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あぁ!新世界

ニコルソン・ベイカーという作家の『中二階』という小説は、「極小文学」と言われている。

主人公が、会社のあるビルのロビーに入り、そこからオフィスのある中二階までエスカレーターで移動する。その、中二階までエスカレーターで移動する短い時間のあいだに、主人公が頭の中でいろいろな思いをめぐらす。その思考の過程をつぶさに追った小説で、おそらく時間にして数十秒という短かさの中で、ものすごく濃密な思考の過程が披露される。小説の中の時間の流れとしては、ギネスブック級の短さなのではないだろうか。

これを読んでいくうちに、ずっと昔に観たTVドラマのある情景が浮かんできた。

ドラマの冒頭、大きなホールの舞台の上で、オーケストラの演奏が今まさに始まろうとしている。

カメラは、一人の男性に寄っていく。シンバルを持っている男性である。

やがて演奏が始まる。シンバルを持っている男性は、じっと目を閉じている。自分の出番を待っているのだろうか。

ほどなくして、回想シーンになる。シンバルを持っている男の頭の中で、数々の思い出が浮かんでいるようである。

つまり、観客の目には、シンバルを叩く瞬間を待っている男の姿として映っているのだが、男の頭の中は、音楽のこととはまったく別のことを考えているのである。それはこの演奏会に至るまでの、過去のさまざまな体験を思い返しているのである。

…このTVドラマに対する僕の記憶は、ここで途絶えている。彼が頭の中に浮かんだ思い出がどういうものだったのか、最後にどのような終わり方をしたのか、まったく覚えていない。ドラマの最後に、自分の出番が来てシンバルを叩いて大団円を迎えたのか、そのあたりもよくわからない。

僕は折にふれてこのドラマのことを思い出すことがあった。あのドラマは、何だったのだろう?

僕が間違いなく記憶しているのは、それが「東芝日曜劇場」の中の1話だった、ということである。毎週日曜日の夜9時にTBSテレビで放送されていた1話完結のドラマで、ホームドラマのようなテイストのものが多かった。子どもの頃、このドラマ枠が好きで、よく見ていたのである。

さて、そのシンバルを持つ男は、誰だったのだろう?財津一郎だったような気がする。

ありがたいことに「テレビドラマデータベース」なるサイトが存在する。そこで検索をかけてみるほかない。

「東芝日曜劇場 財津一郎」で検索してみても、それに該当するようなドラマは存在しない。

財津一郎ではないのかもしれない、と思い、「東芝日曜劇場 オーケストラ」で検索してみたら、判明した!

東芝日曜劇場第947回、1975年2月2日放送の「あぁ!新世界」という回である。脚本は、なんと倉本聰!

そしてシンバルを持つ男は、…フランキー堺である!そうか、思い出した。たしかにフランキー堺だった!

そのテレビドラマデータベースの記載を引用すると、

「倉本聰は本作ほかの脚本により第12回ギャラクシー賞を受賞した。「札幌市民会館の大ホール。今まさにオーケストラの演奏が始まろうとしている。そのステージに、10年ぶりにシンバルを手にした男が曲中に鳴るただ一回のシンバルのため、新世界への活路をかけて座っている。その男の脳裏をよぎる想いは何か?青春の志ならず、音楽を捨てて10年。満たされぬ毎日を僻村に送っていた一人の中年男のかなさしさ、おかしさを、素朴な村人と、愛すべき妻とふれあいを通して描いていく。【TBSチャンネル広報資料より引用】」協力:厚田村。」

とある。ドラマの冒頭についての僕の記憶は、間違っていなかった。というか、数ある東芝日曜劇場のドラマの中で、この回がとりわけ記憶に残ったというのも、そのはずだ、倉本聰の脚本で、しかもギャラクシー賞を受賞した、言ってみれば神回なのである。

しかも、である。このドラマの放送年は1975年。つまり僕が小学1年生の時である。名作は、小学1年生の頭の中にも鮮烈な印象を残したのである。

ドヴォルザークの「新世界」の演奏中に、シンバルを持つ男が脳裏によぎる想いをたぐり寄せている、その描写が、『中二階』を読んでいて、なぜか甦ってきたのである。

どういう結末を迎えたのか、まったく覚えていない。あるいは当時、結末を待たずに寝てしまった可能性もある。このドラマを有料配信しているサイトもあるようだが、観てみようかどうしようか、迷っている。

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