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裏取りできず

まことに卑俗な喩えだが、井伏鱒二『荻窪風土記』は、さながら「トキワ荘」の小説家版といった趣である。井伏鱒二の周囲をとりまくさまざまな作家のエピソードが喜怒哀楽をとりまぜてちりばめられる。

僕はいつも、本筋とは関係のないところが気になるのだが、『荻窪風土記』にこんな記述を見つけた。

「私のうちのネコは昭和三十二年の六月、お産がうまく行かなくて犬猫病院で帝王切開の手術を受けた。私が山形県最上川上流の樽平の美術館を見に出かけた日に入院して、私が旅行から帰ったときには退院した後であった」

ここに出てくる「樽平の美術館」は、僕も何度か行ったことがある。「樽平」というのは、この地方の有名な地酒で、その名の通り、ほのかに樽の香りがするのが特徴である。酒造業を営んでいる家が美術品を集めるというのはよくあることだが、それにしてもここの美術品の質と量には圧倒された記憶がある。

井伏鱒二が昭和三十二年六月にこの美術館に訪れたとすると、この片田舎(といっては失礼だが)の美術館にとっても、大切な歴史の一齣である。

この事実を確かめようと調べてみると、井伏鱒二の「還暦の鯉」という随筆に、この地を訪れた記述があった。それによると、東北を旅行し、白石川での釣りをしたが、なかなかうまくいかずに諦めた。その翌日に県境を越えたという記述がある。

「県境の向うへ出て最上川の上流に行った。ここでも釣りは諦めて、川西町小松という物淋しい町の井上さんという旧家を訪ね、美術館の古陶器を見せてもらった。個人蒐集のものである。町は淋しいが、ちゃんとした美術館で然るべき品が五百点以上もそろっていた。

この町は、丁字路の両側に家が並んでいるだけで、裏手は田圃である。話によると、ここでは田圃に豆を順序ただしく蒔くと山鳩が来てみんな食べるので、わざと不規則に蒔くのだという。海の魚も、腐りかけて臭くなくては魚らしくないとされているところだという。一年のうち何箇月かは、見渡すかぎりの雪野原だという。こんな町に立派な美術館がある」

と書かれている。『荻窪風土記』は、このときのことを記述したものであろうか。

ところが、この随筆は昭和31年7月に『暮しの手帖』に発表されたもののようで、『荻窪風土記』に書かれている「昭和32年6月」とは齟齬が生じる。これはいったいどういうことなのか。

昭和32年6月は、この随筆を収めた随筆集『還暦の鯉』が新潮社から刊行された時期にあたるので、あるいは『荻窪風土記』ではそれに引っ張られて記憶を勘違いしたのだろうか。

それとも、昭和31年7月以前(おそらく雪解け水が川に流れる春頃)に一度訪れ、昭和32年6月にもう一度訪れたのだろうか。

「還暦の鯉」では、白石川での釣りをあきらめ、さらに最上川での釣りもあきらめ、本来の目的ではない美術館訪問をしたところ、その美術館が思いのほかよかったという感想を抱いている。

一方で『荻窪風土記』のほうは、「私が山形県最上川上流の樽平の美術館を見に出かけた日」と書いており、当初からこの美術館を訪れるつもりだったようにも読める。両者はややニュアンスが異なるのである。

そうするとやはり、井伏鱒二はこの美術館を2回訪れたのだろうか。当の美術館に、記録が残っていればいいのだが。

インターネットを探ってみると、むかしは、東京の神楽坂に蔵元直営の樽平の店があり、井伏鱒二はそこに太宰治を伴ってしばしば顔を出していた、と、あるサイトに書いてあったが、いまのところ裏がとれていない。だがもしそうだとすると、井伏鱒二はずいぶんと前から、つまり太宰治が生きている頃から、樽平の味が気に入っていたということになる。だとすると、大好きな樽平の蔵元をわざわざ訪ねた理由もうなずける。

とっくに解明されていることなのかも知れないが、気になったことなので書きとめておく。

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