« 2022年3月 | トップページ | 2022年5月 »

2022年4月

君は映写室派?

4月29日(金)

「すべての人間は、3種類に分けられる。観客席派と、キャメラ派と、映写室派だ!」

これ、僕のオリジナルの名言ね。というのは嘘で、前に書いたように、もともとは大林監督が、映画『ニュー・シネマ・パラダイス』のパンフレットに寄せたエッセイに出てくる言葉であり、それを僕が「スウィングガールズ」ふうに言い直しただけである。

このエッセイがあまりにも自分の文体に影響を与えたので、そのことを、以前大林宣彦監督にインタビューしたときに、このパンフレットをお見せして、「僕はこのエッセイに影響を受けたんです」と直接お伝えしたところ、

「そんなの書いたっけ?ちょっとコピーさせて」

と言われた、というエピソードも、以前書いた

祝日である今日の午前中は、4歳の娘と二人で過ごさなければならない。以前、映画『おかあさんといっしょ ヘンテコ世界からの脱出』を映画館に観に行ったことを思い出し、映画に連れて行こうと思い立つ。

上映中の数ある映画のうち、迷わず『シング ネクストステージ』を観に行くことにした。前作の『シング』は僕も好きな映画だし、最近娘も、テレビで放送された『シング』を、くり返し観ている。

『シング』は、エンターテインメントを愛するすべての人たちに対する、応援歌であり、賛歌である。コロナ禍の中で、不要不急と蔑まれ続けたエンターテインメントこそが生きる糧なのだと、何度でも教えてくれる。

『シング ネクストステージ』は、おもしろかった前作をさらに越える内容で、久しぶりに大画面のスクリーンを前に、心が揺さぶられるというのはこういうことなのだと実感した。

娘も、スクリーンの「ジョニー」の歌う歌に合わせて、声を出して歌っていた。たぶん初めて聴いた歌なのだと思うが、それを即興で歌えることに驚くとともに、歌う衝動を抑えきれなくなるという映画の力に、あらためて感嘆したのである。

映画館の前から3列目に座ったのだが、娘はしきりに、後ろを向く。

「どうしたの?」

「たくさんお客さんがいるね」

「そうだね」

娘は、お客さんがどんな様子で映画を観ているのかを、確かめたかったらしい。

映画が終わり、エンドクレジットが流れると、娘はまた後ろの客席を振り返った。そして、映画館のいちばん後ろにある、光源に気がついた。

「あそこ、光ってるね。あの光が映画を映しているの?」

「そうだよ。あの光のおかげで、スクリーンに映画が映っているんだよ。不思議でしょう?」

「不思議だね…あ、光が消えた!」

「前を見てごらん。映画も消えたでしょう?」

「ほんとだ。消えた」

娘は、映画の内容を十分に楽しんだだけでなく、自分の後ろにいる観客の反応がどうなのか、そして、映画の光源にも、関心を持たずにはいられなかったようである。

僕は、大林監督が『ニュー・シネマ・パラダイス』のパンフレットに書いたエッセイの一節を思い出した。

「もちろんこの少年(注…この映画の主人公「トト」)も人並みに観客席に坐り、ムービー・キャメラを手にしたりもする。しかし観客席ではすぐに後ろをふり向いて映写窓の光源に映画の生命を見ようとする。映写装置こそが実存であり、スクリーンの上の映像は所詮、影なのだ。フィルムが途切れたりしたら、すぐに消滅してしまう。(中略)いわばリアリストとしての痛みを知っている。(後略)」

ひょっとして君は、映写室派なのか?

僕は4年前、大林監督にインタビューしたときに、生まれたばかりの娘にサインを下さいとお願いした。大林監督は、

映画(えいが)の学校(がっこう)の良(よ)い生徒で、賢(かしこ)く優(やさ)しく育(そだ)ちましょう」

と、淀川長治さんの「映画の学校」という言葉になぞらえて、書いてくださった。

今日は、その言葉を噛みしめた。

| | コメント (0)

○○の神様

4月28日(木)

午前中は、自宅から車で1時間半弱かかる総合病院に行く。昨日までの「ひとり合宿」の結果を報告するのだ。別の病院で治療を担当した主治医のS先生による手紙と画像データが入った封筒を、もう一人の主治医である総合病院のK先生に渡さなければならない。

たんに報告だけなので、診察時間じたいはわずか1~2分。そのために1時間以上かけて病院に行き、長い間待たされるのである。

こっちだって「ひとり合宿」が終わったばかりで疲れているのに、そのためだけに行くのはとても面倒くさい。だったら、主治医同士がメールのやりとりですませろよ、と思うのだが、そうもいかないらしい。

診察の前に手紙と画像データを受付に渡し、しばらくの間待合室で待つ。やがて僕の名が呼ばれて診察室に入ると、すでにK先生は、治療の画像データとその結果を伝えるお手紙を読み終えたところだった。

僕が診察室に入るなり、

「今回もがんばりましたね」

とK先生は言った。なにしろ僕は、この5年ほどで13回も、S先生の病院で「ひとり合宿」をしているのである。

「以前にちょっと心配していた部位、落ち着いているようで安心しました」

「S先生からもそう言われました」

「一時はどうなるかと思ったけれど、ほんとうによかった。やっぱり鬼瓦さん、あなたには神様がついているんですね」

僕は、それまで抑えてきた感情がこみ上げてきて、不覚にも涙が止まらなくなってしまった。

そう、俺、がんばってるんだよ。これまで、すげえがんばってきたんだよ。そして幸いなことにまだ生かされているんだよ。

ただ実のところ、僕ががんばったところで、どうにかなるわけでもない。おそらくそのほとんどは、運に委ねられているのだ。ぼくはただ、言われるがままにその身をS先生に委ねているだけである。過去2回ほど、もうこれでおしまいだな、と絶望した瞬間があったが、それでも何とか乗り越えてきた。たぶんがんばったのは、僕ではなく、治療にあたったS先生のほうである。

僕は無神論者だが、この5年あまり、僕の体調をずっと見続けてきた総合病院の主治医、おそらくこれまでも何千、何万もの患者を診てきたK先生が、医療の力だけではなくあなたには神様がついているのだと言ったことは、たとえ口から出まかせの言葉だったのかもしれないとしても、僕にとっては救いの言葉に聞こえたのである。

僕はがんばっているわけではない。支えられて生きているのだ。

いやそもそも、どんな人も生きているだけで十分にがんばっているのだ。僕はそのことに、大病を患って初めて気づいたのである。

運が尽きるまで、何度でも立ち上がろう。

| | コメント (0)

裏取りできず

まことに卑俗な喩えだが、井伏鱒二『荻窪風土記』は、さながら「トキワ荘」の小説家版といった趣である。井伏鱒二の周囲をとりまくさまざまな作家のエピソードが喜怒哀楽をとりまぜてちりばめられる。

僕はいつも、本筋とは関係のないところが気になるのだが、『荻窪風土記』にこんな記述を見つけた。

「私のうちのネコは昭和三十二年の六月、お産がうまく行かなくて犬猫病院で帝王切開の手術を受けた。私が山形県最上川上流の樽平の美術館を見に出かけた日に入院して、私が旅行から帰ったときには退院した後であった」

ここに出てくる「樽平の美術館」は、僕も何度か行ったことがある。「樽平」というのは、この地方の有名な地酒で、その名の通り、ほのかに樽の香りがするのが特徴である。酒造業を営んでいる家が美術品を集めるというのはよくあることだが、それにしてもここの美術品の質と量には圧倒された記憶がある。

井伏鱒二が昭和三十二年六月にこの美術館に訪れたとすると、この片田舎(といっては失礼だが)の美術館にとっても、大切な歴史の一齣である。

この事実を確かめようと調べてみると、井伏鱒二の「還暦の鯉」という随筆に、この地を訪れた記述があった。それによると、東北を旅行し、白石川での釣りをしたが、なかなかうまくいかずに諦めた。その翌日に県境を越えたという記述がある。

「県境の向うへ出て最上川の上流に行った。ここでも釣りは諦めて、川西町小松という物淋しい町の井上さんという旧家を訪ね、美術館の古陶器を見せてもらった。個人蒐集のものである。町は淋しいが、ちゃんとした美術館で然るべき品が五百点以上もそろっていた。

この町は、丁字路の両側に家が並んでいるだけで、裏手は田圃である。話によると、ここでは田圃に豆を順序ただしく蒔くと山鳩が来てみんな食べるので、わざと不規則に蒔くのだという。海の魚も、腐りかけて臭くなくては魚らしくないとされているところだという。一年のうち何箇月かは、見渡すかぎりの雪野原だという。こんな町に立派な美術館がある」

と書かれている。『荻窪風土記』は、このときのことを記述したものであろうか。

ところが、この随筆は昭和31年7月に『暮しの手帖』に発表されたもののようで、『荻窪風土記』に書かれている「昭和32年6月」とは齟齬が生じる。これはいったいどういうことなのか。

昭和32年6月は、この随筆を収めた随筆集『還暦の鯉』が新潮社から刊行された時期にあたるので、あるいは『荻窪風土記』ではそれに引っ張られて記憶を勘違いしたのだろうか。

それとも、昭和31年7月以前(おそらく雪解け水が川に流れる春頃)に一度訪れ、昭和32年6月にもう一度訪れたのだろうか。

「還暦の鯉」では、白石川での釣りをあきらめ、さらに最上川での釣りもあきらめ、本来の目的ではない美術館訪問をしたところ、その美術館が思いのほかよかったという感想を抱いている。

一方で『荻窪風土記』のほうは、「私が山形県最上川上流の樽平の美術館を見に出かけた日」と書いており、当初からこの美術館を訪れるつもりだったようにも読める。両者はややニュアンスが異なるのである。

そうするとやはり、井伏鱒二はこの美術館を2回訪れたのだろうか。当の美術館に、記録が残っていればいいのだが。

インターネットを探ってみると、むかしは、東京の神楽坂に蔵元直営の樽平の店があり、井伏鱒二はそこに太宰治を伴ってしばしば顔を出していた、と、あるサイトに書いてあったが、いまのところ裏がとれていない。だがもしそうだとすると、井伏鱒二はずいぶんと前から、つまり太宰治が生きている頃から、樽平の味が気に入っていたということになる。だとすると、大好きな樽平の蔵元をわざわざ訪ねた理由もうなずける。

とっくに解明されていることなのかも知れないが、気になったことなので書きとめておく。

| | コメント (0)

『荻窪風土記』

4月26日(火)

3ヵ月にいちどの「ひとり合宿」の楽しみは、本を読むことである。いわば監禁状態になるので、事前に読む本を準備しなければならない。その吟味の過程もまた楽しい。

昨日は、高校時代の1学年下の後輩が書いた新作の小説を読んだ。あいかわらずおもしろくて、一気に読んでしまった。

今日は、井伏鱒二の『荻窪風土記』(新潮文庫)を読んでいる。

先日、中央線沿線に住む友人から、『中央線小説傑作選』(中公文庫)が出ていると教えられた。中央線小説と聞いたら、僕も黙ってはいられない。読んでみるとこれがなかなかにおもしろかった。それだけでなく、「もし自分が中央線沿線を舞台にした小説をアンソロジーにしたら、どんな本を選ぶだろうか」と想像しながら読んだので、なおさら楽しかった。

僕は大学生の頃、ヒマでヒマで仕方がなくて、中央線沿線の古本屋を、まるで聞き込みデカのように、1軒1軒しらみつぶしに歩いたことがある。

僕にとっての中央線沿線のイメージというのは、中野あたりから立川あたりまでの、いわゆる直線区間の部分である。

そんな思い出もあり、中央線沿線には、ひどく思い入れがあるのである。

さて、「ひとり合宿」のときに、どんな本をもっていこうかと、ふと頭に浮かんだのは、冒頭に述べた井伏鱒二の『荻窪風土記』だったのである。

先に読んだ『中央線小説傑作選』の中には、当然、中央線にゆかりのある井伏鱒二の作品も収録されている。「阿佐ヶ谷会」という、たった2頁ほどの短編なのだが、その文体が妙に印象に残ったのである。これで決まり、と、さっそく『荻窪風土記』の文庫本を入手した。

そうしたところ、『中央線小説傑作選』を薦めてくれた友人から、

「明日から『ひとり合宿』ですね。もしまだなら、井伏鱒二の『荻窪風土記』なんてお供にどうですか。いい本です」
とメールをもらい、その偶然に驚いた。

そういえば、井伏鱒二の『荻窪風土記』は、ずっとむかしに、読もうと思って読まなかったんだよなあ、でも書名はなぜかずっと覚えていて、しかも文庫ではなく、ハードカバーの本として、僕の脳内に画像が記憶されている。

ハタと思い出した。

『荻窪風土記』は、高校時代の親友・元福岡のコバヤシが、高校時代に、僕に勧めてくれた本だったんじゃなかったっけ?たしかコバヤシは、井伏鱒二のファンだったはずだ。だがそのとき僕はピンとこずに、薦められても読まなかったのだ。

しかしその記憶は、僕の勘違いという可能性もある。そこでコバヤシに、確認することにした。

「コバヤシ殿、貴兄は高校の頃、井伏鱒二の本を私に薦めてきませんでしたか?『荻窪風土記』の存在は、貴兄から聞いた記憶があるのですが、記憶違いでしょうか」

するとほどなくして、コバヤシから返事が来た。

「本題の井伏鱒二の「荻窪風土記」の件ですが、多分、私が薦めたのだと思います。

たまたま手元に、昔、実際に読んだ新潮社のハードカバーの本が有り、その本の後ろの頁を開くと、昭和59年5月5日15刷と有りますから、恐らく高校1年の時に読んで貴君に薦めたのでしょう。(ちなみに初版は昭和57年11月5日とあります。)井伏鱒二は釣り好きで、私も子供のころ釣りが好きだったので、確か家にあった「川釣り」という当時は岩波新書(今は岩波文庫のはず)で出ていた本を読み、釣りの話もさることながら、その飄々とした筆致と抒情的な表現に魅かれて井伏鱒二を認識したのだと思います。

有名な「山椒魚」なども読んだような気もしますが、こちらはあまり好きではなかったように思います。

ちなみに井伏鱒二は、戦前(だったと思う)の流行作家であった釣り名人の佐藤垢石に釣りの手ほどきを受けました。井伏は、この師匠、佐藤垢石を主人公にした「釣人」という本も書いていたのですが、確かずっと絶版のままで、残念ながらまだ読むことが出来ていません。

ついでですが、学生時代に読んで今また読みたいなあと思っているのは、幸田露伴と中勘助です。

幸田露伴は、五重塔で有名ですが、それ以外にも大昔の中国の話に題材を取ったものや、やはり釣り好きでもあり、何しろ古今東西のあらゆる本を読んだ博覧強記ぶりを示す内容は、凄いの一言です。

去年読んだ講談社学芸文庫の「珍せん会」(せん の字が変換出来ず)も面白かったですし、昔読んだ「幻談・観画談」なども、また読みたいなあと思っています。

中勘助は、有名な「銀の匙」は置いておいて、やはり、その静謐な文体が魅力的な小説や物語、とりわけ学生時代に読み、静かで澄んだ空気が流れているような文章に魅かれた「島守」などが思い出されます。

ちなみに中勘助は、その文章とは裏腹に私生活は愛人問題やら何やらでドロドロの酷い人だったと読んだように思います。確か「島守」も愛人問題のもつれで謹慎中の生活を書いたものだったはずです。

静謐で思い出しましたが、前にも勧めたように思いますが、須賀敦子は是非、読んで欲しいものです。

硬質で美しく、そして優しいその文体と文章は、何を読んでも本当に素晴らしいです。

白水社のUブックスから出ている一連の作品、どれでも構わないのでご一読のほどを。

と、井伏鱒二の話を書くつもりが長々と書いてしまい申し訳ありません。

でも、ほんの少しでも何かひっかかる本があれば幸いです。」

やはりそうだった。『荻窪風土記』は、コバヤシが僕に薦めたものだった。僕が、その本をハードカバーの本として記憶に残っているのは、コバヤシから見せてもらったか何かしたのだろう。

それにしても、文学に対するコバヤシの目利きはあいかわらずすばらしい。僕はこの年になって、ようやくコバヤシの感性に近づいた。思い返せば高校生のとき、コバヤシからはいろいろな小説を薦められていたのだ。

『荻窪風土記』の内容について、少しふれようと思ったが、長くなったのでまた別の機会に。

| | コメント (0)

白髪、それがどうした

4月25日(月)

今日から、恒例の2泊3日の「ひとり合宿」である。先々週の検査でまた引っかかったのである。

前にも書いたが、ひとり合宿の部屋にいると、新聞の朝刊と夕刊のサービスがある。その新聞というのが、僕が決して自分から読まない新聞社の新聞なので、ひとり合宿のときだけ、その新聞に目を通すことになる。

夕刊は、ビジネスマンとか会社の経営者が読むような新聞である。1面の下に、コラムがあるのだが、新聞の編集委員が書くのではなく、日替わりで、会社の社長とか有名人とかが書いているようである。

今日の夕刊のコラムは、ある大手不動産会社の社長が書いていた。こんな内容のコラムである。

若い頃から白髪が多くて、子どもを連れていると、孫と間違えられることがよくあった。授業参観のときには、娘から、髪を染めてほしいと言われ、散髪屋で白髪ぼかしをしてもらったが、途中で弱気になって中途半端なところでやめてしまったので、髪の色がヘンな感じになり、もう髪を染めるのは懲り懲りで、その後は父親参観に行くことはなかった。その後初孫が生まれて、ようやくお爺さんになれてホッとした、というのがコラムのオチである。

お世辞にもおもしろい文章とはいえない。このコラムに違和感を抱くの、俺だけかなあ。

僕は40代の頃から白髪が目立つようになり、5年ほど前に大病を患ってから、白髪が急激に増え、いまではほとんど真っ白である。古い友人が、道ですれ違ったってだれだかわからないだろう、というくらい。

それでも、散髪屋に行くたびに、白髪ぼかしというのをやってはいるのだが、気休めにすぎず、時間が経てば、元の木阿弥になる。

で、4年ほど前に子どもを授かったのだが、年齢も年齢だし、髪も白いので、誰もが僕のことをおじいさんだと思い込む。僕に向かって「かわいいお孫さんですね」とか、娘に向かって「おじいちゃんと一緒でいいねえ」とか言われるのは日常茶飯事である。僕はそのたびに、

「いえ、父です。この子は娘です」

と言うことにしている。そうすると、言った方は、「あらごめんなさい」と、言ったことを後悔する。悪趣味だが、言ったことを後悔させるために、僕ははっきりと訂正するのである。

白髪があるからって、なんで「おじいさんと孫」と言いきってしまうの?そして当事者は、それに対してどうして後ろめたく感じなきゃいけないの?

この不動産会社の社長は、頭が白いことを理由に父親参観に行かなくなった、とあるが、それは父親参観に行かないことの口実にすぎないのではないか?逆に、何度も通っていれば、父親であることを誰も疑わなくなるのではないか?そして、本人が見た目を気にするということは、他人に対しても見た目で判断するということではないのか?

自分の娘が小学校に上がって、授業参観があったときに、「パパは髪を染めてきて」と言われるのかなあ。いや、そんなことを気にしない子に育てたい。まわりの人に、「あなたのお父さん、おじいさんみたいだね」と言われたとしても、「それがどうした?」と意にも介さない子に。

| | コメント (3)

ソロモンさん

いま、僕がイチ押しのYouTube配信チャンネルといえば、

そう、「とっち~ちゃんねる」である!!!

…あれ?ご存じない。

「とっちー」と言えば、俳優で劇用刺青師でおなじみの栩野幸知(とちのゆきとも)さんですよ!!

…まだピンとこない?2022年4月24日現在、チャンネル登録者数は218人である。

以前僕は、栩野幸知さんについて、このブログで書いたことがある。

この世界の片隅に

まさか、栩野幸知さんが、YouTube配信番組をもっているとは思わなかった!しかも、編集もかなりちゃんとしている。

番組では、映画で使用する小道具の作成過程を見せてくれたりするのだが、時折、ご自身が出演された映画の撮影秘話を話してくれて、これがめちゃくちゃおもしろい!!!

最初にこの番組を観たのは、大林宣彦監督の思い出を語った回だった。以前にも書いたように、栩野さんは、大林監督の映画「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるおしきひとびとの群」(1988)に、劇用刺青師としてだけではなく、役者としても出演している。というか、もともと、いろいろな映画に出演されているのだ。大林映画だけでも、「おかしなふたり」のほかに、「異人たちとの夏」「野ゆき山ゆき海べゆき」「この空の花 長岡花火物語」などにも出演している。黒澤明監督の「影武者」とか、伊丹十三監督の「ミンボーの女」、片渕須直監督の「この世界の片隅に」などにも出演しているんだぞ!Wikipediaにはその辺の情報、ほとんど載っていないけどね。

この番組でおもしろいのは、黒澤明監督の映画「七人の侍」(1954年公開)について語った回だ。

七人の侍には、主役級の俳優のほか、いわゆる東宝の大部屋俳優も数多く出演している。もちろん僕は、画面にほんのわずかしか登場しない俳優のことは、むかしの映画だし、まったくわからないのだけれど、栩野さんは、まるで「生き字引」のように、抜群の記憶力で、東宝の大部屋俳優の一人ひとりのエピソードを紹介していく。まさに、野上照代さんに次ぐ「生き字引」である。

ひとり、栩野さんがどうしても好きな俳優がいた。いまでいう「推し」である。

その俳優は、名もなき野武士の役で、出演時間は一瞬なのだが、ヘンな芝居をする人で、他の人とは「半間はずれた」芝居をするので、強い印象を残したのだという。それを見て以来、その俳優のことが気になって気になって仕方がない。おそらく黒澤明監督も、撮影当時、その人の演技に、「う~む」と考えたあげく、「よし、オッケー」と、仕方なくオッケーカットにしたのではないかと、栩野さんは想像した。

後年、栩野さんが映画「影武者」のオーデションを受けたとき、黒澤監督に、

「どんな役をやりたいか?」

と聞かれて、

「『七人の侍』の…」

「七人のうち、誰だ?」

「いえ、主役の七人に憧れているのではありません。僕が憧れているのは、野武士役の人で、他の人より「半間はずれた」、ちょっとヘンな芝居をする人で、おそらく監督が困ったあげくオッケーを出したんだろうな、と想像される俳優です」

「野武士?…誰だろう?」

すると横にいた野上照代さん(黒澤映画の伝説的な記録係)が大笑いして、

「ソロモンさんですよ!」

と言うと、黒澤明監督は、

「ああ!ソロモンか!」

とそこで思い出した。

「ソロモンって、外人さんだったのですか?」

と栩野さんが聞くと、

「いや、広瀬正一だよ。ソロモン海戦の生き残りだから『ソロモン』と呼ばれていたんだ。そうかぁ、ソロモンに憧れていたと聞いたら、ソロモンのヤツ、喜ぶぞ」

と黒澤明監督は上機嫌になり、栩野さんはオーディションに合格したという。

広瀬正一は、本多猪四郎監督の映画「キングコング対ゴジラ」で、キングコングのスーツアクターをしていたという。

ところで、本多猪四郎監督の「ゴジラ」第一作は、1954年11月に公開されている。ちなみに「七人の侍」の公開は、1954年4月。栩野さんの話によれば、1954年3月の第五福竜丸のビキニ環礁での被ばく事件のあと、1954年の5月に「ゴジラ」の企画が持ち上がり、8月に撮影を開始して、11月に公開したという。

さて、そのゴジラのスーツアクターは、中島春雄である。この中島春雄も、映画「七人の侍」に斥候役で出演している。つまり、ゴジラになる前の中島春雄を見ることができるのだ。そして「七人の侍」では、「キングコング対ゴジラ」のスーツアクター同士が、すでに共演しているのである。

さて、Wikipediaの「広瀬正一」の項目によれば、「キングコング対ゴジラ」のラストシーンで、「キングコングとゴジラが共に海に見立てた大プールに落ちるシーンがあるのだが、「落下の勢いで中島春雄がゴジラに入ったまま溺死しかけたのを、キングコングに入っていた広瀬がとっさにすくい上げて九死に一生を得た」というエピソードがあるという。これもまたすごいエピソードだ。

さて、その「ソロモン」こと広瀬正一は、1971年に東宝の大部屋が廃止になったあとも、東宝の撮影所の用務員として撮影所に残り続け、ほそぼそと俳優を続けていたという。

で、栩野さんの話で僕が驚いたのは、このあとである。

広瀬正一さんの遺作は、大林宣彦監督の映画「日本殉情伝 おかしなふたり ものくるおしきひとびとの群」(1988)だという。地元のヤクザの親分の「浜の勝造」を演じたのが、広瀬正一さんだというのだ!!

えええぇぇぇっ!!!あの「浜の勝造」は、ソロモンさんだったのか!!!

…て、驚いているのは、俺だけ???というか、そもそも「おかしなふたり」じたいが超マイナーな映画で、たぶん誰も観たことがないだろう。

しかしこれはやはり驚きなのである。あの映画で、鮮烈な印象を残した「浜の勝造」は、ソロモンさんだったのか…(あまりに驚いたので2度言う)

この当時は撮影所の用務員さんだったが、たまたま声をかけられて出演したのだという。そもそもソロモンさんは電話をもたなかったので、実際に撮影所に行ってソロモンさんを見つけることでしか連絡を取ることができなかったのだそうだ。

その後、1990年代半ば頃に体調を崩し、老人ホームに入所するが、ほどなくして死去し、その正確な没年は不明だという。

…なんか、すごくない?ソロモン海戦から始まって、東宝の大部屋俳優、スーツアクター、撮影所の用務員を経て、最後、老人ホームで息絶えるまで、なんとも波乱の人生ではないか!この人が主人公の映画を作ってもいいくらいだ。こういう人たちが、黄金期の日本映画を支えていたんだね。

そしてその映画の歴史に対する敬意から、大林宣彦監督は、ソロモンさんを起用したのではないだろうか。

…て、当然この話わかってるよね、てな感じで書いているけれども、例によって誰にも通じないのだろうな。

| | コメント (0)

担当編集者、ラジオに出る

4月22日(金)

今週は予定を詰め込みすぎてヘトヘトになり、もうだめかもわからんね、と思ったが、なんとかTBSラジオ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまで無事にたどり着いた。

番組の中で、武田砂鉄氏が1か月かけて1冊の本を紹介する、というコーナーがあるのだが、今日はその本を担当した出版社の編集者がゲスト出演していて、その人がなんと僕の担当編集者だった!

俺の知っている編集者が、武田砂鉄氏と対談しているよ!!!

担当編集者、という言い方もおこがましい。なにしろ僕は、その編集者に1回しか会ったことがなく、しかもまだ本を書いていないのだから。

コロナの前なので、3年くらい前だったと思う。僕はその編集者から連絡をもらって、会うことにした。本を1冊書いてくれませんか、という依頼だった。

都内の喫茶店で会うと、その編集者はじつにおしゃれでスマートな人だった。聞くと、前職の会社では哲学系の雑誌を編集していたそうで、なるほど、立ち居振る舞いは、そうした哲学的な雰囲気を醸し出していた。

そんな人が、僕に本の執筆を依頼してもいいのだろうか?僕はおそらく、その編集者の好みとは正反対の原稿を書いてしまうに違いないと、僕は最初から、すっかり怖じ気づいてしまった。

僕はその喫茶店で、本の構想をお話しした。不思議なもので、他人に話すと、なんとなく書けそうな気がしてくる。

しかし、いざ書き始めると、どうもしっくりいかない。自分が書いていて、おもしろくないのである。

こういうときは経験上、無理に書き続けずに、少し時間をおいた方がいいのだが、そのうちに、忙しくなり、原稿に取りかかる時間がすっかりなくなってしまった。

その編集者からは、節目節目にメールをいただいて、「原稿はどうなりましたか?」と聞かれるのだが、「いま書いていますが、なかなか進みません」と答えるしかなかった。まるで「いま出ました」というそば屋の出前の言い訳そのものである。その編集者が、僕の言い訳に呆れているであろうことは、容易に想像できた。

そんなことが3年くらい続いているので、こちらからも連絡が取りにくい状況になっていたのだが、その編集者が武田砂鉄氏と対談している様子を聴いて、僕は複雑な気持ちになった。

僕がそのラジオを愛聴していることを、その編集者に伝えたいという衝動に駆られたのである。

「聴いてましたよ!武田砂鉄さんとラジオで対談したなんて、すごいですねえ」と、言ってみたい。

しかしそこでうっかり連絡を取ってしまうと、

「ところで原稿はどうなりました?」

と、思い出して催促されかねない。ヘタに連絡を取らない方がよいだろうか。

それとも、あえて編集者と連絡を取り、それをきっかけにしてふたたび原稿執筆に弾みをつけるか???

これはかなり危険な賭けである。

…というより、僕がサッサと本を書いていたら、今ごろは僕の本がラジオで武田砂鉄氏に紹介されていたかもしれない、などと妄想したりもする。

ま、実際にはそんなこと、あり得ないんだけど、担当編集者が出演したばかりに、僕の心はそんなふうにひどくかき乱されたのである。

もっとも、その編集者は、僕のことをすっかり忘れているかもしれない。

| | コメント (0)

リユニオン活動

僕が愛聴しているTBSラジオ「アシタノカレッジ金曜日」と文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」の両方にゲストとして出演した人が、エッセイストの酒井順子さんである。巷では「サカジュン」と呼ぶらしい。

僕は酒井順子さんの名前になじみがなかったのだが、むかし、『負け犬の遠吠え』という本が話題になって、その作者が酒井順子さんだと知った。『負け犬の遠吠え』は読んだことがないが、タイトルだけは知っていると言うくらいだから、当時、そうとう話題になったということだろう。

ふたつのラジオ番組で告知していたのは、酒井さんの『うまれることば、しぬことば』という本で、言葉を生業にしている人にとっては、じつに興味深そうな本である。

ところで、いま言葉を生業にしている人間が、最も気になる言葉とは、何だろう?と考えると、

「させていただく」

という言葉ではないだろうか。

もっともこれは、酒井さんの著作ではなく、『させていただくの語用論』(ひつじ書房)を書いた椎名美智さんが専門とする。武田砂鉄氏も、この「させていただく」に注目している。

「それでは、会議を始めさせていただきます」

というのは、いまや職場で日常茶飯事の言葉となるのだが、僕はこの「させていただく」がどうにも苦手である。

僕もつい、使ってしまうことがあるが、なるべく使わないようにしようと努力している。他人様が2回に1回、この言葉を使うとすれば、僕はせいぜい5回に1回くらいにとどめようと思いながら、「させていただく」という言い方を控えている。

ところが最近、この4月から始まった朝のラジオ番組を聴いていたら、メインパーソナリティーが、

「それでは、番組を始めさせていただきます」

と言っていて、たちまち聴く気が失せた。メインパーソナリティーだけでなく、パートナーも同じような頻度でこの言葉を使っていて、言葉を生業にするのだったら、もう少し表現を意識してほしいなあとつい文句が出るのは、僕自身が年をとった証拠である。

いや、今回書きたいのは「させていただく」についてではない。「サカジュン」さんの本についてである。

何気なく使っている言葉を突き詰めてみると、いろいろな問題が見えてくる。「J」時代の終焉、「○活」の功罪、「卒業」からの卒業、「自分らしく生きること」が格差社会を後押しする、「気づいた」から「気づきをもらった」へ、なぜコロナと「戦う」のか、スポーツ選手のインタビューにおける話法、など、いわば言葉の「あるあるネタ」である。この本で取り上げている表現は、「させていただく」と同様、なるべくなら使いたくないと思う言葉のオンパレードだ。

で、サカジュンさんの本に興味を持ち、『ガラスの50代』も読んでみたのだが、これは、アラフィフの必読書である。

わかるー、と思ったのが、次のくだり。

「SNSが流行り始めた頃、私は四十代前半。今一つわけがわかっていなかったけれどフェイスブックというものに登録してみたのは、四十五歳の頃でした。それはちょうど、人の「懐かしみたい欲求」が急激に上昇して行くお年頃です。(中略)

そんな中年達にとってSNSは、渡りに船的な道具となりました。昔の仲間達と次々につながり、

『久しぶりに集まりました!』

と、楽しげな画像をアップするという現象がそこここで。(中略)

もちろん私も、例外ではありません。SNS上で、昔の知り合いと次々につながっていくと、青春再来的なわくわく感を覚えたもの。リユニオン的な集まりも、頻繁に開かれるようになりました。(中略)

しかし最初の感動は、次第に薄れていきます。(中略)久しぶりの再会時には懐かしくていろいろな話が弾んだものの、二回目には話すネタも尽き、「ま、こんなものだよね」という感じに。長年会わずにいたのにはそれなりの理由があったのだ、ということがわかるのでした。

私がこのように感じるということは、向こうも同じことを感じていたということでしょう。フェイスブックが広まった頃は盛んに行われたリユニオン活動も、かくして次第に沈静化していったのです」

この文章を読んで、僕のまわりで起こっていたいくつもの不思議な現象が、腑に落ちたのである。

若い子たち(「若い子」の定義は人それぞれだが)は、フェイスブックをあまりやらず、むしろ熱心なのは、アラフィフ以上のほうだったりするのが、前から不思議だった。何でそんな熱心なんだ?と疑問に思っていたが、あれは、中年達にとって、昔の仲間とつながることができる、格好の遊び道具だったからなんだな。

数年前、フェイスブック上で高校時代の同級生たちに声をかけられて、グループLINEに参加させられたのだが、僕以外のメンバーはお互いに親しかった連中ばかりで、当然、久しぶりに再会して飲みに行こうと、えらく盛り上がった。

僕はまったく行かなかったのだが、数ヶ月に一度ていど、仲のいい人たちが集まり、それこそ『久しぶりに集まりました!』と、楽しげな画像をアップしたり、次の集まりの日程調整のLINEが来たりと、最初のうちは盛り上がっていた。ところがいまは、パタッと音沙汰がなくなった。もちろん、新型コロナウイルスのまん延の影響が当然あるだろうし、僕がそのグループLINEから知らない間にはずされている可能性もある。それにしても、みんながみんな、ふだんの近況報告ひとつよこさなくなったというのは、あまりに極端ではないか。

なるほど、サカジュンさんの言う「リユニオン活動が沈静化する」というのは、こういうことを言うのだなと、溜飲が下がる思いがしたのである。

こういうことを冷静に分析できて、わかりやすく書ける人になりたい、という意味でも、この本はアラフィフにとって読むべき本なのである。

| | コメント (3)

ダウンタウンヒーローズ

4月20日(水)

3週連続で、関西出張である。そのうち、先週と今週は日帰り出張なので、かなり身体にこたえる。

新幹線の往復の時間を利用して、早坂暁『ダウンタウンヒーローズ』(新潮文庫)を読む。

この本を読もうと思ったのは、先日、BS松竹東急で放送された山田洋次監督の映画『ダウンタウンヒーローズ』(1988年公開)を観たからである。公開当時は観ておらず、今回が初見である。

僕はてっきり、早坂暁が脚本を書いたものとばかり思っていたが、早坂暁は原作者で、脚本を書いたのは山田洋次と朝間義隆、いわゆる「寅さんコンビ」であることを、今回映画を観てはじめて知った。

そうなると話が違う。映画全体は、山田洋次テイストがかなり強いのではないだろうか。早坂暁ワールドと言うより、山田洋次ワールドといった方がいいのではないか、という仮説を立て、原作を読んでみることにしたのである。

で、原作を読んでみると、映画の内容とは似て非なるもの、というより、まるで違うことがわかった。原作の設定を借りただけで、中身はオリジナル作品といってもよいくらいだ。

原作は、早坂暁の「自伝的長編小説」と言われているが、旧制松山高校時代、遊郭の娼婦と恋仲になり、娼婦とともに背中に刺青を彫り、さらにはヤクザに追われるなど、怒濤の展開が繰り広げられる。主人公は娼婦を深く愛していたが、最終的には娼婦が主人公のためを想って身を引く、と言うところで、この物語が終わる。全体にわたっていわゆる「下ネタ」も多く、山田洋次監督の映画とは対極にあると言ってもよい。

対して映画のほうは、主人公が無垢な純情青年(中村橋之助)。それに、原作にはないマドンナ(薬師丸ひろ子)も登場し、その関係を軸に物語が展開する。構造的には、「寅さん」と同じといってもよい。

これだけ作風の異なる作品を、なぜ山田洋次監督は、原作の内容を大幅に変えてまで、映画にしようと思ったのだろう?

実は原作の中で、山田洋次監督が登場する。

早坂暁がいた旧制松山高校は、海を隔てた山口高校と毎年野球大会をしていた。当時応援団にいた早坂は、山口高校との試合を松山で行うとき、率先して相手校を出迎えて、わざと遠回りして松山高校まで案内し、相手校の選手を無駄に歩かせて疲れさせる作戦をとっていたという。

「寅さんの映画監督山田洋次さんは後年、松山の新聞社の記者にぼやいていたそうで、どうやら山田監督はそのときの山口高校の応援団の中にいたらしい。山田さん、どうもあの時はごめんなさい。」

つまり早坂暁が松山高校にいたころ、山田洋次は山口高校にいたのである。

映画版「ダウンタウンヒーローズ」の中にも、松山高校の学生と山口高校の学生が対決する場面がある。山田洋次監督なりのノスタルジーが、この原作により喚起され、映画版では山田洋次監督なりの「ダウンタウンヒーローズ」を描きたいという衝動に駆られたのではないだろうか。原作の早坂暁に対する「アンサー映画」のようなものだろうか。ちなみに小説は1986年に刊行され、そのわずか2年後の1988年に映画化されている。

早坂暁は上京して浅草で若き渥美清と知り合い、生涯の友となる。一方、山田洋次監督もまた若いころに渥美清と知り合い、生涯にわたって「寅さん」映画を撮り続ける。渥美清を介しても二人はつながっている。

なお、原作小説『ダウンタウンヒーローズ』にみえるエピソードのいくつかは、早坂暁脚本のドラマ「花へんろ」の中にも盛り込まれている。このドラマもまた、早坂暁の自伝的ドラマである。

また、早坂暁が脚本を書いた「渥美清のああ、青春日記」というドラマでは、渥美清が若いころにストリッパーと恋仲になるが、最終的にはストリッパーが渥美のことを考えて身を引き、行方知れずとなるという結末を迎える。これはまさに『ダウンタウンヒーローズ』の結末と同じテイストであり、このあたりが虚実皮膜の世界である。

| | コメント (0)

阿佐ヶ谷発

4月19日(火)

ちゃんと追っかけているわけではないが、最近は阿佐ヶ谷姉妹を観ない(聴かない)日はない、というほどの勢いである。

文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」は、今週はスペシャルウィークということで、「大竹メインディッシュ」のゲストも豪華である。

阿佐ヶ谷姉妹がパートナーだった昨日(月曜日)のゲストは、作家の五木寛之だった。今日の通勤の車中で聴いた。

たまたま縁がなかったのか、五木寛之の小説は、いままで1冊も読んだことがない。映画「青春の門」を、2作品ほど観た程度である。しかし、本を読んだことがなくても、五木寛之の名前を知らない人はいないだろう。それはすごいことである。

で、恥ずかしながら、初めて五木寛之の語りをちゃんと聴いたのだが、語り口がとてもよい。まことにエラそうな言い方だが、表現の隅々に至るまで、配慮が行き届いていると感じたのである。

総じて、文筆家は喋りが上手である。よい文章を書く人は、よい語りをする。これは以前、NHKのアナウンサーだった鈴木健二氏が、何かの文章で書いていたと記憶する。

もっとも、「大竹メインディッシュ」にゲストに出てくる文筆家の中には、ちょっと下世話な物言いをしたり、ちょっと横柄な物言いをしたりしている人もいる。五木寛之の語りがそれとはまったく違う次元にあるのは、長い間ラジオに携わってきたからだろうな。それに、戦中戦後の過酷な体験もまた、その語りを裏打ちしているのだろう。

よいものを聴いたなあ。

夜遅くに帰って、今度は、昨日に録画したNHKの「阿佐ヶ谷アパートメント」の3回目を観た。

番組の後半の「初めての2人旅」というコーナーがおもしろい。今回は、ボディービル以外の世界を知らないという10代の若者・坂本さんが、視覚障害者の片岡さんと、1泊2日のキャンプ生活をする、という。

片岡さんが、めちゃめちゃおもしろかった。坂本さんが天然ボケをかますと、片岡さんがすかさずツッコミを入れる。

テントを組み立てるときに、わからない部品があると、坂本さんは片岡さんに、

「これ、何すかね?」

と聞くのだが、

「俺に聞くなよ!」

とツッコむ。このタイミングと言い方がすばらしい。片岡さんは芸人ではないけれど、ちょっと志村けんを連想するほどである。

そういう芸人がもっと現れてもいいんじゃないだろうか、と思ったりした。志村けん並みにおもしろい人が現れたら、全力で応援して、全力で笑おう。

よいものを観たなあ。

| | コメント (0)

ブルシット・ジョブ

4月19日(火)

僕がけっこう頼りにしていた人たちが3月末で人事異動になったり、任期満了を待たずして辞めていったりした。ようやくあうんの呼吸で物事が進むようになった矢先に人が変わってしまっては、調子が狂ってしまう。新人さんはまだ全然慣れていないので、いきなり仕事を頼むわけにいかず、なかなか仕事が回らない。最近はこんなことが続いている。

先日、あるオンライン会合で、「5年後の未来はどうなっているでしょうね」という意見交換の企画があったけれど、5年後の未来は、夢を語るほど明るくはないだろう。「仕事の回らない社会」と答えたい。

それはともかく。

本社の、面識のない社員から、メールが送られてきた。

「このたびの資料について、下記ストレージにアップロードいたしましたので、ご確認をお願いいたします。」

どうやら重要な書類である。リンクが貼ってあり、そこをクリックして、ストレージからダウンロードすることにした。

(ずいぶん大量にあるなぁ…)

書類の数が多すぎる。

まとめてダウンロードすると、zipという形式で保存される。それを解凍すると各ファイルがあらわれる。それくらいはわかる。日常的に、zipという形式で保存されたものを、解凍するというのは、いままでなんとなくできていたので、同じやり方で解凍した。

そしたらあーた、ファイル名がすべて文字化けしているではないか。

いままでも、稀にそんなことはあったが、たいていはうまくいっていた。それにしてもこんな重要な書類、しかもこんなにも数の多い書類に限って、なぜすべてのファイル名が文字化けしているのか?

このクソ忙しいのに、めんどくせえなあ。僕はさっそく返信した。

「書類、ダウンロードできたと思うのですが、ファイル名の文字化けがヒドくて、どれがどれに対応しているのかがよくわかりません。ファイル名の特定に時間がかかっております。もし可能であれば、ファイル名を文字化けしない形で工夫してお送りいただけますと幸いですが、もし難しい場合は、このままで何とかしようとは思います。」

するとその社員から、さっそく返信が来た。

「ご連絡くださり、誠にありがとうございます。文字化けについて詳しくお聞かせいただければと思いますが、特定のファイル形式(PDFのみ、またはWordのみ)にかかわらず、すべてのファイルが文字化けという状態でしょうか。普段お使いのOSについてもご教示いただけると幸いです。また、代替手段について確認させていただきたいのですが、先生は当社のポータルサイトのメッセージ機能はご覧になれますでしょうか。書類一式はファイルサイズが大きいので、メール添付というわけにもいかず、なんらかのファイル転送の手段でお送りしたいと思っております。」

ますますめんどくせえなあ。だいたい「当社のポータルサイトのメッセージ機能」ってなんだよ?!使ったことないぞ。それに、使っているOSを教えなければならないのか。どうもこちらに原因があると言いたいらしい。

僕は返信した。

「早速のお返事ありがとうございます。すべてのファイル名が文字化けしております。私が使っているのはWindows10です。ノートパソコンは、P社のLという機種です。もし原因がわからないようでしたら、ファイルの中身を見ながらファイル名をこちらで書き換えますので、問題ないかと思います。お騒がせいたしました」

僕はもう、この問題を終わりにしたかった。てっきり、向こうが解決してくれるもんだと思っていたのだが、どうもその気はないらしい。

さっそく返信が来た。

「ご連絡いただきまして、ありがとうございます。ストレージの設定上、UTF-8エンコードに対応していない圧縮解凍ソフト(Lhaplusなど)で、文字化けが発生するようです。7-Zipなど、UTF-8エンコードに対応している圧縮解凍ソフトウェアや、Windowsエクスプローラーの書庫解凍機能を利用することで、文字化けなく解凍できるとのことです。すべて内容を確認いただくのはお手間かと思いますので、お試しいただけると幸いです」

はあ???

ちょっと何言ってるんだかわかんない(byサンドウィッチマンの富澤)。

何で俺の方で手間をかけなければならないのだ?それに「Windowsエクスプローラの書庫解凍機能」と言われても、何のことかわからないぞ。俺のことを買いかぶるんじゃないぜ!

あくまでも、おまえのほうでなんとかしろとの一点張りである。

僕はちまちまと、ひとつひとつのファイルの内容を確認しながら、それにふさわしいファイル名をつけていった。

こういうのを、「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)」と言うのだろうな。

| | コメント (0)

ささやかなカルチャーショック体験

鬼瓦殿

こんばんは。高校時代の友人・元福岡のコバヤシです。

お疲れのようですが大丈夫ですか?

週末に行かれた動物園は、私も物心がついた頃に連れて行かれ、象やキリンのぬいぐるみを買って貰って楽しかった思い出が残っています。

塩谷先輩の たんたんタヌキのナントカは のピアノソロも懐かしく読ませていただきました。

そんなことはさておき、所変われば品変わる、ということで、今日、衝撃を受けた出来事があったのですが、恐らく関西人が大多数の職場の同僚に話したところでこの驚きを理解して貰えないと思い、貴君にメールをした次第です。

ことのあらましはと言えば…。

今日、業界団体の会合があり、浪速の商業の中心地、船場のとある商業ビルに行って来たのですが、その会合の受付で、何をお飲みになりますか?と尋ねられました。

メニューを見るとホットコーヒーとアイスコーヒーに加えて、ジュースというのががあります。東京でこうした会合があると、ほぼコーヒーしか無いのですが、コーヒーが苦手な人もいるので気を使ってジュースを用意しているのかぐらいに思い、その場は流して終わりました。

その後、直ぐに会合が始まり暫く経つと、給仕の女性が飲み物を配り始めました。コーヒーと共に先程おやっと思ったジュースらしきもの、オレンジジュースにしてはどちらと言えば黄色に近い少し泡立ったような液体です。

アレは何のジュースだろうという思いながら、会合の報告を暫く聞いてから、ふと顔を上げると30人近くいるほぼ50歳過ぎと思しきオッさん達のおおよそ半数、いや三分の二以上のオッさん達前に置かれていたのは、先程述べた黄色っぽい謎の液体、即ちジュースではないですか。

想像して見てください。50過ぎの20人を超えるオッさん達の集団がストローでその黄色っぽいジュースを飲んでいる姿を。私はこの異様な光景に大きな衝撃を受けました。

気付けば、私と一緒に会合に参加した同僚もこのジュースを飲んでいます。その同僚に、それ何のジュース?と聞くと、同僚は不思議そうに、自分はいつもジュースを飲むんですよ、としか答えてくれません。

会合が終わり、帰路につくところで、ハタと気づいたのですが、もしやアレが噂に聞く大阪名物のミックスジュースではないか。

家に帰ってネットで早速調べると、ミックスジュースというのは、半世紀以上も前に大阪の果物屋が傷んで来た果物を有効利用しようと作ったジュースで、なかなか評判が良かったので、そのジュースを出す喫茶店を開店したところ、折からの喫茶店ブームに乗り、瞬くまに大阪中に広まり、今では大阪のソウルフードになっている、とのこと。

なるほどと思ったものの、でもやはり大勢のオッさんがミックスジュースを飲んでいる光景はなかなかに衝撃的です。

この衝撃は、前にメールしたように思いますが、大分県の喫茶店でミルクセーキを見た時以来のものでした。

とは書いたものの、次回の会合では、オレもミックスジュースを飲んでやろう、と思った次第です。

ということで、本当にどうでも良い話を失礼しました。

では、またそのうち!

| | コメント (0)

思いつきで動物園に行く

4月17日(日)

今日は1日、ダラダラと過ごすつもりでいたが、家族の提案で動物園に行くことにした。

「疲れているんなら、最寄りの駅まで車で送ってもらえば電車で行くけど」

「いいよ、動物園まで車を運転するから、みんなで動物園に行こう」

実際、休みの日にはほとんど家にいる状態なので、運動不足が甚だしい。動物園ならば、それなりに歩くだろうから、適度な運動になる。同じマンションに住む姪の家族もさそって、郊外の動物園に行くことにした。

小さいころ、この動物園に行ったことがあるかどうか、ほとんど記憶にない。というのも、もともと僕は、動物園に興味がなかったのだ。しかしまあ、4歳になった娘は、動物園に連れて行けば喜ぶのではないだろうか。

午前9時半に出発し、車で1時間ほどで動物園に着いたのだが、目の前の光景を見て驚いた。

動物園の入り口に、人が列をなして並んでいる。

考えてみれば、コロナの感染に警戒しているこのご時世、野外にある動物園は、感染のリスクをあまりともなわない場所として、まる1日過ごすことのできる、お手軽な場所なのである。考えていることは、みんな同じなんだな。

動物園に来ている人のタイプは、子ども連れの家族か、カップルか、動物マニアか、写真マニアか、のいずれかである。

いやいやいや、阿佐ヶ谷姉妹もたしか、むかしは姉妹のふたりでよく動物園に行ったって言っていたから、カップルと言っても、お付き合いをしているカップルだけとも限らないぞ。仲のいい人たちで行く場合もあるだろう。

阿佐ヶ谷姉妹で思い出したが、動物の行動を観察することで、さまざまな仕草を自分の中に吸収する芸人とか役者がいるとやも聞いている。

動物マニアでも写真マニアでもなく、たんに動物を見て癒やされるために一人で訪れる人もいるだろう。

そう考えると、動物園は「全方位外交」の場所なのだ。これだけの人が集まるというのも頷ける。

僕は、上野動物園(といっても、上野動物園じたい、ほとんど訪れた記憶がないのだが)のような動物園をイメージしていたのだが、さにあらず、郊外の山にある動物園なので、敷地が広く、起伏が激しいのである。「アフリカ園」だの「オーストラリア園」だの「アジア園」などと、かなり広範囲に動物のエリアが広がっている。

(こりゃあ、聞いてないぞ)

ふだん運動不足の僕にとっては、かなりこたえる場所である。しかし、もともと運動不足解消のためにと思って来たのだから、おあつらえ向きと言えば、おあつらえ向きである。

「まずはライオンを観に行こう」

と、ライオンのいるスペースまで歩いていると、途中、4歳の娘をめがけて、カラスが襲ってきた。

「ギャァ~!!!」

まるでヒッチコックの「鳥」の世界である。

「カラス!カラス!」

「カラスはいいの!ライオンを観なさい」

ほどなくライオンのエリアがみえてきた。

「ライオンがいる!」

遠くの方にライオンがいるのがわかったが、しかしほとんどのライオンは寝ている。

すると、先ほどのカラスが、ライオンのいるエリアめがけて飛んでいき、木の台の上にとまった。

よく見ると、木の台の上にあるライオンの餌(生肉)をついばんでいる。カラスの目当ては、ライオンの餌だったのだ。

恐るべし、カラスである。だってライオンの食料を奪うんだから。いまや百獣の王は、ライオンではなくてカラスなんじゃないだろうか?

そうこうしているうちに、お昼の時間になった。こちとら、思いつきで来ちゃったものだから、お昼ご飯のことを考えていなかった。あらかじめ準備してきたわけではなかったので、園内の食堂で食べるしかない。案の定、園内の食堂は混んでいて、長い時間かけて並んで、食事を手に入れて、どうにか座る場所も確保できた。

しかしこの時点で、もうグッタリである。4歳の娘も駄々をこね始めている。

というか、実はあんまり動物に関心がないみたいだ。

歩いていると、お城のような建物が目に入った。

「あのお城に行きたい!」

「あのねえ、動物を見に来たんでしょう?お城は関係ないの」

「でも見に行きた~い!」

といってきかない。

「わかった、じゃあ、コアラさんを観てからお城に行こうよ」

と、なんとかなだめながら「コアラ館」までたどり着いた。

コアラといったら、あーた、動物園のメインキャラクターといってもいい動物ですよ!

しかし、娘はあまり関心がない様子。

「コアラ館」の天井はドーム状になっていて、星をイメージした豆電球がちりばめられている。まるでプラネタリウムを思わせるのだが、しょせんは豆電球なので、ちゃちな感は否めない。

「あ、お星さま!」

「あのねえ、動物を見に来たんでしょう?お星さまが観たいんだったら、また『お星さまの映画館』(プラネタリウム)に連れて行ってあげるよ」

「お星さまの映画館、行きた~い」

動物学者よりも、天文学者に向いているのか?

結局、娘はコアラにはほとんど目を向けることがなかった。

仕方がないので小5の姪に、

「コアラはねえ、オーストラリアにしか生息していないんだよ」

と言ったら、

「オーストラリアにしかいないコアラが、なんで日本にいるの?」

と聞かれ、ぐうの音も出なかった。

コアラ館を出た娘は、先ほど見えた「お城」にどうしても行きたいと駄々をこね、仕方ないので行ってみたのだが、行ってみると、お城の中に入れるわけではない、というか、かなり朽ちた感じのお城である。どうも以前までアジア象のいた場所だったのだが、老朽化が激しくなり、アジア象エリアが移転して、いまは廃墟になっているようなのである。

うら寂しい気持ちを抱えて、動物園のもうひとつのメインキャラクター、オランウータンのところにむかったのだが、どうやら疲れた様子で、離れたところにある椅子に座り、おやつを夢中になって食べ始めた。

「ほら、オランウータンがこっちを見ているよ!」

と言って、一番近くでオランウータンが見える柵の手すりのところまで促したのだが、娘は手すりを見つめている。

「あ、蜘蛛だ!」

「ええぇぇぇー、そっち?」

手すりの蜘蛛のほうが気になる様子。

まるで、マレーシアのジャングルで「動物を観察しなさいよ」と藤村ディレクターに言われて、渋々動物を観察している大泉さんを見ているようである。わかる人がわかればよろしい。

一事が万事、そんな感じで、後半は歩き疲れたのか、「早く帰りた~い」と大声で叫ぶばかりだった。

「これだったら、近くの○○の里公園に連れて行っても同じだったね」

よかれと思って連れて行ったのだが、甲斐がないというのは、このことだ。

近いうちに「リベンジ」したいが、父親に似て、やはりもともと動物に関心がないのかもしれない。

| | コメント (1)

くたばれ!関係消費

4月15日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ、金曜日までたどり着きました。

今週は、全力で走り抜いた1週間だった。

月曜日の午前中は力仕事、火曜日は朝から夜まで職場で来年のイベントの打合せ、水曜日は新幹線と在来線を乗り継いで4時間以上かかる場所で来年のイベントの打合せ、木曜日は朝から夕方まで病院をハシゴして定期の検査。そして今日、金曜日は朝から夜まで今年度から始まるプロジェクトの打合せ。

「新年度早々、こんなに飛ばしていたら、もちませんよ」

と同僚に言われた。しかしどうにも、気ばかりが焦ってしまって、予定を詰め込んでしまう。

夜10時、TBSラジオ「アシタノカレッジ金曜日」を聴きながら、車を運転して家に帰る。

今日のゲストは芸人のマキタスポーツ氏だった。

TBSラジオリスナーなら、「東京ポッド許可局」の3人のうちのひとりでおなじみなのだが、恥ずかしながら僕は、「東京ポッド許可局」を聴いたことがない。どうも聴くタイミングを逃したまま、今の今まで来てしまったのだ。

マキタスポーツ氏に対するイメージは、その風貌から、粗暴な感じの人なのかと思っていたら、全然違っていた。非常に論理的で、冷静で、誠実に話をする人なのである。

とくに僕がグッときた会話は、以下のくだりである。

武田 エッセイの中で、芸人さんには、石のような目をする人と、星のような目をする人(キラキラしている人)がいると書いてますけれども、マキタスポーツの「目」は、石と星の、どちらですか?

(マキタスポーツは少し考えて)

マキタ 「東京ポッド(許可局)」の話をしてもいいですか?

武田 ええ

マキタ 「東京ポッド(許可局)」は、サンキュータツオとプチ鹿島と僕と3人でやっておりますが、その中でいちばん星の目に近いのは、僕じゃないかなと思います。

…ここから話が展開していくのだが、一見、何の変哲もないこのやりとりに僕がなぜグッときたかというと、「『東京ポッド(許可局)』の話をしてもいいですか?」と、武田砂鉄氏にことわりを入れているからである。

つまり、「身内の話を持ち出してもいいですか?」と、ことわったうえで、話を進めている。

言ってみれば、

「座席のリクライニングを倒してもいいですか?」

と、新幹線の前の座席の人が後ろの座席の人に言うようなものである。それと同じで、これから話すことは馴れ合いの身内話にならないように配慮しますよ、というメッセージだと、僕は受け取った。

この部分だけでなく、40分ほどのトークを通じて、芸人の身内話という安易な話の転がし方をまったくせずに、一般論として抽象化できるような話にすることで、リスナーの共感を得る、あるいはリスナーに考えさせる、という姿勢を貫いている。

芸人の身内話、すなわち、誰が先輩で誰が後輩だとか、誰と誰が仲がいいとか悪いとか、芸人の関係性がわかっていないと理解できない笑いを、「関係消費の笑い」というのだそうだ。そのアンチテーゼとして、「関係消費」を極力排して話そうとするマキタスポーツ氏の姿勢に、芸人としての誠実さを感じたのである。

| | コメント (0)

取り残された人

4月13日(水)

今日はまる1日かけて、検査のために病院のハシゴである。午前中は、自宅から電車とバスを乗り継いで2時間近くかかる総合病院、夕方は、都内の病院である。

午前、1時間以上かけて病院の最寄りの駅に着き、そこからバスに乗って総合病院に向かう。

総合病院行きのバスの停留所に行くと、僕の前にふたりの人がすでに並んでいた。

ひとりは、アジア系外国人と思われる若い女性で、小さい赤ん坊を抱えている。

もうひとりは、おばあちゃんというべき、高齢の女性である。

やがて総合病院行きのバスが駅のロータリーに入ってきて、停留所の前に停まった。

僕の前にいるそのふたりの女性はどうやら、前と後ろ、どちらのドアから乗ったらいいのかわからない様子で、うろうろしている。

そうこうしているうちに、前の扉が開いた。続々と人が降りてくる。このバスは前扉が降車専用で、後方の扉が乗車専用なのだ。

しかし、ふたりには、そのことがわからない。

ふたりは前の扉に近づいた。乗客が降りたあとに、前扉から乗ろうと考えたのである。

僕は、

「後ろの扉から乗るんですよ」

と言った。

ふたりは、不思議そうな顔をした。この時点で、まだ後方のドアが開いていないからである。

バスに乗り慣れている人はわかるだろうが、発着のバス停では、乗客を入れ替えるために、まずはバスに乗っている人を降ろしてから、新しい乗客を乗せるのである。だから、最初に降車専用の前扉が開き、やや時間をおいて、乗車専用の後方扉が開くことになっているのである。

その仕組みがわからないと、開いている扉から乗ろうとするのは、無理もないことである。

乗客が大方降りたあと、後ろの扉が開いた。最初に乗ったのが、赤ちゃんを抱いたアジア系外国人の女性で、次に乗ったのが、高齢の女性である。

高齢の女性は、「あれ?あれ?」と言いだした。

「キップが出ないけど」と僕に向かっていった。「キップ」とは、整理券のことである。

「ここが始発なので、整理券が出ないのだと思いますよ」

と言った。それでも、その女性は不安に思ったらしく、バスの運転手に、

「あの…キップが出ないんですけど」

と尋ねた。バスの運転手は、「ここは始発の停留所なので」と、僕とまったく同じ答えをした。

アジア系外国人の女性のほうは、手に回数券のようなものを持っている。「10円」と書いた回数券が、3枚ほど、ミシン目でつながっている。本来10枚綴りだったものが、使っていくうちに3枚になったのだろう。

彼女は運転手にその回数券らしきものをみせて、

「あの…これ、使えますか?」

とおそるおそる聞いた。そういえば、最近、回数券というものを見たことがない。彼女がもっていた回数券も、ずいぶんと年季が入ったもののようにみえた。

運転手は、「使えますよ」といった。彼女は安心したようだった。

それにしても、170円の運賃を、回数券を使って30円を節約している様子は、かなり切ない。

このふたり以外はみな、交通系カードで「ピッ」と支払っているのである。おそらくこのふたりは、そうしたものとは無縁の世界で生きているのだろう。そう考えると、ますます切なくなってきた。

ふたりは総合病院で降りた。僕も降りたが、病院の建物に入ると、大勢の人に紛れて、ふたりの姿は見えなくなってしまった。あのアジア系の外国人女性、病院で診察してもらうのは、自身なのだろうか、それとも胸に抱いている赤ちゃんのほうなのだろうか。僕はそのことばかりが気になった。

広い待合のスペースには、たくさんの椅子が置いてあるが、ほぼ全部の椅子がうまっている。しかもほとんどが高齢者である。平日の午前中の総合病院は、高齢の患者がほとんどなのだ。

病院も、診察券が磁気カードになり、診察の受付から会計の処理まで、すべて機械が行ってくれる。だが、すべての人が慣れているわけではない。僕は、こうしたシステムに取り残されてしまう人のことを想った。

診察の受付の機械に診察券を入れると、まるでレシートのように、本日の検査の順番や診察の予定時間を書いた紙が出てくる。僕はその紙をもって、まずは採血の部屋に向かった。すると、後ろから声をかけられた。

「あのう…」

「なんでしょう?」

「診察券、取り忘れてますよ」

慌てて診察受付の機械のところまで戻ると、係の人が、これですね、と、僕の診察券を渡してくれた。

本来ならば、レシートのような紙と、診察券のふたつを、機械から回収しなければならないのだが、僕はレシートのような紙をとっただけで、診察券のほうは取り忘れたのだ。

なんという物忘れのひどさだろう。

取り残されているのは、ほかならぬ僕自身ではないか。

| | コメント (0)

移動と打合せの日々

4月13日(水)

新幹線に乗り、西に向かう。日帰り出張である。

今週は、移動と打合せに、大部分の時間がとられる。

昨日は朝から夜8時過ぎまで、職場で打合せが続いた。外からのお客さんとの打合せなので、つきっきりで対応しなければならない。

そして今日は、新幹線と在来線を乗り継いで4時間以上移動して、目的地に着いて早々に、打合せを行う。これもまた、ほとんど休みなく3時間ほど続いた。

打合せ以外の時間は、必然的に移動時間ということになるのだが、職場への通勤には車で2時間。その間はラジオを聴く以外は何もできない。

では新幹線の移動中は仕事できるのかといえば、僕は新幹線の中でパソコンを打とうとすると、酔ってしまうので、何もできない。

つまり出勤にせよ出張にせよ、長い移動時間には何もできない、ということなのである。

移動と打合せの間じゅう、山のようなメール、とまでいうのは極端だけれども、けっこう表現に気を遣って返信しなければならないメールが何件も来ており、返信の内容を考えるだけでも、頭が重くなって、やる気が失せてしまう。

返信しなければならないのだが、どうにも頭脳がストップしてしまうのである。

仕方がない、帰宅してから返信メールを書こう、と、そのときは決意するのだが、いざ帰宅してみると、もう完全に脳が疲労していて、何も書く気が起きなくなる。

では、明日にできるかといえば、明日は朝から夜まで病院をハシゴして検査の旅に出るので、日中は時間がとれそうにない。

金曜日は、やはり朝から職場にお客さんが来るので、早起きして2時間かけて車で移動して、つきっきりで何人かのお客さんと打合せをするので、時間がとれるかどうか。

打合せをすると、打ち合わせしっぱなし、というわけには行かなくて、その打合せをふまえた作業をしなければならないのだが、その作業時間もとれない。

その間にも表現に気を遣って返信しなければならないメールがひっきりなしに来る。つまり雪だるま式に膨れ上がるのである。

これを借金にたとえるとするなら、いつになったら、借金を返すことができるのか、やはり5月の大型連休かなあ。

| | コメント (0)

贋作・アベノマスク論ザ・ファイナル

贋作・アベノマスク論

以前書いた「贋作・アベノマスク論」の意味が、森達也編著『定点観測・新型コロナウイルスと私たちの社会』(論創社)の中で、武田砂鉄氏が「アベノマスク論」を一貫して書いていることへのオマージュであることは、たぶん読者は誰も気づいていない。

このたび、この本の第4弾「2021年後半」編が出て、そこにも武田砂鉄氏が「アベノマスク論ザ・ファイナル」というタイトルで書いている。

アベノマスクというネタで、およそ2年、全4回にわたって書き続ける、というのは、ひとつの芸である。

この中で武田氏は、自分が大学卒業後に10年間勤務した出版社の思い出を書いている。

新入社員の研修で連れて行かれたのが、埼玉の奥のほうにある倉庫だった。倉庫には、書店から返品されてきた本がうずたかく積み上がっていた。研修の担当者は、「みなさんが編集した本が売れないとこんなになっちゃうんだからね」と笑いながら言った。

自分が実際に編集者になり、あの人たちの顔と声が頭によぎることになる。

「…必要以上の在庫はコストがかかるだけだから、最低限の本を残して断裁されてしまう。定期的に断裁リストが社内で配布される。シンプルに言えば、営業部が『こんな本はこれからも売れないのだから、これくらい残して、あとは全部処分しますからね』と通達してくる。逆らう言葉を探せずに、泣く泣くサインをする。これが市場メカニズムってやつだ」

このあと、「ほとんど誰も使わないものを送りつけ、倉庫に大量に残され、これを維持するために莫大なお金をかけ、それでいて、これは必要だったと言い張っているのだから、会社なら潰れるかもしれないし、社長なら辞任すべき事案なのかもしれない」と、アベノマスク批判が展開される。

僕が以前、自分の書いた本が上記とまったく同じ運命をたどったことを引き合いに出しアベノマスク批判をしたことと、論理展開は同じである。あたりまえである。倉庫に在庫を抱えて売れそうにない本は、コストがかかるので処分する。これは出版界の常識で、使わないアベノマスクを丁重に扱うことは常識の尺度では到底測れない。業界人ならば誰でも不条理に感ずるはずなのである。

もっとも、泣く泣くサインするのは編集者だけではない。著者自身も自分の本の処分に泣く泣くサインしている。いつぞやは、在庫のうち400冊を処分するという通知が来て、それでは自分の本があまりに不憫なので、自腹で100冊を買いとった。僕のように売れない本を書く人間もまた、自分の本の運命とアベノマスクの運命を比較してしまうのである。

それにしても、どうしてこうも、武田砂鉄氏と問題の視点が類似するのか。

思うに、「推し」っているでしょう。僕はとくに「推し」はいないのだが、なぜ「推し」にハマるのか、なぜ、その人が自分にとっての「推し」になるのか?それは、自分が思っていることを、あたかも「推し」が代弁してくれると感じているからではないだろうか。自分の内面を気づかせてくれる存在なのてある。クドいようだが、僕には「推し」がいないのだが。

| | コメント (0)

オマージュ

忙しくて、あまり書くことがない。

NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。三谷幸喜の脚本による大河ドラマは、「新選組!」「真田丸」に続く3作目だが、3作目になると、さすがに洗練されてきて、過去2作より、どんどんおもしろくなっている、ような気がする。

第14回の「都の義仲」エンディングは、長澤まさみのナレーション、

「その夜、鎌倉は二つに割れた」

で締めくくられるが、僕はそのナレーションを聞いて、ニヤリとした。

ははぁん、これは、脚本家の早坂暁さんへのオマージュだな、と。

僕が小学生の頃、TBSテレビで放送された司馬遼太郞原作・早坂暁脚本のドラマ「関ヶ原」は、1981年の正月2日~4日の3日間にわたって放送された大型時代劇で、このブログでもたびたび書いているように、僕がいままで観た時代劇の中で、最高傑作である。

なにしろ、配役がすごい。これほど豪華な配役を迎えてのテレビの時代劇は、空前絶後であろう。

さてそのドラマの第二部、つまり二日目のエンディングは、燃えさかる炎をバックに、石坂浩二のナレーション、

「この日、日本は二つに割れた」

で締めくくられる。

第14回「都の義仲」のエンディングのナレーションは、「関ヶ原」を強く意識している、というか、そのままであることは疑いの余地はない。

三谷幸喜は、むかしから早坂暁の脚本に敬意を表していたので、おそらく、いつか自分もそのような場面を描くときに、オマージュとして同様のナレーションを使用したいと思っていたのではないだろうか。

前作「真田丸」で、関ヶ原の合戦シーンをあえて描かなかったのは、どうがんばっても早坂暁の「関ヶ原」を越える脚本にはならないと思っていたからではないか、と、いうのはうがち過ぎだろうか。

ちなみに「関ヶ原」第一部のエンディングは、

「この日、イギリスの都ロンドンでは、シェークスピアの『真夏の夜の夢』が上演されている」

というナレーションで締めくくられ、これがまた痺れるほど素晴らしい。

| | コメント (0)

コレナンデ商会

4月8日(金)

いろいろあったが、今週も無事、「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着いた。

とくに書くことが思い浮かばない。

この4月は例年よりも、自分が気に入っていた番組(テレビ・ラジオ)が次々と終わってしまうとか、番組を「卒業」する人がいる、といったことが、とりわけ多いような気がしている。

NHKのEテレ「コレナンデ商会」が終了してしまったのも、その一つである。

毎日欠かさず観ていた、というわけではないけれど、非常にウェルメイドな番組だあと思って、楽しみに観ていたのに、どうして終わってしまったのだろう。

なんと言っても、放送作家の下山啓さんの構成と、塩谷哲さんの音楽がよかった。

塩谷哲さんは、僕の高校の2つ上の先輩で、同じ部活だったが、当時から伝説的な人だったので、まったくお話ししたことはない。ただ、僕が高1のときの定期演奏会で、当時高3だった塩谷哲さんが、ドラムを叩いていて、つまり一度だけ、僕は塩谷さんと同じ舞台に立ったことがあるのだが、僕のアルトサックスのソロがあまりにお粗末な出来だったので、苦笑されたことは覚えている。

塩谷さんは、たまに音楽室に来ると、ピアノを即興で演奏していた。「たんたんたぬきの♪」で始まる曲が、いつの間にかリチャード・クレイダーマンの「渚のアデリーヌ」のメロディーに変わっていたり、とかいった、ギャグ演奏みたいなことをして、後輩たちを驚かせていた。

「コレナンデ商会」の音楽も、いかにも塩谷さんらしい音楽だなあと思って、楽しみに聴いていた。

下山啓さんのほうは、実はよく知らなかったのだが、ある友人から「『カリキュラマシーン』の放送作家だった人ですよ」と聞いて驚いた。僕が子どものころに観ていた「カリキュラマシーン」の作家が、いまも現役で子ども向けの番組の構成作家をしていたのである。

調べてみたら、TBSテレビで放送されていた、ドリフターズが声優をつとめる人形劇「飛べ!孫悟空」の構成もしていたんだね。そう言われてみたら、「コレナンデ商会」に登場する人形たちのルーツは、「飛べ!孫悟空」にあるような気がする。それに主題歌の作詞もしていたんだね。

だから番組の中で流れる「下山啓作詞・塩谷哲作曲」の歌は、僕にとって最強の組み合わせなのだ。

川平慈英のエンターテイナーぶりも、とてもおしゃれだった。

こんな良質な子ども番組が、なぜ終わってしまったのか、腑に落ちない。

後継の新番組を、ちゃんと観ていないのだが、関西を拠点とする大手お笑い事務所の芸人が司会をする番組になってしまった。

番組を観ていないので、おもしろいのかどうかはわからないが、こうやってどんどん、子ども番組にもこのお笑い事務所の芸人が入り込んでいくのかと思うと、正直言って、ゲンナリしてしまう。

むかしはそうでもなかったのに、この事務所の芸人がなぜ苦手になったのだろう。

「アシタノカレッジ金曜日」で、武田砂鉄氏がたしかこんなことを言っていた。

「テレビで芸人さんたちが、同じ事務所の芸人同士の内輪話みたいなものを喋っているのを観ると、なんで俺がそんなことを知らなくっちゃならないんだ?という気になる」

ナンシー関のコラムをまとめた文庫の解説にも、「最近のテレビは業界内事情をちらつかせることが多い」といったことを書いていた。

僕がその大手事務所の芸人に対して抱いていた違和感は、それなのだなと得心がいったのである。

そういえば、ある配信番組で、ラランドという芸人(僕は実はネタを見たことがないのだけれど)が、

「関西を拠点とする大手お笑い事務所の芸人さんたちは、初対面のときに、しきりに『誰と同期?』と聞いてくるんですよ。ほかの事務所の芸人さんにはあまり聞かれないんですけどね」

というようなことを言っていた。つまり、上下関係とか派閥を意識し、同時にそれを視聴者や聴取者にも共有させようとする構造の中に置かれているのである。個々には好感が持てる芸人が数多くいても、その構造の中に彼らがいるということに気づかされたときに、僕はある幻滅を感じてしまうことを、告白しなければならない。

…て、俺はいったい何の話をしているのだ?つまり言いたいのは、「コレナンデ商会」は、そういったものとは対極にある番組だった、ということである。

| | コメント (0)

学恩

4月7日(木)

今日は朝から、作業場にこもって立ちっぱなしの作業である。ほぼ毎年行っているが、年々身体が辛くなってきた。

唯一の休み時間が、別室でお弁当を食べる1時間の昼休みなのだが、お弁当が楽しみかといえば、楽しみといえるほどのお弁当でもない。

弁当を食べ終わった頃、携帯電話が鳴った。見慣れない番号だったが、電話に出た。

「もしもし、鬼瓦先生の携帯ですか?」

「そうです」

「私、Tの妻です」

「あ、T先生の!」

T先生は、このブログでもたびたび登場していた「眼福の先生」のことである。

昨年のはじめ頃、僕と妻は、「眼福の先生」がかつて心血を注いで文字起こしをした、ある人の日記を世に出したい、と思い、それらを編集した。

もともと「眼福の先生」は、その書き起こしを公表するつもりがなかったようなのだが、あるとき、その原稿を見せていただいて、大変驚いた。書き起こした日記の分量があまりに膨大であったばかりか、そこに、「眼福の先生」による詳細な注釈が施されていたのである。

これは世に出さないといけない。

僕たちは、「原稿の体裁はすべてこちらで整えますから」と、先生を説得して、この膨大な原稿を公開する計画を立てた。

僕も妻も、基本的には恩師のために何かをする、ということをひどく嫌うタイプなのだが、「眼福の先生」だけは違った。

先生が、ワードプロセッサーに打ち込んで保存していた、フロッピーディスクが残っていたので、それをいまのパソコンで読めるように変換して、それを読みやすい体裁にととのえていった。その作業はおもに妻が行った。体裁をととのえる、というと簡単に聞こえるが、先生の膨大な知識と複雑な思考回路を理解しないと原稿が整理できない。作業は思った以上に難航した。

ようやく体裁がととのった昨年の2月頃、先生にその原稿を送り、「序文」を書いていただいた。それは、その日記に対する愛情にあふれた、じつに素晴らしい序文だった。

これですべてがととのい、その原稿をある雑誌に投稿した。

ところが、まことに残念なことに、「眼福の先生」は、昨年の8月に亡くなった。突然のことだった。

原稿が雑誌に掲載され、刊行されたのが、今年の3月31日である。

ついに刊行された「眼福の先生」の渾身の原稿を、先生ご本人に献呈できなかったことは、痛恨の極みであった。もっと早くに作業に取りかかっていれば、と、僕はひどく後悔した。結果的に、先生に書いていただいた「序文」は、先生の絶筆になってしまった。

僕は、多少の後ろめたさを感じながら、完成した雑誌を、手紙を添えて、先生の奥様宛にお送りした。

その雑誌がお手元に届いた、ということで、今日、奥様から電話をいただいたのである。

「ほんとうにいろいろとありがとうございました」

「とんでもないです。私たちのほうこそ、先生の学恩には感謝するばかりで、ご恩返しをしたいと思っておりましたので」

それから、先生がお亡くなりになるまでの様子を、少しだけうかがった。

僕は、完成した雑誌を先生に直接ご覧いただくことが叶わなかったことが残念でなりません、と申し上げた。すると奥様はおっしゃった。

「いつだったからしら、雑誌の編集担当から、原稿が審査に通りましたって、連絡がありましたでしょう?」

「ええ」

「それを聞いて、主人がとても喜んでいましてねえ」

そうか、先生は生前に、この原稿が確実に公表される、ということを知って、安心されていたのだな…。

僕はそのお話を聞き、少しだけ、救われた気がした。

「いまはこんな状況ですけれども、近いうちにお線香をあげにうかがいたいと思います」

「そのお気持ちだけでもうれしいです。主人の実家のお墓は、ちょっと遠いところにあるのですけれど、少しでも近いところにと思って、近々都内に移す予定なんですよ」

「そうでしたか」

その折には、お墓参りに行こうと思う。そして、先生のふるさと-それは僕にとっても思い出深い土地なのだが-にも訪れたいと思う。

午後の作業の時間になってしまったので、10分ほど話しただけで慌ただしく電話を切り、そのまま作業場に向かった。

| | コメント (0)

引きは強いが、謎は残る

4月6日(水)

朝早くに家を出て、新幹線で西に向かう。今回は、久しぶりに予定を詰め込んだ出張なので、自分の体調が心配である。実際、体調はいまひとつである。

着いたのは、千年の都といわれる町である。

そこから地下鉄に乗り、目的の駅で降りる。

この駅は、これまで何度となく降りた駅である。東西に走る三条通はよく歩いた。とくに通り沿いにある喫茶店は、この町を訪れるたびに利用していた。円卓状のカウンターの中で、店員さんがせわしなくコーヒーを淹れている様子は見ていても飽きなかった。

まだ約束の時間まで少しある、と思って、その喫茶店の前まで行くと、残念ながら改装工事中で、1年後に再開予定とのことだった。

しばらく界隈をうろうろしたあと、時間になったので、最初の用務先である施設に入る。

今回の打合せ、というか交渉ごとに関して、二人の方が対応してくれたが、一人は以前からの知り合い。もう一人は、初対面である。初対面の人はまだ若い。

名刺を交換すると、おもむろにこんなことを言った。

「僕の妻が、鬼瓦先生の『前の職場』の卒業生で、鬼瓦先生のことをよく知っていました」

「え!そうですか。直接教えた学生でしょうか」

「いえ、ゼミは違うのですけれど、友だちや先輩の中には、鬼瓦先生のゼミ生もいたそうです」

まったく、狭い世界である。

というか、ここでもまた、引きの強さを発揮したぞ!

しかし、不思議である。前の職場と、この場所とでは、かなり距離が離れている。

「ちなみに、ご出身はどちらですか?」

と聞くと、その方ご自身は中部地方で、その人の妻、つまり僕の「前の職場」の卒業生は、東北地方の中核都市であるという。

ますます謎である。

そもそも二人は、どうやって知り合ったのだろう。大学での専門分野も、まったく異なっている。出身大学も違うようだ。

それに、遠く離れたこの町に、どのような経緯でたどり着いたのだろう。

野次馬根性の塊である僕は、その人の人生について小一時間インタビューしたい、という衝動に駆られたが、そもそも打合せの時間が限られているし、初対面の人に突っ込んで聞く話でもないので、グッとこらえた。

打合せをしているうちに、予定していた1時間半があっという間にすぎた。

引きの強さのおかげか、非常に好意的に対応していただき、この施設をあとにした。

次に向かったところは、まったくの初対面の場所である。

僕はそもそも、人と話すのが苦手で、初対面の人ならばなおさらである。つまりはこの仕事にむいていないということなのだが、しかしそれで「お足をいただいている」(by小沢昭一)ので、仕方がない。

こちらもまた対応してくれたお二人が好意的な方だったので、うまく話が進んだ。

ひとまず初日の用務は無事に終了したのだが、今回対応していただいた4人の方は、いずれも私よりはるかに若いことに、いささかのショックを受けた。広い意味で同業者なのだが、この業界で僕は何も成し遂げていないまま無駄に年を重ねてしまったことを恥じながら、次の用務先である隣県に向かった。

| | コメント (0)

宇宙とトンネル

4月3日(日)

3月31日をもって忙しい役回りから離れ、ようやく2年間のオツトメを終了した。そのせいか、一気に力が抜け、この土日はほとんど何もせずに過ごした。仕事は山積みなのだが。

それに、長らく重荷になっていた3月末締め切り厳守の原稿、というか草稿を、4月1日に送信した。もっとも、これから刊行まで、1年ほどかけて、他の執筆者との内容や文体の調整を行うことになっている。

さっそく先方から受け取りの返信が来たのだが、「3月末をもって、担当のひとりである○○が退職することになりました。私ひとりになってしまいましたが、引き続きよろしくお願いいたします」とあり、若干、不安を覚える。

お辞めになる人はまだ、定年ではないと思われるのだが、何かの事情でお辞めになったのだろうか。その詮索はともかくとしても、数年計画のこのプロジェクトも、1枚1枚葉が落ちるように、担当者が減っていって、このプロジェクトは上手くいくのだろうか、と心配になった。そもそも、このプロジェクトチームは、全員男性で、しかも平均年齢がかなり高い。注意力や忍耐が必要となる作業がこれから予想されるのに、そうした作業にふさわしい人材を補充することはできるのだろうか。予算が削減されている現状では、望むべくもないのかもしれない。まあ、現状でなんとかするしかないのだろう。

土日は何もする気が起こらなかったので、撮りだめていた映画を観ることにする。

アメリカ映画『ドリーム』(2016年)を観た。1961年のNASAを舞台に、アメリカ初の有人宇宙飛行計画を成功させるために活躍した黒人女性の物語である。白人ばかりの職場で、不当な待遇を受けていた黒人女性の計算手たちが、自らの才能と技術をもって差別や偏見に立ち向かっていく。…と書くと、主張の強い映画のように思われるかもしれないが、主人公の3人が愛すべきキャラクターなので、観ていて楽しいし、ラストに至る展開はじつに小気味よい。

実話をモデルにした映画で、登場人物も実名である。映画のエンドクレジットでは、主人公3人の本人の写真が映される。同じ年に公開されたクリント・イーストウッド監督のアメリカ映画「ハドソン川の奇跡」も、実話をもとにした映画で、エンドクレジットに当事者たちの映像が流れていたと記憶しているから、こうした手法は流行なのだろう。

規模はまったく異なるが、僕が2日前に原稿を出した、数年計画のプロジェクトと、つい重ね合わせて観てしまう。類い希な技術をもつ救世主はあらわれるだろうか。

もうひとつ、映画『黒部の太陽』(1968年公開)を観た。『ドリーム』がアメリカの国家事業に関する映画だとすれば、こちらは、この国の国家事業に関する映画である。そういう意味では共通点をもつのだが、『ドリーム』のような明るさや小気味よさはなかった。もちろん、制作年代に違いがありすぎるが、仮にいま、『黒部の太陽』を作ったとしても、その視点はさほど変わりないのではないだろうか。なにより、こちらの方は、プロジェクトに関わった人間が、全員男性である。女性はひとりもいない。いまの視点で撮り直したとしても、『ドリーム』のような描き方はできないであろう。

そういえば、『海峡』(1982年公開)という映画も録画していた。これもいずれ観ようと思うが、それにしてもこの国は、国家事業を描く映画となるとなぜ、トンネルを作る映画になるのだろう。あ、『はやぶさ』があったか。

| | コメント (0)

あなたのルーツを教えてください

4月1日(金)

今週も、無事にTBSラジオ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着いた。

年度末だった昨日(3月31日)は、本当にドタバタなうちに終わったが、今日はわりと心穏やかに過ごすことができた。

「アシタノカレッジ金曜日」の「ニュースエトセトラ」のコーナーは、澤田大樹記者がコロナの濃厚接触者になったため、急遽、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんが代打で登場した。

番組のトークの中で、武田砂鉄氏が、安田菜津紀さんの最新刊『あなたのルーツを教えてください』(左右社)をたびたび紹介し、絶賛していた。僕もいま、時間を見つけて少しずつ読んでいたところだった。

この本については、奇妙な縁がある。

去年だったか、ある沿線の町の本屋さんに立ち寄った。ここ最近はまったく行ってないのだが、昨年、何回か立ち寄ったことがある。小さな本屋さんなのだが、品揃えにこだわりがあり、本を本屋さんで買わなくなったこのご時世でも、お客さんが途絶えることのない、不思議な本屋さんだった。

その本屋さんは、著者や出版社に焦点をあてた「フェア」を定期的にやっている。「フェア」といっても、書棚のワンコーナーのスペースだけを使う、小さなイベントである。

だが、たんに関連本を並べているだけではない。著者に焦点をあてたフェアだったら、その著者自身が、出版社に焦点をあてたフェアだったら、その出版社の社員が、フェア期間中にたまにそこにあらわれて、フェアに関心ありそうな人に声をかけ、客とコミュニケーションをとるのである。

で、僕はある日、その本屋に立ち寄ると、左右社という出版社のフェアをやっていた。面白そうだったので、書棚の前に立って並んでいる本を眺めていると、声をかけてくる人がいた。聞くと、左右社の社員の方だった。

どんな本にご興味がありますか、的な話から始まったと思うが、僕はその書棚の中の、ある本を指さした。

「この本、持ってます。面白い本ですよね」

「そうでしたか。ありがとうございます」

「僕が最近編集した雑誌で、紹介しました」

「同業者の方ですか?」

「いえ、違います」

名刺交換をした。

受け取った名刺を見たら、相手の苗字が僕と同じで、ビックリした。

「雑誌というのは…」

「うちの職場で出しているささやかな雑誌です」

「そうでしたか」

「袖すり合うも多生の縁です。せっかくですから、おすすめのものを買いましょう」

「どんなことに興味がおありですか?」

「○○について勉強したいんですけど、ありますか?」

「それですと、この著者の本ですね」

と薦められ、そのうちの1冊を購入した。

帰ってから、これも何かの縁だと思い、僕がその出版社の本を紹介した雑誌を、名刺に書かれた出版社の住所に送ることにした。

誤解のないように言っておくが、僕が編集した雑誌の中でその本を紹介したからといって、それが本の宣伝になったとは思っていない。なぜなら、僕が紹介する前にその本はかなり売れていたから。宣伝してあげましたよ、というつもりで送ったのではなく、その本のおかげで、こういう特集を組むことができましたよ、ということを伝えたかったのである。

送ったものの、とくに返事が来るようなことはなかった。それは日常茶飯事のことだし、僕も不義理を重ねてばかりいるから、まあそういうものだろうとさして気にもとめなかった。

そんなことを忘れかけた頃、つい最近、その出版社からレターパックが送られてきた。中を開けてみると、本が2冊入っていた。同封されていた手紙には、次のようにあった。

「お送りいただいた雑誌を楽しく拝見しました。お好きそうな本が出たらお送りしようと思ううちに、時間が経ってしまいました。間が開いてしまい、たいへん申し訳ありません。

○○の本を手にとってくださった鬼瓦様に、『わたしが先生の「ロリータ」だったころ』と、最新の話題書『あなたのルーツを教えてください』をお送りします。ご高覧下さい」

…ということで、奇妙な縁を感じたわけである……って、あいかわらず説明がクドいよ!!

安田菜津紀さんは、もちろん面識は全くないが、TBSラジオリスナーとしてはおなじみの人だったので、よくぞ送ってくれました、と感謝しながら読み進めていたところだった。

しかもいつも聴いているラジオ番組で、安田さん本人が登場するばかりでなく、武田砂鉄氏がその最新刊を絶賛するというのは、シンクロニシティというべきか。

ただ、この本はいま読むべき本です、と、読者が5人くらいしかいないこのブログでいくら宣伝しても、まったく効果がないのが哀しいところである。

| | コメント (0)

« 2022年3月 | トップページ | 2022年5月 »