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2023年1月

この世の見え方

すこぶる体調が悪い。

武田砂鉄氏の新刊『父ではありませんが 第三者として考える』(集英社)は、武田砂鉄氏のあれこれと逡巡する思考をたどった本である。

僕自身、数年前に大病を患ったり(いまも治療中だが)、子どもを授かったりしてから、社会の見え方が変わったことは紛れもない事実であるが、この本を読むと、それよりも前の自分の感覚を思い出させてくれる。

以前ならば、フットワーク軽く、週末も厭わずいろいろなところに出かけていったりしたのだが、いまはそんなエネルギーはないし、現在の自分の環境からも難しい。平日に、自分のするべき仕事を、しかもわりと過重気味に行っていると、週末はできるだけ休みたくなる。

しかしこの業界では、週末だろうとなんだろうと、がんばって現地参加しないと不真面目と思われるのではないか、そんな風な旧態依然とした考え方が、僕のなかにもまだ残っている。

「コロナが明けたらぜひ対面で」が合い言葉になるのはどこの世界でも同じだが、僕にとってはオンライン参加が何よりもありがたい。いまや対面参加は、僕にとって莫大なエネルギーを必要とするようになってしまったのだ。だから必要最小限にしたいといつも思っている。

せっかくの週末に、どんなに遠い場所でも厭わず、会合に対面参加をできる人が、うらやましく思うこともなくはない。それは、僕自身がそれを望んでいるからではなく、それができる体力があり、それをしても不都合が生じない環境にある点において、である。

画面の向こうでは、「久しぶりに対面参加の会合ができて…」「懇親会で○○さんとお話しをして…」「やっぱり実際にお会いすることは大切ですね…」という言葉が飛び交うのだが、最近の僕は、そうしたくてもできないし、そうしなくてもよいような人間関係の築き方ができないものか、そしてそれをしても悪くない世の中にならないものか、という思いが強くなってきている。

プロインタビューアーの吉田豪さんは、たぶん僕と同じような世代だと思うのだが、20代の頃から「死ぬまで現状維持」を目標にして、いまのところその通りになっている、と言っていたが、それを貫くのはなかなか難しい。

…そうはいいながら、次の週末は泊まりがけで、会合に対面参加しなければならない。聞くところによると、緊張する方々と夕食会なるものも予定されているという。終始気を抜くことができないとすると、体調が不安である。

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「四月の魚」再考

1月27日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

最近は、ほんとうに1週間単位で、生きていることへの安堵を感じる。

高橋幸宏『LOVE TOGETHER YUkIHIRO TAKAHASHI 50th ANNIVERSARY』(KADOKAWA、2022年9月)という本が出ていることを、つい最近知った。ユキヒロさんが亡くなる前に刊行されたものである。

実に多くの人たちがユキヒロさんの思い出話を語ったり、あるいは過去にユキヒロさんがいろいろな人と対談した記録がまとめられている。とにかくユキヒロさんと関わりの深い人たちが、この本の中で一堂に会しているのである。

この中で僕が読み耽ってしまったのが、三宅裕司さんへのインタビューと、2015年4月6日に行われた大林宣彦監督とユキヒロさんとの対談である。

三宅裕司さんがまだぜんぜん売れていない頃、ユキヒロさんが劇団「スーパー・エキセントリック・シアター」に注目し、「高橋幸宏のオールナイトニッポン」で三宅さんを抜擢し、「SET劇場」というコーナーを作った。それが三宅さんが頭角を現すきっかけになったのである。その後、YMOの最後のアルバム「SERVICE」に、曲間にSETのコントが入っていることはよく知られている。

そのインタビューによれば、三宅さんが所属するアミューズの副社長・出口孝臣さんが、ユキヒロさんにお世話になったお礼に何かしなきゃというので、映画を1本作ろうということになった。それが『四月の魚』だというのである。『四月の魚』の企画は、アミューズの出口さんと大林監督によって立ち上げられたのだ。なるほど、そういうことだったのか。

三宅さんのインタビューに続いて、大林監督とユキヒロさんの対談が収録されている。2015年の対談なので、まだ『海辺の映画館 キネマの玉手箱』の企画が立ち上がる前である。

この対談も、僕にとっては興味深い。ユキヒロさんが「この映画(『四月の魚』)、ちょっと早すぎたかも知れないねと、監督がおっしゃってましたね」というと、大林監督が答える。

大林「そう。こういうおしゃれなラブコメディは、当時、まだ日本になかったから。まだまだシリアスなものがほとんどで」

司会「監督のフィルモグラフィの中でも珍しいタイプの作品ですか?」

大林「珍しいですよね、これは。たまたまジェームス三木が書いた原作が面白かったから、『よし、これでビリー・ワイルダーやジャック・レモンのような、おしゃれな映画を作ってやろう』と。でも、いい役者がいませんよ。いや待て、高橋幸宏という人がいるじゃないか、と」

たしかに。大林宣彦監督には珍しいウェルメードなおしゃれなラブコメディ。僕の見立ては間違っていない。

『四月の魚』の撮影のあとは、原田知世主演の『天国にいちばん近い島』に、原田知世の父親役でゲスト出演する。もっとも、映画の中で二人が絡む場面はなく、原田知世がユキヒロさんの遺影を持っているという場面のみである。このことについて、大林監督は次のように語っている。

大林「しかも今、実際に知世ちゃんと一緒に(pupaを)やっているんでしょ?僕はね、『辻褄が合う夢』って言っているんだけど、そのときは勝手な夢を見てやっているだけのつもりが、時間が過ぎて後から振り返ると、すべて物事の辻褄が合っているんです。今、幸宏ちゃんが知世ちゃんと一緒にやっているということは、もうここで既に決まっていたという」

高橋「僕も運命論者なので、それは何となくわかる気がしますね。偶然は必然だっていう」

大林「人間の偶然は神様の必然でね。僕たちは、上の人(神様)の必然に従って生きているだけでね。ただ、それがわかる能力がないから「偶然だ、偶然だ」と思っているだけで、ちゃんと繋がっているんですよ」

このあたりの大林監督の言葉は、監督の哲学がよくあらわれているところである。とくに「辻褄が合う夢」は、僕自身がこれまで生きてきて実感していることでもある。

そして対談の最後。

大林「必然的に出会ってから随分と親しく、こうやっていろんな映画に出てもらって、僕にとって、友達です」

高橋「監督に、そう言ってもらえるのが一番嬉しくて。あるとき監督が、『僕は友達が多そうにみえるかも知れないけれど、友達ってそんなにいないんだよね』とおっしゃっていて。そんな中の大切な一人だからと言ってもらえて、ものすごく嬉しかった」

大林「皆さんはどうかな?『友達』っていうと、年中会ってね、無駄話をしたり、お酒を飲んだりしてると思うでしょうが、幸宏ちゃんと会うのは久しぶりだよね?ほんとうに大切な友達っていうのはね、みだりに会っちゃいけないんです。どうかしたら一生会っちゃいけないかもしれない。人は会うと下品になるから、会わないでいるほうが上品になれる。今日はこういう形で、仕事として会いながら、とても大切な友情の場になっているんだけど、『幸宏ちゃん、ちょっとお酒飲まない?』といういう風にはいかない。離れていると、お互いに詩的な素晴らしい関係でいられるけど、会うとすぐに駄洒落が出たりするしね(笑)」

高橋「確かに(笑)」

大林「そんなわけで、幸宏ちゃんは、みだりに会っちゃいけない大切な人。その代わり、いつも心の中にいます」

この「友達論」も、大林監督がよく語る哲学で、僕もこの生き方を真似している(つもりである)。「またこんど、飲みに行きましょう」ではなく、「またこんど、一緒に仕事しましょう」というのが、再会を約束する言葉である。

この対談の3年後の2018年、大林監督は『海辺の映画館 キネマの玉手箱』の撮影を開始し、ユキヒロさんはとても重要な役にキャスティングされる。大林監督は、ユキヒロさんとの大切な友情の証として、人生の最後に、一緒に仕事をするという約束を果たしたのである。

なんという「辻褄の合う夢」だろうか。

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墓参

1月24日(火)

今日から3日間、別の用務があり、出勤できず。それでも、ひっきりなしにメールが来て、移動の合間に対応に追われる。

本日は、お世話になった方のお墓参り。

仲間と遺稿集を編んだ。というより、結果的に遺稿集になってしまった。その仲間と一緒に、その方の奥様と待ち合わせて、お墓に向かう。

奥様のお話では、墓じまいをされ、郊外の墓地から都内の共同墓地のようなところに移したという。実際、都会のど真ん中といっていい場所に、そのお寺とお墓はあった。

「まさかこんなところにあるとは、びっくりしたでしょう」と奥様。

墓碑には数十人の名前が小さく彫られていて、その方のお名前を探すのに、少し時間がかかった。

お線香とお花をあげ、「少し休みましょう」と、お寺の建物の中にある休憩室のようなところに入る。

その部屋の中には、受付の女性がひとりいるだけで、他にはだれもいない。

「どうぞ自由にお使いください」

墓参が終わった我々の突然の訪問を嫌がる様子もなく、広めのテーブルに案内される。ちょっとしたお菓子が出ていた。お寺の名前が入った瓦煎餅みたいなものもあったので、お寺のご厚意によるもののようだ。お茶も飲み放題である。

小一時間ほど、奥様と思い出話をする。

何ということのないふつうの椅子やテーブルが置いてあるだけの空間だったが、なぜか居心地がよかった。

「お忙しいのに今日はどうもありがとうございました」

「いえ、場所を覚えたので、またふらっとお墓参りに立ち寄ります」

「そうしていただけると、喜ぶと思います」

もう少し思い出話をしたいと思ったが、またそんな機会もあるだろう。

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まだ月曜日かよ!

1月23日(月)

職場の仕事部屋に12時間、籠もりきりでも、全然仕事が追いつかない。

とくにたいへんなのは、イベント関連本だ。本作りがこんなにたいへんだとは思わなかった。とくにイベントのメンバーは、細かいことにこだわる人間を集めたので、ここを直せあそこを直せだの、たいへんである。三谷幸喜の傑作芝居『笑の大学』の脚本家みたいな心境である。

それと並行して、イベントの台本作りである。よく気が狂わないものだと、自分でも感心する。

そうしている間にも、メールがひっきりなしにやってくる。イベントの関連グッズを作ったので、見てください、お忙しいのはわかっているのです、10分でいいので時間を下さい、とか、イベント紹介の英語版、確認されました?早く確認してください、とか、しらねーよ!そんなもん!

どこどこの会報にイベントについての原稿を書いてください、タダで配るリーフレットに原稿を書いてください、関連イベントの小冊子に原稿を書いてください、などなど、原稿依頼も矢のようにやって来る。

○○の会でイベントについてのお話しをしてください、ついては日程調整を、という話も、山のようにやって来る。

取材の申込が来ましたので日程調整を、とか、超ローカルなケーブルテレビ局で番組収録するので日程調整を、とか。

俺を殺す気か!というか、その時まで俺が生きている保証はないんだぞ!

売れっ子だ、と思うでしょう?さにあらず、こっちに頼んでくる人たちは、その人の仕事として依頼してくるだけで、こっちが依頼を断ったら、その人の仕事が立ちゆかなくなるので、なんとしてでも依頼を承諾してもらおうとするだけなのだ。別に俺が売れっ子ということでは決してない。

イベントが終われば、潮を引くように人が離れていくだけなのだ。

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大阪のバーの夜

こんにちは。コバヤシです。

少しご無沙汰してしまいましたが、元気ですか?

本日、訪ねたバーでなかなか面白い体験をしたので、メールさせて頂きます。

昨日、業界団体の会合が有り、大阪の商業の中心地、船場に行ったのですが、会合とその後の懇親会が早く終わったので、大阪に来てからたまに行く、北新地に近いバーに行くことにしました。

お店に入ると、右端に2人連れの少し歳のいった男性客、左端の方に若い方が1人で飲んでいます。
その間に私は座ったのですが、右横の2人連れは結構呑んでいる感じで、楽しそうに盛り上がっています。どうやら2人は会社経営者とそのお客さんの社長のようです。

私も飲み始めて少しすると、2人のうち年輩らしい方のノヅさんという方(御年は確か65歳と言っていました)が、「ハマちゃん(経営者の方で多分50代)な、折角、久し振りにこの店に来たんやからタッちゃん(バーのマスター)にも1杯奢ってやらんと。」、と言い出しました。更に、「ハマちゃんな、他にお客さんも2人おるし、折角だからシャンパンの1本でも開けて一緒に呑んでもらったらええやん、これも何かの縁(えにし)やし。」、と言い出します。ハマちゃんはすかさず、「ちょっと待ってアンタ、アンタお金出してくれんの?というか俺が出すんやろ、いい加減にしてくれや!」、と返します。ノヅさんは、悪びれた様子も無く、「俺は一銭も出さんで、アンタガ金出すんやろ。ここでご馳走しといたら、アンタかっけえ~で。しかも、今だったら店には5人しかおらんし。この後、他のお客さん来たら、もっと高くつくで。」、と返します。ハマちゃんは、「オッサンん死ねや、いい加減にしてくれや、さっきの店でもアンタ、1杯しか飲めんと言っとたのに5杯も飲んだやんけ。しかも、ここのお客さんとは多分もう二度と会わへんで!」と少し怒り気味に答えます。その後、ハマちゃんが私の方を向いて、「このオッサンと昼の11時過ぎから飲んでて、もう6件目ですわ。どう思います?」と言ってくるので、「そんな時間から今まで飲んでるとはお二人ともお元気ですね。」とお茶を濁すと、ノヅさんは全く意に介さず「ハマちゃん、いいからシャンパン1本奢ったれ。」と言い、押し切られたハマチャンは「分かったは、じゃあ1本シャンパン奢るわ。他のお客さんにもお騒がせして迷惑かけたし。」と豪勢にも、たまたまいた我々にもシャンパンをご馳走してくれました。

ノヅさんは「この酒、ホント旨いな。やっぱりシャンパンは良いわ。」と飄々と語ります。ハマちゃんは「オッサン死ねや。高い酒なんだから旨いのは当たり前や!」と突っ込みます。ついには、ノヅさんは、歌でも歌うかと何故か博多祝い唄を歌い出す始末。ハマちゃんは「いい加減にしろや。この店は歌を歌うような店やないやろ。他のお客さんに迷惑やろ!しかも、なんで大阪の人間なのに博多なんやねん。」とすかさず突っ込みを入れますが、ノヅさんは全く意に介せず、「そやなあ。タッちゃんが修行してたXXXXXでは、ワシも流石に歌う勇気なかったわ。あの店は何というか圧が強くて、ワシも静かに飲んどったわ。」ハマちゃんも「XXXXXは大阪1の高級バーやから当たり前やろ!でも、確かにあの店は本当に凄かったなあ。」と、どうやら今は閉店したらしい北新地のバーの思い出話にマスターも入って花が咲きますが、暫くすると、またノヅさんが「じゃあ折角美味しいシャンパンを飲めたから、博多一本締めでもするか。お客さんも一緒に御願いします。ほな行きますか。よ~、(パン、パン)、もひとつ(パン、パン)、(パパンガパン)。ありがとうございました!」と自由奔放に振る舞います。ハマちゃんも思わず一緒に一本締めをした後、「オッサン、何しとるねん。迷惑やろ。しかも何で、また博多一本締めなんやねん。」と突っ込みを入れ、私ともう1人のお客さん、そしてマスターの3人は笑いこけるばかり。

暫くしてグラスのお酒が減ってくると、またノヅさんが「ハマちゃんな、折角だからシャンパンもう1本開けてみんなで飲もうや。」と言い出します。すかさずハマちゃんが「アンタもう帰れや!誰が勘定払うと思ってるんや。あんた払わんか!ここにカード置いてけや!」とたたみかけます。ノヅさんは、全く動じることも無く「俺は1銭も出さんで。ええやん、アンタが出しとけば。」と淡々と返します。するとハマチャンは再び私の方を向いて「このオッサン、資産12億円はもっとるんですわ。それなのに、俺に奢れなんて、どう思います?」と訴えてきます。流石に私も「もう1本奢って貰うのは申し訳ないので。。。」と、ノヅさんの方を見て言うと、ノヅさんは「俺が金出すわけやないんで構いませんわ。シャンパン旨いですやろ。」としゃあしゃあと答えます。ハマちゃんは、ノヅさんの方を見て「オッサン死ねや。アンタ、金出さんくせに何言うとんねん。ええい、分かったわ、もう1本シャンパン開けるわ!」と半ばやけになって言います。マスターは「ありがとうございます。高いシャンパンを2本も開けてくれて助かります。ご馳走になります!」と言うと、ノヅさんは「そうやろ。新地の酒の味も判らん姉ちゃんに高い酒飲ますぐらいなら、ここの酒の味判る人達と飲んだ方がよっぽどマシやわ。」と答え、ハマちゃんはまた「オッサン死ねや!カネ出しとんのはワシやで!」と返します。その後、暫く横の2人はボケと突っ込みを繰り返し、最後にハマちゃんが「お騒がせしてすいませんでしたね。」と我々に話しかけて、2人はお店を出ていきました。

2人が店を出て暫くしてから、バーのマスターが「あの2人は、この店にもう20年以上も通ってくれているんですよ。実はノヅさんは建築関係の会社を経営しているんですが、数年前に仕事に行き詰って鬱になってしまってお酒を辞めていたんです。今日は久しぶりに2人でお店に来てくれたんです。ハマちゃんは、あんなこと言ってましたが、ノヅさんが楽しそうにしてくれていたんで、本当に嬉しかった筈です。」としみじみと語ってくれました。

2人の会話を聞いているだけで漫才を聞いているようで面白かったのですが、そんなことがあって今日2人がここで飲んでいたのだと思うと、表面では判らない大阪人の人情の深さに少しジ~ンときてしまいました。
という訳で、何だかよくわからないまま、美味しいお酒を飲みながら、漫才を楽しみ、更には人情話まで聞くという、大阪のバーの懐の深さを実感した次第です。

それでは、またそのうち。

…とここまでが、高校時代の親友・コバヤシからのメール。

8年ほど前の、ある地方都市でのやきとり屋での出来事を思い出した。

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はらかなこさん!

1月20日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

なかなかに気分が落ち込んだ週の後半だったが、それでも仕事は変わらずに降ってくる。

ユキヒロさんがいなくなって以来、ユキヒロさんの曲やYMOの曲ばかりを聴いている。それがいまの、僕の唯一の癒やしである。

そうしているうちに、あるYouTubeのチャンネルに行き着いた。

ピアニスト・はらかなこさんのチャンネルである!

もう、この映像に釘付けになった!

僕の大好きなYMOの曲を次々とピアノアレンジで披露している。

そればかりではない、THE SQUARE(T-SQUAREではない)の「宝島」だとか「OMENS・OF・LOVE」など、和泉宏隆さんの懐かしい名曲まで弾いているではないか!(そういえば、和泉宏隆さんも最近お亡くなりなってしまった…)。

とにかく、曲のチョイスが、アラフィフやアラカンのオジサンの心を鷲掴みにして放さないのだ。これで沼に落ちるなと言う方がオカシイ。

ピアノの技術をさることながら、ピアノを弾いているときの楽しそうな表情がとてもよい。とくに「OMENS・OF・LOVE」を弾いているときの表情がそうだ。ピアノを前にして、自己が解放され、鍵盤の上を自在に駆け回っている、そんな印象を受けるのである。あんなふうに軽やかに生きられたら、どんなにすばらしいだろう。

YMOの曲をピアノアレンジでカバーする動画は数あれど、いまのところはらかなこさんがベストワンである!

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取材を受ける

1月18日(水)

都内の大手新聞社の文化部の記者から、こんどのイベントに関する取材の申込みがあり、新聞社の本社まで足を運んだ。

「地下鉄の○○番出口をのぼられたら、弊社につながっていますよ」と言われたのだが、その○○番出口というのが、地下鉄の改札口からえらく遠い。

こちとら、両足を痛めて整骨院に通っている身である。整骨院に通い出したら、なぜかよけいに両足がさらに痛くなり出し、階段を上り下りするのが苦痛極まりないのだが、やっとの思いで、新聞社に到着した。

新聞記者ってのは、生き馬の目を抜く世界で生きているから、荒くれ者が多いんじゃねえか?というひどい偏見を持っていたが、その文化部の記者は、実に折り目正しい人で、穏やかにお話になる人だった。

小さな会議室で、2時間ばかりお話をする。

ああいうときって、録音とかしないのかなあ?前回も書いたが、僕のこんどのイベントは、異常に情報量が多くて、その一端を説明するだけでもゆうに2時間はかかるのである。そして話がめまぐるしく展開するので、聴いているほうは、おそらくその情報を受け止めきれないのではないだろうか。

時折、殴り書きのメモを書かれるのだが、書いているうちに次のトピックに移るので、書いている暇がないようである。ちらっとノートを覗くと、オイオイあとで読み返せるのか?というくらいの暗号めいた文字である。

こっちのお話を遮ることなく熱心に聞いてくれたし、穏やかな話し方で質問をいただいたのはとてもありがたかったのだが、僕は途中からなぜか、ひどく憂鬱な気持ちになった。

何だろう?この気持ちは?と考えてみて、あることに気づいた。

その人は、僕の主治医に、顔も喋り方も、声の感じも、そっくりなのである。

僕はその主治医に診察してもらうたびに、穏やかな口調で微笑みながらいつも悲観的なことばかり言われるので、できれば、その主治医の先生とはお話ししたくない、話をすると、自分の命に対してまた悲観的な話をされてしまう。そういう感覚が、すっかり植え付けられてしまったのだ。

なので、熱心に聞いていただく表情や、こちらへ問いかける声や喋り方を前にして、僕は「パブロフの犬」のごとく、ひどく憂鬱な気持ちになってしまうのだ。

2時間の取材が終わり、「いったん頭を整理してから、またおうかがいすることもあると思います」と言われた。やはり情報量の多さに面食らったのだろう。

新聞社を出るとドッと疲れが出て、ぐったりした僕は帰宅してすぐに横になったのであった。

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○○の玉手箱

1月17日(火)

3月開始のイベントの準備がいよいよシャレにならなくなってきた。病み上がりの人間が、こんなに働いてよいのだろうかというくらい、遅くまで作業をしているのだが、終わる気がしない。

このイベントは、はっきり言って、情報量が異常に多い。準備している本人が、あまりの情報量の多さについていけてないのだから、そうとうなものである。イベントのやり方にはいろいろあって、楽をしようと思えばいくらでも方法があるのだが、このイベントは、結果的にはそうなっていない。

ふつうこの種のイベントは、企画の最初に「ドリームプラン」があって、それが準備を進めていくに連れて、どんどん縮小していくものなのだが、このイベントは逆で、準備を進めていくうちに、どんどんドリームプランに近づいていき、収拾がつかなくなってしまうのである。

そこで思い出すのが、前回も取り上げた、大林宣彦監督の遺作映画『海辺の映画館 キネマの玉手箱』(2020年)である。この映画こそ、溢れんばかりの情報のオンパレードなのである。

大林宣彦監督の映画は、『青春デンデケデケデケ』の頃から、情報を溢れさせる映画を作ることにめざめたようで、とくに晩年の『この空の花 長岡花火物語』『野のなななのか』あたりは、ほんとうに情報量の多い映画となった。そしてその究極が、『海辺の映画館 キネマの玉手箱』なのである。おそらく『海辺の映画館 キネマの玉手箱』を見た人は、あまりの情報量の多さに受け止めきれないのではないだろうか。

大林監督は、脚本に忠実に撮る、というよりも、現場でどんどん台本を足していくタイプの監督だと聞いたことがあるが、僕がいまやっていることも同じである。いま、イベントの関連本を同時に作っているのだが、当初に想定したものからやっていくうちにどんどんといろいろなものが足されていくのだ。この種のイベントとしては、おそらく禁じ手のやり方である。だいたいこのイベントのメンバーがそういう癖(へき)の人間ばかりだから、なおさら始末が悪い。

この、イベント関連本の製作というのも、かなり大変である。素材となる写真が膨大にあり、その中から、最適な写真を間違いのないように一つ一つを選び、適切なところに配置しなくてはならない。映画でいえば編集作業である。根気のいる作業だが、楽しくないかといえば、クソつまらねえ会議に出ているよりははるかに楽しい作業ではある。

そう、これは、僕なりの「映画」なのだ。映画監督にはなれなかったけれど、映画監督と同じ気持ちでイベントを作り上げたい。僕にとっての『キネマの玉手箱』である。こんな経験、おそらく最初で最後だろう。

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ポワソン・ダブリル(Poisson d’Avril)

1月15日(日)

大林宣彦監督の遺作『海辺の映画館 キネマの玉手箱』(2020年公開)に、かなり重要な役として高橋幸宏こと「ユキヒロ」さんが出演しているのを知ったとき、ああ、大林監督とユキヒロさんとの友情がずっと続いていたのだな、と安堵した。

10代の頃、寝ても覚めてもYMOの音楽ばかり聴いていた僕は、とにかくYMOのことばかり追いかけていた。そのユキヒロさんが、これまた10代の頃からのファンの大林宣彦監督の映画『四月の魚 ポワソン・ダブリル(Poisson d’Avril)』に主演すると知ったときは、僕にとってはいまでいう「夢のコラボ」で、胸が躍ったのだった。

当時、坂本龍一さんは大島渚監督とタッグを組み、ユキヒロさんは大林宣彦監督とタッグを組む。いかにも「らしい」組み合わせである。

『四月の魚 ポワソン・ダブリル(Poisson d’Avril)』は、大林宣彦監督にはめずらしいウェルメイドな喜劇で、フランス映画を意識したおしゃれな作品だった。フランス料理のシェフが料理監修に就いて、映画の中で料理を本格的に見せようとする手法の、先駆けの映画といえるかもしれない。ヒットはしなかったものの、愛すべき小品である。

ユキヒロさんは、大林監督の『天国にいちばん近い島』や『異人たちとの夏』にもゲスト出演していた。そして、大林宣彦監督の集大成ともいうべき『海辺の映画館 キネマの玉手箱』で、監督の分身ともいうべき「狂言回し」として出演したのは、二人の信頼関係がずっと続いていた証なのだろう、と思った。

ユキヒロさんの訃報を聴いて、僕が大好きなソロアルバム『薔薇色の明日』を聴き直し、『四月の魚』を見直す。『薔薇色の明日』にはバート・バカラックの「エイプリル・フール」をカバーしたユキヒロさんの歌が収録されており、これがとても大好きである。『四月の魚 ポワソン・ダブリル(Poisson d’Avril)』は、フランスでは4月1日のことを意味するらしい。ユキヒロさんは4月1日に縁がある。今年の4月1日を迎えることなくユキヒロさんが旅立ってしまったのは、とても悲しいし、悔しい。でも僕は、これからもユキヒロさんの音楽を聴き続ける。

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何でも言って!

1月13日(金)

今週も、よくぞ、よくぞ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークまでたどり着きました!

ようやくひとり合宿から解放されたが、体調はいまひとつである。

週明けの月曜日までにやらなければならないことが山ほどあるのだが、さすがに解放直後はまだ身体がふらついていて、込み入った思考をすることができない。週末の間になんとかしなければならない。

3月のイベントの準備のスケジュールがかなりキツくなってきた。このままでは終わりそうにない。

少し前、ある人から、

「手伝うから、何でも言って!」

と言われたのだが、僕は、はなはだ身勝手な感情だが、この言葉が苦手である。

以前、あるおそば屋さんに入ったことがある。こぢんまりしたおそば屋さんで、お客もそんなにいるわけではない。

威勢のいいおばちゃんが給仕をしていた。よくいるでしょう。威勢のいいわりに、手際の悪い店員さん。あんな感じの店員さんだったので、僕はちょっと苦手なタイプだった。

最初にお茶が運ばれてくる。その後におそばを注文して、おそばができあがったら、その店員さんが持ってくる、という、どの店にも共通する段取りである。

そこは問題ではない。問題なのは、おそばが運ばれてきたとき、

「お茶が足りなかったら言ってくださいね」

と、必ず言うのである。

いやいや、言ってくださいね、じゃねえだろ!いま見てお茶が少なくなっていたら、黙ってお茶を注いでくれよ!なんでこっちから「お茶ください!」と言わなきゃならないんだよ!その手間が面倒くさいんだよ!

…と思ってしまう僕は、わがままだろうか。

しかし、とくだん忙しいお店ではないのだ。客のお茶が少なくなっていると思ったら、店員が気づいてお茶を注ぎに来るべきだろう!と思ってしまうのだ。

だから、「何でも言ってくださいね」という言葉をかけられると、あまりいい気持ちはしないのである。

「手伝うから何でも言って!」というのも同様である。こっちで手伝うことを見つけないといけないのがまた、手間なのだ。しかも、そう言ってくれた人がふだんどれほど忙しいかわからないから、どのていどの仕事を任せたらいいか、わからない。そもそも、本来の業務ではない仕事をお願いする身としては、その案配がわからないのである。

「○○について手伝います」とはっきり言ってもらえると、こちらも安心してお願いしやすくなる。この人は、○○の作業であれば自分の持ち時間の中でできるのだなとわかるからである。

…ま、こちらの完全なわがままであることは百も承知で書いているのだが。

さて、

「手伝うから、何でも言って!」

と言った人は、それからトンと姿を見せない。ま、本気ではなかったのだろう。

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注射針は入った

1月12日(木)

「ひとり合宿」2日目。

昨晩、悪戦苦闘した末に入らなかった注射針は、本日早朝、無事に入りました。

この2日目が、最も過酷である。もう何度も経験しているので、段取りは慣れているのだが、それでも憂鬱である。

ま、この過酷さを説明したところで、だれにもわからないだろうな。うっかり説明すると、武勇伝と受け取られかねない。

最近の鬼瓦は仕事が遅れがち、とか、仕事をさぼっている、メールの返事が遅い、などと思っている人も多いのだろう。しかし僕にとっては、これで精一杯なのである。仕事のメール一つ返すのだって、億劫になってしまう。

治療を続けながら1本の映画を作り上げた大林宣彦監督が、いまの僕の唯一の心の支えである。

 

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世界一血管が出ない人

1月11日(水)

「ひとり合宿」1日目。

この忙しいときにひとり合宿をする余裕はないのだが、仕方がない。

今週いっぱいは身動きがとれなくなるからと、昨日はできるだけ作業を進めておこうと夜遅くまでたいへんだった。

いちおう、ひとり合宿の部屋でも仕事ができるようにと、仕事関係の資料を持っては来てみたが、やはりやる気にはならない。

注射針を僕の腕に刺すために、消灯時間の前に看護師さんがやって来るのが通例になっている。本当は明日の早朝に注射針を入れればよいのだが、僕の腕は血管が出にくいことがここではすっかり有名になり、担当の夜勤の看護師さんは、針がうまく刺せるか不安だということで、前の晩に注射針を入れておこうというならわしがすっかり定着したのである。

今回も、消灯時間の前に、不安そうな表情で看護師さんがやって来た。もう、完全に身構えている。

「右腕が出やすい」というのもすでにここでは共有されているみたいで、右腕をぎゅうっと縛ったり、アルコールでこすったりするのだが、僕の血管はいっこうに出てこない様子である。

看護師さんはかなり焦ってきた。

「もう一方の腕も見ていいですか?」

「どうぞ」

左腕も、これでもかというくらい腕を縛り付け、モミモミと腕を揉んでなんとか血管を出そうとするのだが、ピクリともいわない。

「やっぱり右腕にします」

「どうぞ」

しかしいくらがんばってもいっこうに血管は出てこない。

「ちょっと刺してみていいですか?」

ダメ元で刺してみるらしい。

「やっぱり抜きます」

おいおい、抜くのかよ。

しばらくして、

「もう一度、刺してみてもいいですか?」

「どうぞ」

もうこうなったら、矢でも鉄砲でも持ってこい、という心境である。

「やっぱりダメでした」

といって針を抜いた。

看護師さんも、ほとんど泣きそうである。俺の血管、そんなに出ないものかね。というか、そう頻繁に、刺したり抜いたりされたら、さすがにこっちも不安になる。

「今日はダメでしたので、明日の朝、もう一度挑戦します」

えええっ!!!20分も格闘したのに、明日に持ち越し???

明日が本番である。明日の朝の時点で注射針が刺さっていないと、たいへんなことになる。

明日はうまくいくのだろうか。

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高齢化会議

1月9日(月)

数年来参加しているあるプロジェクトの会議が久しぶりに開かれたのだが、予算の都合上、今年の3月までに成果物を出さなければいけないのに、まったく進んでいないことに愕然とする。

いくら素人の僕でも、このままでは絶対に3月までに成果物は出せないと思うし、ほかのメンバーもそのことは当然わかっていることなのだが、事務局の体制が圧倒的に脆弱なせいか、なかなかうまくいかない。

ちなみに、プロジェクトのメンバーは5名+α、メンバーを見渡すと、僕は下から2番目に若い。つまりそれだけ高齢化しているということだ。

事務局は2人体制である。主たる担当事務の方は、すでに定年退職され、再雇用でお勤めの方である。

しかし、定年退職され再雇用された方の仕事としては、ちょっとハードすぎる。各方面への交渉やら、神経を使う細かい仕事やら、かなりの体力や集中力を駆使しなければならないのである。いくらまじめな方でも、これは如何ともし難い。その方は、まじめな上に、ノウハウもあまりないように見受けられるから、間違った方向に努力されたりして、よけいなエネルギーを使ってしまう傾向にある。しかし、仕事が進まないのはその人個人の問題ではなく、人事の配置上、そのような扱いの部署になっているという構造上の問題である。

事務局のもう一人の方が、事務体制のリーダー的存在で、この方がいることでかろうじてプロジェクトが進んでいる、といっても過言ではないのだが、今日、会議の最後に、

「実は私、この3月で定年退職になります。この先、どのような事務体制になるかはわかりません」

という発言が出て驚いた。全体のプロジェクトはまだ道半ばなのである。

おそらく、定年退職後も引き続きこのプロジェクトにかかわってくれることになるとは思うのだが、そうなると、事務局体制は、再雇用の人たちだけでまわしていくということになる。

事務作業にそうとうのエネルギーが必要となるこのプロジェクトに、若い人がいないというのは実に心許ない。はたして3月までに間に合うのだろうか。

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船出に幸あれ

1月7日(土)

先月、対面とオンラインを併用した会合が行われ、その後、対面参加者だけで打ち上げ、つまり宴会を行った。

僕は本来、出なくてすむなら出ない主義なのだが、今回は韓国からお客さんを招いていたこともあり、参加することにした。

初対面の人の中に、出版社に勤めている人がいた。僕よりもおそらく10歳以上若い人で、物腰も柔らかく、おとなしい感じの方である。聞くと、以前は僕もよくお世話になっている中堅の出版社に勤めていたが、そこを退社して、独立の準備をしているという。

その方の語りが、朴訥ながらなかなか面白く、なかでも「ドキュメンタリー映画と私小説の関係」という話が印象的だった。

正確な内容を伝えられるか心許ないが、それはたしかこんな内容だった。日本の文学界には伝統的に私小説の文化がある。それは読んで字のごとく、自分の身のまわりの出来事を小説にするというもの。何か小説を書きたいが、何を書いていいかわからない場合、手始めに私小説を書き始めれば形になる。あくまでもざっくりとした言い方だが。

それを映像作品に置き換えて考えてみると、ドキュメンタリー映画がそれに近いのではないか。何か映画を撮りたい、という意志が先行して、とりあえず自分の身のまわりで起こっている出来事にカメラを向ければ、ドキュメンタリー映画が成立する。

もちろん、私小説を書く人も、ドキュメンタリー映画を撮る人も、そんな動機ではじめているわけではないだろうが、ただ、私小説やドキュメンタリー映画は親和性が高く、両者がこれだけの歴史を重ねてきた根底には、そのような共通性があるのではないか。

その方の話を曲解している可能性もあるが、僕はそれを聞いて、大いに納得したのである。

その方が、昨年末に「ひとり出版社」を立ち上げたと、ある人のブログで知った。船出に幸あれ、である。

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100字原稿マシーン

1月4日(水)

来年のイベントに関する仕事が山積みなのだが、12月28日から1月3日の7日間は、まったく何もできなかった。ま、それはわかりきっていたことなので仕方がない。

この年末年始の間にやるべきことは、100字の原稿を約270件書くという作業である。

単純計算すると2万7000字。400字詰め原稿用紙にして67枚ていどである。多くの場合、100字ではおさまらず、110字程度になってしまうから、2万9000字程度、400字詰め原稿用紙にして74枚ていどである。

さあ、これを今日から初めて、今週中に終わらせたい。

ということで、今日は朝からひたすら1件100字の原稿を書き続ける。さながら100字原稿マシーンである。

夕方の、保育園のお迎えの時間までがタイムリミットなので、その時点で仕事は強制終了となる。

ひたすら書いた結果、件数は数えていないが、9000字以上、もうほとんど1万字近いところまで達成できた。

3分の1くらいまで終わっただろうか。だが実感としては、4分の1くらいまでしか終わらなかったという印象である。

明日は病院で検査があり、どれだけ進められるかわからないので、あとは金曜日が勝負である。

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年賀状反省会

もう年賀状を辞めようと思いつつ、やはりいただくと、こちらから出さないというのも失礼に思えてきて、結局ズルズルと年賀状を出すこと習慣が続いている。今回も年末ギリギリになって出すことになってしまった。

元旦に来た年賀状。だれに送ったか、送らなかったかを妻と二人でチェックする。こちらから送っていなかった人には、送らなければならないためである。

一枚一枚年賀状を見ながら、とりとめのない話をする。

むかし、妻の両親が仲人をしたという人から、いまでも妻の両親のもとに年賀状が届くのだが、そこに書かれている宛名の名前が、毎年必ずといっていいほど、間違っているという。

もちろんこちらは、正しい名前を毎年書いて送っているのだが、そのことに気づかないのか、毎年、宛名が修正されることなく送られてくる。

「パソコンに登録している住所録が間違っていて、毎年そのまま宛先を打ち出しているからじゃないの?」

「それはそうかもしれないけど、つまり、そのていどの関係にしか思っていない人なんだよ」

なるほど。僕自身も、名前の表記を間違えて送ってしまうことがある。しかし、極力気をつけてはいるし、もし間違っていることがわかったら毎年その都度修正している。それはほかならぬ僕自身、名前の表記をよく間違えられるからだ。

僕は、一枚一枚確認していた年賀状の一枚を手にとって言った。

「たとえばこれ、名前の表記が間違っているだろう?」

「ほんとだ」

僕のファーストネームの1文字目は、どういうわけか、いろいろな別の漢字に間違えられる確率が高い。

「この人は、10代から知っていて、いまでも何かとつながりのある人だ。40年近くたっても、僕の名前の表記を間違って送ってきている。つまりこの人にとっては、僕はそのていどの関係の人間だということだ。そういうとこなんだぞ、と」

もちろん、むかしから名前の漢字表記が間違えられることが多く、そんなことはすっかり慣れきっているので、別にどうということはない。

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いまになってわかること

12月31日(土)

朝、ボンヤリとNHKを観ていたら、「世界ふれあい街歩き ウクライナ キエフ 特別版」が再放送されていた。

観たいと思っていた番組だ。

今年の6月に、文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」のオープニングトークで、大竹まことさんが訥々と、この番組について語っていた。

以下、そのときのトークの様子を、文化放送の公式HPから引用する。

「6月14日(火曜日)大竹まことゴールデンラジオ(文化放送)で、パーソナリティの大竹まことが2019年に撮影されたウクライナ・キーウの平和な街歩き映像をテレビで鑑賞し、現在のキーウの映像との違いに打ちのめされたことを語った。

大竹が観たのはNHKの「世界ふれあい街歩き」という番組で、3年前のキーウの静かで平和な映像が映され、その後、現在の同じ場所にあるロシア軍戦車の残骸が映されたそう。2019年の映像で子供たちと一緒にピザを作り、食べさせていた現地の帰還兵らが、今は戦場に赴き、一人は亡くなっていると明かされたり、また、2019年の映像でウクライナ伝統の楽器を演奏し歌っていた街の人も、現在は戦場に向かっていると説明されたりしたという。大竹は「ウクライナは過去に色んな戦いからやっと落ち着いて、平和に暮らせていた時に、今回のことが起きた。歌っていたあの人は楽器を捨てて銃を持っているのだよね」。と短い期間に起きたあまりの変化に信じられない様子。

フリーライターの武田砂鉄も「バンドのクイーンが以前ウクライナでライブを行った映像を無料公開したのを見たが、その会場で熱狂して音楽を楽しんでいた人々が、今は文化やエンターテイメントを奪われてしまっている。そういうところへの想像を常に持っておかないといけないと感じる」。と現地に人々の現状に思いを馳せた。大竹は「判断はともかく、こういうことになっているといいたかった」。とリスナーへ力を込めて語った。」

少し補足をしておくと、このときに大竹まことさんが観た「世界ふれあい街歩き ウクライナ キエフ」は、今日再放送された「特別版」と同内容で、2019年に放送されたバージョンに、戦争が始まったその後の状況について、ナレーターのイッセー尾形さんが補足している、というものである。ちなみに、大竹さんとイッセー尾形さんは、古くから親交のある芝居仲間である。

僕はこのときのオープニングトークがずっと印象に残っており、「世界ふれあい街歩き ウクライナ キエフ 特別版」をいつか観たいと思っていたのが、大晦日になって、やっと実現した。

2019年放送の時点では、キエフは実に穏やかな街であった。2014年のウクライナ危機から帰還した兵士が、社会復帰のために子どもたちとピザを作る、という、その帰還兵の顔は、穏やかで楽しそうな顔をしていた。しかしこの時点で、ふたたび戦地に赴くことになるとは知らない。

長崎に原爆が落とされる前日の、長崎の人々の日常を描いた、井上光晴の『明日』という小説を思い出した。黒木和雄監督によって『TOMORROW 明日』というタイトルで映画化されており、僕は映画を観たクチである。

翌日に原爆が落とされることがわかっている後世の人間にとっては、その前日は特別な日常に映るのだが、そのときに生きていた人々は、いつもと変わらない平凡な日常である。

2019年時点でのキエフは実に穏やかな日常にみえるが、いま、この時点で見ると、かけがえのない日常に見えてしまうのは、おそらくそういうことなのだろう。

その番組の中で、チェルノブイリ原発事故を伝える博物館の前を通りかかる場面がある。その博物館の前にいたふつうの若者が「歴史に学ばない者に未来はない」と何気なく語っていたのが印象的だった。

そしてこの日の夕方に、NHKのBSプレミアムで映画「ひまわり」が放送された。映画「ひまわり」については、すでに述べたことがあるので省略する。

あらためて映画「ひまわり」を見直してみると、細部についてはほとんど忘れていた。

ストーリーとは関係ないのだが、戦争で行方不明になった夫を妻がいまのウクライナで探す場面で、ほんの一瞬だが、鼓胴のような形をした巨大な建物がいくつか並んでいるのが映っている。どこか見覚えのある建物だと記憶をたどると、チェルノブイリ原発とよく似た建物である。チェルノブイリ原発そのものではないようだが、ウクライナに置かれた原発であることは間違いないようである。驚くことに、原発に隣接してふつうの人々が暮らしているのだ。映画を観ていたつもりであっても、見えていなかったことが多すぎる。いまになってわかることも多い。関心のないものは目に映らないということなのだろう。

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