リメイク版はなぜショボくなるのか
「半世紀前の伝説のドラマシリーズが復活!」というふれこみで、2度目のリメイク版が製作された。僕はそのドラマを観て、あまりのショボさに愕然とした。
むかしは、もっと予算をかけて、重厚なドラマだったのだが、このたびのリメイク版は、明らかに予算がないことが丸わかりである。ずっしりとした重みがない。1話あたりの時間も短く、放送回数も減らされ、出演陣もかなり少なくなっている。なにより、こう言っちゃナンだが、出演している俳優も小粒ばかり。しかも製作発表した当時のキャスティング表とくらべると、ひとりの俳優が降板したらしく、その分、さらにストーリーが薄っぺらくなっている。
オリジナル版の放送が1970年代で、最初にリメイクされたのが1990年代だったと思うが、そのときのリメイク版は、オリジナル版に引けを取らない重厚さだった。1990年代頃までは、この国には勢いがあったのだ。それがいまはどうだ。まったく勢いというものが感じられない。ワクワクしないのだ。
オリジナル版は、まだフィルム撮影だったのだが、いまはもう完全にデジタル撮影である。しかし、フィルム撮影のほうが作りが丁寧で、間違いも少ない。デジタル撮影は、どうにもちゃちな感じが否めない。
これは決してノスタルジーではない。たぶん、投入されるスタッフの数が全然違うのだ。かつては予算と人が多く投入されたのだが、いまはデジタル撮影をいいことに、スタッフは最小限の人数である。スタッフが少ないから間違いも多くなる。ひょっとしたら一部を外注している可能性もある。すべては、人手と予算がないためなのだ。そして予算が投入されないのは、それだけ観る人が少ないと踏んでいるからなのだ。だから出演者へのギャラはできるかぎり抑えられている。
だったらそのコンテンツ、「オワコン」なんじゃね?と思うのだが、それでも、むかしの夢よもう一度、と思う人がいたのか、あるいは、いい企画が思いつかないから焼き直しをしようと思ったのか…。
この国の文化・学術・芸術の、あらゆる分野で、こうした流れが加速している。
映画評論家の町山智浩さんが言っていたが、高度経済成長期は、日本の「大衆」の知的水準はものすごく高かったという。たとえば中小の工場で働く労働者は、新聞に目を通し、難解な本や雑誌を読むのを好んでいた。知識や教養への渇望がすごかったのだ。
そのいい例が、映画「男はつらいよ」で前田吟が演じた博(寅さんの妹のさくらの夫)である。下町の小さな印刷工場で働く博は、岩波書店発行の雑誌『世界』を愛読していた。そのことが映画の中に出てくる。あれは博が特別にインテリだったからではなく、その当時は、それがリアリティーをもって受け止められていたのだ。
そうした「大衆」の知的水準の高さが、史上まれに見る高度経済成長の原動力になったのだと、町山さんは指摘する。そして翻っていまの時代状況を考えると、映画も、テレビも、本も、雑誌も、未来がないのだと嘆くのである。
少し前に紹介した、中谷宇吉郎の「I駅の一夜」という随筆で語られた「国力」という言葉を思い出す。高度経済成長を支えていたであろう、この国のあらゆる人たちの「知識や教養への渇望」の底が抜けてしまったいま、中谷宇吉郎のように「だから私は今のような国の姿を眼の前に見せられても、望みは棄てない」とは、やはり自信を持って言えないのである。それとも、そんなことは考えすぎで、たんなるノスタルジーに過ぎないのだろうか。いよいよわからない。
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