差別の国
6月9日(金)
臆面もなく、差別を公然と肯定する風潮があたりまえになりつつなる。
僕がショックを受けたのは、「名古屋城エレベーター問題」である。
新たに復元するという木造の名古屋城には、バリアフリーの概念をなくし、エレベーターを付けないとする計画がある。理由は、「名古屋城が建てられた当時にはエレベーターがなかったから」だそうだ。
市民討論会に出席した車椅子の男性が、「障害者を排除しているとしか思えない」と訴えると、同じく市民討論会の参加者から、引用するのもおぞましい発言が出た。
「平等とわがままを一緒にすんなって話なんですよ。エレベーターも電気もない時代に作られた物を再構築するっていう話なんですよ。その時になんでバリアフリーの話が出てくるのかっていうのが荒唐無稽で。どこまでずうずうしいのって話で、我慢せえよって話なんですよ、おまえが我慢せえよ」
さらに別の男性は、直接的な差別表現を交えて主張する。
「生まれながらにして不平等があって平等なんですよ。(差別用語)で生まれるかもしれないけど、健常者で生まれるかもしれない、それは平等なんですよ。どの税金でメンテナンス毎月するの?そのお金はもったいないと思うけどね」
なんともおぞましい発言である。
しかも驚くべきことに、その場に同席していた市長は、差別発言をした人物をたしなめることなく、あろうことか「熱いトークがあってよかった」と、市民討論会をまとめたのである。まともな神経ではない。
ここで差別されているのは、車椅子の人たちだけではない。たとえば、小さい子どものいる家族はどうだ?ベビーカーで子どもを連れている家族も我慢しろということか?
この僕はどうだ?
僕は、昨冬あたりから両足がすごく痛い。原因ははっきりしていて、そのための治療もおこなっているが、はたしてこの先、この痛みが和らぐのかどうか、まったくわからない。
足が痛くなってからというもの、椅子から立ち上がるときや、階段を上り下りするたびに、足に激痛が走るようになった。平地や坂道を歩く分には、それほど痛くないけれども、それでも歩くスピードは著しく遅くなった。
最近は、駅や公共施設などでは必ずエスカレーターやエレベーターを使う。階段しかない場合は、階段を使わざるをえないのだが、手すりにしがみつき、激痛に耐えながらでないと上ることができない。
僕は自分の足が痛くなってから、町中を歩く人たちの歩き方を観察するようになった。すると、つらそうに歩いている人、あるいは、歩くのがつらい人が、かなりいるのではないか、という仮説を抱くようになった。
市民討論会での差別発言は、目の前にいる車椅子の人だけに向けられたものではなく、エレベーターを利用せずにはいられない人すべてに向けられたものである。
僕は1年前、足がこんなに痛くなるとは思わなかった。それが1年に満たずして、階段を上り下りすることが苦痛になる健康状態になったのである。つまり、いつ、自分が差別される側の人間になるかは、わからないのである。
その差別発言した人が、僕と同じ病気になったら、その発言は撤回されるのだろうか?
それとも、こんどは自分に向けられたその差別を、甘んじて受け入れるのだろうか?
これとまったく同じような発言が、過去にもあった。あろうことか、この国の首相によって、である。
G20大阪サミットの夕食会でのこと、首相は各国の首脳の前で、大阪城は明治維新の混乱により焼失したが、その後、天守閣が復元された。しかしその復元時にエレベーターを設置したことは「大きなミス」だった、という「ジョーク」をとばした。「大阪城を当時の姿のまま忠実に復元したものではないことを『大きなミス』と言ったのだ」と、周囲の幇間たちは火消しに躍起になっていたが、外国の要人たちはどの程度この「ジョーク」を笑えたのだろう?今回の名古屋城のエレベーター問題は、市長がこの首相の発言を真に受けたのではないかと勘ぐりたくなる。
この数日で、差別を公然と容認する法案を成立させてしまうこの国の土俗的で野卑な風土を目の当たりにすると、取り返しのつかない国に成りはててしまったと絶望するばかりである。
| 固定リンク
「ニュース」カテゴリの記事
- なし崩し的に進む政治(2024.10.10)
- 文章を舐めるな(2024.07.10)
- 夏休みの読書(2023.08.20)
- 踊らにゃ損(2023.08.19)
コメント