせずにはいられない行為」みたいなことだろうか。

伯山先生が伊集院さんのことを「喋り手の業」と言ったのは、「どんなに自分にとってマイナスなことであっても、それについて喋らずにはいられない」という伊集院さんの「喋り」に対する姿勢を述べたものである。

松尾貴史さんを「キッチュの業」と言ったのも、ふだん、どんなに政治的に正しい発言をしても、ふとした瞬間に、タレント「キッチュ」の本質出てきて、キッチュとしてふるまわずにはいられないことを、そのように表現したのだと思う(わかりにくい)。

芥川龍之介の「地獄変」だとか、ゴッホが自画像をうまく描けなくて自分の耳を切り落とすとかいったことは、「画家の業」なのだろう。

ついつい酒を飲んじゃうとか、博打をしちゃうとか、仕事をさぼっちゃうとか、人間がついついそうしてしまう「業」を、落語は肯定しているのである、というのが、先の談志師匠の言葉なのだろうと思う。

こう書くと、「落語は人間の弱さを肯定しているのだ」という意味になりかねないが、それは違う。

無類の博打好きが高じて仕事もせずに借金を抱えた長兵衛。なんとか50両のお金を工面して改心しようとするが、帰り道に吾妻橋で、身投げしようとしている若者・文七に出会う。わけを聞くと、さる屋敷へお使いを頼まれて集金した帰りに50両の大金をすられたので、死んでお詫びをしようというところだった。「死んでお詫びを」「いや、死なせねぇ」と押し問答が続いた後、長兵衛は、自分の娘のお久が身を売って工面してくれた50両を文七に渡し、逃げるように帰ってゆく。

この「文七元結」を初めて聴いたとき、長兵衛はなんとバカなんだろう、せっかく工面した50両を、後先考えずに、見ず知らずの他人に渡すバカがどこにいるよ!と思ったのだが、これは、いくらバカだと言われても、長兵衛がそうせずにはいられなかったのだから仕方がない。これが長兵衛の「業」である。

それでも落語は優しい。最後はハッピーエンドとなり、つまり落語は、長兵衛の業を肯定したのである。

人間は、自分の業を肯定して生きるしかないのだと、落語は教えてくれる。

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