« 2021年5月 | トップページ | 2021年7月 »

2021年6月

末はいとうあさこか

末は三山ひろしか

6月30日(水)

3歳3か月になるうちの娘は一時期、映画「アナと雪の女王」をくり返し見ていて、「ありのままで~♪」を朗々と歌い上げていた。

いつしか自分自身をエルサにたとえるようになった。そしてママにはアナ、パパには…オラフの役柄を与えた。クリストフではなく、雪だるまのオラフである。

先日、娘が美容院に髪を切りに行ったとき、美容師さんに「エルサみたいにして」とお願いした。もともと髪が短い娘は、長い髪のエルサになれるはずはないのだが。

で、短くサッパリした髪を鏡で見て、娘は「オラフみたい…」と言ったのである。

そのことを翌日、保育園に登園したときに、短くなった髪を見せながら、保育士の先生に言ったらしい。

「エルサにしてって言ったら、オラフになっちゃった!」

これが保育士の先生たちの間でひどくウケたようで、今日、夕方に保育園に娘を迎えに行ったら、通りかかった保育士さんが娘を見て、思い出し笑いをしながら、その話題を出した。

かくして娘にとって、これがテッパンの自虐ネタとなった。

「エルサにしてって言ったら、オラフになっちゃったよ!」

っていう自虐ネタ、いとうあさこが言いそうじゃない?ちゃんとネタを見たことがないからイメージだけで言ってるけど。

お笑いの才能もあるんじゃないだろうか。

| | コメント (0)

海辺の検査センター

6月30日(水)

まことにややこしい身体である。

先週の検査の結果では不明な部分があり、そのことを確かめるために別の検査をすることになった。

その検査は、あまり需要がないので、首都圏でも1箇所くらいしかその検査をしてくれるところがないという。

実は同じ検査は、2017年の年末にも、いちど受けたことがある。なのでその検査センターの場所は、すでに訪れたことがあった。

たしか海の近くにある、周りに何もないような場所にその建物は立っていた。

で、今日。

車で1時間半ほどかけて、その場所に到着した。前回は電車とバスを乗り継いでいったので、高速道路を降りてからの道は、なかなか新鮮であった。

新しく、といっても30年程前から開発された町であるせいか、2車線から3車線の幅の大きな道路が続いている。

高層マンションやビジネスビルなども立ち並び、開発当初は近未来的な都市をめざしていたのかもしれないが、いまでは少しゴーストタウン的な雰囲気も感じられる。それでいて、学校の数は多い。商店街やショッピングモールなどこに買い物に行っているのだろう?

建物に到着し、受付を済ませ、待合室で待っていると、ほどなくして診察室へ通された。落ち着いた感じの、老先生が座っている。

「3年半前もいちど来られましたよね。覚えていますか?」

「ええ、来たことは覚えています」

「そのときも私が検査の説明をしたんですよ」

だんだん思い出してきた。たしかにこの先生に説明を聞いたのだった。

「そのときの説明、覚えていますか?」

「いやあ、あまりおぼえていません」

「そうですか。じゃあ簡単に説明しましょう」

といって、先生は検査の概要の説明を始めた。話していくうちに、次第に3年半前のこの先生とのやりとりを、思い出してきた。とても特徴的な話し方だったのである。今風にいえば「クセがすごい」というべきか。落ち着いた話の中に、他の人とは違う個性、というようなものが感じられた。

ひととおり概要の説明が終わり、診察室を出て、検査室に向かう。

その道すがら、看護師さんが、

「あの先生、話の中にちょいちょいつまらない冗談をはさむでしょう?」

という。そうか。個性的な話し方の原因は、まじめな話の中に、同じトーンでちょいちょい冗談、というか余計な話を挟んでいたことにあったのか。

「ええ、そうですね」

「あの先生、いつもああなんですよ」

「そうですか。僕もお話を聴いているうちに、だんだん思い出してきました」

誰に対してもああいった感じでお話しになるのだな、ということがわかった。決して不愉快になる話し方ではないのだが、たまにしか聞かないから気にならないのであって、それを毎回聴かされている看護師さんは、大変だろう。

検査は午前中いっぱいかかって終わった。

| | コメント (0)

ワクチンはどうなった?

6月29日(火)

母が1回目のワクチンを接種したという。

「今のところとくに異常なし」

との連絡が入り、ひとまずホッとした。

さて、僕はといえば、7月8日(木)が1回目の接種の予定である。

先日、近所のかかりつけ医のところに行ったとき、医者の先生から、

「鬼瓦さん、あなた優先接種の対象者ですよ」

と言われ、その場で第1回目の接種を予約した、という話は、以前に書いた

そのすぐにあと、僕のもとに接種券が届いた。そのときは家族では僕だけで、妻の分はまだ届いていなかった。

で、昨日、妻のもとにも接種券が届いた。妻は優先接種の対象者ではない。

さっそく妻が市のホームページから1回目のワクチン接種の予約をすることにした。接種場所は、僕と同じ、近所のかかりつけ医を指定した。

そうしたところ、

「7月2日から予約を入れられます」

と表示があったという。どういうこっちゃ?優先接種の僕の日程よりも早い予約が可能ということではないか???

ただし妻は7月9日まで予定が詰まっているので、7月10日に予約を入れたところ、問題なく予約が完了したというのである。

ということはですよ。もし7月2日が都合がよかった場合、優先接種の対象者である僕よりも早くワクチンを接種できたことになる。

どういうこっちゃ???いったい優先接種の申し込み、というのはなんだったのか?

ワクチンの供給が急に潤沢になったのだろうか?

それどころか、SNSなどを見ると、僕と同世代の友人が何人も、すでに1回目のワクチン接種をすませていることもわかった。

自慢げに「ワクチン接種の予約の予約ができました!」などと書いた自分が恥ずかしい。

| | コメント (2)

再び「知の巨人」

6月28日(月)

いくら緊急事態宣言が解除され、まん延防止等重点措置に移行したからといって、実際には感染者は増加を続けているので、不用意に外に出るわけにはいかない。というか、昨年4月以降、車による出勤と通院のほかは、よけいな外出はほとんどしていない。劇場で映画を観ることもできず、芝居を観ることもできないので、体調の悪さも手伝って、どんどん引きこもりが常態化してくる。今週の水曜日までは6月の「第5週目」なので、ルーティーンの会議などがなく、体調がアレなこともあり、できるだけ在宅勤務をすることにした。

そういうわけなので、岩井勇気の言葉を借りれば、「僕の人生には事件は起きない、ほんとうの意味で」なのである。

夕食を食べながら、BS-TBSの「報道1930」を観ていたら、先日訃報を聞いた立花隆の特集をやっていた。立花隆とゆかりの深い2人のゲストが、「立花隆はいったいどんなことを考え、私たちに何を遺そうとしたのか」といった壮大なテーマについて議論していたのだが、司会者を含めた3人とも、どうも立花隆を持て余しているような感じがして、ちょっと消化不良だった。いくら立花隆について論じたところで、所詮、立花隆の知性のレベルを越えることは不可能なのだ、という思いを強くした。

むかし大林宣彦監督が、宇多丸さんの「ウィークエンドシャッフル」というラジオ番組に出演して、「人間の考えることというのは、所詮は人間の知性ていどに過ぎないものなのだ」という意味のことを言っていて、それを聞いて以来、人間の知性の限界、ということを意識して考えるようになった。新型コロナウイルスはまさに、人間の知性に対する挑戦で、人間の知性のレベルではとても太刀打ちできないものなのだろう。

そんななかで、ゲストの一人が立花隆の仕事の秘訣として「やりたくない仕事はやるな、やりたくない仕事をやり始めたら、やりたくない仕事がどんどん舞い込んでくる」という言葉を紹介していて、そうだよなあと深く頷いた。いまの僕は、というか多くの人たちは、「やりたくない仕事」に時間をとられているのではないだろうか。

実際、立花隆も、「もっともやりたくないプロ野球の取材をさせられたことから3年足らずで文藝春秋を退社」(Wikipediaより)したらしい。自分のやりたい仕事だけを追求していった結果、「知の巨人」になり得たのである。

「クソどうでもいい仕事」(bullshit job)という言葉があるらしい。ネットで検索すると、デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ ークソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店、2020年)という本があることを知った。本の裏表紙の画像を見ると、帯に我らが武田砂鉄氏の推薦コメントが載っている。

「『いかに会議の時間を短くするか』というお題の会議を長時間やったことがある。あれには意味があったらしい。会議がなくなると困っちゃう人たちの仕事を守っていたのだ」

どこの組織でもこれは「あるある」なのかもしれない。実際にうちの職場でも最近、「いかにしたら会議を減らせるかについて、今度会議をしよう」という話が出ている。

ちなみにこの本の裏表紙側の帯には、武田砂鉄氏とともにブレイディみかこ氏も推薦コメントを寄せている。いまやこの二人、帯の推薦コメントの双璧なんじゃないだろうか。

それはともかく。

僕のここ最近の体調不良の原因は、どうやらこのあたりにあるのではないか。立花隆の「やりたくない仕事はやるな」という言葉を聞いて、その思いは確信に至ったのである。

| | コメント (2)

あの手この手

以前に、ある会社のインターネットサイトの連載コラムに、一度だけ執筆依頼を受けたことがある。

そのコラムは、ある大きなテーマに即した短い文章を書くというもので、月に1回程度のペースで、一人の執筆者ではなく、何人もの執筆者が代わる代わる書くことになっているようである。そのコーナーに何度も登場する人もいれば、僕のように、1回だけのゲスト、という人もいる。

僕はその会社の社員ではないのだが、その会社のある社員の人が僕を推薦してくれたらしく、ありがたいので引き受けることにし、2000字ほどの文章を書いて送ることにした。2019年のことである。

そんなことをすっかりと忘れていたのだが、つい最近、その会社からメールが来た。

「さて、このたび当社では、連載コラムの一部を書籍化する企画を進めております。○○○新書の一冊として、本年11月刊行に向け、準備をしております。このなかに、鬼瓦さんにご執筆いただいた記事を収録したく存じます。」

とあり、その下に、僕の書いた記事のリンク先が貼ってあった。

どんなことを書いたっけ?と見てみると、コラム全体のテーマ設定からは少し外れるような文章を書いてしまったな、と今さらながら思うのだが、先方の依頼だったのだから仕方がない。でもまあ我ながら「出来がいい」文章だったので、収録してもらうことは願ってもないことである。130本近くある連載コラムの中から、部外者の僕の文章を選んでいただいたことに感謝し、さっそく許諾する旨の回答書をお送りした。

送ったあとにあらためて契約内容を読んでみると、「印税のすべてはその会社が受領する」とあり、なんだ、ノーギャラか、と思ったのだが、まあ仕方がない。

そうかと思えば、以前にわが社が出している雑誌に4000字程度の文章を寄せたことがある。こちらの方は、本務として書いているので当然ノーギャラなのだが、少し前、「雑誌の販促のために社員が書いた文章をネットで公開します」という方針が出された。こちらの方はネットから書籍、ではなく、書籍からネット、である。

一般には「ここから先は書籍で」みたいに、一部を公開するという手を使うと思うのだが、この場合は、文章の全文を公開するのだという。ずいぶんと大盤振る舞いである。

別に反対する理由もなかったのでその方針で許諾したが、はたしてそれが雑誌の販促になるのかどうか、よくわからない。だれか有名な人、そうねえ、僕の世代で言えば、たとえば小泉今日子とかが話題にしてくれたらバズるかもしれない。つまり重要なのは誰が話題にするかであって、ネットとかラジオとか、媒体は関係ないのだ。たんにネットの海に放流するだけでは、誰も見てくれやしない。ネットの力を過信してはいけないのだ。

案の定、そのサイトはほとんど誰の目にもとまっていないようで、どれほどの効果があるのかははなはだ疑わしい。まあ、こちらの文章の方は、出来があまりよくなかったので、そのせいもあるのだろう。

| | コメント (0)

末は三山ひろしか

6月25日(金)

無事に金曜日にたどり着いた。

今日は職場で、構成員を対象にした勉強会を企画し、僕が司会をつとめた。自由参加だったので、呼びかけてもほとんど集まらないのではないかと、はじまる前は不安だったが、最終的には20人ほど集まり、思った以上に有意義な意見交換がおこなわれた2時間だった。

「アシタノカレッジ金曜日」のゲストは、演歌歌手の三山ひろしさん。僕はこの人のことを、紅白歌合戦の時に見るくらいで、その人となりを全然知らなかったのだが、いやあ、抜群のトーク力で、おもしろかった。

武田砂鉄氏が三山ひろしファンということもあり、三山ひろし情報をかなり仕入れていて、三山ひろしの魅力をたっぷりと引き出していた。たとえていえば、武田砂鉄氏があらゆる角度から投げたボールを、三山ひろしが全部ホームランで返す感じで、聞いていて気持ちのよい対談だった。TBSラジオでレギュラーを持つんじゃないだろうか。というかラジオ局はこの人のトーク力を手放してはいけない。

対談の中で、三山ひろしは、「3歳のときに五木ひろしの歌を歌って、みんなに驚かれた。それが演歌歌手を目指す原点となった」みたいなことを語っていて、思わず笑ってしまった。

というのも、うちの娘はいま3歳3か月。いま娘が歌っている歌は、小林旭の「熱き心に」と森進一の「冬のリヴィエラ」だからである!

なぜこの歌をいま歌っているのか?

少し前にNHKで放送された「うたコン」という歌謡番組で、大滝詠一特集をやっていたときに、娘が大滝詠一のうたにどハマりしたのである!

このとき、「熱き心に」を歌っている小林旭と「冬のリヴィエラ」を歌っている森進一の映像がメドレーで流れていて、娘はそれを完コピしたのである。

「熱き心に 時よもどれ♪」

とか、

「冬のリヴィエラ~ 男ってヤツは♪」

といった歌詞を、ちょっとものまねを入れながら堂々と歌い上げるのだ。

今日の夕方、保育園に迎えに行った妻によると、娘は帰り道の信号待ちをしているときなんかに、「熱き心に 時よもどれ♪」「冬のリヴィエラ~ 男ってヤツは♪」と大声で歌っていて、恥ずかしかったと言っていた。

いやあ、たしかに恥ずかしいなあ、とその時は思ったが、三山ひろしが3歳のときに五木ひろしを歌っていたというエピソードが、人生を決定づけた特別なエピソードであるかのように語っているのを聴いて、

(うちの娘だって負けないぞ。こっちは小林旭と森進一だ!)

と、意を強くしたのである。

| | コメント (1)

知の巨人、からの「清張ボタン」

「知の巨人」立花隆の訃報を聞いた。

僕は立花隆の熱心な読者ではなかった。『臨死体験』を興味深く読んだ、という程度なのだが、「知の巨人」と呼ばれるにふさわしい人だ、ということに異論はない。

僕の中での「知の巨人」は、小説家の松本清張である。立花隆とは違う意味で、彼もまた「知の巨人」だったのではないかと思う。

みうらじゅん編『清張地獄八景』(文春文庫)に所載の、岡本健資「あのころの松本清張」(初出は『文藝春秋』1994年8月号)は、松本清張が作家としてデビューする前の様子が活写されている。

岡本健資は、清張が小倉の朝日新聞西部本社広告部に勤めていた時代の同僚で、もう一人の同僚である吉田満と3人で、仕事のかたわら、短編小説や映画のシナリオのようなものを書いていたらしい。

そこに、こんな記載がある。

「その当時、朝日新聞では、朝夕刊以外に、「アサヒ・ウイークリー」という八頁ほどのタブロイド型娯楽週刊誌を発行していた。そこに清張さんの掌篇小説が一度載ったことがあった。

題名は忘れたが、なんでも、小倉の広寿山という禅寺の修行僧が、山門の石段を上がる若い女の着物の裾からこぼれる白いふくら脛に目を奪われて、不覚にも石段から転げ落ちる、といったふうの短編で、その女の艶っぽさや転落する若僧の気持が目に見えるようで、その描写の的確さに感心させられたことがあった。『西郷札』を書く半年ばかり前のことである」

松本清張の公式のデビュー作は『西郷札』であるが、その半年前に、掌篇小説が活字になって発表されていたことを、これを読んで初めて知った。マニアには常識なのだろうか。

興味深いのは、その小説の内容である。これって、兼好法師の『徒然草』が元ネタなのではないだろうか?

「世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。

匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物(たきもの)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。九米の仙人の、物洗ふ女の脛(はぎ)の白きを見て、通(つう)を失ひけんは、まことに、手足・はだへなどのきよらに、肥え、あぶらづきたらんは、外(ほか)の色ならねば、さもあらんかし」(『徒然草』第8段)」

『徒然草』のこの簡潔な文章を、松本清張ならではの解釈によって一編の小説になっていたのだとしたら、ぜひ読んでみたいものである。

そして、ここからが重要なのだが。

この第8段のタイトルが、「世の人の心惑はす事、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな」なのである。これこそが、みうらじゅん先生が言うところの、松本清張の小説全体を貫いている本質、すなわち「清張ボタン」なのではないだろうか。「清張ボタン」とは、地位や名声やそこそこの経済力を得た人の前に、あるとき突如として「清張」というボタンがあらわれ、うっかりそのボタンを押すと、たちまち地獄に落ちるという、あのボタンのことである。

だとすれば、公式のデビュー作『西郷札』の前に書かれたこの小説こそが、その後の松本清張の小説の作風をほとんど決定づけた、ともいえるのではないだろうか。

ますますこの小説を読んでみたくなる。

| | コメント (0)

「はがきでこんにちは」をラジオ遺産に!

先週の土曜日、TBSラジオ「大沢悠里のゆうゆうワイド」は、「ありがとう、若山弦蔵さん」と題する、若山弦蔵さんの追悼特集だった。

リアルタイムで聴くことができなかったので、radikoのタイムフリーで聴いたのだが、ゲストは毒蝮三太夫さんで、マムシさんらしい毒舌で、若山弦蔵さんの思い出話を語っていた。

僕の中で、TBSラジオ平日の帯番組の「レジェンド・パーソナリティー」というのは、近石真介、大沢悠里、若山弦蔵、毒蝮三太夫の4人なのだが、(土日を含めるとこれに永六輔が加わる)。実際、この4人は、たまに会って飲みに行く間柄だったらしい(ただし近石真介さんは下戸)。

TBSラジオの平日のワイド番組は、一時期、というか僕が小学生の頃は、近石真介→大沢悠里→若山弦蔵というリレーでおこなわれた。いまでいうと、伊集院光→ジェーン・スー→赤江珠緒→荻上チキの流れに相当する。

さて、この番組の中盤ごろ、近石真介さんが電話出演して、若山弦蔵さんの思い出を語っていた。近石さんは現在90歳である。

僕は、この4人の中でも、とりわけ近石真介さんに思い入れがあり僕のラジオの原体験だった。久しぶりに聴く声を懐かしく思ったのだが、さすがに90歳ともなると、電話口の声に衰えを感じないわけにはいかず、それでも、お元気そうな声ではっきりとお話になっていたことに安堵した。

しかし番組で大沢悠里さんが語っていたところによると、近石さんは昨年、体調を崩されたらしい。声の伸びやかさがかつてほどではないなあ、と感じたのは、そのせいかもしれない。

「最近はほとんど仕事をしていない」と言っていたので、気になって調べてみると、近石さんのラジオ番組「はがきでこんにちは」が、2020年9月25日に終了したとあった(Wikipediaによる)。1971年10月4日のスタート以来、49年の歴史に幕を閉じたことになる。

以前にも書いたが、「はがきでこんにちは」は、5分の番組で、近石さんが視聴者から寄せられた1枚のはがきを読み、それについて近石さんがコメントを言う、という、実にシンプルな内容で、はがきの内容も、日常のごくありふれた話ばかりで、近年のようにウケをねらったような内容では決してない。

とりとめのないはがきの内容に、近石さんが共感しながらとりとめのないコメントを言う、そしてそのコメントを聞きたいというリスナーがまたとりとめのない内容のはがきを送る、というサイクルで、49年も続けてきたのである。

くり返すが、これこそが、ラジオ番組の究極の形、最終形態なのではないか!

何度でも言う。「はがきでこんにちは」をラジオ遺産に!と。

| | コメント (0)

だまし討ち

スポーツマンシップって、なんだろう?

どうやら東京五輪は、このままなし崩し的に突き進んでしまうようだ。

僕らはいま、人類が営々と築き上げてきた「言葉」や「論理」というものを、東京五輪大会と引き換えに手放しつつある。

政府は、緊急事態宣言やまん延防止等重点措置の解除後の大規模イベントの観客上限を5000人以下から1万人以下に緩和される見通しを示した。これに対して、分科会は、「オリンピックとは関係ない国内イベントについてですね」と何度も念押した上でこれを了承し、さらに「オリンピックはより厳しく」と付け加えたにもかかわらず、この提言を無視して、五輪の観客の上限も1万人とした。その際に、組織委員会の会長は「尾身会長の提言を受けて」と、その根拠を示したのである。

これではまったく、だまし討ちである。分科会から観客の上限1万人という言葉を引き出しておいて、一方で「この上限数は五輪には適用されない」という但し書きを無視して、あたかも尾身会長のお墨付きをもらったかのように平然と言ってのけたのである。

もともと尾身会長は、五輪の中止こそうたわなかったものの、やるとするならば無観客で実施すべきだと主張していた。その背景を考えれば、「尾身会長のお墨付きをもらって観客上限1万人とした」という発言は、あり得ないはずである。

だまし討ちはそれだけではない。

尾身会長をはじめ分科会の専門家有志が作成した提言書には、五輪を中止せよという文言は書かれていない。本来はそれも選択肢の一つだったのだが、首相がG7で世界の首脳に向けて五輪開催を表明してしまったために、提言書の中では中止の選択肢について言及できなかった、と述べている。

今度はそれを逆手にとり、「『中止』ということが尾身会長の提言には書いてなかった」ことを錦の御旗の如く、記者会見で大会組織委員長は、それを五輪開催の根拠として平然と主張したのである。

尾身会長からしたら、「話が違う…」と言いたくなるだろう。大会組織委員会の会長は、もともとオリンピックに出場経験のある元アスリートで、冬季五輪のスケートと、夏季五輪の自転車競技に出場している。

いったい、どこをどう読めば、こういう解釈ができるのだろう?こういう人とは、日常会話すら成り立たないのではないか、とさえ思えてくる。

伊集院光氏が、朝のラジオ番組で、「毎日毎日ニュースのコーナーで五輪開催に対する懸念を話しているけれども、さすがに僕も飽きてきて、リスナーにも『またかよ』と言われるかもしれないので、もうやめようかと思ったんだけれども、今回の組織委員会の会長の発言を聞いて、やっぱり言い続けなきゃダメだ、という思いを強くした。だって、『伊集院さんが何も言わなくなった、ってことは、開催に賛成してくれたんですね』と言われかねないし」

と言っていて、やはり一連の組織委員会会長の発言は、言葉を扱う職業の人からしたら、許しがたいものだったのである。

フェアプレー精神って、なんだろう?

東京五輪の観客についてもう少し言うと、「観客は上限1万人だけど、IOCとかスポンサーとかは関係者なので、それは観客とは別ね」という理屈で、ノーカウントされるということも明らかになった。つまり1万人にさらに上乗せされることになる。

これで思い出すのは、いとうあさこのライブである。

先日、草月ホールというところで、いとうあさこの単独ライブがおこなわれた。もっとも僕は観に行ったわけではなく、文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」の中で話していた内容を聞いただけである。

観客数は、緊急事態宣言下だったこともあり、500くらいある座席のうち、半分にしなければならない。たとえば席数が500だったとすると、250が観客数の上限となる。

しかし、250席をきっちり観客分にするわけにはいかない。なぜなら、客席には劇場のスタッフもスタンバイすることがあるので、その分を差し引かなければならない。ということで、観客の数を半分よりさらに減らして、チケットを販売した、というのである。

たかだか500席のライブでも、関係者分の席を観客分の席に含めているのである。身を切るような思いで、観客の人数を制限しているのだ。だが東京五輪の場合は、観客と関係者は別だと平然と言ってのけている。おかしくないか?

つまり、この文章でいちばん言いたいことは、「これではいとうあさこの努力が報われないではないか」ということなのである。

| | コメント (0)

ワクチン接種の予約ができました!

6月19日(土)

持病の薬を処方してもらうために、近所のかかりつけのお医者さんのところに行った。

僕はここ最近の体調の悪さについて話した。喉の痛みから始まって、咳が出るようになったこと、そしてめまいの話。

お医者さんは僕の喉を診るわけでもなく、「薬を出しときましょう」と言った。喉の炎症を抑える薬や、痰を切りやすくする薬など、4種類の薬である。その一方で、めまいについては完全スルーだった。

(めまいの方がいまの僕には深刻なんだがな…)

と思いつつ、黙っていた。

(そういえば、ワクチンについて聞かなければならないのだった)

今週の市報に、ワクチン接種券についての案内が出ていた。僕の年齢の人たちは、6月29日(火)から接種券を配布する、とあった。

「基礎疾患の人は優先的に接種してもらえないのかねえ。接種券が配られる前に予約できないのか、お医者さんに行くんだったら、聞いてみたら?」

と家族に言われ、それを聞かないと、と思っていた矢先である。

「鬼瓦さん、あなた、ワクチンの優先接種の対象者ですよ」

と先生がそういうと、市のホームページをプリントアウトした紙を見せてくれた。

「ほら、ここに優先接種を受けるべき人の条件が大きく2つ書かれているでしょう?鬼瓦さんは、2つともあてはまります」

その2つの基準というのは、大まかに言えば、免疫の機能が低下する病気にかかっている、ということと、肥満である、ということである。

通常は、どちらかを満たせば優先接種の対象となるらしいのだが、僕の場合、その2つともあてはまるということなのだ。つまり、優先接種の対象者の中でも、さらに優先順位が高いということになる。これって自慢してよいことなのか?

というわけで、来月の前半に1回目の接種、再来月の初頭に2回目の接種を受けられるよう、予約を入れた。

ワクチンで薔薇色の未来が開ける、か?

| | コメント (4)

金曜日までたどり着きませんでした

ジェーン・スーさんが金曜日配信のポッドキャスト番組「OVER THE SUN」で必ず言う、

「よくぞ、よくぞ、金曜日までたどり着きました」

というのは、1週間の仕事に対してねぎらう言葉。あるいは、武田砂鉄氏「アシタノカレッジ金曜日」の最後に言う、

「来週もご無事にお過ごしください」

というのは、次の金曜日までご無事にお過ごしください、という意味の言葉。

いつも、そういう思いで1週間を過ごしているのだが、今週はさすがに無理だった。

金曜日まで無事にたどり着かなかった、のである。

今週は、月曜日からほとんどの仕事をキャンセルした。唯一、火曜日だけは、大事な会議が終日あるので、出勤をした。会議日だった火曜日が終わると、もうそこで1週間が終わった気がしたのである。

原因は、めまいがひどいことによる。

それよりも前から、体調が悪かった。

喉が痛くなり、それが原因で咳が出はじめた。時節柄、心配をしたが、もともと気管支が弱いので、このようなことがよく起こる。

それと連動するのかわからないが、それからほどなくしてめまいがひどくなったのである。

ここ最近、忙しかった、というわけでもないのだが、かなりストレスのたまる局面に立たされていたのではないかと、自分なりに想像する。

先週の「アシタノカレッジ金曜日」にゲスト出演する予定だった光浦靖子さんが、番組開始10分前に突然出演をキャンセルをした、という話を前に書いたが、そのときの事情を文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」で自身が語っていた。曰く、

「最近あまりに忙しかったり、精神的に追い詰められていたりしたせいか、ひどいめまいに苦しめられた。家を出るギリギリまで横になって回復を待っていたが、結局ダメだった。めまいに苦しめられると、コンビニに買い物に行って牛乳1本持って帰るだけでもツラい。」

というようなことを言っていて、仕事に行けそうかどうかをギリギリまで考える、とか、牛乳1本持って帰るだけでもツラい、といった心理状況は、いまの僕にはすごくよくわかる。

コラムニストの小田嶋隆さんのごく最近のツイートに、

「体調を崩している人間にしか到達できない境地があるといえばあるのだが、その境地を正しく表現するためには万全の体調が求められるのだよ。」(2021年6月19日、小田嶋隆氏のツイート)

とあり、これもまた納得してしまった。これって、先日僕がこのブログで書いた

「体調不良の個人的要因と、構造的要因は、なんとなく想像がつく。だがそれを細かく書くこと自体、気力や体力を必要とするので、気力や体力の余裕があるときにあらためて書くことにする。」

という言葉と、似ていません?

むかしから思っていることなのだが、日ごろ僕が徘徊しているラジオやSNSの喋り手なり書き手が、僕のいま置かれている境遇とよく似た境遇を語ったりすることがよくあるのだが、それは、たんなる偶然なのだろうか。これは哲学的な命題になり得ると思う。

| | コメント (0)

漫談

すこぶる体調が悪い。

それは、仕事への気力をそぐほどのものなのだが、体調不良の個人的要因と、構造的要因は、なんとなく想像がつく。だがそれを細かく書くこと自体、気力や体力を必要とするので、気力や体力の余裕があるときにあらためて書くことにする。

動画サイトをあさっていたら、NHKーFMで1984年放送されていた「タモリのジャズ特選」という番組があったので聴いてみた。タモリが自身のレコード・コレクションから厳選したナンバーを掛けながら、曲にまつわるエピソードやウンチクを語るといった内容なのだが、実際に聴いてみると、タモリが一人で立て板に水のごとく、ときに冗談を交えながら漫談をしていて、これが聴いていて実に心地よい。

この「立て板に水の漫談」の感覚、何かと共通しているなあ、と思ってよく考えたら、伊奈かっぺいの漫談を聞いたときの感覚と、非常に近いものがあった。あくまでも僕自身の感覚だが。

もちろん、青森の伊奈かっぺいと福岡のタモリでは、おそらく小さい頃からの言語形成がまったく異なると思うのだけれど、話術というか話芸を極めれば、ある究極のスタイルに行き着くのではないか、という気にすらさせてくれるのである。

久しぶりに、漫談あるいはひとり語りといったものに注目したくなった。久しぶりに、伊奈かっぺいの漫談を聴いてみようか。

文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」を聴いていたら、きたろうが、いまYouTubeでおもしろいのは、「街裏ぴんく」という芸人の漫談だ、この人の漫談がむちゃくちゃなのだが、その熱量がすごい、と絶賛していた。

それを聞いて、僕も聴いてみたのだが、たしかにむちゃくちゃでおもしろい。「ちょっとどうかしている」話を、「鶴瓶噺」のような話法で、さもほんとうにあった体験かのように、観客を強引にその世界観に引き込んでしまう。ああいう発想はどこから来るのだろう、とただただ感服するばかりである。

| | コメント (1)

堪忍袋2

堪忍袋

6月15日(火)

首相の記者会見、というのは、見ていて不愉快になるのでほとんど見ないのだが、それでも、たまにテレビなどを見ていて記者会見が目に入ったりすると、首相と分科会の尾身会長が並んで会見する場面をしばしば見かけた。

首相がひととおりしゃべったあと、尾身会長が感染症の専門的見地から、発言をする。そのときの首相は、どちらかというと他人事のようである。

あれはいただけない。記者会見の場で、自分はわからないから専門的なことは尾身会長に任せる、というのは、あまりに無責任である。首相の記者会見では、首相の言葉を聞きたいと思っているのだから、できるだけ首相自身が専門的なことも含めて、自分の言葉で語るべきである。

多少の間違いや不足な点があったら、そのときに尾身会長の助けを求めればよい。最初から尾身会長に丸投げ、というのは、よくない。

尾身会長が御用学者か否かというのは、僕にはわからないが、あの場で、首相のプライドを傷つけずに、それでいて自分の信念を曲げない(忖度しない)意見を述べるのは、至難の業であることには違いない。分科会で出た意見と、首相の思いつきを擦り合わせるにはどうすればよいのか、ということに腐心することになるからである。

そこでどうするかというと、言葉の端々に、自分なりのメッセージを込めるしかなくなる。「聞いてる人はわかってくれるよな」というメッセージである。

聞いてる方は、「なんと弱いメッセージだ」と思うかもしれないが、実はそこには、首相に対する強烈なアンチテーゼが含まれていたりするので、メッセージを注意深く分析する必要がある。

尾身会長が6月2日の衆議院厚生労働委員会で、

「今の感染状況での(五輪の)開催は普通はない」

「こういう状況の中でやるというのであれば、開催の規模をできるだけ小さくして管理の体制をできるだけ強化するのが主催する人の義務だ」

「なぜ開催するのかが明確になって初めて、市民は『それならこの特別な状況を乗り越えよう。協力しよう』という気になる。関係者がしっかりしたビジョンと理由を述べることが極めて重要だ」

「国や組織委員会などがやるという最終決定をした場合に、開催に伴って国内での感染拡大に影響があるかどうかを評価し、どうすればリスクを軽減できるか何らかの形で考えを伝えるのがわれわれプロの責任だ」

と述べたことがニュースになっていたが、これについて、いろいろな意見が出た。

「自主的な研究と受け止める」とか、「越権行為だ」とする発言まで出た。

どこが越権行為なのか、いやむしろ、越権行為にならないように注意した、慎重な発言とみるべきである。「関係者がしっかりしたビジョンと理由を述べることがきわめて重要だ」と述べているではないか。ここでいう「関係者」には当然、首相も含まれる。尾身会長は含まれない。首相が自分自身の言葉でビジョンと理由を述べることが重要だ、というのは、きわめて当然のことである。

尾身会長は、五輪を中止しろとは、ひと言もいっていない。ここにもまた、越権行為にならないように細心の注意を払っている。政府の分科会の会長としてのぎりぎりの線をねらった発言である。この一連の発言から真意を読み取るべきは、僕たちの方である。

今日の会議を終えた僕には、尾身会長の気持ちが痛いほどよくわかる。

| | コメント (0)

御礼

鬼瓦殿

こんばんは、堺のコバヤシです。

唐突では有りますが、貴君に御礼申し上げます。

O先輩とモリ先生の話を書いた貴君のブログで、「恩師に自分の近況をたまにお伝えできるのは、ありがたいことである」という一節を読み、そう言えばここ数年、恩師であるフランス語教師だったY先生に全く連絡していなかったと思い出し、堺に引っ越したこと等の近況をメールしてみました。

暫くして返信が有り、我々学生と過ごせた時期は本当に楽しかったこと、コロナが収束したらまた我々に会いたいと返信を頂くことが出来ました。

しかも、何回かメールのやり取りをしたところ、恩師は体調を崩して入院中だと分かりました。

貴君のブログを読まなければ、そんな恩師の状況も知らずに過ごしてしまい、更に言えばどうやら恩師も私のメールに励まされた感じも有ったので、貴君には本当に感謝の念に堪えません。

ということで、とりあえず御礼まで。

| | コメント (0)

コロナ後の集い方

武田砂鉄『コンプレックス文化論』(文藝春秋)には、「天然パーマ」「下戸」「解雇」「一重」「親が金持ち」「セーラー服」「遅刻」「実家暮らし」「背が低い」「ハゲ」といったコンプレックスをテーマに、読者の思考を揺さぶる文章が書かれている。

「下戸」とはお酒が飲めない人のことを指す言葉である。この言葉自体に、お酒が飲めない人に対する蔑んだニュアンスをつい感じてしまうのだが、僕は4年前に大病を患ってからは、お酒をピタリとやめた。「飲めない」のではなく「飲まない」ことにしたのである。

それまでは、周りにはお酒が飲める人間として認知されていたし、自分自身も、そのようなふるまいをしていた。ところが、お酒を飲まないと決めてから、飲み会の風景がまるで違って見えるようになってきた。

この本でも取り上げているように飲み会における「とりあえずビール!」という言葉は、人権侵害にもあたるとても暴力的な言葉である。僕自身も、この言葉を以前は何の考えもなく使っていた。

そればかりではなく、「前の職場」では、何十人もいる学生たちとの飲み会(もちろん二十歳以上)をおこなうときに、学生たちがあんまりにもいろいろな飲み物を注文するものだから、飲み物が運ばれてから乾杯をするまでの時間が長くなることを警戒して、

「まずはじめは、ビールかウーロン茶を注文しなさい!そのあとに好きな飲み物を注文しなさい!」

と、まったく飲み物の自由を奪うような命令を学生たちにしたことが何度もあり、いま思うと顔から火が出るような思いである。

職場を移ってから、今度は仕事の関係でどうしても飲み会に出なければならないことが多くなり、これがまた苦痛であった。仕事が終わったあとの飲み会を楽しみにしている人が多かったりすると、自分だけテンションが低いと申し訳ないという気持ちになり、よけいに苦痛に感じる。

お酒を飲まなくなってから、体調を理由にそういう飲み会に、出なくてすむのならばなるべく出ないでおこうというスタンスに変わった。仕方なく出なければならない場合は、お酒を飲む人の観察に徹することにした。

そこから一つわかったことは、

「お酒の席で出るアイデアは、たいしたものではない」

ということだった。よく、「お酒を飲みながら話をするといいアイデアが浮かんだりする」という人がいるのだが、それは全くの間違いであることに気づいたのである。僕自身も、「この会議の続きはこのあとの懇親会で」というお決まりの台詞を述べたことが何度もあり、いまとなっては穴があったら入りたい気分である。

この本の中で、武田砂鉄氏は「友達とたくさん話がしたいときはバーミヤンでドリンクバーと決めています」と述べている。「飲み屋って、とにかくうるさいじゃないですか。友達5,6人でじっくり話す状態が一番楽しいし、話も奥深く掘られていきますけど、飲み屋って、その数名ですら分断しちゃうじゃないですか。なぜなら、周囲がすさまじくうるさいから。特定の人と話さなきゃいけなくなる。だから、レッツゴーバーミアんなんです」

この点も、お酒を飲まなくなってから、僕自身も実感していることである。

お酒を飲んでいた時期、そうねえ、40代前半頃まで、たとえば高校時代の友達何人かと飲みに行こう、となったときに、なぜか、集合日時は、土曜日の夕方6時、場所は新宿、というのがテンプレートだった。

新宿の繁華街の、居酒屋が各階に入っているような雑居ビルに入って、薄い仕切りしかないような狭いスペースに押し込められ、そこで大声で語り合うのである。しかもそこが喫煙可のようなお店だったら、もう最悪である。

いまから思えば、なぜ土曜日の夕方6時開始なのか?なぜ日中ではいけないのか?とか、なぜ新宿まで行かなければならないのか?といった数々の疑問が湧き上がるのだが、山下達郎の「DOWN TOWN」の影響によるものなのだろうか。おそらく学生時代のノリがそのまま続いていて、計画を立てる幹事は、そこから容易に脱却できないからなのだろう。

僕はあるときからそうした飲み会がホトホト嫌になったので、出なくてすむ場合は出ないようにしているのだが、幸い、この1年以上は、新型コロナウィルスのために仕事や遊びを含め、飲み会自体がおこなわれなくなったので、この飲み会文化がこのまま消えていってほしいと切に願っているところである。

それよりも、もし仕事の話をしたいのならば、飲み屋ではなく、勤務時間中にすませてほしいし、友達とじっくりと話がしたいときは、(日中に時間がとれるならば)日中にファミレスでじっくり話せばよいのだ。お酒は飲みたい人が、飲みたいときに飲みたいだけ飲めばよい。

そう、以前から提唱していた「ガスト会議」こそ、コロナ後の理想的な集い方である。

| | コメント (0)

時間を弄ぶ

6月11日(金)

今週もいろいろなことがあった。

大半は、会議やら打ち合わせやら、交渉事やらで、すっかり疲弊してしまった。

もともと根回しをしたり交渉事をしたりするのが大の苦手なので、それだけで苦痛である。

しかも、トラブルを丸く収めたり、猫に鈴をつけるネズミのような仕事をしたり、ちょっとキレ気味な相手からの罵倒を平身低頭でやり過ごしたりと、合間合間に、まあほんとうに、いろいろなことが次々と起こる。

誰かが裏で「キュー」を出してるんじゃないか、と思いたくなる。

僕が以前に編み出した名言「人生はトゥルーマンショー」は、いまだに誰の共感も得ていないが、やはりこの世の真理なのだ。

世の中には、思い込みの激しい人や、クセの強い人や、アクの強い人や、うっかり地雷を踏むと激高する人など、いろいろである。僕も他人から見れば、その中のどれかにあてはまるのかもしれない。

もちろん僕も苦手な人は多いが、どんな苦手な人に対しても、安住紳一郎アナウンサーが言うところの「傾聴姿勢」を心がけている。そんなこともあって、僕は職場の人たちから、全方位外交ができる人、と思われているのか、とにかくもめ事を丸く収める仕事を任されることが多い。もちろん僕自身がトラブルの火種となることも多いのだが。

まあそんなこんなで、本来は人と関わりたくない「ソロ活」が大好きなのだが、最近は仕事で矢面に立たされることが多く、それがなかなかのストレスである。

今日も帰りが遅くなったのだが、帰りの車中で21時30分からのTBSラジオ「問わず語りの神田伯山」を聴き、ちょうど家に着いたときには夜10時になっていた。家族はすっかり眠っている。

急いでお風呂に入り、楽しみにしていたTBSラジオ「アシタノカレッジ金曜日」を聴く。今日のゲストは光浦靖子さんだ、武田砂鉄氏との対談が楽しみだなあと思って待っていたら、直前になって光浦さんが体調不良のためキャンセル。ゲストコーナーの40分がまるまると空いてしまったという事態になった。さすがの武田砂鉄氏もこのハプニングに慌てて「みなさんのメールが頼りです!」とリスナーに呼びかけていたが、そこに、本来11時台後半のニュース解説のコーナーにレギュラー出演している澤田大樹記者がすでにTBSラジオ入りしたことがわかり、急遽ニュースのコーナーを前倒しして、本来光浦さんがゲスト出演するはずだった時間枠に出演することになった。

いつもなら、澤田記者は自らが出演するギリギリの時間にスタジオ入りするそうなのだが、今日はたまたま早くからTBSラジオにいる。その理由は、「いつもならば金曜夜は菅首相の記者会見やぶら下がり取材をしたあとでTBSラジオ入りすることが多いのだが、今日は菅首相がG7サミット出席のため日本に不在で、夜の取材がないために早めに来た」ということだった。

渡りに船というのか、立ってるものは親でも使えというのか、たまたま早めに来て手持ち無沙汰にしていた澤田大樹記者を急遽スタジオに招き入れ、それ以降、2時間にわたって、武田砂鉄氏と澤田大樹記者の二人によるさながらオールナイトニッポンのようなラジオトークが展開されたのである。

しかし、2時間ずっとニュース解説というのは飽きるから、途中でリスナーのメールをいつもより多めに紹介していたのだが、そのメールも、だんだんどーでもいい内容になってきて、「夕食は何時に食べるのですか」とか、「おにぎりの具では何が好きですか?」とか、「うまい棒は何味が好きですか?」といった、超どーでもいい質問が取り上げられ、それに対して二人が答えるという展開になった。

しかしまあその力の抜け具合が、疲れて帰ってきた僕のテンションにはなかなかよろしくて、この二人のトーク、いつまでも聴いていられるなあという気になるから不思議である。

手持ち無沙汰になった時間をどーでもいい会話で弄ぶ感覚は、僕自身、久しく経験していない。思えば、それが贅沢な時間の使い方なのかもしれない。

| | コメント (0)

個人面談

6月9日(水)

新型コロナウイルス感染拡大の影響で、保育園の保護者懇談会が、ずっと開かれないままである。今年度も、5月に開く予定が、緊急事態宣言のために6月12日(土)に延期になったのだが、緊急事態宣言が延長されたために、さらに延期になってしまった。

その代わり、今日の夕方、個人面談というものがおこなわれた。3歳児クラスは、担任の保育士さん2人に、20人以上の幼児がいるから、数日間にわたり日程調整をした上で、一人あたり20分という短い時間で面談をおこなうことになったのである。

面談を担当された担任の保育士さんは、男性のH先生という保育士さんで、僕は初めてお話しする。まだ若い先生である。

「とにかくおしゃべりが上手で、出勤したばかりの朝、まだ僕の中でエンジンがなかなかかかっていないときに、おもしろいことを話しかけてきたり、変顔をしたりして、僕らのことを笑わせるんですよ。それで僕の中でエンジンがかかるんです」とHさん。「つい低月齢であることを忘れてしまいます」

うちの娘は3月末生まれなので、おそらく3歳児クラスの中でもいちばんマンネ(末っ子)なのだと思うが、そんなことを忘れてしまうくらい、ベシャリが達者だというのだ。

保育園での様子を聞いてみた。友だちの輪の中に入っていけているのか、ということとか、トイレがちゃんとできているか、ということとか、お昼ご飯をちゃんと食べているか、ということとか、午睡はちゃんと眠れているか、ということとか、着替えがちゃんと自分でできているのか、といった、日ごろ心配に思っていることをすべて率直に聞いてみた。

なぜなら、娘は、一人で遊ぶことが好きで、友だちの輪の中に入っていけてないのではないか、とか、わが家ではトイレに行く気がなく、よくお漏らしをしている、とか、いまだに自分でスプーンやフォークを持とうとせず、隙あらば親に食べさせてもらおうとしているとか、寝付きがいまだに悪かったりとか、着替えも自分でしようとしない、といったさまざまな心配の種があったからである。

その話をすると、H先生は意外な顔をして、「保育園ではそういったことは特にないですよ。大丈夫ですよ」という。「友だちとも自然に遊んでますし、トイレも行きますし、お昼ご飯も好き嫌いなく食べてますし、午睡も他の子と同じように眠ってますし、着替えも自分でしています」と。

「そうですか。ではそのギャップはどうしてなんでしょうね」

「保育園ではちゃんとしようとしている分、おうちでは甘えたいということではないでしょうか。おうちでも同じようにすると、疲れちゃいますからね」

「なるほど」

そんなこんなで、20分の予定が、50分近くも話し込んでしまった。この日は、僕が最後の面談者だったので、融通を利かせてくれたのだろう。

「これからも、どんな些細なことでもかまいませんから、気になることを連絡帳に書いていただいたり、送り迎えのときにおっしゃったりしてください。僕たちも、注意して観察するようにしますので」

H先生は、何度もそう言ってくれた。

| | コメント (0)

記憶のパズル

「しかし、人間の記憶はいい加減なものですね。

バベルセカンドに行ったのが山下洋輔のバンドにすり替わっていたとは。

ちなみにスンガリーレストランは、私が大学一年の時に入っていた先輩のバンドで、このバンドもバベルセカンドでライブをやったので、貴殿に来て貰ったように思います。

バンド編成はアルト、テナーがフロントで、電気バイオリン、エレキギター、エレキペース、ドラムというもので、エスニック調歌謡ジャズロックみたいなバンドでした。

このバンドのことはすっかり忘れてました。

そう言えば、このスンガリーレストランは一年生の時の11月の大学祭で、大学の講堂前のメインステージでも演奏したのですが、その時に演奏を聴いてくれたB君が「コバヤシの雄叫びのようなソロが凄かったよ!」と言ってくれたのを、久しぶりに思い出しました。

もうすぐB君の命日でしょうか。

B君のことはたまに思い出して、何故学生時代にあまり会話をしなかったのか、今でも悔やまれます。

貴君のブログで、B君のお墓が有った鎌倉の紫陽花で有名なお寺に独りで行ったとあったのも間違いで、私と二人で行ったのでしたね。

やっぱり人間の記憶はいい加減ですね!

まあそんないい加減な記憶でも、何かをキッカケにあーだったっけ、こーだったっけと思いを巡らせることも良いのではないでしょうか。

歳をとったせいか最近はそういう風に考えるようになりました。

では、またそのうち。」

| | コメント (0)

O先輩の思い出

6月8日(火)

久しぶりに、高校時代の友人のコバヤシからメールが来た。この4月から大阪の堺に引っ越した。

「鬼瓦殿

コバヤシです。こんばんは。

少しご無沙汰です。

堺に引っ越して早二か月が過ぎましたが、新しい職場にはまだ慣れたとは言いませんが、やはり地方都市というのは物価も安く新鮮な食材も手に入り易く、自炊派の私にはなかなか快適か生活環境では有ります。

改めて東京というのは良くも悪くも特異な場所で、やはり住む場所ではないなあとつくづく実感しています。

前置きが長くなりましたが、今日、貴君のブログにO先輩のことが書かれており久しぶりにメールしようと思った次第です。

貴君のブログには高校在学中には全く面識がなかったと有りましたが、そういう意味では私も一緒なのですが、接点は有りました。

あれは確か一年生の時だと思うのですが、我々が音楽室でサックスのパート練習をしている時に、Salt先輩がドラムを叩いて、女性のピアノの方とジャズのセッションをしていました。高校生なのにジャズが弾けるんだとびっくりしながら聴き入ったことを今でも鮮明に覚えています。そう、その時のピアノがO先輩だったのです。確かウィスパー ノットというジャズの名曲を演奏していたのも覚えています。後は何を演奏していたのか全く覚えていませんが。

ちなみに何故、そのピアノの女性がO先輩と分かったかと言えば、当時、吹奏楽部のパーカッションにいた同期のオオタが民俗音楽研究会=民音(30年以上振りにこの言葉を使いました)と兼部していて、O先輩のバンドのドラムをやっており、うちの高校にはSalt先輩の他にも凄い人がいると言っていたからです。

学園祭の夜のステージで演奏しているのも観たように思います。ちなみにこの時のドラムは当時、オオタです!

ということで、貴君もほぼ私と一緒に行動していたと思うので、O先輩の演奏は聴いていたはずです。

その後、私は大学のジャズ研に入り、2年か3年生だったかの時に、ゲイリー トーマスというニューヨークの若手ミュージシャンのバンドが来日した時に、当時はまだ無名の日本人キーボード奏者を連れて来たのですが、それがO先輩だと知り驚いたものです。

当時、ジャズ研の同級生でバークリーから帰って来て間もないヤマジョーが、O先輩とバークリーで一緒で、高校の先輩なんだけど知ってる?と聞くと、「あ〜、OJ(O先輩は当時、バークリーの日本人仲間からそう呼ばれていたらしい)ね。OJは凄いけど無茶苦茶性格がキツイんだよね。」と言っていたのを覚えています。

ちなみに当時、高校のOB会でO先輩の演奏を聴くという企画があったのですが、我々は抽選に外れて聞けなかったということもの有りました。その時の対バンは、ハンク ジョーンズという超巨匠ピアニストだったので、私はむしろそちらが聴けなかったことが残念でした。

ついでにもう一つかなりこじつけ的なO先輩との関わりを書かせて貰うと、私が大学四年の時にサックス、ペース、ドラムというトリオのバンドを半年ぐらい組んでいたのですが(貴君が覚えているかどうか分かりませんか、ジャズ研の定期演奏会を地元のバベルセカンドでやった時に貴君にもそのバンドの演奏を聴いて貰ってます)、その バンドのドラマーだったヒロセ君という人が、後に日本を代表するジャズドラマーになり、O先輩のヨーロッパツアーに参加しています。ちなみに、このヒロセ君という人は、吹奏楽部の同期でフルートのフクザワの中学時代の吹奏楽の同級生でも有ります。

ということで、かなり長くなり失礼しましたが、かなりなこじつけも含め貴君もO先輩と間接的には多少の関わりがあったというわけです。

なかなか人の繋がりというものは面白いものですね。

ということで、またそのうち!」

ここに書かれている内容を、僕はほとんど覚えていない。

1年生の時の音楽室でのパート練のときに、Salt先輩とO先輩がセッションをしていたというのは、まったく覚えていない。

同期のオオタが、O先輩のバンドでドラムを叩いていたというのも知らなかった。いや、学園祭の夜にオオタのバンドが演奏していたことはよく覚えている。オオタがドラムを叩いていたことも。

そのときに僕が覚えていることといえば、僕はオオタから、学園祭の夜のライブで使いたいから、僕のアルトサックスを借りたいと言われて、しぶしぶ貸したのだが、そのときに僕のアルトサックスがかなり乱暴な扱いで演奏されて、壊されて戻ってきたことを覚えている。

僕は、演奏を聴きながら、自分のアルトサックスの安否ばかりが気になって、O先輩の演奏を聴いていなかったのだろう。

大学4年の時に、地元のバベルセカンドという店でジャズのライブを聴いたことは覚えている。ただしそこで聴いたライブは山下洋輔だったという記憶にすり替わっていた。実際はコバヤシのバンドだったんだな。

そしてコバヤシのバンド名は「スンガリーレストラン」だったと思う。しかし僕の記憶では、サックス、ドラム、ベースのトリオではなく、そのほかにも、電気バイオリンとか、もう少し編成が多かったように思う。

僕は高校生活のほとんどをコバヤシと一緒に過ごしたから、たぶん、コバヤシの記憶が正しいのだろう。

僕の細かな記憶というのは、まことに頼りないもので、たまに入れ替わることもある、というのが、実に興味深い。

| | コメント (0)

文学の目覚め

まったく、なんにも書くことがない。

手元にある文庫本を手にとると、なんとも懐かしい思いにとらわれる。

新潮文庫の三島由紀夫の小説のカバーである。

表紙には、縦書きで大きく、小説のタイトルがオレンジ色で記され、その横に、やはり縦書きで三島由紀夫の名前がグレーの文字で並んでいる。

僕の小学生の頃は、新潮文庫の三島由紀夫の小説といえば、オレンジ色のタイトルと、グレーの著者名が縦書きで並んでいるという、実にシンプルなものだった。

だがそれが、僕にとって最初の「文学の目覚め」であったような気がする。なんとも言えぬあの表紙に、背徳感あふれる数々のタイトルとも相まって、文学にふれる喜びをそこに見いだしたのである。

最初に読んだのはたしか『金閣寺』である。奥付を見ると昭和55年11月の55刷なので、僕が小6の終わりか中1のときに読んだらしい。小5か小6のときに、家族で初めて新幹線に乗って京都旅行をして、そのときに金閣寺を初めて見たから、たぶんそれに影響されてこの文庫本を買ったのだろう。

Photo_20210607235901 いつの頃からか、新潮文庫の三島由紀夫の小説の表紙は、すっかり変わってしまったようだ。7年ほど前に入手した『仮面の告白』では、三島由紀夫といえばあの表紙、という面影は、微塵もなくなってしまった。

僕はやはり、シンプルな表紙に魅力を感じる。もし僕が文学に目覚める年頃だったとして、いまのような表紙だったら、三島由紀夫の小説が自分にとっての「文学の目覚め」となったかどうか、わからない。

| | コメント (0)

人生を決めるひと言

前回書いた、出身高校の同窓会が、高校創立80周年を記念して編集した本の中に、いまはジャズピアニストとして活躍している僕の1学年上の先輩のインタビューが載っていた。

そこに、音楽のモリ先生とのエピソードが語られている。

その先輩は、高校に入ると、まったく勉強をせず、洋楽やジャズを片っ端から聴く毎日だった。高3になっても、六本木や新宿で遊んでいて、先生からはどうしようもないヤツと思われていた。

唯一違ったのが音楽のモリ先生だった。高3のあるとき、自分で作曲したものをみんなの前で発表するという課題が出た。自分は人前でピアノを弾くのが恥ずかしいので適当に家でピアノを弾いたのをテープに録音して提出したら、先生がみんなに聴かせて、

「おまえ、ちょっと来い」

と言われて、怒られるのかなと思って先生のところに行くと、

「おまえは音楽をやれ、ジャズで生きていけ」

と言われたという。

いよいよ進路を決めるとき、アメリカにバークリー音楽大学というジャズの教育機関があることを知り、親には反対されたが、唯一モリ先生だけが、

「おまえはバークリーへ行け」

と背中を押してくれた。そこから人生が大きく動き始めたというのである。

僕は在学中に、この先輩の存在を知らなかったし、かなり有名になってからその名前を知ったくらいだから、その人となりもわからないのだが、インタビューを読む限りでは、在学中はかなり異端な生徒だったんだろうと思う。そんな中でも、モリ先生はその才能を見抜いていたのだ。

その先輩が高校を卒業した翌年、モリ先生は病気で亡くなった。「CDデビューしたことくらいは報告したかった。喜んでくださったに違いありません」と語っている。

この本のほかのページによると、モリ先生は、1986年3月、病気により49歳の若さで亡くなったとある(僕の記憶では1987年であった気がするが…)。僕は、48歳の時にモリ先生と同じ病気になり、いまも生きながらえている。35年の間に医学が進歩したということなのか、あるいはたまたまなのか、よくわからない。

そして僕の恩師もご健在である。恩師に自分の近況をたまにお伝えできるというのは、ありがたいことである。

| | コメント (0)

精神論が跋扈する

僕の出身高校が、昨年80周年を迎えたとかで、記念の本を出版したという。

僕はそれを昨年の同窓会報で知り、その同窓会報に購入についての振込用紙も入っていたのだが、僕はさして関心もなく、そのままにしておいた。

ところが先日、地元の本屋さんに行くと、その本が売っていた。どうもかつての学区内の書店に限り、市販されているらしい。

僕はその本を手にとり、パラパラと中身を見て、最初は買う気がなかったのだが、僕の1学年上の先輩である、ジャズピアニストへのインタビューが載っていて、それを読んで、買うことに決めた。

それについては、また別の機会に書くとするが、僕にはどうもよくわからないことがあったので、今回はそのことを書く。

この本は、80年の歴史の中で、功成り名を遂げた、さまざまな世代の卒業生へのインタビューや、世代の異なる同窓生の対談などを中心に構成されている。先にあげた、僕がこの本を買おうと思ったきっかけになったジャズピアニストの先輩も、その一人として掲載されている。

僕が気になった、というか、モヤモヤしたのは、そこではなく、同窓会長が書いた「あとがき」である。

僕の出身高校は、毎年夏に行われる文化祭が「日本一の文化祭」と言われていて、3年生の各クラスによる「演劇」が、ハイクオリティーすぎるということで、そう評されているようである。

「あとがき」で同窓会長は、そのことについて書いている。

どういうことが書いてあるかというと、曰く、

全国の高校生が予備校通いで受験勉強に汗を流す夏休みに、毎日のように学校に来て演劇の準備をする姿に驚かされた。

そういえばある方が、「かつて日本の各地にあった地域独自の通過儀礼は、ほとんど姿を消してしまった。そういう中で、唯一その機能役割を代替しているのが学校行事である」と述べていて、中学校の校長をしていた私は「これだ!」と思った。

「日本一の文化祭」でおこなわれる高校3年生の演劇は、重要な通過儀礼の一つなのではないか。

通過儀礼は、それが大きな挑戦であればあるほど、壁が厚ければ厚いほど、突破したときに大きく成長できる。

受験の夏に文化祭の準備に多くの時間を費やすのは愚行に見える。しかし、アップルの創業者、スティーブ・ジョブズが残した有名な言葉「ステイ、ハングリー。ステイ、フーリッシュ」は、この愚行への答えになっている。一見愚かに見える通過儀礼を経た若者こそ、自らの力で未来を作ることができる。そういう若者たちこそ、不透明な時代を切り拓いていくことができるのだ。私はそういう高校生に、明日という日を託したい。

…と、こんなようなことが書かれていた。

僕はこの文章を読んで、たちまちいくつもの疑問が沸いてきた。

高3の文化祭で上演する演劇を通過儀礼にたとえているが、少なくとも僕が現役高校生だったころは、こんな通過儀礼など存在しなかった。あたかもこれが伝統行事であるかのような書き方をするのは、ほとんどの「伝統」は近代以降に作られたものという、ありがちな陥穽に見事にはまった事例と断ぜざるをえない。

「地域独自の通過儀礼」が消滅していく中で、それが学校行事に残っているのだとしたら、それはそれで大問題である。学校の中だけが、社会の動向から取り残された、旧態依然として因習的な通過儀礼にしばられていることを表明してしまっている。

「愚行の通過儀礼」をスティーブ・ジョブズの言葉にあてはめるのは、牽強付会、論理の飛躍ではないだろうか。少なくともスティーブ・ジョブズの意図したところは、そういうことではないだろう。

なにより、「若者には、一見愚かに見える通過儀礼が必要であり、その挑戦が大きければ大きいほど成長でき、そうした若者こそ、未来を切り拓くことができる」というのは、真理なのだろうか?

僕には、根拠の全くない、たんなる精神論としか思えない。

念のため言っておくと、僕は個人攻撃をしたいのではない。こういうふうに素朴に考える人は、世間にはけっこういるのではないだろうか。今夏開催予定の東京五輪を精神論だけで突っ走ろうとする昨今の政治家の言動を支える言説に、結果的になっているのではないか、と懸念されてならない。

この本の冒頭には、1972年にその高校を卒業したというノンフィクションライターのNさんが、現役の高校生たちと対話したときの一齣が紹介されている。これがまた、僕にとっては興味深いやりとりである。

「僕がいま高校にいたら、一切文化祭に関わらずにいたように思う。そういう生徒はいないのかな」

とNさんが問うと、現役の高校生たちは、

「いまの高校生の多くは、文化祭があるからこそここを選んでいるんですよ」

と答える。

「へえ、そんなにすごいんだ。いまの高校は、文化祭が嫌いだったら入学しないという前提なんですね」

「そうです。Nさんは、この出身高校が嫌いなんですか?なのに、なぜ、こんなふうにいまも関わっているんですか?」

「いや、嫌いだったら、今日ここにいないから。いまも関わっているのは、いろいろなご縁があってね。決して母校愛がないわけじゃないの」

…いまの僕には、Nさんの気持ちがすごくよくわかる。しかし現役の生徒たちには、その気持ちが理解できない。彼らからしたら、文化祭に関わりたくないという前提が間違っていて、そしてそういう人は、母校愛がないと見なされる。

この一連のやりとりを読んで、出身高校に対する僕の複雑な感情が、なんとなく説明できるような気がした。

僕自身も、決して母校愛がないわけではない。だが、ときに見え隠れする全体主義というか、同調圧力に乗っかることができないのだ。

ではどこに母校愛をいだくことがあるかというと、僕の場合は、個性的な先生たちである。この高校に入らなければ出会うことのできなかった先生たちが、いまの自分の人生にも大きな影響を与えている。それは、大学以上の影響力である。

ジャズピアニストの先輩のインタビューには、そのことがふれられているのだが、長くなったのでその話は別の機会に。

| | コメント (1)

謎の依頼だった

6月3日(木)

仕事部屋の机を少しずつ片づけていたら、書類の「層」になっている中から、ある会報を見つけた。

その会報は、書道を研究しているある組織の会報で、6年ほど前に、書道に関するエッセイを書いてほしいと、僕に依頼が来て、その会報にエッセイを書いたのであった。僕はそのことをすっかりと忘れていた。その会報ができた時に、先方から複数の部数が送られてきたのである。

それで思い出したのだが、僕は、その組織とはまったく関係がなく、知り合いがいたというわけでもない。どういう経緯で僕に書道についてのエッセイを依頼したのか、まったく覚えていない、というかわからない。そもそも僕は、書道の世界とは縁もゆかりもないのだ。

まことに不思議な依頼であるなあと思いながら、当時、依頼されるがままに原稿を書いたことを思い出した。

数百字程度の、ほんの短い文章だったが、いま読み返してみると、我ながら実によく書けている。エッセイの最後では、僕が学生時代に耽読した福永武彦のある小説を引用し、文学的な余韻を残している。エッセイのタイトルも、福永武彦へのオマージュに溢れている。

A4見開きで4頁のリーフレットのような体裁に、6名の執筆者が名を連ねている。どの方も肩書きのりっぱな方ばかりで、そのうちの一人は、僕が何度かお目にかかったことがある人だった。6名の中で唯一、その人となりを知っている方の書いたエッセイは、僕が何度かお目にかかった時の印象を裏切るものではなかった。僕だったら絶対書かないだろうな、というサムい書き出し(つかみ)で始まっていて、短いエッセイは、なんと人の心を端的に映し出すものだろうと、感慨深く思ったものである。

送られてきた会報は、2種類あった。日本語版と、中国語版である。わざわざすべて中国語に翻訳しているバージョンもあるのである。これだけ労力をかけているということは、会報の読者として中国語を母語とする人たちも想定されているということなのだろうか。いったいこの会報の読者は、どのくらいいるのだろう。

気になった僕は、インターネットで、この会報のことを調べてみた。まず、会報を出している組織のホームページを見てみることにした。

ところが、そこには会報のことがまったく書かれていない。レポジトリになっているかなと期待していたが、それどころではなかった。

廃刊になってしまったのかな、と思い、次に、その会報がどのような機関の図書館に所蔵されているかを調べるサイトがあるので、調べてみた。

すると驚くことに、その会報は、その組織が所属する図書館にしか置いていない、という結果が出た。

つまりこの会報は、いずれの公的機関の図書館にも、送付されていないのだ。公式ホームページにも記載がないということは、ほとんど知られていない会報といってもよい。

こんなふうに、僕には人知れず書いたエッセイがけっこうあって、自分でも忘れてしまうほどである。

| | コメント (0)

出典が思い出せない

昨年の後半から今年の初頭にかけて、社長の提案で、職場の今後の将来について構成員全員と意見交換をする、という試みが行われた。

構成員全員といっても、一堂に会することは、昨今の感染症の事情を考えると不可能である。なので、数名ずつ、何回かに分けて、1回2時間くらいかけて行うことになった。

気の遠くなるような回数なのだが、僕は立場上、その会合に毎回立ち会わなければならず、それだけでかなりの体力を消耗した。

そんなことはともかく。

その意見交換会の最初の回に、僕はこんなことを言った。

「働く上で大切なことは、建物だと、むかし吉本隆明が言っていました。建物が人間の思考や発想を決定づけるのだと」

その言葉を社長がえらく気に入ったらしく、意見交換会をするたびに、構成員の前で、その話を披露していた。

「鬼瓦君が言っていたけれど、働く上で大切なのは建物なのだと。建物が人間の思考や発想を決定づけるのだと。…えっと、誰の言葉やったっけ?」

「吉本隆明です」

「そうそう、吉本隆明」

これを、その意見交換会のたびに、入れ替わり立ち替わり参加する構成員たちの前で言うものだから、僕もいささか決まりが悪い。まるで僕が、そのことを強く主張しているみたいである。僕はただたんに、話の流れで吉本隆明の言葉を思い出したに過ぎないのである。

…とここで、僕は急に不安になった。

この言葉の出典は、どこだっただろうか?こういった内容の言葉を、吉本隆明が本の中で語っていたことは、僕の記憶の中に鮮明に残っているのだが、出典がどうしても思い出せない。

というかそもそも僕は、吉本隆明の本をほとんど持っていないのである。

数少ない蔵書の中から、その言葉が語られていた箇所を探そうとしたが、見つからなかった。

うーむ。あの言葉の出典は、いったい何だったのだろう?

 

 

| | コメント (0)

追悼・若山弦蔵

6月1日(火)

喉の調子がおかしい。時節柄、大丈夫だろうかとやや不安になる。

今日の午前は僕が司会のオンライン会議である。試しに声を出してみたら、明らかにおかしい。ふだんより低い声になり、まるで若山弦蔵のような声である。

昨日、若山弦蔵さんの訃報を聞いたばかりである。若山弦蔵さんといえば、TBSラジオの夕方の番組、「東京ダイヤル954」である。その後継番組として、「荒川強啓 デイキャッチ」「アクション」、「Session」と続く。

僕はリアルタイムで、若山弦蔵の「東京ダイヤル954」をよく聞いていた。動画サイトを漁っていたら当時のオープニングの音源ををアップしているものがあり、聞いていたらとても懐かしくなった。理想的な語りだよなあ。

16時半から18時までという時間帯の放送だったので、僕は若山弦蔵さんの声を聞くたびに、夕焼けを思い出すのだ。

「小沢昭一の小沢昭一的ココロ」も、この番組の中で放送されていた。「ネットワークトゥデイ」は、形を変えながら、現行の「荻上チキSession」に引き継がれている。

つい最近、ポッドキャストで配信されている「AudioMovie」の「偉人伝by川口技研」で、久しぶりに若山弦蔵さんの重厚な声を聞いたばかりだった。あれが最後のお仕事だったのかな…。

若山弦蔵さんといえば、007シリーズの初代ジェームズ・ボンド役(ショーン・コネリー)の吹き替えで有名だが、僕はそれよりも、刑事コロンボの記念すべき第1回「殺人処方箋」の犯人役(ジーン・バリー)の吹き替えの方がなじみ深い。何度も見ているからかもしれない。

| | コメント (0)

« 2021年5月 | トップページ | 2021年7月 »