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成功体験が社会を滅ぼす

人々の思考を突き動かしているのは何だろう?といつも考える。

その一つは「成功体験」なのではないか、と思った。

人間誰しも、成功体験を持っている。それから何年も経って、同じような状況に置かれたとき、人間はかつての成功体験を基準に行動するのではないだろうか。

ちょっと漠然としたたとえになるけれども、この国で、なぜ「ノーベル賞」が、これだけもてはやされるのか?ノーベル賞を取ったら、人々は無条件で喝采するし、学問研究の最終ゴールはノーベル賞だと考えてはばからない政治家やマスコミが多い。海外での反応とくらべると、海外では日本ほどノーベル賞に対しては熱狂的にならないのだと聞いたことがある。

なぜこの国ではそうなのか?それはこの国の、ある世代の人にとって、ノーベル賞が成功体験として刻まれているからである。敗戦後に打ちひしがれていた国民は、日本人がノーベル賞を受賞したことに勇気づけられた、という歴史がある。さらにいうと、それを取り上げた新聞が、それにより売り上げが増加したので、マスコミにとってもノーベル賞受賞のニュースは成功体験だったのだ、と、たしか久米宏がラジオで言っていた。

たぶん、アジア・太平洋戦争も、戦争指導者がかつての日露戦争の成功体験にすがっていたことに、敗戦の原因があるのではないか。よくわからんけど。

成功体験とは、実際にはその裏で数々の失敗があったにもかかわらず、それらをないものとすることで得られる体験なので、負の側面についての分析ができておらず、したがって手放しで次に活かすことはできないはずなのである。

今回の東京五輪はどうだ?やはりある世代より上の政治家にとっては、1964年の東京五輪が成功体験として刻まれているからこそ、開催にこだわるのである。しかし1864年の東京五輪当時も、社会的にはさまざまな負の問題が噴出していたのだと思う。

考えなければならないのは、そうした成功体験にすがろうとしている人たちが、この国の政治を動かしている、ということである。

国や政府ばかりではない。会社組織に属していても、そのことはよくわかるのではないだろうか。たとえば社長が「会社をこのようにしていきたい。そのためには、こういう方法をとれば間違いない」という方針を立てる際には、往々にして自らの成功体験にもとづいている場合が多い。しかし、それにつきあわされる部下は、たまったものではない。

これらの現象をごく簡単に言えば、

「柳の下に二匹目のドジョウはいない」

とまとめることができる。

そういう自分も、かつての成功体験に思考が縛られていることを、常に意識しなければならない。

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