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2022年5月

ニコマコス倫理学

5月30日(月)

午前中にふたつのオンライン会議、それが終わってすぐに都内に移動して、3時間近くの打合せをした。予定が立て込んだせいか、帰宅後は動けなくなる。以前ならなんともなかったのだろうけれど、やはり無理がきかなくなってきている。

たまたま見た「100分で名著」で、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の最終回が放送されていた。朗読は小林聡美。

テーマは「友愛」で、アリストテレスによれば、「友愛」には3つの形があるという。

一つめは、「人柄の善さに基づいた友愛」、二つめは「有用性に基づいた友愛」、三つめは「快楽に基づいた友愛」。

二つめの「有用性に基づいた友愛」とは、たとえば、学生時代、授業のノートを貸してくれたり、試験勉強を教えてくれたりする友だち。三つめの「快楽に基づいた友愛」とは、一緒にいて心地よい友だち。カラオケに行ってバカ騒ぎしたりする友だち。あるいは飲み友だち、等。

二つめについては、有用性がなくなると、関係は疎遠になるし、三つめについては、大人になったり、趣味が変わったりする過程で、やはり関係が疎遠になる。一つめの「人柄の善さに基づいた友愛」というのは、有用な友だちでも、快い友だちでもないのだが、お互いの人柄を尊重し、長続きできる友だち。しかし一つめの友だちを獲得するためには、お互いの人柄を理解しなければならない時間が必要である。

聞き手の伊集院光氏は、得意の漫才コンビとか野球チームなどにたとえて、この分類を理解していたが、おもしろかったのは落語のたとえである。いわく、

落語に登場する「与太郎」は、みんなで一緒に行動しても、まったく役には立たないし、よくポカもする。ではみんなにとって必要のない存在なのかというと、そうではない。与太郎がいると、空気が和み、まわりが安心し、何か困ったことがあったときも、与太郎の人柄でなんとかなる場合もある。「人柄の善さに基づいた友愛」というのは、与太郎のような存在なのではないか。しかし、いまの世の中で、組織の中でリストラが行われるとしたら、まっ先にその対象となるのが与太郎のような存在なのではないだろうか。そうなるとその組織はギスギスする。

…と、こんな内容だったと思う。

以前もこんなこと、たしかブログに書いたよなあと思って過去をたどってみたら、

マネージャーのキクチさん

というタイトルで書いていた。

だから、アリストテレスの友愛論は、僕にとってしっくりきたのだ。

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にじいろ広場

5月29日(日)

土日は、仕事のことをあまり考えたくないので、仕事に関することは何もしていない。

日曜は、4歳2か月の娘を実家に連れて行くことにした。

実家に行く途中に、「にじいろ広場」という公園がある。ここ最近、娘はその公園がお気に入りで、今日も行きたいという。自分自身もそこそこ運動になるし、娘も喜ぶので、一石二鳥と思い、「にじいろ公園」に行くことにした。

にじいろ広場は、敷地が広く、さまざまな遊具がある。そのせいか、いつもたくさんの親子連れが集まっている。今日は日差しも強く、30度を越える真夏日を記録していたにもかかわらず、多くの親子連れが集まって遊んでいた。

「マシュマロくん」という遊具がある。小さい山状の形のもので、トランポリンみたいに飛び跳ねて遊ぶものなのだが、トランポリンほど高くは飛べず、誰かが飛び跳ねると、その振動で小山全体が揺れて、その揺れを楽しむものらしい。

娘が一心不乱にジャンプしていると、1歳くらいの、やっと歩けるようになったくらいの「赤ちゃん」が娘に近づいてきて、娘に触れてきた。

どうもそのとき、娘に雷が落ちたらしい。つまり、ビビッときたのである。

サアそれからというもの、娘は、その赤ちゃんのことが気になって気になって仕方がない。その赤ちゃんの、若い両親が、赤ちゃんを抱きかかえてほかの遊具に移動すると、娘も、その赤ちゃんのあとをついていき、なんとかその赤ちゃんの視界に入ろうとする。

ほかの子どもはどうなのかわからないが、うちの娘は、公園で気に入った子、それがたとえ知らない子であっても、を見つけると、ロックオンして、その子の周りを離れなくなるのである。今回も、そのパターンだろうな、というのが容易に想像できた。

「どうしてあの子についていこうとするの?」

「だってあの赤ちゃん、○○ちゃん(娘のこと)のことが好きなんだもん」

「え?どういうこと、○○ちゃんがあの赤ちゃんのこと好きなの?」

「ちがう。赤ちゃんが、○○ちゃんのこと好きなの」

どうやら、「マシュマロくん」で遊んでいたとき、赤ちゃんに触られたことで、その赤ちゃんが自分のことを好きなのだと思ったらしい。娘にしてみたら、その気持ちに応えたい、と思ったのだろう。しかし、おそらく1歳の赤ちゃんは、そんなことは微塵も考えていなかっただろう。すべては娘の妄想である。

そんなことを考えているうちにも、その若い両親が赤ちゃんを抱きかかえてほかの遊具に連れて行くたびに、娘はその赤ちゃんの行方を追いかける。

やがてブランコのところにやってきた。

ブランコ、といっても、ふつうのブランコではない。「皿型ブランコ」といって、座る部分が大きなお皿状になっていて、その上には、寝そべったり、あるいは何人かで一緒に乗ったりすることもできる。かなりの人気遊具なので、いつも、順番待ちの行列ができる。

くだんの若い両親と1歳児の赤ちゃんは、その皿型ブランコの列に並んだ。それをめざとく見つけた娘は、急いで皿型ブランコの列に駆け寄り、その赤ちゃんの後ろにピタッと並んだ。

「ねえねえパパ」

「なに?」

「○○ちゃん、赤ちゃんと一緒にブランコに乗りた~い」

「乗りたいの?」

まあたしかに、二人で乗ったとしても十分なスペースのある皿型ブランコなので、理屈では一緒に乗ることは可能である。

しかし、まったく知らない赤の他人同士なのだ。しかも、先方は、うちの娘がその赤ちゃんをずっとロックオンしていたなんぞ、知るよしもない。

「じゃあ、○○ちゃんが、自分でお願いしてみたら?」

「なんて?」

「一緒に乗っていいですか?って」

「…恥ずかしい」

「でも言わなきゃ、わからないよ」

しばらく考えたあげく、娘は、

「あ~あ、誰か一緒にブランコに乗ってくれないかなあ~」

と、目の前に並んでいる若い両親と赤ちゃんに聞こえるような大きな声で言った。

「『誰か』じゃわからないでしょ!そんなボンヤリしたことを言っても相手に気づかれないよ!」

「だって恥ずかしいんだもん…。じゃあ、パパが言ってよ」

「どうしてパパが言わなきゃならないの?」

泣きそうな顔をしたので、仕方なく、前の若い両親に声をかけた。

「あのう…」

後ろのおじさん(つまり僕)に不意に声をかけられて、若い両親が一瞬、警戒した顔をした。

「この子がどうしても、一緒にブランコに乗りたいと言ってきかないのですが、一緒に乗ってもらってもいいでしょうか」

若い両親は戸惑った様子だった。

「う~ん。どうでしょう…。一緒に乗って、そちらのお子さんが万が一ケガをしたりすると心配ですからねえ」

おっしゃるとおりだった。実際にブランコを揺らすのは、若い両親のほうなので、何かあったときの責任は、その若い両親の過失ということになってしまう。

諦めようと思ったが、娘があまりに一緒に乗りたいという顔をしていたので、その若い両親も娘の心を汲み、一緒にブランコに乗せてもらうことにした。

娘も、自分のせいで何かあっちゃいけない、ということがわかっていたようで、皿型ブランコに乗って揺らされている間中、その1歳の赤ちゃんがブランコから落ちないようにと、うつ伏せで乗っている赤ちゃんの背中にずっと手を当てて、自分も迷惑をかけないようにと、ブランコの上で身動き一つとらずにじっとしていた。

1歳の赤ちゃんも喜んでいる様子だったし、娘の思いも遂げられて、結果的にはよかった。これで、娘の気も済んだであろう。

「○○ちゃん、これでいいでしょう?じゃあ、赤ちゃんにバイバイして」

「うん」

その赤ちゃんにバイバイして、ようやく気持ちの踏ん切りがついたようだったが、しかしそうは簡単に諦めがつかない様子で、その後も、その赤ちゃんが次はどの遊具に行くのだろうと、その行方をずっと目で追っていた。

情の深い人間に育つのだろうか。

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韓国○○○○の呪縛

5月27日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ、「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

水曜、木曜の1泊2日の出張も、なんとか無事に終えた。

1日目の様子については前々回に書いたが、2日目は、朝10時から夕方4時半過ぎまで、寸分の隙もないスケジュールだった。

この日は、3カ所での挨拶回り。午前中は1カ所だったが、30分程度で終わるかなと思っていたら、思いのほか時間がかかり、2時間ほど滞在することになった。

気がついたら昼の12時。同行の人に、

「これから会食ですよ!」

と急かされ、急いで車に乗り込み、地元の人たち数名で会食。これもまた、イベント準備を円滑に進めるための仕事である。

1時になったので、2カ所目の打合せ場所に移動。そこで、1時間半ほど打合せをした。

次の約束は3時で、そこに行くまでには車で30分ほどかかる。2カ所目の打合せを急いで切り上げ、車に乗せてもらい、3カ所目の場所に移動する。

3カ所目がいちばん緊張する。前日の体験を思い出した。

そこでもやはり、決してアヤシいものではありませんよ、とばかり、噛んで含めるように説明をした。

前日に訪れたところと同じような意見が出されたが、もはや想定内。なんとかまるくおさまった。

気がついたら1時間半が経っていた。同行の人に、車で最寄りの駅まで送ってもらい、ようやく解放された。

…とここで気づいた。朝から全然トイレに行ってない。朝10時から夕方4時半過ぎまで、まったくトイレに行く暇がなかったのだ。

あまり水分をとっていなかったからかもしれないが、それはそれで身体に悪い。急いで駅のトイレで小用を済ませ、水分を補給した。

新幹線の中では放心状態になり、5時間近くかけて帰宅して、昨晩はグッタリしたのである。

…いや、そんなことを書きたいのではない。

数日前、ずっとお世話になっている目上の方から、丁寧なメールをいただいた。

「25日(水)に、用事があってあなたの職場に行くのだが、30分ほど時間がとれないだろうか。韓国○○○○の件で相談があるので」

要約するとそういう内容なのだが、実際のところは、目上の方にもかかわらず、じつに丁寧な表現にあふれていた。

これほど下手(したて)に出た表現でメールをいただくということは、その「相談」というのは、よっぽど無茶なものに違いない。

それより何より、「韓国○○○○の件での相談」というだけで、悪い予感しかしないのである。なぜなら、これまでずっと振り回されてきたから。

しかし、先方が指定してきた25日は、朝から出張なので、職場には出勤しないのである。

僕は、この日が出張で不在となることをメールで返信して、金曜日の午前中にオンラインで打合せをしませんか、と提案した。

で、本日、オンラインによる打合せを行った。

「相談」というのは、韓国で行う国際会合に僕に登壇してほしいという内容だった。

またですか!と、心の中で思った。

「韓国のメンバーは、みんなあなたを頼りにしているんです」とおっしゃるのだが、そんなものはお世辞で、断れないようにするための方便であることは、すぐに理解できた。

国際会合というと聞こえがいいかもしれないけれど、実際のところは、もうここ10年以上、同じようなメンバーが入れ替わり立ち替わり登壇している。言ってみれば、小劇団が、あの手この手で脚本や配役を変えて芝居をするようなものである。そこに僕を使い続けるということは、そのていどの国際会合だ、ということである。

10年以上も続けてきて、さすがにもう、僕には喋るネタがないのだ。俺は打ち出の小槌ではないんだぞ。

しかし、そのお世話になっている方の顔を潰すわけにはいかないので、断る、という選択肢はない。引き受けます、と伝えると、その方は、安堵の表情を浮かべた。

うーむ、またこれでひとつ、エネルギーを奪われるのか、と憂鬱になるばかりだが、愛想を尽かされないだけでもありがたいことだと思い直し、前向きにとらえるしかない。しかし、いつになったらこの呪縛から逃れることができるのか。

午後は、入れ替わり立ち替わり、打合せやらメール対応やら書類作成やらがあり、あっという間に夜になってしまった。家に着いた頃には、「アシタノカレッジ金曜日」が始まっていた。

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ポッドキャスト番組を始めたい

最近の僕のラジオの聴き方は、radikoも使うけれど、リアルタイムで聴くことはほとんどないので、たいていは、ラジオクラウドで間に合ってしまう。ラジオクラウドでお気に入り登録している番組の、お気に入りの曜日とか、お気に入りのコーナーをひとしきり聴いたあと、まだ時間があるときは、ポッドキャストコンテンツを聴く、という流れである。

4月くらいからかなあ、いろいろと探しているうちに、といっても、熱心に探していたのではないのだが、あるポッドキャストコンテンツにたどり着いた。

そのポッドキャストコンテンツのパーソナリティーは、かつて在京キー局のレギュラー番組のパーソナリティーを長くつとめていたベテランで、どういう事情か、数年前にその在京キー局のレギュラー番組がなくなり、いまは、地方局のラジオ番組とかポッドキャスト番組で声を聴くのみである。

僕は、在京キー局時代のその人のレギュラー番組は、そのノリがなんとなく苦手なので聴いていなかったのだが、ポッドキャストコンテンツは、というより、たんなるよしなしごとを延々と語っているにすぎないのだけれど、そのよしなしごとがときに本質を突いていたり、そうかと思えばプライベートな悩みを率直に語っていたりして、ついつい、聴いてしまうようになったのである。

しかしそれも、熱心に聴いていたわけではなく、ここしばらくはその番組を聴いていなかったのだが、移動中の新幹線の中で、何もやることがなかったので、久しぶりにそのポッドキャスト番組を聴いたところ、そのパーソナリティーはこんなことを言っていた。できるだけ正確な形で引用する。

「最近、とあるラテ兼営局のラジオ番組で、午前中にやっていたデイリーワイドが終了したことにより、その番組のファンだった人が、そのロスから立ち直るために、僕のポッドキャストコンテンツと出会い、そのさみしさの穴埋めのためにこれを聴き始めた人っていう人が、けっこういるらしく、複数の人からメールをもらっています。…ちょっとウケる。そんなものなのかなあと。さみしさを紛らわすために、僕のコンテンツを片っ端から聴いているらしいんですよ。へぇー、そんなの、影響するんだーって、思って」

これを聴いて、思わず笑ってしまった。これって、俺じゃん!と。

僕は「午前中にやっていたデイリーワイド」を折にふれて聴いていたていどで、熱心なリスナーではなかったのだが、その後継番組には、ちょっと納得いかないものを感じていた。それがそのポッドキャスト番組に向かわせたことは、おそらく僕も同じなのである。僕は無意識のうちに、ほかの人と同様に、そのロスを紛らわすために、そこにたどり着いたのである。

しかし、「午前中にやっていたデイリーワイド」を担当していたパーソナリティーと、そのポッドキャストコンテンツのパーソナリティーは、必ずしも同じタイプではない。それは、おそらくリスナーも感じていたかも知れないし、ポッドキャスト番組のパーソナリティーの人も、感じていたと思う。なのになぜ俺の番組に流れ込んでくるの?と、本人も訝しんでいたのである。

さてコンテンツの中では、そこから現代のラジオ論が展開されるのだけれど、それがなかなか興味深く、僕は溜飲を下げたのだった。なるほど、こういう分析が、ロスから立ち直ろうとする人の共感を得ているのだろうな、と。

そう考えると、従来のラジオ番組的なるものは、どんどんポッドキャストコンテンツに主戦場を変えつつある。こぶぎさんが「ポッドキャストはメディアの最先端」と評したことは正しい。

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不意打ちの面接試験

5月25日(水)

新幹線と在来線を乗り継いで、1泊2日の出張である。

来年のイベントの協力依頼のため、各所に挨拶回りをするというのが、今回の用務である。

本日の用務先は1カ所で、仲介の労をとっていただいた方から事前の聞いていた話では、「ふたつ返事で協力してくれるようなことをおっしゃってましたよ」という。

しかし念のためご挨拶しておくのは必要なので、その方のお宅にご訪問することにしたのである。

当初予想していた感じと違い、対応された方は、かなり気難しい感じの人であった。名刺をお渡しすると、あ、そうですか、という感じで、受け取られた。

「最初に言っておきますけれど、以前、別のところから協力の依頼でお見えになった方が、とても印象が悪かったので、イヤな思いをしたことがあります。私どもが提供するものを、ほんとうに丁寧に扱ってくれるのか、そのことが払拭されないかぎり、協力しない方針です」

機先を制せられた。こちらをかなり警戒している様子である。

ふたつ返事で協力してくれるようなことを言っていた、というのは、何だったんだ?と不意打ちを食らってしまったが、やはり実際にお目にかかっておいてよかった。ここからがほんとうの交渉ごとである。

僕は、こちらの趣旨をできるだけ丁寧にご説明したが、説明しているうちに汗が噴き出し、心が折れそうになった。

まるでこれは、面接試験だな。

先方は、僕のしどろもどろの説明に納得しているかどうか、顔色ひとつ変えない。

「要点だけ言ってください」

「すみません…」

ひととおり説明を終えたあと、先方は、

「わかりました。…では名刺をお渡しします」

といって、そこで初めて、先方が名刺を差し出した。

…これって、この時点で初めて客として認めてもらったってことか???

僕もいい大人なのだから、これくらいのことでビビっていてはいけない、というのは心ではよくわかっているのだが、やはり、なかなか慣れるというものではない。

最終的には、

「いちおう、承りました」

と言われたのだが、これは、とりあえず合格、とみてよいのか???

よくわからないまま、あまり長居するのも失礼かと思い、ひととおりのご説明が終わった後に退散した。

そういえば、ビジネスマナーをなにひとつ僕は実践していなかったな、と反省した。というか、それどころではなかった。とにかく先方の警戒心を解くために、決してアヤシいものではございません、と、丁寧に説明することにばかり注力していたのである。それが相手の心に届いたのかどうか、今ひとつ、達成感がない。ま、ここまでくれば、あとはなるようにしかならないだろう。

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週またぎ日記

5月21日(土)

午前、4歳の娘とふたりで過ごす。外は土砂降りだが、公園に行きたいと言い出し、しかもよりによって、自宅から歩いて30分くらいかかる「タイヤ公園」に行きたいという。仕方がないので、カッパを着せて、長靴を履かせて、ストライダーで公園まで連れて行く。

しかし遊戯具は当然のことながらすべて濡れている。ブランコに座らせて、少しだけこいで、公園から自宅のほうへ引き返し、さらに歩いて行って、近所にある沖縄そばの美味しいお店で沖縄そばを食べた。これだけで疲弊した。

帰ってから、「パパがタイヤ公園に行きたいと行ったから仕方なく行った」と言い訳した。人のせいにする術を身につけている。

5月22日(日)

自分が生まれ育った町での会議に参加した。原稿は3月中に苦労して書き上げたのだが、これからがたいへんである。前途多難。

会議が終わってから、会議の列席者としばし雑談する。

その後、その町の図書館に行く。必要があって、大正時代の汽車の時刻を調べているのだが、探している時刻表がその町の図書館にあると知り、さっそく出庫をお願いする。かなりむかしの時刻表なので、最初は見方がわからなかったのだが、見ていくうちにわかってきて、わかってくるとおもしろくなる。時刻表って、見ていると時間を忘れるね。時刻表トリックを考えたくなる気持ちが、よくわかる。

しかし時間が限られているので、必要なところだけをメモして、返却した。

5月23日(月)

午後、久しぶりに、不特定多数の人の前で2時間ほど話をする。といっても、対面ではなく、ウェビナーなので、聴いている人の顔は見えない。ひたすらノートパソコンの画面に向かって、ひとり喋りをする。

もともと、2年前の2020年5月22日に行う予定だったのだが、新型コロナウィルスの影響で、対面での講座ができなくなり、延期となった。2年経って、オンラインという形でようやく実現した。

今日はこれだけで疲弊した。アンケートの感想はまずまず。主催者は、来月からは、対面形式の講座に戻す予定です、とアナウンスしていたが、アンケートでは、このままオンライン形式で続けてほしいという希望が多かった。それはそうだろうな。わざわざ足を運ぶよりも楽だし、説明のためのスライドも、間近でじっくり見ることができる。しかしここの主催者に限らず、コロナ禍の中で手に入れた合理性を手放し、「コロナ禍」より前の状態に戻そうとしたがる人が多いこともまた事実である。

ちょっとここ最近、家族ともども、かなり無理をして仕事をしている。やらなければならないことは多いのだが、休むことを罪悪と思ってはいけないね、といいつつ、今週もまた忙しい。

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ビジネスマナーか、謎ルールか

有名な話だが、小学校の道徳の教科書に、次のような問いがある。

「おはようございますの挨拶の仕方、次の3つのうち、一番礼儀正しいのはどれでしょうか?

1、おはようございます、と言いながらお辞儀をする。

2、おはようございます、と言ってからお辞儀をする。

3、お辞儀をしてから、おはようございます、と言う。

さて、どれが正しいでしょうか?」

僕は正解がわからなかったのだが、たぶん多くの人は、「そんなの、あったりまえじゃん」と、正解がわかったに違いない。

正解は「2、おはようございます、と言ってからお辞儀をする」なのだそうだ。

半世紀以上生きてきて、初めて知った(汗)。

へえ、そうなのかぁと思っていたところ、たまたま見た、NHKの「朝の連続テレビ小説」の1シーン。

レストランの従業員たちが、店長らしき人に向かって、朝の挨拶をしている。それを見て驚いた。

全員が、「おはようございます」と言ってから、お辞儀をしているではないか!!!

僕は長年、フジテレビの朝の情報番組「とくダネ!」で、司会の小倉智昭さんが、

「おはようございます」

と言いながらお辞儀をしている姿を見慣れてきたので、僕も無意識のうちにそのように実践してきたのだが、どうもそれは間違いのようなのである。

NHKの朝ドラの従業員役の人たちは、ごく自然に、「おはようございます」と言ってからお辞儀をしたのだろうか?

それとも、演出家が、「そこは、『おはようございます』と言ってからお辞儀をしてください」と指示したのだろうか?

いずれにしても、「おはようございます」と言ってからお辞儀をするという行為が、道徳の教科書通りに、NHKのドラマの中でそれとなく実践されていることに、驚いたのだった。

ほかのドラマではどうなのだろう?ドラマを見る時間はないのだが、気になって仕方がない。

そもそもこの行為が、どれほどの人に浸透しているのだろう?

調べてみると、こういう挨拶の仕方を、「語先後礼」というそうだ。「言葉を先に、礼を後に」という意味である。

あるサイトを見ると、「接客のお仕事などではこの基本型を徹底している企業もよく見かけます。また、就職活動に於いては必須とも言える挨拶の基本です」とまで書いてある。

就活をしている学生にとっては、誰もが知っている、あたりまえのマナーなのだろうか?

ということはですよ、この挨拶の仕方は、道徳の問題ではなく、たんなるビジネスマナーという「謎ルール」にすぎない、ということになる。

むしろ「ビジネスマナーに縛られず、心のこもった挨拶をしましょう」としたほうが、道徳教育として正しいと思うのだが、違うのかな。

まことにこの世は不可解である。

ビジネスマナーというのは、なかなか苦手である。

先方の会社などに対して「さん」付けするのが、いまだになじめない。あと、自分の職場の同僚を、第三者に対しては呼び捨てにするというルールも、なじめない。これって、世界標準なのか?同僚の中には、このマナーを完璧にマスターしている人がいて、世間知らずの僕は、恥じ入るばかりである。

そのうち、

「隣の小学校さんの○○さま、うちのクラスの××が○○さまのことを好きだと言っていましたよ」

みたいな会話が、小学校で飛び交うのだろうか。

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ふたたび、卒業文集、のはなし

5月20日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ、TBSラジオ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

自治体からの給付金4630万円が一人の口座に一括して誤送金されて、それを短期間のうちに一気に使い込んでしまった人のことが、いま話題になっているが、「アシタノカレッジ金曜日」のオープニングトークでは、その人の卒業アルバムや卒業文集をマスコミが公開したことに対する違和感を武田砂鉄氏が述べていた。

ああいう事件が起こるたびに、その事件の当事者が書いた過去の卒業文集がなぜかほじくり返され、マスメディアに平気で晒される。むかしからそうである。一方で個人情報保護と言いつつも、なぜか卒業文集という、人生で最も恥ずかしい文章を顔写真とともに、マスコミは何のためらいもなくさらしている。「ほら、小さい頃からこの人は、金に執着するタイプだったんですよ」と、まるで鬼の首を取ったようにニュース番組やワイドショー番組の司会者が説明する。なぜ攻撃の矛先は、叩きやすい方にばかり向くのだろう。

メインパーソナリティの武田砂鉄氏は、皮肉を込めて、「もし自分に何かあったときに、同級生に卒業文集を差し出させるのは迷惑がかかるから、あらかじめ公開しておきます。僕の卒業文集を公開したい人は、ここから引用してください」として、番組の中で、自分の高校時代の卒業文集の一部を読み上げた。

『出会い』と言うタイトルの卒業文集で、当然、テーマは高校時代に友人と出会ったエピソードなどを書くことが期待されていたのだが、偏屈な武田砂鉄氏は、当然、そんな純粋な文章は書けない。

「過去を振り返る上で、皆が大事と思わないことが、実は一番大事なことだったりする」

と、冒頭で、みんなが書くであろう文章のテンプレートをガツンと牽制した上で、

「なぜ修学旅行の落とし物のパンツは必ずブリーフなのだろう」

「バスの後ろに座っている人が、そのクラスの権力者なのだ」

「勝手に靴を借りておいて臭いとは何事だ!」

「昨日勉強していないと嘆いた人がいちばんいい点数をとった」

「しまった!尿検査、明日だった!」

「いい加減、マフラーはずしなよ」

と、ひたすら、「あるあるネタ」を羅列していたのである。これは明らかに、ふかわりょう氏やつぶやきシロー氏の影響をモロに受けている。

武田砂鉄氏らしい、偏屈な文章である。してみると、やはり卒業文集は、その人の人格形成を知ることのできる最もよい素材ということなのか???

武田砂鉄氏によると、卒業文集では、8割の人は素朴で素直な文章を書くが、1割の人は「ナナメ」の文章を書いて、1割の人はポエムを書くのだという。僕の高校では卒業文集は作らなかったので、小学校や中学校の卒業文集しか残っていないが、中学校の卒業文集を思い返してみると、その割合はやはり8:1:1だったと思う。

で、僕は当然、1割に属する「ナナメ」の文章を書いていた。ずっと前にもこのブログに書いたが、中学の思い出は一切書かず、「水戸黄門は実は漫遊していなかった」というテーマの文章を延々と書いていた。今から思うと、どうかしている。しかし、それが自分の人格形成に決定的な道筋をつけたことも、また事実である。

卒業文集、実家にまだ残っているだろうか。もし残っていたら、自分に何かあったときのために、同級生の手をわずらわせないように、このブログで公開しておこうか。しかし、自分の卒業文集がさらされたとしても、第三者が僕のそのときの心理を分析したり、気の利いたコメントを言うのは至難の業であろう。なぜなら、それを封ずるために書いた文章だからである。

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ネタバレ注意

やるべきことが多すぎて、途方に暮れる毎日である。したがって、ただひたすら雑用に追われ、何も書くことがない。

映画「シン・ウルトラマン」のパンフレットを買ったら、パンフレットに帯がかかっていて、「ネタバレ注意」と赤字で大書されていた。

これは、どう解釈すればいいのだろう?

昨今、テレビやラジオでは、映画評論家が「ネタバレ」しないように、注意深く映画の紹介をする風潮がある。そういう風潮からすると、「ネタバレ」は歓迎されないこととしてとらえられているように思える。実際、僕の妻も、「ネタバレ」をひどく嫌う。

しかし一方で、こんな見方もできる。

世の風潮として、ネタバレを嫌うのが主流だったとしたら、わざわざパンフレットを帯で封印して「ネタバレ注意」とは書かないのではないか?映画よりも先に。パンフレットを見ちゃう人が多いから、「あらかじめパンフレットを見ちゃったら、映画の面白さが半減しますよ」と、ともすればネタバレを歓迎する人たちへの、映画を提供する側からのメッセージととらえることができる。

どっちなのだろう?

今週の月曜日、荻上チキさんの代打として武田砂鉄さんがパーソナリティーをつとめたTBSラジオ「Session」の「メインセッション」のコーナーは、「映画を早送りで見ますか? サブスク時代のコンテンツ消費がもたらす現状と課題」という特集で、ライターの稲田豊史さんがゲストだった。聴いていてなかなか面白かった。

最近は、わかりにくさを好まない。映画の中で、結局だれが善人で、だれが悪人なのか、といった正解を求めようとする。結論がわからなければ、安心して映画を観られない。本来ならば、映画に対する感想は千差万別であるはずなのに、それが許されない風潮、「共感」することをよしとする風潮がある、等々。

そういう昨今の風潮からすると、結論が見えないことほど不安なことはなく、ネタバレには抵抗がなくなっているのではないか?「ネタバレ注意」を求めているのは、観る側ではなく、提供する側なのではないか?

パンフレットに巻かれた帯に書かれた「ネタバレ注意」の赤字を見て、そんなことを感じたのである。

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あるある映画

5月18日(水)

どうしても見なければならない映画があった。

それは、いま話題になっている、あるドキュメンタリー映画である。観るとしたら今日しかない、と思い、近所の映画館に赴く。地味な映画ながら、サービスデーだったこともあって、ほぼ満席だった。

もともと2017年にテレビ局のドキュメンタリー番組として放送されたものを、その後の経過を追加撮影、再編集して劇場用映画にしたものである。

テレビ放送された2017年当時よりも、この国の状況はさらに悪化していることがうかがえた。

なぜ、この映画をどうしても見なければならないと思ったかというと、僕自身が、このテーマに関わる、当事者の1人であったからである。

ここ数年、とくに昨年、僕が実際に体験し、目の当たりにしたことが、映画の中で手に取るよう立ち現れてくる。僕にとっては、あるあるネタ満載の映画だったのである。

こんな損な仕事は、今後、誰も引き受けなくなるのではないだろうか、とさえ思われたが、だからといって、こっちが身を引いてしまうと、やりたがる人間の天下になってしまう。それだけは、阻止しなければならない。結果的に、引き受けてよかった。

この映画の監督は、ここ最近、ラジオ番組や動画配信サイト番組での対談に引っ張りだこである。終始、明るい声で、なにより、めげない性格がすばらしい。本人はそうとうたいへんだったと思うが、それでも心が折れなかったのは、精神的にタフであるとしかいいようがない。

映画の登場人物の中で、この人を俳優の柄本明に演じさせたら最高だろう、と思いたくなる人が出ていた。僕とまったく縁のない人というわけではないのだが、その人の発言が、滑稽で、悲しく、そして恐ろしく、僕は複雑な気持ちになった。以前に見た映画『主戦場』でも同じことを感じたが、ああいうことをカメラの前で無邪気に語ることができる心理構造というのは、どうなっているのだろうと不思議でならない。想田和弘監督の映画『選挙』しかり、「あの種の人たち」は、なぜか無邪気に語りたがる。

こんなことが書けるのも、僕が数年かけて体験したことどもが、万事解決して、情報解禁されたからである。でもその仕事の代表者は、「無事に、というよりも、満身創痍で解決した」と言っていた。僕は末席に連なっただけだが、前線に立った人たちには計り知れない苦労があったのだろう。映画を観ながら、前線に立った人たちの苦労を重ね合わせた。

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しるべの星

亡き人を悼むって、どういうことだろう。

まことに残念なことだが、このところ、有名人の突然の逝去のニュースをよく目にする。

僕がなんとなく違和感を抱くのは、「今ごろは天国で、大好きな○○さんと、酒を酌み交わしているのだろうな」とか、「天国にいる○○さんが、さびしくて××さんを呼んだのかもしれないね」みたいなコメントである。ちょっと無責任すぎるコメントだなあと感じるのは、僕だけだろうか。

「なんで私のような人間が生きながらえて、あの人が天に召されてしまうのか」というコメントも、そういうこと、言わない方がいいのに、と思ってしまうのは、僕だけだろうか。

コメントを求められると、言葉にならず、やはりそういったテンプレート的な表現を使わざるを得ないのだろうか。

死を悼む文章で、最近心に残ったのは、小説家の福永武彦が、中島敦について書いた文章である。

「若く死んだ小説家は誰しも、彼らが果すことの出来なかった未来を思ふことで哀惜きはまりないが、中島敦の場合は特にその感が深い。彼は大学を出て女学校の教師となり、教師をやめて南洋のパラオへ行き、帰国して文によって立つ決意をしたところで、忽ち死んだ。しかしその作品は、自我に憑かれ物に憑かれた思想的な小説から、世界の悪意を物語の框のなかに捉へた客観的な小説まで、完結した作品はその完成度によって、未完の作品は内部に含まれた可能性の量によって、すべて今書かれたやうに新鮮で、しかも既に古典と呼ぶにふさはしい。その醒めた眼は、現代の文学的混沌の夜空に輝く、一つのしるべの星である(昭和五十年十二月)」(『秋風日記』新潮社、1978年)

もちろんこれが書かれたのは、中島敦が亡くなって大分経ってからのことなので、親しい者が突然去った直後の気持ちとは異なる。しかし、この短い文章の中に、夭折した中島敦への哀惜と、その作品の永遠性が凝縮されていて、間然するところがない。してみると、亡き人への哀惜を直後に語るのは無理というもので、時間が経ち、気持ちが整理されてからこそ語ることができるのかもしれない。

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シン・ウルトマラン

5月15日(日)

今日は4歳の娘と二人で過ごす日である。こういうときは、映画館に連れていって映画を観ることにしている。

前回は「シング ネクストステージ」だったが、今回は、封切りしたばかりの映画「シン・ウルトラマン」一択である。

「『シン・ウルトラマン』をみせても、理解できないんじゃないの?」

と、家族には言われたが、僕が観たいんだから仕方がない。

少し前に、NHKのBSPで放送されていた『ウルトラセブン 4Kリマスター版』を毎週観ていて、そのときに娘も一緒になって観ていたので、いちおう、ウルトラセブンが怪獣と戦うというコンセプトについては、下地はあるのである。

あと、以前「光の国との姉妹都市」に仕事に行ったときに、お土産にウルトラマンの表紙デザインのノートだったかを買ってきたので、いちおうウルトラセブンだけでなく、ウルトラマンに対する認識もある。ただし、「ウルトラマン」とは言えずに、「ウルトマラン」と言ってしまう。また、ウルトラセブンとウルトラマンの区別がついているかどうかは、よくわからない。

しかし、現在上映中の映画から選ぶとすれば、どう考えても『シン・ウルトラマン』しか考えられないのである。

子どもの頃、父に映画館に連れられて、映画を見に行った。当時、「東映まんがまつり」という子ども向けのプログラムが上映されていた。ただ僕は、どちらかというと、東宝系の「東宝チャンピオンまつり」のほうが好きで、そこでよくゴジラの映画をスクリーンで観たのだった。

父は、ことさら映画が好きというわけではなかったので、おそらく僕が観たいと希望して、連れていってもらったのだと思う。僕は父に連れられて映画館で映画を観るというのが楽しみだったから、せめて僕も、娘に同じ思いを味わわせてあげたいと思っている。それに、「映画の学校の良い生徒になる」というのは、大林宣彦監督が僕の娘に託した「遺言」でもあるので、その「遺言」も、守らなければならない。

さて、『シン・ウルトラマン』は、冒頭のタイトルのところから、東宝映画や、テレビのウルトラマンシリーズへのオマージュにあふれていた。この点は、『シン・ゴジラ』を初めて観たときの印象と同じである。

今回観てすごいなと思ったことのひとつは、前回の『シン・ゴジラ』に出演した主要キャストと、今回の主要キャストが、ほとんど重なっていないということである。総入れ替えと言ってもいい。今回主演をつとめる斎藤工は、『シン・ゴジラ』のときに自衛隊の第1戦車中隊長役で、一瞬だけ出演している。劇場で観たときに、「あれ、いまの斎藤工じゃね?」と気づいたていどの「チョイ役」であった。

あと、竹野内豊も『シン・ゴジラ』に続いての出演である。役柄は、『シン・ゴジラ』のときと同じようにも思えたが、定かではない。気がついたのは、それくらいである。

ものすごく大雑把に言えば、長谷川博己(シン・ゴジラ)が西島秀俊(シン・ウルトラマン)にあたり、石原さとみ(シン・ゴジラ)が、長澤まさみ(シン・ウルトラマン)にあたり、市川実日子(シン・ゴジラ)が早島あかり(シン・ウルトラマン)にあたり、高橋一生(シン・ゴジラ)が有岡大貴(シン・ウルトラマン)にあたる、といった感じかなぁ。

あと、「禍特対」の班長(西島秀俊)の上司の室長役が田中哲司なのだが、この俳優は、映画やドラマでやたらといろんな「室長」役をやっているような気がする。きっと「室長顔」なのだろう。

総理大臣を始めとする各大臣役も、『シン・ゴジラ』と重なるところがひとつもない。

『シン・ゴジラ』に引き続き、『シン・ウルトラマン』は、庵野脚本の特徴としてあいかわらず情報量が多い。もちろんそれ自体は好きなのだが、人類とゴジラという二項対立的な構造だった『シン・ゴジラ』は、メタファーとしては比較的わかりやすかったと思う一方、『シン・ウルトラマン』の場合は、怪獣のほかに、ウルトラマンや他の「外星人」など、かなり複雑な構造をもっているので、およそ4歳児には理解できないものだっただろう。僕でも、何度か見直してみないとわからないところがある。

しかしそれでもいいのだ。映画を見終わったあとに娘に聞くと、斎藤工の顔写真を指して、「この人が新しいウルトラマン」と言ってみたり、山本耕史の顔写真を指して、「この人が指を鳴らすと、思い通りのことが起こる」とか、断片的には正確な理解をしていた。それだけで十分である。

テレビシリーズのウルトラマンのいくつかのエピソードが下敷きになっていて、それを庵野流に新解釈した、といった内容で、テレビシリーズを観ていた世代にも楽しめる。しかもそのエピソードはいずれも、金城哲夫の脚本のものばかりなのは、たんなる偶然だろうか。

エンドクレジットのところで、「ウルトラマンCG原型モデル」と「モーションアクションアクター」として「古谷敏」の名前があったのは感慨深かった。

ひとつだけ欲を言えば、マムシさんに出演してもらいたかった。

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保護者会でスベる

5月14日(土)

コロナウィルスまん延の影響で開かれなかった、保育園の保護者会が、2年ぶりに開催された。ただし、12時45分からの1時間、感染対策を十分に講じた上での開催である。

参加する保護者には、事前に宿題が出ていた。

「お子さんの素敵なところ、そしてご自身の好きなもの(こと)について、みなさんの前でお話しいただきますので、前もって考えてきてください」

一人ひとり、挨拶がてら自己紹介をする、という意図らしい。「お子さんの素敵なところ」というのは、まだわかるが、保護者の好きなもの(こと)、つまり趣味的なものをお話しするってのは、必要ないんじゃねえの?

僕は自他ともに認める無趣味な人間なので、適当な話題が見当たらない。なので、あらかじめ発言の内容を考えることはせず、出たとこ勝負でのぞむことにした。

保育園のホールに集まった、同じ4歳児クラスの保護者は、全部で20人ほどであった。ママ友だのパパ友だのがひとりもいない僕にとっては、だれがどの子の保護者なのか、よくわからない。しかも、この20人ほどの中で、僕がおそらくダントツの最高齢である。見たところ、ほとんどが「ママ」で、参加している「パパ」は僕を含めて3人ほどである。

保護者会が始まった。

「まずは手遊びからはじめます。本来ならばみなさんに歌っていただきながら手遊びをしたいのですが、こういうご時世ですので、保護者のみなさんには歌っていただかずに、手遊びだけを行います。さ、手を出してください」

保育士さんに促されるように、両手を前に出す。

「かみなりどんがやってきた♪」

という歌に合わせて、保護者が一斉に手遊びをする。もちろん僕も、である。

「さ、身体を動かしたところで、お一人お一人に自己紹介していただきます。あらかじめ申し上げておきましたように、お子さんの素敵なところと、ご自身の好きなことをご説明ください」

まずは、担任の保育士さんたちが「私が好きなものは…」といって、推しのYouTuberの話をした。

さっそく困ってしまった。推しのYouTuberの話をした方がよいのか?でも、「とっち~ちゃんねる」とか「ダース・レイダーさんの番組」の話をしても、だれにも理解されないだろうと思い、YouTubeの話をすることは思いとどまった。

ほかの保護者たちの挨拶は、みんなとても上手である。「お子さんの素敵なところ」というお題では、家族想いのところ、とか、ちょっとした一言に癒やされる、とか、物事に集中するところ、とか、じつに微笑ましいコメントばかりである。

「ご自身の好きなもの(こと)」というお題では、フットサルとか、テニスとか、スキューバダイビングとか、登山とか、美味しいコーヒーを入れること、とか、趣味のお話のほかに、「BTSが好き」とか、「なにわ男子が好き」といった、推しのお話をする人もいた。

さて僕の順番が回ってきた。

「うちの子どもの素敵なところは、…そうですねえ。自作のヘンな歌を延々と歌っているところですかねえ」

しーん。

「あと、ドラマに出てくるチョイ役の俳優さんが、全然別のCMとかに出たりすると、それを同一人物だと見抜くところです。…ま、あまり役に立つ特技ではないですけれど…」

しーん。

「自分がいま好きなことは、子どもと一緒に映画を見に行くことですかねえ」

ほう。

「あと、親子ともども阿佐ヶ谷姉妹のファンなので、阿佐ヶ谷に連れて行ったりしています」

(ややウケ)

…ということで、ダダすべりであった!

そりゃあそうだ。フットサルだ、テニスだ、BTSだ、なにわ男子だ、といっている中で、親子で阿佐ヶ谷姉妹のファンだとカミングアウトして、「昭和」感がハンパないのだ!そりゃあ、ママ友やパパ友ができないはずである。

結局、自己紹介は30分以上続き、保育園からのお知らせ的なものは、重要な内容をほとんど聞く時間もないまま、保護者会は終わってしまった。

自己紹介のくだり、いらなかったんじゃね?

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さらに対話は続く

「鬼瓦殿

こんばんは。プログ読みました。

家にあったメイプルソープのカタログを見ると確かに1992年でした。とすると、蕎麦屋廻りをする前だったようですから、恐らく蕎麦が好きだった亡父の影響もあり蕎麦屋に行ったのでしょう。

貴君のプログにあった、青春時代に友達から影響を受けるというのは、その通りで、私も大学時代のサークルで様々な音楽を友達から教わり、自分一人では決して聴かなかったような音楽を聴くようになりました。

では貴君からの影響は何だったかと、今日は難波の居酒屋、西天満のバーとハシゴしながらツラツラと考えてみたのですが、なかなか思い浮かばず、と書きつつも、もしかしたら、それほど人の話を聞くのが得意だったとは思えない自分が、今は気長に人の話を聞くようになったのは、高校時代に毎日のように貴君の愚痴を聞かされたお陰かと思い当たりました。

更に、貴君に連れられて行った様々な遺跡を見たお陰で、最近は茶の湯を始めとした古美術に興味を持つようになったのではないかとも思います。

話は変わりますが、貴君のプログで、私が引越し先にレコードや本を全部持って行くのに感心していましたが、それは福岡に転勤になった時に、もう千葉にあった実家には二度と戻るまいと思って一式持って行ったのですが、その数年後に母親が千葉の家を売り払って福島に行ってしまい、私のものは全て処分されてしまったことを考えると宜なるかなと思います。」

「高校時代に毎日のように貴君の愚痴を聞かされたお陰」で、気長に人の話を聞くことができたって、それ、知的刺激でも何でもないだろう、と、コバヤシからのメールに思わず笑ってしまった。

「茶の湯を始めとした古美術に興味を持つようになった」というのも、断じて言えるが僕の影響ではなく、趣味人としてのコバヤシの素質だろう。

つまり僕は、何ら影響など与えていないのである。

もともと僕は、主体的に何かに熱中できるタイプではなく、他人に影響を与えるような人間でもないことを自覚しているから、コバヤシの認識は正しい。これは亡き父親譲りだと、最近になって思い至った。コバヤシが、趣味人だった亡父の影響で蕎麦屋めぐりをはじめたように。

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対話は続く

5月13日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ、「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

久しぶりに朝から出勤し、午前中は神経を使う仕事、午後はたまっていた仕事の処理をしていたら、あっという間に夜になってしまう。

高校時代の親友・元福岡のコバヤシは、どうやらムーンライダーズをきっかけに、いろいろと思い出したらしい。立て続けにメールが来た。

「鬼瓦殿

矢野顕子のSuper Folk Songを貴君に薦めていたのなら、多分、ムーンライダーズを聴き始めた頃と同時期(仕事が嫌で嫌でしょうがなく、音楽を聴くことに逃げていた頃)な筈なので、貴君にムーンライダーズも薦めていた可能性は高いですね。全く覚えていませんが。

蕎麦に凝っていたのは社会人3〜5年目なので、貴君を蕎麦屋に連れて行ったような気がします。

目黒にある東京都庭園美術館に写真家のロバート・メイプルソープ展に連れて行って、貴君が余り面白くなさそうにしていた記憶があるので、多分、利庵という蕎麦屋に連れて行ったのではと推測します。

でも、もしかしたら、神保町の蕎麦屋だったかもしれませんが。

ん〜、やはり人間の記憶というのは曖昧なものですね」

僕も少し思い出してみる。

矢野顕子の「SUPER FOLK SONG」を猛烈に薦められたのは、蕎麦を食べながらだったことは明確に覚えているから、小林が言うように、大学を卒業して、3~4年くらい経った頃なのかもしれない。やはりそのときに、ムーンライダーズの話題も出たことは、ほぼ間違いない。

目黒にある東京都庭園美術館に連れて行かれたことも、覚えている。ただし、何の展覧会だったかは覚えていなかった。

ただ不審なのは、いま調べてみると、東京都庭園美術館でロバート・メイプルソープ展が行われたのは、1992年4月のことで、コバヤシにとっては社会人1年目、僕にとっては大学院1年目ということである。社会人3~5年目に蕎麦に凝っていたとするコバヤシの記憶と、微妙に異なる。

仮に、ロバート・メイプルソープ展に連れて行かれたとして、僕が「余り面白くなさそうにしていた」のだとしたら、そんな僕が、いまの仕事をしているというのは、苦笑を禁じ得ない。じつは無意識下で、いまの仕事に何らかの影響を与えているのかもしれない。

東京都庭園美術館を見たあと、利庵という蕎麦屋に行ったかどうかは、覚えていないが、コバヤシのことだから、僕を蕎麦屋に連れて行ったのだろう。

僕が覚えているのは、日本橋の室町砂場、神田のまつや、あと都内の数軒だったと思う。板わさとかそばがきをつまみに、日本酒を引っかけてから、おもむろに蕎麦を注文する、という、オッサンみたいな食べ方を教わった。20代前半のときですよ!!

立て続けに、こんなメールも来た。

「追伸

矢野顕子がピアノの弾き語りでレコーディングしたニットキャップマンは、そもそもムーンライダーズのオリジナルアルバムに矢野顕子がゲストで入って歌った曲でした。

昨日、家のCDを漁っていたら、ムーンライダーズの80年のライブがあり、改めて聴くと、この辺りのライブは大分イっちゃった感が強く、テクノポップ独特の電子音にノイズ的な要素も入り混じり、曲によっては原曲のメロディーをとどめていないというか、ワザと外してラップ的な曲になってしまったようななのもあり、時代を感じました。

やはり80年代というのは、YMOに象徴されるように、日本のポップスが最も先鋭的な時代だったのでしょうかね。

それでは、またそのうち。」

転勤とともに、高校時代に読んだ本とか聴いていたCDも、そのまま持っていくという物持ちのよさにも、驚かされる。

帰宅中の車で、TBSラジオ「問わず語りの神田伯山」をリアルタイムで聴いていたら、リスナーからのメールに対して、こんなことを言っていた。

「思い返すと、友だちのおかげで世界が広がったことがけっこうある。高校2年の時、自分はプロレスにしか興味がなかったけれど、クラスの友だちが、絶対に面白いからと、広沢虎造の浪花節のCDを貸してくれた。半信半疑で聴いてみたら、これがじつに面白かった。それ以来、授業の休み時間のたびに、広沢虎造の話でその友だちと盛り上がった。いま思うと、それが講談師としての自分のその後の人生に影響を与えたと思う。そんなこと、友だちに教えられなければ、興味など持たなかったから。だから友だちは失わない方がいい」

と、ふだんの毒舌には似つかわしくないことを喋っていた。

僕がYMOにハマったのも、中学時代の友人のヤマセ君(いまとなっては、まったく消息がわからない)が薦めてくれたからである。それによって自分の世界が広がり、授業の間の休み時間には、教室のベランダでYMOの話ばかりしていた。

高校時代には、コバヤシのおかげで、YMOにしか興味のなかった僕に、ジャズという世界を教えてくれた。

そんなことを漠然と考えていたときに、ラジオでたまたま神田伯山が同じようなことを喋っていたのは、やはりシンクロニシティというべきであろうか。

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ふたたび、ムーンライダーズ

ムーンライダーズのことを書いても、このブログの読者にはまったく関心を引かないだろうなぁと思っていたら、高校時代の親友・元福岡のコバヤシから、ムーンライダーズに関する、熱いメールが来た。

「鬼瓦殿

こんばんは。コバヤシです。

このところこれと言ってネタも無く、貴君にメールすることも暫く無さそうだなあと思っていたのですが、ムーンライダーズの話を読み、またメールせざるを得なくなってしまいました。

貴君のブログでは、ムーンライダーズを紹介したのは中学時代の友達か、私のどちらかだろうと書いていましたが、恐らく私では無いと思います。

何故ならば、私がムーンライダーズを知ったのは社会人1年目の年で、しかも、その知った理由はと言えば学生時代に出入りしていた武蔵野市にある某国立大学のジャズ研で知り合った女の子のバンドに何故かボーカルとして雇われ、その某大学の学園祭でムーンライダーズの「マスカット・ココナッツ・バナナ・メロン」を歌わされたからです。この話を貴君にした記憶は無いので私ではないだろうと思った次第です。

余談ながら、その時にもう一曲歌ったのが矢野顕子の「相合傘」で、更に自慢げに書くと、そのバンドのドラムは前年私のバンドでドラムを叩き、後年、我々の高校の先輩の大西順子のヨーロッパツアーに参加した広瀬君でした。

その時、広瀬君は何を思いながら私のボーカルのバックでドラムを叩いていたのかは全く不明です。当時も怖くて聞けませんでした。

前置きが長くなりましたが、その時にムーンライダーズを知り、7~8枚CDを買い、その格好良さに痺れファンになってしまいました。

特に好きだったのは初期の70年代よりも80年代で、テクノポップの影響を受け余りにも時代から先行し過ぎて発売が延期された「マニア・マニエラ」、その為仕方なく?制作した「青空百景」、サエキけんぞうや蛭子能収を作詞に導入したこれまた先鋭的な「Don't Trust Over Thirty」(このアルバムの多くの曲はE.D MORRISON作曲になっていますが、賢明な貴君であればこれが何の洒落か判りますね!)などです。

尖がっていながらも、メロディアスで独特な詩の世界はジャズばかり聞いていた私には非常に新鮮で、当時、今更ながら聞き始めた矢野顕子と共に私の中では日本のポップス界のレジェンドとなっています。

この辺りのミュージシャンは結構、交流が有り、矢野顕子は自分のアルバムでムーンライダーズの鈴木博文の「大寒町」やムーンライダーズのアルバムに入っている「ニットキャップマン」なども取り上げています。

その後、矢野顕子はジャズ的要素が高かったことも有り、六本木PIT INNやBLUE NOTE東京他にライブを何度か聴きに行ったのですが、ムーンライダーズは未だ行けず終いで、もうバンドはとっくに消滅していたと思っていたので、貴君のブログを読み「お~!」と少し興奮気味になりメールをしてしまった次第です。

昨晩、多分、10年振り以上で前述のアルバムを聞いて見ましたが、やはり格好良い!!

我々YMO世代は、どうしてもこの辺りの音楽に行きあたってしまうのでしょうね。」

コバヤシは、僕にムーンライダーズがいいと言ったのは自分ではない、と書いているが、僕はやはりコバヤシから聞いた可能性が高いように思う。

コバヤシが社会人1年目、ということは、僕が大学院生だった頃だが、その当時、コバヤシとよく、都内の蕎麦屋をめぐっていたと記憶する。その際に話を聞いていた可能性がある。

メールの中に矢野顕子の話が出てくるが、コバヤシが矢野顕子のアルバム「SUPER FOLK SONG」を絶賛していたことをはっきりと覚えている。これは1992年に出されたアルバムだから、僕が大学院に入った年、コバヤシが社会人1年目の年である。だから学生時代にこの話を聞いていたはずはない。

だから、社会人になったコバヤシから、ムーンライダーズの話を聞いていたとしても、おかしくはないのである。

ちなみに、ムーンライダーズの鈴木博文が作詞・作曲し、あがた森魚が歌った「大寒町」は、「SUPER FOLK SONG」の中で矢野顕子によりカバーされているが、僕もこの曲は大好きである。

ムーンライダーズと矢野顕子といえば、前回に書いたかしぶち哲郎の「リラのホテル」は、矢野顕子との共作だし、コバヤシのいうとおり、あの界隈のミュージシャンは、みんな交流があったのである。

先日のラジオの話に戻ると、司会の大竹まことに、「バンドが長続きする秘訣は?」と聞かれて、

「ヒット作(代表作)がないこと」

と答えていたのが印象的で、僕自身の仕事や生き方を考える上でも、励まされる言葉であった。

蛇足だが、E.D MORRISONは、アナグラムである。

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今日の反省

5月11日(水)

昨日から1泊2日で、久しぶりに飛行機に乗り、遠方の出張である。

昨日は、用務先に到着するやいなや、わりと神経を使う作業をして、ドッと疲れてしまった。今回はメンバーが多かったこともあり、精神的にも疲れてしまった。

今日は、朝から夕方まで、巡検である。

ここから先のことは、やや具体的に説明しないとわかりにくいかもしれない。

この日の予定は、朝8時40分にホテルのロビーに集合して、ジャンボタクシーに乗り、巡検を行う。

メンバーは男性3人、女性3人の合計6人である。

ジャンボタクシーに、8時45分までにホテルの裏口にある駐車スペースまで来てもらい、我々はホテルの裏口から、そのジャンボタクシーに乗ることになっていた。

時間通りメンバーが揃って、8時45分にホテルの裏口に行くと、すでにジャンボタクシーが駐車スペースに停まっていた。ジャンボタクシーというくらいだから、かなり大きい。運転もたいへんそうだ。

しかし運転席を見てみると、運転手さんが不在である。

ジャンボタクシーのバックドアのところにホテルの制服らしいものを来た若い女性が一人いるだけである。ジャンボタクシーを駐車スペースに誘導した従業員さんだろうか。

「運転手さんがいませんねえ」

しばらくすると、前のほうから、ジャンボタクシーに向かっておじさんが歩いてきた。

「あ、運転手さんらしき人が来ましたね」いかにも、ジャンボタクシーを運転しそうな風貌をしている。

ところが、そのおじさんは、ジャンボタクシーの横を通り過ぎて、ホテルの中に入っていってしまった。

(あれ?…僕たちのことを客だと気づかず、客がまだ中にいると思ってホテルに入っていったのかな?)、と思っていたそのとき、

「あのう…ジャンボタクシーを利用されるお客様でしょうか」

と、ホテルの制服らしきものを着ている若い女性が僕たちに向かって尋ねた。

「そうです」

と言うと、

「では、まず大きい荷物を後ろに積みますので、こちらにお持ちください」

と言って、ジャンボタクシーのバックドアを開けた。

荷物が積み終わり、我々が車に乗り込むと、なんとその若い女性は、運転席に座った。

この人が運転手さんだったのか!!!

もちろん、だれひとり、そのことは声に出して言わなかったけれど、おそらくそのとき、6名全員が驚いたと思う。なぜなら全員が全員、その若い女性を、てっきりホテルの従業員と思い込んでいたからである。

さっき通りかかったおじさんは、ホテルのお客さんだったのだ!!

何が言いたいかというと、全員が全員、「若い女性がジャンボタクシーの運転手であるはずがない」と思い込んでいた、ということである。

メンバーの中には、ジェンダーに関して問題意識の高い人が何人もいる。というか、メンバーのほとんどがジェンダーについて多かれ少なかれ問題意識を持っていたと思われる。

にもかかわらず、全員が例外なく「ジャンボタクシーを運転するのはおじさんで、若い女性であるはずがない」と判断してしまっていたのである。

お昼休みの時間、メンバーの中でもとりわけジェンダーについての問題意識の高い人が、「これは(自分も含めて)反省しなければなりませんね」と、懺悔していた。もちろん、僕自身も、ほかのみんなも、反省した。これでまたひとつ、意識が変わったような気がする。

ちなみにその運転手さんの技術はすばらしく、こちらのわがままな希望や、わかりにくいマニアックなルートを瞬時に理解してくれて、適切に移動してくれた。

最終目的地の空港で、僕たちは運転手さんに深々と頭を下げて、お礼を言った。

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ムーンライダーズがいた!

5月9日(月)

今日の文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」のメインゲストがムーンライダーズだと聞いて、矢も盾もたまらず、帰りの車の中でradikoのタイムフリーで聴いた。ゲストは鈴木慶一氏と白井良明氏。

1975年結成。僕の原体験は、1976年のドラマ「高原へいらっしゃい」の主題歌「お早うの朝」。作詞谷川俊太郎、作曲小室等、演奏ムーンライダーズとクレジットが出ていた。ラジオでの話だと、最初はバックバンドの活動をしていたというから、これもその一環として、バックバンドとして演奏していたのだろう。

この歌が大好きで、のちにこの曲が入った小室等のアルバムを買ったが、演奏はムーンライダーズではなく、編曲もまるで違ったバージョンになっていて愕然とした。やはりこの曲は、ムーンライダーズの演奏でないといけない。

中学の時にYMOにハマり、当然、その界隈にいたムーンライダーズがしばしば話題にあがったが、YMOにばかり執心していた当時の僕は、ムーンライダーズを熱心に聴いた方ではない。「ムーンライダーズはいいぞ」と教えてくれたのは、中学の時にYMOの音楽の手ほどきを受けたヤマセ君だったか、高校時代の親友のコバヤシだったか、記憶が定かではない。「火の玉ボーイ」は買ったかも知れない。

でも僕が圧倒的に好きだったのは、ムーンライダーズのドラマー、かしぶち哲郎氏の初のソロアルバム「リラのホテル」だった。これは今でも持っている。素朴な感じの曲ばかりで、とても素敵だった。

Wikipediaで調べたら、かしぶち哲郎さんは、2013年にお亡くなりになっていた。ラジオの中で鈴木慶一さんが「46年間の活動の中で、メンバーの1人が死んで、1人が新たに加入して‥」と言っていたが、その1人というのが、僕が好きだったかしぶち哲郎さんだったとは、いまさらながらショックである。

長寿のロックバンドといえば、アルフィーとかスタレビとかがすぐに思い浮かぶが、ムーンライダーズもいたね。

 

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投げ銭ライブ

以前にも書いたことがあるが、僕の高校時代の1学年下と2学年下に、サックスミュージシャンがいる。1学年下の後輩はアサカワ君で、2学年下の後輩はジロー君である。

この二人が、この大型連休中に、それぞれライブをするという告知がSNSのタイムラインに流れてきた。ジロー君は大型連休のはじめのほうに、アサカワ君は大型連休の最後の方に、それぞれライブを行うようである。大型連休は、ライブをするのにもってこいの時期ともいえる。

行動制限のないこのたびの大型連休では、ライブ会場にお客さんを入れて行うようなのだが、同時に動画投稿サイトでの配信も行うという。これは、ありがたいことである。

僕のように、おいそれとライブ会場に足を運ぶことのできない人間にとっては、たとえ感染症がおさまったとしても、ライブ配信は今後も続けてほしいと願うものである。

しかも、ふたつのライブとも、あるていどの期間、アーカイブ視聴できるというのも嬉しい。なかなかリアルタイムで視聴する環境を確保するのが難しいからである。

もちろん、ただで観ることは失礼かなと思うから、わずかながら投げ銭で応援することにしている。

ジロー君のライブは、以前に視聴したときと同じ、ジロー君の地元のカフェが会場である。ジロー君のライブは、だいたい午後3時頃から、1時間半程度行われる。この時間帯がまたよい。

カフェの窓から差し込む日の光によって、自分もまるで日だまりにいるような感覚になり、それだけでも、じつに癒やされるのである。

以前にも書いたように、映像も、ライブの音質も、格段にすばらしく、聴いていてまったくストレスを感じない。今回は、ジロー君と、Minkoさんという、ギター兼ボーカルの二人によるライブで、古いブルースを中心にしたラインナップだった。Minkoさんというミュージシャンを初めて知ったが、ギターとボーカルがとても耳心地がよくて、それがカフェの日だまりの映像と相まって、これ以上にない癒やしの音楽を演出していた。

ジロー君は、サブトーンという奏法にこだわるサックス奏者である。力強い音や伸びのある音が好きな僕にとって、サブトーンという奏法は耳慣れない感じが最初はしたけれども、Minkoさんの音と共鳴することで、次第に僕の耳にもなじんだ音になっていった。

僕の好きな「Lover,Come Back to Me(恋人よ我に帰れ)」を聴くことができたのが嬉しかった。最後の「On The Sunny Side Of The Street」も、キャッチーな選曲でよかった。

続いて視聴したのは、アサカワ君のライブである。アサカワ君は、ジャズというよりも、ブラジル音楽のミュージシャンである。おそらく、中央線沿線のブラジル音楽界を代表する一人であろう。「中央線小説」ならぬ、「中央線ブラジル音楽」である。僕は、コロナ前に、阿佐ヶ谷北口の小さなライブハウスにフラッと立ち寄って、彼の演奏を聴きに行ったことがある。今回のライブ会場は、吉祥寺である。

こちらの配信映像も、なかなか凝っていた。複数のカメラを据えてスイッチングしながら、あらゆる角度からミュージシャンの様子を映し出している。そのなかに1台だけ、モノクロ映像で映しているカメラがあり、これがまたいい雰囲気を醸し出していた。

ジロー君のライブは演奏者が2人だったが、アサカワ君のバンドは5人ほどの編成である。こちらは、日だまりのライブではなく、夜が似合うライブだった。アサカワ君の音にはちょっと色気がある。

僕は高校時代、吹奏楽団で彼らと演奏をともにしたが、僕は早々に音楽に対するこだわりがなくなってしまい、高校卒業後もOBによる吹奏楽団を立ち上げたものの、吹奏楽に対するこだわりのないまま無為に10年近くを過ごし、結局はやめてしまった。だからいまとなっては、僕は吹奏楽もジャズも、たんなるド素人の一人である。だが二人は、その後も自分なりの音楽にこだわり続け、いまでもライブを続けているのだから頭が下がる。彼らのライブを観ていつも思うのは、彼らの周りには常に一緒に演奏する人が集まってきて、それがまたいいメンバーで、だからこそ長く続けてこられたのだな、ということである。音楽分野に限らず、僕の業界でもそうだが、見限られることなく続けられるというのは、それだけですばらしいことである。

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仕事仲間

僕がシティーボーイズのファンだと知っている後輩が、「きたろうさんがこんな番組に出てましたよ」と教えてくれた。それはテレビ朝日で日曜日の早朝に放送されている「はい!テレビ朝日です」という番組で、僕は見逃していたのだが、その後輩が動画配信サイトの公式チャンネルのリンクを貼って紹介してくれたおかげで、観ることができた。

アナウンサーがゲストにインタビューをするという形式の番組で、スタジオゲストはきたろうさん一人なのだが、大竹まことさんと斉木しげるさんもVTR出演していて、はからずもシティボーイズの3人の関係性を立体的に知る番組構成になっていた。

その番組の中できたろうさんが、

「3人はいい関係ですよ。今でも2人に出会って嬉しかったと思う。友だちじゃなくてこんなにつきあうってすごいことだよね」

と言っていて、僕はあらためて気づいた。シティボーイズは、友だちではなく、仕事仲間なのだと。

3人の関係はもう50年も続いているが、50年続いても、友だち関係にはならず、仕事仲間としてお互いを認識している、というのは、とても理想的な関係だと思う。それは50年経った今でも、適度な緊張感をもって仕事をしているということを意味する。

ちょっと話はズレるが、大林宣彦監督も、俳優とは極力、撮影現場以外の場所では会わず、映画の撮影現場で再会することを至上の喜びとしていた。それは、俳優を仕事仲間として認識していた証であろう。

ぼくも、その顰みにならって、仕事仲間とは馴れ合いにならず、お互いを尊重しつつ、適度な緊張感をもって接したいと考えているのだが、うまくいっているかどうかはわからない。

では友人は、といえば、僕はそもそも友人に対して不義理をしている場合が多くて何かを言える立場ではないのだが、このブログでは、高校時代の親友のコバヤシがしばしば登場し、コメント欄に頻繁に登場するこぶぎさんも友人である。以前は、コメント欄でこぶぎさんと漫才じみた応酬をしていたが、最近は記事の本文を書くだけで精一杯になり、こぶぎさんのコメントにあまりリアクションをとっていない。事情がわからない人がコメント欄を見たら、亀の絵文字をハンドルネームにしている得体の知れない者が、ただただ一方的にコメント欄を荒らしていると思ってしまうのではないかと心配してしまう。ここではっきり言っておきますが、亀の絵文字でおなじみのこぶぎさんは、友人であり、このブログの貴重な「コメント職人」です。もちろんこの2人以外にも友人はいるのだが、このブログの中では、コバヤシもこぶぎさんも、このブログの文脈上に必要な、ファンタジーとしての友人でもあるのだ。

…何を言っているのかだんだんわからなくなってきたが、あたりまえのことを言うと、仕事上の利害関係のない者同士が友人なのであり、あまりに気の合う仕事仲間を友人視するというのは、ほかの仕事仲間の手前、危険なのではないかと感じるのだが、それはよけいなお世話かもしれない。…って、ますます何を言いたいのかわからない。

そんな他人様のことはともかく、自分は、シティボーイズの関係性とか、大林宣彦監督の仕事論を範としながら、これからも仕事上のいろいろなプロジェクトを続けていこうと思う。

いつも以上にまとまりのない文章である。

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果たせぬ4作目

5月5日(木)

転地療養、というと大げさだが、少し仕事のことは忘れてのんびりするつもりで、今週は山籠もりすることにし、あわよくば体力回復のために少しウォーキングもしてみようと思ったのだが、体調がなかなか思うようにいかない。「ひとり合宿」での身体への負担が尾を引いているのか、投薬期間中と重なったための副作用によるものなのか、はたまたまったく別の要因なのか。

加えて、たびたび書いているように、3400項目の専門用語の韓国語訳解説の校閲を短期間で行わなければならない、という無茶な依頼を受けて、前回はコナン・ドイルの「赤毛連盟」に自分をなぞらえたが、江戸時代に『解体新書』を翻訳した前野良沢と杉田玄白は、こんなふうに苦労して医学の専門用語を日本語に翻訳したんだな、と、追体験しているようでもあった。

そんなことはともかく。

大林宣彦監督の遺作となった映画『海辺の映画館 キネマの玉手箱』(2020年公開)には、じつに多くの俳優が出演している。大林監督の晩年の作品には、出演者をこれでもかと登場させる群像劇が多く、それが、映画の祝祭感をいやがおうにも高めていた。まさに「映画、この指とまれ!」といって集まってきた俳優たちである。

この映画の、数ある出演陣の中で、とりわけ強い印象に残った俳優のひとりが、渡辺裕之であった。今、手元に資料がないので、ここから先はインターネットの情報や映画を観たときの記憶をたよりに書くが、渡辺裕之は、演劇の心得のある川村禾門上等兵の役を演じた。タイムスリップした若者たちが、戦争に巻き込まれていくなかで、彼らに対する理解者として登場している。

殺伐とした戦時下にあって、渡辺裕之演じる川村上等兵は、じつに人間味のあふれた態度で若者に接していた。その演技は、映画の中に自然に溶け込んでいたのである。

あとで、『海辺の映画館 キネマの玉手箱』のパンフレットだった何かを読んだら、大林監督の映画に久しぶりに出演できてとても嬉しい、と語っていて、過去の記憶をたどってみたら、2作品に出演していることを思い出した。

一つめは、日本テレビの「火曜サスペンス劇場」枠で放送された「可愛い悪魔」(1982年)である。大林監督が単独で演出をした初めてのテレビドラマで、いわゆる2時間サスペンスドラマというカテゴリーだが、大林監督のカルト的な映像表現が遺憾なく発揮されていて、「火曜サスペンス劇場」の中でも「屈指の傑作ホラー」と評価されている。今でも伝説のドラマとして、ソフト化されている。

主人公の秋吉久美子の新郎役として出演したのが渡辺裕之である。Wikipediaによると、渡辺裕之が初出演したドラマらしい。僕はこの作品を何回か観たが、新人らしいぎこちない演技がまだ残っていたことを覚えている。

同じ1982年に公開されたのが、和泉聖治監督の映画「オン・ザ・ロード」で、このときに渡辺裕之が主演をつとめた。恥ずかしながら、僕はこの映画をまだ観ていない。しかし、この映画の同時上映作品が、大林監督の「転校生」だったことは知っている。当初は、「オン・ザ・ロード」がメインで、低予算で作られた「転校生」は付け足しみたいな位置づけだったのだが、そのうちに「転校生」の評判が高くなり、そちらの方がよく知られた映画になった、と聞いたことがある。これもまた、大林監督との因縁めいたエピソードと言えるだろう。ちなみに言うと、和泉聖治監督はその後、テレビ朝日のドラマ「相棒」のメイン監督として活躍した。

二つめは、宮部みゆき原作の映画『理由』(2004年)である。これもまた出演俳優の非常に多い作品だったが、その中で渡辺裕之は、事件を捜査する捜査一課の警部役で出演していた。出演時間は短かったけれど、黒澤明監督の映画『天国と地獄』で仲代達矢が演じた刑事を、なんとなく彷彿とさせる。本人がそれを意識して演じたかどうかはわからない。

僕が語れるのは、たった3作品だが、三つめの『海辺の映画館 キネマの玉手箱』の円熟味あふれる演技は、演出をする大林監督を満足させるに十分なものだったと想像する。大林監督がその後も映画を撮り続けていたら、渡辺裕之は、かつての峰岸徹みたいに、常連として参加するかもしれない、と僕は漠然と想像した。

インターネットを検索してみたら、渡辺裕之にインタビューをした、こんな記事を見つけた。その記事の最後の部分を引用する。

「コロナ禍で自粛期間中の(2020年)4月10日、映画監督・大林宣彦氏死去の知らせが届いた。

『その日は、(大林監督の)遺作になった「海辺の映画館 キネマの玉手箱」の公開予定日でした。僕も出演していて、現場では、ずっと監督の近くで勉強させていただきました』

訃報に強いショックを受けた渡辺だったが、そのとき、監督からかけられた言葉を思い出したという。

『「映画で歴史は変えられないけど、未来は変えられるんだ」と。この作品は、戦争の歴史を、劇中映画をとして体験していくもの。観終わったあと、必ず「戦争はいけない」と思うはずです。それこそが、大林監督の遺言のような気がします』

渡辺は前を向いて、力強く語った。」(週刊FLASH 2020年6月23日・30日号)

力強い言葉は、もう聞けない。

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タブレット純を認識する4歳児

5月3日(火)

このブログでもおなじみ、文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」は、今週1週間、メインパーソナリティーの大竹まこと氏がお休みで、代打として、今日はタブレット純と武田砂鉄氏がメインパーソナリティーをつとめていた。

僕にとっては夢の共演である。いままで歩んできた道や、趣味嗜好のまったく異なるこの二人が、お互いを尊重し、気心を通じ合わせ、それでいて適当な距離を保っている、というのが、人間関係の理想型として僕の心をとらえて離さないのである。

番組の企画は、「純鉄歌合戦」といって、タブレット純の専門である「昭和歌謡」と、武田砂鉄氏の専門である「ヘヴィメタル」(「ヘビメタ」と言ってはいけない)の曲をかけ合い、そのインパクトを競うというものである。ただし選曲には縛りがあり、タブ純には「ヘヴィメタルを感じさせる昭和歌謡」、砂鉄氏には「昭和歌謡を感じさせるヘヴィメタル」という条件が課される。

簡単に言えば、この3月末に終了したTBSラジオ「伊集院光とらじおと」で、アレな感じなレコードを紹介する「アレコード」という人気コーナーをオマージュした企画である。流れてくる曲はいずれも、珍奇な昭和歌謡、珍奇なヘヴィメタルばかりで、「アレコード」のコーナーなき今、それを受け継ぐような良企画だった。

僕はこの番組を、リアルタイムで聴いていたのだが、途中、家族が買い物に行くというので、車を出すことになった。あまりにおもしろかったので、車の中でも引き続き、この番組を聴いていた。

さて、驚くのはここからである。

ラジオから流れてくる声を聞いた4歳の娘が、

「あ!阿佐ヶ谷アパートメントの人だ!」

と叫んだ。

聞こえてくる声は、男性の声で、阿佐ヶ谷姉妹の声ではない。もちろん、家族は、ぽかーんとしている。

僕はすぐにわかった。そのときに喋っていたのは、タブレット純だったのである。

タブレット純は、NHKテレビ「阿佐ヶ谷アパートメント」の各コーナーのフリの部分で、ほんの一瞬、VTR出演している(というか、それ以外にタブレット純をテレビで見かける機会はほとんどない)。そこでは、持ち前の「声の小さいつぶやき」と、それとは対照的な力強い歌声が披露される。

しかしそれは、あまりに一瞬な時間である。ところが娘は、テレビ画面に一瞬だけ映る、タブレット純のボソボソッとした語りを聞き逃しておらず、ラジオから流れてくる声を聞いただけで、その声が、「阿佐ヶ谷アパートメント」に出演しているタブレット純だと同定したのである。

声を聞いただけで、タブレット純だとわかるって、どんな4歳児なんだ?そもそも、タブレット純の声を聞き分けることのできる4歳児って、世間にどのくらいいるのだろう?

しかしさすがは4歳児。そのあとすぐに、娘は車の中で眠ってしまった。もともと運転中の車の揺れが心地よくて眠ってしまいがちではあるのだが、理由はそれだけではないだろう。タブレット純と武田砂鉄氏の落ち着いた語りが、眠りを誘ったに違いない。

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気分は赤毛連盟

5月2日(月)

あいかわらず、時間を見つけては、専門用語を韓国語で説明する辞典の校閲作業を行っているのだが、あんまり根を詰めてやっていると、ゲシュタルト崩壊っていうの?とにかくわけがわからなくなる瞬間がある。あるいは、あるときを境に、まったく頭が受け付けなくなったりもする。

専門用語とは言いながら、「牛乳」という項目などもあり、ふつうに「우유」とそのまま解説していて、それって専門用語か?説明するまでもないだろう、と疑いたくなるような用語も散見される。

しかし、こんな徒労感のともなう仕事は早く終わらせたいと思うあまり、つい根を詰めてしまう。

シャーロック・ホームズが主人公のコナン・ドイルによる短編小説で、「赤毛連盟」というのがある。ある赤毛の人が、赤毛連盟のオーディションに受かって、晴れて赤毛連盟の事務所で仕事をするようになるのだが、その仕事というのが、朝から晩まで、百科事典をひたすら丸写しするという意味のない仕事だった。実はその間にある事件が発生し、シャーロック・ホームズによって事件は解決する。赤毛連盟は、その赤毛の人を陥れるためのダミーの組織で、ある目的を達成するために、その赤毛の人を赤毛連盟の事務所に連れ出して、日がな一日、意味のない仕事をさせたのだった。その人が百科事典の「A」の項目を写し終わったところで事件が解決したので、やたら「A」がつく言葉について詳しくなった、というのがオチだったと記憶している。

ザ・ギースの「アダモさん」というコントは、このコナン・ドイルの小説をモチーフにしているのではないかと思ったが、それは牽強付会というべきであろう。

それはともかく、僕はいま、この「赤毛連盟」に登場する赤毛の人のような心境だ、ということを言いたいのである。わかりにくいね。

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続・ブルシット・ジョブ

4月30日(土)

大型連休は、山籠もりである。

仕事のことは忘れて、好きな本でも読みながら体調を整えようと思っていたのだが、韓国から仕事の依頼が来た。

ここから先は愚痴になりますけど、この仕事が、あまり筋のよくない仕事なのだ。

日本語の専門用語に対して韓国語で語義説明をする辞典を作りたいので、その監修・校閲をお願いしたい、という依頼である。

そう聞くと、なんとなくよさげな仕事に見えるでしょ?

「どのくらいの項目数ですか?」

「3400項目です」

「さ、3400項目!?」

つまり、3400項目の専門用語について、韓国語の解説文の原案を読み、その解説文が適切であるかどうかをチェックし、必要に応じて修正しなければならないのだ。

「期限はいつまでです?」

「5月1日から2カ月間です。契約書を取り交わしますから、きっちり2か月以内に納品してください」

「はぁ」

「断るなら今のうちです。その場合は、他の人を推薦してください」

「他の人って…」

誤解のないように言うと、依頼主も、この仕事の筋がよくないことを自覚しているのだが、上司から命令されて仕方なく僕に依頼してきたのである。僕に依頼してきた、ということは、ほかにあてがない、ということを意味する。仮に他の人を推薦したとすると、僕はそうとう非道な人間ということになってしまう。

僕は依頼主にも恩があり、その上司にも恩があるので、断るという選択肢は、たぶんあり得ない。

それに、これは自慢でも何でもなく率直に言うと、その筋の専門用語がわかり、かつ韓国語がわかる人間は、この国のどこをさがしても、僕くらいしかいないのである。

結局、引き受けることにして、3400項目の韓国語解説文をデータで送ってもらったのだが、プリントアウトすると、A4版で200枚くらいになった。

この校閲を、通常の仕事の合間をみて行うというのは、はっきり言って不可能である。可能にするとしたら、この大型連休中に作業を進めてしまうほかない。

ということで、大型連休中は、この作業に没頭しなければならなくなってしまった。

しかし、この仕事、まったくモチベーションが上がらないのである。

率直に言って、こんな辞典、誰が読むんだ?需要がまったく感じられない辞典なのである。しかし需要がなくても、「大人の事情」で作らなければならないのだろう。これもいわゆる「ブルシット・ジョブ」である。

むかしからよくあるたとえで、囚人が重い石を右から左に運ぶという、徒労感だけの仕事をさせられることがある、という都市伝説が語られることがあるが、この仕事も、それに近い感じの徒労感を抱かせる。

いちおうギャラは出るそうなのだが、それも微々たるものである。

なんでいつもこんな目に遭わなければならないのか。だが愚痴を言っても仕方ない。久しぶりにハングルにどっぷり浸ることができる機会だと割り切って前向きにとらえるしかない。

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