贋作・アベノマスク論ザ・ファイナル
以前書いた「贋作・アベノマスク論」の意味が、森達也編著『定点観測・新型コロナウイルスと私たちの社会』(論創社)の中で、武田砂鉄氏が「アベノマスク論」を一貫して書いていることへのオマージュであることは、たぶん読者は誰も気づいていない。
このたび、この本の第4弾「2021年後半」編が出て、そこにも武田砂鉄氏が「アベノマスク論ザ・ファイナル」というタイトルで書いている。
アベノマスクというネタで、およそ2年、全4回にわたって書き続ける、というのは、ひとつの芸である。
この中で武田氏は、自分が大学卒業後に10年間勤務した出版社の思い出を書いている。
新入社員の研修で連れて行かれたのが、埼玉の奥のほうにある倉庫だった。倉庫には、書店から返品されてきた本がうずたかく積み上がっていた。研修の担当者は、「みなさんが編集した本が売れないとこんなになっちゃうんだからね」と笑いながら言った。
自分が実際に編集者になり、あの人たちの顔と声が頭によぎることになる。
「…必要以上の在庫はコストがかかるだけだから、最低限の本を残して断裁されてしまう。定期的に断裁リストが社内で配布される。シンプルに言えば、営業部が『こんな本はこれからも売れないのだから、これくらい残して、あとは全部処分しますからね』と通達してくる。逆らう言葉を探せずに、泣く泣くサインをする。これが市場メカニズムってやつだ」
このあと、「ほとんど誰も使わないものを送りつけ、倉庫に大量に残され、これを維持するために莫大なお金をかけ、それでいて、これは必要だったと言い張っているのだから、会社なら潰れるかもしれないし、社長なら辞任すべき事案なのかもしれない」と、アベノマスク批判が展開される。
僕が以前、自分の書いた本が上記とまったく同じ運命をたどったことを引き合いに出しアベノマスク批判をしたことと、論理展開は同じである。あたりまえである。倉庫に在庫を抱えて売れそうにない本は、コストがかかるので処分する。これは出版界の常識で、使わないアベノマスクを丁重に扱うことは常識の尺度では到底測れない。業界人ならば誰でも不条理に感ずるはずなのである。
もっとも、泣く泣くサインするのは編集者だけではない。著者自身も自分の本の処分に泣く泣くサインしている。いつぞやは、在庫のうち400冊を処分するという通知が来て、それでは自分の本があまりに不憫なので、自腹で100冊を買いとった。僕のように売れない本を書く人間もまた、自分の本の運命とアベノマスクの運命を比較してしまうのである。
それにしても、どうしてこうも、武田砂鉄氏と問題の視点が類似するのか。
思うに、「推し」っているでしょう。僕はとくに「推し」はいないのだが、なぜ「推し」にハマるのか、なぜ、その人が自分にとっての「推し」になるのか?それは、自分が思っていることを、あたかも「推し」が代弁してくれると感じているからではないだろうか。自分の内面を気づかせてくれる存在なのてある。クドいようだが、僕には「推し」がいないのだが。
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