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2021年12月

落ち着きのない人

3歳9ヵ月の娘を観察していると、飽きない。

「お笑い」の腕を、どんどん上げているような気がするのだ。

家族で食卓を囲んでいると、

「○○ちゃんはマルね、ママもマルね、パパは…バツね」

とよく言われる。なんだかよくわからないが、娘とママは「合格(マル)」で、パパは「不合格(バツ)」だというのだ。

で、最近は、

「○○ちゃんはマルね、ママもマルね」

ここまでは、それぞれを指さしながらニコニコして言うのだが、その後、急に表情が暗くなり、声のトーンを下げて、こちらを指さして、

「…パパはバツね…」

と、非常に「残念そうな顔」をして言うのである。その表情が可笑しくてたまらない。「3人目はオチ」というお笑いの鉄則を、知らず知らずのうちに修得しているのだ。

うんちがしたくなると、

「うんち!うんち!」

と親を呼びつけ、トイレに連れて行かせるのだが、

「うんちっち~♪うんちっち~♪」

という自作の歌を歌いながらトイレに向かう。すると、ふと我に返り、

「『うんちっち』って、何?」

と言う。

「知らんがな!おまえが歌ったんやないか!」

と、思わず僕が(なぜか関西弁で)ツッコミを入れてしまう。さんざん「うんちっち~♪」と歌った後の「うんちっちって何?」というボケは、計算なのか?天然なのか?

昨日は、お風呂に入るときに、娘がこんなことを言い始めた。

「チリリーン チリリーン

ちょっと、テレビ低くして!

はいもしもしキムラです。はい、はい、はい、はいはいはいはい、けっこうです、チン」

何を言い出したのかと思ったら、阿佐ヶ谷姉妹のM-1グランプリ準々決勝のときの「おばさん検定」という漫才のネタである。

しかも、電話がかかってきたという想定で妹のミホさんが電話を取って応対する、という漫才の一場面を再現したのである。これにも爆笑した。

「もう一度やって!」

と言うと、恥ずかしがっているのか、もったいつけているのか、やろうとしなかった。

しかし謎である。娘はなぜ、阿佐ヶ谷姉妹のわかりやすい歌とかではなく、このわかりにくい場面をマネしようと思ったのか?

そもそも、「チリリーン」という音が電話の呼び鈴であること自体、娘は知らないはずである。わが家には固定電話がないから、なおさらイメージしにくい。それに、うちはキムラでもない。電話で話している場面だということをわかっていてマネをしているのだろうか?すべてが謎である。

今朝、娘は起き抜けに阿佐ヶ谷姉妹の動画を見たいと言い出した。

「何が見たいの?」

「『落ち着きのない人』が見たい!」

「落ち着きのない人?」

はて、そんなネタはあっただろうか??

「細かすぎて伝わらないモノマネ」シリーズにそんなのがあったかな?と思って探してみるが、見つからない。とりあえず、サムネイルを見せながら、

「これ?」

と片っ端から聞いていくのだが、「ちが~う」と答えるばかり。思い通りの動画が見られないことにだんだんイライラがつのり、いまにも泣きそうである。

こうなったらこっちも当てずっぽうで、2020年に「オンラインやついフェス」として公開された「東京リモートコントメン」の動画を見せることにした。阿佐ヶ谷姉妹のほかに、ASH&Dコーポレーション所属の芸人「ザ・ギース」と「ラブレターズ」も、リモートコントを演じている。当然、娘もつい最近観たことのある動画だ。

すると娘は「これこれ」と言いだした。

はて、「落ち着きのない人」なんて、出てきたかな?

最初に阿佐ヶ谷姉妹のネタ、次にラブレターズのネタ、最後は、ザ・ギースのネタである。

最後のザ・ギースのネタをみていた娘は、

「落ち着きのない人!」

と言い出した。

賃貸物件を希望する客(高佐)が、オンラインで不動産屋(尾関)に問い合わせをするのだが、不動産屋のエキセントリックな言動に客が翻弄される、という内容のコントである。

娘は、不動産屋役をしているザ・ギースの尾関さんの画面を指さして、

「これこれ!落ち着きのない人」

と言ったのである。たしかに、画面の尾関さんを見ると、落ち着きのない様子をしている。

「わかるか!そんなもん!」

と思わずツッコミを入れた。阿佐ヶ谷姉妹が大好きな娘に「落ち着きのない人」って言われたら、誰だって阿佐ヶ谷姉妹のネタだと思うだろう!

ことほどさように、3歳の子どもは、謎に満ちている。

そういえば、Facebookのニュースフィードを漫然と眺めていたら、僕と同じ3歳の娘を持つお父さんの投稿があって、

「上野駅にペンギンのイラストがあって、かわいいなあと思うのですが、3歳の娘には不評でした」

というものがあった。

するとコメント欄に、

「何故不評だったのですか?私はかわいいと思いますけど」

と、その父親を詰問する感じのコメントが何件か来ていた。

父親は、困った様子で理由を想像して回答をしていたが、途中、「父親に詰問してもねえ、わざわざ理由なんて聞きます?幼い娘に」と援護射撃をした人がいて、それに対して「理由くらい、パパだもん、聞いているでしょ?」という反論のコメントが寄せられ、プチ炎上していた。

理由を聞いてもわからないことは多い。僕はその父親に、ちょっと同情した。

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阿佐ヶ谷つながり

阿佐ヶ谷を舞台にした小説を探していたら、野呂邦暢の『愛についてのデッサン』(ちくま文庫、2021年)に出会った。

野呂邦暢は、1980年に42歳で亡くなった、長崎県出身の芥川賞作家である。諫早を拠点に作家活動を続けていた。

実は20代前半の頃、野呂邦暢という作家に興味を持ち、芥川賞受賞作『草のつるぎ』をはじめとする小説を読んでみようと手に取ったのだが、短編小説であるにもかかわらず、どういうわけか、途中で挫折してしまった。

2002年に『草のつるぎ』が文庫化されたのを機に、いまいちど、野呂邦暢の小説に挑戦しようとしたのだが、やはりなぜか挫折してしまった。

自衛隊に入隊した経験をもとに書かれた小説というイメージがあり、自分とは無縁の世界と感じていたからかもしれない。

阿佐ヶ谷姉妹をきっかけに、僕が若い頃に読もうとして挫折した野呂邦暢の存在が、ふたたび僕の前にあらわれてきたのは、まことに不思議な縁である。

『愛についてのデッサン』は、阿佐ヶ谷の古書店を舞台にした連作小説である。文庫のカバーに書かれている説明書きによれば、「古本屋稼業に静かな情熱を燃やす若き店主、佐古啓介が謎めいた恋や絡み合う人間模様を、古書を通して事情を解き明かす異色の青春小説として根強い人気を誇る傑作」とある。殺人事件とか、難しい謎解きとか、推理小説というわけではないのだが、ミステリー要素の強い小説である。

阿佐ヶ谷駅北口の「佐古書店」という古本屋が舞台である。もちろん実在の古本屋ではない。しかし小説の中では、佐古書店の住所を、「杉並区阿佐谷北 一の六の五」としている。いま、この住所で検索をしてみると、阿佐ヶ谷駅北口のスーパー「西友」の裏手あたりだろうか。

それにしても、野呂邦暢は、なぜ舞台を阿佐ヶ谷に選んだのか。野呂邦暢が上京するたびに、神保町、早稲田界隈、そして中央線沿線の古本屋をめぐることを楽しみにしており、古本屋を写真にまで収めていたことは『野呂邦暢 古本屋写真集』(ちくま文庫、2021年)からもわかる。しかしなぜ、神保町でも早稲田界隈でもなく、阿佐ヶ谷なのか。『愛についてのデッサン』巻末の、岡崎武志氏の解説によると、「一九七七年阿佐ヶ谷に十一軒あった店舗のうち、営業を続けているのは「千草堂書店」のみ。消沈の激しい数十年だった。その後にできた「銀星舎」「コンコ堂」とともに中央線沿線の古本屋文化をかろうじて守っている」とある。神保町や早稲田界隈の「古本屋街」よりも、古本屋が点在する阿佐ヶ谷のほうに郷愁を感じていたのかもしれない。

『愛についてのデッサン』は、副題に「佐古啓介の旅」とあるように、若き古書店主の佐古啓介を主役にした、6篇からなる連作小説だが、これがじつにおもしろかった。連続ドラマにしたらおもしろいのではないかと思うほど、読んでいると映像が浮かんでくるのである。

巻末の解説で岡崎武志氏は、「『愛についてのデッサン』は、「火曜サスペンス劇場」のような二時間ドラマの原作になりうる」と書いているが、僕の読後感で言うと、「火曜サスペンス劇場」ほどの事件的な展開はなく、むしろNHKでむかし放送していた「ドラマ人間模様」にふさわしい原作である。

僕が好きなエピソードは、「若い砂漠」。佐古啓介は、ふとしたきっかけから、大学時代の友人だった鳴海健一郎のことを思い出す。彼は大学時代に、大学新聞に書いた懸賞小説が入賞し、批評家に賞賛される。だが鳴海は、俺の小説の価値があんな批評家たちにわかってたまるか、あんな批評家に認められるくらいなら、小説を書くのをやめる、と虚勢を張り、大学を卒業した後は放送局や芸能事務所に勤めることになる。

古書店主となった佐古はあるとき、鳴海が神戸の同人雑誌に書いた小説が批評家の目にとまっていることを知り、鳴海に会いに神戸を訪れる。鳴海は、同人雑誌に書いた小説が、今度の「A賞」(芥川賞を想定していると思われる)の候補作になるに違いないこと、そして、「A賞」の審査員の「票読み」をして、自分の小説が「A賞」を受賞することは間違いないことを、嬉々として佐古に語るのである。鳴海の虚栄心の強さを目の当たりにした佐古は、「鳴海と会うのはこれでこれで終りになりそうな気がし」て、鳴海と別れることになる。

僕も大学時代に、鳴海と似たような友人がいた。そういえばあいつ、いまはどうしているのだろう?

それはともかく、この小説を書いている時点で、実際に芥川賞を受賞している野呂邦暢は、どういう気持ちでこのエピソードを書いたのだろう。自分への戒めなのか、それとも、実際にそういう友人がいたのだろうか。いろいろな想像が広がる。

ということで僕はようやく、野呂邦暢の小説を、挫折することなく読むことができたのである。これも、阿佐ヶ谷が結んだ不思議な縁である。

これからも阿佐ヶ谷駅北口の「西友」の前を通るたびに、野呂邦暢のこと、そして「佐古書店」のことを、くり返し思い出すことになるだろう。

『愛についてのデッサン』の文庫本には、「佐古啓介の旅」シリーズのほかに、いくつかの短編小説も併載されている。その中で、「世界の終わり」という短編小説は、ビキニ環礁での核実験で第五福竜丸が被爆の被害にあった事件から発想したディストピア小説である。

野呂邦暢は少年時代、長崎に原爆が落とされた日に、諫早から長崎を遠望している。長崎市の国民学校に通っていたときの同級生のほとんどはそのときに死亡したという。あるいはそのときの体験の記憶が、この小説に影響しているのかも知れない。

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ここにもアラフィフ讃歌

年末年始は、締切が過ぎている職業的文章をいくつも書かなければならないのだが、その気力がまったくない。

表紙のデザインの美しさに惹かれて、俳優の小林聡美さんのエッセイ集『聡乃学習(サトスナワチワザヲナラウ)』(幻冬舎、2019年)を手に取った。

映画「転校生」以来の小林聡美ファンである僕は、エッセイ第1作の『ほげらばり』(1997年)が出たばかりの頃に読んだのだが、その後は、エッセイ集が何冊も出ているにもかかわらず、手に取って読んだことはない。小林聡美さんは、エッセイよりもむしろ対談や鼎談のほうがおもしろいのではないかと、一時期思っていた。

今回久しぶりにエッセイ集を手に取ったのは、最初に述べたように、表紙のデザインが美しかったのと、どうやらアラフィフの生き方について気負いなく書かれているらしい、ということが、表紙の「帯」から感じとったためである。

一読して、『ほげらばり』の頃とくらべると、エッセイの名手、とまではいかないが、ずいぶんと肩の力の抜けた心地よい文章だなと感じた。ということは、『ほげらばり』の頃は、肩に力が入っていたと、読んだ当時の僕は感じていたのだろう。

アラフィフの僕はいま、それ以前とはかなり異なる人生観を持ちつつあるのだが、であるからこそ、アラフィフの人の書いた文章がいま、最も気になっている。といっても、時間がないのであまり読む機会はないのだが。

アラフィフ讃歌とも言うべき、アラフィフの人が書いたエッセイは、当然ながら書き手によって持ち味が異なる。少ない読書体験から言うと、たとえばジェーン・スーさんは肉食派、小林聡美さんは草食派、阿佐ヶ谷姉妹は白湯(さゆ)派、である。あくまでもざっくりとした僕の分類である。

小林聡美さんのエッセイで印象に残った部分をいくつか。

「かくいう私も十分に初老だと威張っていい年齢だが、やはり、どうしても『フネ』というより『サザエさん』な気分が抜けないのが恥ずかしい。『フネ』は原作では四十八歳、アニメでは五十二歳だそうだ。まさにアラフィフ、私世代である。気分は『サザエさん』なのに、体は『フネ』。完全に統合不一致である。頭ではわかっているのに、なかなか実感がともなわない」(「初老の伸び悩み」より)

…ちょっとこれについて、最近僕が体験したことを書く。先日、韓国の国際会議にオンライン参加して、短いコメントを求められた。日本語でコメントしてよいとのことだったが、12年ほど前に1年間韓国留学をしていた身である。せめて冒頭の挨拶、文章にして2~3行分くらいは、韓国語で話そうと思い、ちょっとした挨拶文を考え、イメージトレーニングをして、「よし、大丈夫だ、これでいこう!」と、本番を迎えて、いざしゃべる段になると、まったく口が追いつかない。フガフガして、聞いている方は、何をしゃべっているかわからなかったに違いない。つまり、イメトレの自分と実際の自分が、まったく乖離していたのである。まさに「気分はサザエさん、体はフネさん」状態である。

「なににおいても若くて元気なときは多少自分を無理に矯正して、盛ったり張ったりできるけれど、シニアになったら、やっぱり自分の心地よさが一番大事。見栄えも性格も必要以上に盛らない。疲れているときは疲れていると、親切にできないときはできないと。こんな私ですけどよろしくお願いできますか、といって自分がむきだしていられる場所を見つけたら、大事にしていきたいと思うのである。そしてそんな場所が少しずつ増やせたらいいなあと思う」(「むきだしのステージへ」より)

…これも、いまの僕にはとてもよくわかる。

「そんなひとりものたちの間では、『だから老後はみんなで住もうよ』という話になることが間々ある。働きっぷりのいい人にはみんなで『お願いだから土地を買っておいてくれ』とせがみ、料理上手の人は『料理はまかせろ』なんて盛り上がったりする。そんなことができれば楽しいかも、という反面、じゃあ本当にみんな揃って田舎に引っ越せるのか、と考えると、やっぱり都会がいいとか、そっち方面の田舎は嫌だとかなかなか意見がまとまらないのではないか、という結論に達するのだ。そうなると、やっぱりひとりで田舎暮らしが一番現実的なことなのか。悲しいかな私もすっかり一人暮らしの快適さを満喫しているツワモノバブル世代だ。『みんなで住もうよ』と盛り上がっている友人たちも、きっと本当は私のようにひとり暮らしが気に入っていて、誰にも気を使わずに自分の時間を過ごすことを大事にしているに違いないのだ。とはいえ、年をかさねひとりでできることには限りがある。そんなことを実感していけばいくほど、ひとりの快適さと心細さの折り合いをどうつけるのか、いよいよ考えることになるのだろう」(「ひとりで暮らすこと」より)

…この部分、実はかなりよく練られた文章だと思う。たしか阿佐ヶ谷姉妹も、将来的にはいま住んでいるアパートを買い取って、そこに気心の知れた人たちと住む、という夢を持っていると語っていた。アラフィフになると、同時多発的にこのような生活スタイルを夢見るようになるというのが、そこはかとなくおもしろい。

若い頃のように無理に面白がらせようとしない、肩肘の張らない文章。どうってことのない日常を淡々と綴る筆致。アラフィフになってこれが獲得できたのだとしたら、アラフィフになることも悪くない、と思う。

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阿佐ヶ谷漂流記〜珍道中珍道中〜

12月27日(月)

3歳9ヵ月になる娘は、昨日から3日連続の予定で短期集中のプール講習である。今日はその2日目。

午前中、1時間半ばかり講習を受けるのだが、今日はそのほかに、午後にもう一つ、大事な予定があった。それは、阿佐ヶ谷に行く!という計画である。

すでに何度も書いているように、娘はいま、阿佐ヶ谷姉妹に夢中なのだ!NHKのドラマ「阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし」が終盤にせまった頃から、阿佐ヶ谷に行きたい、と何度も言っていたので、年末に連れて行く約束をしたのである。

問題はその日程である。日曜日に行くと混むだろうし、あまり年末に近づきすぎても混むだろう、ということで、昨日ではなく、今日と相成ったのである。

プール講習会場の最寄りの駅から、阿佐ヶ谷までは、電車でわずか数駅である。

そういえば、娘が電車に乗るというのも、じつに久しぶりではないだろうか。前回乗ったのはコロナ禍の前で、しかもベビーカーに乗って乗車したと記憶している。いまはもうベビーカーは不要である。

娘は電車のアナウンスを注意深く聞いた。

「次は~、○○、○○」

と流れてくる音声に対して、

「阿佐ヶ谷じゃな~い」

と残念がる。やがて、

「次は~、阿佐ヶ谷~、阿佐ヶ谷~」

という車内アナウンスが聞こえて、

「やったあ~!阿佐ヶ谷だ~」

と娘は小躍りした。

駅を降りて、最初に向かったのが、「gion」という喫茶店である。

プール講習を終えてお腹がペコペコの娘に、阿佐ヶ谷で何を食べさせようか?最初は、阿佐ヶ谷姉妹ファンの間で最も重要な聖地となっている中華料理屋の「朝陽」にしようかと考えたのだが、朝陽はわずかばかりのカウンター席しかなく、3歳の娘をカウンター席に座らせて、ニラ玉定食を食べさせるというのは、かなり難易度が高い。そこで考えたのが、「gion」だったのである。

阿佐ヶ谷姉妹の姉のエリコさんが「人生最高レストラン」という番組の中で、

「gionのナポリタンが美味しくて、エッセイが書けないときにこの店のナポリタンを食べて勢いづけようとしたが、それでも書けなくて失意のうちにアパートに帰ると、ミホさんが私好みの甘いカレーを作ってくれていて、その何気ない気遣いに涙が止まらなかった」

というエピソード披露していた。その意味でここも聖地の一つである。

「gion」に入ると、そこはちょっとこじゃれた、インスタ映えするようなお店だった。

窓際のテーブル席が空いていたので、そこに座ったのだが、当然のことながら、3歳の子どもに合わせた作りにはなっていないこともあり、娘はどうも、座り心地があまりよくないようである。

さっそくナポリタンを注文すると、

「できあがるまで20分程度かかりますが、それでもよろしいでしょうか」

「はぁ、大丈夫です」

ここまで来たのだから、もう引き返すわけにはいかない。

「お待ちの間、ドリンクでもいかがですか?」

「そうですか、じゃあ、バナナジュースをください」

なんとか娘を飽きさせないようにと、バナナジュースで気を紛らわせることにした。

しかし、午前中のプール講習の疲れか、娘の機嫌はだんだん悪くなる。

僕たちの席の両隣には、それぞれふたりの若い女性が、向かい合って座っていて、いろいろと話しながら食事をしている。それぞれ20代くらいだろうか。

僕が気になったのは、僕から向かって左側の席に座っていたふたりの女性。娘から見たら向かって右側の席に座っている女性である。

なにやら、2人のうちの1人が、知ったかぶりの芸術談義をもう1人にしている。もう1人に対して、

「○○の絵についてはどう思うの?」「○○って画家、知ってる?」「○○って映画、見た?」

という「上からの質問」を投げかけまくっていて、もう1人がちょっと困惑しながらもなんとか話を合わせている、という地獄のような光景が広がっている。

「ふだん絵を見る時に、どういうことを感じながら見てる?」

「どういうこと…、うーん…」

困った質問を投げかけられて、もう一人は、

(どう答えたら正解なんだろう?)

と、答えを必死で探り探りした挙げ句、

「やっぱり、きれいだなぁとか、色彩がいいなぁとか、そういうことですかね」

と恐る恐る答えた。

「私なんかの場合はぁ~、ゴッホとかゴーギャンとかが、このキャンバスの目の前に立っていたんだな、とか、画家の死後に画家の家族がこの絵に直接触れたんだな、とか、そういう、描かれた絵の背景を想像しながら見るんですよねぇ」

(知らねぇよ!)

と心の中でツッコんだ。こんな地獄絵図が延々と続くのだ。

2人はどういう関係なのだろう?2人とも年齢はほぼ同じように思えるのだが、お互いちょっと敬語気味で話している。さほど親しいようにも思われないのだが、どういういきさつで、2人でこの店に入って食事をすることになったのだろう?というかこの「マウントをとろうとする側の人」が、どうにもいけ好かないのだ。

阿佐ヶ谷姉妹の「のほほん」な関係とは対照的に、じつに緊張感のある関係である。阿佐ヶ谷で「のほほん」な体験を期待していた僕は、いきなり出鼻をくじかれた。

…と、ナポリタンが来るのを待つ間、そんなことを考えていたら、娘が、その知ったかぶりの芸術談義をしている女性のほうを指さして、

「この人、ずっと喋ってる!どうしてずっと喋ってるの?」

と言うではないか!まるでまわりの大人の本音を「王様は裸だ!」というひと言で明るみに出すような行動である。

「ダメだよ、そんなこと言っちゃ!しーっ!」

と慌てて娘の口を人差し指で押さえた。

それにしても不思議である。僕たちの両隣には、同じような女性2人組が座っていて、同じように喋っていたのである。娘はよりによって、僕がいけ好かねえと感じていた人を指さして、「この人、いつまで喋ってんの?」と口に出したのだ。子どもの観察眼を侮ってはいけない。

それはともかく。

娘はさすがにナポリタンを完食することはできず、ちょっと不機嫌なまま、お店を出ることになった。

さてそこから今度は、阿佐ヶ谷駅北口アーケード商店街を通り、聖地が並ぶ松山通り商店街を歩く。途中、阿佐ヶ谷姉妹とゆかりのある八幡煎餅でおせんべいを買いながら、めざすゴールは中華料理屋の「朝陽」である。

しかし娘の機嫌はなおらない。おそらくお昼ごはんを食べて眠くなってきたのだろう。それに加えて、おそらく自分が抱いていた阿佐ヶ谷のイメージとは、異なっていたからかもしれない。そりゃそうだ、だって、NHKドラマは名古屋放送局が制作だから、ロケ地の多くは阿佐ヶ谷ではなく、名古屋だったのだ。ドラマで見た「ハイム安澤」も、喫茶店の「いとし」も、中華料理屋の「朝来」も、現実の阿佐ヶ谷には存在しないのだ。しかしそんな説明が、3歳の娘に通じるはずもない。

途中からしきりに、

「ねえねえ、エリコさんとミホさんはどこ?エリコさんとミホさんに会いたい」

と言いだした。

「あのねえ、エリコさんとミホさんは、いま浜松町というところで、ラジオの生放送のお仕事をしているんだよ」

と説き伏せるのだが、あまり納得しない。

なんとかゴールの「朝陽」に到着して、そこからまた松山通り商店街を引き返す。その間、娘はずっとグズっている。

阿佐ヶ谷駅北口アーケード商店街まで戻ったところで、娘のグズりはピークに達した。

「エリコさんとミホさんに会いた~い!うえぇぇぇぇ~ん!」

ついに立ち止まって、顔面が崩れるほど泣き出してしまった。その泣き声は、アーケード商店街中に響き渡った。

おいおい、この商店街の人たちは、いわば阿佐ヶ谷姉妹の関係者なんだぞ!「エリコさんとミホさん」という名前を出したら、「はは~ン、この親子は、阿佐ヶ谷姉妹を目当てに阿佐ヶ谷をさまよい歩いているな」ということが、すぐにバレるじゃないか!!

結局、そのあとに訪れる予定だった、阿佐ヶ谷駅南口のパール商店街にたどり着くことはできず、そのまま阿佐ヶ谷駅から電車に乗って家に戻ったのであった。

娘は、阿佐ヶ谷を気に入ってもらえなかったのだろうか?

家に帰った娘は、録画してあるNHKのドラマを見て、今日の復習をしていた。

おそるおそる「また阿佐ヶ谷行きたい?」

と聞いたら、

「また阿佐ヶ谷に行きた~い」

と答えていたので、こんど阿佐ヶ谷に訪れるときは、プール講習みたいな疲れのたまる予定を事前に入れずに、万全の体調でのぞむことにしよう。

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誰が為に鐘は鳴る

12月26日(日)

テレビの本体HDDがいっぱいになりそうなので、以前に録画したアメリカ映画「誰が為に鐘は鳴る」(アメリカ公開1943年)を見ることにした。

1936年から1939年まで第二共和制期のスペインで起こった内戦を舞台にした映画だが、原作は、アーネスト・ヘミングウェイが1940年に刊行した長編小説である。実際の内戦から、小説化、映画化に至るまで、じつに短期間であるにもかかわらず、大作映画と呼ぶにふさわしい内容で、アメリカの底力を思い知らされる。

日本で公開されたのは、戦後の1952年である。ちなみに「風と共に去りぬ」(1939年)が日本で公開されたのも同年。戦後の占領期には、日本が反米感情を抱かぬよう、アメリカの戦争映画を日本で公開することが禁止されていたのだと、たしか大林宣彦監督がNHKの「最後の授業」という番組で語っていたと思う。1952年という年は、サンフランシスコ講和条約締結の翌年である。

印象的なのは、ラストシーンである。あの終わらせ方は、戦後の数々の映画に影響を与えたのではないだろうか。見当違いかもしれないが、「明日に向かって撃て」(アメリカ・1969年)とか、日本でいうと、「野性の証明」(監督:佐藤純彌、1978年)とか。

こうした映画の演出に関する発想の類似性が、意識的に行われているのか、それとも無意識的に行われているのかについては、興味がある。

またまた大林宣彦監督の映画に関することで恐縮だが、映画「ねらわれた学園」(1981年)で、主人公が何か喋っている背後で、ローラースケートの集団が走り回る、というシーンがある。けったいなシーンだな、と思っていたら、映画「この空の花」(2012年)でも、主人公が何か喋っている背後に一輪車の集団が走り回っているというシーンがあり、大林監督特有の演出なのかな、と思って観ていた。

あるとき、黒澤明監督がドストエフスキーの小説を映画化した「白痴」(1951年)を観ていたら、夜のスキー場みたいなところで、主人公が何か喋っている後ろで、たいまつを持ったスキーヤーの集団がスキーを滑っているシーンがあって、「これだ!」と思った。大林監督の演出の原点はこれなんじゃないか?と。

映画監督は、当然、映画が好きなので、過去の映画で観た数々のシーンが、サブリミナル効果のように脳裏に残り、それが自身の演出にも大きな影響を与えているのではないだろうか。

ここから言えることは、「過去の映画の影響なしには、いまの映画は存在しえない」という結論である。

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TBSラジオ70周年

12月24日(金)

昨年とは別の意味で、「とんだ仕事納め」だったが、実際は全然納まっておらず、重要な案件は年明けに持ち越しである。

今日は朝からTBSラジオで、70周年記念の特別番組である。

午前中は在宅で職場の会議に参加し、会議が終了したお昼に車で職場に向かう。ラジオをつけたら、特番の第2部で、ジェーン・スーさんと太田光の声が聞こえた。

あと一人、男性の声が聞こえたが、この声はひょっとしてハライチの岩井勇気ではないかな?、と思ってしばらく聴いていたら、はたして岩井勇気だった。すごくない?だって、ついちょっと前までは、岩井勇気のこと、まったく認識していなかったんだぜ。それがいまでは、声だけでわかるようになったんだから、「アシタノカレッジ 金曜日」の力は絶大である。

2時間半かけて職場に到着し、そこからまったく休みなしで次々と案件が降りかかってくる。あっという間に夜になってしまった。

帰りの車の中では、radikoのタイムフリーでTBSラジオの特番の第3部を聴いた。荻上チキさんと南部広美さんと武田砂鉄氏が司会で、TBSラジオのニュース・情報番組にゆかりのあるゲストが次々と登場した。

感慨深かったのは、「荒川強啓 デイキャッチ」の荒川強啓さんと、宮台真司氏と、青木理氏が3人で登場したときである。久しぶりに荒川強啓さんの声が聴けた。

「デイキャッチ」については、以前に「強啓ロス」というタイトルで書いたことがある。

この3人の話でおもしろかったのは、コメンテーターの二人から見た強啓さん像と、実際の強啓さんとが、まるで異なっていたことである。

宮台氏と青木氏は、「どんなにあぶない発言をしても、強啓さんがうまくまわしてくれるから、安心して好き勝手なことが言えた」と口を揃えていう。

しかし強啓さんは、「冗談じゃないですよ」という。「宮台さんはコメントの中で爆弾を投げて、ご自身のコーナーが終わると帰っちゃうからいいけど、こっちはそのあとも番組を続けなければいけないんですよ。宮台さんの過激な爆弾(発言)をどう処理していいか、いつも途方に暮れていましたよ」

それに対して二人は、「全然そんなふうにはみえませんでしたよ。いつも冷静に対応されていて…」と言っていたのだが、いやいやいや、リスナーの耳には、強啓さん、そういうときは明らかに困っていたぞ。

以前に僕はこんなことを書いた。

宮台真司の暴走に対して、さすがの強啓さんも、呆れて何も言えなくなる場面がしばしばあった。というか、宮台真司が暴走しすぎて何言ってるかわからない時の、強啓さんの困った感じ、というのがたまらなく好きだったのだ。」

今日はその答え合わせができた。やはり強啓さんは宮台氏の暴走に困っていたのだ。

そのあとも、「BATTLE TALK RADIO アクセス」とか「ニュース探求ラジオDig」だとか、夜のニュース番組を担当した論客たちがゲストに来た。その中で、個人的にちょっと苦手なタイプの人が出てきて、口調が横柄だし、いやだなあと思って聴いていた。

気がついたら、武田砂鉄氏もまったくそのゲストに絡もうとしない。ははあ~ん、ひょっとして砂鉄氏もこのゲストが苦手だな、あんまり関わりたくないような雰囲気を醸し出しているな、ということが、無言の様子から想像できた。

やはりラジオってすごいね。映像がなく、さらに無言なのにもかかわらず、その人の感情が透けてみえるのだから。

同日夜の「アシタノカレッジ 金曜日」のアフタートークで、(そのゲストが出たあとに)澤田大樹記者がゲストに出たときには、ホッとした、といったようなことを述べていた。これもまた答え合わせである。

ただ、「アクセス」をずっと聴いていた人からすれば、懐かしい声なのだろう。

僕が「BATTLE TALK RADIO アクセス」とか「ニュース探求ラジオDig」に対してまったく思い入れがないのは、ちょうどこのころ、ラジオを聴かなくなってしまったからだろう。しかも2000年から2014年までは、TBSラジオが聴けない地域で暮らしていたため、この時期のTBSラジオの番組は、ポカーンなのである。

ただ、朝の森本毅郎さんや、夕方の荒川強啓さんは、番組の一部が全国ネット化されていたから、ずーっと聴いていた、という印象がある。「話題のアンテナ 日本全国8時です」の小沢遼子さんとか荒川洋治さんとか、「デイキャッチ」内の「うわさの調査隊」とか、好きでよく聴いていたなあ。

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朝ドラ撤退宣言!

12月23日(木)

「いちばん長い日」というタイトルで書こうと思ったが、ちょっとまだ整理がつかない。

生まれて初めて、NHKの朝ドラを毎日見ている。もっともリアルタイムで観ることができないので、録画をしておいて、時間のあるときにまとめて観ている。

戦時中の岡山が舞台で、しかも「ラジオ」が重要なポイントになると聞いたので、ちょっと今の自分の仕事と関係しそうな内容だったので、観ることにしたのである。

実際に見始めると、けっこうシビアな内容で、むかしでいう「マー姉ちゃん」とか、そういうほんわかしたやりとりが行われるような内容ではなく、ちょっと心にずっしり重くのしかかるような内容である。

マー姉ちゃん、で思い出したが、先日、BSでまとめて再放送していたのをチラッと見ていたら、冒頭のクレジットに、「三宅裕司」の名前が出て来て、三宅裕司、出ていたんだ、と思って見続けても、いっこうに出てこない。どうやら一瞬だけ映る、セリフのないちょい役だったみたいで、まだ無名の新人だったのだ。最終的に、松竹映画の主演をはるコメディー俳優になるんだから、人生とはわからない。

それはともかく。

今期の朝ドラも、むかしのイメージで軽妙なやりとりを期待していたら、主人公がどんどん窮地に追い込まれていって、ちょっと心が持ってかれそうになり、15分観るだけでもグッタリしてしまう。そう思っているのは俺だけ?

たしかに脚本がすばらしいんだけど、コンディションがいいときでないと観られないというか…。いま僕は、精神的にすごく追い詰められているので、虚構の世界でも同じような気持ちにさせられるのは、勘弁してほしい、という気になってきた。いま僕が欲しているのは、何も起こらない、軽妙なやりとりのドラマなのかもしれない。なにも義務感にかられて観る必要もないのだ。もうドラマ上では時代は戦後になったし。

というわけで、残念だが、朝ドラからの撤退を宣言する。ただし、撤退の撤回もあり得る。

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ちょっとふたり暮らし

12月22日(水)

修羅場続きの仕事の、ほんの束の間の在宅勤務の日。

もうすぐ3歳9ヵ月になる娘は、ドラマの影響で、すっかり阿佐ヶ谷姉妹にハマっている。

昨晩、遅く帰ってきたら、まだ起きていて、

「いまねえ、おうたをうたっていたの」

と、あみんの「待つわ」を歌ってみせた。NHKのドラマ「阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし」で姉妹が歌っていた歌だ。それから、

「姉のエリコです。妹のミホです。阿佐ヶ谷姉妹です!」「ミホさ〜ん」「オツケーよ」

と、エリコさんの発するフレーズを完コピしていて、爆笑してしまった。

で、今日、娘と一緒にお風呂に入っていると、

「ねえねえ、早く阿佐ヶ谷に行きた〜い」

と言い出した。年末の休みになったら、阿佐ヶ谷に連れていくと娘と約束をしていたのだ。

「早く阿佐ヶ谷に行きたいねえ」

「〇〇ちゃん、阿佐ヶ谷にずっといた〜い」

「阿佐ヶ谷にずっといたいの?」

「だってぇ、〇〇ちゃん、エリコさんとふたりで暮らしたいんだもん」

「エリコさんと暮らしたいの?」

「うん」

「じゃあミホさんはどうするの?」

「ミホさんはひとりがいいんでしょ?でもエリコさんはふたりがいいって言ってたから、〇〇ちゃんがエリコさんといっしょに暮らす!」

なんと!ドラマの内容をよく理解していたことに驚いた。

「〇〇ちゃんがエリコさんと暮らしたら、パパとママはふたりで暮らしてね」

まことによく喋る娘である。こんな3歳児がいることをエリコさんに伝えたら、涙もろいエリコさんは、きっと泣くだろうな。

NHKのドラマ「阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし」が最終回を迎えた。

僕にとって感慨深いことといえば、アパートの大家さん役で出演した研ナオコである。

僕はこのドラマを観て、今から40年ほど前に放送された日本テレビのドラマ「ちょっとマイウェイ」を思い出した。代官山の小さな洋食店を舞台にしたコメディタッチのドラマで、鎌田敏夫をはじめ何人かの脚本家が脚本を書いていた。

とくに事件が起こるわけでもないのだが、何気ない会話が面白く、人と人とのつながりが感じられて、大好きなドラマだった。今回のドラマ「阿佐ヶ谷姉妹〜」にも通じるテイストである。

この「ちょっとマイウェイ」には、当時売れっ子だった研ナオコも出演していた。しかもドラマの中で、洋食店を切り盛りする主人公「なつみ」(桃井かおり)と、親友の「カツ子」(研ナオコ)は、ひとつの部屋で「ふたり暮らし」をしていたのだ。明日をもわからない生活だが、お金なんかなくったって、みんなで力を合わせればなんとか生きていけるさ、というこの当時の独特の雰囲気が、ドラマ全体を覆っていた。

そして40年後、研ナオコが阿佐ヶ谷姉妹の大家さん役で出演する。僕にはそれが、「ふたり暮らし」の先輩として阿佐ヶ谷姉妹を見守っているような存在に思えてならなかった。多分、そんなことを考えてのキャスティングではないだろうし、研ナオコがそういう感慨をもって出演したわけでもないだろう。しかし「ちょっとマイウェイ」というタイトルは、いまの阿佐ヶ谷姉妹の生き方を言い表しているようにも思われて、やはり不思議な因縁を感じざるをえない。

 

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学ばない国際会議

12月21日(火)

今日も大変な一日だった。

10時からの会議はメール審議になったものの、10時半から30分ほど打合せが入り、そのあと11時から1時間ほど別の打合せ、1時間弱のお昼休みをはさんで、午後1時から職場の全体会議である。職場の全体会議では、毎回、僕が提案したり報告したりしなければならない時間があるので、気を抜くことができない。これが3時間ほど続く。

で、今日は、その会議が終わってから、すぐに韓国の国際会議にオンライン参加することになっていた。

本当は午前中から国際会議は始まっているのだが、全体会議を休むわけにはいかず、夕方からの参加になったのである。

最初に依頼されたのは、いつだったか。

「12月21日に国際会議をやりますので、登壇者のプレゼンに対してコメントをお願いします」

と言われたので、

「この日は会議なので、参加することはできませんよ。参加できたとしても、夕方です」

と答えると、

「コメントの時間は夕方ですので大丈夫です」

「大丈夫って…。登壇者のプレゼンを聴かないままコメントを言うんですか?」

「登壇者には、あらかじめペーパーを準備してもらいますから、それを読んでコメントして下さい」

…というわけで、登壇者のプレゼンを聴かないままプレゼンに対するコメントを言うという、俺史上初の無謀な挑戦を強いられることになった。

1週間ほど前から、五月雨式に登壇者のプレゼン資料が送られてくる。できあがりの早い人もいれば、遅い人もいるのである。

送られてくるペーパーは、なんと11人分!しかも中国語と韓国語ばかりである。

「えーっと、どの方に対するコメント文を書けばいいのですか?」

「とくに決まってません」

「決まってないのですか?」

「ええ。でも、韓国語のペーパーに対するコメントをお願いできればと思います」

当日のプログラムを見ると、韓国人の登壇者は、全部で4人。だが、3人分しか受け取っていない。

「あとの1人のペーパーはどうなってますか?」

「提出される気配がありません。たぶん当日までできないと思います」

あの野郎、いつもそうだ。もう絶交してやる!

「ではその人に対するコメント文は書きません」

「それでけっこうです」

というわけで、先日の土日に、別の国際会議にオンライン参加して、それを聞き流しながら、韓国語のペーパーを読んで、うーんうーんと苦しみながらなんとかコメント文を3名分書いた。全部でA4用紙3枚分の原稿である。しかも1人につき質問を2~3問用意した。これだけ書けば文句は言われないだろう。

日曜日の夜に、先方に日本語のコメント文を送信した。「書けるだけ書きました。あとは適当の処理して下さい」と。

いよいよ当日。

全体会議が終わって休む間もなく、Zoomを立ち上げた。登壇者のプレゼンは終わりかけていて、このプレゼンが終わると、短い休憩をはさんで討論の時間である。どうやら時間通りに進行しているらしい。

(なんとか間に合った…)

16時50分。予定の時間通り討論が始まった。コメンテーターは僕を含めて3人である。あとの2人のうち、1人は中国人、もう1人は韓国人。

「それでは討論を始めます」と、討論の司会者がひどく早口である。「今日のプレゼンターは12名おり、コメンテーターは3名です。時間は80分です。一つ一つのプレゼンに対してコメントや質問をして、それに答えていると、あっという間に時間が経ってしまいますので、1人に対する質問は、2分、2分でお願いします。いくつか質問があった場合も、最も核心的な質問1問だけにしてください。いいですか、2分、2分ですよ。答える方も、核心的な回答のみをお願いします」

「イーブン(2分)」という言葉と、「ヘクシムジョギン(核心的な)」という言葉が、司会者の口から何度も何度も繰り返された。討論の時間が始まったばかりだというのに、司会者はすでにかなりテンパっていた。討論時間が延びることをかなり警戒しているようだ。

討論時間80分とはいっても、いちいち中国語、韓国語、日本語に通訳しながら進めていかなくてはいけないので、実質の時間はその3分の1、約27分くらいである。それを3名のコメンテーターで割ると、ひとりのコメンテーターの持ち時間は9分。コメンテーターは4分半で質問し、登壇者は4分半で答えるという計算になる。ほとんど何も質問できないじゃん!

コメントの最初は中国人、2番目は韓国人。ここまで順調に進み、いよいよ僕の番である。

「では3番目のコメンテーターの方、登壇者の○○先生のプレゼンに対するコメントと質問をお願いします」

なんと!いきなりピンポイントで、1名に対してのみのコメントを求められた。

だったら最初から登壇者を指定してくれよ!!!こっちは案配がわかんないから、3名分のコメントを用意してきちゃったぞ!しかも1人につき3問用意したから、質問は全部で9問あったのだ。

「1問のみでお願いします」

というわけで、A4用紙3枚の原稿のうち、2枚半はまったく使うことなく、わずか半ページのみのコメントで終わってしまった。

「時間が来ましたので、討論の時間はこれで終わりにしたいと思います。みなさまお疲れさまでした!」

韓国の国際会議で、段取りをまったく聞かされないまま、ぶっつけ本番でのぞむことに、すっかり動じなくなってしまった。というか、こんなんで「国際会議」などと銘打ってしまっていいのか???

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審査員の気持ち

12月19日(日)

この週末は何をしていたかというと、土日2日間の午前中は、オンライン国際会合だった。時差の関係から、午前9時開始、午後12時終了というプログラムだった。聴くだけだったので、とくに神経を使うことがなかったが、それを聴きながら、火曜日に参加するオンライン国際会合のコメント原稿を苦しみながら作成していた。国際会合に義務として参加しながら、別の国際会合の不本意な原稿を準備しているなんて、いったい俺は何をしているのだ?

テレビで「M-1グランプリ」をやっていたので、何年ぶりかに観た。といっても、途中でお風呂に入ったりしたので、そんなに熱心に観たわけではない。個人的には、なんとなくハライチとオズワルドを応援していたのだが、優勝したのは錦鯉という僕と同年代のコンビだった。向かって左側の白いスーツを着ている長谷川さんという人が、俳優の故・高松英郎さんにそっくりで、そのことばかりが気になる。

この年齢になると、演者よりも審査員の気持ちの方を考えてしまう。ところで審査員は、上沼恵美子さんを除いてみんな男性なのだが、それってどうなのだろう?と家族で話題になった。女性の審査員だと誰がいいだろうか、としばし話し合う。ハイヒール・モモコさんとかかなあ、…あ、いい人がいた!野沢直子さんがいい!など。しかしそのほかの候補が思い浮かばない。

考えてみれば、これまでの優勝者はすべて男性であるし、ファイナルステージまで残った漫才師のほとんどが男性である。こんなことを言うと、またジェンダーかよ、と言われそうだが、そもそも、お笑いの世界は、マチズモ(男性優位主義)がはびこっているのではないかという気がしてならない。審査員の男女比は、そのまま、この国の管理職の男女比をあらわしているような気がする。

なぜなのだろう、と考えてみたのだが、お笑いの世界というのは、最初はそれだけで「食っていく」ことが難しくて、アルバイトをしながら食いつないでいかないといけない。男性はそれでもアルバイトの口があるのでやっていけるが、女性はなかなかアルバイトの口がないので、お笑いを続けることが構造的に難しいのではないだろうか、つまり、社会における性別による生きづらさの反映である、という仮説を立ててみたのだが、演劇の世界とか、講談の世界では、それなりに女性が活躍しているようにも思えるし、どうもよくわからない。

話を戻すと、演者よりも審査員の気持ちの方を考えてしまうというのは、僕自身が年を重ねて、いろいろなものをジャッジする立場になってしまったからかもしれない。俺なんかに何かをジャッジする資格があるのか?とか、どのようなコメントを言ったら、この場がまるく収まるのだろう?とか、日々そんなことを考えてしまい、いったい何が正しい判断なのか、自分が何に価値をおいているのか、よくわからなくなってしまうのである。僕が健康を損ねているのは、こういう仕事があまりにも多いからではないだろうか、と思いたくなるほど、葛藤と煩悶が続く。

「M-1グランプリ」は、知らず知らずのうちに肩に力が入って、見終わったあと、ヘトヘトになってしまったのだが、そのあと、つい流れで観てしまった「くりぃむナンタラ」というダラダラした番組が、肩の抜けた感じでおもしろかった。ちょうどM-1グランプリの直後ということで、それをパロディー化した内容だった。審査員を審査するという、いま僕が最も観たいと思う内容で、しかも審査員は、くりぃむしちゅー上田、南海キャンディーズ山里、オードリー春日、空気階段の鈴木もぐらという、絶妙のキャスティングだった。

4人の審査員は、実際の漫才を目の前で観て、それに対するコメント力を競っていたが、くりぃむしちゅー有田の相変わらずのサディスティックな司会ぶりが十分に生かされた、じつにおもしろい企画だった。しかし、笑ったあとに気づいたのは、ここでも審査員はみんな男性ばかり。それもまたパロディーなのだろうか。

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怒鳴る人

12月17日(金)

今週もよくぞ、よくぞ金曜日までたどり着きました。…ま、無事ではないんだけれども。

今週はTBSラジオ70周年記念ウィークとのことで、ちょっと僕のなかでは「TBSラジオ過多」である。とくに武田砂鉄過多。

水曜日の「アシタノカレッジ」のゲストが武田砂鉄氏。

「よく会社とかで怒鳴る人とかいるんだけど、怒鳴ることで問題が解決したことなんか一度もない」

「誰かに対して怒鳴る人は、その人とこの先どのような関係になるのかという想像力がはたらいていないんだな、と思うことにしている」

など、いちいち共感することが多い。

いつだったっけなあ。ずいぶん前に、東京駅八重洲口のマックで、列車の時間が来るまで時間をつぶしていたら、サラリーマン風の、僕と同じ年齢くらいの男性が、若いカップルに対してすげえ勢いで怒鳴っていた。若いカップルのおしゃべりがうるさいとか、携帯電話の充電をするために備え付けのコンセントを使っているとか、そういう些細なことで怒っているらしい。

「ヤカラ」みたいなおっさんではなく、見た目はごくふつうのサラリーマン風の人なのである。

若いカップルの方が無法者なのかといえば、そんな感じでもない。むしろ好感が持てる感じのカップルである。しかしなぜか、そのサラリーマン風の男性は、そのカップルたちを口汚く罵っているのである。

聞くとはなしに聞こえてくるその怒鳴り声は、近くで聞いていて不愉快きわまりないものだった。周りの人たちは、「やべー奴」といった感じで、なるべく関わらないようにしているようだ。

しかしかわいそうなのはその若いカップルである。たいして悪いことをしていないのに、ずっと罵倒され続けているのである。

だんだん僕は腹が立ってきた。

いっそ、そのサラリーマンに怒鳴ってやろうかと思ったが、ここで怒鳴ってしまったらそいつと同じ穴の狢である。

頃合いを見て、僕は椅子から立ち上がり、その男性に近づいて、耳元でささやいた。

「そのへんでやめておいたらいかがですか?もう気が済んだでしょう」

するとその男は僕をにらみつけ、

「○×△□◇▼◎※!!!」

とわけのわからない言葉を怒鳴った。そしてバツが悪くなったのか、その場から退散したのである。

僕は矛先がこっちに向くのを覚悟していたが、想像していたほどではなかった。そしてそのサラリーマン風の男性から、「怒鳴っても問題は解決しない」という定理を実践的に学んだのである。

もう一つの、「誰かに対して怒鳴る人は、その人とこの先どのような関係になるのかという想像力がはたらいていない」という定理。

これは、前回書いたように、「50歳を過ぎてから、人生の前半生は物語の「伏線」」であるというニュアンスとも近い。

いま目の前にいる人は、この先、いつまた一緒に仕事をするかわからない。その伏線かもしれないのだ。しかも、そのときにお互いの立場がどのように変化するのかも、まったくわからないのだ。

後々の「人生の伏線」になるかもしれない相手に対して、傍若無人にふるまうことがいかに無謀なことかが、わかりそうなものである。

よく「一期一会」と言うが、一生に一度しか出会わないから誠意をつくすべきだ、という意味よりも、またどこかで会ったときに(過去の)悪い印象が残らないように、誠意をつくすべきだ、という意味の方が、僕にとってはしっくりくる感じがする。

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人生の予告編

水道橋博士は、人との縁をたぐり寄せる達人である。

水道橋博士の『藝人春秋Diary』(スモール出版、2021年)を読むと、人生のあらゆるところで起こっている出来事が、まるで一つにつながっているような錯覚を受ける。一見関わりのない人との出会いも、旅先で見たふとした偶然も、すべてあらかじめ仕組まれていたのではないかという気になってしまう。

「50歳を過ぎてから、人生の前半生は物語の「伏線」。読書で例えれば「付箋」だらけだと気づいた。その回収に向かい、物語のページをめくるのが後半生だ。」(504頁)

これは僕も常日頃から感じていることである。若い頃に、一瞬出会った人とか、かつて一緒に仕事をしたことがある人と、人生の後半生になって、再会してまた一緒に仕事をする、という経験を、ここ最近何度もしてきたのである。ま、考えてみれば、長く生きていれば、必然的にそうなるのであろうけれども。

「倉敷人・前野朋哉とMEGUMI」というエピソードが好きだ。

母親の四十九日のために実家のある倉敷に帰る、その折にたまたま岡山制作のローカル番組を見た。『レシピ 私を作ったごはん』という番組である。その中で、同郷の俳優、前野朋哉とMEGUMIが、青春時代に通いつめた映画館として「千秋座」の名をあげたのをふと耳にして、たちまち10代の頃の思い出がよみがえる。

千秋座は、岡山県倉敷市に古くからあった劇場で、明治14年(1881)年に芝居小屋として開座した。そこで若き小野正芳少年は、人生初のアルバイトをすることになる。最年少だった少年は、古参の従業員たちに可愛がられ、映写室でフィルムの掛け替え作業を教わることもあった。「それは、まるで映画『ニュー・シネマ・パラダイス』のような毎日だった」と述懐する。なんとノスタルジーにあふれた文章だろう。

しかし10代の頃に見た映画は、実は本編ではなく「人生の予告編」だった。その後、自分が味わうことになるさまざまな苦楽こそが、人生の本編だったのだ。

このエピソードは、こうまとめられている。

「母親の四十九日に同郷の前野朋哉から千秋座の思い出を聞くという偶然は、55年前に倉敷でボクを作った母の「レシピ」が「一日千秋」の想いで引き寄せ、この『藝人春秋』に書かせるという必然だった」

偶然と必然の狭間で、人は生きている。いや、偶然は、必然なのかもしれない。

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アートと書いて「いいわけ」と読む

12月16日(木)

車で1時間半ほどかけて病院の定期検査に向かう。

車の中で聴いていた文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」の「大竹紳士交遊録」には、月1レギュラーのみうらじゅんさんが登場した。

近々発売される『ヌー道』という本の宣伝だったのだが、みうらじゅんさんと辛酸なめ子さんの共著ということで、いやが上にも期待が高まる。

おりしも、「ヌー銅」すなわち女性の裸の銅像彫刻は、近年の美術業界でもまじめに議論している研究テーマであり、それをみうらじゅんさんと辛酸なめ子さんの切り口でどのように語られるのかが楽しみである。

それと、みうらじゅんさんが、「アートと書いて「いいわけ」と読む」と言っていて、なるほど、うまいことをいうなあと思った。

すべてのアートがそうだというわけではないが、なかにはそのような「王様は裸だ」的なアートもあるように思う。ヌードだけに。

僕は芸術家(アーティスト)と呼ばれる友人とか知り合いはいないのだが、完全な僕の偏見として、僕の手には負えない人が多いなあという印象がある。ま、これは考えてみればあたりまえのことで、ものわかりのよいアーティストというのは、形容矛盾なのである。

以前、直接お目にかかったことのない芸術家の方からメールが来て、「ちょっとご相談したいことがあるのでお電話してもいいですか」というので、「いいですよ」と、電話に出られる時間をお伝えしたところ、その時間に本当に電話が来た。聞くと、僕の職場のイベントに興味を持ったみたいなのだが、いま旅先で、イベントを見に行けないというので、「そのイベントに関わるカタログをお送りしますよ」「いいんですか?」「ええ」「いま旅先なので、滞在先に送ってくれませんか?ただし、○日までなので、その日に間に合うように送っていただけると」「わかりました」「できれば、そのイベントを企画した人にお話を聞いてみたいです」「わかりました。紹介しますよ」

で、僕は急いでカタログを用意して、その方の旅先にお送りした。間に合ったのかどうか心配だったが、その後は何の連絡もなく、結局あれはどうなったのだろうと、気になったまま現在に至っている。

聞くとその芸術家は、自分の関心の赴くままに軽やかに旅から旅へと芸術を追い求める人のようで、僕らとは違う時間軸で生きている人なのだろう、と思った。

それからというもの、意識的に芸術家の話す言葉に耳を傾けるようになったのだが、ちょっと僕の理解を超えたところで言葉が行き交っている気がして、自分の芸術的なセンスのなさに落ち込んだものである。こういうのは、頭で理解しようとしてもダメなんだろうな。

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またしても「ひな壇芸人」

またしても愚痴が続く。

このところ、いろいろな本の企画で「その他大勢」という立場で職業的文章を書くことが多い。というか、以前からずっとそうである。

僕はそれをなかば自嘲的に「ひな壇芸人」に喩えたことがある。

もうここ最近は、立て続けにそんな依頼ばかりである。昨年だったか一昨年だったか、3つの企画が立て続けに来て、一つは最近刊行され、一つはようやく校正が出て、一つはまだ執筆途中である。

こういう企画ものは、得てして予定調和的なものなので、そのへんをわきまえて書かなければならない。つまり編者の期待を裏切らない文章を書かなければならないのである。さすがにこうした職業的文章を連続して書いていると、自分自身が飽きてしまうし、このままでいいのだろうかとも思う。

つい数日前も、また別のところからシリーズ本の企画に職業的文章を書くようにという依頼が来た。依頼してきた方が、日ごろからお世話になっている方なので、断ることができない。これで「ひな壇芸人」的文章は4つめだ。人生の貴重な残り時間を思うと、忸怩たる思いがある。

もう少し自由に書かせてくれるような場所はないだろうか。「ひな壇」ではなく「単独ライブ」をやりたいのだが、こういう「ひな壇芸人」的文章ばかり書いていると、その書きぶりに慣れてしまって、自由に書こうとしてもその呪縛から逃れることができないのではないか、という不安が頭をもたげてくる。だから自分の文章を読み返すのが怖いのである。

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ちっともめでたくない重版出来

またもや愚痴なのだが。

僕が数ページだけ書いた、黄色い表紙の新書が、何とめでたく4刷になったそうだ。累計3万部だそうだから、昨今の新書としては、異例の売り上げということなのだろう。

その都度、その報告が出版社からメールで来るのだが、それがなんとも腹立たしい!というのも、いくら売れても、僕には1円も入ってこないのだ!!だから売れれば売れるほど、僕は損した気分になるのである。

こんなことばかりだから、本を書くモチベーションが下がるのである。

で、ふつうは、重版のたびにその本が執筆者のもとに送られるはずなのだが、最初に2冊送られてきただけで、あとは全然なしのつぶてである。

僕はこの出版社とは何のゆかりもないし、もともとこの新書も部外者の立場で書いたから、思いきって出版社に聞いてみることにした。

「4刷が決定したのですね。おめでとうございます。まことに厚かましいご相談なのですが、各刷ごとの本をお送りいただくというのは、難しいでしょうか。以前に別の出版社で重版が決定した際に、その都度1冊お送りいただいた経験があったのですが、もしそのような慣習がなければ、ご放念下さい。」

一応、気を遣って書いてみた。するとすぐに出版社から返事が来た。

「執筆者の方全員に重版のたびにお送りするのは費用面でも作業面でも負担が大きく、執筆者の方への献本は初版にお送りした2冊のみでご容赦いただければ大変ありがたいです。たとえば「4刷のものを10冊買いたい」などのご要望にはお応えできるかと思いますので、ご入用の際はお申し付けください。」

つまり、「重版で儲かったけど、お前らには最初の2冊だけだよ」という意味である。

ま、これ以上つっかかると、こっちの方が器が小さいと思われそうだから、引き下がることにした。

何度でも書くが、僕はこの新書がいくら売れても、1円も入ってこないのだ。せめて現物支給だけでも…って、やはり俺は、器が小さいのか???

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注文の多いオンライン講演会

12月14日(火)

昨日の「雪中行軍」ですっかり疲れてしまい、夜遅くに帰宅したのだが、翌日の午後は、職場で定例の会議があるので車で2時間半かけて出勤する。

出勤するとさまざまな案件が降りかかり、二つの会議の合間に職場の中をまわって解決につとめる。

二つめの会議では、こみ入った規定変更を説明しなければならないので、細かいところで揚げ足をとられないように、言葉に注意しながら説明する。なんとか異論もなく終了したが、神経を使いすぎて疲れてしまった。

夕方5時。某国に向けてのオンライン講演会まで、あと2時間ある。この2時間の間に、会議の余熱をクールダウンしなければならない。

もともと、無茶なスケジュール設定だったのだ。

某国からは、「11月か12月に、講演会をお願いします」と言われたのだが、まったく気が進まないので、「ちょっと忙しいですから時間がとれるかどうかわかりません」とか何とかいいつつ、はぐらかしていた。

それからしばらくすると今度は、「午後7時以降にオンラインミーティングをしたいので、ご都合のよい日を教えて下さい」と連絡が来た。

仕方がないので、いくつか候補日をあげたところ、12月7日にオンラインミーティングをしたことは、このブログにも書いた。

その翌週も候補日としてあげておいたら、「では1週間後の14日にオンライン講演会をお願いします」、だってこの日は空いているんでしょ?とばかりに、強引に設定されてしまったのである。これって何て言うの?騙し討ち?

まあ逃げられないと思い、どうせやらなければならないのなら、イヤなことは早くすませてしまおうと、仕方がなく引き受けた。

ところがよくよく考えたらその前の数日間は地獄のような忙しさなので、日程的には空いていても、体力が持つかどうかが不安だった。

それでも先方は、容赦なく注文を付けてくる。

「○日までに講演内容の資料をお願いします。事前に翻訳しなければならないので、早めに出して下さい」

「講演時間はどれくらいですか?」

「通訳を含めて2時間くらいです」

「2時間!?」

長いな、というニュアンスを先方も感じとったのか、「ま、1時間半から2時間の間くらいです」と訂正した。

必死に講演原稿を作り、提出した際に、「当日はこの原稿を手元で見てもらいながら、パワーポイントで画面共有しながらお話しするつもりです」と連絡した。

すると講演の前日の夜になって、

「すみません。できましたらパワーポイントのデータもお送り下さい。通訳をする先生は、日本語に自信がないとおっしゃっているので、できるだけ事前にどのような資料を用いるのかを知りたいと不安がっておられます。遅くとも講演の3時間前までに送って下さい」

と連絡が来た。パワポなんて、講演の直前まで試行錯誤しながら作ることが僕の流儀だったのだが、早めによこせというのだから仕方がない。僕は「雪中行軍」から帰った晩、夜なべしてパワポを完成させて先方に送った。

まったく、どんどんと注文が増えてくる。

さて、話を戻すと、会議が終わった5時からの2時間は、7時からの講演会の最終準備のほか、ほかの仕事のための準備に追われていた。

そしていよいよ午後7時。

その3分前に、教えられたミーティングIDとパスコードでZoomに入室すると、僕の画面と、ホストの画面の2画面しか映っていない。

ホストの画面では、慌てふためいた姿が映っている。

「ちょっと問題が起こりまして…」

「どうしたんですか?」

「先生には、日本時間で午後7時から講演を開始するとくり返しお伝えしたかと思いますが」

「ええ、そう聞きました」

「実は当方の連絡ミスで、こちらの学生には、こちらの国の時間の午後7時から開始すると伝えてしまっておりまして…」

「ええぇぇっ!!」

こちらと向こうでは時差が1時間ある。向こうの午後7時ということは、こちらの午後8時である。午後8時から最大で2時間、講演をするとなると、午後10時になり、それから帰宅するとなると、家に着くのは午前0時近くになるのだ。

しかしそんなことは、先方が知ったことではない。もともと、そんな事情はおかまいなしに依頼してきているのだ。

「いま、何とか7時半から始められないか、急いで対応しています。30分後にもう一度入室いただけますか?」

「わかりました」

もう怒っていいレベルなんじゃないか?という気がしてきた。

7時半にもう一度Zoomに入室すると、すでに多くの学生が入室していた。

「先生、もう一つ問題が…」

「今度は何ですか!?」

「この講演会のホストである、プロジェクトリーダーの先生が、急に党の会議に呼ばれまして、終わり次第戻るそうです」

党の会議?…ま、僕の講演会よりも、当然そっちの方が優先されるべきなのだろう。

いよいよ講演会が始まった。

僕の腹づもりでは、7時半から始まって、9時くらいに終わるつもりで話し始めた。1時間半~2時間くらいと言われていたので、最短時間で終わろうともくろんだのである。とにかく早く帰りたいのだ。

しかし話し始めると、どんどん時間が経ち、目標としていた9時に近づいてきた。

「あ、だんだん時間がなくなってきたので、少し先を急ぎます」

と言ったところ、向こうにいる日本人スタッフからチャットが来た。

「こちらは何時まででもかまいませんので、どうか思う存分お話し下さい」

いやいやいやいや!!そっちはそれでかまわなくとも、こっちはそんなわけにはいかないんだよ!

結局、9時半過ぎに講演会が終わった。今回もやはり、打てど響かない講演会だった。早くクビにしてくんないかなぁ。

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雪中行軍

12月13日(月)

朝起きると、雪が降っているのがホテルの窓から見えた。そういえば、今日は北日本を中心に荒れ模様になると、ニュースで言っていた。

ホテルから在来線で2駅乗った場所が、今回の用務先である。駅を降りると、雪がかなりの本降りである。

「建物までは駅から歩いて10分ていどですので、歩いておいでいただけますが、もし必要ならば、駅までお迎えにまいります」

と、事前のメールをいただいていた。どうしようかなあと考えたあげく、「荷物が重いと思うので、可能であれば迎えに来て下さい」とあらかじめ連絡しておいてよかった。仮に「歩いてうかがいます」などとうっかり答えたら、大雪の中を重い荷物を持って歩かなければならなかっただろう。

今回は、二人の方と再会した。

一人は、私より年上のAさん。僕は記憶になかったのだが、「前の前の職場」にいたとき、本務でAさんの職場に訪れたことがあり、そのときに挨拶を交わしたという。ということは、20年近くまえのことだな。

もう一人は、私より年下のBさん。僕が「前の前の職場」に赴任する前に、あるところで1年ほど一緒に学んだ方である。1998年くらいだったろうか。やはり20年以上前のことだ。

つまり僕は、ほぼ20年ぶりに再会したお二人と、一緒に仕事をすることになったのである。

以前にお会いした人と、さまざまな縁があって20年ぶりに再会して一緒にお仕事をする、というのは、人生、まったく無駄がない。大林宣彦監督は、映画づくりの場で俳優と再会することを無上の喜びとしていたが、それに近い感慨がある。

Bさんは、20数年前の雰囲気を、そのままとどめていた。

「現場にご案内します」と、昼食後にBさんが言った。

(現場って、大雪じゃんかよ…)

と、内心思ったが、むしろ大雪の現場がどんな感じなのかを、見てみたかった。

お昼過ぎになると、雪があっという間に積もり、あたりは一面、白銀の世界である。

右を向いても左を向いても真っ白な世界のなかを、Bさんについて歩いて行くのだが、マスクをしながら歩いているせいで、眼鏡が曇って前が見えない。前をどんどん進んでいくBさんの姿がぼんやりと見える程度である。

(こりゃあ、勘で歩くしかないな…)

積雪を踏みしめながら、歩いていると、

ズボッ!!

と、落とし穴みたいなところにハマってしまった。

(なんじゃこりゃ!)

足下を見ると、どうやら小さな溝にハマってしまったらしい。

(アブねえ)

慎重に歩くことにする。

前を歩いていたBさんがようやく立ち止まった。

「ここです」

(ここ…って、真っ白で何も見えない…)

Bさんは、あそこがああで、こちらがこうで、と熱心に説明してくれているのだが、真っ白で何も見えないし、なにより雪がガンガン降っているので、そっちの方が気になっちゃって、内容が頭に入ってこないのだ。

それでも愚直に説明するBさんは、20年以上前の姿そのものだった。

現場検証は30分ほどで終わり、雪の中を歩いて、溝に注意しつつ、建物に戻った。

わずか1日の滞在だったが、AさんやBさんの丁寧なアテンドや、さまざまな意見交換のおかげで、とても充実した1日になった。

「またうかがいます」

「今度は雪のないときにどうぞ」

来月も行くつもりでいるが、また大雪になるかもしれない。

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自虐ではなく、讃歌

12月12日(日)

さて、今日から24日までの約2週間は、怒濤の日々である。

手始めの今日は、午前中に2時間半のオンライン会議を行った。僕が責任者となって行う、約1年後に控えたイベントに関する会議である。当然、僕が会議の司会進行役なので、2時間半の間、まったく気が抜けない。

(とうとう始まったか…。あともどりはできないな…)

すでに頭を使いすぎてグッタリ疲れてしまった。

午後、というか夕方は、自宅を出て、新幹線で2時間以上かかる北の町に出張である。午前中の会議の件とはまったく別の仕事なので、頭を切り替えなければならない。この「頭を切り替える」という作業が、なかなか大変である。クールダウンが必要なのだが、なかなかその時間がとれない。強いていえば、新幹線の中が、クールダウンの時間である。

新幹線の中でちらほら考えたこと。

NHKのドラマ「阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし」の影響もあって、家ではすっかり阿佐ヶ谷姉妹づいている。3歳8ヵ月になる娘は、もうすっかり阿佐ヶ谷姉妹の虜になり、「阿佐ヶ谷に行きたい」と言い出した。24日まではまったく時間がとれないので、年末に阿佐ヶ谷に連れて行く約束をした。もちろん北口。

数年前まで僕は、阿佐ヶ谷姉妹の二人の区別がつかなかった。

ドラマの「のほほんふたり暮らし」第5回では、姉のエリコさんが、コンビではなくピン(一人)で仕事をする機会が増えたエピソードを紹介している。僕はその場面を観て、

(そういえば何年か前、エリコさんがピンで仕事をしていたな…)

と思って、思い出したのが、当時深夜に放送されていた、「かりそめ天国」というバラエティー番組だった。

2017年頃だったと思う。その番組の中で、駆け出しの芸人がいろいろなことに挑戦するというコーナーがあったのだが、僕が強烈に覚えているのが、「阿佐ヶ谷姉妹のうちの一人が、まる一日、フランス料理のフルコースを食べ続ける」という企画だった。

なるほど、あのときはたしかにエリコさんがピンで仕事をしていたなぁ。ドラマで描いていたのはこういうことだったのだな、と思っていたら、それがとんでもない間違いであることがわかった。

調べてみると、まる一日フランス料理をフルコースを食べ続けるという企画に挑戦していたのは、姉のエリコさんの方ではなく、妹のミホさんの方だったのだ!

…と、ここまで、阿佐ヶ谷姉妹にさほど興味のない人が読んだら、「そんなことどっちでもいいじゃん!」と思うかもしれないが、さにあらず。ここが重要なのである。

僕はその番組を観ていたとき、そのロケをあまりにそつなくこなしていたから、後になってだんだんわかってきた二人のキャラクターの違いから、てっきり姉のエリコさんの方だと、僕の中の記憶が上書きされていたのである。エリコさんがピンで活動していた時期は、その番組よりももっと古く、2012~2013年頃だったそうだ。

つまり何が言いたいかというと、当時はそれほど、僕の中で二人の見分けがつかなかったのである。

二人の見分けがつくようになったのは、阿佐ヶ谷姉妹が2020年の春から文化放送の「大竹まこと ゴールデンラジオ」の月曜パートナーになった頃からである。

いや、正確に言えば、最初はラジオを聴いてもあまり区別がつかなかった。転換点となったのは、2020年6月、阿佐ヶ谷姉妹がよく通う「朝陽」という中華料理屋さんのエアコンが壊れて、修理をどうしようか、ということを2週にわたってオープニングトークで姉のエリコさんが話したときである。何ということのない話なのだが、エリコさんの話し方がまるで落語を聞いているようで、思わず聴き入ってしまった。このときから僕は、阿佐ヶ谷姉妹の二人の個性、というものを、はっきりと認識するようになったのである。

二人の個性を認識するようになってから、阿佐ヶ谷姉妹の真の面白さに気づいた、と、こういうわけである。

いまや阿佐ヶ谷姉妹の漫才やコントの「おばさんネタ」は、安定した面白さを誇っている。しかしそれは、決して自虐ではない。おばさんに対する肯定であり、讃歌なのだ。その点がいま、阿佐ヶ谷姉妹が支持されている最大の理由なのではないかと思うのだが、いかがだろう。

この国の社会では、長らく「おばさん」という言葉に、揶揄や侮蔑的な意味合いが込められていたのではないかと思う。しかしその意識を根本から変えてしまう可能性を、阿佐ヶ谷姉妹は持っている。同じくジェーン・スーと堀井美香アナのコンビも、ポッドキャスト番組「OVER THE SUN」の中で意識改革をうながしている。両者はまったく異なるアプローチの仕方だが、同じ高みへと向かっている気がしてならないのである。

そういえば、武田砂鉄氏は、「のほほんふたり暮らし」のドラマ評として、こんなことを書いていた。

「これから、世界に平和が訪れる可能性ってかなりわずかだと思うのが、わずかだけ残っているとしたら、「その人(たち)がそう思ってるならそういうことでいいじゃないか」と思える場面をいかに増やせるかだ」(「ワダアキ考 テレビの中のわだかまり」2021年11月24日)

阿佐ヶ谷姉妹の生き方に世界平和の可能性を見いだす武田砂鉄氏。それになぞらえて僕もちょっと大げさな言い方をするならば、阿佐ヶ谷姉妹の生き方は、究極のSDGsなのではないか、と思う。もっとも、SDGsの意味はよく知らないんだけれども。

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ラジオコントの復権

12月10日(金)

本日も、「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまで無事にたどり着いた。アフタートークを聴いたあとにこのブログを書くのが、1週間で至福の時間である。

昨日は都内某所で、6時間ノンストップの打合せがあった。約1年後に開催する、僕が代表をつとめるイベントについての打合せである。失敗して恥をかきたくないから、いまからいろいろと勉強しなくてはならない。

今日は僕がホスト役の責任の重い会議。揉めたらどうしようと気に病んでいたが、とくに揉めることなく原案で承認された。

「これでようやく年が越せますね」

と、この間、一緒にがんばってきた職員が言ってくれたが、まだまだ!僕にとっては明後日の日曜日から24日までの2週間が、本当の正念場なのだ。それについてはまたおいおいと書く。

ここ数日、ラジオコントについて考えている。

中学生の頃YMOのファンだった僕は、スネークマンショーの存在を知り、「音声だけのコント」に魅了された。それが「音声コント」との初めての出会いである。次に出会ったのは、SET(スーパー・エキセントリック・シアター)。「高橋幸宏のオールナイトニッポン」の中で「SET劇場」というコーナーがあり、三宅裕司率いる劇団によるラジオコントが毎週の楽しみだった。やがてSETはYMOの最後のアルバム『サーヴィス』で、曲と曲の間のコントを担当した。かつてスネークマンショーがYMOのアルバム『増殖』で、曲間に音声コントを演じていたごとくである。SETはその後、単独でギャグ主体にしたアルバム『ニッポノミクス』を発売したが、これが伝説の名盤だった。長らく廃盤だったが、最近、復刻されたらしい。

スネークマンショーはどちらかといえば毒味のあるシュールな音声コントという印象だったが、SETは、もっと大衆にわかりやすい音声コントをめざしていたように思う。いずれも、音質のクオリティーが高く、音声だけで笑わせることをとことん追求したコントユニットだった。

その後、ラジオコントとか音声コントに、トンと縁がなくなった。つまり僕は、10代以降、30年以上もラジオでコントを聴く機会がなかったのである。

ところがあるとき、僕がシティーボーイズのファンであることを知っている後輩から、「東京03ときたろうさんがコラボしたコントがとても面白いかったから、絶対に聴いてみて下さい」というメッセージが届いた。僕はぜんぜん知らなかったのだが、東京03というトリオのコント師が、NHKのラジオ番組「東京03の好きにさせるかッ」の中で、いろいろな人とユニットを組んでラジオコントをしているらしい。

僕は当然聞き逃していたので、そのとき初めて「らじる★らじる」という、民放でいうところの「radiko」のような聞き逃し配信アプリをインストールをして聴いてみたのだった。

そしたら、このコントが面白かったのだ。僕はこれを聴いているうちに、シティーボーイズの「夏への無意識」というコントライブを思い出した。会社をリストラされたサラリーマン3人が、公園で会社ごっこをしているうちに、どんどん公園に「社員」が集まってきて、あたかも本当の会社のようになってしまう、といった内容だったと思う。

東京03ときたろうさんのコントが、いかにもシティーボーイズっぽい世界観だなあと思っていたら、コントを作ったのはラブレターズの塚本氏という人で、シティーボーイズと同じ事務所のコント師だった。なるほど、シティーボーイズの血を受け継いでいるのねと、妙に納得したのである。

それからしばらくして、職場の同僚と立ち話の雑談をしていたとき、ふとラジオの話題になった。僕の趣味がラジオを聴くことであることは、職場で公言していたし、その同僚もラジオ好きらしかった。

「先日、あれがすごく面白かったんですよ。NHKのラジオでやってる『東京03の好きにさせるかッ』という番組で、東京03ときたろうさんがコントをやっていた回があって…」

「あれ、聴いてたんですか?」僕はビックリした。

「ええ」

「あれ、面白かったですよねえ」

「レジェンド級ですよ」

僕がシティーボーイズのファンであることを知らないその同僚が、なぜ唐突にそのときのラジオコントの話題を出したのかはよく覚えていないのだが、ピンポイントでその回の話題を出したのは、やはりよっぽど面白かったのである。

ただ、その後は忙しくてまったく聴かなくなってしまったのだが、つい最近、どうやらシティーボーイズと同じ事務所の阿佐ヶ谷姉妹も出演したらしいと聞いた。だがそれを知ったときはすでに放送が終わっていて、聞き逃し配信も聞き逃してしまった。

諦めていたら、偶然その回が動画サイトにあがっていて、聴いてみたら、やはり面白い!ラジオコントっていいなあ、と思わせてくれた時間だった。で、これもまた、台本を書いたのはラブレターズ塚本氏。

ラジオコントが面白くなるかどうかは、音質のクオリティーがよいかどうかにかかっている、というのが僕の持論である。漫才のように、ふたりが同じトーンで喋るのではなく、少し離れた場所で喋っている人がいたら、自然と声は遠くに聞こえるようにしなければならない。つまり距離感や空気感にこだわらないと、ラジオコントは面白くないのである。そしてその距離感や空気感をうまく使って想像力をかき立てる台本が、よい台本である。ラブレターズ塚本氏の台本は、そのツボを押さえていたので、面白かったのだ。

自分たちが演じるコントの台本を自分たちで書くよりも、ひょっとしたら、自分が考えたコントを他人に演じてもらう方が、面白いのかもしれない。やはり、世の中にコント作家というのは必要なのだ。

それに加えて、天下のNHKがこれを放送していることも重要である。音響や音質にことさらにこだわる放送局だからこそ、ラジオコントに最も向いているとも言える。最もクオリティーの高い音質で聴くと、ラジオコントはさらに面白くなる。

ラジオコントの傑作選をCD化してくれないかなあ。

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打てど響かぬオンライン会合

12月7日(火)

我ながら、よく働くねえ。

朝6時前に起床。6時半に家を出て、9時半からの会議に間に合うように職場に向かう。火曜日は会議日で、とくに第1週は僕が仕切る会議があるのだ。

会議が炎上しないように、事前に周到な準備をする。

僕は会議の時間を、1時間半以内が理想と決めていて、せいぜい延びても2時間は越えないことを目標にしている。

長いなあ、と思うでしょう?そもそもうちの職場は、会議が長いのだ。

今日は会議が一斉に行われる日なのだが、他の部署では会議が午後1時から午後5時まで、4時間もかかったというところもあった。

「気が触れそうになりましたよ」

と、その会議に参加した人が、言っていた。

「どこの会議も長いんですかね?」

「いえ、僕が仕切る会議はいつも1時間半以内をめざしてますよ」

「1時間半ですか。僕が参加した会議は、4時間のうち1時間半は一人の人が喋ってましたから」

どんな会議だったんだ?

さて、自分が仕切る会議が午前中で終わり、お昼休みの後は、別の打合せである。

こちらは、約1年後に僕が代表をつとめるイベントに関する打合せである。コロナを理由にいままでサボっていたが、もうすぐ1年前を迎えるということで、ついにお尻に火がついていろいろと準備をしなければならなくなった。こちらも、僕が責任者なので、手を抜くわけにはいかない。

午後の打合せは、1時間半程度で終わり、その後、夕方にちょっとした作業をした。

ふつうはこれで終わりなのだが、というかもうこの時点でヘトヘトなんだが、さらに夜7時から、某国のプロジェクトに関するオンラインミーティングをすることになっていた。

もともと引き受けたのが間違いだったのだが、いまさら降りるわけにはいかない。自分だけならば自分が恥をかけばすむ話なのだが、いろいろな人を巻き込んでしまった負い目もある。しかもこのプロジェクトでも班長みたいなことをやらされているので、よけいに重圧がのしかかる。

…というかさー。みんな、何で俺みたいなぼんくらに期待してるわけ???俺なんか何もできない人間なのだ!!!リーダーとか責任者とか代表者に、いっちばん向いていない性格だぞ!

気が重いままに、オンラインミーティングに参加した。

以前もひどい会合だったと書いたが、今回は、少人数の打合せ、正確には、某国側のプロジェクトリーダーが一人、通訳がふたり、そして僕の4人といった構成なので、今度は腹を割って話せるかなと少しは期待していたのだが、それがまったくの間違いだと気づいたのは、オンラインミーティングがはじまってからほどなくしてのことだった。

通訳がふたりもいるのに、僕のいいたいことが、なにひとつ伝わらないのだ。

通訳の力量もちょっとアレだな、と思ったのだが、それはまあ仕方がない。有能なプロジェクトリーダーならば、多少の通訳の不備も、自分の頭の中で補った上で理解してくれるものなのではないかと思うのだが、どうやらそうではないらしい。

まったく手応えのない反応ばかり返ってくるのだ。

こっちは忙しい身体をやりくりして参加しているのに、どういうこっちゃ!と言いたいところなのだが、それを言うと国際問題になりかねないので、グッとこらえた。ああ引き受けなければよかった。

それで思い出したのだが、ちょっと前にテレビを観ていたら、ブラックジャックみたいな髪型をした、どっかの大学の医学部の先生が、密着取材とやらで情報番組に出演していた。

そのブラックジャックみたいな医学部の先生は、どうやら現代のオピニオンリーダーらしくて、そのときのテレビ番組によれば、「いま200くらいのプロジェクトを掛け持ちして、それをすべてこなしている」みたいな紹介のされ方をしていて、ひどく驚いた。

いくら何でも、200くらいのプロジェクトを掛け持ちするなんて、ありえない!!!

そんなこといったら、僕だっていま、20くらいのプロジェクトを掛け持ちしているぞ!!!でもぜんぜんこなせていない。そのプロジェクトひとつひとつに関して、1つでもいいから成果を出さなければいけないのだが、苦労して苦労して、1つずつ成果を出すだけでも精一杯である。

だいたい今日1日だけで、3つのプロジェクトを掛け持ちして1日が潰れたのである。朝6時半に家を出て、夜11時半に帰宅したのだ。こんなことをやっていたら、いい仕事なんてできるはずはない。

あ~、また愚痴になってしまった。「オンライン会合」というカテゴリーが作れそうだな。

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ピアノ教室体験入学

12月4日(土)

12月第1週の週末恒例の、「業界人祭り」は、昨年は完全オンライン開催だったが、今年はハイブリッド形式で行うという。当然僕は、オンライン参加を申し込んだ。

初日であるこの日は、疲れていたこともあり、休むつもりでいたのだが、休むことにしたもう一つの理由は、午後にピアノ教室の体験入学があったからである。と言っても、僕ではなく、3歳8か月になる娘の、である。

ピアノ教室は、自宅からちょっと離れた、この界隈で随一の繁華街にある。バスで行くこともできるのだが、1時間に1本なので、自転車で行くことにした。娘は妻の自転車の後ろに乗り、僕は、この町に引っ越してから1度も乗っていない、もう1台の自転車に乗った。

僕は実に久しぶりに自転車、いわゆる「ママチャリ」に乗ったのだが、久しぶりに乗る自転車は錆だらけで、タイヤの空気もすっかり抜けている。

まずはタイヤの空気を入れなければならない。

自宅から一番近い自転車屋さんに行く。むかしからある小さな自転車屋さんである。

店先にある空気入れをお借りして、タイヤに空気を入れたのだが、空気を入れ終わった後も、「シー」という、空気が漏れているような音がしている。

(ひょっとしたらパンクかな?)

と思い、お店の扉を開けて、

「すみませ~ん」

と声をかけたのだが、お店には誰もいないようである。

(不在なのかな?ま、いいか)

と思って、立ち去ろうとしたところ、

「どうしました?」

と、お店の主人が中から出てきた。この道50年、といった感じの白髪のおじいさんである。

「あのう、いま店先の空気入れをお借りしてタイヤに空気を入れたんですけれど、『シー』という音がして、空気が漏れているんじゃないかと思うんです」

「どれどれ、拝見」

店の主人はタイヤから出る「シー」という音を聞くと、

「パンクじゃないね。バルブから漏れてるんだよ」

と言った。

「ここ数年、夏が暑かったでしょう」

「夏が暑いことが関係あるんですか?」

店の主人は、タイヤのバルブをはずして、僕に見せた。

「ほら、この部分。黒いゴムの部分が溶けているでしょう?」

「そうですね」

「夏の暑さでこのゴムが溶けちゃうでしょう。そうするとそこから空気が漏れちゃうんだ」

「なるほど」

「交換しましょう」

そういうと、店先にあるレターケースのようなところから、ゴムを取り出し、バルブに装着した。

「これで大丈夫。最近は夏が暑いから、2年に1回くらいは交換しないとね」

「そうなんですか。ありがとうございます」

僕は400円を払って、ふたたびピアノ教室へ向かって出発した。

久しぶりに自転車のペダルをこぐと、思いのほか足が疲れる。以前だったら何でもない距離なのだが、いまは、途中で引き返そうかと思うくらい、心が折れそうになる。娘を乗せた妻の自転車との距離が、どんどん離れていく。脚力というか、体力が相当に落ちていることを実感した。

やっとの思いでピアノ教室に着いた。

娘は、自宅ではわがままし放題で、大声で歌を歌うくせに、初対面の人の前に出ると、借りてきた猫のようにおとなしくなる。ま、僕も子どもの頃からそうだったのだが。

だが、次第に娘も心を開いていく。ピアノの先生には、娘の好きな歌をあらかじめ知らせていたので、先生はディズニー映画の「アナと雪の女王」の「Let It Go(ありのままで)」の楽譜を準備していた。先生が伴奏を演奏すると、娘はそれに合わせてフル尺で歌いきった。

30分のレッスンだったが、ピアノの先生の教え方がとても上手で、娘も楽しげにピアノに触っていた。はじまって30分で、「ドレミ」の3つの音階を弾けるようになったのは、飲み込みが早いんじゃないだろうか。僕らは即座に入会を決めたのだった。

自宅までの帰り道もまた自転車である。いよいよ体力がきつい。娘のピアノレッスンよりも、僕の自転車リハビリのほうが深刻である。

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贋作・アベノマスク論

12月3日(金)

午前10時から午後5時過ぎまで、職場で途切れなく打合せが続く。その後も、メールの返事やら校正やらをしていたら、帰宅がすっかり遅くなってしまった。

TBSラジオ「アシタノカレッジ 金曜日」をアフタートークまで聴いた後に、誰にも読んでもらえないブログを書くことが、週の終わりのストレス解消法である。

それを自分でよしとしているのだが、その一方で、これだけ長々と書いても誰にも読まれないということに対して、凹まないといえば嘘になる。自分には文才がないのか、華がないのか、あるいはそのどちらともなのか。注目に値しない文章ばかり書いているのだろう。

「世の中でいちばんいい言葉は『重版』って言葉ですよね」

と、「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークの冒頭で、武田砂鉄氏がつぶやいた。

たしかにそうだ。重版。いい言葉だ。

最近僕は、二つの新書に関わった。関わった、といっても、原稿を書いたのはほんの少しだけで、そのうちの1冊(赤い表紙のほう)は、無記名である。どこからどこまでを僕が書いたのかは、読者にはわからない。もう1冊(黄色い表紙のほう)は、記名だが、頼まれてほんの数ページ書いただけである。

この二つの新書が、いずれも発売と同時に、重版がかかったのである。無記名で書いた方(赤い表紙のほう)は、発売前から話題になっていたので宜なるかなと思うのだが、もう1冊の方(黄色い表紙のほう)まで、発売直後に重版になるとは思わなかった。サブタイトルに「眠れなくなるほど面白い」みたいなフレーズが使われているので、おいおい、大きく出たな、と恥ずかしかったのだが、重版がかかったということは、タイトル負けしなかった、ということである。

しかも、僕が無記名で書いた方(赤い表紙のほう)の出版社の新書(赤い表紙の新書)の売れ行きランキングを調べてみたら、1位が僕が無記名で書いた本で、2位が町山智浩さんの書いた本なのだ。おいおい、町山さんに勝っちゃったよ!

ちなみに2冊とも、僕のところには原稿料や印税が入らないので、実のところ、「重版」と聞いても、さほど嬉しくはないのだ。

それに引き換え、である。

僕が単独で書いた本はすべて、重版になったことはない。このブログと同じく、まったく注目されないのだ。死んでから注目されるのだろうか、と一縷の望みをつないでいるのだが、そもそも生きている間に注目されなかった人間なのだから、死んでからも注目されることはないだろう。

いくつかの出版社から、お話はいただいているのだが、そんなわけで、単行本を書く意欲がすっかり削がれてしまっている。どうせ何を書いても売れないんだろう、と。

以前にも書いたかと思うが、あるとき、僕が書いた本の在庫が場所をとって倉庫代がかかるので400冊を廃棄処分します、という連絡があった。世の中でいちばんイヤな言葉は、「在庫本の廃棄処分」である。

僕がどうして、こんな愚痴を延々と書いているかというと、最近のニュースで、久しぶりに「アベノマスク」が脚光を浴びているからである。

ニュースによると、新型コロナウイルス対策で政府が調達した「アベノマスク」を含む8000万枚余の布マスクが使われずに大量に備蓄されている、ということで、厚生労働省が新聞などの取材に応じてマスクが保管されている倉庫を公開したところ、約5200平方メートルの区画内に、マスクの入った約10万箱の段ボールが、最高で約5メートルの高さに積み上げられていたという。そしてその経費は、6億円だというのだ。

これから先も使うあてのない布製の「アベノマスク」の在庫8000万枚が、6億円をかけて、倉庫で保管されるというのは、どう考えても納得できない。

だってそうでしょう?こちとら、苦労して書いた本の在庫を倉庫に保管すると経費がかかるので、400冊を処分しますと言われているんだぜ。6億円かけて保管する8000万枚の「使えないマスク」と、たった400冊すら倉庫に置いておくのが無駄だとして処分された俺の本。どちらが価値があるのか?ってハナシですよ。

僕はすっかり、文章を書く自信をなくしてしまった。どうやったらいい文章が書けるのだろう。

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腰掛便器の使い方

以下は、尾籠な話なので、不快に思う人は読まないでください。

僕の家に水洗トイレが導入されたのは、僕が小学校低学年、あるいは中学年くらいのことだったか。それまでは汲み取り式の和式便所だった。

水洗式の洋式トイレを見たときは、衝撃だった。なにしろ使い方がわからない。

映画『男はつらいよ』(1969年公開)には、寅さんが、高級ホテルの洋式トイレに初めて入って、その使い方がわからず、間違った使い方をしたにもかかわらず、それを誇らしげにみんなに語って顰蹙を買った、という場面がある。それくらい、洋式トイレの使い方はわからないとされていたのだ。

Photo_20211203001701 いまでもはっきりと覚えているのは、わが家の便所の壁のところに、「腰掛便器の使い方」というシールだったかパネルだったかが貼られていたことである。当時は「洋式トイレ」ともいわず、「腰掛便器」って言われていたんだね。わが家だけではない。当時、「腰掛便器」がある家や施設では軒並み、そのシールやパネルが貼られていた。

そのシールには、「男子小用」「大便及び女子小用」という二つの絵が描いてある。「男子小用」は、男性が立っておしっこをする姿を描いた図で、「大便及び女子小用」は、座って用を足している姿を描いた図である。

「大便及び女子小用」に書いてある説明は、小学生の僕にもなんとなくわかる記述である。

「フタだけを上げ後ろ向きに便座に腰を掛けて使用して下さい」

しかし僕がわからなかったのは、「男子小用」のところに書いてある説明である。

「フタ・便座とも上げて陶器面を出して使用して下さい」

とある。この「陶器面」というのが、小学生の僕には、なんと読むのかがわからない。

図を見ると、便器のうちで「フタ」と「便座」に相当するものは、「これがフタ」「これが便座」とわかるように、矢印を引っ張って丁寧に説明してくれているのだが、「陶器面」については、図のどこにあたる部分なのかが、わからないのである。

(「陶器面を出して使用して下さい」とあるが、何を出して使用するのだろう?)

考えたあげく、一つの結論に達した。「陶器面」というのは、「お○ん○ん」のことではないだろうか???

そう考えるとつじつまが合う。たしかに「男子小用」つまり男子がおしっこをするときは、ズボンから「お○ん○ん」を出して、用を足すのである。

いったんそれを思いつくと、もうそうとしか考えられなくなる。「陶器面」は「お○ん○ん」なのだ!!!

それからというもの僕は、「お○ん○ん」の正式名称は「陶器面」であると信じて疑わなくなったのである。

のちに「陶器面」の漢字が読めるようになり、その意味がなんとなくわかって以降も、「陶器面」=「お○ん○ん」という思い込みは変わらなかった。今度は、「お○ん○ん」がなぜ「陶器面」と呼ばれるようになったのか、その理由を必死に考えようとした。なぜ陶器なんだろう?と。

「陶器面」の本当の意味がわかったのは、それからしばらく経ってからのことである。

…なぜこんなことを思い出したのかというと、今日、お腹が痛くなってあるお店のトイレに駆け込んだとき、トイレのドアの内側のところに張り紙が貼ってあって、

「男子小用の場合も座って使用して下さい」

みたいな注意書きがあったからである。

もちろん僕も、いまの家に引っ越してからは、家のトイレで小用を足すときは、座ってするようになったので、その貼り紙自体には違和感はなかった。むしろそうするべきだろうと、僕も思う。

しかし、かつて「腰掛便器」と呼ばれていた時代に、「男性は、腰掛便器であっても、立って用を足すものだ」という使用法が、広く啓発されたいた事実も、記憶にとどめておかなければならない。それが正しいと信じて普及していた常識も、時代がたち、科学が発達すると、その常識が通用しなくなることは、「ウサギ跳び」の例を出すまでもなく、ざらにあることだ。

この国の男性の全員が、家の洋式トイレで、あたりまえのように座っておしっこをする時代が来るのは、いつのことだろう。

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オンライン会議の現実

11月30日(火)

少し前に、「こっちがほんとの『オンラインオフ会議』」というエピソードを書いた。

オンライン会議が苦手な人や、オンライン会議に参加できる環境にない場所にいる人に対して、ボタンを二つ押すだけでオンライン会議に参加できるという画期的なシステムを開発中で、先日、そのデモンストレーションが行われたのであった。

しかし、そのときにデモンストレーションに参加したメンバーの反応は冷ややかであった。曰く、

「いま、これだけオンライン会議が普及していて、オンライン会議に慣れている人が多い中で、どれだけ需要があるのか?」

とか、

「コロナ禍が2年近く続いているにもかかわらず、いまだにオンライン会議に対するアレルギーがある人は、どんな簡単なシステムを使っても参加しないのではないか」

といった意見である。

僕はその意見に違和感を抱き、反論した。

「たしかにうちの職場ではオンライン会議をあたりまえのように行っていますが、たとえば、地方自治体の職員さんなど、対面会議が主流であるところは、オンライン会議に慣れていない場合が多いのではないでしょうか。実際、そんな体験をしたことがあります。」

しかし、僕の反論は、あまりピンとこないようだった。

さてこの日、新幹線と在来線を乗り継いで2時間近くかかる町まで行き、その町の庁舎の会議室で対面とオンラインとの併用、すなわちハイブリッド会議に参加することになった。

もちろん僕も、その会議にオンラインで参加することもできたのだが、この日はたまたま1日空いていたことと、コロナの感染状況が落ち着いていること、そして、久しぶりにその町に訪れたいと思ったことなどから、現地参加することにしたのである。

前回の8月の会議では、オンライン参加したのだが、オンライン会議に慣れていないせいなのか、さまざまなトラブルに見舞われ、しばしば会議が中断した。しかし今回、現地参加をして、そのトラブルの真の理由が、はじめてわかったのである。

現地参加の委員は僕を含めて2人、そのほかの5人はオンライン参加とのことだった。あとはホスト役をつとめる事務スタッフである。

会議室に着くと、広い部屋に、タブレット端末が2台置いてある。

「こちらにお座りください」

と、タブレットの置いてある机の前に座らされた。

「申し訳ありません。会議用の端末が2台しかありませんので、現地参加のおふたりにはこのタブレット1台を共用してください」もう1台は、ホストである事務スタッフ用のタブレットである。

「それはかまいませんが、庁舎内にはノートパソコンが山ほどあるでしょう?それは使わないのですか?」

「使えないのです」

「どうしてです?」

「ふだん使っているノートパソコンは、セキュリティーの関係上、ネットワークが異なるため、オンライン会議の端末としては使えないのです」

「そうなんですか」

「しかも、オンライン会議専用のタブレット端末が、この庁舎内には全部で8台しかありません。ここ最近、各部局でオンライン会議を行うようになりましたので、8台の端末の取り合いになっているのです。で、今日はなんとか2台だけ確保できた、という次第でして…」

「それは不便ですね。しかも端末がタブレットだけだと、使い勝手が悪いでしょうね」

「ええ、そうなんです。タブレットだと、画面共有もできないので、それが困ります」

思い出した。前回の8月の会議でも、画面共有をまったくしなかったので、やり方がわからないのかな、と不審に思ったのだが、そもそもできない仕組みになっていたのだ。

「しかも、オンライン会議システムのアプリは、ZoomとかWebexといった使い勝手のよいものではなくて、どちらかと言えば使い勝手の悪いアプリですよね」

「ええ、うちの庁舎では、このアプリしか使えないようでして…。ほかの自治体も同じでしょうか」

「いえ、違うところもありますよ」僕は、他のアプリを使っている自治体の事例を紹介した。

やがて会議が始まった。前回と同様、オンライン会議はトラブル続きで、しばしば会議は中断した。

しかしそれは、僕が漠然と考えていたような、オンライン会議に慣れていないから、という理由ではなく、庁舎内でのオンライン会議システムがいかに使い勝手が悪いかという、構造上の問題に由来することがはっきりしたのである。

「オンライン会議なんて、いまやみんな慣れているさ」と、あのときの会議で発言した人と、僕とでは、見ている風景がぜんぜん違っているのだという思いを、僕は帰りの新幹線の中で、噛みしめたのだった。

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