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2023年6月

オダジマおじさんの諦念指南

コラムニストの小田嶋隆さんが亡くなってちょうど1年がたつ。

小田嶋さんの没後に刊行された『諦念後 男の老後の大問題』(亜紀書房、2022年)は、亡くなる4年前の2018年7月から1年ちょっとにわたって、集英社の『青春と読書』に連載されていた文章をまとめたものである。

「『青春と読書』ってタイトル、ダサいですよねえ」

と、やはりこの雑誌に連載を持っていた武田砂鉄氏が言っていたが、小田嶋さんもそう感じていたのかもしれない。「青春」ではなくあえて「老後」を連載のテーマにしたのである。

僕はまだ老後といわれる年代ではないが、体力的にも気分的にもすっかり老後だし、少なくとも老後への心構えが必要だと思っているので、この本をそのための指南書だと思って読んだ。

この本は、「コラム」ではなく「エッセイ」である。「コラム」というのは、対象が社会事象であるが、「エッセイ」は対象が自分自身に向かっている。小田嶋さんの主戦場である「コラム」とはひと味違い、自分が体験したことについて思考を巡らす文章なのだが、この文体が、実にキレッキレなのである。

どれも面白いエピソードなのだが、「卒業後40年を経て、同窓会に出席してみた」は、アラフィフの僕にも非常に共感できるエピソードである。

ほとんど同様の内容を酒井順子さんが『ガラスの50代』というエッセイで書いていたが、小田嶋さんの文章はもっと口が悪い。

「別の言い方をすれば、公立半端進学校の大規模同窓会は、それなりの大学を出た先に勤めたそれなりの会社でそこそこの出世を果たした人間でないと顔を出せない結界なのである」

「ってことは、オレらの世代の人間にとって同窓会というのは、互いに知り合っておいて損のないエリート同士が、生臭い情報交換をしつつ互いの自慢話を披露し合う出世サロンの如きものなのだろうか」

「とはいえ、大規模同窓会組織の中枢をなすエリート連中よりずっと仲が良かったはずの同じクラスの仲間が、時を経て話してみると、これが残念なことにどうにも面白くない」

「特に男は、どれもこれも、自分の会社で知り得た範囲のおよそ外部の人間には興味の持てそうにない話を繰り返すばかりだったりする。ついでに申せば、社内でそこそこの地位にいて、部下に話を聞いてもらえるのがデフォルトになっているせいなのかどうか、話しっぷりがやけに偉そうだったりする。しかも、他人の話を聞かない。

『おい』

私は何人かと話して、本気でびっくりした。

『会社生活というのは、こんなにもあからさまに一人の高校生をつまらないクソ親父に変貌させてしまうものなのか?』」

同窓会やクラス会に参加する人たちを、全方位に敵に回しているのがたまらなく可笑しい。

僕が通っていた高校も公立半端進学校だったから、たまに送られてくる同窓会誌を見る限りでは同じ現象が起こっていることが容易に想像できる。それをこんな感じで文章化してくれるのはひとえに痛快と言うほかない。

「ひまつぶしのために麻雀を打ってみた」では、こんなことも書いている。

「早い話、酒さえ飲んでいれば、向かい側に座っている人間は誰であってもかまわないということである。

なんなら犬だって差し支えない。

『まあ、アレだ、オダジマ君、一緒に飲む液体が酒だったら相手がどんなバカであっても苦にはならないってことだよ』

と、ずっと昔、よく一緒に飲んだ大酒飲みの先輩が言っていたものだが、たしかに酒飲みは相手を選ばない。どうせ先方の話なんか聞いちゃいないわけだし、自分は自分で飲んで好き勝手なオダをあげるだけの話だからだ。

先輩の話はもう少し続く。

『ところが、だ、オダジマ君。一緒に囲むテーブルに並べられている飲み物がお茶だのコーヒーだのってことになると、これはもう相手がバカだと間が持てない。わかるか?(略)』

実際そのとおりだろう。だからこそ、ソフトドリンクで3時間話題が尽きない相手を『友だち』と呼ぶのだ」

数年前にお酒をスッパリやめてしまった僕には、このことがよくわかる。

かくして痛快極まりない文章が続くのであるが、全体を通して読むと、ゆっくりと人生の終焉を迎えるように、各エピソードがつながっていく。

そして、「あとがきにかえて」で、小田嶋さんのお連れ合いの小田嶋美香子さんがこんなことを書いている。

「…あらためて読み直しましたところ、家族としては、何とも胸が締めつけられるような内容でありました。

というのも、意図したか意図せずかわかりませんが、それまでの文章ではなかなか見られない、等身大の隆氏が諦念へと向かう、さまざまな上にもさまざまな心の動きが、本人によって文中に描き出されていたからです。それも、結果的には亡くなる前、数年の。」

軽妙に書いている一つ一つのエピソードが、いまとなっては胸が締めつけられる思いがする、という気持ちは、長らく愛読者だった僕にも、よくわかる。

「意図したか意図せずかわかりませんが」とあるが、小田嶋さんは絶対に意図して書いていたと思う。それは、「定年後」のダジャレとして使っている「諦念後」というタイトルは、一見照れ隠しのようでいて、実はほどなく訪れるであろう人生の終焉に対して自分に言い聞かせていた言葉だったのではないかという気がするからである。

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デジタル化社会(笑)

6月27日(火)

大変な事態が起きている。

打ち合わせにめずらしく職員さんが遅れてやってきた。この打ち合わせというのは、数日後に行われる会議の下準備のためにおこなわれるもので、会議当日に配布する資料を検討・修正して、本番までに正式な会議資料を作り、会議の段取り(DDR)を考える、といったことをする。僕が会議の議長なので、僕もその打ち合わせに出なければならないのだ。

遅れるだけでなく、その会議資料の草案というのも、いつもにくらべてかなり不十分な仕上がりである。いつも堅実な職員さんが、一体どうしたのだろう?

「すみません」

「何かあったのですか?」

「実は…」

と、その職員さんが話し始めた内容というのが、実に驚くべきものだった。

うちの職場に限らず、うちと同業種の会社では、全国的に、「紙の刊行物」を廃止して、デジタル化を進める方向にある。かくいううちの職場も、その流れに与している。

で、そのデジタル化のシステムというのは、ほぼ全国の同種の会社がこぞって、ある一つの機関から提供を受けている。いわば、全国の会社が、そのシステムに頼ってデジタル化を進めていると言ってよい。

で、そのデジタル化のシステムが、この6月にバージョンアップすることになり、バージョン2からバージョン3に移行するという通達が来た。

しかし、このバージョン3というのがくせ者で、バージョンアップした途端、とんでもない不具合を生じた、というのだ。

たとえば、ある言葉を検索にかけると、不正確な検索結果が出る、とか、日本語で検索しているのに、検索結果がなぜか英語で出てくる、とか、人の名前を漢字で検索すると、なぜかカタカナになって出てきたり、とか。

職員がその問題点をまくし立てるようにしゃべるので、聞いていて、どういう状況なのか今ひとつわからないところもあるのだが、とにかく、バージョン3というのが、正常に動作していない、ということだけはよくわかった。

うちの職場だけなのだろうか、と思って、システム提供元に問い合わせをしてみようと、問い合わせフォームみたいなところをのぞくと、すでに全国の同様の会社から、システム提供元に対して、「更新したシステムに不具合があるのでなんとかしてください」という問い合わせが、山のように来ていることがわかった。つまり、うちの職場だけの問題ではなく、明らかにシステムそれ自体に不具合があるのだ。

しかし、当のシステム提供元は、自分たちの責任ではない、といわんばかりに、「もし不具合がある場合は、このマニュアルに沿って修正してください」みたいな回答が来る。つまり、現場でなんとかしろ、というわけだ。

えええぇぇぇっ!!明らかにもとのシステムじたいに不具合があるのに、何で現場レベルで個別に修正しなければならないのか?システム提供元から提供されたそのマニュアルというのも、きわめてわかりにくいもので、およそ現場でスムーズに対応できるようなマニュアルではない。

しかし、放っておいたらおいたで、利用者が不便な思いをするし、混乱を招くことになる。仕方がないので、現場の職員が手作業で一つ一つのデータについて修正することになる。結果的に無駄な仕事が増え、肝心な仕事に取りかかれないという本末転倒な事態になる。

ここまで書いて、わかったかな?書いている僕自身はよくわかっていないのだが。

とにかく、現場があまりに理不尽な仕打ちを受けているので、システム提供元に「いったん白紙に戻して、システム自体を再構築してからバージョンアップしたらどうですか?」と進言する会社がいくつもあるそうなのだが、システム提供元は、聞く耳を持たないという。

こりゃあ、署名でも集めて直談判するしかないんじゃないか、という動きもあると聞いて、いよいよ事態の深刻さを実感した。

この事案は、あまりにわかりにくい話だし、多くの人々にとってはあまり関係のないことだから、ニュースで取り上げられることはないのだが、しかしながら重大な問題であることには違いない。

ここまで読んだ賢明な読者はおわかりだろうか。これは、今直面している、マイナンバーカードのシステムの不具合とそれに対する対応の仕方と、うり二つである。

これはいったい何を意味するのか。

この国のデジタル化事情が、マイナンバーカードに限らず、そもそもきわめてお粗末な状況である、ということ。

システムの不具合に対して「システムに問題はない」とかたくなに信じていることもまた、この国の「デジタル話法」である。その結果、しわ寄せが来るのはいつも現場の人間である。

つまり、マイナンバーカード問題は、この国のデジタル化のお粗末な事情に照らして、起こるべくして起こった騒動なのである。似たような騒動は、見えないだけで至るところで起こっているのだ。

菅原文太さんが生きていたらこう問いかけるだろう。

「デジタル化って、何かね?」

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のどかな空間

6月25日(日)

昨日から1泊2日で、久しぶりに飛行機を利用して出張をした。いちばん心配なのは健康面で、1人での移動だから、もし途中で不測の事態が起こったらどうしようと心配したが、幸い、ひととおりの予定をこなして、無事に帰ってきた。

出張の本務は今朝からだったので、極端なことを言えば、前日の夜に用務地に着けばよいのだが、せっかくなので、昨日は早朝に家を出て寄り道をすることにした。以前から行きたい場所があったのである。

そこは、2年ほど前にオープンした公共施設で、空港から在来線に乗って1時間ほどのところにある。僕はそこにお昼頃に着き、半日ほどその空間で過ごした。時間がのんびりと過ぎていくような、のどかな場所だった。

その公共施設は、じつはデリケートな問題をテーマにしていて、オープン当初から、そのコンセプトやイベントの手法に対して賛否があったことをなんとなく知っていた。なので事前に、その公共施設ができるまでのさまざまな議論や準備の過程について、少しばかり勉強したうえで訪れることにした。

というのも、この公共施設のコンセプトを批判するある評論家の文章が、以前から気になっていたからである。その評論は、「痛烈」といってもいいほどの批判であり、その内容はきわめて「正論」のように僕には思えた。実際、その評論家の言辞に賛同する人も多く、その公共施設自体の評価を左右しかねないほどの影響力を持っていた。しかしながら、どうしてもその評論家の文章に対して違和感を拭いきれず、その違和感がどこから来るものなのか、自分自身で確かめたかったのである。

事前に少し勉強してのぞんだことで、僕が抱いていた違和感の理由が少しわかってきた。それは、この公共施設を作るにあたって、現場の人間が、相当時間をかけて議論し、葛藤し、思い悩みながら準備を進めてきたことに対する配慮が、この評論では微塵も感じられなかったことである。表象だけを切り取った批判なのではないだろうか。そこに僕は、違和感を抱いたのかもしれない。

実際に訪れたその公共施設は、じつに心地よい空間だった。そこで大小さまざまなイベントをおこなっているスタッフのホスピタリティーは素晴らしく、そのことじたいはその評論家も認めている。ただしその評論家はそのホスピタリティーの質を遊園地のそれになぞらえていた。僕はそうは思わなかった。スタッフの口から語られる言葉は、その公共施設のコンセプトに共鳴して、学びをし、思考を経た上でのちゃんとした言葉だったと僕には思えたのである。

今日おこなわれた本来の用務で、たまたまその公共施設の若いスタッフの人と名刺交換してひとこと言葉を交わすことができた。

「昨日、拝見しましたよ。初めてうかがいましたが、とてもよかったです」

「そうですか。ありがとうございます。でも、まだまだなんです…もっとがんばらないといけません」

謙遜、というよりも、おそらく賛否があることは重々承知の上で、それをどのように解決していったらよいのかを煩悶しているように思えた。

表象を切り取って批判することはたやすい。しかしその背後にある、現場の葛藤や煩悶や工夫や努力にも、思いを致さなければならない。そのための建設的な批判であれば、それは当然受け入れるべきだろう。

…と、ここまで書いて思いだした。その評論家は、以前にうちでおこなったイベントについても批判をしていた。そして興味深いことに、そのときの批判の言辞が、この公共施設への批判とそっくりそのまま共通していることに気づいた。曰く、「マイノリティへの行動を促すだけでマジョリティの責任を問わないのは問題だ」と。その一点の切り口によってのみ、さまざまな表象を批評の対象にしてきたのではないだろうか。だがそれによって、それぞれが持つさまざまな文脈が切り捨てられることになりはしないか。現場の人間の苦悩や葛藤も、その力強い正論の前にあっては、たちまちかき消されてしまうのではないだろうか。同じスローガンによってのみ批判するのは、評論ではなく運動である、…というのは、ちょっと言い過ぎだろうか。

いずれにしても、僕がこの評論に違和感を抱いたのは、かつてうちのイベントが批判されたときに感じた違和感と同じだったからだと、僕はこの文章を書いてみて溜飲を下げたのである。

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気兼ねなく書ける場所

以前にも書いたが、僕にとっての究極のラジオ番組は、近石真介さんの「はがきでこんにちは」である。

僕が小学生の頃だから、もう40年以上も前、TBSラジオの平日の朝の生ワイド番組を担当していたのが近石真介さん。10年近く続いた番組が一旦終わり、別のパーソナリティーがそのあとの番組を担当したが、結局、ほどなくして近石さんの朝の生ワイド番組が復活した。つまりそれほど安定感があり、その時間になじんでいた。しかし復活してから2年で降板してしまった。演劇に専念したい、とかそういう理由だったと記憶している。当時NHKラジオで担当していた夜の生番組も同時にやめたと記憶しているから、文字通りラジオパーソナリティーの第一線から退いたというわけである。そのときの喪失感といったらなかった。

その後、近石さんがワイド番組を担当することはまったくなくなったが、唯一、ほそぼそと続けていたラジオ番組が、「はがきでこんにちは」という5分番組だった。もともと朝の生ワイド番組の1コーナーだったのだが、このコーナーだけひとつの番組として独立させて、亡くなる2年前の2020年10月に至るまで、じつに50年近くも続けた。毎回1枚、リスナーからのはがきを読み、それに対して近石さんがコメントを言う、というじつにシンプルな番組だった。

面白いのは、この番組はTBSラジオが制作しているにもかかわらず、キー局であるTBSラジオでは放送されなかったことである。限られた地方ラジオ局でしか聞くことができないレアな番組だった。これは、その後継番組の「おたよりください」もまったく同じである。現在、「おたよりください」のパーソナリティーは伊集院光氏だが、テーマ曲から番組の構成に至るまで、「はがきでこんにちは」の時とまったく変わっていない。ちなみに伊集院光氏も、近石真介さんと同じ時間帯のTBSラジオの朝の生ワイド番組を担当していたが、1年ほど前に降板し、いまはまわりまわって近石さんの後継番組を担当している。縁とはまことに異なものである。

何が言いたいかというと、なにかと窮屈なワイド番組を続けることをやめた先には、届きにくい場で、本当に聴きたい人だけに向けた究極にシンプルな番組に行き着くのではないか、という仮説である。「はがきでこんにちは」は、文字通り近石真介さんのライフワークになった。シンプルで気兼ねなく喋れたからこそ、長く続いたのである。伊集院光氏の「おたよりください」も、できればライフワークにしてほしい。

…というのが前説。

先日、1冊の本が送られてきた。僕が憧れている究極のミニコミ誌のバックナンバーが、なんと合本して復刻されたのである。僕もこのミニコミ誌には2回ほど原稿を書いたことがあり、その後どうなったのだろう、まだ続いているのかな?とすごく気になっていたのだが、合本して復刻されるとは思わなかった。B4を2つに折った4ページ分にしたシンプルな形態で、最初は年4回くらい発行するつもりだったそうなのだが、気がつくと書くことがありすぎて、毎月発行となったのだという。すでにかなりの号数になっている。読者は10名程度だそうで、書きたい人が書くという自由なスタンスが、長続きした秘訣だろう。

僕も原稿を書いたことがあるという縁で、わざわざ送っていただいたのだが、読んでいくうちに、自分もまたこのミニコミ誌に書いてみたいという衝動に駆られたから不思議である。

「大歓迎です。どうぞ書いてください」

と言われたので、調子に乗って1500字ていどの短い随筆を一晩で仕上げ、さっそく送信した。不思議なもので、職業的文章は全然書けないのだが、こういう原稿ならばすぐに書ける。書いていて楽しいのである。そうか、だからこのミニコミ誌は読者がほとんどいない(というか想定していない)にもかかわらず、毎月発行してもネタが尽きないのだな。近石真介さんが「はがきでこんにちは」で、肩肘張らずに楽しくお喋りすることで長続きできたのと、まったく同じ理屈である。しかも、だれに気兼ねすることもなく、である。

僕がさっそく原稿を送ると、「どうでしょう、こうなったら会員になりませんか?」とお誘いを受けた。願ってもないことである。

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メガネじゃねえし!

6月19日(月)

「あまちゃん面白かったね」

夜、帰宅したあとに5歳の娘はひとしきり四方山話をしてくれるのだが、その中の話題の一つが、「あまちゃん」のことだった。

娘はいま、かなりの数のテレビドラマを観ている。再放送の「あまちゃん」、いま放送中の「らんまん」、「どうする家康」「LASTMAN」「PendingTrain」「王様に捧げる薬指」「合理的にあり得ない」、アニメの「青のオーケストラ」「教場0」等々である。

この中で僕がかろうじて追いついて観ているのが「あまちゃん」なのだが、ほかは全然追いついていないし、そもそもそれほど観たいとは思わないドラマもある。

言ってみれば、共通の楽しみが「あまちゃん」を観ることなのである。

「あまちゃんは、面白いでしょう」

「そうだけど…」そういう意味じゃない、ということらしい。

「パパも観たでしょ?『黙れ!このメガネ!』『メガネじゃねえし!メガネとったらメガネじゃねえし!』」

そう言って娘はゲラゲラ笑った。先週観たワンシーンである。

小泉今日子扮する主人公「あきちゃん」(のん)の母親と、オタク風情の男(村杉蝉之助)とのやりとりの場面である。

「自分の娘をこんな人たちの好奇な目にさらしたくない!」

「そんな目で見てねえし!」

「うるさい!黙れメガネ!」

「メガネじゃねえし!(顔からメガネをはずして)メガネとったらメガネじゃねえし!」

とりわけこの最後のセリフを、娘は繰り返し言っては笑っていた。

ひとしきり笑った後、娘は言った。

「でも…『メガネ』って言っちゃ、よくないよね」

僕はその言葉にハッとした。

「よく言った!そのとおり!ちゃんと名前で呼ばないとね!」

「そうだね」

「もし○○ちゃんが、『メガネ』って言われたらどうする?」娘は実際、メガネをかけている。

「イヤだ」

「そうだよね。保育園でお友だちに言われたことある?」

「ない」

でもたしか眼科の先生は、いまは大丈夫でも、この先小学校に上がったりすると、メガネをかけていることが後ろめたく感じることがあるかもしれない、と言っていた。

思い出してみると、僕が小学生の頃、クラスの中でメガネをかけている子が1人いたが、「ほかの子と違う」という理由だけで僕を含めたみんながその子を異端視していた。「やーい、メガネ!」と揶揄していたことがあったかもしれない。あのときのあの子に謝りたい。

いまではそこまではっきりとした差別はないのかもしれないけれど、まったくなくなったわけでもないだろう。

「これからさあ、もし○○ちゃんのことを、名前ではなくて『メガネ』って呼んだら、あまちゃんを思い出して『メガネじゃねえし!メガネとったらメガネじゃねえし!』って言い返すんだよ」

「うん」そう言うと、メガネを外して「メガネじゃねえし!メガネとったらメガネじゃねえし!」と自主練をはじめた。

「それから、○○ちゃんもほかのお友だちに『メガネ』って呼んじゃダメだよ。ちゃんとそのお友だちの名前を呼ぶんだよ」

「うん、わかった」

そんな娘はいま、「夜に口笛を吹くとヘビが出る」という迷信にひどく怯えている。

寝たと思った娘が起きてきて、

「いま、口笛吹いちゃった…。ヘビが出るんでしょ?怖いよ~」娘はほとんど泣きそうである。

「パパが見張っているから大丈夫だよ。もし蛇が出てもサッと捕まえるから」

そう言って蛇を一瞬で捕まえる、と言う動作をしてみせた。

「ほんとうに大丈夫?」

「大丈夫だよ」

娘はしばらくこの呪縛から逃れられないのだろうか。ちょっと脅かしすぎたことを反省した。

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ワンオペDDR

6月15日(木)

今日から2日間、某国から5名のお客さんがうちの職場を訪問する。僕が最初から最後まで、一人でアテンドしなければならないのがツラい。

2日間のスケジュールを考え、そのために必要なことを職場の中で根回しをし、必要な資料を作成し、それを人数分コピーして封筒に詰める、といった準備作業をして、ようやく当日を迎えた。

午前9時半過ぎにご一行は到着し、午前中は3時間ほどの座学を行う。そして昼食休憩をはさんで、午後は3時間、休憩なしの立ちっぱなしの研修を行い、もう最後の方は疲れてしまい説明すべきことを端折ったりして、何を喋っているかわからなくなった。

そしてそのあとは懇親会である。体調を考えるとできれば遠慮したかったが、ホストなのでそうも言っていられない。懇親会は2時間半に及んだ。

唯一の救いは、今回の来日で通訳をつとめた日本に留学経験のあるKさんである。

僕も言葉がわからないし、先方の訪問団のボスもまったく日本語がわからない。Kさんは命綱なのである。そのKさんは、日本語の通訳が完璧にうまいというわけではないのだが、人柄がとてもよく、「愛すべきキャラクター」といえる。そのことで、私もアテンドのモチベーションを保つことができたといえる。

しかし、不思議なもので、まったくわからない言語でも、注意深く聞き続けていると、なんとなく単語の意味がわかってくるし、単語の意味がわかってくると、話の文脈がなんとなく推測できるようになってくる。ちょっと某国語を勉強しようかな、という気になるから不思議である。たぶん忙しくてやらないだろうけれど。

6月16日(金)

午前中の研修の段取り(DDR)に思いのほか時間がかかることがわかった。もっと前から準備しておけよ、と言われるかも知れないが、管理が厳重なので、前もってDDRしておくわけにはいかないのである。

仕方がないので、お客さんが来てから、DDRを始めることになる。なにしろワンオペなので、お客さんの相手をしながら、DDRもするという離れ業はかなり難しい。少しお待たせすることになってしまった。

待てよ、DDRにこれだけ時間がかかるということは、撤収にも時間がかかるということか。午後には午後で別のDDRがあるので、午前にDDRしたものはお昼休みのうちに撤収しておかないと、後々たいへんなことになる。ということで、午前の部が終了するとお客さんたちに対しては少し長めの昼食休憩を取ってもらうことにし、その間に僕が一人で撤収をすることになった。そして撤収のあとは、引き続き午後のDDRである。このDDRも思いのほか時間がかかり、結局昼食をとることができなかった。

午後の研修もなんとか形になってめでたしめでたしだったのだが、こんどもまたひとりで撤収作業をしなければならない。その間、自由時間ということでお客さんたちを職場見学をしてもらうことにした。

必死に撤収作業をして、客人の控え室に向かうと、約束の時間にだれもいない。

しばらくして客人の一人が、

「すみません。職場見学が面白くてもっと見学したいので、もう少し時間をください、とボスが言っています」

「いいですよ」

結局、予定の時間を1時間ほど延長して、2日間のワンオペDDRは大団円を迎えた。

この「2日間耐久DDR」を、ひとりでやり遂げた自分を褒めてあげたい。

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永遠のリスケ

6月13日(火)

リスケ」って言葉、最近は使われているの?あんまり聞かないような気がするけど。

僕はいろいろな自治体のなんとか委員みたいなことをやっているのだが、委員全員の日程を合わせて会議の日を設定する、というのはどうも至難の業らしい。

そりゃそうだ。みんな本業が忙しい上に、そういう委員を頼まれているような人は、ほかでも委員を頼まれている場合が多いから、まず円満に日程が決まる、なんてことはあり得ないのである。

ある自治体から、委員6名に宛ててメールが来た。6月中に会議を開催したいので、ついては添付のExcelファイルに、都合のよい日に○、悪い日に×を付けてほしい。このたびは、オンラインと併用で会議を行うつもりなので、対面は×でもオンラインなら○という方は、その旨明記してほしい、という。

この「日程表に○×を付ける」という行為自体が、ひどく疲労する行為である。手帳を引っ張り出して、その日に自分は対面で参加できるか、それともその日は別のところにいるけれどもオンラインで参加できるか、あるいは別のところで別の会議をしているのでオンラインも無理か、といったようなことをいちいち考えながら○×を付けていかなければならないのである。

ようやく○×を付け終わって事務局に送ったら、しばらくしてメールが来た。件名には「再調整」とある。

「6月がみなさまお忙しいようで、6名全員が参加できる日程がありませんでした」

えええぇぇっ!!6名って、決して多い人数ではないのに、しかも対面とオンラインの両方から選べるという条件にもかかわらず、まったく日程が合う日がなかったのか!

「つきましては、再度7月前半のご都合を伺いたく存じます」

出た!リスケだ!

再び、同じ様式のExcel表に、対面とオンラインの両方について、○×をつけて提出をした。

するとほどなくして「お詫びと訂正です」というメールが来た。先ほどの日程調整表の体裁に不備があったという。

仕方ない。書き直して送る。

数日後、「再々調整」と題するメールが来た。

「残念ながら7月前半のご都合も合わず、日程を決定することができませんでした。そこで、再々度のご都合を伺いたいと存じます」

うーむ。めんどくさいなあ。

入力をすませて送ったところ、ほどなくしてまた「お詫びと訂正」のメールが。今回もやはり、日程調整表の体裁に不備が見つかったという。

「確認もせず慌てて送信してしまいました」とあり、先方もよっぽど焦っているのだな、という様子がうかがえた。

ここまできたら、委員全員が都合が合う日程なんて永遠に設定できないんじゃないの???

全員参加にこだわらなくてもよいのではないか、という気がしてきた。そもそも、ヘタに全員が参加すると、議論の収拾がつかなくなることを、経験的に知っているのだ。

まあ僕はペーペーだし、そんなことを提案できるような立場にはないから、事務局が考えていることを尊重しなければならない。

はたして7月後半で決着がつくのか?まだ結果は来ていない。

そうこうするうちに、今日また、別の自治体から会議の「リスケ」が来た。

先日、7月後半~8月前半の間で会議を開こうと思ってご都合をお聞きしたが、委員全員が揃う日がなく、あらためて会議を8月後半~9月の間で再調整したい、という内容である。添付されていたWordファイルには、1カ月半分のカレンダーがあり、僕はまた手帳を引っ張り出して、そこに○×をひたすら付けていった。

こんな調子で、永遠にリスケが続いていく。

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まだ週の初めなのに

ちゃんと数えたことがないが、今、20件くらいのプロジェクトを抱えている。

しぶしぶ名前だけ入っているプロジェクトもあるのだが、先方にとってはそんなことは関係ない。プロジェクトのメンバーであるからには、何か爪痕を残したり、成果を出したりしなければならないことは、当然のことと思っている。

しかし、20ものプロジェクトのひとつひとつについて、クオリティーを下げずに成果を出すなんてことは、どだい無理な話である。

…ということを、以前にも書いたことがある

あれからさらに体力がなくなっているから、たいして仕事をしていなくても、ひどくしんどいのである。

6月11日(日)

午後、都内で会合がある。そのために電車とバスを乗り継いでいかなければならないのだが、鬼門なのは、渋谷駅である。

会合の場所に最短時間で到着するためには、渋谷駅を絶対に経由しなければならない。しかし、ご存じの通り渋谷駅は再開発中で、乗り換えがかなり不便になっている。仮設の階段を延々と歩かされるのである。仮設というくらいだから、エレベーターやエスカレーターなど、つけるはずもない。

いちばん腹が立ったのは、いったん階段を降りたのに、すぐまた階段を上らなければ行けない場所があることである。どんな刑罰なんだ?

前に書いたように、今の僕は階段を上り下りするのがかなりの苦痛である。しかし、目的の乗り換え電車にたどり着くためには、いくつもの階段を上り下りしなければならない。渋谷駅の暴力性は、すさまじい。一部のゼネコンが儲かるために、身体の弱い人を見捨てている。ゼネコンとしてみれば、できればずーっと儲けていたいから、再開発が完成するまでにはかなり長い時間稼ぎをするだろう。

やっとの思いで都内某所に着き、会合をおこない、その後場所を移動して、駅の近くで懇親会をやることになった。自分の体力を考えると、ほんとうは出たくないのだが、自分がその会合の副代表なので、出ないわけにはいかない。

懇親会じたいは有益だったのだが、ああ、ここから電車を乗り継いで帰るのかぁ、と思うと、憂鬱だった。

帰りは当然、渋谷駅を経由しなかった。

6月12日(月)

先日、同僚の仲介で、とある調査依頼があった。依頼者は初めてお会いする人たちで、自分がその依頼に応えることができるか不安だったが、依頼のメールがひどく丁寧だったし、そもそも断る理由もないので、もちろん引き受けることにした。

今日まで、何回もメールが来た。先週の段階で「来週の月曜日におうかがいします」というメールが来て、前日の晩も、「予定通り明日の13時半にうかがいます。念のため私の携帯電話の番号は…で、移動中は職場のメールアドレスが開けないので、私の個人のメールアドレスは…です。何かありましたらご連絡ください」という念の入れようである。

さらに今日、出勤すると、その依頼を仲介した同僚が

「先ほど先方からメールが来たので、対応よろしく」

とわざわざ僕の仕事部屋までやってきた。アンタは仲介するだけだから気楽なもんだな、と思いつつ、同僚にまで本日の訪問を念押しするようにメールしていたことがわかって、俺って信用されてないのか?と思ったりした。

まあそれはともかく。

予定の時間より少し早く先方が到着した。最初に、仲介してくれた同僚に挨拶に行ったらしく、同僚がその人を連れて僕の仕事部屋にやってきた。

「後はよろしく」

といってたちまち去っていった。

僕は、調査依頼に来た3人の人たちと作業部屋に向かい、3時間ほど、ああでもないこうでもないと、その調査依頼がゼロ回答にならないようにつとめた。

おかげでなんとか、手ぶらで帰ってもらうということにはならず、どうにかこうにか形になった。

こういう調査依頼って、ゼロ回答になる場合もあるし、爪痕を残すことができる場合もあるし、そのときになってみないとわからない。

それはそれで楽しいのだが、調査依頼を受けたのも久しぶりだし、自分の体力も落ちたこともあり、思いのほか疲れた。

平気で生きるのって、難しい。

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大興奮のお泊まり会

6月9日(金)

いよいよ、うちの娘と保育園で同じクラスのHちゃんが、わが家に泊まりに来る日である。

この日は、Hちゃんのママが、Hちゃんとうちの娘のふたりのお迎えに行き、まずはHちゃんの家で夕飯をごちそうになる。夕飯の後、ふたりはわが家に来て泊まる、という段取りである。

Hちゃんの家とわが家は、バス通りを隔てたマンションという至近距離で、何かあったらすぐに行き来ができるので安心ではある。

ただ、うちのマンションは狭いし、早くから僕が帰ったらふたりはのびのびと遊べないだろうと思い、ふたりが寝てから帰宅することにした。

途中、妻からは「大興奮でアテンド中」というLINEが入っていて、うちの娘がテンションが上がりまくってHちゃんをアテンドしている姿が目に浮かんだ。

帰宅したのは10時過ぎ。9時にはふたりとも寝ているだろうと思ってドアを開けたら、さにあらず、ドアを開けると、ふたりは大興奮で、おもちゃ遊びに興じていた。それはもう、取り憑かれたように遊んでいるといった感じである。

まあ冷静に考えたらそうだろう。お友だちが泊まりに来て、お行儀よく9時に寝るなどということはありえない。

僕はすぐにお風呂に入ることにし、用心のため中から鍵をかけたのだが、なんとうちの娘は、その鍵をいともたやすく外から開けてしまった!

うちの部屋の鍵は、万が一中から出られなくなったときのために、ドアの外側のところに小さい溝が空いていて、それを10円玉か何かでスライドさせれば、外から鍵を開けることができるしくみになっている。5歳の娘は、だれに教えてもらうことなく、いつの間にかその裏技をマスターしていたのだ。恐るべしである。こうなったら、内側から鍵をかけても無意味だということになる。

幸い、「安心してください。はいてますよ」というタイミングで開けられたので事なきを得た。

お風呂場に漏れ聞こえてくる音に耳をすますと、何やらふたりはマイクのおもちゃを使って歌を歌っているらしい。よくよく聞くと、「おしっこ」とか「おなら」とか「おしり」とか、そんな下品な言葉をちりばめながら、ゲラゲラと歌っている。

おいおい、Hちゃんはおとなしい子かと思っていたら、まったくそうではなく、下品な歌を歌ってゲラゲラ笑うような子だったのか!

その後もずっと、遊びをやめない。

「もう寝ますよ」

と電気を消すのだが、ふたりはそーっと起き上がっては、眠ろうとする大人にさまざまなちょっかいを出している。

眠っているいかりや長介に何かといたずらをする加藤茶と志村けん、といったようなドリフのコントを彷彿とさせて、可笑しくて仕方がなかった。

そのうち、さすがに疲れたのか、11時半にようやくふたりとも眠った。

翌朝、娘は早くに目が覚めてしまい、6時にはひとりで起きていた。あまりに興奮して、あまり眠れなかったのだろう。

朝ご飯を食べてから、公園に行く。その公園で、HちゃんのママがHちゃんを引き取りに来ることになっているのだという。

僕が家で待っていると、しばらくして娘が泣きながら帰ってきた。

「どうしたの?Hちゃんとけんかでもしたの?」

と聞いてみたのだが、実はその正反対で、Hちゃんと別れて寂しくなっちゃったらしい。大人の理屈からいえば、また月曜日に保育園で会うので、何も泣くこたあない、と思うのだが、5歳の娘には「今生の別れ」に映ったのだろう。

「たくさん遊んだねえ。なんの遊びが一番楽しかった?」

と聞いたら、

「うた」

と答えた。

「歌?どんな歌?」

「トイレでおしっこ~♪、トイレでおしっこ~♪」

昨晩に聞いた下品な歌である。

あれだけいろいろな遊びをして、いちばんに面白かった遊びがそれかよ!

昨晩からのアテンドに疲れた娘は、お昼ご飯を食べた後、泥のように眠り続けた。

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差別の国

6月9日(金)

臆面もなく、差別を公然と肯定する風潮があたりまえになりつつなる。

僕がショックを受けたのは、「名古屋城エレベーター問題」である。

新たに復元するという木造の名古屋城には、バリアフリーの概念をなくし、エレベーターを付けないとする計画がある。理由は、「名古屋城が建てられた当時にはエレベーターがなかったから」だそうだ。

市民討論会に出席した車椅子の男性が、「障害者を排除しているとしか思えない」と訴えると、同じく市民討論会の参加者から、引用するのもおぞましい発言が出た。

平等とわがままを一緒にすんなって話なんですよ。エレベーターも電気もない時代に作られた物を再構築するっていう話なんですよ。その時になんでバリアフリーの話が出てくるのかっていうのが荒唐無稽で。どこまでずうずうしいのって話で、我慢せえよって話なんですよ、おまえが我慢せえよ」

さらに別の男性は、直接的な差別表現を交えて主張する。

「生まれながらにして不平等があって平等なんですよ。(差別用語)で生まれるかもしれないけど、健常者で生まれるかもしれない、それは平等なんですよ。どの税金でメンテナンス毎月するの?そのお金はもったいないと思うけどね」

なんともおぞましい発言である。

しかも驚くべきことに、その場に同席していた市長は、差別発言をした人物をたしなめることなく、あろうことか「熱いトークがあってよかった」と、市民討論会をまとめたのである。まともな神経ではない。

ここで差別されているのは、車椅子の人たちだけではない。たとえば、小さい子どものいる家族はどうだ?ベビーカーで子どもを連れている家族も我慢しろということか?

この僕はどうだ?

僕は、昨冬あたりから両足がすごく痛い。原因ははっきりしていて、そのための治療もおこなっているが、はたしてこの先、この痛みが和らぐのかどうか、まったくわからない。

足が痛くなってからというもの、椅子から立ち上がるときや、階段を上り下りするたびに、足に激痛が走るようになった。平地や坂道を歩く分には、それほど痛くないけれども、それでも歩くスピードは著しく遅くなった。

最近は、駅や公共施設などでは必ずエスカレーターやエレベーターを使う。階段しかない場合は、階段を使わざるをえないのだが、手すりにしがみつき、激痛に耐えながらでないと上ることができない。

僕は自分の足が痛くなってから、町中を歩く人たちの歩き方を観察するようになった。すると、つらそうに歩いている人、あるいは、歩くのがつらい人が、かなりいるのではないか、という仮説を抱くようになった。

市民討論会での差別発言は、目の前にいる車椅子の人だけに向けられたものではなく、エレベーターを利用せずにはいられない人すべてに向けられたものである。

僕は1年前、足がこんなに痛くなるとは思わなかった。それが1年に満たずして、階段を上り下りすることが苦痛になる健康状態になったのである。つまり、いつ、自分が差別される側の人間になるかは、わからないのである。

その差別発言した人が、僕と同じ病気になったら、その発言は撤回されるのだろうか?

それとも、こんどは自分に向けられたその差別を、甘んじて受け入れるのだろうか?

これとまったく同じような発言が、過去にもあった。あろうことか、この国の首相によって、である。

G20大阪サミットの夕食会でのこと、首相は各国の首脳の前で、大阪城は明治維新の混乱により焼失したが、その後、天守閣が復元された。しかしその復元時にエレベーターを設置したことは「大きなミス」だった、という「ジョーク」をとばした。「大阪城を当時の姿のまま忠実に復元したものではないことを『大きなミス』と言ったのだ」と、周囲の幇間たちは火消しに躍起になっていたが、外国の要人たちはどの程度この「ジョーク」を笑えたのだろう?今回の名古屋城のエレベーター問題は、市長がこの首相の発言を真に受けたのではないかと勘ぐりたくなる。

この数日で、差別を公然と容認する法案を成立させてしまうこの国の土俗的で野卑な風土を目の当たりにすると、取り返しのつかない国に成りはててしまったと絶望するばかりである。

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5歳の寅さん

6月6日(火)

夜、家に帰ると、5歳の娘が異常に機嫌がよい。

こんどの金曜日に、保育園で大の仲良しのHちゃんが家に泊まりに来るからである。娘はこれを「お泊まり会」と呼んでいる。

そもそも、なんで「お泊まり会」なんかやることになったのだろう?何日か前に娘に直接聞いてみると、自分で呼びかけたらしい。

仲のよい友だちひとりひとりに声をかけて、なんとか「お泊まり会」を実現させようとしたのだが、次々と断られ、最後にHちゃんだけが、「いいよ」と言ってくれたそうなのである。

娘の方からそういう提案を果敢にしていたことに驚いた。僕も妻も、お客さんを家に呼ぶのが大嫌いでおなじみだからである。それを、5歳の娘が自分の家にお友だちを呼んで「お泊まり会」までしようっていうんだから、いったいだれに似たのだろう?

とにかく、帰宅早々、娘のテンションが上がりまくっている。

「何してるの?」

「きんようびのれんしゅうをしているの」

聞くと、お風呂に入って、自分の頭を洗う練習や、Hちゃんの頭を洗ってあげる練習、それが終わったら歯磨きをして、Hちゃんに「仕上げ磨き」をしてあげる練習まで考えていた。

「仕上げ磨き」とは、自分で歯磨きをしたあと、最後にママやパパに歯を磨いてもらう行為をいう。それを、娘がお友だちにしてあげたいそうなのだ。

「『仕上げ磨き』はどうかなあ」

「どうして?だめなの?」

「さすがにキモチワルイと思うよ」

「そんなことないよ!」

とにかく徹頭徹尾、お客さんが快適に過ごしてもらうよう、自分はアテンドに徹したいらしい。

「えほんもよんであげるんだ~」

「絵本も読むの?」

「うん」

「でも、Hちゃんの方がおねえさんでしょ?Hちゃんの方が絵本読むのが上手なんじゃないの?」娘は3月の早生まれなので、Hちゃんは少し年上なのだ。

「ちがうよ。Hちゃんはえほんをよむのがおそいんだよ。ほんとうだよ」

「そんなこと、Hちゃんの前でいっちゃダメだよ」

「わかった」

「あと、部屋の中を裸で走り回っちゃダメだよ」

「わかった」

「おならもしたらダメだよ」

「わかった」

いろいろとNGがある。

とにかく今日は、本番さながらのイメージトレーニングに余念がない。

まるで、マドンナが柴又の家に来る前に、ぬかりないようにイメージトレーニングをしている寅さんを見ているようで、ひとつひとつの行動がたまらなく可笑しい。もうテンパってテンパって、当日までには息切れをしてしまうんではないかと心配になるほど興奮している。

はたして、本番はどうなるのか。

「本番の日はね、今日練習したとおりにやるんだよ」

「わかった」

とプレッシャーをかけておいた。

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話芸一代

6月2日(金)

今日の文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」のオープニングトークは、リアルタイムで聴くことができた。というか、どうしてもリアルタイムで聴きたかった。

この直前に、上岡龍太郎さんの訃報がインターネットのニュースで伝えられたからである。当然僕は、大竹まことさんのコメントを聴きたかった。訃報のニュースが出てから番組開始までほとんど時間がなかったので、どの程度のコメントを言うかわからなかったが、いざ番組が始まると、かなりの時間をとってコメントをしていた。

僕はまだ20代の頃、上岡龍太郎さんと大竹まことさんの共演する番組のウォッチャーだった。そのことは、以前に書いたことがある。

師と呼んだら怒られるかもしれない

大竹さんのコメントは、僕が以前から感じていたことと、おおむね同じようなことだった。上岡さんに対する思いが、時を経ても変わっていなかったということである。

おりしも、その3日前の「ゴールデンラジオ」で、火曜パートナーの小島慶子さんに「40歳の頃、大竹さんはなにしていました?」と聞かれて、

「上岡さんと一緒に仕事をし始めたくらいの頃かな…」

と答えていて、ああ、大竹さんは上岡さんに出会ったことが自分史の中で画期になっているのだな、と、感じていたところだった。

上岡さんの息子さんの、小林聖太郎さんのコメントが、名文である。

「お世話になった方々にも突然のお知らせとなってしまったことを深くお詫びいたします。

昨年秋頃、積極的治療の術がなく本人も延命を求めていない、と知らされた時に少しは覚悟しておりましたが、あれよあれよという急展開で母も私もまだ気持が追いついていない状態です。

とにかく矛盾の塊のような人でした。父と子なんてそんなものかもしれませんが、本心を窺い知ることは死ぬまでついに叶わなかったような気もします。弱みを見せず格好つけて口先三寸……。運と縁に恵まれて勝ち逃げできた幸せな人生だったと思います。縁を授けてくださった皆様方に深く感謝いたします。 小林聖太郎」

6年前に死んだ僕の父が、上岡さんと同じ病だったこともあり、「積極的治療の術がなく」「あれよあれよという急展開で」という表現が手にとるようにわかる。ちなみに父は1941年生まれ、上岡さんは1942年生まれである。僕の父と同じように、上岡さんは最期のときを迎えたのだろうと、僕は想像した。

上岡さんの名言は数多い。僕もこのブログの中でしばしば紹介している。過去の記事の検索をかけて、どんな名言を紹介したっけなと思って探してみたが、僕が大好きな名言をまだ一つ紹介していなかったことに気づいた。今から30年以上前の『鶴瓶・上岡パペポTV』での発言である。

現行憲法には、「五・七・五」になっている条文が一つだけある。第23条である。

「学問の自由は、これを保障する」

実は戦前の帝国憲法にも、「五・七・五」の条文が一つだけあった。第11条である。

「天皇は陸海軍ヲ統帥ス」

上岡さんみずからが発見したものではなく、憲法学者かだれかから聞いた話を紹介したと記憶している。

上岡さんの本領はここからである。

「憲法の条文を、全部『五・七・五』にしたらええねん。そうしたらみんなが覚えられるやろ」

「どういうことですか?」と鶴瓶。

「憲法第9条あるやろ。小難しい表現にせんと、『戦争はしません、軍隊持ちません』にしたらわかりやすいやろ」

僕はテレビの前で手を叩いて喝采した。「五・七・五」で、憲法第9条の本質が見事に表現されているではないか。

僕はこの一連の話が大好きで、ことあるごとに「うんちく」として披露している。つい最近は、僕が担当したイベントの準備をしているときに、イベント会場にあるひとつひとつの説明文はできるだけ短い方がよい、と提案して、一緒に準備をしている仕事仲間に、上記のエピソードをひととおり話した。

この話はいわゆる「テッパン」ネタのようで、万人が面白がってくれるネタである。その仕事仲間もその話の面白さに魅了されていた。

「…だから、説明文も全部「五・七・五」にしたらどうか」

と冗談で提案したら、

「面白いです!そうしましょう!」

と本気にされてしまったが、説明文を書くのは僕なのだから、全部の説明文を「五・七・五」にまとめるという至難の業は、僕自身を苦しめることになる。

結局、その試みはできなかったが、もっと準備の時間があればできたかもしれない、そうすれば、画期的なイベントになったかもしれない、と、今になって思っている。

上岡さんがいなくても、上岡さんの話芸は、僕の中で反芻し続ける。

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ウラをとる

6月1日(木)

5月29日(月)放送分の文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」の「大竹メインディッシュ」のコーナーは、佐藤B作さん。

大竹さんと同世代の芝居仲間がゲストに来るときは、ほんとうに面白い。

口の悪いB作さんは、同世代の役者仲間への嫉妬やら、同世代の役者の若い頃の恥ずかしい話やらを、おもしろおかしく毒づきながら喋る。

その中で、こんなやりとりがあった。

大竹「噂では、坂本龍一さんと女性を取り合ったという…」

B作「あいつ(坂本龍一)ねえ、学生の頃『自由劇場』に来てねえ、もう『坂本』『B作』の仲だから」

大竹「『あいつ』なんて言っちゃっていいの?世界のサカモトですよ」

B作「知らないよそんなこと、俺が出会った頃はただの学生だったから。モテたねえ」

大竹「取り合ったら負けるでしょう」

B作「そりゃあ負けるよ。中央線の、何て駅だったかなぁ、(女性のアパートに行ったら)すでに坂本龍一が中にいました。で、泣きながら帰ってきましたよ」

大竹「ホントの話?それ」

B作「本当の話ですよ。嘘なんか言ったことないですよ、一度も」

大竹「ホントにいたの?、そこに」

B作「いたよ、『B作さん、ダメ、今日は帰ってください』今日は、っていうか、一度も入ったことないんだけどね、そのアパートには」

大竹「取り合ってないじゃない!」

B作「そうだね。一方的に負けてるんだ…坂本、あいつメチャクチャなんだよ」

大竹「なんで呼び捨てなんだよ!」

B作「うちによく泊めてあげたんだ。カネなくなって」

大竹「ホントに?」

B作「ホントだよ。芸大の学生の頃。そうしたら次の日、必ずお母さんが『佐藤さん、うちの龍一を泊めてくださってありがとう』って来てね」

大竹「ホントかなあ、その話」

B作「ホントだってば。すげえマザコンだったんだ」」

大竹「『マザコン』とか言うな!YMOだよ!」

B作「有名になってからはつきあいないんだよ」

大竹「ずっとシカトされてた…」

B作「病院で会っても『よぉぅ、B作』って言うくらい…」

大竹さんは、「その話、ほんとうなのか?」と驚くばかりである。たしかに嘘のような話で、佐藤B作さんと坂本龍一さん、まるで接点がない感じがするが、坂本龍一さんの『音楽は自由にする』(新潮文庫)には、学生時代にアングラ演劇に関わっていた思い出が語られており、その中にこんな記述がある。

「友だちを介して自由劇場での公演にも関わりました。参加している人たちがみんな面白い人ばかりで、そういう人たちと一緒にものがつくれるのはとても楽しかった。ステージに立ったこともあります。作・演出は、まだ一般的に有名になる前の串田和美さん。吉田日出子さんとか柄本明さんとか佐藤B作さんとか、みんな友だちでした。一度公演があれば、2週間や3週間はずっとそれにかかりきりですから、大学に行ってる暇なんてまったくありませんでした。

当時のアングラ演劇では、役者をやりながらミュージシャンもやっているというような人も珍しくなかった。演劇の中でも音楽がふんだんに使われていたし、演劇と音楽は、かなりシンクロしていました」(128~129頁)

坂本龍一さんと佐藤B作さんが自由劇場時代に友だちだったことは紛れもない事実である。坂本さんは、それを行儀よく語っているが、B作さんの語りは、その当時の様子をさらに活写している。

たしかに話を盛っている可能性はあるが、こういう語りは、決して活字にはあらわれない、消えてなくなってしまうような思い出である。お金がない坂本龍一さんを泊めてやったというB作さんの話じたいは他愛もない話だが、坂本さん本人も語りえなかった、ほかでは知り得ない証言として貴重であると思い、ここに記録を留める。

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