波打ち際のカタルシス
先日、NHK-BSPで、森谷司郎監督の映画「動乱」(1980年)が放送されていたので、録画して観た。
森谷司郎監督は、確か黒澤明監督の助監督を務めたこともあり、どちらかといえば大作志向のイメージがある。「日本沈没」(1973)、「八甲田山」(1977)、「小説吉田学校」(1983)あたりは好きな作品である。せっかくなので、この機会に、未見だった「動乱」を見てみることにしたのである。
観た感想は…、森谷作品にしては、やや凡庸な印象だった。高倉健と吉永小百合の共演ということで、ちょっとハードルが上がりすぎた感がある。言ってみれば「キャスティング落ち」なのである。
最後のエンドクレジットのところで、助監督が、先般亡くなった「澤井信一郎」だったことに、ある感慨を抱いたのだが、それ以上に印象に残ったのが、吉永小百合が一人、少し荒れている波打ち際にたたずむという映像をバックに、小椋佳のエンディングテーマ曲「流れるなら」が流れることであった。
この感じ、どこかで観たなあ、と思ったら思い出した。同じ森谷司郎監督の映画「小説吉田学校」でも、森繁久彌演じる吉田茂が、大磯の海岸の、少し荒れた波打ち際にたたずみ、そのバックに堀内孝雄のエンディング曲「少年達よ」が流れていた。構造はまったく同じではないか。
森谷司郎監督は、映画の最後に、荒れた波打ち際に主人公をたたずませて、そのバックにニューミュージックを流す、という映像手法が、ひどく気に入っていたのではないだろうか。
たしか、以前にも、大作映画や大作時代劇のエンディングをニューミュージックで煮しめることが、1980年代に流行した、みたいな話をこのブログで書いた記憶があるのだが、探しても見つからない。書いたつもりになっていたのか?
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