往復書簡
7月5日(水)
僕より10歳ほど若い編集者の訃報を聞いたのは、7月3日(月)の夜だった。ちょうど、職場から帰宅しようと車に乗り込んだときに、電話がかかってきた。その編集者の親しい友人の方からである。
その方から電話がかかってくることなどこれまでなかったので、不吉な思いで電話を取ると、電話の向こうから嗚咽が聞こえた。
「鬼瓦先生…、Oさんが…」
亡くなったのはこの日の午前3時だったという。
「先生、7月3日って、何の日だか覚えていらっしゃいますか?」
僕はすっかり忘れていた。7月3日は、5年ほど前に、編集者のOさんと一緒に作った本の発売日だった。Oさんとの唯一の仕事である。
「Oさんは、海外にいるお姉様や、遠くに住むご実家のご家族に見守られて亡くなったそうです」
「間に合ったんですね」
「ええ」
「それはたぶん、Oさんが待っていてくれたのでしょう」
僕は6年ほど前に亡くなった父のことを思い出した。僕はあのとき、電話で呼び出されたのだが、病院に駆けつけるまでにいくつかのトラブルがあり、予定の時間よりも遅れて病院に到着した。
父とひと言ふた言、どうでもいい会話を交わした直後に、父の意識はなくなり、帰らぬ人となった。
父は待っていてくれたのだ。
「待っていてくれたんですよ、きっと」
僕はそのことを急に思い出し、不意に感情がこみ上げてきた。
帰宅して、彼とのメールのやりとりを読み返した。
以前にも書いたように、僕は彼とはさほど親しい間柄というわけではない。一緒に仕事をしたのも一度きりだし、プライベートでお酒を飲みに行く、などということもなかった。とくにコロナ禍では、オンラインの会合で何度か顔を合わせる、という程度であった。
2021年9月に、彼が自分のブログで病気を公表してから、折にふれてメールのやりとりをするようになった。僕も同じように病を抱えているから、メールの中でも、自然とそんな話になった。
彼が病気を公表してから最初に僕に送ってきたメールには、「病気のことがわかった夜に何人かの顔が頭に浮かびましたが、そのなかに鬼瓦先生もいらっしゃいました」と書かれていた。
ほんとうに、たんに折にふれてやりとりしたに過ぎないのだが、読み返してみると、おたがい1回のメールの文字量が多く、さながら往復書簡である。おたがいに宛てることを通して、生きたいという思いを溢れさせている。
メールのやりとりを時系列に並べて、Wordに貼り付けて、往復書簡集として小冊子を作ろう、と思い立つ。
翌日の7月4日(火)。
職場で午前と午後に会議があったが、その合間をぬってお互いのメールを時系列に並べて、Wordを使って編集をしてみたところ、二人のやりとりは2万字に及ぶことが判明した。僕はそれをB5で30ページにととのえ、それをB4の紙1枚に、表裏合わせて4ページ分配置して印刷し、さらにそれを二つ折りにして折り目の所をホッチキスでとめるという、簡易な小冊子に仕上げた。そう、ちょっとしたミニコミ誌の体裁である。
生前の彼の思い、公表されていない言葉を、彼のお連れあいの方に届けようか、と思っている。
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