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背広を着たまま眠った夜

3月16日(水)

在来線特急で2時間半かけて、「特急のすれ違う駅」に着いたのは、午後7時半ごろだった。

駅前のホテルに泊まり、明日は朝からこの町で小さな会議である。

テレビを観たり原稿を書いたりして、さあ寝ようと思ったら、部屋が大きく揺れた。それとともに緊急地震速報を伝える警戒音が、スマホからけたたましく鳴り響いた。

テレビを観たら通常の放送のまま、地震速報が流れた。

しかし尋常な揺れではない。11年前を思い出した。

いったん揺れはおさまったが、ほどなくしてまた大きな揺れが始まった。こんどはもっとシャレにならない揺れである。再びスマホの緊急地震速報がけたたましく鳴った。

「おいおいおい!ちょっとちょっと!」

と叫んでも、揺れがおさまるはずもなかった。ホテルが倒壊せんばかりの揺れに思えた。このままホテルの瓦礫に埋もれて死ぬのだろうか。

ここで息絶えるとしても、パンツ一丁はマズいだろう。すぐに避難できるようにしないと!

といっても、着るものといえば背広一着しかない。僕は急いでワイシャツと背広を着て、革靴を履いて、荷物をまとめた。これでいつでも避難できる。

テレビの放送は、通常の番組から、地震を伝えるニュースのスタジオに切り替わった。

僕はそれを見て驚いた。

震源地はすぐ近くの沖ではないか!僕がいるところは、最大震度6強である。

しかも津波注意報が出ている。

もう一つ心配なのは原発である。

ますます11年前を思い出さずにはいられなかった。

津波が来たらどうしよう。今いるのはホテルの4階だから大丈夫だろうか。

「○駅と×駅の間で新幹線が脱線しているという情報もあります」

そうだ。交通機関も心配だ。11年前はしばらく東京に行けなかったことを思い出した。

いろいろな心配が頭をグルグルとめぐるが、考えても仕方がない。

余震が怖くて仕方がなかったが、とりあえず背広を着たまま、革靴を履いたまま、荷物を抱えてベッドに横になった。そのうち、いつのまにか眠ってしまった。

翌朝、5時過ぎに目が覚めた。世界はまだ無事だったようだ。

Fさんから電話があった。

「大丈夫でしたか」

「ええ」

「8時半にホテルにお迎えにあがります。会議を早めに切り上げて、本日中にお帰りになれる方法を検討します」

「わかりました」

8時半にホテルを出て車で会議場所までの道すがら、外を見ると、昨日の大きな地震が嘘のように穏やかな町並みである。

朝9時から始まった会議は、早めに切り上げるどころか、当初の予定通りの時間に終わった。

「このあとお昼のお弁当を用意していますけれど」

「いえ、帰りの時間が気になるので、なるべく早く出たいです」

「わかりました。復旧している路線の駅まで車でお送りします」

「ありがとうございます。助かります」

この時点で復旧している路線の駅というのは、ここから車で2時間ほどかかるI駅だった。

I駅まで車で送ってくれたFさんに感謝し、I駅のみどりの窓口で在来線特急の切符を買う。これで確実に東京に帰れる。

2時間半後、特急は東京駅に到着した。

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コメント

背広の上着だけ脱いで眠った朝

3月16日(水)

助手の小林君との長電話を終えて自宅に帰ったのは午後9時すぎだった。

遅めの晩飯をかき込んですぐに寝ようとしていたのは、翌日が卒業式だったからである。

コロナ禍で中止が続き、実に3年ぶりの開催だった。

アパートでパソコンに向かっていると、だんだん揺れ出した。

スマホ不携帯の上に、自宅にテレビはないので、ニュースを見るのには手間がかかる。

出てきた画面を見ると、緊急地震速報の表示が出て、あの不協和音チャイムの警報音が鳴っている。

そしてほどなく、あの日そっくりの、長くて大きな揺れが襲ってきた。

巨大地震に襲われた経験のある、よい子の読者のお友達ならわかるだろうが、こういう時にまずすることは、机の下に隠れることではない。

ファンヒーターを消して、本棚と食器棚を押さえることである。

茶碗がガチャガチャ鳴ったが、大した落下物はなかった。あの日の後に、ほぼすべての家具と天井の間に、転倒防止用の「つっぱり棒」を入れてあったからである。

嶋大輔「男の勲章」の歌詞のように、人知れず、ずっとツッパリ続けた奴らに助けられた。

あの日と同じように、今回も停電はなかった。

この街にはN県から送電線がひかれているので、T北地方全ての電力が落ちても電気がついている、たぐいまれな市町村なのである。

パソコンに向かうと、火事場の馬鹿力的に情報発信を行いはじめた。ネット動画やラジコのニュースを見聞きしながら、まず、学生向けSNSに安否確認のメッセージを書き込み、Twitterでは在日外国人向けに、日英韓中の四か国語で津波注意報を知らせる。

実家のLINEで自分の安否を知らせる。

「東京で大停電」とのニュースを聞いて、吹きだまりコメント欄にも「ウナ電」を書き込む。

退職した先生からの安否メールに返事を書いたり、気になる人へメールを書いたり、大忙しである。

ここで知りたいのは、果たして明日の卒業式が中止になるかどうかだ。

ニュースを見ると、あの日と同じように新幹線が脱線しているから、復旧までには長くかかるだろう。在来線も止まれば、電車通学者は卒業式に来られない。

それにあの日の後も長い間、余震に悩まされた。結局、N県からJ新幹線に乗って、地面の揺れない東京に「出張」という名目で逃げた。卒業式の最中に「震度6強」が来ることも、十分考えられる。

深夜だが、職場へ様子を見に行くことにした。これもあの日と同じ行動であった。建物の電気がついていて、正面玄関が開いていたので入ってみると、事務局に職員が大勢集まっていて、大金庫の上に置いてあるテレビを見上げている。

あの日と同じ光景だった。11年前が昨日のことのように脳裏に鮮明に蘇った。

職場に地震被害がないことを確認すると、市内をぐるりと見回って帰宅した。

パトカーが赤色灯をつけて走っているが街は平穏で、みんな寝ているようだ。

巨大地震の経験者たちは、肝が据わっている。

アパート前のコンビニに立ち寄ったが、商品は棚に収まっていて落ちた形跡はない。一人で店番をしているバイト君に「地震すごかったですね」と話かけると、彼の顔がほころんだ。

再び帰宅し、学生向けSNSに取材結果を書き込む。幸い、学生たちも皆、無事だったようで「いいね」を2個もらった。

ニュースでは、原発の冷却水が止まっただの、電源喪失しただのと言っている。

普通の家電はコンセントを抜くと、ただ止まるだけだが、原発は電気を止めると爆発する。

発電など、もうしていないはずのに、11年も経っているのに、いったい今まで何をしていたのか。

あの日と変わらないではないか。

とにかく寝なくてはいけないと横になったのは、数時間。

朝6時には、卒業式をするかどうかを尋ねるSNSが学生から届き、その着信音で起きる。

そのあとは、卒業式実施の公式発表を学生SNSやTwitterに転送したり、高速道路やJR、高速バスの運休情報をリツイートして、時間が過ぎていく。

普段は着ないが、今日は卒業式。朝食もそこそこに、背広に着替えて、職場に再び赴く。

出勤できない職員もいるから人手不足になるかと、だいぶ早めに出てきたが、職場では地震などなかったかのように、平常営業でスケジュールが進んでいる。

校門では、袴姿にマスクをつけた学生親子が以前のように記念撮影をしている。

早く着いたものの、特にやることもないので、職場の自分の部屋で片付け。ここにもあの日以来、「つっぱり棒」を設置しておいたので、落ちて割れるような被害はない。

ただし本棚の中の本は、あの日と同様、一見なんともないように見えて、本全体が手前に飛び出していたので、1列ずつ、手で書棚の奥に押し込んだ。

すべてが一段落すると、緊張がゆるんだのか、急に睡魔が襲ってきた。

背広の上着だけ脱いで、ソファーに横になった。

卒業式が始まるまで、あと3時間である。

投稿: 🐢 | 2022年3月18日 (金) 03時20分

ご無沙汰しております。
出先で地震とは災難でしたね。

背広の話で思い出しましたが、11年前は会社で被災し3時間かけて歩いて帰り、家はあったが中がめちゃくちゃで入れず、明らかに近所でガス漏れしてるので小学校へ避難しました。
そこで「すぐそこまで大津波が来ているので校舎の3階以上に上がってください」と先生方に言われて津波を知りました。

思えば帰り道は人の流れに逆らうような感じでした。
街の中心部から海に向かって歩いていたわけで、実は危険な行動をしていたわけです。

地震は金曜日でしたので、背広を着たまま土日を小学校で過ごし、そのまま安否報告の意味を込めて月曜日に出社しました。

半分ほどの出社人数で復旧作業や仕事の優先順位決定をしていると、隣県から大量の手作りおにぎりが届きました。

作ってくれた方々は100%善意なのでしょうが、疲労困憊の我々は「こんな状況でもおにぎり食べて夜まで働けってことかよ!」としか受け取れませんでした。

善意とは非常に難しいものです。

長文失礼しました。

投稿: 江戸川 | 2022年3月18日 (金) 20時28分

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