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審査員の気持ち

12月19日(日)

この週末は何をしていたかというと、土日2日間の午前中は、オンライン国際会合だった。時差の関係から、午前9時開始、午後12時終了というプログラムだった。聴くだけだったので、とくに神経を使うことがなかったが、それを聴きながら、火曜日に参加するオンライン国際会合のコメント原稿を苦しみながら作成していた。国際会合に義務として参加しながら、別の国際会合の不本意な原稿を準備しているなんて、いったい俺は何をしているのだ?

テレビで「M-1グランプリ」をやっていたので、何年ぶりかに観た。といっても、途中でお風呂に入ったりしたので、そんなに熱心に観たわけではない。個人的には、なんとなくハライチとオズワルドを応援していたのだが、優勝したのは錦鯉という僕と同年代のコンビだった。向かって左側の白いスーツを着ている長谷川さんという人が、俳優の故・高松英郎さんにそっくりで、そのことばかりが気になる。

この年齢になると、演者よりも審査員の気持ちの方を考えてしまう。ところで審査員は、上沼恵美子さんを除いてみんな男性なのだが、それってどうなのだろう?と家族で話題になった。女性の審査員だと誰がいいだろうか、としばし話し合う。ハイヒール・モモコさんとかかなあ、…あ、いい人がいた!野沢直子さんがいい!など。しかしそのほかの候補が思い浮かばない。

考えてみれば、これまでの優勝者はすべて男性であるし、ファイナルステージまで残った漫才師のほとんどが男性である。こんなことを言うと、またジェンダーかよ、と言われそうだが、そもそも、お笑いの世界は、マチズモ(男性優位主義)がはびこっているのではないかという気がしてならない。審査員の男女比は、そのまま、この国の管理職の男女比をあらわしているような気がする。

なぜなのだろう、と考えてみたのだが、お笑いの世界というのは、最初はそれだけで「食っていく」ことが難しくて、アルバイトをしながら食いつないでいかないといけない。男性はそれでもアルバイトの口があるのでやっていけるが、女性はなかなかアルバイトの口がないので、お笑いを続けることが構造的に難しいのではないだろうか、つまり、社会における性別による生きづらさの反映である、という仮説を立ててみたのだが、演劇の世界とか、講談の世界では、それなりに女性が活躍しているようにも思えるし、どうもよくわからない。

話を戻すと、演者よりも審査員の気持ちの方を考えてしまうというのは、僕自身が年を重ねて、いろいろなものをジャッジする立場になってしまったからかもしれない。俺なんかに何かをジャッジする資格があるのか?とか、どのようなコメントを言ったら、この場がまるく収まるのだろう?とか、日々そんなことを考えてしまい、いったい何が正しい判断なのか、自分が何に価値をおいているのか、よくわからなくなってしまうのである。僕が健康を損ねているのは、こういう仕事があまりにも多いからではないだろうか、と思いたくなるほど、葛藤と煩悶が続く。

「M-1グランプリ」は、知らず知らずのうちに肩に力が入って、見終わったあと、ヘトヘトになってしまったのだが、そのあと、つい流れで観てしまった「くりぃむナンタラ」というダラダラした番組が、肩の抜けた感じでおもしろかった。ちょうどM-1グランプリの直後ということで、それをパロディー化した内容だった。審査員を審査するという、いま僕が最も観たいと思う内容で、しかも審査員は、くりぃむしちゅー上田、南海キャンディーズ山里、オードリー春日、空気階段の鈴木もぐらという、絶妙のキャスティングだった。

4人の審査員は、実際の漫才を目の前で観て、それに対するコメント力を競っていたが、くりぃむしちゅー有田の相変わらずのサディスティックな司会ぶりが十分に生かされた、じつにおもしろい企画だった。しかし、笑ったあとに気づいたのは、ここでも審査員はみんな男性ばかり。それもまたパロディーなのだろうか。

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