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解像度

先日の「アシタノカレッジ金曜日」のゲスト、能町みね子さんが、まさか自分が猫を飼うとは思っていなかったが、飼ってみると、猫にかける声のトーンが、ふだんよりも2オクターブくらい上がっているのが自分でもビックリする、という話が、なかなか面白かった。

以下、記憶をたよりに書くが、武田砂鉄氏は、「ふだん、かなり細かく言葉尻をとらえるお仕事をする能町さんと、猫と接しているときの能町さんというのは、両立するのですか?」と質問すると、能町さんは、「たしかに、猫と接しているときは解像度が下がっているかもしれませんね」みたいな答え方をしていて、その「解像度」という表現がなかなか面白かった。これって、一般的に使われている比喩なのだろうか。

ふだん、世の中のオカシなことや言葉の矛盾などの細かい部分について、引っかかりをもって深く掘り下げていくのが能町さんの仕事の真骨頂だと思うのだが、つまりはそれが、解像度が高い仕事ということになる。一方で猫に接するときは、そうしたことはどうでもよくなり、とたんにその部分が甘くなるのではないか、すなわち、解像度が低くなってしまうのではないか、ということなのである。

先日、黒澤明監督の映画「乱」の撮影をめぐるドキュメンタリー番組を見ていて、黒澤明監督の思い描くイメージと、キャストやスタッフの思い描くイメージのギャップに、黒澤監督が苦しんでいたのではないか、と想像される場面があった。監督が、「そうじゃないんだよ!」と声を荒げ、それに対してスタッフやキャストは、どこがどう違うのかわからないと戸惑う場面が、しばしばみられたのである。

これもまた、解像度の問題なのだろうかと、ふと思い出したのである。黒澤監督の中では、その映画のイメージがかなり解像度の高い状態で見えているのに対し、それ以外の人には、黒澤監督ほどの解像度ではイメージできない。そのギャップに、黒澤監督は苛立っていたのではないだろうか。

もちろん、どの対象に対しては解像度が高く、どの対象に対してはそれほどでもないということは、人によって異なるのだろう。その違い、つまりは個性が、文学や音楽や芸術やスポーツとして花開くのではないだろうか、と考えてみたのだが、そもそも「解像度」という概念で人間の個性をとらえてよいものか、根本的な疑問は僕の中に残ったままである。

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