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2021年10月

語る力

10月28日(木)

2日間の出張が終わり、地元の駅に着くと、駅前のコンコースに人だかりがする。

見ると、選挙の街頭演説会がはじまるらしい。地元の野党候補者の名前を書いたのぼり旗のほかに、野党代表の名前を書いたのぼり旗もある。つまり、野党代表も応援演説に来るようである。代表が来るというので、人だかりがしていたのだ。

「いま、代表はこちらに向かっております。いま少しお待ちください!」

と、選挙スタッフらしき人が連呼している。

やがて、主人公である地元の野党候補者の演説がはじまった。

まあ、悪くはないのだが、聴いていると、ちょっと言葉足らずだったり、危なっかしい物言いをしたりしていて、少しぞわぞわした気分になる。でも、主張の趣旨自体は、よくわかる。

ちょうど候補者の演説が終わる頃に、…というか、代表が到着したタイミングで、その候補者は演説を終えたのだろう。引き続いて、野党代表が演説をはじめた。

これが、候補者とは段違いに、演説が上手い。なんというか、話し方に緩急をつけ、つい聴き入ってしまうようなカタルシスがあるのだ。そのまま文字起こししても、読み物として十分にたえうる演説である。そういえば、この代表が国会で3時間にわたって行った演説が、そのまま本になっていたことを思い出した。

僕はある時期から、この人はどうも残念な人だな…という印象を抱くことが多くなったのだが、しかし、それでもなお、この人がなぜ代表の座にとどまることができているのかという理由が、なんとなくわかる気がした。演説という1点において、カリスマ性を帯びているのではないだろうか。

この人だけでなく、リベラル系野党のリーダーは、総じて演説が上手いという印象を持つ。それにくらべると、与党や与党系野党のリーダーはなぜか演説がひどく下手である。しかしながら前者は支持者が少数で、後者は圧倒的な支持を誇る、というのはなぜなのだろう。これは僕にとっての謎である。

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水曜だけど土曜の番組

10月27日(水)

2日間にわたる出張は、思いのほか体力と忍耐力と集中力を強いられたので、終わるとすっかりくたびれてしまった。

作業1日目の夜、「国际オンラインオフ集会」という、とくに国際的でもない、集会と呼べるほどの規模でもない、こぢんまりしたミーティングがあったのだが、その席で「水曜だけど土曜の番組」というテレビ番組の話題が出た。

熊本放送のローカルテレビ番組だそうなのだが、「いまいちばん面白いテレビ番組はこれだ!」というプレゼンがされたので、試しにTVerにあがっている1回分を見てみることにした。

プレゼンターが言っていたように、たしかに「水曜どうでしょう」テイストの番組である。出演者はまさやんと糸永アナの二人だが、これた大泉さんとミスターの関係を彷彿とさせる。さらに、僕が観た回では、「スタッフ1号」という陰の声と、もう一人「スタッフ研修生」といういまどきの女性がいて、これた、藤村Dと嬉野Dを彷彿とさせるのだ。

ただ、4人だけで自己完結する番組ではなく、まさやんが熊本の各地に出かけていって、そこで出会う一般人とのふれあいが、実によい。登場する一般人はどれも個性的で魅力的である。それはおそらくまさやんがその面白さを引き出しているのだろうということが容易に想像できる。「水曜どうでしょう」でいえば、「ユーコン川下り」編とか、「激闘!西表島」編などを思い出す。

やっぱりユルい感じのローカル番組というのが、いちばん面白いのだ。

プレゼンターはほかに、いくつかおすすめのローカルラジオ番組を紹介したが、その中で、プロレスラーのスーパー・ササダンゴ・マシンさんが地元の新潟でパーソナリティーをつとめているラジオ番組のプレゼンもした。

スーパー・ササダンゴ・マシンさんと言えばたしか、TBSラジオ「アフター6ジャンクション」で宇多丸さんとトークしていたことを思い出し、

「『俺の家の話』は、スーパー・ササダンゴ・マシンさんをモデルにしていますよ」

とコメントしたら、プレゼンターは

「『俺の家の話』って何です?」

と言うので、

「クドカンが脚本を書いたドラマですよ」

と答えたら、「『俺の家の話』っと…」と、メモをとっていた。

公表できるのは、このくらいかな。「#会いに行ける○○○」は、ぎりぎりアウトかも。

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久しぶりに旅の空

10月26日(火)

午前中のオンライン会議の後、午後に家を出て、出張に向かう。久しぶりの新幹線である。

東京駅はそれなりに人が多く、新幹線も想像以上に席が埋まっていた。新型コロナウィルスの感染が落ち着いたので、このままかつての日常を取り戻す方向に進むのだろうか。この1年半ですっかり出不精になってしまった身としては、複雑な心境である。

使っている手帳は、見開きで各月の予定を書き込むことができるのだが、10月の欄を見返してみると、真っ黒なくらいに、予定が書かれていることに、あらためて驚く。

先日の日曜日は、午前10時から17時まで、うちの職場がホスト役になり大規模なオンラインイベントが行われた。僕自身はこのイベントにまったく関係していないのだが、いちおう中間管理職なので、一人でも多く参加人数を増やさなければいけないとのことで、参加登録をした。

ところが、まじめに聞いている暇がない。ずーっと先送りに先送りを重ねていた、僕が代表のイベントについて、先週金曜日に職場から「オマエ、早く動き出さないと、いい加減、間に合わねーぞ!」とひどく脅され、「わかりました。月曜日までに原案を作ります」と約束してしまったのである。

ところが土曜日は、前回書いたように、娘と一日遊んでいたので何もできなかった。残されたのは日曜日の1日だけである。

なので、職場がホスト役の大規模イベントは、いちおうウェビナーで参加したけれども、作業用BGMていどに聞き流しながら(時には映像だけ流して音声を切りながら)、必死に打合せ資料を作るために格闘していたわけである。

結局、オンライン大規模イベントは、最初と最後の挨拶しかまじめに聴かず、どうやら滞りなく終わったということを確認しただけだった。

翌月曜日。僕が代表となってしまったイベントについての打合せは、何とか乗り越えた。といっても、何一つ問題は解決はしていないのだが。

で、今日(火曜日)の午前中はオンラインの会議、それが終わってすぐに家を出て、新幹線に乗ったと、こういうわけである。

こんなドタバタが、どうやら年内ずっと続くらしい。すでに手帳の11月と12月の欄も真っ黒になりつつある。しかも感染状況が落ち着いたので、出張も増えそうな勢いである。

職場のオンラインシステムには、各人が手帳代わりに予定を書き込むことのできるスケジュール表があって、職場の人間ならば誰でも見ることができる。職員たちは、それを見ながら、今日はあの人は何時から何時まで会議があるのか、とか、今日はこの人は出張なのか、と確認することができるしくみである。

僕は以前は、なんか管理されているようでイヤだったので、オンラインのスケジュール帳に何も書き込まなかった。実際、同僚たちのほとんどは何も書き込んでおらず、書き込んでいるのは管理職だけである。管理職は、「いつだったらその人を職場でつかまえることができるか?」ということが職員たちにとっての関心事なので、職員たちのためにも書き込まざるを得ないのである。

で、僕も昨年から中間管理職になったので仕方なく書き込むことにしたのだが、最近は、それが快感になって、いまや誰よりも細かく、自分の予定を書き込んでいる。仕事だけではなく、この日は何時から何時まで病院で診察を受ける、とか、週末の同業者寄合が何時から何時まである、とか、そんなことまでいちいち書き込むことにした。見たところ誰よりもびっちりと予定が書き込まれたスケジュール帳になった。

僕が宗旨替えをして、職場のオンラインスケジュール帳に書き込むことにした理由は、ただ一つしかない。それは自分の忙しさを職場にアピールするためである。職場のいろいろな人に、同情を買ってほしいという、ただそれだけの理由である。

書き込むとそれなりに反応があり、先日もある職員から「いつも見ています」と言われた。たんに会議の予定とか、出張の場所とか、外部委員会の予定とか、項目と時間だけを書いた無味乾燥な記述なのだが、それだけでも、目を離すことのできない、なにがしかの想像がかき立てられるのだろうか。あるいは僕がたんに「空欄恐怖症」なだけかも知れない。

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末は博士か総理大臣か

10月23日(土)

今日は朝から、もうすぐ3歳7か月になる娘を実家に連れていき、公園を3カ所ハシゴして、ひどく疲れてしまった。

午前中に行ったところは、実家から車で5分ほどの交通遊園である。交通遊園というのは、ゴーカートや電動カートに乗ることができたり、機関車や電車やバスが野外展示されていたりするなど、子どもが遊びながら交通にふれることのできる公園である。

僕が小さい頃、父に連れられて、ほとんど毎週のように通っていたが、それも小学校低学年くらいまでである。ということは、40数年ぶりに、今度は僕が娘を連れて行くことになったのである。半世紀近くの時間を経ても、交通遊園は当時の面影をほとんどそのままとどめていたことに驚いた。

午前10時から遊びはじめて、1時間ほど経った頃、街頭演説のような声が聞こえた。そういえばいまは、衆議院選挙の選挙運動期間中なのだ。

みんなが公園で穏やかに遊んでいるのに、ちょっと無粋だなあと思いつつ、声のしている方向を見ると、元首相の一団が歩いている。よーく目をこらして見ると、歩きながら演説をしているのは、肩から自分の名前のたすきを掛けた、元首相本人である。誰かの応援ではなく、元首相本人が、候補者として選挙区周りをしていたのである。

公園には子ども連れの家族が多かったにもかかわらず、関心を寄せる人はほとんどいなかったが、ミーハーな僕は、娘と一緒にその一団に近づいていって、元首相の姿を、スマホのカメラに収めようとした。

すると、秘書らしき人が近づいてきて、

「よかったら(候補者)本人と一緒に写真を撮りませんか?}

という。

「え?いいんですか?」

「どうぞどうぞ」

そう言うと秘書は、演説をしながら歩いていた元首相を呼び止めて、「写真をお願いします」と言った。

元首相は振り向き、僕と娘のところまで戻ってきた。

秘書らしき人が、「スマホで撮って差し上げますよ」と言ったので、僕のスマホを秘書の人に渡し、秘書の人はスマホをこちらに向けた。すると元首相が、

「ええっと、どんなふうに撮ったらいいかな…。お子さんを抱っこしてもいいですか?」

突然の元首相の提案に、僕はビックリした。

「抱っこしてくれるんですか?お願いします!」

元首相は、僕の娘を抱き上げると、ぼそっとつぶやいた。

「…重いなあ…」

見た目よりも重いことに、元首相は驚いていた。

「では撮りま~す」

何度かシャッターが押され、元首相が娘を降ろしたとき、

「本当に重いなあ…」

とくり返したので、僕は思わず笑ってしまった。

「15キロくらいありますから」

「そうでしょう」

で、最後に、僕は元首相と、握手ではなくこぶしを合わせ、「応援していますので、がんばってください」「ありがとうございます」と言葉を交わした。

後でスマホを見ると、僕の隣で元首相が、満面の笑みをたたえた僕の娘を抱っこしている姿が、実にほのぼのとした感じで写っていた。しかしコロナ禍の影響で、マスクをしたまま写っていることが、少し残念だった。

(娘が元首相に抱っこされるなんて、こいつは将来首相になるくらい出世することを暗示しているのかもしれない)

と思うのは、親馬鹿ならば誰でも抱く感慨である。

さて、お昼になり、いったん実家に戻って昼食を済ませた後、今度は別の公園に娘を連れて行くと、その道すがらに、元首相のポスターが貼ってあるのを見つけた。

「この人、わかる?」

と娘に聞いたら、

「あ、この人、さっき抱っこしてくれた人!」

と答えた。不思議なのは、さきほどは元首相はマスクをしていたので顔がわからないはずなのにもかかわらず、娘は、ポスターの顔写真を見て、それがさきほどの本人であると同定したのである。僕はビックリした。

「どうしてわかったの?」

「おでこのホクロ」

なるほど、おでこのホクロを、娘は見逃さなかったのか。それにしても恐るべき観察力と記憶力である。

ここまで来れば、袖すり合うも多生の縁。「応援しています」と言った手前、今度の選挙は元首相に投票しなければならない、と思ったのだが…。

残念!僕は隣の選挙区の住民なのであった。

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怒濤のオンライン会合

10月22日(金)

よくぞ、よくぞ、金曜日までたどり着きました!ぜんぜん無事ではないけれど。

先日、「ひどい会合」という記事を書いたが、あのあと、某国との橋渡しの係をしている方から、丁寧なお詫びのメールが送られてきた。

その人も、当日まで、某国主催の会議がどのような内容になるのかわからなかったようで、当日の思わぬ展開に、かなり驚いている様子だった。

先日の記事で、こんなことを書いた。

「そのうち、主会場にいるプロジェクトのリーダーを含めた数名が部屋を出ていってしまった。残されたおっさんたち数人で、何か話をしている。

(え?いまこれは会議の最中なの?それとも雑談なの?)

まったく説明もないまま、僕はひたすらその無意味な画面を見つめていたのだった。

(この状況がいつまで続くんだろう?)

チャットで聞いてみたが、何の反応もない。おそらく、日本語のわかる方も、プロジェクトリーダーと一緒に部屋を一次退室しているのかもしれない。

それからしばらくして、プロジェクトリーダーほか数名が会議室に戻ってきた。

何かを喋って、一同が拍手をした。」

この謎が解けた。

「プロジェクトのリーダーを含めた数名が部屋を出て行った」というのは、このプロジェクトに関わるメンバーを除外して、残されたおじさんたちで、このプロジェクトが実施に値するかどうかを評価していたのだという。つまり第三者である有識者により審査を行っていたのだ。

ということは、あれは雑談ではなく、審査をしていたのだな。

で、しばらくしてプロジェクトリーダーほか数名が会議室に戻り、誰かが何かを喋って、一同が拍手をしたというのは、プロジェクトに対して「いろいろ問題はあるが、可とする」という評価が下された、ということらしい。

ということはですよ、僕が10分ほど日本語で喋った「超」いいかげんなプレゼン(しかも会議が始まってから作ったパワポ)が、このプロジェクトの命運を左右する重要なプレゼンだったということなのだ。

先に言ってくれよ!…ま、もっともそのことを先に知っていたとしても、プレゼンのクオリティを高めようとも思わなかったのだが。

このプロジェクト、不安しかない。

さて、今週の月曜日(18日)の午後には、また別のプロジェクトのオンライン会合があった。このプロジェクトにはしばらくご無沙汰していたので、申し訳ないなあと思い、せめて今回だけでもと参加した。

参加人数は意外と少なかった。絶対当てられると思い、今度はあらかじめコメント用のパワポを準備してのぞんだ。

すると今度は、パワポを使って説明する人など誰一人いない。議論はひたすら空中戦で、空中戦につきあうのが苦手な僕は、どうしたらよいかわからない。

やがて予想していたとおり、僕にもコメントが求められ、僕は準備していたパワポを使いながら若干のコメントを言った。しかし概して会合のほとんどは空中戦であり、僕は、こんなことなら締め切りが近い原稿を書く時間に充てればよかったと、少し後悔した。

水曜日の午後は、某自治体主催のオンライン会議である。長年この自治体の会議に参加しているが、会議がオンラインで行われるのは、初めてである。

自治体の職員さんたちは、初めてのオンライン会議らしく、もう最初からドキドキの様子である。

会議が始まると、いきなり自治体の配信会場からの音声が途切れ途切れになっていて、何を言っているかわからない。

「あのう…音声が途切れ途切れになって聞こえないんですが」

「そうですか。じゃあマスクをはずしましょうか」

「いえ、そういう問題じゃないと思います」

とか、紙の資料をカメラに近づけて、

「会議資料のこの部分です。見えますか~?」

「見えませ~ん」

とかいったやりとりが微笑ましい。配信会場にはベテランの職員が3名ほどいるのだが、どなたも「画面共有」という機能をご存じないらしい。

誤解のないように言っておくが、僕はオンライン会議のやり方に慣れていないことを馬鹿にしているわけでは決してない。これまでの僕の経験では、自治体との会議では、使い慣れていないためか、例外なくオンライン会議がぎこちないのである。それはつまり、このコロナ禍においても、多くの自治体では、対面会議信仰が強く、オンライン会議がほとんど行われていなかったことを意味しているのではないか。つまりこれは、この国の社会全体の構造的問題なのである。自治体が対面主義の呪縛から逃れることができれば、この国のIT環境は飛躍的に進むのではないだろうか。

さて、今度の日曜日は、ウェビナーを使った、職場主催のオンライン大規模会合があり、まったく興味がないのだが、立場上、義務的に参加しなければならない。何人参加したかというのが重要なのだろう。仕方がないのでひとまず登録をしたが、来月は、ほぼ毎週末オンライン会合があることを考えると、勘弁してくれよ、という気になってしまう。

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俳優と患者は待つのが仕事

10月21日(木)

今日の格言。「俳優と患者は待つのが仕事」。

よく映画とかテレビドラマを撮影するときに、俳優さんが「待つのが仕事」みたいなこというじゃないですか。出番を待ったり天気を待ったりセットが組み上がるのを待ったり。つまり俳優の仕事の大半が、「待つ」ことなのだという。

それになぞらえれば、患者もまた、「待つ」のが仕事である。とくに大きな病院になるほどその傾向が強い。

今日は、自宅から車で1時間半ほどかかる総合病院まで、定期の診察である。しかも同じ病院の中の2つの「科」をまわるのである。

その前に、ちょっとした検査をしなければならないし、書類を提出しなければならないし、書類を書いてもらうための申請をしなければならないし、と、やることが満載である。これを手際よく裁かなければならない。なぜなら、ただでさえ待合室は座れないほどの人で溢れかえっているからだ。ひとまず診察の予定時間は決まっているのだが、時間通りに行われたためしがない。

そこで頭の中でシミュレーションを立てる。まず、再診の受付を済ませたら、すぐに「書類受付」のカウンターに行き、書類の提出と、書類の申請を行い、それが終わったら採血と採尿、そして一つめの「科」、続いて二つめの「科」、それが終わったら、二つめの「科」で院外処方箋をもらって、病院で診察代の会計を済ませ、病院を出て、近くにある薬局で薬をもらう。…すばらしい段取りである。

病院に入る。さっそくシミュレーションどおり書類の提出と、書類の申請を行い、採尿と採血を済ませる。予定通りの展開である。

一つめの「科」の診察も、予定していた開始時間より若干遅れたが、二つめの「科」の診察予定の開始時間までにはまだ余裕があるので、何の問題もない。一つめの「科」の診察が終わり、二つめの「科」の待合室に行く。

ここから、シミュレーションの歯車が狂いはじめる。待てど暮らせど呼ばれない。予定の時間を大幅に過ぎて、ようやく呼ばれた。診察時間自体は短かったが、このあと、次回の検査の説明を受けなければならず、院外処方箋ももらわなければならない。そもそも、受付の人から、

「お会計の処理が済みましたので、自動精算機のところでお会計をしてください」

と言われるまで、まったく身動きがとれないのである。

診察はあっという間に終わり、次回の検査の説明も簡潔に終わったが、会計処理に手間取っているようで、待っていてもなかなか呼ばれない。

かなり長い時間が経って、ようやく「鬼瓦さ~ん」と呼ばれた。

「お会計の処理が済みましたので、自動精算機のところでお会計をしてください」

「あのう…院外処方箋はないのでしょうか?」

処方箋をもらわないと、薬が買えない。

「ちょっとお待ちください。…たしかに毎回処方箋を出しておりますね。いま、先生に確認してみます」

僕は再び、待合室の椅子に座って、先ほどと同じくらいの時間を待つことになった。

しばらく経って、ふたたび「鬼瓦さ~ん」と呼ばれた。

「たいへん失礼いたしました。先生が院外処方箋を出し忘れたとのことで、申し訳ありませんとおっしゃってました」

「そうですか。わかりました」これでようやく、会計処理が済ませる。

会計処理を済ませたところ、職場から、やや緊急を要するようなメールが入り、僕は病院の一角で、それに対するやや長文の返信を書いた。

ようやく病院を出て、道路を挟んだ向かいにある薬局に、処方箋を持っていった。

悪い予感は的中した。薬局もまた、激混みだったのである。

(ああ、これもまた時間がかかりそうだなあ)

案の定、時間がかかったが、これで今日のミッションのすべてが終わった。あとは、車のガソリンを入れて、かなり遅い「昼食」をとって、帰宅するだけである。

駐車場を出て、カーナビで近くのガソリンスタンドを探すが、土地勘がないのに加え、道路が渋滞していたので、ガソリンを入れるにも一苦労である。

(やれやれ)

すっかりお腹がすいたので、休憩がてら遅い昼食をとる。途中、また職場から、やや緊急を要するようなメールが入ったので、それに返信を書く。

ひとつひとつは長い時間がかかるものではないのだが、積もり積もって、膨大な時間がかかってしまうのだ。

さらに災難なことに、帰宅途中にトラブルに巻き込まれた。幸い、双方ともけがはなかったが、トラブルに対応するいろいろな手続き、というのが面倒くさい。しかしキッチリとやらなければならない。

先方は、僕と同じくらいのおじさんである。とても紳士的な方だったので、安心した。その紳士は、テキパキと段取りを進めてくれた。

こういうときって、輩(ヤカラ)みたいな人が出てきたら、とても面倒なことになるのだが、まったくそういう人ではなかった。むしろ気味の悪いくらい丁寧な人だった。それに負けじと、僕も丁寧に応対した。

しかし気は抜けない。本格的な対応はこれから。このあとあの紳士が豹変したらどうしよう、と、一抹の不安がよぎる。映画の見すぎか?

それにしても長い一日だった。

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あぁ!新世界

ニコルソン・ベイカーという作家の『中二階』という小説は、「極小文学」と言われている。

主人公が、会社のあるビルのロビーに入り、そこからオフィスのある中二階までエスカレーターで移動する。その、中二階までエスカレーターで移動する短い時間のあいだに、主人公が頭の中でいろいろな思いをめぐらす。その思考の過程をつぶさに追った小説で、おそらく時間にして数十秒という短かさの中で、ものすごく濃密な思考の過程が披露される。小説の中の時間の流れとしては、ギネスブック級の短さなのではないだろうか。

これを読んでいくうちに、ずっと昔に観たTVドラマのある情景が浮かんできた。

ドラマの冒頭、大きなホールの舞台の上で、オーケストラの演奏が今まさに始まろうとしている。

カメラは、一人の男性に寄っていく。シンバルを持っている男性である。

やがて演奏が始まる。シンバルを持っている男性は、じっと目を閉じている。自分の出番を待っているのだろうか。

ほどなくして、回想シーンになる。シンバルを持っている男の頭の中で、数々の思い出が浮かんでいるようである。

つまり、観客の目には、シンバルを叩く瞬間を待っている男の姿として映っているのだが、男の頭の中は、音楽のこととはまったく別のことを考えているのである。それはこの演奏会に至るまでの、過去のさまざまな体験を思い返しているのである。

…このTVドラマに対する僕の記憶は、ここで途絶えている。彼が頭の中に浮かんだ思い出がどういうものだったのか、最後にどのような終わり方をしたのか、まったく覚えていない。ドラマの最後に、自分の出番が来てシンバルを叩いて大団円を迎えたのか、そのあたりもよくわからない。

僕は折にふれてこのドラマのことを思い出すことがあった。あのドラマは、何だったのだろう?

僕が間違いなく記憶しているのは、それが「東芝日曜劇場」の中の1話だった、ということである。毎週日曜日の夜9時にTBSテレビで放送されていた1話完結のドラマで、ホームドラマのようなテイストのものが多かった。子どもの頃、このドラマ枠が好きで、よく見ていたのである。

さて、そのシンバルを持つ男は、誰だったのだろう?財津一郎だったような気がする。

ありがたいことに「テレビドラマデータベース」なるサイトが存在する。そこで検索をかけてみるほかない。

「東芝日曜劇場 財津一郎」で検索してみても、それに該当するようなドラマは存在しない。

財津一郎ではないのかもしれない、と思い、「東芝日曜劇場 オーケストラ」で検索してみたら、判明した!

東芝日曜劇場第947回、1975年2月2日放送の「あぁ!新世界」という回である。脚本は、なんと倉本聰!

そしてシンバルを持つ男は、…フランキー堺である!そうか、思い出した。たしかにフランキー堺だった!

そのテレビドラマデータベースの記載を引用すると、

「倉本聰は本作ほかの脚本により第12回ギャラクシー賞を受賞した。「札幌市民会館の大ホール。今まさにオーケストラの演奏が始まろうとしている。そのステージに、10年ぶりにシンバルを手にした男が曲中に鳴るただ一回のシンバルのため、新世界への活路をかけて座っている。その男の脳裏をよぎる想いは何か?青春の志ならず、音楽を捨てて10年。満たされぬ毎日を僻村に送っていた一人の中年男のかなさしさ、おかしさを、素朴な村人と、愛すべき妻とふれあいを通して描いていく。【TBSチャンネル広報資料より引用】」協力:厚田村。」

とある。ドラマの冒頭についての僕の記憶は、間違っていなかった。というか、数ある東芝日曜劇場のドラマの中で、この回がとりわけ記憶に残ったというのも、そのはずだ、倉本聰の脚本で、しかもギャラクシー賞を受賞した、言ってみれば神回なのである。

しかも、である。このドラマの放送年は1975年。つまり僕が小学1年生の時である。名作は、小学1年生の頭の中にも鮮烈な印象を残したのである。

ドヴォルザークの「新世界」の演奏中に、シンバルを持つ男が脳裏によぎる想いをたぐり寄せている、その描写が、『中二階』を読んでいて、なぜか甦ってきたのである。

どういう結末を迎えたのか、まったく覚えていない。あるいは当時、結末を待たずに寝てしまった可能性もある。このドラマを有料配信しているサイトもあるようだが、観てみようかどうしようか、迷っている。

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…と見せかけて

10月19日(火)

午後は全体会議。今回が一つ目の山場だったが、何とか乗り越えた。まったく、生きた心地がしない日々である。どうしてこんな役回りばかりさせられるのだろう。中学生の時の生徒会長体質が抜けていないのかもしれない。しかし言っておくが、俺は「見かけ倒し」なんだぞ!

会議のあと、打合せを1本終えて、さらに「職業的文章」の校正(この校正というのが、さらに苦痛な作業である!)に目処をつけて、帰宅したのが夜9時半をまわっていた。

帰宅したら家が真っ暗だった。妻は寝てしまったらしいが、ドアを開けたとたん、3歳半の娘が起きていたようで、ニコニコしながら駆け寄ってきた。これがいちばん癒やされる。実際、娘は寝付きがよくないのだ。

どうやら機嫌がいいらしく、やたらと僕にすり寄ってくる。僕は嬉しいのだが、もう夜の10時近くなので、娘には早く寝てもらいたい。

リビングで遅い夕食を食べていると、寝室から娘が出て来て、あの手この手で僕を笑わせようとする。

「もうおねんねしなさい」

といっても、適当にあしらって、言うことを聞かない。

業を煮やした僕が、

「バイバイ」と手を振る。つまり「おやすみなさい」の合図である。

すると娘が、「バイバイ」と言って、リビングから寝室に戻ろうとする。

…と思ったら、クルッとふり返りまたリビングのテーブルの所にやって来る。これをお笑い風に言えば、

「寝室に戻る…と見せかけて!、リビングに戻る!…ビックリした?」

というギャグに、僕は思わず笑ってしまった。つられて娘も笑った。

娘は、面白いと思って最初からこのギャグをかましたのか、それとも、僕がそれを「ギャグ」ととらえて笑ったので、「どうやらこれをするとパパが喜ぶらしい」と気づいたのか、そこのところはよくわからない。

それから何度も、「寝室に戻る…と見せかけて!、リビングに戻る…ビックリした?」というギャグを繰り返した。

要は寝たくないようなのだ。

「おねんねしなさい」と言われないように、あの手この手を使って、僕を笑わせにかかっているのである。

そんなこんなで、夜11時くらいまでさまざまなコントが続き、ようやく床についたのだった。

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波打ち際のカタルシス

先日、NHK-BSPで、森谷司郎監督の映画「動乱」(1980年)が放送されていたので、録画して観た。

森谷司郎監督は、確か黒澤明監督の助監督を務めたこともあり、どちらかといえば大作志向のイメージがある。「日本沈没」(1973)、「八甲田山」(1977)、「小説吉田学校」(1983)あたりは好きな作品である。せっかくなので、この機会に、未見だった「動乱」を見てみることにしたのである。

観た感想は…、森谷作品にしては、やや凡庸な印象だった。高倉健と吉永小百合の共演ということで、ちょっとハードルが上がりすぎた感がある。言ってみれば「キャスティング落ち」なのである。

最後のエンドクレジットのところで、助監督が、先般亡くなった「澤井信一郎」だったことに、ある感慨を抱いたのだが、それ以上に印象に残ったのが、吉永小百合が一人、少し荒れている波打ち際にたたずむという映像をバックに、小椋佳のエンディングテーマ曲「流れるなら」が流れることであった。

この感じ、どこかで観たなあ、と思ったら思い出した。同じ森谷司郎監督の映画「小説吉田学校」でも、森繁久彌演じる吉田茂が、大磯の海岸の、少し荒れた波打ち際にたたずみ、そのバックに堀内孝雄のエンディング曲「少年達よ」が流れていた。構造はまったく同じではないか。

森谷司郎監督は、映画の最後に、荒れた波打ち際に主人公をたたずませて、そのバックにニューミュージックを流す、という映像手法が、ひどく気に入っていたのではないだろうか。

たしか、以前にも、大作映画や大作時代劇のエンディングをニューミュージックで煮しめることが、1980年代に流行した、みたいな話をこのブログで書いた記憶があるのだが、探しても見つからない。書いたつもりになっていたのか?

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ひどい会合

10月16日(土)

午前10時から、オンラインによる国際会合。憂鬱である。

憂鬱な理由は、僕が日本チームの班長みたいな役回りをやらされており、つまりあまりにも身の丈に合わないことをすることになったからである。

例によって、事前にはほとんど何も聞かされていない。一つ言われたのが、「当日は10分ほど日本チームの班長として発表をして下さい。ついては、そのためのレジュメを2日前までに作成して送って下さい」と言われた。

僕は言われるがままに、そのミッションを実行し、やっとの思いでA4版で3枚程度のWordファイル原稿を作成し、先方に送った。

そして当日。

その国際会合の主会場は、某国の某大学の会議室のようである。一番手前に、そのプロジェクトの総括リーダーの人が座っており、その周りに何人もの人が座っている。いかにもこれから会議をします、という雰囲気である。

オンライン参加組は、某国内でも会場から遠いところに住んでいる人や、僕のように海外に住んでいる人間、6~7名くらいだろうか。ほとんどが某国人である。

会議が始まったようだ。主催者がまくし立てるように何かを喋っている。しかし僕はその国の言葉がわからないので、何を喋っているのかわからない。といって、通訳をしてくれそうな気配もない。

僕は業を煮やして、今回の会合の橋渡しをしてくれている、日本語のわかる方に、Zoomのチャットで、

「通訳はないんですか?」

とたずねた。するとほどなくして、

「すみません。通訳できません」

という答えが返ってきた。

おいおい、プロジェクトについて意見交換をするんじゃなかったのかよ!言葉がわからなければ、こちらとしても何も言うことができない。

そのうち、各班の発表タイムとなった。1斑あたり10分程度で、僕は3番目である。

僕は一人目の某国の人の発表を画面で見て愕然とした。

パワポで画面共有しながら喋っている!!!

僕は読み原稿を用意しただけで、パワポを作ることをすっかり失念していたのである。

というか、言ってくれよ!!!こっちは、どんな会合なのか、まったくイメージがつかめていなかったのだ!!

通訳だっておぼつかないのだ(というか通訳されない可能性が高い)。丸腰で日本語を喋っても、画面の向こうにいるおっさんたちには、何が何だかわからないのではないだろか?

僕は急いでパワポを作成することにした。もちろん日本語で作成するより仕方がなかったが、それだけでは味気ないと思い、文脈にふさわしい図版を急いで見つけ出して、なんとか直前に完成した。

僕の発表の出番になり、僕が日本語で喋りはじめると、最初は通訳してもらったのだが、そのうち時間が押して、「ここから先は通訳しないので、そのまま日本語で喋って終わらせて下さい」と言われた。何なんだ???

僕の出番が終わると、とたんに僕のわからない言語での発表が再開する。うーむ。何を言っているのか、サッパリわからない。

発表のあとは意見交換である。主会場となっている会議室で、何やらケンケンガクガクと話しているようなのだが、まったくわからない。

チャットで「いま、何を話し合っているのですか?」と聞くと、ようやくチャットを介して、話し合いの内容を端的にまとめた日本語が送られてきた。

それを見てまた愕然とした。え?そんなざっくりとしたことを話しているの?とか、いまさらそれを言うの?とか、そんな感じの内容である。

これは通訳者の表現の問題ではないだろう。おそらく実際に話していることがそういう内容であるに違いないのである。

僕も、何か意見を求められるかなあと思って身構えて待っていたのだが、おそらくまったく気にもとめられていない様子である。

(俺はいないことになっているのか?)

そのうち、主会場にいるプロジェクトのリーダーを含めた数名が部屋を出ていってしまった。残されたおっさんたち数人で、何か話をしている。

(え?いまこれは会議の最中なの?それとも雑談なの?)

まったく説明もないまま、僕はひたすらその無意味な画面を見つめていたのだった。

(この状況がいつまで続くんだろう?)

チャットで聞いてみたが、何の反応もない。おそらく、日本語のわかる方も、プロジェクトリーダーと一緒に部屋を一次退室しているのかもしれない。

それからしばらくして、プロジェクトリーダーほか数名が会議室に戻ってきた。

何かを喋って、一同が拍手をした。

どうやら会議が終わったようだ。

いったい俺は、何のためにここにいたのだろう。

おそらくいままで経験した会合の中で、最低な会合である。これほど時間の無駄と思った会合はない。しかしそんなことを言ったら国際問題になるので、口が裂けても言えない。

最後の最後に、チャットで、「後ほど会議での話し合われた内容についてお知らせします」と言われたが、どんなことが話し合われていたのか、楽しみである。

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金曜日は終わらない

10月15日(金)

ひとり合宿が終わったのが水曜日。翌日の朝からさっそく仕事である。

車で2時間かけて出勤し、午前と午後の長時間会議に出席、その合間を縫って、炎上案件についての火消しにまわり、ひとまず、まるくおさまったのではないかと思う。

途中、すれ違った同僚に、

「あの件、どうなりました?」

と、別件について聞かれる。

「まだ何も動いていません」

「早いところ動いた方がいいですよ。言ってくれたらなんぼでも手伝いますから」

「ありがとうございます。そのときはお願いします」

と答えたが、「あの件」に取りかかるまでには、解決しなければならない案件が山ほどあるのだ。

もうだめかもわからんね。

今日も朝から会議と打合せ。午後は2時間ほど若者の前で喋る。若者の前で喋るのは実に久しぶりで、なかなか楽しかった。またそういう仕事に戻りたいなあ…。

書類を作ったり、プレゼンの資料を作ったりしていたら、あっという間に夜になった。

帰宅した頃には、TBSラジオ「アシタノカレッジ 金曜日」がすでにはじまっていた。

やれやれ、これで無事に週末を迎えられる、と思ったのだが、不思議なことに、ラジオのトークの内容が一向に入ってこない。

こういうときは、コンディションが悪いときである。ふつうならば、リラックスしてラジオを聴けるのだが、今日はそれができないということなのだ。

陰々滅々たる気持ちになっている理由は簡単である。明日、土曜日の午前に、オンラインによる国際的な会合の初打合せがあるのだ。そこで僕は、少し喋らなければならないのだ(もちろん日本語で)。

その喋りの原稿も、時間の合間をぬって、必死に作って昨日先方に送信した。もうこの時点で限界である。

もともと不本意のままうっかり引き受けてしまったので、僕にとっては苦痛でしかない会合である。やめちゃおうかなあ。でもやめると国際問題になるかなあ。なんとかフェイドアウトできる方法はないだろうかと、そればかりを考えている。

なんで引き受けちゃったんだろう?せっかくの土曜日なのに暗い気持ちで過ごすことになる。後悔すること頻りである。

「よくぞ、よくぞ金曜日までたどり着きました!」というジェーン・スーさんの決まり文句や、「来週金曜日までご無事でお過ごしください」という武田砂鉄さんの締めの言葉は、いまの僕には意味がない。なぜなら金曜日はまだ自分のなかで終わっていないからである。

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蟹がこわい

10月12日(火)

ひとり合宿2日目

ふだんまったくといっていいほど新聞を読まないのだが、ひとり合宿では、朝刊と夕刊のサービスがある。といっても、新聞社を選ぶことはできない。朝刊は、ガチな保守層が愛読する新聞で、夕刊は、『日本経済新聞』(日経)である。どちらも政権寄りの新聞であることには変わりないのだが。

つまりふだん僕がまったく手に取ろうと思わない新聞ばかりなので、こういう新聞を読む機会というのは、ひとり合宿の時しかないわけである。逆に貴重だと思うので、読むことにしている。

日経の夕刊の1面の下には、「あすへの話題」というコラムがある。新聞社の編集委員が書くのではなく、日替わりで識者が書くもののようだ。昨日の夕刊のコラムには、ある大企業の社長が、俺はノーベル賞を取った学者さんと知り合いで、シャンパンを片手に話が弾んだことがある、といういけ好かねえ自慢話を書いていて、さすが日経と思ったのであった。

今日の夕刊は、一転して作家の山田詠美さんが「玉子と卵」というコラムを書いていた。これがなかなか作家らしくておもしろかった。曰く、

「卵」という字が嫌いで、「玉子」という字を書くと、校閲担当に「玉子」でいいんですか?と聞かれる。「玉子」は食用を意味するが、「卵」は鳥や魚や虫が産む生き物が出てくる前のあれを想像してしまい、「卵料理」なんて表記を見るとぞっとして食欲を失う。だが、「魚卵」という表記にはあまり抵抗がない。美味しいキャビアを連想すると舌鼓を打つことができるのだから、現金なものである。よく「○○の卵」というが、これもまた「玉子」の表記がいい。若いときに「小説家の玉子」と自称すると、編集者から「なんとか玉子さん」という名前みたいだと笑われた。

…という、じつに他愛のない話でおもしろかったんだが、僕がそれよりも興味を持ったのが、最後の段落である。

「三島由紀夫はカニが大大大嫌いで、「蟹」という漢字すら見ないようにしていたらしい。河野多恵子さんの芥川受賞作は「蟹」。大庭みな子さんの受賞作は「三匹の蟹」。三島さん、どっちも読めなかったでしょうね」

三島由紀夫が大の蟹嫌いだった、というエピソードのおもしろさももちろんだが、僕はこれを読んで思い出したことがあった。

僕の友人が大のカエル嫌いだ、ということを、あるとき聞いたことがある。もちろん、世の中には、あのヌメヌメしたカエルが大嫌いだ、という人は多いのかもしれない。しかしその友人は、本物のカエルがきらいなだけでなく、カエルのキャラクターとか、カエルのイラストも嫌いで、カエルの話題を出されること自体、嫌いだというのである。

「たとえば、ものすごいかわいいカエルのイラストでもダメなんですか?」

「ダメです」

「カエルの話題も?」

「ええ。カエルの話題を出す人がいたら、その人とは縁を切ります」

「それは、いつからなんです?」

「子どもの頃からです。理由はよくわかりません」

たとえばその友人に、カエルの絵をあしらったTシャツなり手ぬぐいなり、小物だったり、何でもいいや、たとえそれがかわいらしくっても、知らずにうっかりプレゼントしようものなら、友だちとしての縁を切られてしまうのである。

僕はそれを聞いたとき、自分にはまったく感じなくても、他人には絶対に生理的に受けつけないものがあるのだということを知ったのだった。

三島由紀夫にとっては、それが蟹だったのだろう。「饅頭こわい」のノリで三島由紀夫に蟹を贈ったら、本気で絶縁されるはずである。

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『大奥』からの『川島芳子自伝』

10月12日(火)

ひとり合宿2日目。

2日目は、午前中に「不動時間」がある。それが20分で終わる場合もあれば、2時間近くかかることもあるのだが、今回は、どうやら30分以内で終わるらしい。

毎回、「不動時間」には、せめてもの慰みで、お気に入りのCDをかけていいことになっている。だいたい、渡辺貞夫さんのCDを選ぶことが通例なのだが、今回は少し趣向を変えて、寺尾紗穂さんのCD『Thousands Birdies`LegsⅡ』を選んだ。寺尾さんは、以前にある本の中で文章をご一緒したことがあり、さらにそのご縁で、エッセイ集『流星の孤独』にサインをもらったことがある。面識はないのだが、その文章や音楽のファンなのである。

今回の「不動時間」は、CDを全部聴き終える前に、思いのほか早く終わってしまった。

部屋に戻り、やや落ち着いたところで、気分転換の読書を再開する。『大奥』1巻~6巻は読み終わってしまったので、それ以外に持ってきた本の中から、文庫になったばかりの川島芳子『動乱の陰に 川島芳子自伝』(中公文庫、2021年)を読むことにした。文庫版の解説が寺尾紗穂さんなので、つまりは寺尾さんつながりで持ってきたわけである。

それだけではなく、「男装の麗人」と称された川島芳子という人物は、前日に読んだ漫画『大奥』ともどことなくリンクする感じがする。内容はまったく関係ないのだが。

この時代のことは、映画『ラストエンペラー』とか、愛新覚羅溥儀の自伝『わが半生』にふれたくらいで、じつに乏しい知識しかないのだが、10代の頃に『ラストエンペラー』を観て衝撃を受けた僕は、清朝末期から満州国建国に至る過程というのは、言葉が適切ではないかもしれないが、なんとなく祝祭感を抱かせる時代なのである。それも、頽廃的な祝祭感。

この本には、『ラストエンペラー』や『わが半生』などでもなじみのある名前が登場しているので、異なる視点からこの時代を知ることのできる貴重な本である。

自伝、というので、川島芳子自身が書いたものかと思ったら、伊賀上茂という人物が祐筆として書いたという。昭和15年(1940)刊行とは思えないほどわかりやすく臨場感あふれる文体なのは、伊賀上茂の筆力によるものなのだろう。自伝というより、まるで一編の小説を読んでいるような筆致である。

巻末の年表によると、昭和8年(1933)に村松梢風による『男装の麗人』が刊行されている。寺尾さんの解説によれば、こちらの方はかなりフィクション性が強く、それにくらべれば本書は大分抑えられているということなのだろう。

さらに巻末の年表を見てみると、昭和4年(1929)、川島芳子22歳の時に、すでに『講談社倶楽部』という雑誌で「男装の王女」という文章が掲載されていた、という。ほかに、昭和9年(1934)には『男装の麗人』という舞台が上演されているというから、同時代の人たちにとって、川島芳子がいかにセンセーショナルな女性であったかがわかるというものである。好むと好まざるとに関わらず、「東洋のジャンヌ・ダルク」と称されるのも宜なるかな、である。

読んでいて驚くのは、ここに登場する人たちが、いくつもの言語を操っていることである。川島芳子はもともと清国の王女だが、中国語のみならず、日本語、英語を駆使してコミュニケーションをとる。他の登場人物もそうである。もちろん、エリートだからなのだろうが、それにしても、いまの時代よりもある意味、グローバルである。

もう一つ、さまざまな名前を持っている。川島芳子の本名は、愛新覚羅顕し(王+子)、字は東珍、漢名は金璧輝、俳名は和子、ほかに、芳麿、良輔と名乗っていた時期もあるという(Wikipediaより)。もちろんいまでも、芸名とかペンネームとか雅号とかを持っている人もいるが、それ以上に、その人物が生きてきた歴史を名前が負っている。いまはどうだろう。結婚しても別姓を選択する自由すらないのである。

もちろんこれらは、その時代の制約によるもので、生き残るための術だったのかもしれない。だから一概に同列に論じることはできないにしても、いまの硬直化した時代もまた、生きにくい時代であることには変わりないのである。

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いまさら『大奥』

恒例の「いまさら」シリーズ。

10月11日(月)

ひとり合宿、1日目。

現実からの逃避が、ひとり合宿でしか実現しないとは、なんとも不健康な逃避方法である。

まあそれはともかく。

ひとり合宿でどんな本を持っていくか、というのは、毎回楽しみでもあり、迷うことでもある。

読みかけの本を持っていくか、久しぶりに松本清張の『昭和史発掘』を持っていくか、カフカの小説を持っていくか、などといろいろと迷ったのだが、今回はよしながふみさんの漫画『大奥』が僕のことを呼んでいた。

というのも、わが家ではいま『大奥』ブームなのである。

「絶対おもしろいから読んだ方がいいよ」

と家族に言われたのだが、はっきり言ってピンとこない。

たしか民放で『大奥』というドラマをやっていたことはことは知っていたが、一度も観たことがない。

「わかったわかった。じゃあ最初の1巻だけ借りるよ」

と、2週間くらい前に借りたのだが、そのままになっていた。

そもそも僕は、漫画をあまり読まない。世の中にはとんでもなくおもしろい漫画が星の数ほどあるということは、もちろんわかっているのだが、だからこそ、限られた時間の中でどんな漫画を読んでいいかわからなくなるのである。ここ最近、全巻通して読んだのは、武田一義さんの『ペリリュー』だけである。

これではいつまで経っても『大奥』を読み始める踏ん切りがつかない。

家族が業を煮やしたのか、今朝起きたら、朝食時に、TBSラジオ「ライムスター宇多丸 アフター6ジャンクション」の「大奥特集」をラジオクラウドを通じて流していた。たぶん今年の春先くらいの放送だと思う。

3人の『大奥』ファンが、まだ読んだことのないライムスター宇多丸さんに、『大奥』がいかにおもしろい漫画であるかを熱くプレゼンテーションするという企画で、宇多丸さんも僕と同様に、最初は半信半疑だったようなのだが、そのプレゼンを聴いているうちに、その面白さに気づいていく、という内容だった。

家族がわざと僕にその放送を聴かせた、ということは、これはもう最後の手段という意味である。「宇多丸さんだって心が動いたんだから、あんたも心を動かせよ」と。

「わかったわかった。じゃあひとり合宿に持っていくよ」

「何冊?」

さあ困った。実際、何冊くらい読めるかわからない。読むんだったら、この機会にできるだけまとめて読んでみたいという気持ちもあるが、途中で飽きちゃうかもしれないし。

「5冊」

「え?」

「あ、いや、…10冊」

「じゃあ、あいだをとって6冊ね」

ということで僕は、『大奥』の1巻から6巻をカバンに詰め込んで、ひとり合宿に向かったのであった。

で、実際読んでみると…。

1日目にして、あっという間に5巻まで読んでしまった。こういう話だったのね。すげーおもしろい!というか、大河ドラマにした方がいいよ!

「うーむ。やはり10冊にすべきだったな」

ちょっと根を詰めて読み過ぎたので、今日はここまで。

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スーツアクターに個性あり

高校時代の1年後輩のSNSを見たら、いまNHK-BSPで放送中の「ウルトラセブン」の「ウルトラ警備隊、西へ」の回の感想を書いていた。いわゆるキング・ジョーが登場する回である。

「さて、セブンのスーツアクターといえば上西弘次氏なのだがこの回は菊池英一とある。帰ってきたウルトラマンのアクターだ。そう思って観ていると立ち方、立ち合いの雰囲気が新マンっぽいのが興味深い」

キング・ジョーの回のセブンの立ち合いの雰囲気が新マンっぽい、というのは、どういうことなのだろうと思っていたら、それからほどなくして彼のSNSで画像入りで補足の説明をしていた。

「上西セブンと菊池セブン そして帰ってきたウルトラマン(菊池)。セブンは基本両手グー。一方新マンは片手手刀、もう片手がグーという構えが多い。こういうのは子供の頃のごっこ遊びを通じて自然と培われた観察眼なんだと思う。当時ビデオもないのに」

なるほど、画像を見ると、キング・ジョーの回、つまり菊池セブンは、セブンが片手が手刀で片手がグーという構えをしている。しかし、上西セブンは両手がグーである。そして新マンは、片手が手刀で、もう片手がグーだった。もうそのことを知って以来、セブンの立ち合いを見るたびに、「両手がグー」になっているかどうかが気になって仕方がない。

僕は子どもの頃、そこまでは気づかなかったが、その後輩は身体的な感覚として覚えていたというのだからたいしたものである。

(ちなみに「ウルトラ警備隊、西へ」は、岡本喜八監督の「独立愚連隊、西へ」のタイトルを捩ったものであるというのは、常識なのだろうか。)

そういえば、ウルトラマンのスーツアクターだった古谷敏さんが、ウルトラセブンではアマギ隊員の役を演じていたが、少し腰を落として銃を構える仕草が、ウルトラマンがスペシウム光線を打つ姿勢を彷彿とさせたことは記憶している。

…と、これを書いていて思い出したが、毒蝮三太夫さんのYouTubeチャンネルで、古谷敏さんをゲストに迎えて対談していたとき、マムシさんが

「俺一人が、ウルトラマンから続けてウルトラセブンに出演した。いわゆるスピンオフというやつね」

と言っていた。「スピンオフ」というと、「既存の作品(本編)からそれに関連する別の作品が派生することを指す。そうして制作された作品を派生作品もしくはスピンオフ作品と呼ぶ。日本ではテレビドラマや映画、漫画などの派生作品によく使われる」(Wikipediaより)というイメージがあるのだが、マムシさんは、ちょっと違う意味で使っていたようだった。前のシリーズから、次のシリーズに移るときに、前のシリーズのレギュラーを一人残して次のシリーズのレギュラーを続けさせることを、スピンオフと言っているらしい。当時、アメリカのテレビやなんかでよく使われるやり方だった、というのだが、「スピンオフ」の意味が変容したのか、どうもよくわからないので、ここに書きとめておく。

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オリンピックと多様性

北丸雄二さんの『愛と差別と友情とLGBTQ+』(人々舎、2021年)を読んでいたら、こんな記述があった。

ソ連圏は男性同士が人前でキスをする習慣があった。1980年のモスクワ五輪では、ソ連の体操の選手が競技が終わるたびに、あるいは同僚選手が競技を終えるたびに、互いに近づいて抱き合って唇と唇を合わせてキスをするのだ。ところが、モスクワ五輪を機に、それがなくなった。オリンピックで他の世界に出遭った自国の文化が、別の視線を得て突然「意味」を変容させる。世界目線、というか欧米目線を知ったソ連の選手たちにとって、「兄弟のキス」の意味が突然性的なものに変わってしまったのだ。なので不意に世界中継のテレビから彼らの抱擁と接吻がなくなった。

このような内容のことを書いた上で、次のように続けている。

「同様のことが一九八八年のソウル五輪でも起きました。それまで韓国では若い男の子同士が街なかでも手をつないで歩いていることは珍しくありませんでした。ところが韓国に世界の目が集まることで(あるいは「集まる」と意識したことで)、その風習は都市部で急速に消え去りました。男同士が手をつなぐことに(欧米の文脈での)性的な意味が付加されてしまったわけです」

このくだりを読んで、僕は若い頃のことを思い出した。

僕が大学院生だった1990年代前半頃のことである。僕は、韓国から来た留学生のチューターをすることになった。留学生、といっても、僕よりも4~5歳年上の男性である。

年齢も年齢だし、日本で確実に結果を残して帰国してもらわないと、自分の国で就職をすることも難しいだろうと思い、かなり献身的にチューターの仕事をつとめた。

当然、その留学生は僕に対して、たんなるチューターであることを越えて、友情を感じていたので、たまにお酒を飲みに行ったりすることがあったのだが、お店を出て、少し酔っ払いながら並んで歩いていると、不意に手をつないでくることがしばしばだった。

最初、僕はちょっと面食らったが、後々、韓国では男性同士や女性同士が手をつなぐことは自然に行っていることだということをどこかで知り、なるほど、これがいわゆる韓国式なんだな、と合点がいったのだった。

北丸さんのこのくだりを読んで、この習慣が1988年のソウル五輪を契機に、都市部を中心に急速に消え去っていったことを知り、そうか、韓国でふつうに行われていたことが、五輪によって淘汰されてしまったのか、と、いささか感慨を抱かずにはいられなかった。1990年代前半には、まだその名残があり、その留学生は、若い頃に親しい者同士でしたように、僕に手をつないできたのだろう。

五輪は多様性を認めるどころか、マジョリティの視線により、突然その国の風習を変異させるのだ。それは進歩なのか?それとも文化破壊なのか?

いまの韓国では、同性同士で手をつなぐ風習は、まったく廃れてしまったのだろうか?よくわからない。

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不機嫌な運動会

10月9日(土)

今日は、3歳半の娘の保育園の運動会である。

新型コロナウイルス感染対策の観点から、3歳児クラス、4歳児クラス、5歳児クラスはそれぞれ時間をずらしておこなうことになった。

3歳児クラスはいちばん早い時間帯で、8時45分集合、9時開始、9時20分終了というスケジュールである。

8時45分に保育園の園庭に行くと、すでに3歳児クラスの親子連れがほとんど集まっていて、9時開始の予定より少し早く、運動会が始まった。

演目は3つ。動物の形態模写をしながら園庭のトラックを1周するという演技と、障害物競争(といっても、走るのは一人ずつ)的な競技と、最後はダンスと動物の形態模写を組み合わせた演技である。

わが娘は、月齢が一番下ながら、3つの演目を誰よりも完璧にこなしていた。とくに3番目の演目のダンスは、5分以上にわたる長い時間を完璧に踊りきっていた。もちろんこれは客観的な意味において、である。

ただ、楽しんでいるか、というと、そこは微妙である。段取りを忠実にこなすことに一生懸命だったのかもしれない。で、段取りを完璧にこなすと、「ひと仕事終わった」という感じで、自分の椅子に戻っていく。椅子に座っているときの表情は、憮然、とまではいわないまでも、得意の「無」の表情である。その表情がなおさら、ある種の職人的姿勢を思わせる。

僕自身が子どもの頃、運動会に対してそういうスタンスだったから、どうしてもそんなふうに見えてしまうのかもしれない。

一人の男の子が駄々をこねて運動会の参加を辞退するというトラブルもあったが、3歳児クラスの運動会は、無事に終了した。

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Tokyo

10月8日(金)

朝9時からストレスのたまる仕事である。たぶんこの1年半の間で最大のピンチである。

この八方塞がりな状況で、どうやって事態を丸くおさめろというのだ?と、思わず天を仰ぎ嘆息する。

今日の格言。「すべての問題は構造的問題である。すべての対立は感情的対立である」

午前はストレスのたまる仕事、午後は間違いのないように神経を使う仕事で、すっかり疲れてしまった。右膝が痛いのは、痛風の発作が出かかっているのだろう。毎日薬を飲んでいるし、ここ数年お酒もまったく飲んでいない。数年ぶりに痛み出しているのは、もう完全にストレスによるものと断じてよい。

夕方に職場を出て、車で家路へ急いだのだが、金曜日の夕方なので、首都高速が大渋滞である。

カーナビの通りに走っていると、途中で首都高速を降りろと、カーナビが指令する。

カーナビに言われるがままに走っていると、ふだんのルートとは異なるルートを指定され、あげくの果てに「銀座」の出口で降りろという指示が出た。

銀座?まったく土地勘がないところである。もちろん銀座へは何度も行ったことはあるが、地下鉄の駅を降りて歩いたことがある程度である。

銀座のど真ん中を車で走っていると、なんとなく見たことのある建物が並んでいる。金曜日の夜なので、歩道には多くの人が行き交っている。

(なかなか華やかだなあ)

こんな時に、難しい政治談義の番組を聴きながら運転するというのは、野暮というものである。今日は家に帰るまで、音楽を聴きながら帰ることにしよう。

銀座を抜けると、突然国会議事堂が見えた。国会議事堂を右によける形で車を走らせると、今度は赤坂である。右手には豊川稲荷が見える。

(TBSの放送局は、このあたりかなあ…)暗くてよくわからない。

「四谷三丁目」の地下鉄の駅も見えた。

それから青山一丁目の交差点を右折した。このあたりもまた、おしゃれな街である。

そこからどこをどう通ったか、忘れてしまったが、新宿の伊勢丹の前あたりの道を走っていた。新宿もまた、人であふれている。

銀座、赤坂、四谷、青山、新宿…。

思い出したのは、井上陽水の「Tokyo」という曲である。

「銀座へ

はとバスが走る

歌舞伎座をぬけ 並木をすりぬけ

新宿へ

地下鉄がすべる

そびえるビルに月まで隠れて

(中略)

渋谷へ

青山の路で

恋する人は口づけを交わして

(中略)

Tokyo

赤坂 浅草

まだまだ街は人を惹き付ける

街並みは夢とあこがれ

街角までが歌を奏でる」

なんと!この歌には、いま僕が通ってきた銀座、赤坂、青山、新宿が入っているではないか!

ということは、僕は今日、井上陽水の「Tokyo」を体感したのだ。

家に帰るまでの時間が、通常の2倍近くかかって疲労困憊したが、途中から井上陽水の「Tokyo」を聴きながら運転したので、少しばかり、昼間のストレスが解消された。

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アイス騒動

10月5日(火)

炎上案件は、思わぬところに潜んでいるものだ。

僕はすっかり不意打ちを食らってしまい、ストレスフルな1日がやっと終わった。しかしこの状況はしばらく続くのだろう。まったくもって憂鬱である。

帰宅したのが午後7時半。さっそく娘と一緒にお風呂に入ったのだが、娘がひと言も喋らない。

お風呂から出て、念のため熱をはかってみると、38度を越えていた。

「お風呂入ったばかりだからだよね」

「たぶんそうだよ」と言い聞かせる。

家族は先に夕食を済ませたので、僕一人で夕食。夕食を食べている間、娘とママは寝床に入った。

夕食を食べ終わり、冷凍庫をのぞくと、ソフトクリームのアイスが一つあった。

そういえばさっき娘が、

「さっきママとアイス食べたんだよ」

と言っていた。残った一つは僕のアイスだろうと思い、すっかりストレスがたまっていたこともあって、冷凍庫のソフトクリームに手を伸ばした。

(美味しかったなあ)

食べ終わったところに、妻がきて、娘はどうやら熱があるらしいと言う。さっきはかった体温は、気のせいではなかったのだ。

何回かはかってみると、37度から38度のところを行ったり来たり。これは完全に、熱があるということだ。

こういうときのために、お医者さんから「お守り」としてもらっていた熱冷ましの粉薬があったことを思い出した。

「熱を下げる薬を飲ませよう」

「でも、たしか38度以上にならないと飲ませてはいけないんじゃ…?」

もう一度熱をはかったら、38度を越えていた。

「よし、飲ませよう」と僕が言うと、妻が、

「粉薬をアイスに混ぜて飲ませるようにって言われてたんだよね」

「え?」僕はビックリした。「ヨーグルトに混ぜるんじゃないの?」

「ヨーグルトに混ぜると苦く感じてダメなんだよ」

そうだった。子どもに飲ませる粉薬の種類によっては、ヨーグルトに混ぜたらダメなものもあったんだった。

「そういえば、冷凍庫にもうひとつソフトクリームがあったよね」

「ごめん…食べちゃった」僕はソフトクリームが入っていたプラスチックの容器を差し出した。空の容器は、実に情けなく見える。

「もう食べちゃったの?なんで待てなかったかなあ」

なんとも間が悪い。僕がソフトクリームを食べなければ、その一部を粉薬を飲ませることに使えたのだ。

「どうしよう」

考えたあげく、同じマンションに住む義妹のところに電話をかけて、冷凍庫にアイスが入っていたら譲ってくださいとお願いした。幸いなことに、アイスがあるというので、もらいに行くことにした。

「はい、どうぞ」義妹は半笑いである。

食いしん坊の僕が、誘惑に負けてソフトクリームを食べてしまったばかりに、娘が粉薬を飲むために必要なアイスが奪われてしまったことに対する、半笑いであろう。

熱冷ましの粉薬をアイスに混ぜて娘に服用させて、なんとか眠りにつかせた。

翌朝。

娘は咳が続き、声もガラガラだったが、熱をはかってみると、36度6分だった。何度も何度もはかりなおしても、36度6分は変わらない。やはりこれは薬のおかげである。医者の先生が言った「お守り」というのは、本当なんだな、と思った。

心なしか娘も元気になっていたので、もう大丈夫だろうと、保育園に登園させた。そして僕らは、ストレスフルな仕事を予定通りすることになった。

夕方、保育園に迎えに行ったときには元気なままだったので、一安心である。

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エマちゃん

10月2日(土)

妻が朝から夕方まで職場で仕事があるので、僕は3歳半になる娘を連れて、実家に行く。今日は夜まで娘の子守である。

午前中、実に久しぶりに、実家の近くの公園に行った。夏の間は、外に出ることがおっくうになるほど暑い日が続いたり、大雨で外に出られないことがあったりしたが、10月に入り、緊急事態宣言も解除され、とくに昨日は台風も通り過ぎて晴れ間が広がったため、久しぶりに公園に連れて行くことができたのである。ただ10月とはいっても、日中は気温がぐんぐんと上がり、日差しはまだ夏のように照りつけていた。その公園が、高速道路の高架下にあることがせめてもの救いである。

久しぶりに公園に行く娘も、ドキドキである。

「おともだち、いるかなあ」

ここでいう「おともだち」というのは、ふだんから親しいおともだち、という意味ではなく、娘と同じ歳くらいの子、というくらいの意味である。

「きっといるさ」

「いっしょにあそびたいけど、おはなしするのはずかしい」

娘はいつもそうなのだが、公園に着くとまずは、自分と同じくらいの年齢の子がいるかどうか、あたりを見渡す。ターゲットが見つかると、その「おともだち」と一緒に遊びたい、という気持ちがつのるのか、無言でその子に近づき、なんとか一緒に遊ぼうと試みる。

相手からすれば、同年齢くらいの見知らぬ子が無言で近づいてきて、ピタッとロックオンされたまま、どこへ行くにもついてくるのだから、遊びにくくってしょうがないのではないだろうか。みんながみんな、公園で見知らぬおともだちに近づかれることを歓迎しているとは限らないのだ。

「だまってないで、おはなしするんだよ」

と僕はアドバイスしたが、僕が娘の立場だったら、決してそんなことはできないだろうと思った。

今日は天気もいいし、緊急事態宣言も解除されたから、公園にはたくさんの子どもたちがいるだろうな、と思っていったら、拍子抜けするくらいに人がいなかった。こんな公園などではなく、もっと遠出をしている家族が多いのだろうか。

ひと組だけいた。若いお父さんが、娘さんと、その娘さんよりも小さい男の子の二人を連れて遊んでいる。おそらく姉弟であろう。

お姉さんの方は、うちの娘と同じような背丈なのだが、見たところ娘よりも身体能力が高いので、同い年ではなさそうだ。4歳くらいかな。

弟の方は、明らかにうちの娘よりも小さいので、2歳くらいだろう。

娘は、この親子連れのことが気になって仕方がない様子だった。とくに自分と同い年くらいの子の方にロックオンしたようで、すべり台で遊ぶときは、常にその子にピッタリと近づいて遊ぼうとしている。

娘の方は、その子と遊びたい気満々なのだが、相手の子にとってみれば、見知らぬ子が無言でピッタリとそばにいて離れないのだから、あまりいい気分ではないのかもしれない。たとえて言えば、不審者にストーキングされているような心境ではないだろうか。

「話しかけてみたら?」

と僕は娘に言った。

「どうやって?」

「何歳?って聞いてみたら?」

娘はさっそく、その子に「何歳?」と聞いた。するとその子は指を4本立てて、「4歳」と言った。

それに対して娘は、指を3本立てて、「○○ちゃんは3歳」と言った。相手の子の顔が、少しほころんだ。

この後、徐々に二人の距離は縮まっていった。最終的には、向こうの若い父親と僕を巻き込んで、「鬼ごっこ」と「かくれんぼ」をする羽目になってしまった。

娘を追いかけたり、娘に追いかけられたり、と、公園を走り回るだけの他愛もない遊びなのだが、僕は愕然とした。まったく「走れない」のである。下手をしたら、走って逃げていく3歳の娘を、本気で走っても捕まえることができないほどの、衰えっぷりだった。

病気に加えてこのコロナ禍でほとんど外出しなかったので、足腰がすっかり弱ってしまったのである。

「かくれんぼ」をくり返すうちに、すっかりと疲れてしまった。

「お昼ご飯の時間だし、もう帰ろう」

というと、娘は「ヤだ」と言った。4歳のお友だちも「ヤだ」と言っている。二人とも「かくれんぼ」が楽しいのだろう。

「また今度、一緒に遊んだらいいよ」と、若いお父さんはなだめるように言った。でもおそらく、一期一会だろうと僕は思った。

ようやくその4歳の子と3歳のうちの娘は納得したらしく、

「また遊ぼうね、バイバイ」

といって別れることになった。

反対方向に向かって歩き始めたとき、僕は娘に言った。

「そういえば、お友だちのお名前を聞かなかったね。なんて名前なんだろう?」

娘はそのお友だちのところに走って行き、名前を聞いた。

「エマちゃんだって」

「エマちゃんかぁ。覚えておこうね」

「うん」

娘はエマちゃんのことを忘れないだろうか。

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「○○じゃない方」とは言わせない

10月1日(金)

ここ15年の間、僕は「お笑い界」というものにまったく疎くなってしまったのだが。

お笑い芸人・ハライチの岩井勇気を初めて認識したのは、いまから2年ほど前、NHKの「ETV特集」で、ある歴史上の実在の人物を取り上げた番組の、再現ドラマの中で、その人物を演じていたのを観たときである。

ずいぶんと古風な顔立ちの人だな、と思いながら見ていくと、その実在の人物を写した古い写真が、黒縁眼鏡をかけた岩井勇気の顔とそっくりだったので、なるほど、顔立ちでキャスティングしたのかもしれない、と思ったが、お笑い芸人とは思えないほど、誠実な演技だった。

ちなみに、その実在の人物の、気丈な妻の役を演じたのは、伊藤沙莉である。伊藤沙莉という俳優も、その番組を観て初めて認識をした。その後、注意深くテレビを観ていくと、志村けんのコント仕立てのドラマでも志村けんの相手役として共演していたことを知り(2018年にNHKで放送された「志村けんin探偵佐平60歳」が昨年、再放送されていた)、なるほどもともと芸達者な俳優さんなんだなと得心がいったのである。

そういうつもりで観ていくと、伊藤沙莉はいくつものテレビCMに登場する売れっ子の俳優なのだということも、わかってきた。しかも最近は、岩井勇気と伊藤沙莉が夫婦役を演じるCMがあることにも気づき、この二人を夫婦にするというキャスティングは、2年ほど前のETV特集がきっかけなのだろうかと勝手に思ったりした。それほどあのETV特集は、地味な内容ながらも岩井勇気と伊藤沙莉の二人を僕の記憶の中に深く刻んでいたのであった。

僕はそれまでずっとハライチの漫才を、テレビではいつもぼんやりと見ていた。向かって左側の人が無表情で「○○の○○」と言ったことに対して、向かって右側にいる澤部(この「澤部」という名前だけは認識していた)が、大声を張り上げて必死にボケまくるという漫才のスタイルを、なんとなく認識していた、という程度である。しかしそのETV特集を見て以降、左側で無表情で「○○の○○」という珍奇な言葉を繰り出していた澤部の相方を認識するようになり、その漫才が俄然面白いと感じるようになったから不思議である。

そうこうしているうちに、ハライチの「澤部じゃない方」である岩井勇気がエッセイ集を出し、そのエッセイ集が評判で、しかもかなり売れたと聞いて(実は僕は未読なのだが)、僕はそこでまたETV特集のことを思い出したのであった。そうなるともう僕の中では、「澤部じゃない方」ではなく、はっきりと「岩井勇気」である。

むかしテレビで観たのだが、まだ売れてない頃の爆笑問題の太田のことを評価していた立川談志が、太田に対して「(相方の)田中を絶対に手放すなよ」と言っていたのが印象的だった。漫才のボケを担当する太田の方が世間的には面白いと思われているのだが、それは太田ひとりで成立する面白さではなく、田中がいてこその面白さだ、ということに、談志は早くから見抜いていたのだろう。

それに近いこと、というか、より本質的なことを、上岡龍太郎が言っていた。コンビはボケ担当の方が面白いと一般的には言われているけれども、相方の面白さに気づけば、その漫才コンビがよりいっそう面白いと感じるようになり、そのコンビに対する愛着がいっそう深まっていくのだ、と。そのときに例としてあげていたのは、たしか漫才コンビの「トミーズ」だったと記憶する。トミーズ雅のボケの面白さが目立つのはあたりまえだが、その横にいるトミーズ健(彼も「雅じゃない方」と言われるような地味な存在である)の面白さに気づいたときに、トミーズの漫才はそれまでとは格段の違いでいとおしく感じるようになる、という、いかにも上岡さんらしい分析である。そう言われてみれば、お笑いコンビの「バイキング」も、小峠の相方である西村の面白さに気づいたとき、僕の中で面白さのフェーズが変わったのであった。

それまで自分の中で認識していなかった人を、何かをきっかけに面白い人だと気づき、それまで見ていた世界とはまったく違う世界が立ち現れてくる、というのは、なかなか楽しいものである。

ちなみに「ハライチ」というコンビ名が、二人の出身地である埼玉県上尾市原市(ハライチ)に由来するということを、今日放送されたTBSラジオ「アシタノカレッジ 金曜日」を聴いてはじめて知った。「森三中」とか「北陽」みたいなコンビ名だったのか。

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