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硝子戸の中

友人から久しぶりに来たメールに、

「漱石が読みたくなり、未読だった『硝子戸の中』を読んでみたら、貴君のブログが思い出されて仕方がなかった。とてもよく似ている」

とあったので、まさか文豪の随筆とこのブログの駄文が似ているはずもないと思い、このたびはじめて『硝子戸の中』を読んでみたら、たしかによく似ていることに、我ながら驚いた。

しかし漱石の方は文学史に残る名作となったのに対して、このブログは読み流されてすぐに消えてなくなる、というのは、どういうわけだろう。

それはともかく。

『硝子戸の中』は、病床にある漱石が、硝子戸に囲まれた書斎で思いつくままに書いた、漱石晩年の随筆である。読んでいくと、漱石と同い年の親友だった正岡子規の『病牀六尺』を思い出させるが、子規を意識して書いたのかどうかはわからない。

いくつも共感するところはあるのだが、印象深い文章の一つをあげると、

私は宅へ帰って机の前に坐って、人間の寿命は実に不思議なものだと考える。多病な私はなぜ生き残っているのだろうかと疑って見る。あの人はどういう訳で私より先に死んだのだろうかと思う。

 私としてこういう黙想に耽るのはむしろ当然だといわなければならない。けれども自分の位地や、身体や、才能や――すべて己おのれというもののおり所を忘れがちな人間の一人として、私は死なないのが当り前だと思いながら暮らしている場合が多い。読経の間ですら、焼香の際ですら、死んだ仏のあとに生き残った、この私という形骸を、ちっとも不思議と心得ずに澄ましている事が常である。

 或人が私に告げて、「他(ひと)の死ぬのは当り前のように見えますが、自分が死ぬという事だけはとても考えられません」と云った事がある。戦争に出た経験のある男に、「そんなに隊のものが続々斃れるのを見ていながら、自分だけは死なないと思っていられますか」と聞いたら、その人は「いられますね。おおかた死ぬまでは死なないと思ってるんでしょう」と答えた。それから大学の理科に関係のある人に、飛行機の話を聴かされた時に、こんな問答をした覚えもある。

「ああして始終落ちたり死んだりしたら、後から乗るものは怖いだろうね。今度はおれの番だという気になりそうなものだが、そうでないかしら」

「ところがそうでないと見えます」

「なぜ」

「なぜって、まるで反対の心理状態に支配されるようになるらしいのです。やッぱりあいつは墜落して死んだが、おれは大丈夫だという気になると見えますね」

 私も恐らくこういう人の気分で、比較的平気にしていられるのだろう。それもそのはずである。死ぬまでは誰しも生きているのだから。」

正岡子規の「平気で生きる」という考え方にも通ずる文章と思われるが、それだけでなく、「戦争へ行っても自分だけは死なない」という心理も語られており、現代にも通じる、死についての普遍性を語っているように思われる。

折しもテレビのニュースでは、コロナ禍にもかかわらず3連休の最終日は高速道路が大渋滞していたと伝えていた。

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