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リアルって何だろう

NHKの朝の連続テレビ小説「カムカムエブリバディ」で、オダギリジョー演じる大月錠一郎は、若い頃にジャズトランペット奏者として実力を認められ、大阪から上京して東京でメジャーデビューをはかるが、なぜか急にトランペットが吹けなくなってしまう。それからずっと、トランペットの演奏を封印する。

それから何十年かたって、たまたまおもちゃのピアノを演奏したことをきっかけに、再び音楽に目覚め、トランペットは無理だけど、キーボードを熱心に練習すれば、再び音楽の道に戻れるかも知れないと、プロをめざすことになる。

…というドラマを見た僕のまわりのジャズミュージシャンたちがSNSで、管楽器ができたからって、鍵盤が弾けると思うなよ、とか、キーボードの奥深さを知らない、とか、その設定のリアリティーのなさに苦言を呈していた。

なるほど、そういうものかねえと思っていたら、このドラマの劇伴を担当している金子隆博さんが、じつは似たような経験をしているということを知って驚いた。もともとアルトサックス奏者だった金子さんは、あるとき急にアルトサックスが吹けなくなり、キーボードに転向したのだという。なんでも「職業性ジストニア」という病気だそうだ。

とすれば、原因不明でトランペットが吹けなくなった大月錠一郎が、キーボードに転向したというのは、ほかのミュージシャンにとってはリアリティーがなくても、金子さんにとってはリアリティーのある話なのである。

リアリティーって、何だろう?

ちょっと前に、『ナイトクローラー』(2014年)というアメリカ映画を観て、これがめちゃくちゃ面白かった。フリーランスの映像カメラマンが、夜通しで町を車で走り回り、特ダネになるニュース映像を撮影して、それをテレビ局に売り込んで生計を立てる、という内容だった。

アメリカには実際にそういう職業があって、少し前、BS朝日の「町山智浩のアメリカの今を知るテレビ」で、町山さんがその映画のモデルとなった人物にインタビューをしていた。その人物は、映画を作るにあたって、監督などからいろいろと取材を受けたらしい。

「映画を見てどう思いましたか?」

という質問に、

「だいぶ誇張されていて、現実とは違うと感じた」

と答えていた。

映画だから、多少の誇張は当然あるだろう。しかしここで僕が問題にしたいのは、監督がその人を取材したときの印象と、取材された当人が映画を見た印象とは、まるで異なっていたのではないだろうか、という疑問である。

当人があたりまえだと思ってふだん行動していることが、第三者にとってはとんでもなくクレージーな行動に映る可能性はないだろうか。

当事者が「誇張しすぎだよ」という一方で、「いやいやいや、実際あなた、これくらいクレージーな行動をとっているんですよ」と第三者の目には映っていることだって、十分に考えられるのだ。

当事者がリアリティーがないと思えば、それはリアリティーがないことなのだろうか?

ここからが本題。

以前、伊集院光氏が、三谷幸喜脚本・監督の映画『ラヂオの時間』を見て、ラジオ番組制作にリアリティーがなくて全然入り込めなかった、実際のところラジオの現場はあんな感じではない、というニュアンスのことを言っていて、そんなものかなあと思っていた。

で、本日、TBSラジオ「伊集院光とらじおと」の最終回。

「僕が(おもしろいと)思っている『ラジオ像』は、僕が思っている(にすぎない)ことなんだということに、もっと自覚的であるべきだった」

と反省していた。

結論としては、いろいろなタイプのラジオ番組があって良い、ということなのだが、このときに僕は、前述の伊集院氏の『ラヂオの時間』評を思い出したのである。

『ラヂオの時間』の中のラジオ番組にはリアリティーがない、というのは、当事者目線として尊重されるべきものである一方で、それはあくまでも「僕のラジオ像から見たリアリティー」だったのではないだろうか。

その業界を描く際にリアリティーがある、ない、というのは、たとえ同じ業界にいる人だとしても、個人に委ねてよい問題なのか、考えさせられる。つまるところ、同じ業界にいるから、という大きな主語で括ってしまうのは、危険なのではないだろうか。

もっとも、それを差し引いても、伊集院氏が言うとおり、『ラヂオの時間』にはラジオ番組としてのリアリティーがないのかもしれないけれど。

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