オダジマおじさんの諦念指南
コラムニストの小田嶋隆さんが亡くなってちょうど1年がたつ。
小田嶋さんの没後に刊行された『諦念後 男の老後の大問題』(亜紀書房、2022年)は、亡くなる4年前の2018年7月から1年ちょっとにわたって、集英社の『青春と読書』に連載されていた文章をまとめたものである。
「『青春と読書』ってタイトル、ダサいですよねえ」
と、やはりこの雑誌に連載を持っていた武田砂鉄氏が言っていたが、小田嶋さんもそう感じていたのかもしれない。「青春」ではなくあえて「老後」を連載のテーマにしたのである。
僕はまだ老後といわれる年代ではないが、体力的にも気分的にもすっかり老後だし、少なくとも老後への心構えが必要だと思っているので、この本をそのための指南書だと思って読んだ。
この本は、「コラム」ではなく「エッセイ」である。「コラム」というのは、対象が社会事象であるが、「エッセイ」は対象が自分自身に向かっている。小田嶋さんの主戦場である「コラム」とはひと味違い、自分が体験したことについて思考を巡らす文章なのだが、この文体が、実にキレッキレなのである。
どれも面白いエピソードなのだが、「卒業後40年を経て、同窓会に出席してみた」は、アラフィフの僕にも非常に共感できるエピソードである。
ほとんど同様の内容を酒井順子さんが『ガラスの50代』というエッセイで書いていたが、小田嶋さんの文章はもっと口が悪い。
「別の言い方をすれば、公立半端進学校の大規模同窓会は、それなりの大学を出た先に勤めたそれなりの会社でそこそこの出世を果たした人間でないと顔を出せない結界なのである」
「ってことは、オレらの世代の人間にとって同窓会というのは、互いに知り合っておいて損のないエリート同士が、生臭い情報交換をしつつ互いの自慢話を披露し合う出世サロンの如きものなのだろうか」
「とはいえ、大規模同窓会組織の中枢をなすエリート連中よりずっと仲が良かったはずの同じクラスの仲間が、時を経て話してみると、これが残念なことにどうにも面白くない」
「特に男は、どれもこれも、自分の会社で知り得た範囲のおよそ外部の人間には興味の持てそうにない話を繰り返すばかりだったりする。ついでに申せば、社内でそこそこの地位にいて、部下に話を聞いてもらえるのがデフォルトになっているせいなのかどうか、話しっぷりがやけに偉そうだったりする。しかも、他人の話を聞かない。
『おい』
私は何人かと話して、本気でびっくりした。
『会社生活というのは、こんなにもあからさまに一人の高校生をつまらないクソ親父に変貌させてしまうものなのか?』」
同窓会やクラス会に参加する人たちを、全方位に敵に回しているのがたまらなく可笑しい。
僕が通っていた高校も公立半端進学校だったから、たまに送られてくる同窓会誌を見る限りでは同じ現象が起こっていることが容易に想像できる。それをこんな感じで文章化してくれるのはひとえに痛快と言うほかない。
「ひまつぶしのために麻雀を打ってみた」では、こんなことも書いている。
「早い話、酒さえ飲んでいれば、向かい側に座っている人間は誰であってもかまわないということである。
なんなら犬だって差し支えない。
『まあ、アレだ、オダジマ君、一緒に飲む液体が酒だったら相手がどんなバカであっても苦にはならないってことだよ』
と、ずっと昔、よく一緒に飲んだ大酒飲みの先輩が言っていたものだが、たしかに酒飲みは相手を選ばない。どうせ先方の話なんか聞いちゃいないわけだし、自分は自分で飲んで好き勝手なオダをあげるだけの話だからだ。
先輩の話はもう少し続く。
『ところが、だ、オダジマ君。一緒に囲むテーブルに並べられている飲み物がお茶だのコーヒーだのってことになると、これはもう相手がバカだと間が持てない。わかるか?(略)』
実際そのとおりだろう。だからこそ、ソフトドリンクで3時間話題が尽きない相手を『友だち』と呼ぶのだ」
数年前にお酒をスッパリやめてしまった僕には、このことがよくわかる。
かくして痛快極まりない文章が続くのであるが、全体を通して読むと、ゆっくりと人生の終焉を迎えるように、各エピソードがつながっていく。
そして、「あとがきにかえて」で、小田嶋さんのお連れ合いの小田嶋美香子さんがこんなことを書いている。
「…あらためて読み直しましたところ、家族としては、何とも胸が締めつけられるような内容でありました。
というのも、意図したか意図せずかわかりませんが、それまでの文章ではなかなか見られない、等身大の隆氏が諦念へと向かう、さまざまな上にもさまざまな心の動きが、本人によって文中に描き出されていたからです。それも、結果的には亡くなる前、数年の。」
軽妙に書いている一つ一つのエピソードが、いまとなっては胸が締めつけられる思いがする、という気持ちは、長らく愛読者だった僕にも、よくわかる。
「意図したか意図せずかわかりませんが」とあるが、小田嶋さんは絶対に意図して書いていたと思う。それは、「定年後」のダジャレとして使っている「諦念後」というタイトルは、一見照れ隠しのようでいて、実はほどなく訪れるであろう人生の終焉に対して自分に言い聞かせていた言葉だったのではないかという気がするからである。
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