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学恩

4月7日(木)

今日は朝から、作業場にこもって立ちっぱなしの作業である。ほぼ毎年行っているが、年々身体が辛くなってきた。

唯一の休み時間が、別室でお弁当を食べる1時間の昼休みなのだが、お弁当が楽しみかといえば、楽しみといえるほどのお弁当でもない。

弁当を食べ終わった頃、携帯電話が鳴った。見慣れない番号だったが、電話に出た。

「もしもし、鬼瓦先生の携帯ですか?」

「そうです」

「私、Tの妻です」

「あ、T先生の!」

T先生は、このブログでもたびたび登場していた「眼福の先生」のことである。

昨年のはじめ頃、僕と妻は、「眼福の先生」がかつて心血を注いで文字起こしをした、ある人の日記を世に出したい、と思い、それらを編集した。

もともと「眼福の先生」は、その書き起こしを公表するつもりがなかったようなのだが、あるとき、その原稿を見せていただいて、大変驚いた。書き起こした日記の分量があまりに膨大であったばかりか、そこに、「眼福の先生」による詳細な注釈が施されていたのである。

これは世に出さないといけない。

僕たちは、「原稿の体裁はすべてこちらで整えますから」と、先生を説得して、この膨大な原稿を公開する計画を立てた。

僕も妻も、基本的には恩師のために何かをする、ということをひどく嫌うタイプなのだが、「眼福の先生」だけは違った。

先生が、ワードプロセッサーに打ち込んで保存していた、フロッピーディスクが残っていたので、それをいまのパソコンで読めるように変換して、それを読みやすい体裁にととのえていった。その作業はおもに妻が行った。体裁をととのえる、というと簡単に聞こえるが、先生の膨大な知識と複雑な思考回路を理解しないと原稿が整理できない。作業は思った以上に難航した。

ようやく体裁がととのった昨年の2月頃、先生にその原稿を送り、「序文」を書いていただいた。それは、その日記に対する愛情にあふれた、じつに素晴らしい序文だった。

これですべてがととのい、その原稿をある雑誌に投稿した。

ところが、まことに残念なことに、「眼福の先生」は、昨年の8月に亡くなった。突然のことだった。

原稿が雑誌に掲載され、刊行されたのが、今年の3月31日である。

ついに刊行された「眼福の先生」の渾身の原稿を、先生ご本人に献呈できなかったことは、痛恨の極みであった。もっと早くに作業に取りかかっていれば、と、僕はひどく後悔した。結果的に、先生に書いていただいた「序文」は、先生の絶筆になってしまった。

僕は、多少の後ろめたさを感じながら、完成した雑誌を、手紙を添えて、先生の奥様宛にお送りした。

その雑誌がお手元に届いた、ということで、今日、奥様から電話をいただいたのである。

「ほんとうにいろいろとありがとうございました」

「とんでもないです。私たちのほうこそ、先生の学恩には感謝するばかりで、ご恩返しをしたいと思っておりましたので」

それから、先生がお亡くなりになるまでの様子を、少しだけうかがった。

僕は、完成した雑誌を先生に直接ご覧いただくことが叶わなかったことが残念でなりません、と申し上げた。すると奥様はおっしゃった。

「いつだったからしら、雑誌の編集担当から、原稿が審査に通りましたって、連絡がありましたでしょう?」

「ええ」

「それを聞いて、主人がとても喜んでいましてねえ」

そうか、先生は生前に、この原稿が確実に公表される、ということを知って、安心されていたのだな…。

僕はそのお話を聞き、少しだけ、救われた気がした。

「いまはこんな状況ですけれども、近いうちにお線香をあげにうかがいたいと思います」

「そのお気持ちだけでもうれしいです。主人の実家のお墓は、ちょっと遠いところにあるのですけれど、少しでも近いところにと思って、近々都内に移す予定なんですよ」

「そうでしたか」

その折には、お墓参りに行こうと思う。そして、先生のふるさと-それは僕にとっても思い出深い土地なのだが-にも訪れたいと思う。

午後の作業の時間になってしまったので、10分ほど話しただけで慌ただしく電話を切り、そのまま作業場に向かった。

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