○○の玉手箱
1月17日(火)
3月開始のイベントの準備がいよいよシャレにならなくなってきた。病み上がりの人間が、こんなに働いてよいのだろうかというくらい、遅くまで作業をしているのだが、終わる気がしない。
このイベントは、はっきり言って、情報量が異常に多い。準備している本人が、あまりの情報量の多さについていけてないのだから、そうとうなものである。イベントのやり方にはいろいろあって、楽をしようと思えばいくらでも方法があるのだが、このイベントは、結果的にはそうなっていない。
ふつうこの種のイベントは、企画の最初に「ドリームプラン」があって、それが準備を進めていくに連れて、どんどん縮小していくものなのだが、このイベントは逆で、準備を進めていくうちに、どんどんドリームプランに近づいていき、収拾がつかなくなってしまうのである。
そこで思い出すのが、前回も取り上げた、大林宣彦監督の遺作映画『海辺の映画館 キネマの玉手箱』(2020年)である。この映画こそ、溢れんばかりの情報のオンパレードなのである。
大林宣彦監督の映画は、『青春デンデケデケデケ』の頃から、情報を溢れさせる映画を作ることにめざめたようで、とくに晩年の『この空の花 長岡花火物語』『野のなななのか』あたりは、ほんとうに情報量の多い映画となった。そしてその究極が、『海辺の映画館 キネマの玉手箱』なのである。おそらく『海辺の映画館 キネマの玉手箱』を見た人は、あまりの情報量の多さに受け止めきれないのではないだろうか。
大林監督は、脚本に忠実に撮る、というよりも、現場でどんどん台本を足していくタイプの監督だと聞いたことがあるが、僕がいまやっていることも同じである。いま、イベントの関連本を同時に作っているのだが、当初に想定したものからやっていくうちにどんどんといろいろなものが足されていくのだ。この種のイベントとしては、おそらく禁じ手のやり方である。だいたいこのイベントのメンバーがそういう癖(へき)の人間ばかりだから、なおさら始末が悪い。
この、イベント関連本の製作というのも、かなり大変である。素材となる写真が膨大にあり、その中から、最適な写真を間違いのないように一つ一つを選び、適切なところに配置しなくてはならない。映画でいえば編集作業である。根気のいる作業だが、楽しくないかといえば、クソつまらねえ会議に出ているよりははるかに楽しい作業ではある。
そう、これは、僕なりの「映画」なのだ。映画監督にはなれなかったけれど、映画監督と同じ気持ちでイベントを作り上げたい。僕にとっての『キネマの玉手箱』である。こんな経験、おそらく最初で最後だろう。
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