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2023年5月

リアルナースのお仕事

5月31日(水)

入院して点滴を受けることになったのだが、担当の看護師さんが、どうやらこの4月に入った新人さんらしく、とても初々しいのだが、当然ながら、まだいろいろなことに慣れていないようである。もうひとり、あるていど経験を積んでいると思われる看護師さんがサポートに入る。

血圧を測るにも、まだぎこちなさが残る。そのたびに、経験を積んでいると思われる看護師さんがアドバイスをする。

いよいよ点滴をするという段になったとき、僕は少し緊張が走った。少し大げさに言えば、自分にとっては生死を分けるような点滴である。その点滴を、新人看護師さんに委ねてよいものか、少し不安になる。

その新人看護師さんは、点滴の機械の操作もままならない。そのたびに、もうひとりの看護師さんからアドバイスを受け、操作の仕方を学んでいっている。というか、こっちにしてみれば練習ではなく本番なのだが…。

経験豊富の看護師さんが横についてくれていたおかげもあり、点滴は無事に開始された。ところが、その看護師さんは、同室の他の患者を手術室に送り届けなければならない時間となったため、病室を出なければならなくなった。

「何かあったら、他の人に聞いてみて」

という言葉を残して、その看護師さんは病室を出て行ってしまった。

サア困ったのは僕である。新人看護師さんひとりしかいなくて大丈夫だろうか。

「10分ほど経ったらまた来ますね」と、その新人看護師さんも出て行ってしまった。

そうこうしているうちに、点滴の装置から異音が鳴った。どう考えても、何らかの危険を伝えるような音である。

するとその新人看護師さんがとんできて、その異音をなんとか止めようとして悪戦苦闘している。さらに点滴の装置をなにやらゴソゴソとやり出した。僕には、ちからわざで何かをしようとしているように見えた。

「これで大丈夫です。また来ますね」

といって病室を出ると、また異音が激しく鳴り出した。新人看護師さんがとんできて、点滴の装置をまたいじくりながら、異音を止めた。

おいおい大丈夫なのか?と心配になったが、こっちはド素人なので何も言えるはずがない。

何回かそういうことがあった後に、ようやく点滴が終わった。そしてそのタイミングで、もうひとりの看護師さんが帰ってきた。

「はい、これで点滴は終了です」

と、一件落着したが、なかなかスリリングな点滴であった。

新人看護師さんは、こうした経験を積んで、頼もしくなっていくのだろう。僕は自分の職場の新人さんと重ね合わせながら、幸あれと願わずにいられなかった。

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夢は究極のミニコミ誌

5月29日(月)

高校時代の恩師がガリ版刷りのミニコミ誌に連載しているエッセイがとても面白かったので、このミニコミ誌に俄然興味がわいた。

僕は、そのミニコミ誌の細かい情報について、先生からまったく聞かされていないので、それが入手できるのかどうかもわからない。

ところが、先生のエッセイの中に、ミニコミ誌のタイトルとおぼしきものが書かれていたので、それを頼りに検索すると、ある出版社のホームページがヒットした。

そこには、その出版社が出版した本が、そのミニコミ誌で書評されたことが紹介されていて、そこには、「(書評を載せてくれたミニコミ誌は)年6回発行されている全ページ手描き文字の通信です。 謄写版印刷の暖かみが伝わるミニコミで、下記へ年間購読料を払い込むと定期購読できます」と書いてあり、年間購読料と郵便振替口座の番号が記されていた。

これだ、これに間違いない。

さっそく、そこに書かれている郵便振替口座に、年間購読料を振り込んだ。

するとその2日後だったか、見知らぬ番号から電話があった。

「もしもし、鬼瓦さんですか?」

「はい」

「私、ミニコミ誌を編集している者です」

だいぶお年を召した女性の声だった。

「このたびは、購読していただきありがとうございます」

「いえいえ」

「あのう…振り込んでいただいた購読料なんですけれど…この口座、どこでお知りになりました?」

「実はインターネットで検索して、郵便振替口座の番号と年間購読料を紹介しているホームページを見つけたのです」

「言いにくいのですが…600円足りないのです」

「そうなんですか?」僕はホームページで紹介されたとおりの購読料を支払ったつもりだった。

「以前はその購読料だったのですけれど、最近、値上げをしまして」

「そうだったのですか」

「お送りする会報に、振込用紙を同封しますので、600円を追加でお支払いいただけますとありがたいのです」

「ええ、それはもちろんです。承知しました」

「それと、…このミニコミ誌をどこでお知りになりました?」

「Nさんです」僕は高校の恩師の名前をあげた。

「そうだったんですか。購読いただけて、大変うれしいです」

「こちらこそ、楽しみにしています」

といって電話が切れた。

で、今日、そのミニコミ誌が届いた。

完全なる手作りによるミニコミ誌である。

先生が言っていたとおり、最初から最後まで手書き、しかもガリ版刷りだった。

「編集・ガリ切り・印刷・発行」としてひとりの名前が書かれている。なるほど、「ガリ切り」って言うんだな。

B4の紙の両面にガリ版印刷したもの6枚を、半分に折ってB5サイズの雑誌のような作りになっている。B4サイズ1枚あたり4頁の計算になるから、1号あたりのページ数は24頁になる。しかしホッチキス止めはしていない。

これぞ、究極のミニコミ誌である。

記事の内容はじつに多彩である。巻頭を飾るエッセイや、いくつかの連載、読者の投書欄、科学エッセイなど、読んでいて飽きない。もちろん、高校時代の恩師の連載エッセイは、その中に自然に溶け込んでおり、しかも抜群に面白い。

書いている人たちというのはどんな人たちなのだろう?と思っても、肩書きなど一切ないので、どんな人なのかもわからない。読者の投書欄には「○○県××市」と書いてあるのだが、その住所は全国に及び、特定の地域にかたまっている、というわけでもない。

うーむ。このネットワークはいったい、何なのだろう?ますます僕の興味をかき立てる。

…と、ここまで来て僕は気がついた。僕は、こういうミニコミ誌が、大好きなのである。

このミニコミ誌のほかにも、定期的に、ある団体からの会誌が送られてくる。それもまた、B4サイズの紙を二つ折りにして全4頁としたところに、会員がエッセイを書いているというスタイルである。さすがに手書きではないけれど、ぬくもりが伝わる。

そういえば僕は少し前に、「アングラもアングラ、ひっそり作っている秘密の会誌」に文章を寄せたことがあった。それもまた、B4サイズの紙を二つ折りにして全4頁にまとめた会報である。「秘密の会誌」というくらいだから、発行人の名前も事務局の場所も書かれていない。読者も想定していない。じゃあいったいだれが読むんだ?という、これもまた、究極のミニコミ誌である。

よく考えてみたら、僕はそういうミニコミ誌が大好きなのだ。それも、アングラであればあるほどよい。

前にも書いたが、20代の頃、高校の後輩たちに向けてミニコミ誌、というか個人誌を、だれに頼まれたわけでもないのに作成していた。内容は、いまやっているこのブログと同じようなテイストのエッセイをいくつか載せたもので、それを強引に後輩たちに送りつけていたのである。やってることは「ジャイアンリサイタル」と変わらない。この個人誌もまた、B4サイズを二つ折りにして全4頁にしたものだった。

僕は、職業的文章を本にするよりも、B4サイズの紙を二つ折りにして作るミニコミ誌を作ることのほうに、憧れているのだ。「B4サイズの紙を二つ折り」にして作る、というのがポイントである。

僕にもし余生があるとしたら、究極のミニコミ誌を作って過ごしたい。

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祭の終わり

5月29日(月)

先週の金曜日で、イベントの後片付けがほぼ終わったのでホッとしていると、その日に一通のメールが来た。

「原稿はどうなっているでしょうか」

という、いつもの催促のメールである。しまった!すっかり忘れていた!

「まずは目次案をお送りください」

とあり、1年以上前に送るはずだった目次案すら送っていなかったことが判明した。

「締切は今月末なので進捗状況を確認します」

え?今月末???すっかり忘れていた!今日が26日(金)だから、あと5日しかないではないか!ここだけの話、ひとっつも書いていない。

しかし腹が立つのは、こういう催促って、たいてい金曜日に来る。

出版社にしてみたら、金曜日に執筆者にボールを投げて、土日は心置きなく休もうということなのだろう。

ボールが投げられた方は、土日になんとかしろ、と言われているようで、なんともストレスである。

冷静になってみたら、およそ自分のキャパシティーを越えるほどのさまざまな原稿を依頼されていることをあらためて実感した。

どうしてこんなに引き受けちゃったのか、きっとイベントの準備に忙しくて、冷静さを欠いてしまったのだな。

とりあえず締切を過ぎてから対策を考えよう。

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トラック野郎行脚ファイナル

5月25日(木)

新幹線で西に向かう。明日は朝から、トラック野郎行脚である。

この日は前泊だけだったが、このたびのイベントでお世話になった施設にお礼の挨拶をしに行くことにした。

通常はだいたい15時頃に作業が終わってみんな引き上げる、と聞いていたので、14時半から30分ほどお邪魔することにした。

ところがつい話し込んでしまい、気がついたら2時間半が経っていた。今回のイベントに関しては、話題が尽きない。

夕方5時に出て、先週と同じホテルにチェックインした。ふだんなら絶対に宿泊するような地域ではないのだが、意外と交通は便利だし、居心地も悪くない。これで最後の宿泊かと思うと少し寂しい。また大阪で仕事があったら泊まろうかと思えるホテルだった。

5月26日(金)

朝9時、先週と同じ集合場所に行き、出発である。

今回もまた、観光地をまわるのだが、先週に引き続き、外国人観光客や修学旅行生で溢れていて、その勢いは衰えない。この場所はこれからこんな感じがずっと続くのだろうか。この観光地は、仕事でたまに訪れるので、あまり混み合うのはイヤだなあ。とくにホテルの予約が取れなくなるんじゃないだろうか。

トラック野郎行脚は順調に進み、この2週間ほどをかけてすべての行程を終えた。

この先、もうトラック野郎行脚をすることもないだろう。いろいろな人との出会いに感謝しつつ、大団円を迎えた。

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ラジオブース

5月24日(水)

先日終わったイベントの記録映像を作っているのだが、今日はナレーションの立ち会いという仕事で、都内のスタジオに出かけた。

雑居ビルの4階に、そのスタジオがあった。中に入ると、まるでラジオブースのような構造である。大きなガラスを隔ててラジオDJが喋るようなスペースと、巨大なミキサーが置いてありディレクションをするスペースと、に分かれている。

フリーアナウンサーのような人がナレーションをするのだが、今回のイベントは、難しい言葉が多用されていたり、情報量が多かったりして、かなり難儀していたようだった。

さっそく録音開始。20分ほどの映像に、ナレーションを付けていく。ガラスを隔てたこっち側では、ディレクター1人とミキサー1人と僕と、あと1人、よくわからない人の4人がいる。よくわからない人、というのは、プロデューサーにあたる人だろうか。

映像に合わせてナレーションを付けていくのだが、ディレクターはスタジオ内に映像を流しながら、タイミングを見計らってガラスの向こうのナレーターにキューを出す。それに合わせてあらかじめ作成している台本をナレーターが読むのである。ナレーションのタイミングは、じつに90カ所にもおよぶ。

ところがこのナレーション原稿は、ふだん使わない言葉がふんだんに盛り込まれているので、読むのが難しい。そこで僕が立ち会い、漢字の読み方からイントネーションに至るまで指導するのである。

イントネーションがまた難しい。ひとつひとつの言葉に、イントネーションを指示していくので、やっていくうちにわけがわからなくなり、ゲシュタルト崩壊みたいな感じになる。

途中、ナレーション原稿を読み間違えたりすると、その部分だけを取り直してその場で編集する。するとあたかも連続して喋っているように聞こえるから不思議である。

アナウンサーなのだからイントネーションを間違うことはないだろうと思われるかもしれないが、ふだん使わない業界用語や専門用語のオンパレードなので、さすがに悪戦苦闘していたようだった。僕も何度も「その言葉のイントネーション、違います」と何度もダメ出しをして、録り直しをしてもらった。こうして納得がいくまで、何度もナレーション原稿を読んでもらう。

ひととおりナレーション録りが終わると、全体を通して、映像のタイミングとナレーションのタイミングが合っているか、ナレーションを聴いて不自然なところがないか、などをチェックする。

映像に比してナレーション原稿が長い場合があり、該当の映像の枠にナレーションが収まらない場合もある。その場合は、映像のほうを微調整する。映像のタイミングを前に持ってくることを「上げる」、後ろに持ってくることを「下げる」というらしい。「ナレーションが溢れたので、ここは映像を1秒上げます」とか「後のナレーションと少しカブるので、2秒下げます」とか、ディレクターがミキサーの人に細かい指示を出す。

気になった箇所の微調整が終わると、いわゆる「完パケ」ができあがる。

ここまでで2時間半近くかかったのだが、自分がラジオのディレクターになったような、得がたい体験だった。

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わかってもらうのはむずかしい

5月23日(火)

高校時代の恩師とイベントでお会いしたときに、僕自身の病気のことと、先生の幼い頃からの身体の不具合の話をしたのだが、そのことがひどく印象に残ったらしく、先生があるミニコミ誌に最近連載しているエッセイの一部をメールで送ってくれた。幼い頃からの自らの身体の不具合と、それに関する困ったことやら愚痴やら対策やらが書いてあった。

そのエッセイのタイトルは、「わかってもらうのはむずかしい」。僕はそのエッセイを読んで、このタイトルにすっかり共感してしまった。

ちょっとしたことで身体の不具合が起こる。それを守るためにいろいろと策を講じてはいるのだけれど、世間が理解しないため、先生にはいろいろな災厄が起こる。それでも、工夫しながらこれまで生きてきたことが、飄々とした筆致で語られていた。

深刻なんだけれども、ちょっと笑ってしまうのは、その文体が、高校時代に受けた先生の授業の語り口そのままだ、と感じたからだろう。

そういえば以前、僕の本を読んだかつての教え子から、先生の授業の語り口そのままでしたという感想をもらったことがあったが、文体と語り口との関係は、おしなべてそういうものなのだろう。

それはともかく、その連載は今のところ6回まで続いているそうなのだが、送られてきたのはそのうちの3回分だった。

もっと読みたい!というか、連載がどのていど続くのかわからないが、全部読みたい!と思い、その旨を先生にメールしたところ、追加で3回分送っていただき、つまりいままで連載している分をすべて読むことができた。高校時代から40年近く経つが、先生はこんなに多くもの体の不具合とつきあってきたのか、と、初めて知ることが多かった。

僕も、自分の病気のために生活をしていて不具合なところがあり、そのことをメールに書くと、

「よくわかります。痛みはこれからも出たり消えたりを繰り返すだろうから本当につらいけれど、痛みとのつきあい方を身につけていくしかないでしょう。私もこの10年ほど、3つの関節が交代でまたは同時に痛くなり、痛み止めを飲んだり、ストレッチやマッサージをやったりしてごまかしながら元気ぶっています」

と、先生から次々と出てくる体の不具合の話と、それに対する先生のやり過ごし方を読んで、ひたすら驚嘆するしかなかった。平気で生きるって、こういうことなんだろう。

ところで、先生が連載しているそのミニコミ誌、というのはひどく珍しいもので、あえて「ガリ版刷り」で印刷しているのだという。いっぺんWordで打ち込んだ原稿を提出して、それを編集者がガリ版刷りに直すのだという。なんという手間のかかったミニコミ誌だろう。

先生は、そういうヘンなところを面白がる先生でもあるのだ。というか先生のまわりにはそんな人たちばかりである。ある映画監督に頼まれて、来冬公開予定の、たぶん話題になるであろうアニメ映画のなかで、当事者にしかわからない身体の動きの監修をすることになった、と、メールにさらりと書いてあったが、人知れずいろいろなところに奔走する先生はあいかわらず面白い。どうやって人脈が形成されていったのか、不思議でならない。

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いまさらマリオ

5月21日(日)

トラック野郎行脚は、5月18日(木)に無事終了し、夜に帰宅した。翌日、翌々日は、無理をした反動で、何もやる気が起きず、ぐったりしていた。

旅先で一人で連泊していると、翌朝、身体が動かなくなってしまうんじゃないか、という不安に駆られてしまう。最終日もその不安に苛まれ、早朝に目が覚めてしまい、「こりゃあいよいよダメかな」と思いながら時間をやり過ごしているうちに、なんとか体調が戻り、無事に時間通りに集合場所にたどり着き、最終日の仕事もひととおりこなした。トラック野郎行脚はあと1回あり、それが終わるまでは気が抜けない。

今朝、5歳の娘が「映画が観たい」と言ってきた。先日、『名探偵コナン 黒鉄の魚影』を観たばかりだったので、いま公開中の映画の中で、5歳の娘にとって適当な映画があるかどうか…。

もちろん、『ザ・スーパー・マリオブラザーズ・ムービー』が上映中であることは知っていたが、僕自身がなかなか気が進まない。というのも、僕は「コナン弱者」以上に、「マリオ弱者」だからである。

生まれてこの方、テレビゲームをほとんどしたことのない僕にとって、「スーパーマリオ」というのは、まったくわからない存在なのである。

もちろん、口ひげを生やして赤い服とオーバーオールを着た小男が「マリオ」だ、というくらいは知っているが、それ以上のことは、なんにも知らないのだ。

しかも、2016年のリオ五輪のときだったか、次の2020年の五輪は東京です!ということをアピールするために、当時のこの国の首相がマリオの格好をして登場したのを見てサムくなり、マリオに対する評価が著しく低下してしまったのである。それ以来、すっかりマリオアレルギーになってしまった。

そんなことで、この映画が楽しめるのだろうか?

しかし、上映時間を調べてみると、90分ほどの短い映画だったし、ほかに選択肢もなかったので、ものは試しに見て見ようかと思い直し、娘を連れて観に行くことにした。

劇場に行くと、封切りからけっこう経っていると思われるのに、座席はそこそこ埋まっている。もちろん、そのほとんどが親子連れである。

結論から言うと、マリオのマの字も知らない僕にとっても、十分に楽しめた映画だった。娘ももちろん大満足だった。

僕はこの映画を見つつ、現在の世界情勢について思いをめぐらせた。野望を持つ巨大な悪の王国が、周辺の国々を次々と武力で侵略する。その中でも、平和に暮らしていたある国がその悪の王国による侵略の脅威にさらされ、その侵略に対抗すべく、別の国の軍隊に応援を頼んで、支援を受けた武器で悪の王国の侵略に必死で抵抗する、というストーリーだと僕は理解したのだが、これって、何かのメタファーなんじゃなかろうかというのは、考えすぎだろうか。

というか「スーパーマリオ」って、もともとそういうゲームなのか?だとしたら、考えすぎだな。

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コバヤシとの再会

5月16日(火)

この日のトラック野郎行脚は、スケジュールにかなり余裕があったようなので、大阪に住んでいる高校時代の親友・コバヤシに連絡をとり、夕方に「なんば」で待ち合わせようということになった。コバヤシからは、この日は仕事が早めに終わりそうだということと、翌日は健康診断があるのでお酒は飲めないとの返信が来た。ま、僕はお酒をスッパリとやめたので、それはそれで好都合である。僕は、「貴兄も明日は健康診断だし、私もやや疲れているので、今日は早めに切り上げましょう」と返信した。

僕が早めに「なんば」に着いて喫茶店で時間をつぶしていると、コバヤシが意外と早く仕事が終わったようで、5時半にその喫茶店にやってきて、これから食事でもしようということになった。

「なんば」にある百貨店の上の階に食事街がある。お好み焼き屋に入ろうと思ったが、カウンターしかなく、落ち着いて話もできない。いろいろ探したら、どうやら洋食屋ならばゆっくり話もできそうだということで、そこに入ることにした。

食事をしながらの話題は、もっぱら僕が担当したイベントの話である。コバヤシは、遠いという理由でイベントを見てはいないのだが、僕の話を面白がって聞いてくれた。僕も話していくうちに、興が乗ってきてどんどん元気になっていく。

いままで、僕の仕事に対してまったくといって興味のなかったコバヤシが、このイベントに関しては身を乗り出して聞いてくれている。それどころか、

「おまえ、それ、絶対に続編をやれよ。おもしろいから」

とまで言う。

やはりこのイベントは僕の人生の中で特別な仕事だったのだ。

お互い時計も見ずに対話をしていたら、気がつくと8時半になっていた。

「おい、もう3時間も喋ってるよ」

「いかんいかん、帰らないと」

急いでお店を出て、

「じゃあまた会おう」

といって別れた。

翌日、メールが来た。

「昨日は久しぶりに会えて嬉しかったです。しかも裏話を含めて聴かせてもらったイベントの話は本当に面白かったです。時間が経つのを忘れて聴いてしまいました。

でも、それ以上に、貴君が思ったよりも元気そうだったので安心しました。体調は思わしくないとは思いますが、そんなことを感じさせることなく精力的に活動を続けていることに少しホッとしました。

とは言え、やはり無理せず自分の体調を第一に行動してください。

またそのうち会いましょう!では、お元気で!」

僕は、ようやく自分の人生のつじつまが合ってきたような気がして、そのことを噛みしめた。

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トラック野郎行脚

5月15日(月)

朝から大雨である。

この日は朝10時から、1つの業務と、2つの会議が職場で控えていた。

僕は3泊4日分の荷造りをして朝早く家を出て、重い荷物を持って2時間以上かけて電車で通勤し、10時の業務に間に合った。

なんだかんだで、すべての仕事が3時半に終わり、そこから重い荷物を持って東京駅に移動し、新幹線に乗る。職場から東京駅までは、1時間近くかかる。

目的の場所である大阪市内のホテルに着いたのは、夜の8時半であった。

何度も繰り返すが、病人のやる仕事ではないね。

5月16日(火)

この日から3日間、トラック野郎行脚である。

朝9時に、トラックの出発地である倉庫に集合するのだが、その場所というのが、これまでに来たことのない、大型船が着岸するような港の近くにある巨大な倉庫街のなかにある。なので泊まるホテルも、その近くにとらなければならない。こんな仕事をしていないと絶対に泊まらない町である。

朝、ホテルを出て、無人電車に乗って、トラックの出発地の最寄りの駅に向かう。最寄りの駅で降りて、巨大な倉庫を眺めながら歩くこと10分、目的地に着き、トラックに乗り込む。これを3日間繰り返すのである。

僕と、トラック野郎3人の4人のチームなのだが、僕はトラック野郎たちとは初対面だし、3人のトラック野郎たちも、ヒエラルキーがあったり、支店が違ったりすることもあるので、この3人がどのような関係にあるのか、僕自身もはかりかねるところがある。しかも日ごとにチーム編成が変わったりすると、また雰囲気がコロッと変わってしまう。

初日のチームは、なんとなく話しやすそうな雰囲気だったが、2日目(17日)のチームは、道中、ほとんどお話しすることはなかった。

で、初日のこと。

僕が前々から気になっていたことがあった。

それは、大阪の人が、来たる2025年の大阪万博のことをどう思っているのか、ということである。

僕は万博開催に批判的な立場なのだが、それをいきなり言うわけにはいかない。万博を歓迎する立場の人もいるかも知れないからである。なので質問の仕方を気をつけなければならない。

「…あのう、万博会場はこのあたりですか?」と僕は聞いた。

「ええ、このちょっと先です」

「じゃあこの辺もだいぶ変わるんでしょうか」

「そうですね。万博が始まったら、我々の仕事はどうなっちゃうんだろうと思いますね。なにしろトラックを使わないと始まらない仕事ですから」

「思わぬ渋滞に巻き込まれたりするということですね」

「そうです。…でも、あと2年だというのに、まだ何もできていないんですよ」

「何もできていない?」

「ええ。まだ更地なんです。大丈夫なんでしょうかねえ。おそらく入札業者が決まっていないんでしょうね」

「地下鉄が会場まで開通するという話を聞きましたが」

「それもまだ工事中です」

会話から、やや冷ややかに見ているような印象を受けた。

「それに、この近くにマンションがどんどん建っているんですよ」別のトラック野郎が言った。

「そうですか」

「でも、まだガラガラです。あんなんで大丈夫なんですかねえ」

「跡地はカジノになるんでしょう?それを見越してではないですか?」

「あれもおかしな話でねえ。国民1人あたり3万円をカジノにつぎ込むという計算で経済効果を期待しているんですよ。そんなことあり得ませんよねえ。このご時世に」

やはり冷ややかである。

僕は、地元の人はみんな歓迎しているのかと思っていたのだが、どうやらそうではないような印象を受けて、なんとなく安堵した。

翌17日(水)のチームは、前日とは打って変わって物静かな車内だったので、そういう話題は憚られたのだが、2日間を通じて共通していたのは、訪れた場所が観光地だったこともあり、おびただしい数の外国人観光客やら、小学生の遠足や中高生の修学旅行などの団体客やらで、信じられないくらいの人出だったということである。やはり新型コロナウィルスが「2類」から「5類」に代わったことが関係しているのだろうか。トラックが身動きできないほど、観光客が道路を占領していた場所もあった。

ああいうのを見てしまうと、来たる万博も、予想に反して意外と観光客でごった返すのではないか、するとますますあの人たちが調子に乗るのではないかと、一抹の不安を覚える。

火曜、水曜と、信じられないくらいの暑さで、それだけで体力を奪われたが、スケジュールに余裕があり、十分な休憩をとりながらの行脚なので、いまのところ体調は問題ない。

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突然の来客

イベント終了の翌日、5月8日(月)~10日(水)の3日間は、怒濤の撤収作業がおこなわれた。

そしてその翌日の11日(木)からトラック野郎行脚がはじまるわけだが、僕は11日に急遽診察が入ってしまい、他の人に代理で行ってもらうことになった。

で、11日の朝8時、自宅にいると、日ごろお世話になっているある人からメールが来た。件名に「お願いがあります」とある。

お忙しい中、申し訳ありません。お願いがあります。

一昨日、韓国のY先生が日本に来られました。昨日お会いして予定をうかがったところ、10年ぶりに鬼瓦さんの職場を訪ねたいと言われたので、強くお勧めしました。特別なことは必要ありませんが、鬼瓦さんと簡単なご挨拶ができればY先生も喜ぶと思い、ご連絡した次第です。お忙しいところ、面倒をかけて申し訳ありません。午前10時頃には到着すると思います。よろしくお取り計らいください」

丁寧な表現で綴られているが、これは挨拶をしろということだなとすぐに理解した。しかも午前10時に到着するという時間指定まであるではないか。

しかし、どうやったって午前10時に到着するのは無理である。自宅から通勤に2時間以上かかるのである。

それよりも何よりも、僕はこれから病院に行かなければならないのだ。ただでさえこっちはそのことでナイーブになっているのに、いくらお世話になっている人とはいえ、朝からメールで「お客さんが行くのでよろしく」と丸投げされると、ふだんは人の好い僕だって、不快な気分になる。なぜならこっちのコンディションが異様に悪いからだ。

僕は急いで、そのメールをくれた方に、こちらの事情を説明したのだが、その後何の返事もなかった。僕は予定通り病院に行くことにした。

病院の待合室にいると、職場からメールが入った。

先ほど、鬼瓦先生宛に来客の方がいらっしゃいました。先生がご不在でしたので、事務室で対応させていただきました(日本語はお話しできないようでした)お互い英語でのやり取りでしたので明確なことは分かりませんが、ある方から鬼瓦先生をご紹介いただいた、とのこと」

どうやら事務も対応に苦慮しているらしい。そのすがるような文面から、日本語で意思疎通ができず、英語で苦労しながら意思疎通している姿を僕は想像した。僕は急いで「いま病院なので、午後に対応します」と返信した。

するとこんどは、その来客ご本人から韓国語でメッセージが入った。

「こんにちは、前もって連絡せずに来てごめんなさい。昨日お会いした方から、鬼瓦先生に連絡をしておいたからということで、午前にうかがいました。メッセージをいただければと思います」

どうやら、僕が午前中に出勤できないことは知らないらしい。僕は急いで韓国語でメールを書いた。

「いま病院で診察中です。職場には午後2時半~3時の間に到着する予定です」

「チンチャル チャル パドゥシゴ チョンチョンニオセヨ」

出た!お決まりのフレーズ!「チョンチョンニオセヨ!」

こっちが遅れそうで、なるべく急いで行きます、みたいなことを書くと、

「チョンチョンニオセヨ(ゆっくり来てください)」

と必ず返される。韓国の人はおしなべてせっかちな人が多いので、これが本音なのかどうなのか、いつもわかりかねるのである。

結局、診察は思いのほか時間がかかり、3時を過ぎてようやく職場に到着した。

実はこの日はもうひとり来客があり、そちらにも挨拶しなければいけないことになっていた。というか、そちらの方が先約である。僕は到着早々、先約の来客のところに行ってご挨拶した。

ひとしきりお話しをしたら、3時半くらいになった。

韓国からの来客は今どこにいるのだろう?

「いまどこですか?」

とメッセージを送ると、

「携帯電話のバッテリーが切れたので、カフェでコーヒーを飲みながら充電しています」

と返ってきたので、急いで食堂に向かう。

するとそこにY先生がいた。といっても、実はY先生とはほとんどお話ししたことがない。

「おひさしぶりです。お一人で来たのですか?」

「ええ」

こっちの韓国語の実力は劣化しているので、韓国語だけでのコミュニケーションには不安があったが、なんとか小一時間、雑談をするくらいはできた。

どうやらことさら僕に会いたいと言ってきた理由は、僕になにかと便宜を図ってもらいたいということのようだった。

また一つ、面倒なことを引き受けてしまったなぁと頭を抱えてしまったが、他にやれる人がいないのだから仕方がない。

まったく、だれもかれも、こちらの事情を考えずに平気でいろんなことを頼んでくるものだと、僕は嘆息した。

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他己紹介で悶死寸前

5月13日(土)

午前、保育園の保護者会に出席する。

ここ最近、忙しいのと体調がアレなのとで、保育園の送り迎えなどができず、保護者とのコミュニケーションなんぞ、まったくできていない。そのため、保護者の顔を見ても、それがだれの保護者なのか、ということがほとんどわからない。

開始時間の少し前に行くと、すでに後列の座席は埋まっていて、前列しか空いていない。

僕は座る位置を考えた。

前回の保護者会では、ひとりひとり自己紹介をさせられた。その順番が、席の端っこからあたっていたので、僕は席の一番端を避け、端から3番目くらいの席に陣取った。

その後、僕のまわりに父親がかたまって座った。やはり女子は女子、男子は男子でかたまって座るものである。

結局、20人くらいが出席して、そのうちの6人が父親だった。母親たちは、いわゆるすっかり「ママ友」なので、和気藹々と雑談をしているのだが、父親たちは、初対面の人が多く、お互いに何を話していいかわからない。

唯一、飲み仲間らしい2人組がいて、その二人は親しげに喋っていた。

開始時間となり、担任の保育士さんが明るい声で司会をする。「それでは、これから保護者会をはじめ~ます」

「はじめる前に~」

イヤな予感がした。また一人ひとり自己紹介をさせられるのだろうか。

「今回は、他己紹介をしま~す!」

ええええぇぇぇぇっ!!!自己紹介ではなく、他己紹介???

「いまから隣に座っている人と二人ずつペアになってもらいます。4分間、時間を与えますので、その間に、お互いの紹介をしてもらい、それが終わったら、その人の素敵なところについて、30秒で紹介してください」

僕がこの世でいちばん嫌いな言葉が、「他己紹介」なのだ。自己紹介であれば、多少自虐的なことも言えるし、失敗しても自己責任で終わらせられるが、他己紹介となると、他人を巻き込む上に、その人をヘンなふうに紹介できないので、失敗は許されないのである。

…というかこれ、「前の職場」で受け持った1年生向けの最初の授業で、俺自身も学生に向けてやらせてたなぁ。

あのときの学生は、いまの僕と同様に、「他己紹介」といわれてイヤな気持ちになったに違いない。因果はめぐるというか。僕はそのときの学生に心の中で謝罪をした。他己紹介って、こんなにイヤな気持ちになるものなんだね。

あ~ぁ、憂鬱である。

「ハイ!それでは始めてください」

僕は、横に座っているタケル君のパパと、「はじめまして」とご挨拶した。しかし「はじめまして」の後が続かない。

「休みの日は、どんなふうに過ごしているのですか」

「公園に行ったりとかです」

「そうですよねえ」

手持ち無沙汰のまま、時間が過ぎた。

「ハイ!4分たちました。お相手の方の素敵なところについてお話しください!」

ママ友たちは、もともと顔見知りの間柄だし、それぞれの趣味も知っていたりするので、よどみなく他己紹介している。やれBTSがどうのとか、TWICEがどうだとか、ピラティスが、とか、ヨガが、とか、青山が、表参道が…と、ひとり30秒という持ち時間を軽く超えて喋っている。

僕は「タケル君のパパは、料理と庭いじりが好きだそうで、休みの日には公園に行くそうです。ご自宅に庭があるのが素敵です」のひと言。

タケル君のパパは僕のことを「休みの日には映画館に連れて行って映画を観るそうです。うちの子はとても2時間もじっと座っていられないと思います」のひと言。

「みなさ~ん、よくできましたぁ!」

かくして、地獄のような時間が終わった。

その後、保育士さんから保育園の現状について1時間ほど説明があったのだが、その間、園児の座る小さくて固い椅子に座らされていたので、お尻が痛くてたまらず、この時間もまるで苦行だった。

1時間半ほどで、ようやく保護者会が終わり、僕はだれとも挨拶せずに、一目散に帰宅した。

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最終日は雨だった

5月7日(日)

イベント最終日。朝から雨模様である。

最終日を見届けたい、という気持ちと、明日からの撤収作業に備えて体力を温存しておきたいという気持ちの間で揺れ動いていたが、

「せっかくだから見届けたら?」

と家族に後押しされ、結局行くことにした。

職場に近づくにつれて、どんどん雨脚が強くなっていく。

(こりゃあ、今日はだれも来ないな…)

2時間かけて職場に着くと、雨は激しく降っていた。

お昼前に、イベント会場に顔を出す。

(やっぱり人が少ないなあ)

あきらめて会場を離れると、見たことのある顔が。

「よぉ~!」

僕はビックリした。そこに「前の勤務地」の同い年の友人が立っていたからである。

なぜビックリしたかというと、その2日前、娘を「おもしろ自転車」という遊具で遊ばせていたときに電話がかかってきた。その友人からである。

「…ちょっと行けそうにないんだ。ゴメン」

といきなり言うので、これはイベントのことだとすぐにわかった。彼は、僕が今回のイベントを手がけたことを知って、行かなければと思っているのだがどうにも時間がとれそうにない、と前々から言っていたからである。

「大丈夫だよ。その気持ちだけで十分だから」

「でも、俺らの年齢を考えると、こういう大きなイベントを手がけるの、最後なんだろ?」

「まあ、これで最後だ、という気持ちで準備したことはたしかだね」

「あ~、やっぱそうかあ~、あ、いや~、うーん…本当に最後なの?」

「わからない。でもやり切った感はあるからね」

「いや~、そうかぁ~、うーん、申し訳ない」

と言って電話が切れた。

…2日前にそんなことがあったから、まさか最終日に来るとは思っていなかったのである。

「やっぱり、これが最後だ、という言葉が引っかかってねえ。始発で来たよ」

むかしからそうだが、ほんとうに律儀な人である。いままで会った中で、こんな律儀な人は彼をおいてほかにいない。

10分ていど立ち話をして、

「次の予定があるんで」

と、慌ただしく帰って行った。

そのフットワークの軽さも潔さも、いかにも彼らしい。

夕方まで雨の勢いはおさまらなかったが、それでも午後にはそれなりにお客さんが入っていた。

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カウントダウン

5月6日(土)

イベント最終日の前日。

団体客30名ほどが、遠くからこのイベントのためにおいでになることになった。

やんごとなきお方とそのご一行が30名弱、そして、もう一組、別のやんごとなき方のご一行が4~5名ほど、同時にいらっしゃるというのである。

そのご一行30名ほどの前で、「懇談会」と称して、僕を含めたプロジェクトチームの4人が今回のイベントについて1時間半ほどお話ししなければならない。その時間は午後からなのだが、失礼があっちゃいけないと思い、朝から待機し、プロジェクターの動作確認を何度もしたりした。

そうこうしているうちに、11時半になった。予定では、11時半に到着して、各自自由行動をとってもらい、13時半から1時間半ほどが懇談会なので、その時間だけ待機すればよいということだったのだが、そうも言っていられない。11時半に玄関でお迎えして、ご挨拶をして、そのままほったらかしにするわけにも行かないので、イベント会場にみなさんをお連れして、そこで少しの時間説明をする。

「みなさん、お昼ごはんはよろしいんですか?」

と聞くと、

「ええ、バスの中ですませてきましたから」

とのことだった。イベント会場のレストランはお昼になると満席になってしまうので、どうしようと心配していたのだが、杞憂に終わった。

会場での簡単な説明が終わり、ほんのわずかの時間で昼食を済ませ、13時半にイベント会場とは別の部屋で、「懇談会」を行った。懇談会は15時に終了した。

「さあ、記念写真を撮りましょう」

玄関を出て、みんなで記念写真を撮り、ご一行は慌ただしく帰って行かれた。

やれやれ、失礼なことにならなくてほんとうによかったと、一同はホッと胸をなで下ろした。

もう一つ約束があった。高校の吹奏楽部の5年下の後輩が、朝からこのイベントに来場しているのである。通算3回目の来場である。

過去2回は、イベントの関連イベントに参加してくれたのだが、こっちはテンパっていて、ほとんど話をする時間がなかった。そこで、最後にもう1回来場し、時間をとってお話をすることになったのである。

いくら物好きでも、3回もこのイベントに来る人はそうはいない。そこに僕は敬意を表した。

緊張する団体客対応も終わり、ホッとして、小一時間ほど、後輩と話をした。おもにイベントの裏話。打てば響くような対話が、とても心地よく、少しリフレッシュできた。

「こんどは鬼瓦先輩を囲む会をやりましょう」

と、その後輩は言って、会場をあとにした。

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一期一会公園

5月3日(水)~5日(金)

仕事のことを忘れ、完全休養。とはいえ、行きも帰りも片道5時間の渋滞運転はきつい。

2泊3日の短い滞在だが、5歳の娘を飽きさせないように遊ばせなければならない。

2日目、買い物や昼食のために山を下りた町に「運動公園」という広々とした公園があり、その中に「子どもの遊び場」という区画があるのを見つけた。どんなところかわからないが、とりあえず行ってみようということになった。

広大な運動公園である。しかも自然の豊かなところで、なかなか心地よい。その一角に、小さな「子どもの遊び場」があった。

すべり台、ブランコ、鉄棒、回転ジャングルジムなど、お決まりの遊具が多いのだが、すべり台はジャングルジムやアスレチックとの合わせ技というか、複雑な構造を持っていて、子どもたちを飽きさせない。

娘をひとりで遊ばせていたら、同い年くらいの、ちょっとませた子が、話しかけていた。

「名前は何て言うの?」

娘は内弁慶なところがあり、知らないお友だちに声をかけられると、とたんに口数が少なくなるのだが、名前を答えると、そのお友だちは立て続けに質問を続けた。

「どこから来たの?」

「ひとりなの?」

「…うん」

「わたしはねえ、4人きょうだい」

なるほど、そのお友だちは4人きょうだいだから、物怖じせずにコミュニケーションがとれるのだな。

「4人きょうだいなの?あなたは何歳?」

と僕が聞くと、

「6歳。で、おねえちゃんは8歳と10歳、おとうとは4歳」

と、これまた物怖じせずに答えてくれる。

対するうちの娘は、そこで同じテンションになるわけでもなく、誘われるがままに、そのきょうだいたちの後を追いかけながら、一緒に遊びはじめた。

じっと観察していると、その4きょうだいは活発に動きまわっているのに対して、娘はややどんくさい。たぶん僕に似たのだろう。

それでも、その4きょうだいたちは、リアクションの低いうちの娘に飽きることなく、一緒に遊びを続けている。

「ねえ、友だちになろう」

「うん」

いつしかその子たちと娘は友だちになっていた。

聞いてみると、その子たちもこの公園にはじめて来たという。地元の子どもではなく、こちらと同じで、旅行をしていてたまたまこの公園を見つけたのだろう。

そうこうしているうちに、夕方になり、そろそろ帰る時間になった。

「明日も来る?」と娘が聞くと、

「明日は来ない」とその子たちは答えた。当然、娘も明日は来ない。つまり、一期一会の友だちなのだ。

「子どもの遊び場」を出て、駐車場まで一緒に歩き、それぞれの車に乗り込もうとしたら、このだだっ広い駐車場の中で、車を隣どうしに停めていたことがわかった。

「すごい偶然だね」

みんなが車に乗り込み、お別れの挨拶である。

車の窓を開けて、隣の車に向かって娘が力一杯叫ぶ。

「ばいば~い、また会おうねぇ~。○○ちゃんの名前、忘れないでねぇ~」

向こうの車のお友だちも、「ばいば~い」と力強く叫んで、それぞれの車は反対方向に走った。

「また会えるかなぁ…」

きっとどこかで会えるさ。

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恩師に会う

5月1日(月)

高校時代、3年間担任だった先生が、いま開催中の僕のイベントを、わざわざ見に来てくれた。

恩師は、5年半ほど前に死んだ父と同じ年の生まれだから、もう82才である。

イベント会場に行くと、すでに先生は到着されていて、会場内の椅子に座って休んでいた。

「疲れちゃってねえ」

それはそうだろう。先生のご自宅のある場所からうちの職場までは、電車を乗り継いでゆうに3時間以上かかるのだ。

ちょうどお昼時だったので、先生と職場内のレストランに入り、昼食休憩を取りながら1時間ほど喋った。

僕が、これまでの自分の病気と、いまの体調の話をしたら、たいそう驚いておられた。

「先生と久しぶりにお会いしたのは、たしか2018年くらいだったでしょうか」

「そうだね」

「あのときは、すでに大病を患ったあとだったのです」

「そうだったのか。ちっとも知らなかった」

先生は先生で、ご自身のご病気や体調のことをお話しになった。僕が高校生の頃から、というより、幼い頃から抱えている身体の不具合についてお話になった。

「知らなかったでしょう?」

「ええ、まったく知りませんでした」

「だって、そう悟られないようにしていたから」

しかし、不具合の部分があるご自身の身体と長年つきあい、それによってご自身の身体をよく知り、次々と訪れる困難を未然に防ぐことができるようになった、ともおっしゃっていた。

「同じクラスだったIさん、覚えてる?」

「Iさん?」

その名前を聞いて、最初はピンとこなかった。しかし話しているうちに、その同級生のフルネームや顔を思い出し、しかも名前の漢字まではっきりと思い出したのだから不思議である。

「Iさんの旦那さんがね…。コロナウィルスがまん延し始めた頃、コロナウィルスに感染してたちまち亡くなってしまったそうなんだ」

「…そんなことがあったのですか」

Iさんの夫というのは、僕の年代とそう変わらないのだろう。

「遺体とも面会できないし、子どもたちと一緒に途方に暮れたそうだ」

「…そうだったんですか」

「いまでも彼女は僕のところに電話をよくくれてね。長電話をするんだ」

Iさん、どちらかといえばクラスでそれほど目立った存在ではなかったが、ずっと先生を頼りにしていたんだな。

食事が終わり、席を立とうとすると、

「…がんばりなさい」

と、先生が僕に力強い声でおっしゃった。ふだんはボソボソとお話しする先生にはめずらしい、力強い言葉だった。たぶん、僕の病気の話を聞いたからだろう。

「がんばります。…なにしろ僕の信条は、『平気で生きる』ですから。これ、正岡子規の言葉なんです」

「『平気で生きる』、いい言葉だ」

杖を持って立ち上がった先生は、テーブルの伝票をサッととりあげて、二人分の会計を済ませてしまった。ほんとうは僕が支払わなければいけないのに、いつまで経っても僕は生徒なのだ。

イベント会場に戻り、時間の許す限り、イベントの説明をして、お別れをした。

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