僕の出身高校が、昨年80周年を迎えたとかで、記念の本を出版したという。
僕はそれを昨年の同窓会報で知り、その同窓会報に購入についての振込用紙も入っていたのだが、僕はさして関心もなく、そのままにしておいた。
ところが先日、地元の本屋さんに行くと、その本が売っていた。どうもかつての学区内の書店に限り、市販されているらしい。
僕はその本を手にとり、パラパラと中身を見て、最初は買う気がなかったのだが、僕の1学年上の先輩である、ジャズピアニストへのインタビューが載っていて、それを読んで、買うことに決めた。
それについては、また別の機会に書くとするが、僕にはどうもよくわからないことがあったので、今回はそのことを書く。
この本は、80年の歴史の中で、功成り名を遂げた、さまざまな世代の卒業生へのインタビューや、世代の異なる同窓生の対談などを中心に構成されている。先にあげた、僕がこの本を買おうと思ったきっかけになったジャズピアニストの先輩も、その一人として掲載されている。
僕が気になった、というか、モヤモヤしたのは、そこではなく、同窓会長が書いた「あとがき」である。
僕の出身高校は、毎年夏に行われる文化祭が「日本一の文化祭」と言われていて、3年生の各クラスによる「演劇」が、ハイクオリティーすぎるということで、そう評されているようである。
「あとがき」で同窓会長は、そのことについて書いている。
どういうことが書いてあるかというと、曰く、
全国の高校生が予備校通いで受験勉強に汗を流す夏休みに、毎日のように学校に来て演劇の準備をする姿に驚かされた。
そういえばある方が、「かつて日本の各地にあった地域独自の通過儀礼は、ほとんど姿を消してしまった。そういう中で、唯一その機能役割を代替しているのが学校行事である」と述べていて、中学校の校長をしていた私は「これだ!」と思った。
「日本一の文化祭」でおこなわれる高校3年生の演劇は、重要な通過儀礼の一つなのではないか。
通過儀礼は、それが大きな挑戦であればあるほど、壁が厚ければ厚いほど、突破したときに大きく成長できる。
受験の夏に文化祭の準備に多くの時間を費やすのは愚行に見える。しかし、アップルの創業者、スティーブ・ジョブズが残した有名な言葉「ステイ、ハングリー。ステイ、フーリッシュ」は、この愚行への答えになっている。一見愚かに見える通過儀礼を経た若者こそ、自らの力で未来を作ることができる。そういう若者たちこそ、不透明な時代を切り拓いていくことができるのだ。私はそういう高校生に、明日という日を託したい。
…と、こんなようなことが書かれていた。
僕はこの文章を読んで、たちまちいくつもの疑問が沸いてきた。
高3の文化祭で上演する演劇を通過儀礼にたとえているが、少なくとも僕が現役高校生だったころは、こんな通過儀礼など存在しなかった。あたかもこれが伝統行事であるかのような書き方をするのは、ほとんどの「伝統」は近代以降に作られたものという、ありがちな陥穽に見事にはまった事例と断ぜざるをえない。
「地域独自の通過儀礼」が消滅していく中で、それが学校行事に残っているのだとしたら、それはそれで大問題である。学校の中だけが、社会の動向から取り残された、旧態依然として因習的な通過儀礼にしばられていることを表明してしまっている。
「愚行の通過儀礼」をスティーブ・ジョブズの言葉にあてはめるのは、牽強付会、論理の飛躍ではないだろうか。少なくともスティーブ・ジョブズの意図したところは、そういうことではないだろう。
なにより、「若者には、一見愚かに見える通過儀礼が必要であり、その挑戦が大きければ大きいほど成長でき、そうした若者こそ、未来を切り拓くことができる」というのは、真理なのだろうか?
僕には、根拠の全くない、たんなる精神論としか思えない。
念のため言っておくと、僕は個人攻撃をしたいのではない。こういうふうに素朴に考える人は、世間にはけっこういるのではないだろうか。今夏開催予定の東京五輪を精神論だけで突っ走ろうとする昨今の政治家の言動を支える言説に、結果的になっているのではないか、と懸念されてならない。
この本の冒頭には、1972年にその高校を卒業したというノンフィクションライターのNさんが、現役の高校生たちと対話したときの一齣が紹介されている。これがまた、僕にとっては興味深いやりとりである。
「僕がいま高校にいたら、一切文化祭に関わらずにいたように思う。そういう生徒はいないのかな」
とNさんが問うと、現役の高校生たちは、
「いまの高校生の多くは、文化祭があるからこそここを選んでいるんですよ」
と答える。
「へえ、そんなにすごいんだ。いまの高校は、文化祭が嫌いだったら入学しないという前提なんですね」
「そうです。Nさんは、この出身高校が嫌いなんですか?なのに、なぜ、こんなふうにいまも関わっているんですか?」
「いや、嫌いだったら、今日ここにいないから。いまも関わっているのは、いろいろなご縁があってね。決して母校愛がないわけじゃないの」
…いまの僕には、Nさんの気持ちがすごくよくわかる。しかし現役の生徒たちには、その気持ちが理解できない。彼らからしたら、文化祭に関わりたくないという前提が間違っていて、そしてそういう人は、母校愛がないと見なされる。
この一連のやりとりを読んで、出身高校に対する僕の複雑な感情が、なんとなく説明できるような気がした。
僕自身も、決して母校愛がないわけではない。だが、ときに見え隠れする全体主義というか、同調圧力に乗っかることができないのだ。
ではどこに母校愛をいだくことがあるかというと、僕の場合は、個性的な先生たちである。この高校に入らなければ出会うことのできなかった先生たちが、いまの自分の人生にも大きな影響を与えている。それは、大学以上の影響力である。
ジャズピアニストの先輩のインタビューには、そのことがふれられているのだが、長くなったのでその話は別の機会に。
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