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2023年7月

お泊まり会・2回目

7月30日(日)

あいかわらず体調が悪い。熱はどうやら落ち着いたようだが、時折ひどい咳が止まらなくなる。そしてついに妻も撃沈。

そんな中で、ひとり元気なのは、5歳の娘である。金曜日、保育園が終わってから、こんどはHちゃんの家にお泊まりに行くという2回目のお泊まり会が実施された。

今回幸いだったのは、わが家ではなく、先方の家に泊まりに行くことになっていたことである。金曜の午後あたりから妻の体調が急激に悪くなり、どうやら僕の夏風邪がうつったらしいのである。

つまり、わが家は一家全滅となったわけで、その間隙を縫って、5歳の娘はHちゃんの家にお泊まりすることになったというわけだ。

夕食はみんなで近くのファミレスで食事をして、そのあとにHちゃんの家に娘が泊まりに行く、という予定だったのだが、二人とも病人のわが家からは、当然、参加することができなくなった。つまり先方の親にすべてお任せするという事態になってしまったのである。

子どもたちは、当然「お子様セット」が目当てだったが、お子様セットといってもいろいろある。「お子様ハンバーグ」「お子様オムライス」「お子様パンケーキ」「お子様ラーメン」…。

「みっともないから、お子様ラーメンだけは頼んじゃダメだよ」と言い含めておいたのだが、実際に娘が頼んだのは、「お子様ラーメン」だった。どうしてもラーメンが食べたかったらしい。対するHちゃんは「お子様パンケーキ」だったという。

お泊まり会の様子は、随時、先方の家のママさんから動画や写真で知らせてくれた。それを見る限りでは、いたって楽しそうである。

われわれの体調の悪さを気遣ってか、先方は昼食後まで娘を遊ばせてくれていた。簡易プールで遊んでいる動画が送られてきたりして、娘はお泊まり会を満喫しているようだ。

しかし、帰ってくるなり、娘は涙を流し始めた。

「どうしたの?」

「Aちゃんがわがままで、○○ちゃんのものを何でもほしがるの」

Aちゃん、というのは、Hちゃんの妹で、2~3歳くらいの女の子である。

娘によると、娘はHちゃんと一緒に遊びたいのに、つねに妹のAちゃんがついてくるので、煩わしいと思ったらしい。

前回のお泊まり会は、Hちゃんだけがうちに泊まりに来たので、ストレスなく存分に楽しめたのだが、今回は勝手が違っていたというわけである。

「○○ちゃんだって、Aちゃんと同じくらいの年の頃に、親戚の年上の子が持っているものを奪って、その親戚の子が歯を食いしばって泣きそうになっていたんだよ」

「シンセキって、何?」

そうか、親戚という言葉がわからないか。本人はまったく覚えていないようだったので、それ以上の説明はやめた。

「でも楽しかったんでしょ?」

「…楽しかった」

楽しかったのなら、いいじゃないか。

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ひどい夏風邪が続く

7月27日(木)

今回の夏風邪は、ちょっと甘く見ていた。先週のうちに回復するかと思ったら、まったく治る気配がない。

朝に体温をはかると、37.5℃を超える日々が今日まで続いている。咳も止まらない。

昨日(26日)は、月に一度の定期治療で、自宅から車で1時間かかる総合病院に行くことになっていた。

さすがにこの状態では病院には行けない。そもそも、病院の入り口では検温をしていて、37.5℃以上の人は病院に入れないことになっているのである。

朝、病院に電話をして、かくかくしかじかと症状を伝えると、

「わかりました」

といって、いったん電話は終わったのだが、ほどなくして先方から折り返しの電話が来た。

「とりあえず、採血と採尿の検査はしますので、病院に来てください」

「今からですか?」

「ええ」

「でも、熱が高いと病院に入れないんじゃ…」

「お車ですよね」

「ええ」

「では、病院の駐車場に着いたらお電話ください」

「わかりました」

ということで、急遽、病院に行くことになった。

けっこうな発熱の状態で、首都高速に乗って1時間かけて病院に行く、というのは、なかなか難易度が高い。

なんとか無事に到着した。駐車場から電話をかけると、

「それでは、病院に入っていただいて、通常の通り、採血と採尿を行ってください」

「はい」

「そのあと、結果が出るまでは病院の待合室で待機せずに、駐車場の車の中に戻ってください。ほかの患者さんに感染の危険性がありますから」

「はあ」

言われるがままに採血と採尿を行い、終わると再び駐車場に停めておいた車の中で、結果が出るまでの約1時間、漫然と待った。1時間後、

「検査結果が出ましたので、診察に来てください」

「わかりました」

車から出て病院の入り口に向かう。入り口の検温画面では、真っ赤な字で「37.8」と表示されたが、おかまいなく中に入った。

さっそく先生の診察室に行くと、先生は、血液検査の結果表を見ながら、

「炎症値が高いですね。風邪によるものと思われます」

「はあ」

「炎症値が高いと治療はムリなので、今回の治療は中止して、後日に延期しましょう」

「わかりました」

…というか、こんな身体の状態で、定期の治療を行うことがムリであることは、ド素人の僕だってわかる。

そのあと、薬局に行ったりして、結局、まる一日病院通いに費やされることになった。

高熱を出している人間が、片道1時間かかる病院まで首都高速を使って運転し、採血と採尿だけおこなって、とくに治療することなく帰ってくる…。

俺は元気なのか?

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ひどい夏風邪をひいた

7月18日(火)

韓国から帰国した翌日の朝7時。

あまりに体調がおかしいので体温を測ってみると、37.7度だった。喉も少し痛い。

恐れていたことだが、夏風邪をひいたらしい。その前の週に娘が夏風邪をひいていて、それがうつったのだろう。

韓国滞在中は、多少喉に違和感があったものの、体調はふつうであった。

気になったのは、帰りの飛行機である。気圧の関係で耳がおかしくなることはよくあることだが、たいていは耳抜きをすれば解決する。ところがこのときばかりは、帰宅してしばらくしても、いくら耳抜きをしても鼓膜がなかなか戻らない。以前も一度、そのような体験があり、そのときもやはり体調が悪くなったので、今回も、ことによると体調が悪くなる前兆かなと感じたのである。そうしたら案の定、熱が出たのである。

これはまずい。今日は職場で午前に1つの作業、午後に1つの会議と1つの打ち合わせがある。とくに午後の会議では、僕が報告しなければならい事案がいくつかあったし、打ち合わせというのは、僕が司会進行の会議を円滑に進めるために事前に事務方とするもので、当然、僕がいないと始まらない。

僕はすぐに、今日の職場での仕事について、3件の担当者にそれぞれメールで連絡して、休むことを伝えた。

しかしさらに心配なのは、その翌日である。

僕は水曜から1泊2日の「ひとり合宿」が決まっていたのだが、熱があるとなると、「ひとり合宿」は当然中止しなければならない。しかし、このたびの日程も、僕が前後の仕事を整理して、ようやく開けた2日間である。もしここで中止になれば、日程を再調整しなければならない。いわゆる「リスケ」である。

リスケ、で思い出したが、職場外のなんとか委員会の会議の日程について、さんざん日程調整したあげく、結局僕がほかの会議のある日の同じ時間でしか調整がとれず、「鬼瓦先生には大変申し訳ありませんが、この日のこの時間に会議をいたします」と言われた会議が2件ほどあった。僕は思ったね。「どの会議でも、僕の日程の都合は一番優先されないのだ」と。ま、自覚しているからいいのだけれど。

それはともかく。

とにかく1日様子を見ることにして、朝からひたすら安静に励んだ。

が、翌朝(水曜日の朝)に熱をはかってみたら、39.3度。ひえ~。悪化しとるやんけ!

これはさすがにやばいととりあえず近所の診療所でコロナの検査をしてもらおうと予約したところ、お昼頃に診てもらえることになった。

「熱は?」

「朝はかったら39.3度でした」

「喉の痛みとか咳とは?」

「喉は少し痛いですが、咳はあまりありません」

抗原検査をしたら陰性で、ひとまず安堵した。

「しかし鬼瓦さんの場合、いろいろなご病気を抱えていますからねえ。夏風邪の原因はともかく、どのように治療すればよいかは難しいです」

「そうですか」

「最悪のケースも考えられますから、何かあったらすぐにご連絡ください」

「わかりました」

翌日の木曜日、相変わらず高熱だが、僕が司会することになっている金曜日の会議について、職場の担当者とメールで打ち合わせをし、最終的にはメール審議で問題ないということで決着した。

さすがに金曜日あたりは熱が下がるだろうと思ったが、朝熱をはかると、39.7度とまだ高い。メール審議に変更しておいてよかった。

さらに気になったのは、今まで咳がほとんどなかったのに、咳が止まらなくなってきたことである。

水曜日に診療所に行ったときに、嘘でも「咳が出て仕方ありません」といえばよかったなあ、そうしたら咳止めの薬をもらえたのに、と後悔した。

そして土曜日。朝熱をはかると、38.8度だった。咳はいっこうに止まる気配がない。

これはもう、僕が使っている別の薬の副作用が今回の夏風邪と融合して大変なことになっているとしか思えない。

しかし山場はここからである。明日の日曜日は午後に都内で会合があり、僕が1時間ほど喋らなければならないのだ。

当然、現地参加することはムリでなので、オンライン参加に変えてもらうことにした。

一応、発表時の配付資料は先方に送ってあるので、発表の準備がまったくできていない、というわけではないのだが、それでも、落語でいうところの「ネタをさらう」ことがまったくできていない。

日曜日、朝熱をはかると37.0度だったが、頭は朦朧としているし、咳は止まらない。

午後1時に会合が始まるのだが、Zoomの設定にとまどり、入室したのが12時57分。1時と同時に会合が始まり、主催者の挨拶が5分くらいあるだろうからその間に画面共有のためのファイルの段取りを済ませておこうと思っていたら、主催者の挨拶は1~2分で終わり、早速僕が喋らないといけなくなった。

僕は何事もなかったかのようにファイルを画面共有し、話を始めた。

しかし、ほどなくして異変が起きた。喋ろうとすると、咳が出て止まらなくなるのである。

「えー、まずはじめに、ゲホッゲホッ、」

「すみません。ゲホッゲホッ」

最初はマイクがオンのまま咳をしていたが、さすがにこれはマズいと思い、咳が出るかな、と思ったらすぐにマイクをミュートにして思いっきり咳をして、大丈夫そうかなと思ったらマイクをオンに戻して話を続けることにした。

しかしひどいときになると、マイクをオンに戻して話そうとしたらまた咳が出そうな予感がしてすぐにまたミュートにして咳をする、ということの繰り返しになった。まったく、話を聞いている方にしてみたら、何を喋っているのか、まったくわからなかっただろう。おまけに、長期間の高熱が続いているおかげで、思考能力が低下し意識が朦朧としているのである。

しかし後半の30分になると、なんとか咳が落ち着いた。咳を出さないような声の出し方のコツをつかんできたからだろうか。コツ、といっても、ひたすら小声で喋るようにしただけなのだが。

なんとか1時間の持ち時間が終わり、聴衆からの質問の時間となる。質問されても、こちらは頭がボーッとしているから、訳のわからない返答しかできない。

というわけで、「無事ではなく終わりました」が、聴いていた人たちは、みんな「あいつは一体、何を話していたのか?」と最後までわからなかったに違いない。

夏風邪は、まだまだ続く。

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短くて長い旅の途上・その2

7月16日(日)

朝7時、泊まっているホテルの隣の部屋から女性の悲鳴が聞こえた。尋常ではない悲鳴で、僕の部屋側の壁もドンドンと叩いている。叫び声は次第に、生命の危険を知らせるようなそれに発展した。

(これって、やべーやつじゃね?)

しばらくすると静かになり、僕はそのタイミングを見計らって、部屋を出て朝食に向かう。

朝食から帰ってくると、ホテルの前にパトカーが停まっている。

もしやと思い、エレベーターで僕の部屋のあるフロアーまで上がると、警察官が3人いた。警察官は、少し離れた部屋を出たり入ったりしていた後、僕の隣の部屋にいる男性のところに行き、事情を聞き始めた。

「ケンカしたのか?」

「いえ、ケンカってほどじゃありませんよ」

みたいな会話が聞こえ、ほどなくして警察官は部屋を出て、エレベーターのところで立ちすくんでいる僕の所まで近づいてきた。

(俺も事情聴取されるのか?)

と身構えていたら、警察官はそのままエレベーターに乗って帰ってしまった。

僕はいったん部屋に戻り、今日の用務のための荷物を持ってすぐに部屋を出ると、隣の部屋から男が出てきた。

僕がエレベーターの方に乗ると、その男もエレベーターに乗って、降りたらどこかへ去ってしまった。

(一体何だったんだ?)

今回一緒に用務をする韓国の仲間たちもこの騒動に気づいていて、あとでフロントの人に聞いたところ、「痴情のもつれ」だったという。

泊まっているホテルは「ホテル」とは名乗っているが、モーテルを改装した建物らしく、実際、泊まっている場所はいわゆるモーテル街だった。なのでこの種のトラブルはよくあることなのかもしれない。それにしても、2日目の朝も韓国さんに打ちのめされた。

さて、肝心の用務についてだが、朝9時からある施設にこもって3時間立ちっぱなしの用務をし、昼食後に車でその町の周辺をまわり、雨が上がったタイミングを見計らって車を降りて少しばかり散策し、14時半頃からまた3時間ほど立ちっぱなしの用務をこなした。さすがに足が限界である。

終わったあと、韓国の仲間たちと一緒にサムギョプサルで打ち上げをした。「これからは韓国に頻繁に来てください」と言われ、そうしたいのだが、行くたびに思いのほか疲れるので、もう少し楽に行ける方法はないものかと思案している。

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短くて長い旅の途上

7月15日(土)

朝の7時半に家を出て、バスに乗り空港に向かう。

3年半ぶりの韓国出張なので、何かあっちゃいけねえと、少し早めに出たのである。

しかしいつものことだが、搭乗の2時間以上前にチェックインしているのに、すぐに時間が経ってしまうように感じるのはなぜだろう。

12時25分に離陸した飛行機が韓国の空港に着陸したのは14時45分頃。

さあここからが大変。

飛行機を降りて、ゆっくり歩きながら入国審査のところに向かうと、大変なことになっていた。

今までに見たことのないような長蛇の列である。

どういうこっちゃ?

牛歩戦術というのか、ジグザグ行進というのか、とにかく大人気のアトラクションの列に並ぶのならまだしも、たかが入国審査のために、1時間以上も並んでしまったぞ!

時計を見たら16時過ぎ。この時点でもうヘトヘトである。

このあと、空港鉄道に乗りソウルまで行き、ソウルからはKTXに乗って地方の中核都市の駅に向かう。そこで仲間が待っていてくれて、そこから車に乗ってさらに別の地方都市まで向かうのだ。

「ソウルに14時45分に着くのだったら、待ち合わせの駅には17時くらいに着くでしょう。そのくらいの時間に待っています」

と言われていたのだが、どう考えても17時に目的の駅に着きそうにない。というか、ソウル駅に着いたのが17時少し前である。

そこから空港に乗って、ソウルに着いて、KTXの切符を買おうとするが、席が空いているのは30分後に出発するKTXである。

仕方ない、思って諦め、出発の時間が近づいたので駅に入場すると、大変なことになっていた。

今までに見たことのないくらいの多くの人々が、つくだ煮みてえに密集している。ホームを降りるどころではない。というか自分が乗るKTXが何番線に到着するのかすらわからないので、どのホームに降りたらいいかがそもそもわからない。

アナウンスを注意深く聴くと、どうやら大雨のために鉄道が遅延しているようなのである。

これはあとで知ったのだが、この日、韓国全土は災害級の豪雨が各地で被害をもたらしたらしい。在来線はすべて運休したようである。

エラいときに来てしまった!

飛行機から降りてそのまま地下の空港鉄道に乗ったので、外の様子がまるでわからなかったのである。

それでも、乗る予定のKTXは20分程遅れて、18時少し前に出発できた。

しかしそこからがまた大変で、時折ゆっくりと走行するものだから、遅延の時間はどんどん延びていく。最終的には、本来の到着時間よりも40分ほど遅れて、19時20分過ぎに目的の駅に到着した。

仲間はホームで待ってくれていて、僕の一方の荷物を持ちながら、

「行きましょう。ここから宿泊場所までは50分かかりますので」

「50分!!!???」

僕はびっくりした。30分くらいで着くのかなと漠然と想像していたからである。

しかも高速道路を時速100キロで走行して50分である。こんなに遠かったっけ?

ホテルに着いたのは、20時15分頃。ホテルで待っていたほかの仲間たちは、さぞ待ちくたびれたことだろう。

だって順調にいけば、18時には夕食をとることができたはずなのだから。しかし実際に夕食にありつけたのは、20時30分だった。

久しぶりの韓国さんには、うちのめされたねえ。

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日帰り出張

7月14日(金)

これから体力的にきつい日々が続く。

新幹線に乗って、北に向かう。日帰り出張である。

体調的にちょっとアレな感じなのだが、今回ばかりは休むわけにはいかない。

「会議の後、見ていただきたいものがあるのです」

と事前にメールをいただいていた。つまり、僕が来る機会をとらえて、調査の依頼があったのだ。

明日からは韓国出張なので、なるべくなら体力を温存したいのだが、そういうときに限って、会議がガッツリと行われる。

会議が終わった後、同じ建物の別の階で、調査依頼に応えることになった。

依頼者と名刺交換すると、

「私、この会議の後にいつも先生を車で駅までお送りしていた者です」

「あ、そうでしたね」

今回はいわば対等にお仕事をする関係である。

多くの場合、僕が調査をしても空振りに終わるのだが、今回は依頼者の期待に応えられそうである。

一つ一つをじっくり見た後、依頼者に納得してもらうようにいくように丁寧に説明をする。つまり謎解きをするわけである。

依頼者は、なんというか、リアクションがアニマル浜口の娘さんみたいな方で、次第に感情が高ぶり、僕の説明にとてもいいリアクションをしてくれる。

そのリアクションを見て、僕自身も少し体調を持ち直してきた。疲れているのに、不思議なものである。

「ありがとうございました!ではこれから車で駅までお送りします」

感情が高ぶっている様子を見たその上司が、

「運転は冷静にね」

と声をかけた。車の中でも、依頼者の話は止まらなかった。

ありがとうございました、と車を降り、さてと新幹線の切符を買おうとしたら、速い新幹線が軒並み満席で、ゆっくり走る新幹線の席しか空いていない。

(早く帰りたかったのになあ)

結局、家に着いたのが夜の9時半過ぎだった。

明日の韓国出張の荷造りを始めたのは、それからである。

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ヘルパンギーナ

7月12日(水)

5歳の娘が高熱を出した。

しかしそれ以外、著しい喉の痛みを訴えるとか、咳が止まらないとか、といった症状はない。

しかし心配なのは、新型コロナウイルスに感染した可能性である。

政府は断固として認めていないが、医療関係者の中には第9派に入ったとの見解もある。実際、身の回りには新型コロナウィルスに感染した人が結構いたりする。

先週末、とある出張に出かけたプロジェクトチームのうち、わかっているだけで5人もの人が、出張から帰った後、ほぼ同時に新型コロナウィルスに感染したという。明らかに出張の際に集団感染したものである。おおかた、出張中の宴会で感染したのだろう。

そんなこともあったので、こっちも新型コロナウィルスを心配しないわけにはいかない。もしそうだとしたら、直近の予定を見直さなければならない。

かかりつけの小児科クリニックに朝一番で予約を取ることにする。妻は朝から仕事なので、小児科に連れていく役目は僕である。

朝9時に診察が始まるのだが、その30分前、8時30分から診察受付が始まる。しかも、電話などではなく、Web予約である。

予約をするためには、アプリをダウンロードして登録しなければならない。まずは急いでその作業を行う。

「8時30分になったら、すぐに予約ボタンを押すように。そのためには、あらかじめアプリの画面を開いておくように」

とアドバイスされた。まるで、人気アイドルグループのコンサートのチケットを予約するがごとくである。

8時30分になった途端、予約ボタンを押し、出てきた場面に「症状」と「体温」を急いで入力して、「確定」を押したところ、

「受付番号 33番」

と表示された。つまり、すでに32人待ちということである。あれだけ急いでボタンを押したのに。

たいていは僕よりも若い親だから、そういう仕組みに慣れているのだろう。しかし悔しい。

1時間半以上たって、ようやく待ち人数が一桁になり、自宅を出て小児科に向かう。それにしても尋常ではない暑さである。

ようやく診察が始まる。

「念のため、溶連菌とコロナの検査をしておきましょう」

溶連菌は喉の奥の唾液を取り、コロナは鼻の奥の粘膜をとる。いずれも細い棒を喉や鼻の深いところまで突っ込む。娘はこれが大の苦手だったが、今回は泣かずによく頑張った。

しばらくして結果が出た。「どちらも陰性ですね」

「すると、ヘルパンギーナか何かですか?」

僕は最近覚えたばかりの「ヘルパンギーナ」という言葉を出してみた。

「そうですね。その可能性が高いです。ヘルパンギーナは、対症療法をするしかないので、熱冷ましのお薬を出しておきます。お熱が下がれば登園もできます」

「そうですか」

僕は安心した。とりあえずこれで、当面の予定は変更せずにすむ。

「いいかい。ご飯を食べたら、お薬を飲んで、お昼寝するんだよ」

娘はその言いつけを守った。

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ピアノ発表会・2回目

ピアノ発表会

7月8日(土)

5歳の娘のピアノ発表会である。会場は、前回と同じ場所。

ちょうど1年前の前回は、右手だけを使って弾いて、ピアノの先生が伴奏を担当していたが、今回からはいよいよ、ひとりでの演奏である。つまり、右手と左手を同時に使ってピアノを弾くのである。

曲名は「おたんじょう日マーチ」!昨年度は最年少ということで一番初めに演奏したが、今回は順番が3人目である。

メロディーは単純なのだが、繰り返しが多い曲で、聴いている方も混乱するくらいだから、演奏者が混乱せずに弾くのも、実はかなり難しそうである。

それでも娘の演奏は堂々たるものだった。2カ所ほどつかえたけどね。

1年前に撮った動画とくらべると、格段に進歩したことがわかる。

演奏の順番は、経験の浅い子から始まり、しだいに経験豊かな子に移っていくので、後半になればなるほど難しい曲になる。

他人の子の演奏なんぞ、興味あるかい!と思っていたが、聴いていると意外に面白い。うちの娘も将来はここまで弾けるかな?と想像したくなる。

そして最後は、講師の先生による連弾の演奏。昨年のプログラムにはなかったが、コロナ禍前のやり方に戻すという趣旨で、復活したらしい。

曲目は、ドヴォルザークの「スラブ舞曲」。ヘビーな選曲だが、これがなかなかよかった。韓国映画の「オールドボーイ」で使われていなかったっけ?

以前にミュージアムコンサートに娘を連れていったことがある。休日の昼間のひとときを過ごすイベントとして、とてもよかったことを思い出した。

あんな感じの、気軽に聞けるピアノ演奏会みたいなものがないかなぁ、別に有名なピアニストでなくてもよく、ベタな曲でもいいから、それを聴くことで自然とピアノ曲についての素養が身につくような、そういうコンサートである。

インターネットで「ピアノ演奏会」で検索してみても、たいていは有名なピアニストの演奏会の情報が上位にくる。しかも開演は夜の6時とか7時なので、子どもと一緒に聴きに行けるような時間帯ではない。

調べればそういう類いの演奏会はいろいろなところでやっているのだろうけれど、情報弱者の僕にはなかなか見つけられない。

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長い一日・後編

7月7日(金)

斎場は、JRと私鉄を乗り継いで、いままでまったく降りたことのない駅から、歩いて10分ほどの訪れたことのない町にあった。都内といっても、交通の便がよいというところとはいえない場所だった。

午後6時を過ぎても蒸し暑い。冬用の礼服しか持っていなかった僕にはこたえる暑さである。

斎場に着くと、祭壇のある部屋の前にすでに多くの人が3列になって並んでいる。

無宗教の式だそうで、お焼香ではなく、献花を手向けるようである。

やがて列が動き出し、少しずつ祭壇のある部屋に近づいた。

決して広くないその部屋には、お焼香の煙もなく、全体にお花が飾られているものの、白を基調とする花で統一されており、なんというか、すっきりとしている。

式の案内に、「ご供花・お香典につきましては、謹んでご辞退申し上げます」とあるのを思い出した。個人や団体からの供花が飾られていないからだろうと気づいた。

いよいよ祭壇のある部屋に入る。入ってすぐの右手には、幼少期から最近までの彼の写真が、彼の好きだった音楽をBGMにしたスライドショーとして投影されていた。写真を選び、選曲をしたのは、彼自身だったのかもしれない、と僕は思った。

献花をした先に、彼の棺がある。棺は開かれた状態で部屋の中央に据えられており、さながら参列者のひとりひとりに別れの挨拶をしているように思えた。

そして正面には、彼の遺影と、彼が編集を手がけた本が並べられていた。

こんな言い方はおかしいが、全体が素敵な空間である。彼は自分の葬式までも、こだわった「編集」をしたのだろう。

ひと言ふた言、お連れあいの方と挨拶を交わして部屋を出ると、係の人に、「そのまま2階に上がってください」と言われた。いわゆる「通夜振る舞い」が行われる部屋に移動しろということである。

僕はこの「通夜振る舞い」の場が、ひどく苦手である。

以前、仕事でお世話になった同業者が亡くなったときに通夜に参列した。もともとそういう場に出向くのは苦手なのだが、そのときは、お世話になった方だったので、行かないわけにはいかない。

お焼香をすませると、通夜振る舞いの会場に案内されるのだが、そこでは、故人のことはそっちのけで、同業者たちがひしめき合いながら業界の噂話に興じていたりして、僕は居たたまれなくなったのである。

今回は、言ってみれば部外者みたいなものだから、その時ほどのストレスはないだろう。

それでもやはり、どんな話をしていいかわからない。居たたまれないまま、そして引き際を見極められないまま、時間だけが過ぎていった。

すると、ようやくお通夜の儀が終わったのか、喪主であるお連れあいの方が2階の通夜振る舞いの部屋にお見えになった。

このタイミングかな、と思い、僕はお連れあいのところに挨拶に行った。

「落ち着いたころに郵送しようかと思っておりましたが、せっかくなのでお渡ししようと思いまして…」

と、僕はかばんから密封した封筒を取り出し、お連れあいの方にお渡しした。

「いま、開けてよろしいですか?」

「いえ、落ち着いてからでかまいませんので」

中身は、訃報を聞いてから思い立って編集した、彼とのメールのやりとりをまとめた手作りの小冊子である。余計なものを作ってしまったかな、と思いつつも、彼の生前の言葉を少しでも多く残したいという思いの方が勝ってしまった。

僕は1階に降りて、再び祭壇のある部屋に向かい、スライドショーを一通り見てから、斎場を後にした。

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長い一日・前編

7月7日(金)

早朝に、高校時代の部活の1年下の後輩のAさんからメッセージが来た。

「突然すいません。鬼瓦先輩の1年上のFさんが闘病の末に一昨日お亡くなりになりました。もし、お親しい方がいれば…と思いご連絡しました。葬儀等の日時も把握しておりますので、もし思い当たる方がいたらお伝えいただければと思います」

トロンボーンのFさん。ほとんど接点はなかったが、僕が高校1年、Fさんが高校2年の時の演奏会で、「追憶のテーマ」の主旋律のソロをFさんが担当し、その音色が実に甘美だったことをいまでも覚えている。もともと楽譜上ではサックスが主旋律のソロを担当することになっていたのだが、それをFさんのトロンボーンのソロに変えたのは、Fさんの実力を誰もが認めていたからだろうと、当時思ったものである。

AさんとFさんは2学年離れているので、高校時代は接点がないはずなのだが、聞いてみると、大学のオーケストラで一緒だったので、そのときにFさんと同期だった先輩から訃報を聞いたとのことだった。

Aさんはこんなことも教えてくれた。

「先週の土曜日、有志が大学の部室に集まって、Fさんリクエストのマーラー5番の演奏をオンラインで届けました。その時点で意識混濁の状況ではありましたが、演奏後、グーサインされていたそうです」

知り合いのお通夜に参列するという日に、別の人の訃報を聞くというのは、なんとも辛い。

後輩のAさんと少しやりとりをした後、ほどなくして午前のオンライン会議が始まった。

今日は午前と午後にひとつずつ会議があり、さらにその後にはオンラインの説明会というものがある。午前の会議はオンライン、午後の会議は対面なので、在宅から参加するわけにはいかず、朝に出勤して、3つの仕事を済ませた後に、都内の斎場での通夜に参列しなければならない。

問題は3つめのオンライン説明会である。この説明会を職場の仕事部屋から参加していると、午後6時からの通夜に大幅に遅れることになる。

最初は、オンライン説明会を欠席しようとも考えたのだが、あることを思いついた。

1日に1本だけ、職場から都内に直行するバスが運行されている。バスの出発時間は、オンライン説明会が始まる10分前である。午後の会議が終わった後、そのバスに乗り、バスの中でオンライン説明会をスマホで聴けば問題ないんじゃなかろうか。オンライン説明会の時間は1時間程度。そのバスには1時間半ほど乗ることになり、通常は乗客が少ないので、イヤホンを使えばまわりに気兼ねすることなく、バスに乗っている間中、オンライン説明会をスマホでまるまる聴くことができる。

ということで、本日の3つの仕事をクリアして、都内への直行バスでお通夜の会場に向かった。

バスを降り、電車を乗り継いで、葬祭場に着いたのは、午後6時を20分ほど過ぎた頃だった。(つづく)

 

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往復書簡

7月5日(水)

僕より10歳ほど若い編集者の訃報を聞いたのは、7月3日(月)の夜だった。ちょうど、職場から帰宅しようと車に乗り込んだときに、電話がかかってきた。その編集者の親しい友人の方からである。

その方から電話がかかってくることなどこれまでなかったので、不吉な思いで電話を取ると、電話の向こうから嗚咽が聞こえた。

「鬼瓦先生…、Oさんが…」

亡くなったのはこの日の午前3時だったという。

「先生、7月3日って、何の日だか覚えていらっしゃいますか?」

僕はすっかり忘れていた。7月3日は、5年ほど前に、編集者のOさんと一緒に作った本の発売日だった。Oさんとの唯一の仕事である。

「Oさんは、海外にいるお姉様や、遠くに住むご実家のご家族に見守られて亡くなったそうです」

「間に合ったんですね」

「ええ」

「それはたぶん、Oさんが待っていてくれたのでしょう」

僕は6年ほど前に亡くなった父のことを思い出した。僕はあのとき、電話で呼び出されたのだが、病院に駆けつけるまでにいくつかのトラブルがあり、予定の時間よりも遅れて病院に到着した。

父とひと言ふた言、どうでもいい会話を交わした直後に、父の意識はなくなり、帰らぬ人となった。

父は待っていてくれたのだ。

「待っていてくれたんですよ、きっと」

僕はそのことを急に思い出し、不意に感情がこみ上げてきた。

帰宅して、彼とのメールのやりとりを読み返した。

以前にも書いたように、僕は彼とはさほど親しい間柄というわけではない。一緒に仕事をしたのも一度きりだし、プライベートでお酒を飲みに行く、などということもなかった。とくにコロナ禍では、オンラインの会合で何度か顔を合わせる、という程度であった。

2021年9月に、彼が自分のブログで病気を公表してから、折にふれてメールのやりとりをするようになった。僕も同じように病を抱えているから、メールの中でも、自然とそんな話になった。

彼が病気を公表してから最初に僕に送ってきたメールには、「病気のことがわかった夜に何人かの顔が頭に浮かびましたが、そのなかに鬼瓦先生もいらっしゃいました」と書かれていた。

ほんとうに、たんに折にふれてやりとりしたに過ぎないのだが、読み返してみると、おたがい1回のメールの文字量が多く、さながら往復書簡である。おたがいに宛てることを通して、生きたいという思いを溢れさせている。

メールのやりとりを時系列に並べて、Wordに貼り付けて、往復書簡集として小冊子を作ろう、と思い立つ。

翌日の7月4日(火)。

職場で午前と午後に会議があったが、その合間をぬってお互いのメールを時系列に並べて、Wordを使って編集をしてみたところ、二人のやりとりは2万字に及ぶことが判明した。僕はそれをB5で30ページにととのえ、それをB4の紙1枚に、表裏合わせて4ページ分配置して印刷し、さらにそれを二つ折りにして折り目の所をホッチキスでとめるという、簡易な小冊子に仕上げた。そう、ちょっとしたミニコミ誌の体裁である。

生前の彼の思い、公表されていない言葉を、彼のお連れあいの方に届けようか、と思っている。

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ああ音楽教室

7月1日(土)

5歳の娘は毎週土曜日、音楽教室に通っている。ふだんは妻が連れていっているのだが、今日は仕事ということで、私が連れていくことになった。

折しも来週の土曜日はピアノの発表会があり、発表会前の最後のレッスンである。

そのピアノ教室に行くには、自宅からは少し距離がある。妻はいつも自転車に娘を乗せて往復しているが、僕は体力がないので、僕が連れていくときは、路線バスを使って往復している。

毎回30分の個人レッスンである。娘が初めて体験した昨年の発表会では、娘が右手だけを使ってメロディーを弾き、伴奏をピアノの先生がしてくれたのだが、今回の発表会からは、娘が一人で演奏をする。つまり、右手と左手を同時に使うのである。

少し早く音楽教室に着いた。僕が娘を音楽教室に連れていく今まで数えるほどしかないのだが、行く度に、自分も音楽教室に通ってレッスンしたい、という思いに駆られる。

僕は高校時代に吹奏楽部に入り、そこでアルトサックスを始めた。高校卒業後も、OBの有志たちと楽団を作ってしばらく活動を続けていた。20代の後半まで続けていたが、自分には才能がないことがわかっていたし、なにより仕事が忙しくなったこともあり、すっかりと楽器からは遠ざかってしまった。

その後、いまから10年ほど前に、前の職場の学生たちとバンドを組んで学園祭で演奏をしたことがあったが、このときに久しぶりにアルトサックスを手にし、かなり熱心に個人練習を積み重ねた。このときは本当に楽しかった。

しかしそれから、またアルトサックスとは無縁になっている。

少し早く着いた、と書いたが、その音楽教室には練習室がいくつもあり、そこではピアノに限らず、いろいろな楽器のレッスンが行われている。もちろん、サックスの教室もある。

サックスを持って音楽教室にやってくる人を見ると、定年退職をしたのかな、と思われる年代の人がけっこういて、余生の趣味として始めたのか、それとも「むかし取った杵柄」とやらなのか、と、そんな想像をかき立てる。

娘のピアノのレッスンが始まるまで、練習室の廊下に置かれている椅子に座って待っていると、他の練習室から、サックスを合奏している音が漏れ聞こえた。

演奏している曲は、「見上げてごらん夜の星を」(いずみたく作曲)である。

何度も何度も繰り返し練習しているのだが、聴いているうちに、僕の中に、ある郷愁が芽生えた。もう一度、アルトサックスを吹いてみたい、という郷愁である。

12年前の震災直後、僕は坂田明さんの『ひまわり』というアルバムを繰り返し聴いた。坂田明さんの奏でるアルトサックスの音が泣いているような、まぎれもない名盤である。このアルバムの2曲目が「見上げてごらん夜の星を」だったことも思い出される。

しかしいまの体力ではアルトサックスを演奏するなんて、もう無理なのではないだろうか、という思いもよぎる。

娘を音楽教室に連れていくたびに、その逡巡は続くだろう。

 

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