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20世紀劇としての「耳をすませば」

10月2日(日)

いま公開中の映画、『耳をすませば』(実写版)を、4歳7か月の娘と二人で観てきた。

4歳の娘には難しい内容かな、と思ったのだが、つい最近、ジブリアニメ版の『耳をすませば』が放送され、その録画を娘が何度かくり返し観ていたので、娘も抵抗なく観てくれるだろうと思ったのである。僕はジブリ映画全般にそれほどの思い入れがないから、一人だったらまず観に行かなかっただろうと思う。

同名の原作漫画が発表されたのが1989年で(ちなみに僕は原作漫画は未読である)、ジブリアニメ版は1995年に公開されている。今回の実写版は、その10年後の物語ということで1998年という時代設定なので、ジブリアニメ版は、原作が書かれた1989年頃の時代設定だったということか。

今回の実写版では、10年前の回想シーンが幾度となくあらわれ、ジブリアニメ版を観ていると、それがどういう場面だったかを思い出すことができる。つまり、ジブリアニメ版を観てから実写版を観た方が、より楽しめるということである。

驚いたのは、隣で観ていた4歳の娘である。ある回想場面で、娘は僕に耳打ちした。

「このあと、指切りげんまんをやるよね」

僕はジブリアニメ版の細かい場面描写をあまり覚えていなかったので、本当にそうかなあと思って観ていると、その言葉通りほんとうにその回想場面の最後で指切りげんまんをしていた。ジブリアニメ版を何度かくり返し観ていた娘は、実写版の回想場面がアニメ版のどの場面にあたるかを、しっかりと覚えていたらしい。まったく、娘の記憶力のよさにはいつも驚かされる。

僕は、この原作やアニメ版の熱烈なファンというわけではないので、今回の実写版と、原作やアニメ版との細部の違いにひとつひとついきり立つようなこともなく観ることができた。印象としては、キャスティングがどれも見事にハマっていて、脇を固める人に至るまで行き届いているキャスティングだと感じた。

ただ、この映画を観る上で、注意が必要だと思う点が一つあった。それは、時代設定が1998年ということである。「10年後の物語」とはいっても、設定は決して現在ではなく、四半世紀近く前なのである。当然、映画の観客はそれを前提として観ていると思われるので、いまさら指摘するまでもない。

映画の中では、携帯電話もパソコンも出てこない。実際、1998年は携帯電話やパソコンがそれほど普及していなかったことは事実である。そればかりではなく、たとえば会社の事務室でたばこは吸い放題だし、「パワハラ」という言葉もなかった。

いまだったら、そういったことの一つ一つに強烈な違和感を抱くだろう。本来ならば、

「編集長、いまのその言葉、パワハラですよ」

という台詞が出てきてもおかしくない場面で、部下は上司に罵倒されっぱなしである。鍋料理を囲んでいるとき、女性が男性に対してあたりまえのように小鉢に取り分ける場面も、いまならば違和感を抱くしぐさである。しかし映画では、女性がそれをあたりまえのようにして、男性がそれをあたりまえのように受け入れている。

実際のところ、1990年代頃はそんな時代だったのだ。その頃を知らない人が見たら、演出に違和感を抱くかもしれないが、時代のリアリティーを重視するならば、その演出は正解なのである。

僕がいちばん違和感を抱いたのは、いちばん最後、つまりラストシーンである。感動的なハッピーエンドでこの映画が終わるのだが、いま、この「アップデートされた時代」にどうにかついて行っている僕からすると、

「そんな終わらせ方でいいの?」

という疑問がどうしても残ってしまった。しかしそれも冷静に考えれば、1998年だったらこの結末が最高のハッピーエンドとして受け入れられたのだろう、ということはよくわかる。演出側はあえてその当時の価値観をリアリティーをもって示したかったのだろう。

つまり何が言いたいかというと、この映画は「20世紀劇」として観る映画であり、演出側の意図も徹頭徹尾その点にあったのではないか、ということなのである。

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