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2022年6月

汗だく取材2時間半

6月28日(火)

先週だったか、あるローカルテレビ局から、取材依頼のメールが来た。

取材内容は、昨年の夏に、キー局で放送された内容と、ほぼ同じである。

あまりはっきりとは言えないが…二番煎じなんじゃないの?という考えが頭をよぎった。

しかしまあ、この依頼はお断りするわけにはいかない。しかもこのテーマにゆかりの深い地元のテレビ局からの依頼である。

そして今日がその取材日であった。

ディレクターは、思っていたよりもかなり若い方だった。もう一人は、カメラマン。二人組の取材クルーである。

昨年の、キー局の取材クルーはディレクター、レポーター、カメラ、カメラアシスタントの4人体制だった。

カメラ機材が重そうである。

「暑い中ご苦労様です」外は猛暑日の気温である。「車で来られたのですか?」

「いえ、新幹線と在来線とタクシーを乗り継いで来ました」

なんと!ローカル局ゆえか、スタッフの人数といい、交通手段といい、予算を切り詰めているのだな。

さっそく撮影場所に移動する。

「この場所、見たことあります」とディレクター。

そりゃあそうだろう。昨年のキー局が取材に訪れた場所と同じなんだから。

撮影場所となる部屋は、冷房が効いているのだが、セッティングをしているうちに、汗が止めどなく流れてきた。

そういえば、前回の取材の時も、汗だくだった。

「では撮影を始めます」

カメラに撮られながら喋っている僕の顔には、大粒の汗がダラダラと流れている。もしこの場面が使われたら、視聴者は、

「この人、なんで大汗かいてるんだろう?」

と、僕の話している内容なんぞ、頭に入ってこないに違いない。そう考えはじめると、ますます汗が噴き出してくる。

あ、そういえば昨年の取材の時も、喋りながら同じことを考えていたのだった

昨年の場合は、結局それが取り越し苦労で、数十秒しか使われなかったこともあり、噴き出す汗にうまく気づかれないように編集されていた。

今回もうまく編集してくれるだろう、とは思うのだが、そもそもこれが、どれくらいの長さの、どんな枠の番組なのか、よくわかっていない。

若いディレクターは、まだ若いゆえなのか、明確なディレクションがある様子もなく、僕も、どのようにふるまっていいのか、よくわからない。しかも、そのディレクターも僕も、基本的に饒舌ではないので、しばしば沈黙が続く。カメラマンの方がむしろ、気を利かして指示を出してくれたりする。

しかし、そんなことはどうでもよく、若きディレクターが誠実な人柄に思えたことだけで十分だった。

あとは、編集でなんとかしてくれるだろう。

こうして、2時間半におよぶ取材が終わった。

「ところで、これ、なんの番組なんです?」僕は最後にたずねた。

「ローカル局が持ち回りで制作して、キー局が深夜に放送するドキュメンタリー番組がよくあるでしょう?」

「ああ、ありますね」

「その枠で放送される予定です」

「そうですか?」

僕はてっきり、夕方のローカルニュースのワンコーナーで放送されるものとばかり思っていた。

…ということは、全国で放送されるのだろうか?

「8月の上旬ぐらいに放送する予定です。放送日が決まりましたらまたお知らせします」

「わかりました」

ドキュメンタリー番組ならば、もっとちゃんとカメラ映りとかを気にしておけばよかった。

細かい字が見えなくて、メガネを上に持ち上げるしぐさを、カメラの前で2,3度してしまったが、まさか、その場面が使われることはないだろうな。

僕は大汗よりも、そのことのほうが心配になった。

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小田嶋さんのいないたまむすび

6月27日(月)

この土日は、妻が出張に出ていることもあり、けっこう大変だった。

土曜日の午前中、4歳3か月になる娘が高熱を出した。しかしほかの症状も亡く、元気に動き回っているので、最初は全然気づかなかった。

どうも身体が熱いと思い、体温を測ってこれはまずい、ということになり、慌てて近くのかかりつけの小児科にかけこんだ。

熱が出ている以外、なんの症状もない。解熱剤を処方してもらって、あとはひたすら娘を寝かせることにした。

翌日曜日にはやや熱が落ち着き、月曜日の朝には、なんとか保育園に登園できるかな、というくらいまで熱が下がった。

それでも念のため、小児科の先生に見てもらおうと、朝イチで小児科に行ったところ、

「もう大丈夫でしょう。登園しても問題ありません」

と言われ、なんとか無事に登園ができたのであった。

あ、そうそう、自分の薬も処方してもらう必要があったということを思い出し、こんどは自分のかかりつけの病院に行って、薬を処方してもらう。

そんなこんなで、今日の午前中は潰れてしまった。ま、もともと今日は、リモートワークをすることになっていたのだけどね。

今日は月曜日。TBSラジオ「赤江珠緒 たまむすび」の3時台は、小田嶋隆さんの「週間ニッポンの空気」のコーナーである。

今日は謹んで、リアタイすることにした。

ゲストはライターの武田砂鉄さんである。メインパーソナリティーの赤江珠緒さん、月曜パートナーのカンニング竹山さんと3人で、小田嶋さんの思い出話を語っていた。

「すごい文章を書く人なんだけど、締め切りを守らない人なんですよ」

「おちゃめなところがありましたね」

「群れることを嫌う人だったのに、なぜか『たまむすび』の打ち上げには、必ず参加していた」

「小田嶋さんが大好きなサッカー観戦に一緒に行ったとき、点が入るという一番大事な場面で小田嶋さんはメガネを拭いていて、その瞬間を見ていなかった」

など、すごい人だったけど、しょーもないところもある人だったよね、的な故人の偲び方が、ほんとうに慕っている人たちだけで偲んでいる感じがした。

なんか覚えがあるなあと思ったら、僕自身も、似たような体験をしていた。

「前の前の職場」で同僚だったOさんが亡くなったときの告別式のあとで、Oさんがよく通っていた喫茶店に何人かで集まって、Oさんの思い出話をした。

Oさんは、僕の恩人のような人で、僕はOさんの考え方に影響されて、のちに韓国留学を体験することになる。その意味で尊敬すべき同僚だったのだが、一方で、おちゃめでいいかげんなところもあり、愛すべき存在だった。告別式で散々泣いたあと、そのあとの喫茶店では、気の合う数人が集まり、Oさんの間抜けな話に大笑いした。

「よく道に迷ってましたよね」

「旅先で選んだ食堂は、たいていハズレだった」

「車に関する間抜けな思い出は尽きませんね」

など。

小田嶋さんについてのラジオでの3人の会話を聴いていて、そのことを思い出したのである。

小田嶋さんは、「たまむすび」のリスナーに、「最後の手紙」を遺していた。亡くなる10日ほど前の、6月13日に書かれた手紙である。おそらく、ご自身にまもなく最後の瞬間が訪れることを意識して書かれた文章であろう。

その手紙の全文は、「たまむすび」の公式Twitterにアップされているので、ここでは引用しない。最後まで、小田嶋さんらしい、諧謔に満ちた愉快で暖かい文章だった。

番組では、赤江珠緒さんがその手紙を読み上げたが、当然ながら、読もうとすると嗚咽が止まらなくなる。誰だって、あんな手紙を読まされたら嗚咽で読めなくなるだろう。しかし赤江珠緒さんは最後までしっかりとその手紙の内容をリスナーに伝えた。

この感じ、覚えがあるなあと思ったら、小田嶋さんの親友の岡康道さんが、亡くなって5か月後になって、小田嶋さんへメッセージを寄せていたことと、よく似ている。

亡くなったあとに、生きている人に向けてメッセージを届ける、ということを、小田嶋さんは最後の最後にしたかったのだろう。親友の岡康道さんが、そうやって小田嶋さんを驚かせたように。小田嶋さんはそのとき岡さんのことを「最後まで楽しい男だった」とツイートした。

そしていま、僕たちは思うのである。小田嶋おじさんは、最後まで愉快なおじさんだった、と。

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小田嶋さんのいないTwitter

コラムニストの小田嶋隆さんについて書いた、フランス文学者の内田樹さんの、2022年6月24日(金)のツイートより。

「小田嶋さんと最後にお会いしたのは6月13日でした。その少し前にお電話を頂いて、「旧知の方たちに意識がはっきりしているうちに別れの挨拶をしておこうと思って」ということでした。次の週に平川(克美)君と二人で赤羽のお宅にお見舞いに行きました。」

「ベッドに横になっていて、話をするのも苦しそうでしたが、半身起き上がって「どうでもいいようなバカ話がしたいんですよ」というので、ご希望にお応えして、三人で思い切り「バカ話」をするつもりでいたのですが、話しているうちにどんどん元気になってきて、言語と文学の話を熱く語ってくれました。」

「最初の小説『東京四次元紀行』が出たばかりでしたから、その話が中心でした。1時間以上話して、別れ際に「じゃあ、元気で。またね」と手を握ると暖かくて柔らかい手で握り返してくれました。長い付き合いの最後の贈り物が笑顔と暖かい手の感触でした。素晴らしい友人でした。ご冥福を祈ります。」

「小田嶋さんが電話をくれたのは、彼の親友だった岡康道さんが急逝された時に「最後の挨拶ができなかったことが友人として悔いが残った」のでそういう思いを自分の友人にはさせたくないからという理由からでした。小田嶋さん、ほんとうに気遣いの行き届いた人でした。」

「旧知の方たちに意識がはっきりしているうちに別れの挨拶をしておこうと思って」という言葉を、みずから発しなければならないほど、すでに何日も前にお別れを覚悟していたというのが、泣けてしまう。

ライターの武田砂鉄さんも、ラジオで「6月15日に小田嶋さんのご自宅にうかがって、お話をした」と語っていたから、おそらく小田嶋さんは、これが最後の機会だと悟って、会ってお話をしておきたい人たちに声をかけていたのだろう。

内田さんのツイートの中に出てくる、岡康道さんとの友情については、以前にこのブログでも書いたことがあるが、小田嶋さんと岡康道さんとの関係については、こんな話を聞いたことがある。

小田嶋さんと岡さんとは、10年間くらい絶交していた時期がある。そのきっかけは、当時電通に勤めていた岡さんが、親友の小田嶋さんをメジャーデビューさせようと思って、そのころ飛ぶ鳥を落とす勢いだったあるコピーライターとの対談を企画したことにはじまる。

対談といっても、実際には二人が直接会って対談するわけではない。会わずに、それっぽい言葉の応酬を原稿化して、対談したことにする、というものである。つまり「フェイク対談」である(余談だが、実は私も一度、フェイク対談をしたことがある)。

小田嶋さんは、この企画を「冗談じゃない!」といって突っぱねた。だいたいそのコピーライターは自分にとってはいけ好かない人物であるし、そんな人間に頼ってまでメジャーになりたくない、と。

で、そのことを、『噂の真相』という雑誌に書いちゃった。つまり、そのコピーライターとのフェイク対談が企画されていたけれど、俺は断った、というその一部始終を、暴露してしまったのである。

サア怒ったのは岡さんである。せっかく親友の小田嶋にメジャーになってもらいたいと思い、よかれと思って企画したのに、それを断った上に、雑誌に内幕をばらすとは、何事か、と。

どうやら絶交のきっかけはそういうことだったらしいのだが、その後はまたもとの親友同士に戻ったという。

で、その岡康道さんが、2年ほど前に亡くなったのだが、「最後に挨拶ができなかったことが友人として悔いが残った」と言ったのは、そのときの別れがそうとうにショックだったことを示しているのだろう。

僕が友人論のバイブルとしている、小田嶋さんの『友だちリクエストの返事が来ない午後』は、身も蓋もないような友人論が書かれている、という読後感を持ったのだが、それを書いた小田嶋さんをしても、あるいはそうだからこそ、なのか、友情への揺るぎない信頼をもっていたのかもしれない。

映画評論家の町山智浩さんが、同じく6月24日のツイートで、

「小田嶋隆さんとは30年親交がありました。遺作となった処女小説『東京四次元紀行』を読んで、あの皮肉と諧謔と洞察と警句と諦念に満ちた小田嶋エッセイの本質がわかりました。酔いどれ探偵の一人称ハードボイルド小説だったんです。 新境地を開いたところに残念でなりません。」

と書いている。「皮肉と諧謔と洞察と警句と諦念」こそが、小田嶋さんの文章の本質である。してみると、友情への諦念に満ちた『友だちリクエストの返事が来ない午後』も当然、小田嶋さんの文章の本質を示していることになるのだが、しかし小田嶋さんの文章はそれだけで終わるわけではない。諦念の先には、ほんとうの希望や信頼が生まれるのだということを、真剣に考えていたのではないだろうか。

さて、僕が小田嶋さんの立場だったら、どうするだろう。小田嶋さんのように、自分の最後を自覚して、意識がはっきりしているうちに、これまでお世話になった友人に、お別れの挨拶ができるだろうか。

どうもできそうにない。

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小田嶋さんのいないAM954

6月24日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

コラムニスト・小田嶋隆さんの訃報は、ここ最近で、いちばんの喪失感かもしれない。

TBSラジオ「赤江珠緒 たまむすび」の月曜日「週刊ニッポンの空気」を、通勤途中の車の中で毎週聴いていた。もちろん、リアルタイムでは聴けないので、ラジオクラウドで聴くのである。

ここ最近は、小田嶋さんが病気療養中ということで、別の人が代打で出演していたが、それは聴く気にはならなかった。もうすぐ小田嶋さんは戻ってくるだろうと待ち望んでいたところだったから、よけいに喪失感を抱いたのかもしれない。

よく辛口のコラムニストだと言われる。たしかにそうなのだが、「赤江珠緒 たまむすび」では、それでもまだかなりソフトな語り口である。これがたとえば、平川克美さんとの対談コンテンツなどを聴くと、小田嶋さんの辛口批評が遺憾なく発揮されている。「ひねくれ」「屁理屈」「豊穣な語彙」をもって政治や世間の理不尽を追い詰めていく手法は、話芸でいえば上岡龍太郎さんに通じる。つまり言葉のプロとして「見事」なのである。だから僕は、小田嶋さんの書いた文章を読むのが好きだった。

昼休み、仕事部屋で昼食を取りながらインターネットのニュースサイトを開いたときに、訃報を知った。しばらく呆然とした、という表現がふさわしい。

気になったのは、夜10時から始まるTBSラジオの生放送「アシタノカレッジ金曜日」の冒頭で、武田砂鉄さんが何を語るか、である。武田砂鉄さんは、ライターとして小田嶋隆さんの影響をかなり強く受けた人の一人であり、小田嶋さんのTwitterでの名文をまとめた『災間の唄』(サイゾー、2020年)の編集を担当している。師弟関係といってもよいほどである。

番組の冒頭では、上島さんの時のように、随想的に語るのだろうか。出版社勤務時代の思い出話を語っていたら、いつの間にか上島さんとの思い出話になっていたように。

しかしそうではなかった。

冒頭の12分間、最初から最後までずっと、小田嶋さんの思い出話をストレートに語っていた。亡くなって半日くらいしか経っていないので、気持ちがまだ整理されていない様子がうかがえた。

12分の独白のあとにかかった曲は、小田嶋さんが愛してやまなかった、サイモン&ガーファンクルの「Sound Of Silence」だった。ああ、小田嶋さんは、ほんとうにいなくなってしまったのだな。

これまで僕が書いた小田嶋隆さんに関する記事を再掲する。合掌。

現代版徒然草

懐かしむためにある場所

ザ・コラム

友達リクエストの返事が来ない午後

原稿ため込み党の夏

上を向いてアルコール

コラムとエッセイ

アレなマスクが届きました

金曜日までたどり着きませんでした

つじつまの合う物語

 

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僕はラーメンからできている

6月22日(水)

午後から都内で、来年のイベントに関する打合せを6時間以上にわたって行い、すっかりヘトヘトになってしまった。

帰宅すると、もうすぐ4歳3か月になる娘が、起きていた。

娘は最近、寝付きが悪い。暑さのせいなのか、それとも、僕が遅くに帰宅することにより睡眠のペースを乱されるからなのか、わからない。

僕はいつも心配して、

「眠れないの?」

と娘に聞くのだが、娘はきまって、

「眠れるよ」

と反論し、自分の寝付きの悪さを決して認めない。

だが、今日。

「○○ちゃん(娘のこと)、どうして眠れないかわかる?」

と聞いてきた。

「どうして眠れないの?」

と聞くと、

「だって、『僕はラーメンからできている』から!」

と答えた。

僕は爆笑した。

「すごいねえ、天才だよ!」

僕は娘の言っていることを瞬時に理解した。

さて、どういうことでしょう?ま、これだけではナンダカヨクワカラナイ。

実は最近、録画しておいた映画『南極料理人』を、娘はくり返し観ている。どうやらお気に入りの映画のようだ。

映画『南極料理人』は、そのタイトル通り、堺雅人扮する西村が、南極観測隊の料理人となって、隊員たちに料理をふるまう、という内容なのだが、そこに登場するメンバーが、じつに個性的な役者ばかりである。

最年長である「隊長」こと、きたろうを筆頭に、生瀬勝久、豊原功補、高良健吾、古舘寬治、黒田大輔、小浜正寛という面々である。

隊長のきたろうさんは、ラーメンが大好きで、毎晩、夜中にこっそりと、南極の在庫のラーメンを食べていたところ、ついに南極にストックしてあったラーメンが尽きてしまった。南極だから当然、買い出しに行けるはずもない。在庫がなくなったら、もうそれっきりなのだ。

それに気づいた西村(堺雅人)が、

「もうラーメンはありません」

と言うと、きたろうさんは、ほんとうに悲しそうな表情をする。この表情が、たまらなく可笑しい。この表情を見るだけでも、この映画を観る価値がある!

ある夜、きたろうさんは、熟睡している西村(堺雅人)の部屋を訪れた。

「西村くん、眠れないよ」

驚いて目を覚ます西村。

「西村くん、僕の身体はね、ラーメンでできているんだよ」

訴えかけるような目で、ほんとうに深刻そうに話すきたろうさん。この表情がまた可笑しい。

西村(堺雅人)は、「そんなこと僕に言われても…」と、眠り目をこすりながら、きたろうさんの深刻そうな顔を見つめる。

…僕は、娘の「僕はラーメンからできている」という言葉を聞いて、映画のこの場面を瞬時に思い出したのである。

娘は、この場面が、映画の中でいちばん面白いと思ったのである。それを、自分の眠れない理由に使うなんざ、粋だね。天才的だね。

2時間の映画で、いちばん印象に残ったセリフが、きたろうさんの「僕の身体はラーメンでできている」というセリフだったのかよ!笑いのセンスがパパと同じじゃないか!

このエピソード、きたろうさんが聞いたら喜ぶんじゃないだろうか。だってあの映画ではきたろうさんがいちばん面白いと言っているようなものだもの。「大竹まこと ゴールデンラジオ」の水曜日宛てに、メールを出してみようかしら。

…いや、どうせ紹介されないから、やめておこう。

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私の知らないヤマザキマリ

NHKのEテレ「100分de名著」を観ていたら、安部公房の『砂の女』が取り上げられていて、指南役は漫画家・文筆家のヤマザキマリという人だった。

このヤマザキマリさんの話が、めちゃくちゃ面白い。

家族に、

「ヤマザキマリって人、弁が立つねえ。こりゃあ、テレビとかラジオに引っ張りだこになるんじゃないの?」

「もうなってるよ。出まくってるよ」

「え?」

「知らないの?『テルマエ・ロマエ』」

「知ってるよ」

思い出した。『テルマエ・ロマエ』の作者の人だ。たしかイタリアに住んでいるんだよね。

「なに、『俺が見いだした』みたいな言い方してんの?とっくに売れてるよ」

そうなのか。『テルマエ・ロマエ』は、漫画を読まない僕ですら知っている。たしか阿部寛が主演で映画にもなったやつだよね。申し訳ないことに、映画も観ていなかった。

一昨日の日曜日のTBSラジオ『安住紳一郎の日曜天国』にヤマザキマリさんがゲスト出演していたと聞いたので、今日の通勤途中にラジオクラウドで聴いてみた。

「(安住)4回目の登場、ヤマザキマリさんです」

「(ヤマザキ)もうここに住んでるみたいですね」

ええええぇぇぇ!!!「にちてん」をしばらく聴いていない間に、もう4回も出演しているの??

「(安住)コロナ禍になって、あまりいいことはありませんけれども、あえてよかったことをあげるとすれば、ヤマザキマリさんがその間、日本にいらっしゃって、番組にお呼びできたということです」

と、安住アナに言わしめるくらい、ヤマザキマリさんがゲストに来るというのは、安住アナにとっても楽しみなのだな。

そこから、およそ40分間のマシンガントーク、通勤途中の車の中で、大声を出して笑ってしまった。

しかも、あまりに面白いので、2回くり返して聴いてしまった。

とくに、ポルトガルで歌舞伎役者の中村勘三郎さんと出会い、初対面の勘三郎さんに、できあがったばかりの『テルマエ・ロマエ』の雑誌を渡したエピソードは、その後日談を含めて何度聞いても面白い!

いやあ、久々に、僕の中での「スター誕生」である。鉱脈を掘り当てた感じっていうか。いまごろ何言ってんの?と言われそうだが。

ラジオのレギュラー番組をもったら、絶対にヘビーリスナーになるんだがなあ。

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プロットづくり

6月20日(月)

今日は午前中から職場で、来年度のイベントのための集中作業である。

映画製作で言えば、粗(あら)編集といったところか。もっとも、映画を作ったことがないのでわからない。

イメージとしては、撮影した映像をつなぎ合わせて、「ここはもう少し長く」とか「ここはもう少し短く」みたいな作業とダブらせてみたのだが、よく考えてみれば、撮影した映像の素材がまだ全然揃っていない。というか、映画で言えば、まだ撮影前なのだ。そう考えると、編集ではなくて、むしろプロットづくり、といった方が適切である。

経験豊富な同僚と担当職員と僕の3人で、会議室のスクリーンに映し出された画像を前に、ああでもない、こうでもない、と、全体の構成を考える。

「そこ、もうちょっと右に動かしましょう」

「それは、そっちではなくて反対側に置けませんか?」

僕がアイデアを出し、経験豊富な同僚と担当職員が、パソコンの作画ソフトを動かしながら、それを形にしていく。

途中、1時間のお昼休みをはさんで、午後も作業は続く。

経験豊富な同僚が、

「以前、○○のイベントの時は、そこには何も置かなかったんですよ」

と言ったら、

「そうや」

と後ろから声が聞こえた。

ビックリして振り向くと、社長がいた。会議室の扉は、換気のために開け放っていたので、いつの間にか部屋に入ってきたようである。

「どや、調子は」

と言いながら、社長はひとしきり自分の体験を話した後、

「邪魔してスマン」

といって部屋を出て行った。

しばらくすると、こんどは管理職の同僚が会議室入ってきた。

「進んでますか?」

僕たちが作業をしていることを、社長に聞いたのか、ほかの職員に聞いたのか、とにかく、今日ここで、僕がまる1日作業をしていることが、社内にダダ漏れらしい。

「なかなか大変です」

と答えると、

「でも鬼瓦さん、楽しそうですよ」

と言う。そこには、ふだんは楽しくなさそうに仕事をしているのに、というニュアンスが含まれていた。僕は、

「まあ、楽しいか楽しくないかでいえば、楽しいほうの部類に入ると思います」

と、三谷幸喜脚本の舞台『笑の大学』のセリフを引用して、仏頂面で答えた。だが、このセリフが『笑の大学』からの引用であることは、おそらくだれにもわからないだろう。

結局、6時間以上かかって、作業は一段落した。経験豊富な同僚は、

「この作業をやっておけば、なんかもう、できた、という気になるでしょう。でもここからが大変です」

と言った。たしかに、やっとプロットができたところで、まだ何も始まってはいない。

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名画座の思い出だけを抱いて死ぬのだ

6月18日(土)

ある作家の、最初に読む作品をどれにするかというのは、けっこう重要なことかもしれない。

僕の場合、桐野夏生は『OUT』だった。これは、フジテレビで放映されたドラマの影響である。

小川洋子は『博士の愛した数式』。これも映画の影響。

伊坂幸太郎は、『オーデュボンの祈り』。これは、数年前にある人に薦められて。

東野圭吾は、たぶん『白夜行』だったと思う。ただしこれは、後から映画やドラマを観た。「原作のイメージと違う!」と怒りまくった記憶がある。

さて、僕が最近直面したのは、原田マハである。

読みたいとは思いつつも、何を最初に読んだらいいのか、わからなかったので、なかなか踏み出せなかった。

ただ、少し前に、山田洋次監督が『キネマの神様』という映画を製作して、その原作が原田マハであることを知り、とりあえず、その映画の公開に合わせて、原作の文庫本を入手しておいた。映画を観てから読もうかとも思ったが、結局、映画は観ていない。

この日の夜、ふと、この本のことが気になり、読み始めたところ、止まらなくなってしまい、最後まで読み切ってしまった。

ストーリーが、ご都合主義的な展開という感じがしなくもないのだが、まあそこはそれ。そのストーリーテラーぶりに心地よく身を任せることができさえすれば、それで十分なのである。

何より、小説の中に登場する実在の映画の多くが、僕のこれまで観てきた映画と重なっていたことが、共感しつつ読むことができた理由である。

この小説では、『ニュー・シネマ・パラダイス』がかなり重要な作品として登場する。この映画を持ち出すのは反則だろ!とも思うのだが、「映画館への愛」を主たるテーマとするこの小説では、この映画を取り上げないわけにはいかない。

もう一つ、『フィールド・オブ・ドリームス』も、重要な作品として登場する。『ニュー・シネマ・パラダイス』とならんで、1989年に日本で公開された映画で、僕も大学生の時に劇場で観た。扱われている作品が、僕が若い頃に観たど真ん中の映画ばかりなのである。

それでいて、古い映画についての言及も数多くされている。いわゆるシネコンとは対照的な名画座も、この小説の重要な位置を占める。学生時代、僕は名画座にもよく行った。

つまりこの小説は、僕が学生の頃に体験した、劇場でロードショー公開された作品と、名画座などで観た古い作品のオンパレードで、20代の頃の僕の映画に対する、ある感慨みたいなことを、ファンタジーとして描いてくれているのである。ちょっと大げさな言い方かもしれない。

さて、問題は、この小説を映画化した山田洋次監督作品を、観るべきかどうか、である。

インターネットの情報などによると、原作をかなり改変しているらしい。たしかに原作をそのまま映像化するのは、いささか地味な感じはするのだが、最近テレビで放映された『ダウンタウンヒーローズ』を観て懲りてしまった気持ちをまだ引きずっているので、しばらくは観ないほうがよさそうである。

名画座、で思い出した。

僕が名画座で観た映画として、いまでも印象に残っているのが、高峰秀子主演の『浮雲』と、佐野周二主演の『驟雨』の二本立てである。どちらも監督が成瀬巳喜男なので、おそらく「成瀬巳喜男特集」として上映されたものだろう。どういう経緯で観に行くことになったのかは覚えていないのだが、観に行った状況についてはよく覚えていて、その状況を含めて、自分にとって印象深い体験となったのである。いまでもそのときの古びた映画館の様子や、古びた映画館特有の「におい」、そのときのお客さんの様子、などを、思い出すことができる。

しかしその映画館の場所がどこだったのか、具体的になんという映画館だったのか、といったことは、覚えていない。映画を見終わってから新宿の居酒屋に入った記憶はあるから、新宿の近くの名画座だったのだろうか。

もう覚えているのは、この世で僕だけかもしれない。その名画座は、現在でも残っているのだろうか。名画座の「思い出だけを抱いて死ぬのだ」(by大竹まこと)。

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めざせ完パケ

6月17日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

体調があまりよくない上に、来年のイベントのための準備作業を、ひたすら行っている。

僕は映画を製作した経験も、舞台を演出した経験もないのだが、イベント全体の構成を考え、キャスティングをし、出演交渉をし、それをふまえてさらに構成を練り直し、いろいろな人の意見を聞き、それをExcelに入力していき、それをふまえて尺を考え、尺が長すぎれば削り、短すぎれば足す…という作業をくり返すのは、監督兼プロデューサーみたいな仕事なのではないかと、勝手に想像している。

パソコンに向かってひたすら孤独な作業を続けているのだが、僕が仮に、嫌気がさしてやめてしまうと、そこから先は一歩も進まず、たくさんの人に迷惑をかけてしまうので、作業を放り出してしまうわけにはいかない。

唯一の息抜きは、往復4時間ほどかかる通勤の車の中で、ラジオを聴いたりポッドキャストコンテンツを聴いたりすることなのだ。

数年前まで在京キー局のラジオ番組のレギュラーを長い間つとめ、いまは、ローカル局の30分番組とポッドキャストコンテンツなどでトークを発信している、ベテランMCの声を、最近聴くことが多くなったという話は、前に書いた

そのMCは、下ネタをよく言ったりするので、なかなかそのノリにはいまだに慣れてはいないのだが、そうしたことを差し引いても、なぜかそのMCの独り言を、延々と聞いていられるから不思議である。

その人は、まったく別の名前で、YouTubeをひっそりはじめたというので、そのYouTubeを見てみることにした。まだ初めたばかりで、動画が数回アップされているだけなのだが、その中で、興味を引く動画があった。

それは、自分のラジオ番組を、ふだんどのように編集しているのかを、10数分でまとめた動画である。

ラジオ番組って、ラジオ局のブースに入って、ディレクターと放送作家がいて、パーソナリティーはその場でお喋りしさえすればなんとかなる、とばかり思っていたが、その人は、まるで違っていた。

地方のローカル局の30分番組を、ローカル局に行って収録しているのかと思ったら、そうではないのだ。都内にスタジオを借りて、そのスタジオで、フリートークをしたり、メールの紹介をしたりと、まず、みずからトークの素材を作る。フリートークとメールの紹介の間に、音楽を流すのだが、その音楽の選曲も行う。

そうやって録った音源を、あとはひたすらパソコンを使って、30分の番組になるように編集をする。無言のまま、パソコンのキーボードをカタカタ打つ音が、スタジオ内に鳴り響く。

もちろん、聞きやすさも考慮して、音にムラができないように調整をすることも必要である。

フリートークから、曲に移行するタイミングも大事である。

そんな、いろいろなことを考えながら、30分の番組を、たったひとりで編集する。見ていて、気が遠くなるような作業である。

こうして、30分のラジオ番組が完成し、完成した番組を放送局にそのまま納品する。こういうのをおそらく「完パケ」というのだろう。

完成した番組だけではなく、完成した番組から逆算して作成した「キューシート」も合わせて納品する。フリートークが何分から何分までで、曲が何分から何分まで、CMが何分から何分まで、みたいな、秒単位の進行を記録したものである。これをあらかじめ示しておくことで、放送局側は前もってその番組の進行を知ることができるのである。

興味深かったのは、フリートークとメール紹介の間に、必ず曲が入ることについてである。

そのMCいわく、むかしは、トークとトークの間に曲をかけるのは、それだけトークの時間が短くなると言うことだから、なるべく曲をかけないようにしていたのだが、東日本大震災以降、突発的な災害を伝えるニュース速報を伝えるための対策が必要になってきた。収録した番組が30分ずっとトークばかりだと、トークにかぶせてニュース速報をアナウンサーが読まなければならず、それはあまりほめられたものではない。トークが終わり、曲がかかったタイミングで、曲の音量を下げて、ニュース速報を伝える方が、リスナーにとっても聴きやすい。だから東日本大震災以降は、曲をかけるタイミングを作ることになった。番組の完パケに合わせてキューシートも納品するのは、あらかじめ曲のタイミングがいつなのかを放送局側に知らせるためである。…と、こういうことらしい。

なるほど、よく考えられている。そこまで神経を使いつつ、30分番組の編集をひとりで厭わずに行っていることに、僕は感動した。僕はそのMCが、おちゃらけた感じのキャラクターであるにもかかわらず、なぜこの業界で長く重宝されてきたのか、その理由が、わかった気がしたのである。満足がいくまでみずからが音源を編集し、納得のいく完パケに仕上げるまで責任を持つラジオパーソナリティーは、そうそういるものではない。最近安易に使われる「ラジオ愛」ってなんだろう、と考えさせられる。

そういえば、大林宣彦監督の映画のメイキング映像でも、撮影の細部に徹底的なこだわりをみせ、編集も、部屋にこもって納得がいくまで孤独な作業を続ける、という姿をよく見てきた。ものづくりというのは、元来そういうものなのだろう。好きではないと、続かないな。

してみると、いまの僕の仕事は、僕ができる精一杯の力量で、納得がいくまで作業を進めるしかない。ま、あたりまえの結論なのだが。

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前のめりな人

6月16日(木)

われながら、よく働くねえ。

疲れているし、何も書くことがないので、例によってどうでもいい話をする。

「前のめりな人」という表現がピッタリな人がいた。まったく悪い人ではなく、むしろいい人なのだが、あるとき、いっしょに仕事をしていくうちに、どうもこの人は前のめりな人に違いない、と思いはじめた。

おそらく先に先にと、気が回る人なのだろうが、その「勇み足」的な行動が、些細なトラブルを起こし、僕はその尻拭いをしたりすることもあった。もちろん、本人にはそんなことまったく言わないけれど。

たまたま知り合った人と仲良くなるのが得意で、仲良くなると、やたらと仲間に引き入れたくなるらしい。「先日知り合った○○さんという人がとてもおもしろい人なので、こんどその人に仕事をお願いしましょう。なんなら、その人を仲間に引き入れましょう」と、無邪気に提案してくる。

自分が面白いと思ったことは、ほかの人もおもしろいはずだ、自分が気の合う人は、ほかの人もきっと気が合うはずだ、と信じて疑わないようなところのある人で、それ自体は無邪気というか、天真爛漫で悪くはないのだが、それが仕事となると、話は別である。

僕には、「人はむやみに出会ったりしてはいけない」という信条があり、人とすぐに仲良くなるのは危険だと考えている。しかも仲がいいからといって仕事がうまくいくとも限らない。とくにチームで仕事をする場合は、人間関係にムラができてしまっては支障をきたすので、できる限り私情をはさまないのが理想である。まああたりまえのことなのだが。

その人は、ちょいちょいと「前のめりな私情」が見え隠れするような雰囲気を出してくるので、大丈夫かなあと心配していたら、案の定、人間関係のちょっとしたトラブルが起こったことがあった。それ以来、僕はそれとなく、ブレーキをかける役目を勝手に自分に課した。その人の気持ちを傷つけることなく、やんわりと着地させることを心がけたつもりだったが、そう思っているのは僕だけで、ひょっとしたら一人相撲をしていただけだったのかも知れない。

「やんわり」で思い出したが、あるとき、面識のない方から、「やんわりとしたクレーム」が来た。

「決してクレームをつけているわけではありません」と書いてあったが、明らかにクレームである。

僕に答えるべき責任があったので、懇切丁寧に、噛んで含めるように、その方の不信感に対して釈明をした。簡単に言うと、「規則なんだからしょうがないだろ、あんたも業界人ならそういう規則があるくらい知っているだろ」という話なのだが、もちろんそんなことは言えない。あくまでもこちらの落ち度であり、それに対して誠実に対応する、ということを、政治家的な答弁ではなく、クドいくらいに「丁寧な説明」をしたのである。

それだけでかなりのエネルギーを消耗したのだが、それに対して、相手からはいまに至るまで何の反応も来ていないのは、まことに脱力することこの上ない。面識がないだけに、その人の人柄についてしばらく仮説を立ててみたが、そんな仮説を立ててみたところで何の意味もない。まあ自分もメールの返信を怠ったり忘れたりすることがあり、相手にストレスを与えていることもあると思うので、日ごろの自分の行いを顧みるよい機会となった。

…ということで、呆れるほどどうでもいい話である。というか愚痴だな。

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没後20年

6月14日(火)

文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」といい、TBSラジオ「アフター6ジャンクション」(アトロク)の「ビヨンド・ザ・カルチャー」のコーナーといい、今日は武田砂鉄デーである。

…これほど武田砂鉄氏の文章やラジオを追いかけているということは、ひょっとして、これが俺にとっての「推し活」なのか???

「アトロク」の「ビヨンド・ザ・カルチャー」のコーナーは、武田砂鉄さんと町山広美さんがゲストの、「没後20年、伝説のコラムニスト“ナンシー関"特集」だった。

没後20年経つのか…。

ゲストのひとりである放送作家の町山広美さんは、たしか『タモリ倶楽部』の「空耳アワー」のコーナーを作った人(創始者)である。町山智浩さんの妹だと知ったのは、ずいぶん後になってからだった。ナンシー関と交流があったことを、このたびの「アトロク」を聴いてはじめて知った。

「ナンシー関」の名付け親は、いとうせいこうだということも、はじめて知った。

ナンシー関について書こうと思ったが、以前に書いたことがあるなあと思い出し、さがしてみると、たしかに書いていた。

原点は青森

いま読み返してみると、この文章に尽くされている。これ以上何も書き加えることはない。

番組では、武田砂鉄さん、町山広美さんがイチ押しの「ナンシー関のコラム(文章)」を紹介していたが、僕にとってのイチ押しはやはり、前にも紹介した、矢野顕子の「ひとつだけ」のアルバムに寄せた短文である。あれほど、テレビに出ている芸能人に対するモヤモヤを明快に言語化した批評コラムを書いていた人が、矢野顕子に対しては、純粋な気持ちを照れ隠ししながら告白する。それが僕にとってはじつに新鮮だった。

ところで昼間の「大竹まこと ゴールデンラジオ」のオープニングでは、大竹まことさんによる味わい深い独白が続き、武田砂鉄さんの出番があまりなかったのは、夜の「アトロク」出演があるので武田砂鉄さんにあまり喋らせず、エネルギーを温存させようとする大竹さんの気遣いなのかなと、僕は深読みしたのだった。こちらのオープニングも、神回である。

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ひょっこりひょうかんじわ

これはたぶん私家版なのだと思うが、『往復書簡 ひとりになること花をおくるよ』は、写真家の植本一子さんと作家の滝口悠生さんが、コロナ禍の2021年11月から2022年4月20日まで16回にわたってやりとりした往復書簡集である。メールのやりとりではなく、実際に書簡を往復させたようである。

滝口さんには1歳の娘さんがいるそうなのだが、そこで語られている言葉が、わかるわかる、といった感じなのだ。

「一歳を過ぎてからの変化は日々めざましいものがあります。たぶん喉を使って音を出したり、これまでと違う舌の使い方を覚えたことで、アルファベットで表すと、gr gr gr とか、krrrみたいな声を上げます。これまでは「んまー」とか「ぱっぱっぱ」とか、いわゆる喃語らしい音だったのですが、最近の音は僕の耳にはとても新鮮で、ちょっとモンゴルとかロシアとかの言葉みたいに聞こえます。日本語の音声が身体化している僕は同じ音を出そうと思ってもなかなか真似できません。母音と子音を組み合わせた発音はまだできないから、日本語にはないような子音の音を出したり、子音を続けて発音したりしているようで、言葉ができあがる過程を見ているみたいでおもしろいです」

これは僕も感じたことである。1歳から2歳くらいのころ、娘の発する音が、韓国語のパッチムのように聞こえることが、よくあった。だがそれは、僕はたまたま韓国語の発音を習ったことがあったから、娘の発音の仕方がパッチムのように聞こえたのであって、ドイツ語の発音になじんでいる人にとっては、ドイツ語の発音に聞こえたかもしれないし、フランス語の発音になじんでいる人が聞いたら、フランス語のリエゾンのように聞こえたのかもしれない。

つまりここから言えることは、1~2歳児は、言語の習得に関するあらゆる可能性を持っているということである。それが、成長するにつれて、日本語の発音が身体化していくのである。

4歳2か月の娘はいまや、かつてのような発音が次第に淘汰され、ほとんど日本語の発音が身体化しつつある。それが少しさびしい。

また、滝口さんは、こんなことも書いている。

「日々できることが増えることは、そばで娘を見ているものとしては嬉しいですが、同時に感じるのはその過程そのものや、その過程にあって親しみを覚えはじめていた娘のしぐさや言動を楽しめる時期があっという間に過ぎ去ってしまうことのかなしさです」

このことを実感するのは、娘の歌う歌を聞いているときである。人から聞いた歌や、テレビから流れてくる歌を、聞こえたなりに娘が歌うのだが、歌詞がかなりおかしい。

最近、娘がハマっているもののひとつが、「ウルトラマン」である。映画「シン・ウルトラマン」を劇場で観て以来、毎日のように、以前僕が買った、オリジナルの「ウルトラマン」とか「帰ってきたウルトラマン」のDVDを見ている。最近の口癖は、「ハヤタ~」であり、マムシさんの最近の写真を見て「あ、アラシ隊員だ!」と同定したりする。どんな4歳児なんだ?!

もちろん「ウルトラマン」の歌も歌うのだが、もう一つ、いま盛んに歌っているのが、「ひょっこりひょうたん島」の主題歌である。こちらの方はたぶん、保育園で習ってきたのだろう。

「ウルトラマン」だとか「ひょっこりひょうたん島」だとか、1960年代の歌しか歌わないのが可笑しい。

で、「ひょっこりひょうたん島」は、振りつけを交えて歌うのだが、歌詞がところどころ、不正確なのである。

「泣くのはイヤだ、笑っちゃおう♪」

のところは、

「泣くならいまだ、笑っちゃおう♪」

と歌うし、最後に、

「ひょっこりひょうたん島♪ひょっこりひょうたん島」

とくり返して歌うところは、

「ひょっこりひょうかんじ~わ♪ひょっこりひょうかんじ~わ♪」

と歌うのだ。

これも、もうしばらくすると、正しい歌詞に直ってしまうのだろうと思うと、この間違った歌詞を聞いているいまが大切な時間に思えてくる。

だから、滝口さんの言う「親しみを覚えはじめていた娘のしぐさや言動を楽しめる時期があっという間に過ぎ去ってしまうことのかなしさ」という言葉は、よくわかるのである。滝口さんの言葉は、どれもじつにしっくりくる。

ちなみにこの本、巻末に武田砂鉄氏が一文を寄せている。実はそれが目当てでこの本を入手したのだが、この巻末の一文も、往復書簡の雰囲気に呼応していて、じつに味わい深い。

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気分はミュージックプレゼント

6月10日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

たぶん関東ローカルの番組だと思うんだけれど、ひとつの町をベストテン形式で1時間かけて紹介する長寿番組があるでしょう?

少し前に、うちの職場がある町が紹介されたそうだ。

あの町に、ベストテン形式で紹介するほどの名所があったかな?と、失礼なことを考えたのだが、なんとうちの職場が2位だったか3位だったかにランクインされていた。

それを見た実家の母の友人が、

「その町に行きたい」

と言ったそうだ。

母は、いまだに中学時代の友人たちと仲がよい。たまに、友人たちみんなでいろいろなところに出かけているようだ。

いまだに中学時代の友だちと一緒に出かけるなんて、すごくない?俺なんか、中学時代の友だちとは完全に音信不通なんだぜ。

母は、その友人たちに、その町にある職場に僕がつとめているということを言ってしまったのだろう。それがよけいにみんなを盛り上げたようだ。

「…というわけで、6月10日にあんたの職場を見学に行くことになっちゃったのよ」

「何人くらい?」

「7人」

「7人!?ずいぶん多いな」

「できれば説明もしてほしいんだけど」

「いまはコロナ禍なので、狭いスペースの中で説明することができないんだ。ほかのお客さんもいるしね。広いエントランスのところで、簡単に説明して、あとは自由に見学してもらうことで勘弁してよ」

「わかった」

自分の職場に母親が来る、という話で思い出したけれど。

むかし、ラジオで伊集院光氏が話していたことなんだけど、伊集院さんが10代の頃、スーパーの食肉売り場でアルバイトしていたら、たまに母親が肉を買いに来たんだそうだ。

10代の伊集院光少年からしてみたら、

「クソババァ、来んじゃねえよ!」

という心境である。

で、実際に母親が来ると、母親は息子に対して、

「あら、店員さん、今日はどの肉がお安いのかしら?」

みたいな口をきき方をしてくるので、よけいに腹が立った、という。

母親が息子の職場に来るというのは、若い頃だったらたしかに耐えがたいことだったが、もうこの年齢になれば、なんとも思わない。

同じ「クソババァ」でも、いまはもう、マムシさんのような心境である。

実際、7人の「ジジイ」と「ババア」が職場のエントランスに集まってきたとき、「ミュージックプレゼント」かと思ったもの。

あらかじめこの7人には無料で入れるように手配しておいた。そのことを告げると、そのうちの1人が、

「あら、私たち、招待されちゃったの?」

とか言って、軽口を叩いている。

僕が簡単な説明をはじめると、「ジジイ」と「ババア」の特性なのか、思ったことがつい口をついて出ちゃう。それが、つまんないギャグだったりする。

いよいよ僕は、「ミュージックプレゼント」をやっているマムシさんの心境になり、

「この、くたばりぞこないのジジイとババア、つまらねえ冗談ばかり言いやがって、なかなかくたばりそうにねえなあ。アッハッハ!」

と、危うく言いそうになった。

…と、ここで僕は気づいた。

恥ずかしいのは僕と母の、どっちだろう?

若い頃の僕だったら、自分の職場に母親が来たら恥ずかしくて仕方ないと思っただろうが、いまの僕は、とくにそんなことは思わない。

むしろ、自分の友人たちがしょうもないギャグを自分の息子(である俺)に向けて言っていることに、母親のほうが恥ずかしさを感じていたのではないだろうか。母親にしてみたら、自分の友人たちのことを息子に知られることになるのだから。

仕事部屋に戻って仕事を再開すると、1時間半くらいたった頃か、母から電話があった。

「いま、見学が終わって、みんなでお茶を飲んで、帰るところ。今日はありがとうね」

お茶を飲んで休憩するのを込みで1時間半とは、なんとも短い滞在時間である。さすがに「ジジイ」と「ババア」は疲れちゃったんだね。

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詠み人知らずの歌

録画してあったNHK-BSPの「The Covers」の「スターダスト☆レビューLIVE」(5月27日放送)を見た。

感染対策に配慮しつつ観客を入れたLIVEだったが、客層は明らかに、アラフィフの年代の人ばかりである。

とりあえず、「木蘭の涙」が、アコースティックバージョンではなく、オリジナルのバンドバージョンだったのがよかった。

「木蘭の涙」は、何といってもオリジナルのバンドバージョンに限る。

アコースティックバージョンが歌われ始めた頃、この曲は注目を集め、いろいろなアーティストがカバーをした。そのうち、誰のオリジナル曲なのかわからなくなっちゃって、

「『スタレビさんも、「木蘭の涙」をカバーするんですね』、と言われたんですよ」

と、そのLIVEでボーカルの根本要さんが、本当とも嘘ともつかないMC を炸裂させて、会場を笑わせていた。

根本要さんのMC力は、レギュラーをつとめた毎日放送のラジオ「ヤングタウン」で、野沢直子と笑福亭笑瓶とのトークで培われたという。

あるテレビ番組の受け売りだが、大滝詠一が、本当にいい曲というのは、作った人間の手を離れて、いつしか「詠み人知らず」のように歌われるようになることだと語っていたという。「木蘭の涙」も、もはやその域に達しているということなのだろう。

最近、ネット上で読んだ、、根本要さんのインタビューが、とてもよかった。

「僕らが40年続いたいちばんの理由は、売れなかったことかもしれない」

「本当にヒット曲はないんです。でも長いこと歌っていると、世の中の人が勝手にヒット曲のように感じちゃうらしく、実際は『木蘭の涙』だって20位くらいで、『今夜だけきっと』は50位にも入ってない。だから最近は“ヒット曲でもないのに知られてる曲がある”って自虐的に言ってます(笑)。本当にヒット曲のないバンドなんです。でも、世の中の人たちはそこに価値を見出す。ありがたいことに今回こうやってインタビューしてもらっていますが、僕らはただのマニア向けバンドかもしれません。でも音楽は、マニアックに聞いてくれたほうが、それまで知らなかった音に出会えたりするんですよ。僕自身も“もっとマニアックに音楽を聴こう”と思います。時代と共に薄れる曲よりは、“あなたの中でのヒット曲を作ろうよ”と。売れた曲を“ヒット曲”と呼ぶより、心を叩いてくれた曲を“ヒット曲”と呼んでほしいですね」(週刊女性PRIME 、 2022年6月4日)

そういえば、ムーンライダーズも、まったく同じことを言っていた。

ラジオ番組で、「バンドが長続きする秘訣は?」と聞かれて、

「ヒット作(代表作)がないこと」

と答えていた。

そういうふうなスタンスで仕事が続けられたら、どんなにいいだろう、と憧れる。

ところで、さきの根本要さんのインタビューでは、こんなことも言っていた。

「『木蘭の涙』はたくさんの方にカバーしていただいていますが、なかには“あれ? オリジナルを聴いたことないのかな?”ってカバーもありますよね。やっぱり原曲へのリスペクトはとても大切だと思います。最初にカバーしてくれたのは佐藤竹善とコブクロ、最近も鈴木雅之さんが歌ってくれていますが、僕よりうまくて困りました(笑)。原曲はバンドでの演奏ですが、アコースティックバージョンがよく歌われます」

いろいろなアーティストが「木蘭の涙」をカバーすることに対して僕が違和感を抱いていたのは、そういうことだったのかと、溜飲が下がった。今回のLIVEでオリジナルのバンドバージョンを演奏したことの意味が、わかった気がした。

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渋谷駅の受難

6月8日(水)

今日は、都内某所で写真撮影である。

…と言っても、僕が被写体になるわけではない。うちの職場のカメラマンが、都内某所で写真撮影をするのに立ち会うという仕事である。

僕にはカメラについてまったくの素人なので、アシスタントとしても役に立たない。文字通り、ただ立ち会うというだけである。

「ひとつ、お願いしてもいいですか」

前日に、その若いカメラマンが僕に言った。

「なんでしょう?」

「明日の撮影、カメラの機材が多すぎて、ひとりでは運べないので、機材の一部を運んでいただけないでしょうか」

「わかりました」

僕の仕事といえば、先方に挨拶をして、あとは撮影にボーッと立ち会うというていどだったので、機材の運搬を手伝えば、少しは「仕事をした感」を味わえるというものだ。

「何を運べばいいんでしょう」

「これです。すでに荷物は詰めています」

見ると、ゴルフバッグ状の長いかばんである。持ち上げてみると、けっこう重い。

「明日、現場まで持ってきてください」

撮影現場には駐車場がなく、公共交通機関でたどり着くよりほかに方法がないので、その若いカメラマンも機材を車で運ぶことができず、分担して機材を運ばざるをえないと、こういうわけである。

そして今日。

目的の場所に行くためには、渋谷駅で私鉄に乗り換えなくてはいけない。

僕は、何がイヤだといって、渋谷駅で乗り換えをすることほどイヤなことはない。渋谷駅が複雑すぎて、いつも迷うのである。しかも今回は、重い機材を運びながら乗り換えなければならないときている。

僕は憂鬱な気持ちで自宅を出て、最寄りの駅から電車に乗った。

渋谷駅に到着すると、案の定、乗り換えの駅の場所がわからない。若いときの記憶を頼りに、私鉄の乗り換え口をめざすのだが、ハタと気がついた。

(そうか、いまは乗り換え口が高架ではなく、地下だったんだ…)

階段でえっちらおっちら高架下に降り、いったん駅舎の外に出て、さらに地下の入り口に入る。

下りのエスカレーターなどというものはなく、ひたすら階段を使って地下深くに降りていく。まったく、人間工学を考えていない作りになっている。

渋谷駅が再開発されてきれいになったとはいうけれど、乗り換えがとても不便になったと感じるのは、僕だけだろうか。

ただでさえ体調が悪くてしんどいのに、そのうえリュックを背負い、さらには右肩にゴルフバッグ状の重いかばんをかけている。

歩いているうちに、右肩にかけている長いかばんが、重さでどんどん肩にのめり込んでいく。そのうち肩がとれるんじゃないか、と思ったところで、ようやく私鉄の改札口に着いた。

無事に私鉄に乗ることができたのだが、まだ安心はできない。

撮影現場に行くためには、途中の駅で私鉄の別の路線に乗り換えなければならないのである。

荷物が軽ければ、どうってことはないのだろうが、重い荷物を抱えての乗り換えというのは、地味にきつい。

乗換駅のホームに降りて、愕然とした。

別の路線に乗り換えるためには、いったん階段を降りて、また階段を上らなければならないのである。考えてみればあたりまえなのだが、それにしても、エスカレーターがないというのは、どういうわけだろう?

渋谷駅からその私鉄の乗換駅まで移動していたときからなんとなく気づいていたが、この私鉄は、エスカレーターを作らない方針なのか?というくらいにエスカレーターがない。いや、さがせばあるのかもしれないが、さがして見つかったとしても、そこまで移動するのにまた時間がかかる。

いろいろな事情で階段を使うのが困難な人にとっては、その私鉄を乗りこなすのは、至難の業なのではないだろうか?

渋谷駅も含めて、もともと、そういう人を想定しない設計になっているのかもしれない。

自宅の最寄りの駅から3つの路線を乗り継いで、なんとか目的の場所に着くと、すでにカメラマンは到着していた。見ると、僕よりはるかに重そうなかばんをいくつも抱えていた。彼の大変さは、僕なんかの比ではなかっただろう。

撮影は無事に終わり、また同じかばんを肩にかけて帰途についた。帰り道が行きよりもツラく感じなかったのは、慣れてしまったからだろうか。

雨が降らなくてよかった。

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ひな壇芸人の憂鬱

いつぞや、スジの悪い企画の本への依頼が来て、困ったというを書いた。

スジが悪い企画だ、と思ったのは、内容もさることながら、依頼が直接出版社から来たからである。

そんなの、あたりまえじゃないか、と思われるかもしれないが、本来であれば、その企画を立ち上げた編者という人がいて、ま、通常は「○○○○編」みたいに、本の表紙に名前が出る人のことなのだけれど、その編者が、執筆者一人ひとりに企画の趣旨を説明したうえで執筆の依頼をして、内諾をとったあとに、あらためて出版社から正式な承諾の手続きを行う、という流れなのである。

いま僕は、来年のイベントのために、いろいろなところに直接電話なりメールなりで協力をお願いして、内諾をいただいた上で、担当事務から正式な文書を出す、という段取りを進めている。必要に応じては、直接おうかがいして交渉する場合もある。それがけっこうたいへんなのだが、でもそれが、この業界の常識となっており、僕自身も、それくらいやるのは当然だと思っている。

しかしこの本の企画の場合は、編者から一切の連絡もなく、出版社からいきなり依頼状が来ているのである。これは、編者がまじめに考えていない証拠である。最低限、執筆者には編者から事前に一言入れるべきなのだ。

で、つい最近、出版社から「目次が確定しました」とメールが来たのだが、見てみると、執筆者はざっと30人はいる。いろいろなところに目配りをした結果、執筆陣が30人になりました、という感じの目次である。で、なんとなくのイメージでキャスティングしていることが、僕の目から見ても明らかであった。なにしろ僕自身が、なんとなくのイメージでキャスティングされていることが明らかだからである。各人の執筆テーマも、「置きに行っている」感じのテーマばかりで、まったく魅力的ではない。

この本をぜひ作りたい、という編者の思いがまったく伝わってこない本に、魂が吹き込まれるはずはない、と思う。

…と、我ながらひどい愚痴を言っているが、事実なのだから仕方がない。

ここまで書いてくると、ではおまえはなぜそんなひどい企画に乗ったのか?断ればよかったではないか、と言われるだろう。たしかに断ればよかったと、反省している。

だが最近思うのは、優先順位が高くて、絶対に失敗のできない仕事ばかり抱えてしまうと、逃げ場がなくなる。逃げ場がなくなって精神的に追い詰められたら、優先順位の低い、こういうひどい企画の仕事をすれば、失敗してもいいや、と、息抜きになるのである。

これもまたなんともひどい理屈だ。今回も最悪の愚痴だな。反省。

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往復書簡

6月6日(月)

往復書簡を読むのが好きである。

以前、お笑い芸人のオアシズというコンビの『不細工な友情』という本を読んだ。大久保佳代子と光浦靖子による往復書簡をまとめた本なのだが、これがとてもおもしろかったと記憶している。しかし残念なことに、引っ越しの時にその本をブックオフに売ってしまった。いまになってまた読みたくなったが、惜しいことをした。

しかし、『不細工な友情』は、読まれることを前提にした往復書簡で、巷で出版されている往復書簡集は、たいていは、公開を前提としたものなのだろう。さらにおもしろいのは、公開を前提としない往復書簡なのではないだろうか。

昨日のオンライン会合で、1時間から1時間半ていど、話をしなければならなかった。

話す内容は、以前にもこのブログに書いた、米国在住の日本人ジャーナリストから依頼された、手帳の解読についてである。現在までのところ、結論めいたものは得られていないのだが、昨年の夏、苦労して調べたことが埋もれてしまうのがもったいないと思い、せっかくの機会なので、その調査の顛末をお話しすることにしたのである。

しかし、あの複雑な手帳を、どのように調査をして、どのようなことがわかってきたか、第三者にわかるように説明するのは至難の業である。困ったあげく、その米国在住の日本人ジャーナリストと僕との間で交わされたメールのやりとりを紹介して、その試行錯誤の過程を追体験してもらおうと考えた。この種の会合の発表では、ふつうはやらないような禁じ手である。

それぞれがその手帳について調べ、わかったことがあれば、それをメールでお伝えする、というやりとりを、繰り返してきたのだ。つまりはそのメールのやりとりを公開することを考えたのだが、米国在住のジャーナリストに相談すると、

「ぜひお願いします。これで少しは私たちの苦労も日の目を見るでしょう」

という返信をいただいた。

そこで、昨年の夏から秋にかけて交わされた、メールをまとめる作業をした。時候の挨拶とか、あまりに枝葉の部分などは除き、調査に関係のある文章だけを取り出して、編集作業を行った。

あらためて交わされたメールを時系列的に追っていくと、1日に何往復かしている日もある。短期間に、ものすごい勢いでメールのやりとりを行っていたのだということに、我ながら驚いた。

やりとりしたメールを編集してみると、3万字ほどになった。400字詰め原稿用紙で75枚程度である。時候の挨拶とか、わかりにくくて省略したところも含めたら、原稿用紙100枚は優に越えているかも知れない。

もちろんこれは、公開を前提としていないメールなので、第三者が読んでみてもなかなかわかりにくい。しかしそのわかりにくさも含めて、こういうことは一筋縄ではいかないのだ、ということを知ってもらおうとしたのである。

結果的に、この試みは、なかなかうまくいかなかった。僕の体調がいまいちだったこともあり、説明はボロボロになり、おそらく聞いているほうは、「1時間かけていったい何を聞かされているのだ?」という感想を持った人が多かったのではないかと思う。

「おまえのようなド素人があーでもない、こーでもないと考える前に、なぜ最初にその道の専門家に頼らなかったのか?」という趣旨の意見を、やんわりとおっしゃってくれる人もいた。たしかにその通りである。延々と、あーでもない、こーでもないという結論のないメールのやりとりを聞かされても困るというのが、この業界における最も健全な反応である。だからこの方法は「禁じ手」なのである。

しかし、僕にとっては、そんな業界内の健全な常識など、どうでもよかった。僕にとっては、この手帳の謎を解明するために、往復書簡の如くメールをやりとりした事実こそが、重要なのである。それは、ドキュメンタリーであり、メイキングなのだ。

ちなみに、メールをやりとりした米国在住の日本人ジャーナリストとは、まったく面識がない。コロナ禍の影響もあり、その方は日本に帰国する機会を逸しているという。まったく面識のない人と、往復書簡の如くメールのやりとりをしたというのも、なかなか不思議な体験で、何よりそうした往復書簡を読むことが、僕自身、好きなのである。

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カッパオヤジ

6月3日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

今週もほんと、ツラかったなぁ…。体調がアレなのでなおさらである。

最近、4歳2か月の娘が、やたらと「カッパオヤジ」というのを口にするようになった。

何日か前、朝起きたばかりの娘がいきなり、

「昨日、カッパオヤジから手紙が来たんだよ」

と言う。全然意味がわからない僕は、

「夢でも見たの?」

と聞くと、

「ちが~う。保育園に手紙が来たの」

「カッパオヤジが持ってきたの?」

「ちが~う。先生が持ってきたの」

と、ますますわからないことを言う。

数日後。

保育園から帰ってきた娘は、緑と白の折り紙で作られた腕輪のようなものをみせた。

「これ、カッパオヤジにもらったの」

「カッパオヤジに?」

「うん。ここがみどりいろいでしょ?これがカッパオヤジのうでわなの」

何の変哲もない、折り紙で作った腕輪なのだが、

「これだけは、絶対に触っちゃダメだよ」

という。

こちらがふざけて、その腕輪に触ろうとすると、

「絶対にダメ!」

と触らせない。

それからというもの、娘は、カッパオヤジからもらった腕輪が気になって気になって仕方がない様子である。

ある日、保育園から帰った娘は、カッパオヤジからもらった腕輪が、片付けられていることに気づく。

「あれ?カッパオヤジのうでわ、パパ、触った?」

「触ってないよ」

「触っちゃダメなんだよ」

「わかってるよ」

とにかく、カッパオヤジからもらった折り紙の腕輪だけは、なぜか触らせないのだ。

意味がまったくわからない。そもそもカッパオヤジって誰なんだ?

…と思って、調べてみると、どうやらこれは、保育園ぐるみで仕込んでいる遊びのようだ。

ネット上で公開されている、いろいろな保育園のブログやらおたよりやらを見ると、どうやらこれは一連の冒険ごっこのようなのである。

その段取りをまとめてみると、こんな流れらしい。

ある日、保育園にカッパオヤジから挑戦状がとどいた。

先生が走ってきて、「みんな、こんな挑戦状がとどいたよ!」

「カッパオヤジからのお手紙だ!」「腕輪をとりに来いだって~!」

子どもたちはドキドキしながら、手紙の地図をたよりに冒険に出かけることにする。目的の場所は「ゆうれいづか」というところらしい。

こわいなあ、と思いながら、勇気をふりしぼってゆうれいづかをさがしに行く。

するとついにゆうれいづか発見!!腕輪があった。子どもたちは腕輪を取ったら一目散に逃げた。

「腕輪を取ったぞ!やった~」

…とまあ、こんな感じである。

ある保育園だよりには、4歳児クラスになって初めてカッパオヤジから手紙が届いた、と書いてあったので、全国的に、4歳児クラスで行われている行事なのだろうか。

もともとは『かっぱおやじ』という絵本があり、それがもとになっているようなのだが、恥ずかしながらその絵本の存在も知らなかった。

何も知らない僕は、娘が妄想で「カッパオヤジ」のことを言っているとばかり思っていたのだが、ちゃんと筋が通っていたのだ。

娘が最初にカッパオヤジから手紙が来たといったとき、カッパオヤジ本人ではなく、先生がそれを持ってきたと言っていたが、それはつまりは保育園の先生が仕込んでいた、ということを意味する。

そして、しばらくして、腕輪を持って帰ってきた、ということは、カッパオヤジからの挑戦状を受けて、クラスのみんなが「ゆうれいづか」まで冒険し、そこでみずから腕輪を手に入れ、持って帰ってきた、ということなのだろう。

ネットで公開されている、とある保育園便りには、カッパオヤジからの挑戦状の本文が掲載されていた。

「○○組のみんなへ

○○組になって、いろいろなことにチャレンジして、心が強くたくましくなったみんなに、カッパオヤジからの挑戦状だ!××のところに、カッパの腕輪をおいた。つらいときに力のわいてくるふしぎな腕輪だ。勇気をもって一人ずつ取りに行くんだぞ。カッパオヤジより。」

たぶん、うちの保育園に来た手紙も、同様の文面だったのだろう。

ふつうの腕輪ではない。「つらいときに力のわいてくるふしぎな腕輪」なのだ。

だから、腕輪には触らせようとしなかったんだな。

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貧すれば鈍するということか

6月2日(木)

昨日の日帰り出張は、予定を詰め込みすぎて、さすがに疲れてしまった。翌朝、薬の副作用も相俟ってか、起き上がることができなかった。

それでも、今日は職場で午前に一つ、午後に一つ、打合せがある。

午前の打合せは、「ご相談があります」とメールにあっただけで、どんなことなのかわからなかった。ま、「ご相談がある」といった場合は、悪い予感しかしないものである。思った通り、些細なトラブルに関するもので、それを僕のほうでやんわりと解決してほしい、ということだった。良くも悪くも、僕はトラブルをやんわりと解決することに長けている、と思われているようで、まあいつものことだと思いつつ、なんとか一件落着したのだった。

午後の打合せは、来年のイベントに関するもので、こちらも2時間以上かかった。やるべきことが多すぎて、頭を抱えたくなる。

昨日の疲労の上にさらに今日、打合せが続くと、さすがに何も考えられなくなる、というか、気持ちがカリカリしてくる。

こういうときは、愚痴しか出てこないね。

この仕事をやっていてよかったと思うことの一つは、あまり他人が経験しないことを経験できる、ということである。ま、どの仕事も、そういう側面はあるのだとは思うが。

具体例をあげると、いま僕は、図鑑の監修、という仕事をしている。子どもの頃に心をときめかせながら読んだ、「図鑑」である。

昨年の夏ごろだったか、断れないルートからこの仕事が振ってきて、引き受けるよりほかに選択肢がなかったのだが、子どもの頃に好きだった図鑑というジャンルの仕事にかかわれるというのは、悪い気はしない。しかもその図鑑が完成する頃には、娘がその図鑑を手にするかもしれないと思うと、少しは力が入るというものである。

最初は、「図鑑に描くイラストの監修をお願いします」といわれ、イラストの原案がどんどん送られてきた。自分の判断でイラストのタッチが決定されてしまうのかと思うと、責任は重大である。かといって時間をかけて検討することもできないし、ある程度のところで妥協しながら、OKを出していくほかない。

そのうち、そのイラストをはめ込んだページのレイアウトが出てきた。そこには当然、ライターが書いたと思われる解説文が書かれているのだが、その解説文の内容が、ちょっとおかしい。イラストよりも、むしろ解説文のほうが気になるのである。「仮の原稿ですから」と言われてはいたが、明らかにおかしい表現については修正を提案することにした。

昨年の夏から秋にかけては、そんなやりとりを頻繁にしていたのだが、冬になり、年を越し、春がすぎても、何の音沙汰もなかった。図鑑のことなどほとんど忘れかけていたが、そういえば、あの図鑑はその後どうなったのだろう?と気にしていたところ、先日、その出版社から封書が送られてきた。再校ができましたので、確認をお願いしますとあり、その修正期限はかなり切羽詰まった日程だった。

僕はここ数日忙しくて、なかなか中身を見る時間がなかったのだけれど、今日、諸々の打合せが終わったあとに中身を読み始めて、ちょっと驚いた。

解説文が、ひっどい悪文なのである。

以前に読んだときにはそこまでひどいとは感じなかったのだが、最初の段階もこんな悪文だったっけ?

疲労しているときに悪文を読むことほどツラいことはないのだが、しかし修正の締め切りが迫っているので、少しでも作業を進めなくてはならない。ときには手の施しようのない悪文もあり、これをどうやったら最小限の修正で済ませることができるかに、頭を悩ませた。

たとえば、問いかけがあり、それに対する答えの文章というのがあるのだが、それが、問いに対する答えになっていなかったりするのである。

それにしても、これを書いたのはだれだろう?プロのライターなのだろうか?いや、もしそうだとしたら、その人はプロと名乗る資格はない!と思うほどの、ひっどい、ひっどい悪文なのだ。

子ども向けの図鑑だと思ってバカにして書いているのではないか、と疑いたくなるほどである。もし真剣に子ども向けに書いているというつもりなのなら、才能がないと断ぜざるをえない。

コンプライアンスの時代なんだぞ。もう少し表現に注意しろよ、と言いたくなる箇所もある。

いや、ライターの責任に帰してよいのだろうか?「貧すれば鈍する」「安かろう悪かろう」で、思うとおりの予算が投入できないという構造的な問題が関わっているのだろうか?

そんな考察はともかく、全面的に書き直したい心境なのだが、そんな時間も体力もない。だいいちギャラがもらえるのかどうかもわからない。仕方がないので、これだけは絶対にダメだ、というところだけを修正することにした。それでも、残された多くの「不本意な箇所」には、目をつぶるしかなかった。

これが世に出たときのことを考えて、「これでもがんばって直したんですよ」と、いまから予防線を張っておく。

…ひっどい愚痴だったと、反省。

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名刺交換

6月1日(水)

新幹線で北に向かう。

メインの用務は午後の会議だが、生来の貧乏性ゆえか、前後にそれぞれ別件の用事を入れて、日帰り出張をめいっぱい使った。案の定、極度に疲労困憊となった。

午後の会議では、初めて会う人が多く、会議の前には名刺交換の嵐である。

考えてみれば、コロナ禍で出張がなかったときは、名刺交換を行うこともなかったのだが、4月以降、出張が続くようになると、とたんに名刺を配りまくることになり、もはや名刺の在庫がなくなりつつある。

今回は、部長、課長、オブザーバー、新規委員の方々と名刺交換したが、途中から、手持ちの名刺が切れてしまったらどうしようとヒヤヒヤした。何とか5枚にとどまったので、手持ちの名刺が切れなくて済んだ。

会議が終わり、最寄りの駅に移動し、休む間もなく、別件の打合せを行い、長い一日が終わった。

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