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小田嶋さんのいないたまむすび

6月27日(月)

この土日は、妻が出張に出ていることもあり、けっこう大変だった。

土曜日の午前中、4歳3か月になる娘が高熱を出した。しかしほかの症状も亡く、元気に動き回っているので、最初は全然気づかなかった。

どうも身体が熱いと思い、体温を測ってこれはまずい、ということになり、慌てて近くのかかりつけの小児科にかけこんだ。

熱が出ている以外、なんの症状もない。解熱剤を処方してもらって、あとはひたすら娘を寝かせることにした。

翌日曜日にはやや熱が落ち着き、月曜日の朝には、なんとか保育園に登園できるかな、というくらいまで熱が下がった。

それでも念のため、小児科の先生に見てもらおうと、朝イチで小児科に行ったところ、

「もう大丈夫でしょう。登園しても問題ありません」

と言われ、なんとか無事に登園ができたのであった。

あ、そうそう、自分の薬も処方してもらう必要があったということを思い出し、こんどは自分のかかりつけの病院に行って、薬を処方してもらう。

そんなこんなで、今日の午前中は潰れてしまった。ま、もともと今日は、リモートワークをすることになっていたのだけどね。

今日は月曜日。TBSラジオ「赤江珠緒 たまむすび」の3時台は、小田嶋隆さんの「週間ニッポンの空気」のコーナーである。

今日は謹んで、リアタイすることにした。

ゲストはライターの武田砂鉄さんである。メインパーソナリティーの赤江珠緒さん、月曜パートナーのカンニング竹山さんと3人で、小田嶋さんの思い出話を語っていた。

「すごい文章を書く人なんだけど、締め切りを守らない人なんですよ」

「おちゃめなところがありましたね」

「群れることを嫌う人だったのに、なぜか『たまむすび』の打ち上げには、必ず参加していた」

「小田嶋さんが大好きなサッカー観戦に一緒に行ったとき、点が入るという一番大事な場面で小田嶋さんはメガネを拭いていて、その瞬間を見ていなかった」

など、すごい人だったけど、しょーもないところもある人だったよね、的な故人の偲び方が、ほんとうに慕っている人たちだけで偲んでいる感じがした。

なんか覚えがあるなあと思ったら、僕自身も、似たような体験をしていた。

「前の前の職場」で同僚だったOさんが亡くなったときの告別式のあとで、Oさんがよく通っていた喫茶店に何人かで集まって、Oさんの思い出話をした。

Oさんは、僕の恩人のような人で、僕はOさんの考え方に影響されて、のちに韓国留学を体験することになる。その意味で尊敬すべき同僚だったのだが、一方で、おちゃめでいいかげんなところもあり、愛すべき存在だった。告別式で散々泣いたあと、そのあとの喫茶店では、気の合う数人が集まり、Oさんの間抜けな話に大笑いした。

「よく道に迷ってましたよね」

「旅先で選んだ食堂は、たいていハズレだった」

「車に関する間抜けな思い出は尽きませんね」

など。

小田嶋さんについてのラジオでの3人の会話を聴いていて、そのことを思い出したのである。

小田嶋さんは、「たまむすび」のリスナーに、「最後の手紙」を遺していた。亡くなる10日ほど前の、6月13日に書かれた手紙である。おそらく、ご自身にまもなく最後の瞬間が訪れることを意識して書かれた文章であろう。

その手紙の全文は、「たまむすび」の公式Twitterにアップされているので、ここでは引用しない。最後まで、小田嶋さんらしい、諧謔に満ちた愉快で暖かい文章だった。

番組では、赤江珠緒さんがその手紙を読み上げたが、当然ながら、読もうとすると嗚咽が止まらなくなる。誰だって、あんな手紙を読まされたら嗚咽で読めなくなるだろう。しかし赤江珠緒さんは最後までしっかりとその手紙の内容をリスナーに伝えた。

この感じ、覚えがあるなあと思ったら、小田嶋さんの親友の岡康道さんが、亡くなって5か月後になって、小田嶋さんへメッセージを寄せていたことと、よく似ている。

亡くなったあとに、生きている人に向けてメッセージを届ける、ということを、小田嶋さんは最後の最後にしたかったのだろう。親友の岡康道さんが、そうやって小田嶋さんを驚かせたように。小田嶋さんはそのとき岡さんのことを「最後まで楽しい男だった」とツイートした。

そしていま、僕たちは思うのである。小田嶋おじさんは、最後まで愉快なおじさんだった、と。

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