オリンピックと戦争
「オリンピック作戦」とは、アジア・太平洋戦争時にアメリカ軍やイギリス軍、ソ連軍をはじめとする連合国軍による日本本土上陸計画の作戦名の一つとして知られている。1945年11月に九州から本土に上陸し、九州を占領しようとする作戦で、もうひとつ、1946年春に関東地方占領をもくろむ「コロネット作戦」と合わせて、「ダウンフォール作戦」と呼ばれた。いわゆる本土決戦である。これらの作戦は、1945年8月に日本が降伏することにより、実行はされなかった。
では、いまの世はどうだ?人類は新型コロナウイルスという見えない敵、それもそうとうにしつこい敵と戦っている。そんな中で、この国でオリンピックが開かれようとしている。世界各国からアスリートが「上陸」し、感染拡大の危険性は火を見るより明らかなのにもかかわらず、政権はこの事態を意に介さず突っ走ろうとしている。これでは感染による犠牲者がますます増える。これを「本土決戦」と言わずしてなんと言おう。
オリンピックが開かれないなんて、いままでがんばってきたアスリートがかわいそうではないか、アスリートに失礼だぞ!という言葉は、「前線でがんばっている兵隊さんに失礼だぞ!」というふうに、僕には聞こえる。
ちょっと前までは、前線でがんばっている人は医療従事者だった。がんばっている医療従事者のために、ブルーインパルスを飛行させて応援しましょう、と言っていた、そのブルーインパルスは、こんどはオリンピックのアスリートを応援するために空を舞った。いつの間にか医療従事者へのエールは、アスリートへのエールに変わってしまった。でも実際には、医療従事者の負担は変わっていない。それどころか、オリンピックによりさらに負担が増えることは間違いない。
開催直前になればなるほど、政府の「見通しの甘さ」が次々と露呈し始めた。それでいて、政府のトップはなぜかオリンピックは成功するものだと信じて疑わない。まったく科学的な見通しはなく、ひたすら精神論をくり返すのみである。
アジア・太平洋戦争末期のこの国の状況を、まるで追体験しているかのようである。
それでも政府は、オリンピックの開催に突っ走る。まるで「本土決戦やむなし」と強硬に主張する当時の陸軍のようである。
「多少の犠牲を払ってでも、オリンピックを開催しないことには、この日を夢見て前線でがんばっているアスリートに申し訳がない」
「そのためには、国民一人ひとりが、我慢することが大事なのだ」
「がんばってこの難局を乗り切ろう。」
まるで戦時中のスローガンのようである。
いやいやいや、誰も難局なんて望んでいない。乗り越える必要のない難局は、最初からない方がいいに決まっている。
これではまるで、「戦争的思考」ではないか。この国における戦争的思考とは、「思考停止」「非科学的思考」「精神論」「国民に行動制限を強いる」といった内容である。僕たちはいま、戦争に突き進んでいった80年前の体験をくり返しているのである。
平和の祭典であるはずのオリンピックが、戦争的思考によって強行されようとしている矛盾。
オリンピックが始まったら、国民の雰囲気も変わるさ、というのはオリンピック開催派の主張である。日本人が金メダルを取ったら、それまでの不満はなくなるだろうというのである。
戦争も、勝利に沸けば、国民の雰囲気が変わってくる。たしか大林宣彦監督の映画「この空の花 ー長岡花火物語ー」には、「勝っている戦争は楽しいのだ」とかいった表現が出てくる。
もちろんそのツケは、後になってまわってくるのだが。
つまり僕がこの文章で言いたいことは、明らかに多くの犠牲が出るオリンピックすら、目の前で止められないというこの国の人たちは、戦争が起きたとしたらなおさら止めることができない、ということである。
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コメント
ご無沙汰しております。
一部のメディアも、精神論と楽観論が終戦末期を彷彿とさせると報じていました。
いわば参謀本部とも言える専門家会議の意見を黙殺し、大本営は楽観論、現地指揮官は兵を増やせば何とかなる。食糧は現地調達。人間は草食動物だから。なんてズルズルと突き進んだインパール作戦のようだ。
それにしても本土決戦の作戦名がオリンピック作戦とは不思議な縁を感じます。
投稿: 江戸川 | 2021年7月24日 (土) 23時36分