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2023年9月

謎のレンタルスペース

9月30日(土)

保育園の運動会が終わったのがお昼過ぎ。午後からは、5歳児クラスの有志で親子連れのバーベキューをすることになっていた。

もちろん参加するしないは自由なのだが、娘が楽しみにしている可能性もあるので、無碍に不参加を表明するわけにはいかないと思い、参加することにした。

しかし気心の知れた人が妻しかおらず、パパ友なんぞまったくいない僕にとっては、この3時間をどうやり過ごすかは、かなり苦痛な課題である。

ましてやパパ友の多くは30代~40代前半くらいで、50代のパパなんて、一人もいやしない。おまけにぱっと見、体育会系とかオシャレ系とか、そういうパパたちばかりなので、なおさらそのノリについていくのは至難の業である。

ところで、バーベキューの場所というのが不思議なところで、保育園から歩いて20分くらいのところに、バーベキューをするためのレンタルスペースがあることを初めて知った。1時間あたりの使用料が550円で、バーベキューのための少し大きなグリルとか、木炭とか、そういったものがすべて用意されているという。つまり肉とか野菜とかを持っていきさえすれば、そこでバーベキューができると、こういうわけである。

運動会が終わり、いったん家に戻って、それから20分ほど歩いてその場所に行くと、その場所は住宅街の一角にあった。もう何組かの親子がいて、屈強なパパが肉を焼いている。

そんなに広いスペースではないのだが、ちょっとしたビニールプールや、おもちゃなどで遊ぶスペースなどもあり、子どもにとってはなかなか充実した空間ではある。

それだけに、子どもが10人以上いると、たちまちカオスな空間になる。子どもたちは大騒ぎして暴れ回っている。ビニールプールに飛び込んでこれでもかというくらいにはしゃいでいるのである。

(近所迷惑じゃないのかなぁ…)

それだけが心配だったが、どうもそんな気配はなさそうである。

バーベキューグリルの周辺では、ママ友やパパ友たちが思い思いにお喋りをしているのだが、僕は当然、そんな輪の中には入ることはできずに、ひたすらスペースの端っこのほうをうろうろしていたのだが、よく見るとそのスペースに隣接するアパートの2棟ほどが、どうやらこのレンタルスペースを経営しているオフィスになっていたり、DIYの工房になっていたりと、ちょっと異質な空間が周囲に展開していることに気づいた。

そうか、さっきから見知らぬ人たちがやたら機嫌よく挨拶してくれるなあと思っていたら、このレンタルスペースを管理している会社のスタッフだったのか。もはや僕には、パパ友と会社のスタッフの見分けがつかないほど、パパ友とは交流していなかったのだ。

ひとり、やはり見たこともない男性が、目が会うたびにやたらと会釈してくる。僕と同じ世代くらいの、濃い顔のおじさんである。だれかのパパだろうか?

目が合って会釈をした何回目かに、

「どうも、このたびはご利用ありがとうございます」

と声をかけられたので、

(なんだ、ここのスタッフか)

とようやく気づいた。

「初めて来ましたけれど、市内にこんな空間があったんですね」

「そうなんです。でもうちの会社の本業は違うんです。これだけでは食べていけませんからね」

それはそうだろう。1時間あたり550円でスペースを貸して、そこでどんなに大騒ぎをしてもかまわない、なんて場所では、スタッフを雇う余裕もないだろう。

「本業は、リフォーム事業とか、ビルのメンテナンス事業なんかをやってます」

「そうですか。このスペースに隣接する2棟のアパートには、DIY工房だとか工作教室だとか学習塾だとかありますけれど、アパートは買い取ったのですか?」

「ええ、そうです。この一帯をひとつの『ムラ』みたいなものにしたいと。このアパートだけでなく、あっちの建物も、そっちの建物も、うちのものです」

と、周辺の建物を指さしながら説明した。

なるほど、だからいくら騒いでも問題ないというわけか。それに本業がリフォーム事業だから、アパートの一室をオフィスに改装したり、DIY工房に改装したりするなんてことはお手のものだ。

アパートの空き部屋は、スタッフの寮としても使っている、というような話も聞いた。

「20代の頃に起業して28年くらい経ちますかね。少しずつ事業を拡大して、地元の人たちからも助けていただきながら、なんとか続けられています」

ということはこの人は社長なのか…。

「ご出身はこの市内ですか?」

「そうです」

この市に生まれ育ったことに対する愛着もあるのだろう。

僕がその社長らしき人と話していると、スタッフのひとりが何か察したらしく、

「よろしかったらこれをどうぞ」

と、会社案内を僕にくれた。スタッフにとっても、働きやすい環境なのだろうか。

「騒がしくて仕事に差し障りがあることはないのですか?」

と社長に聞くと、

「いえ、むしろこういう環境で、みんなが喜んでくれる様子が間近で感じられると、仕事の励みになります」

と答えた。

もう少し社長を取材したいと思ったが、まあその経営ノウハウを知ったところで、僕は経営コンサルタントではないし、僕の今後の人生に生かせるかどうかもわからないので、このあたりで話を切り上げた。

ふと見るとパパ友たちが僕を呼んでいる。気を遣って話しかけてくれるようだ。

「お酒はいかがです?」

「お酒はやめたんです。この水筒にはほうじ茶が入っているんです」

この「ほうじ茶」という言葉のチョイスが可笑しかったらしく、パパ友たちは爆笑した。

そこでほんの少しだけ、パパ友との距離が縮まった気がしたが、これ以上深入りすると、野球の話とかに発展しそうなので、フェイドアウトした。

夕方5時。ようやくバーベキューも終了。最後に集合写真を撮ったのだが、横にいたパパ友のリーダー格の人に、

「このあと、パパ友同士で飲みに行くんですけれど、いかがです?」

と耳打ちされたのだが、

「もう疲労が限界です。何しろジジイなもので」

と丁重にお断りした。もちろん、社交辞令だったことはわかっている。

そして実際、足腰がもう限界だった。20分ほど歩いて自宅に戻ったときは、「足が棒になる」とはこのことだな、というくらいに足が棒になっていた。

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気もそぞろな親子ダンス

9月30日(土)

保育園の運動会の日。小学校の体育館を借りて、4歳児クラスと5歳児クラス合同の運動会がおこなわれた。コロナ禍では、三密(懐かしい響きだね)を避けるために年齢ごとに時間をずらしておこなっていた。今年もそれに変わりはないのだが、4歳児クラスと5歳児クラスが合同でおこなわれるようになったという点が、今年の特色である。

これまでは30分程度で運動会は終わっていたのだが、4,5歳児クラスともなると、10:30~11:50までの長丁場である。4歳児クラスと5歳児クラスが交互に種目をおこなうので時間が2倍かかるということもあるが、バルーンを使った大がかりな演目あり、器械体操あり、リレーありと、内容が充実していることにもよる。

すべての種目が終わった後、最後に親子ダンスというものがある。園児とその保護者が、保育士さんのお手本に合わせて簡単なダンスをするのである。

観客席にいた保護者たちは、保育士さんの合図で体育館の中央に出て、自分の子どものところに向かう。僕もその中の一人である。

音楽が鳴り始め、ほかの親子と適切な距離を保ちながら、ダンスが始まった。園児たちは事前に練習しているので、ダンスの振り付けは覚えているが、保護者は初見なので、保育士さんのお手本を見ながらでないと踊れない。

僕もダンスの振り付けがわからないので、保育士さんのほうに視線を向けると、視界に気になる人物の姿が入った。

おそらくひとつ下の4歳児クラスの子どものパパなのだろう。

(あれ…?一之輔師匠じゃね???)

頭の形といい、髪型といい、適度な顔の濃さといい、なにより苦虫をかみつぶしたようなぶっきらぼうな表情といい、まるで一之輔師匠である。

(もしや…ホンモノ?)

僕の胸は高鳴りだした。まさか、娘と同じ保育園に一之輔師匠のお子さんが通っている、とか???

確信が持てない理由は、 僕は着物を着た一之輔師匠しか見たことがないからである。今日は運動会なので、みんながラフな格好をしている。一之輔師匠がラフな格好をすると、あんな感じに見えるのだろうか?

そうなるともう、気になって仕方がない。保育士さんの振り付けのお手本を見るふりをして、視線は完全に一之輔師匠の方向にロックオンである。ダンスなんかに身が入るわけがない。気もそぞろになり、すっかり挙動不審な動きになってしまった。

ダンスが終わると、5歳児クラスの親子が集合写真を撮ることになっていた。

「こっちに集まってくださ~い」

という呼びかけにも気がそぞろである。ちょっと待ってください、とばかりに、なんとか本人かどうかを確かめようと、その人の近くまで行ってまじまじと顔を見た。

「…一之輔師匠じゃない!!」

たしかに似ているのだが、一之輔師匠よりもかなり若い感じである。そもそも僕は、一之輔師匠のことをそんなによく知らないし、なにより家族構成なんか全然知らないのだ。

しかしあの頭の形と髪型と適度に濃い顔と苦虫をかみつぶしたようなぶっきらぼうな表情は、まさしく一之輔師匠だという確信があったのだがなぁ。

そんな妄想にとらわれたあの時間は一体何だったのか?だれも得しない時間だった。

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おじさんチャージ

9月26日(火)

10月の第3週の週末に某国が主催する国際会議、11月の第2週の週末に韓国が主催する国際会議で、いずれもオンライン登壇することになり、引き受けなければよかったと後悔している。

といっても、引き受けないという選択肢はなかった。某国のそれは例のスジの悪いプロジェクトなのだが、無碍に断ると国際問題になる。韓国のそれは、知り合いからの依頼なので断ることができなかった。ともに現地参加が前提の会議なのだが、現地参加ではなくオンライン参加にさせてください、そうでないと引き受けられません、というのがせめてもの抵抗だった。

国際会議と偉そうに言っているが、そう呼んでいるだけで、実際には「国際会議ごっこ」ともいうべき会合にすぎない、と僕は踏んでいる。3カ国以上集まらないと「国際会議」とは名乗れないそうで、要は数合わせのために僕が呼ばれたのである。

そのためだけに現地参加するのは僕にとっては「限られた体力の無駄遣い」となってしまうので、オンライン参加というわがままを聞いてもらった。というより、もともと日程的に現地参加が無理だったんだけどね。

多分に儀礼的な会合とはいっても、話す内容はちゃんとしたものでなければならない、ということで、その準備がたいへんである。配付資料やパワポの資料を作るのは当然だが、それを前もって先方に翻訳してもらう都合上、締切が早めに設定されている。それに、日本で当たり前に説明できることが、某国や韓国に対してはそのままでは通じないので、その点も噛んで含めるような説明をしなければならない。それなりに神経をすり減らしながら準備をしている。

10月は第2週の週末に「地方公演」も予定されている。こちらの方は力を入れなくてはならない。そのための配付資料とパワポも準備しなければならない。以上の3つは、まったく違うテーマで話をすることになっているので、使い回しができない。もう頭が混乱してきた。

TBSラジオ「東京ポッド許可局」で、「おじさんチャージ」という言葉が出てきて共感した。僕にとっては、片道2時間以上かかる自動車通勤が「おじさんチャージ」の時間である。運転中は何もすることができないから、ラジオやポッドキャストなどの音声コンテンツを聴くしかない。しかしそれが僕の「おじさんチャージ」の時間として貴重なものとなっている。

月曜の朝は、前日にInterFMで放送された「Barakan Beat」をradikoのタイムフリーで2時間みっちり聴きながら運転をする、というのが習慣になった。あいかわらず、リスナーのリクエストとピーター・バラカンの選曲がマニアックすぎて、知らない曲ばかりなのだが、良質の音楽が2時間聴けることは、僕にとっての「おじさんチャージ」かも知れない、と思い始めた。

火曜日の退勤の車の中では、文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」の火曜日、つまり当日の放送分をラジコのタイムフリーで聴く。これもすっかり習慣づいている。

そのほかの時間の車中では、自分のお気に入りのコンテンツを雑多に聴きまくる。最近は、お気に入りのコンテンツが増えているので、なかなかそれを聴きこなすのだけでもたいへんである。というか、聴きこなせていない。いったい僕は、何と闘っているのか。

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ストライダーのおかげ

9月24日(日)

5歳の娘が、「自転車に乗る練習をしたい」と言い出し、同じマンションに住む小学生の姪が小さい頃に使っていた自転車を譲り受けて、自転車に乗る練習をすることにした。マンションのすぐ近くに、車も通れない100メートルくらいの直線道路があり、自転車の練習をするにはもってこいの場所である。

飽きっぽい娘だから、どうせ「できない~」とかいってすぐに諦めるんだろうな、と高をくくっていたら、すぐにコツを覚えたらしく、ふらふらするものの、足をつけずにペダルをこいで、100mくらいを走ることができた。

僕はびっくりした。僕が足を地面につけることなく自転車のペダルをこぐことができるようになったのは、小学校3年生頃だったからである。

ゴロウさんの自転車

僕は長らく補助輪というのをつけていて、その補助輪をなかなか手放すことができなかった。補助輪を外して自転車のペダルを漕ごうとすると、バランスを崩してすぐに足が地面についてしまったのである。

しかし娘は5歳にして自転車に乗ることができたのである。僕にとっては驚くべきことだった。

しかし考えてみるとこれはさほど驚くべきことではない。それ以前に長らくストライダーに乗って遊んでいたことがスムーズに自転車に乗ることができた理由であることは、明らかである。

まだ娘が生まれる前だったと思うが、テレビを漫然と見ていたら、タレントの小倉優子さんが、自分の息子が全然自転車に乗れない、ペダルを漕ごうとするとすぐ足が地面についてしまう、という悩みを告白していて、実際息子さんは、何度自転車に乗っても、ペダルを漕ぐ前に地面に足がついてしまう。さて、この悩みをどうやって解決するのだろう?と、身を乗り出してテレビを見続けていたら、専門家らしき人が登場して、

「最初に、ペダルのない自転車でバランスをとる練習をすれば、すぐに自転車に乗れます」

と言っていた。ほんとうかなあ?と半信半疑でテレビを見続けていたら、場面は幕張海浜公園かなんかに変わり、そこで、小倉優子さんの幼い息子さんが、ペダルのない自転車に乗って、ひたすらバランスをとる練習をしていた。

「さあ、では自転車に乗ってみましょう」

という合図で、いよいよペダル付きの自転車に乗ると、あら不思議、こんどは足は地面につかずに、自転車に乗れたのである。

摩訶不思議な現象だ、とそのときは思ったが、考えてみればこれがいちばん合理的な練習方法なのかも知れない。

娘は、ペダルのないストライダーに長らく乗っていたから、スムーズに自転車に乗ることができたのである。

僕が子どもの頃は、三輪車→補助輪つき自転車→補助輪なし自転車という過程を踏んだと思うのだが、いまはストライダー→自転車なのである。

自転車に乗れることがひどく楽しかったらしく、お昼の時間だからもう帰るよ、と言うと、

「お願い!もうちょっと!」

腰を曲げて両手を合わせて必死にお願いする姿が、お笑いコンビ「十九人」の「スカウト」というコントで、ゆッちゃんWが相方の松永君に対して「どうかあなたがスカウトでありますように!」と両手を合わせて懇願する仕草とまったく同じなので、つい笑ってしまった、といってもナンダカヨクワカラナイね。

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2週間の挑戦

9月23日(土)

昨年だったか、おカタい出版社が発行している、雑誌のようで雑誌ではない、定期刊行物というのか、不定期刊行物というのか、とにかくハードカバーの専門的なシリーズ本の編集部から、原稿依頼があった。その本に400字の原稿用紙で40枚程度の職業的文章を書いてくれ、という依頼である。

その専門的なシリーズ本というのは、僕の専門とは違う分野なので、困ってしまった。以前も依頼されて書いたことがあるが、畑違いの分野なのでかなり苦労して、なんとか自分の専門に引きつけて職業的文章を仕上げた記憶がある。

そのときにネタを出し切ってしまったので、もう絞っても出て来うへんよ、と思いつつ、締切はずいぶん先か、だったらネタは後でゆっくり考えればいいや、と思い、「書きます」と意思表示をして、そのままにしておいた。

そのことを忘れていたのだが、9月に入ってその編集部から「もう締切すぎてます。原稿のタイトルと進捗状況を教えてください」とメールが来て、あわてて以前にもらった依頼状を確認すると、締切が7月末とあるではないか!さらに出版予定は今年中と書かれているので、これは遅れてはいけないヤツだ!とそのとき初めて気づいて顔が青くなった。

しかし困った。何も手をつけていないし、何度も言うが畑違いの分野なので、書くネタがひとっつも思い浮かばない。

(万事休すか…)

ひとまず、これまで書いてきたことで、畑違いの分野にも関係がありそうなものをかき集めて焼き直しの職業的文章を提出しようかと考え、それらしい仮タイトルをつけて先方に提出したが、どうも自分自身も納得がいかないし、焼き直しなので書いていてつまらないだろう。なにより、焼き直しなんてよくない。

困ったなあと思っていたら、9月10日(日)の講演会終了後、教え子のMさんの車で「新幹線の停まる駅」に向かう途中、Mさんが寄り道をしてくれた場所でMさんの説明を聞いているうちに、

(これじゃね?)

と神が降りてきた。

僕がよくやる「方向転換」である。

しかしこのネタで、いまからゼロベースでいろいろと調べて400字40枚の職業的文章が書けるのか?…全然自信がない。

さんざん悩んだあげく、帰宅後にMさんにメールをすると、忙しいにもかかわらず、職業的文章のネタになりそうな資料を次々と送ってくれた。

よし、これでなんとか書けそうだ、と確信に変わり、先方の編集部にタイトルの変更を告げたところ、了承された。

そこからは、仕事の合間を見て書いていくわけだが、新しいネタだし、畑違いの分野なので、書いていて楽しい。できあがったものを読む方にしてみたら、それほどたいしたものではないと感ずるだろうけれど、なにより自分が書いていて楽しいと思えるだけで十分である。

ほかにも書かなければいけない原稿が渋滞しているので、この原稿に費やせる時間は2週間だな、2週間経って満足できない仕上がりになっても、それをそのまま提出しよう、と決めた。

結果、400字の原稿用紙で30枚弱、と予定した分量には及ばなかったが、もうこれで十分と判断し、9月23日(土)の夜、完成原稿を出版社にメールで送った。ちょうど、9月10日(日)から2週間経った日である。内容はともかく、畑違いの分野に関する職業的文章を2週間で書き上げたという事実だけでもう十分だ。Mさんがいなければ書けなかっただろう。

やれやれである。

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催促は金曜日の夕方にやってくる

9月22日(金)

山ほど原稿を書くということは、山ほど校正がやってくる、ということである。

何度も書いているが、僕は校正が大嫌いである。世の中から校正がなくなれば、僕は憂鬱な気持ちからいくばくか解放されるのだが。

校正、といってもいろいろなパターンがあって、出版社を例にとると、出版社の側であらかじめ、不審な箇所を鉛筆書きでメモして、これは正しいですか、とか、こうしたらどうですか、などとアドバイスをくれて、そのアドバイスに倣って修正をしていくパターンがある。いわゆる「校閲」というものである。

そのあたりの苦労話は、牟田都子さんの『文にあたる』(亜紀書房)にくわしい。

そうかと思えば、入稿した原稿を版下にした状態のものを、そのまま送りつけてくる出版社が居やがる。ムーディー勝山よろしく、「右から左へ受け流す~♪」とばかりに、校閲なんて関係ねえ、著者が自分で全部校正しろよ、ということなのだろう。

心なしか、最近は後者のパターンが多いような気がする。

最近、依頼されて、ある新書のうちの数ページ分だけ原稿を書いたのだが、入稿したらすぐに初校が送られてきた。来た来た。例の「右から左へ受け流す~♪」のヤツだな。

初校、再校と終わり、その新書はつい最近、電光石火の如く刊行された。送られてきた僕の文章を読み直してみると、1ページ目からさっそく「変換ミス」が見つかった。「あちゃ~」(死語)である。僕はさっそく編集者にメールをしてその事実を伝えると、

「気がつきませんでした」と。おいおい、気がつきませんでしたで済む問題かよ!

校閲が入らないということは、畢竟、著者のみが校正にかかわることになり、第三者の目で読んでくれる機会を失ってしまうのである。しかし昨今は、経費節減なのか、校閲者は絶滅危惧種になり、すべての責任を著者に押しつけようとしている。これではますます校正をするのがイヤになる。

最近は「校正」と聞くと、怒りが沸々と湧いてくるまでになりつつある。

今日なんぞは、怒りが爆発しそうになった。

以前にも書いた、あるプロジェクトで成果物を出すという仕事、結局今年の3月までに出すなんてことは到底できず、1年延期されることになった。いや、1年どころでは済まないようなスピード感である。

ようやく初校が出たのが、今年の7月くらいなのだが、僕はそこにけっこうな分量の文章を書いていて、初校の分量に圧倒され、しばらくは初校を見ないようにしていたのだが、9月初頭くらいに「初校はどうなってますでしょうか」とメールが来て、急いで校正をして、事務局が用意してくれた返信用のレターパックライトに入れて9月の初めくらいに郵便ポストに投函した。

やれやれと思っていたところ、今日の夕方5時頃、事務局の担当者からメールが来た。

「さて9月もう後1週間を残すのみとなりましたが、お忙しい中いかがお過ごしでしょうか。大変にお忙しいとは存じますが、執筆分担部分の校正原稿の返信をお願い申し上げます」

えええぇぇぇっ!!!以前に送ったはずなのに~!!!

送ったつもりだったのに、実際には送っていなかったのだろうか???

いや、送ったという記憶はたしかにあるぞ!…しかし最近、物忘れがひどくなったから、ほんとうは送っていないのかも知れん…。

などと、頭の中の思考回路がグルグルと回り始めた。

僕はすぐに、「送ったと記憶していますが、記憶が不確かなのですぐに送ります」と返信を書いたものの、直接電話した方が早いや、と思い、事務局に電話をかけたのが午後6時。

何回コールしてみても、先方は電話に出る様子がない。はは~ん。これはもう退勤したな。

考えてみれば当たり前である。相手は長らくお役所仕事をしていて、再雇用でいまのプロジェクトを担当している高齢者のおじいさんなのである。定時で帰るのも無理はない。

(遅かったか~)

僕は冷静になって、仕事部屋を探したが、送り損ねたかもしれないレターパックライトは、ついに見つからなかった。

その代わりに、郵送する前にコピーをとって保存していた初校控を発見した。思い出した!僕はコピーを1部とって控えにしていたのだ。その枚数は、A3の紙のサイズで数十枚あった。

しかもご丁寧に、僕はそこに、レターパックライトから剥がした、問い合わせ番号が書かれているシールを貼っていた!ふつうは捨ててしまったり、どこかへ行ってしまったりしてわからなくなってしまうものだが、今回に限っては初校控にちゃんとシールを貼っておいたのが、功を奏した。

あんなシール、あってもなくても関係ねえ!と思っていたが、大きな勘違いである。あのシールって大事よ!

問い合わせ番号が書かれたシールにはQRコードがあって、それをスキャンすると、郵便局のホームページに飛んで、しかも、その問い合わせ番号の荷物が、何月何日に届けられたか、届けた取扱局はどこか、まで懇切に記録されている。

僕はさっそく事務局にメールをした。

「何度も申し訳ございません。鬼瓦です。
仕事部屋に、第○章の初校の控え(コピー)がありました。そこに投函した際にはがした、レターパックライトのお問い合わせ番号を書いたシールを私が貼付しておりまして、
○△□×-◇■○×-△□◆●
という番号でした。
この番号で、郵便局のホームページで検索してみると、配達状況がわかります。
それによりますと、以下の通りでした。

引受
9月8日 16:57
取扱局:Y郵便局(○×県)

到着
9月9日 05:20
取扱局:M郵便局(東京都)

お届け先にお届け済み
9月9日 15:05
取扱局:M郵便局(東京都)

これによると、9月9日に届いているはずですので、至急ご確認いただければと思います。
もし届いていない場合は、最初にお示しした12桁のお問い合わせ番号で、まず取扱局にお問い合わせいただけますでしょうか。

もしそれでも届いていないということでしたら、あらためてお送りいたします。その場合、投函する日は、9月25日(月)になりますことをお許しください」

噛んで含めるような書き方をするときの僕は、怒りに震えているときである。

校正にまつわるトラブルは、ほんとうに勘弁してほしいと思ったが、事務局の担当者は、再雇用の高齢の方ということもあり、自分のキャパシティを越える仕事量をさせられてパニックに陥っているのではないか、とも想像した。

結果がわかるのが週明けの月曜日なのだが、はたして僕の郵送したレターパックライトが無事に届いていることを確認してもらえるだろうか。

やれやれ、と思って帰ろうとすると、もう1通、メールが来た。今度は職場の担当者からのメールである。

「2022年度版の当社の業務報告の再校のご確認について、本日を期限にお願いしておりました。お忙しいところ申し訳ございませんが、修正すべき箇所がございましたら、お知らせいただければ幸いです。とくにない場合には、ご返信には及びません」

また校正の催促かよ!!ま、ギリギリまで出さなかった僕が悪いにしても、もうちょっと早くリマインドしてくれたらよかったんじゃないの?なにしろこっちはいろいろな原稿や校正に追い立てられて、職場の業務報告書のことなんぞすっかり忘れていたんだから。いったん無視して、帰途につく。

…と、ここで思い出した。「催促は金曜日の夕方に来る」の法則だ。

原稿でも校正でも、一般的に金曜日の夕方に催促が来るのは、先方の発注者が金曜日に催促をしてしまえば、あとは週明けによろしくね、ってな感じで、自分たちは週末を謳歌できるからである。そのため、受注者である書き手は、土日を使って原稿を書いたり校正をしたりする羽目に陥ってしまうのだ。

つまり、催促する側が、金曜日の夕方に最後っ屁のような催促をして、「ボールはそっちに投げたから、週明けに投げ返してきてね。こっちは週末を謳歌するから」ってなものである。

業務報告の校正のほうは、いっそめんどくさいから何も見ずに「修正すべきところはありません」と返信しようかと一瞬思ったが、逆に修正を見つけてやろうと思い立ち、帰宅後に目を皿のようにして修正箇所を探したところ、実際修正すべきところがいくつも見つかって、校正を真っ赤にしてメールに添付して返信した。

結果的には修正すべき箇所が見つかってめでたしめでたしだったわけだが、これからは金曜日の夕方が来るのが怖い。

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お礼のメール

9月21日(木)

家に帰ると、「お礼のメール」が2通届いていた。

1通めは、昨日の昼間、調査依頼を受けて「重い秘密兵器」を持っていって調査した、事務所の若手スタッフからである。

「昨日はお忙しい中、当事務所の調査依頼にお答えくださり、ありがとうございました。調査結果はとても興味深い内容で、大変勉強になりました。頂いた調査記録をもとに作業を進めてまいります。昼食の際に話題にさせていただいた報告書についても追って発送させて頂きます。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。」

2通めは、先週の土曜日に職場を案内した、広島の大学4年生の学生さんからである。

「連れてきていただいた○○先生からご連絡先を教えていただきました。

日にちがあいてしまいましたが、先日は職場にご招待いただき本当にありがとうございました。

鬼瓦先生の解説を伺いながら、すべての空間をまわれたこととても嬉しかったです。

また、私が関心を持っているお話についても伺えて、学問に対する熱がさらに高まりました。

いただいたカタログ、大切に拝読しております。

またどこかで鬼瓦先生にお会いしたとき恥ずかしくないよう、楽しく一生懸命学び続けていきます。本当にありがとうございました。」

こんな人間でも役に立つことがあるのだな、と思う瞬間が訪れたときに、生きていてよかったと思う。ま、そんなことはめったにないことなんだが。

次に会ったときに恥ずかしくないような生き方をしなければいけないのは、むしろ僕のほうである。

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悪夢はくり返されなかった

9月21日(木)

前回にこの町を訪れたのは、昨年の3月16日である。

その日は翌日の午前からの会議に備えて、在来線特急で2時間かけて到着し、駅前のホテルに前泊したのだった。

その夜に、ホテルの部屋でびっくりするような大きな揺れを感じ、恐怖を覚えた。僕が泊まっていたホテルは、震源地の近くの町にあったのだ。あのときは、もう終わりだと思ったくらいである。

今回も、次の日の午前からの会議に備えて、同じホテルに前泊した。

前回書いたように、日中は隣県の事務所で仕事をしていたのだが、そういえばその前日にこの県で地震があったことを思いだした。

そのことを事務所の人に聞くと、

「なんか気持ちの悪い揺れ方でした。まるで大地震の前兆みたいに」

というではないか。僕はこの仕事が終わってから、在来線に乗って、昨年3月に大地震を体験した町に行くのである。しかも泊まるホテルは、そのときと同じホテル!前回とまったく同じシチュエーションである。昨年3月16日に体験した恐怖がよみがえってきた。前日の隣県の地震が前兆となって、またもや大きな地震が起こるのではないかと。

だがその心配は杞憂に終わった、翌日は穏やかな朝を迎えることができたのである。

午前9時過ぎから始まった会議は、40分のお昼休みを挟んで15時40分頃までかかった。午後は1時間半ほど、屋外で現場検証の時間があり、なかなかハードな会議日程だった。曇天で日が射さず、涼しい風が吹いていたことが唯一の救いだった。

在来線に乗って1時間半、新幹線に乗って1時間半、さらにそこから電車に乗って40分。3時間半以上かけて帰宅した。もちろん、自宅からわざわざ持ってきた「重い秘密兵器」も無事に持って帰ってきた。

あいかわらずわかりにくい経緯説明だが、言いたいことは「移動は疲れる」ということである。

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重い秘密兵器

9月20日(水)

1泊2日の出張である。早朝、バスと電車と新幹線、さらには在来線を乗り継いで、本日の用務先に向かう。

先月だったか、ある事務所から、調査依頼の連絡が来た。むかしからお世話になっている事務所なのだが、おいそれと行ける近さではないので、どうしようかと考えあぐねていたところ、翌日の朝からその事務所がある隣の県の自治体の会議に参加することになり、事務所はそのルート上にある。そこで、前日の早朝に家を出て、その事務所の調査依頼に答えてから、会議が行われる隣県の自治体に前泊すれば、1度の出張で効率的に仕事をこなすことができる、と考えた。

…経緯の説明がわかりにくいね。別にわかってもらおうとは思っていないのだが。

そんなことよりわかってほしいのは、この種の調査依頼は、うまく依頼に答えられるか、はたまたゼロ回答になるか、実際に調査先に行ってみないとわからない、ということなのである。このことがいつもプレッシャーとしてのしかかる。

ぜっかく行っても、「結局何もわかりませんでした」では困る。いや、その可能性も高いのである。

そこで僕は、「秘密兵器」を準備してその調査依頼にのぞむことにした。しかし難点は、その秘密兵器の重量が、ひどく重い、ということである。出張に持って行くには躊躇するレベルの重さなのだ。

その重い秘密兵器を持って、朝のラッシュ時の電車に乗るのは、心が折れそうである。

(めんどくせえなあ。いっそ、持って行くのやめよっかなあ…)

と、家を出る直前まで思ったが、背に腹はかえられないと思い、重い秘密兵器を持っていくことにした。

でもなあ、と自問自答が続く。せっかく持っていっても、この秘密兵器が何の役にも立たないんじゃないだろうか。そもそも僕は、その秘密兵器を全然使いこなせていないのである。持っていった結果、使いこなせなくなり、結局何もわかりませんでした、ということになると目も当てられない。

(なんだよ、そんな重い秘密兵器まで持ってきたのにゼロ回答かよ)

と思われるかも知れない、ということまで想像するとひどく憂鬱になったのだが、それでも持っていかないわけにはいかない。

自宅から3時間以上かけて事務所に到着し、さっそく荷ほどきをして秘密兵器をセッティングした、というところでお昼休みになった。

お昼休みが終わり、午後からいよいよ本格的な調査の開始である。

秘密兵器の取り扱いは、僕にはなかなか難しかったが、事務所の若いスタッフが手際よく取り扱いを覚えてくれて、作業はスムーズに進んでいく。

手際のよい作業をしている横で、僕は一つでも多くの成果を出そうと、秘密兵器の出すデータを一つ一つ確認しながら、必死に頭をめぐらす。すると、いろいろなことがわかってきた。

これは予想以上の成果である。この短時間で、これほどの成果を上げられるのは俺しかいないな、と誇らしく思い、わかったことを依頼主に伝えると、依頼主もその成果に満足してもらえたようだった。

結果的に、重い秘密兵器を持ってきて大正解だったわけだ。僕はようやく、結果を出さなきゃ!というプレッシャーから解放され、夕方、在来線に1時間30分ほど揺られながら、次の用務先のある町に移動した。

…読んでもナンダカヨクワカラナイ文章だが、いいんだ別に。今回の調査がうまくいったということさえ伝われば。

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おつりで生きる

9月19日(火)

今日は職場で朝から夕方まで1日中忙しかった。

明日の早朝から1泊2日の出張である。

ちょっと戻って、9月16日(土)の話。

その数日前、あるプロジェクトを一緒にしている、僕より少し若い仕事仲間からメールが来た。

9月15日(金)に、広島の原爆関係の聞き取り調査で、鬼瓦さんの近くの職場に行きます。もう一人、その聞き取り調査のために広島からお客さんが来るのですが、せっかくなので1泊して、翌16日の午前中から鬼瓦さんの職場に広島からのお客さんをお連れしたいと思うのですが、この日は空いてますか?できればせっかくなのでご挨拶したい、という内容だった。

三連休の初日なので、休みたかったが、その仕事仲間には忙しいという理由で最近はいろいろと不義理をしているし、なにより広島からわざわざお客さんが来るとなれば、行かないとは言いづらい。

朝に家の用事を済ませてから家を出ます、家から職場まで車で2時間以上かかるので、ちょっと遅れますけどいいですか、というと、来ていただけるだけでありがたいです、と返信が来た。職場の業務ではないから、たんなるボランティア出勤なのだが、まあ仕方がない。当日の朝、家の用事を少し済ませてから、車で2時間以上かけて職場に向かった。

お昼前に職場に到着すると、すでに仕事仲間と広島からのお客さんの二人が来ていたので合流した。

その広島からのお客さんというのは、原爆の被害に遭った関係者の方なのかなと思っていたのだが、そうではなく、広島の大学の学部4年生だった。

しかしその大学生は、自分が小学生の時に、8月6日に行われる広島の平和記念式典で作文を読み上げたという。つまり、広島のこと、平和のことを子どものころから考えてきた若者だったのだ。で、いまは広島の大学に通っていて、卒業後は大学院に進学したいと希望しているという。

お昼過ぎになったので、職場見学をいったん切り上げて、職場の食堂でいろいろとお話を聞いた。

いま大学4年生ということは、2020年4月に入学した、ということである。つまり、入学したと同時に、新型コロナウィルスの感染対策による行動制限を強いられたのである。当然、大学に通うことなどできず、授業はすべてオンラインとなった。

「サークルにはいりたかったし、アルバイトもしたかったんですけど、何もできなかったんです」

小学生の時に8月6日の平和記念式典で作文を読み上げた若者である。何ごとに対しても関心を持ち、いろいろな人たちとコミュニケーションをとりたい、というタイプの若者であることは、そのたたずまいからもわかる。

「でもその代わりに、だれにも会わずに、本を読んだり映画を観たりする機会が圧倒的に増えました。それって、いいことですよね」

僕は10代の終わりから20代前半のころの自分を思い出して答えた。

「僕が大学生とか大学院生とかの時は、ヒマでヒマでしょうがなくってね。仕方がないので本を読んだり映画を観たり、名曲喫茶に行ったりして時間を潰していたんです」

そう言うと、仕事仲間も、大学4年生も笑った。

「いまはそのおつりで生きているようなものです」

と言うと、さらに二人は笑ったのだが、僕が言ったことには、かなりの真実が含まれている。

当然のことながら、いまはヒマでヒマでしょうがなかった大学の時のように、フットワークを軽くして映画を観ることなどできないし、仕事に必要な本以外の、自分の読みたい本を買っても、忙しくて読む暇がない。

しかし、若いときに観た映画(そのときにロードショー公開されていたものだけでなく古い映画も含めて)や読んだ本が、いまでも「話の泉」となる場面に何度も出会うのだ。

いま流行りの言葉でいえば、インプットとかアウトプットって言うの?あんまり好きな言葉じゃないが。

「芸は身を助く」ならぬ、「エンタメは身を助く」なのである。

いまはわからないかも知れないけれど、30年経てば、その大学生も実感するかも知れない。

遅い昼食をとったあと、今度は僕の解説をまじえて、職場見学をしてもらった。仕事仲間によると、「飽きてしまうかも知れませんよ」と前もって言われていたのだが、その大学生は飽きるどころか、営業時間が終わるまで目を輝かせていた。

もう会うこともないだろうが、その大学生に幸あれ、と思わずにはいられない。

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風穴を開ける

9月16日(日)

午後は、5歳の娘と二人で映画館で『プリキュアオールスターズF』を見に行った。映画館の客席がずいぶん混んでるなあと思ったら、昨日公開したばかりだったのね。僕が何も考えずに「プリキュアの映画、観に行く?」とうっかり提案したら、狂喜乱舞していたので、連れていくことにしたのである。

といっても僕はプリキュアがどんな内容のアニメなのかは知らない。ぼんやりと女の子たちが主人公のヒーローものなのかな?というくらいの知識しかないのだ。でもプリキュアのテレビ放送が始まってから20年経っているそうで、そんなに長寿番組だったっけ?と驚くばかりだった。

で、このたび初めて映画を観て、プリキュアのなんたるかを学んだのだが、僕のファーストインプレッションは、

(これは、ウルトラマンシリーズみたいなものなのか?)

という仮説が思い浮かんだ。テレビでは、この20年間にいろいろなプリキュアのチームが交代で活躍し、今回、歴代のメンバーが勢揃いして「オールスター」というタイトルがつけられたみたいだ。

たとえていえば、ウルトラマンとかウルトラセブンとか、テレビシリーズで活躍した歴代のウルトラ兄弟が勢揃いしたというのが、この映画なのか???

少なくとも僕はそんなつもりで観たのだが、上映時間もほどほどの長さだったし、娘は飽きるどころか大興奮して、家に帰ってからも、映画館で手に入れた小型のライトみたいなものやキーホルダー状の小さなお人形を使って、ウルトラマンごっこならぬプリキュアごっこをしていた。

さて、僕は帰宅後に、大仕事が待っていた。

これ、話せば長くなるし、どこまで書いてよいものか非常に悩ましいところなのだが…。

話の発端は、保育園のママ友たちが、有志で卒園記念のアルバムを作ろうという話で盛り上がったことに始まる。

保育園からは卒園時にアルバムのようなものが配られるのだが、どうもそれはあまりにも簡易なもので、しかも白黒ということで、保育園の保護者たちは、いたく不満なのだという。もっと思い出に残るような、カラー版の素敵な卒園アルバムを作りたい、と誰かが言い出したのだ。誰が言い出したのかは、いまとなってはわからない。

しかしそれは簡単なことではないので、必ずしも必要ないんじゃないか?あったとしても、できるだけ簡易に作れるものにした方がよいのではないか?という意見の人たちも、一定数いる。実はわが家もその立場である。

それで、ママ友のグループLINEでアルバムを作るか否かで決を採ることにしたところ、作るという意見が過半数を超え、結局作ることになった。一方で、作らなくてもいいんじゃないか、という意見も一定数いたことは、ここではっきり書いておかなくてはならない。

そこから数か月にわたって有志で集まって、どういうアルバムを作ろうかという話し合いの場を設けているようなのだが、いっこうに話が進んでいないようだった。

で、この日、また打合せをしたいというLINEがママ友たちの所に来て、夕方6時から、近くの公会堂で飲み物や食べ物を持ち寄りながら打ち合わせしましょう、ということになったのである。

うちの家族がかねて不思議に思っていたのは、なぜそのアルバムに関する意志決定には、ママ友だけが参加して、パパは排除されているのか、ということであった。そもそも、グループLINEがそういう構造になっているので、パパは蚊帳の外なのである。案の定、パパがその打合せに参加すると表明する家は一つもない。

それっておかしいんじゃないの?といううちの家族の総意で、パパである僕が参加することにしたのである。ママ友の会にパパが参加するのは明らかに「場違い」と言われそうだし、「空気を読めよ」「忖度しろよ」と思われるに決まっているのだが、うちの家族はそういうことが嫌いなので、ここは、パパが参加することで風穴を開けようということになった。僕にとっては、ママ友に混じって一人参加することに逡巡する気持ちはなくもなかったが、だれかがやらないとこの悪弊は永遠に続いてしまうし、僕は周りにどう思われてもバカなふりをすればいいや、と思うことにして、思い切って参加することにしたのである。

グループLINEによると、夕方6時から、近くの公会堂で飲み物や食べ物を持ち寄りながら打ち合わせしましょう、とあったので、はは~ん、これは単にママ友たちだけで呑みたいのだな、こりゃあ、アルバムについての打合せなどまとまらないぞ、というか、今まで数か月にわたって何にも決まっていないのは、そのせいなのか、と納得がいったのである。

で、近くのスーパーでウーロン茶と300円くらいのお菓子を買い、集合時間を10分ほど遅れて公会堂に到着すると、すでに大声で打合せが始まっていた。僕が打合せの部屋に入ると、一瞬、空気が張り詰めた。

「すみません。場違いな者がおじゃましてしまって」

「いえいえ、そんなことないですよ」

と言うのだが、明らかに僕の扱いに困るという表情だった。

最終的に集まったのは、僕を含めて9人。つまりママ友は8人ということになる。

ところでクラスの園児は全部で26人。ということは、大半の人が参加していないということなのだ。連休の中日なので、予定が入っているのだろうと思った。

最初はアルバムの打合せをするのだが、それぞれが勝手な希望を言い出し、たちまち収拾がつかなくなる。僕はだんだんイライラしてきた。

だれかが、ひとりひとりの0歳のときの写真を入れましょう、と言いだしたので、僕はつい我慢できず、

「保育園のアルバムで、ひとりひとりの0歳のときの写真を入れるって、それ関係なくないっすか?」

と言ったら、

「でもみんなの0歳のときの顔って見たいじゃないですか。親のエゴと言われればそれまでですけど」

と反論され、ほんとうに他人の子どもの0歳の顔って見たいと思うか?0歳なんて全員同じ顔してるぜ、と心の中で思ったが、おくびにも出さなかった。

あと、卒園式のときの写真も載せましょうと言い出すヤツがいた(もう「ヤツ」って言っちゃってるよ)。これもたまらず発言した。

「卒園式の写真をアルバムに入れることにしたら、卒園式で配れないじゃないっすか。たとえば小学校の卒業アルバムで、卒業式の写真なんてなかったじゃないっすか」

卒園式のときの写真をアルバムに収めることにしたら、卒園して小学校に入学したあとにアルバムが手元に来ることになる。それもまた面倒なこことになりはしないか?と僕は思ったのである。しかしこの意見も、

「でも卒園式で子どもたちが着飾った姿をアルバムに収めたいじゃないですか。親のエゴかも知れませんけれど」

と一蹴された。

僕が自分の子どもに対する愛情が薄いということなのか?と、この時点でかなり自分を責めたのだが、同時に僕ごときが何を言っても無駄なのだ、ということに気づいたのである。そこからはひたすらピクニックフェイスを心がけた。

僕はお酒を飲まなかったが、8人のママ友たちはアルコールが入り大声になり、時間が経つにつれてアルバムのことなんかどうでもよくなり、全然違う話題に脱線しまくっていた。酒が進むと、アルバムに乗り気でないほかの保護者へのやんわりとした批判や、保育士の方に対する愚痴とか悪口、はてはお連れあいに対する悪口雑言なども飛び出し、とても聞くに堪えない状況になっていった。

「決してクレーマーというわけではないんですよ。みなさんのためを思って…」

と弁解がましく言っていた人もいるのだが、いやいや、あなた、立派なモンスターペアレントですよ。

どおりで保育士さんが保護者を警戒するわけだ。

そこでようやく僕は理解した。

クラスの園児26人の保護者のうち、この日に欠席した17人保護者たちは、全部とは言わないが、初めからこうなることがわかっていたんじゃなかろうか?で、防衛本能がはたらいたのだ、と。いずれにしてもこれは、明らかに「サイレント・マジョリティー」という言葉がふさわしい。

もっとも、ママ友だとかパパ友が一人もいない僕の目から見た光景なので、「あの場に参加していたママ友はヤベーヤツばかり」というのはあくまでも僕の目線から一方的に見た偏見にしか過ぎませんよ!

僕は1時間を過ぎたあたりから気分がひどく悪くなり、2時間が経った8時過ぎにもう耐えられなくなり、

「そろそろ失礼します」

と、公会堂をあとにした。僕が出てから欠席裁判が行われているだろうなあと気分も悪くなったが、なんとか気持ちを落ち着かせようと、そのあとTBSのドラマ「VIVANT」の最終回をリアタイして、なんとか気持ちが復調した。

…ちょっと大げさに書いてしまったところもあるが、ママ友の飲み会を取材したと考えることにし、いつかこれをコントにしてみたいと思っている。

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今年の新語流行語大賞(予想)

9月15日(金)

今週も、よくぞよくぞ、「武田砂鉄のプレ金ナイト」のアフタートークまでたどり着きました!

いきなりですが、今年の新語流行語大賞を予想します!

今年の新語流行語大賞は、「アレ」です!!!

根拠は明白。新語流行語大賞を選ぶ審査の人たちは、まちがいなく野球好きのオジさんたちばかりだと思われるからだ。

ここ最近の大賞を見てみても〈カッコ内は受賞者〉、

2015年「トリプルスリー」(柳田悠岐/福岡ソフトバンクホークス、山田哲人/東京ヤクルトスワローズ)

2016年「神ってる」(緒方孝市監督/鈴木誠也外野手/広島東洋カープ)

2021年「リアル二刀流/ショータイム」(大谷翔平/ロサンゼルス・エンゼルス)

2022年「村神様」(村上宗隆/東京ヤクルトスワローズ)

とまあ、野球に関する言葉が大賞に選ばれているのである。

これって、ほんとうに流行ったのか?

「流行語」といわれた言葉はおろか、受賞者の野球選手・監督の名前が、大谷翔平以外はひとっつもわからない。なぜならまったく野球に興味がないから。

それにこれらの言葉は、ほんとうに流行したのか?「神ってる」と言ってる人を見たことないぞ。むしろ「スピってる」のほうがふだんよく使うぞ(「東京ポッド許可局」発)。

「村神様」なんて、絶対に「神様・仏様・稲尾様」からの連想としか思えない。つまり、野球好きのオジさんたちがノスタルジーからこの言葉を生み出し、それを勝手に流行語大賞にした疑いが強いのだ。まるで自作自演である。

そう考えると、今年の流行語大賞は「アレ」しかない。

数日前だったか、阪神タイガースがリーグ優勝をしたそうなのだが、岡田彰布監督は、チームにマジックが点灯したくらいから(この「マジックが点灯」という言葉も、野球に興味のない僕からしたらよくわからない言葉である)、選手に「優勝」のプレッシャーを与えないように、「優勝」とは言わずに、「アレ」と言い換えたのだという。つまり「優勝」という言葉を使うのは禁止で、代わりに「アレ」という隠語を使った、というのである。

…という話で思い出したのだが、創業者の名前を冠している大手芸能事務所の社名について、その創業者が数十年にわたり、人類史上に類をみない犯罪行為を犯したことが、その創業者の没後に問題となり、その犯罪者の名前を社名に残し続けていいのか、とだれもが思っているにもかかわらず、当の大手芸能事務所は意に介さず、その社名を使い続けている。

しかし、実際にテレビを見てみると、最近は所属タレントの口から所属事務所名が出ることが少なくなったし、まわりの出演者もなるべくその大手芸能事務所の名前をほとんど口にしないことに気づいた。つまり出演者や被害者にダメージを与える社名だということに、だれもが気づいたのである。

もうさ、「アレ事務所」と改名したほうがよくね?

…ということを、阪神タイガースそのファンたちが「優勝」をいう言葉を避けて「アレ」と言い換えてるのを見て、思いついたのである。

そんなことはともかく、もし「アレ」が受賞したら、受賞者はだれもが知っている岡田彰布監督となり、なかなか映える授賞式になるのではないだろうか。ということで、かなり高い確率で「アレ」が受賞すると考えたわけである。

個人的な希望をいえば、今年の新語流行語大賞は「ひもづけ」になってほしいと思うけどね。

そんなことより、阪神タイガースが優勝したことは、僕にとってかなり憂鬱である。

思い出すのは、1985年、僕が高校1年のとき、阪神タイガースは初のリーグ優勝、そして日本一に輝いた。

同じクラスにテニス部のK君という人がいて、このK君がむかしからのタイガースファンだった。

タイガースファンは一人だけで、それ以外の多くは、ジャイアンツファンだったと思う。

高1のクラスの男どもは、休み時間になると毎日のように野球話に興じ、ターゲットは自然とタイガースファンのK君となった。K君が、クラスのムードメーカー的な存在だったこともあり、みんながイジりやすかったのだろう。

やれジャイアンツが強いとか、タイガースが弱いとか、そんなことを飽きもせずに毎日言い合っていて、野球に関心のない僕は、どうして一つのチームにそれほどまでに肩入れできるのだろう?どうして好きなチームを一つだけ決めることができるのだろう?と、半ば呆れながら彼らの会話を横で聞いていた。

ところが、である。

高1の秋になると、形勢が逆転する。K君が応援しているタイガースがリーグ優勝し、さらには日本一となったのだ。

K君は「やっと俺の時代が来た」とばかりにマウントを取り始めた。心なしか声もでかくなった。まわりの同級生も、K君の強運さに舌を巻くばかりだった。ま、今から思えば、全然たいしたことではないのだが。

なぜこのことを思い出したかというと、再来月初旬に、高校のクラス会があるからである。

行かないつもりでいたが、お世話になった担任の先生もおいでになるというので、やはり担任の先生とは会えるときにあっておきたいと思い、出席の返事を出した。

僕が懸念しているのは、同級生の男どもの間で、野球話に花が咲くのではないか、ということである。しかも、高1の時に阪神が優勝して、あれから40年近く経って久しぶりにクラス会をしようとなった年に、また阪神が優勝したのである。こうなると、野球の話題が出ないということはありえない。

あ~、野球にまったく関心のない僕は、その場をどうやってやり過ごそうか。

そのことを考えると、ひどく憂鬱になるのである。

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勝手にブラタモリ

9月10日(日)

この地で講演をするにあたり、前日の夜にささやかな歓迎会が行われ、そこに、四半世紀近く前の教え子のMさんと久しぶりに再会したという話は前回書いたが、ちょうどその歓迎会が行われている時間、NHKでは「ブラタモリ」が放送されていて、この日の回で取りあげられた町が、なんとMさんが大学を卒業してからいまに至る20年間にわたり勤めている町だった。つまりMさんにとって地元である。正確に言うと、Mさんの故郷は別のところなので、20年間住み続けている町、といった方が正しい。

「そうだったね。前回の予告編を見て、今日のブラタモリはMさんの住んでいる町を取りあげることはわかっていたけれど、録画予約するのを忘れてきてしまった」

「先生、私もです」なんと地元のMさんも録画予約を忘れたというのだ。仕事が忙しくてそれどころではなかったのだろう。

さて本日。

朝、「新幹線の終着駅」近くのホテルをチェックアウトして、在来線に乗って講演会場に向かう。

前日の歓迎会のときに、講演会を企画したSさんから、

「明日は○○駅からタクシーに乗って会場に来てください」

とだけ言われた。つまり「自力で来い」という。ま、その方がこちらとしても気楽でよいのだ。

言われた通り、在来線に乗り、○○駅で降り、タクシー乗り場からタクシーで会場に向かう。

この会場が、駅から思いのほか遠いことを実感した。歩いて行くなんぞとてもムリである。ましてやこの暑さである。

(うーむ。帰りもまたタクシーなのかなあ…)

と思い、ハタと気がついた。そういえばMさんが講演を聴きに来ると言っていた。帰りはMさんの車で「新幹線の停まる駅」まで送ってもらうことにしよう。6年前の講演会のときにも、帰りは「鉄道では移動が不便な町」から「新幹線の停まる駅」までかなりの距離を車で送ってもらったことを思い出した。

Mさんが講演会場に訪れるやいなや、僕は手招きをしてMさんを呼んだ。

「今日、車で来てる?」

「ええ、帰りのことですね。いいですよ。「新幹線の停まる駅」までお送りしますよ」

なんと、ツーといえばカーである。持つべきものは教え子である。

講演会が無事に終わり、Mさんの車で「新幹線の停まる駅」まで向かう。その道中、

「先生、まだ時間ありますか?」

「切符とってないからね。時間は大丈夫ですよ」

「ちょっと寄り道して、ぜひ先生にお目にかけたいところがあるんです」

車は、Mさんの住んでいる町にさしかかった。その町のはずれにある名所旧跡に案内された。そこにあったのは古木だった。

「これは、車でないと来られないところだね」

「ええ、もう少しすると、ここにバイパスが通ることになり、圃場整備も行われて、風景が一変してしまいます。いま、道路を作っていますが、そのせいで地下水の流れが変わってしまったのか、この古木が少し枯れ始めているのです」

「それは大変だね」

その古木は「天然記念物」に指定されているのだが、たしかに葉の付き方などを見ると元気がない。

「なんとかしなければと、この地区の人たちが言っているのですけれど、なにしろ高齢化が激しくて…」

なかなか樹木の再生にとりかかるための人手が足りないということなのだろう。

「もう1カ所、お目にかけたいところがあります」

そう言って少しだけ車で移動したところに、先ほど見た古木と関係のある、古くて小さな神社があった。

その古木とこの神社の不思議な縁と歴史の話に、僕はすっかり魅了された。

…よく考えるといま僕らがやっていることは「ブラタモリ」ではないか!僕がタモリさんだとすると、Mさんは地元に詳しい案内役。昨日の「ブラタモリ」が見られなかった分、同じ町でわれわれは勝手に「ブラタモリごっこ」をしていたのだ。

「すみません。お時間を取らせてしまって」

「いえいえ、こういう機会でないと訪れることができないからね。とても興味深かったです」

「では、『新幹線の停まる駅』に向かいます」

車は再び走り出した。

「たぶん、昨日放送された『ブラタモリ』の冒頭は、この駅の場面から始まったと思われます」

なるほど、多分そうだろう。

短い時間だったが、ブラタモリごっこは実に楽しかった。

Mさんは改札口まで見送ってくれた。

「ではまたどこかでお会いしましょう」

また数年後に、どこかでふらりと会うだろう。

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6年ぶりの再会

9月9日(土)

久しぶりに乗る行き先の新幹線で、終点まで向かう。

明日の午後に講演会があるのだが、その前日にこぢんまりした歓迎会をしてくれるというので、前泊することになった。

当日に行って、講演だけして帰ってくることも可能なのだが、以前からお世話になっているところだし、とくにお世話になった地元の先生もおいでになるというので、行かないわけにはいかない。

ホテルにチェックインしてモタモタしていたら約束の時間になってしまい、急いで指定された居酒屋に行くと、すでに、僕以外の3人が来ていた。

お世話になった地元のK先生と、今回の講演会を企画したSさん、そして、びっくりしたのは、四半世紀近く前の教え子、僕が職場を得て初めての教え子のMさんがそこにいたことだった。

「お久しぶりです」

「あれ?お久しぶり。びっくりした~」

事前に聞いていた話では、今回の講演会を企画したSさんと、地元のK先生と、以前お世話になったAさんの3人がいらっしゃるということだったのだが、Aさんが都合がつかず来られなくなり、その代わりに教え子だったMさんが来てくれたようなのである。考えてみればMさんはいまでは広い意味での同業者で、この近隣の町に勤めているので、この場にいても不思議ではない。

ブログとは便利なもので、過去をさかのぼると、2017年6月25日に山深い町で行った講演会にMさんがわざわざ聴きに来てくれていた。あの節は、講演終了後に新幹線の停まる駅まで車で送ってもらい、ずいぶんと助かった。

K先生とも久しぶりである。現役を退かれてずいぶんと経つが、お元気な様子で安心した。歓迎会は、K先生の変わらぬソフトな語り口でのお話が中心で、気がついたら3時間経っていた。

「明日の講演会、聴きに行きますのでよろしくお願いします」

と、元教え子のMさん。ちょっとプレッシャーだな。

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声優第二世代

9月5日(火)の文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」のメインコーナー「大竹メインディッシュ」のゲストは、神谷明さんだった。久しぶりに映画版「シティーハンター」の最新作が公開されることになり、主人公の冴羽獠の声をあてるという。

生まれた年を聞いて驚いたが、1946年生まれの76歳だという。いまでもバリバリ現役で、昔と変わらず冴羽獠の声をあてているのだ。

…といっても、僕は、アニメ弱者なので、このあたりのアニメを全然見ていなかった。

聞くところによると、神谷明さんは当時、『週刊少年ジャンプ』に同時期に連載していた「キン肉マン」と「北斗の拳」と「シティーハンター」の3作品がアニメになったときの主人公の声をすべて担当していたんだってね。恥ずかしいことに僕は、「キン肉マン」も「北斗の拳」も観ていないのである。『週刊少年ジャンプ』派ではなく、『週刊少年サンデー』派だったからだろうか。いずれにしても、「ルパン三世パートⅡ」を最後に、僕は同世代の人たちが観ていたであろうアニメに完全に乗り遅れてしまったのだ。

しかしながら、神谷明さんの声に思い入れがあるのはなぜだろうと考えていたら、NHKの人形劇「プリンプリン物語」の影響があるのではないかという気がしてきた。僕はその前の『紅孔雀』から人形劇を観ていて、そこにもたぶん神谷明さんが声をあてていたから、人形劇の印象が強いのかもしれない。

で、ラジオを聴いてみると、声優の歴史について、こんなことが語られていた。

この国における声優の歴史というのは、まず(NHKの)人形劇に始まると。そのあと、洋画の吹き替えで声優の需要が増え、やがてアニメ全盛の時代になっていくという。

で、最初のころは、俳優だけでは食えない人たちが声優として活動した。熊倉一雄、若山玄蔵、野沢那智、近石真介、納谷悟朗、山田康雄、といった人たちがそうであろう。

そういう人たちが声優の先鞭をつけてくれたおかげで、自分も声優の道に進むことができたのだ、と神谷さんは言う。たしかに、僕はどちらかというと、人形劇の声や洋画の吹き替えのほうが、アニメの声優よりも馴染み深い。神谷さんは、声優第二世代なのだ。

余談だが、近石真介さんが長年続けていたTBSラジオの朝のワイド番組「こんちワ近石真介です」が惜しまれつつ終了した後、それを引き継いだのは神谷明さんだった。僕は子どもながらにその流れがとても自然だと思われたが、いま思うと、声優第一世代から第二世代への引き継ぎが込められていたのかもしれない。

「むかしの声優さんは、声を聴くとだれなのかすぐわかったが、最近の声優さんは、なかなか声の区別がつかない」という神谷さんの言葉にも納得である。自分が年をとったせいもあり、声優の絶対数も増えていることが原因なのだろうが、「ポアロ」といえば熊倉一雄、「コロンボ」といえば小池朝雄、「ルパン三世」といえば山田康雄、といったように、画面のキャラクターと声優(俳優)が分かちがたく結びついていた。…というか、実はいまも同じで、たんに僕がいまの声優事情を知らないだけかもしれない。

声優の概念を壊したのは、宮崎駿監督なのではないかと、いまふと思いついたが、確たる根拠はない。それにしても、声優の看板でずっとやってきた神谷明さんが現役で活躍されているのは、みんなにとってハッピーなことなのではないかと、ラジオを聴いて思ったのである。

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サイケデリックトレイン殺人事件

9月3日(日)

実家に戻ると、僕が中学生の時に使っていた通学鞄を母が見つけて僕に見せてくれた。僕が通っていた中学校では、男子中学生は肩からかけるタイプの白い通学鞄を使っていた人がほとんどだったが、僕は、手に持つタイプの革製の黒い鞄を使っていて、実際に手に取ると、鞄自体がけっこう重くて、中学生が使うにはあまり合理的なものとは思われない。しかし当時僕は、かたくなにこの通学鞄を使っていて、肩からかける通学鞄のほうが楽だよと何度説得しても、意に介さなかったと、母は述懐した。

さてその通学鞄はチャックが締まっていたが、中に何か入っているかもしれないと、チャックを開けて中を見てみると、音楽の教科書や五線紙のノート、そして点数を付けて返された、わら半紙に印刷された試験用紙が数枚入っていたが、さらにもう1枚、わら半紙に鉛筆で書いた不可解な紙が発見された。筆跡からすると僕が書いたもので、中学校の通学鞄に入っていたので、当然中学生の時に書いたものである。以下、原文のまま引用する。

「サイケデリックトレイン殺人事件

主役 名探偵 デビッドパーサー

   助手  カリントピーナツ

二月二十二日(水)、私は久しぶりの休かをとり、サイケデリックトレインを利用して私の郷里であるステネに向かった。助手のカリントピーナツもいっしょだった。ふと私は、「ステネにキテネ」という言葉を思い出した。などと言っている場合ではない。大変なことが起こったのだ。その時である………。

「大変だ!!人が死んでるぞ!!」

私のとなりの部屋にいる乗客ケントチャクソンがさけんだ。」

…わら半紙に書かれた文章は、ここで終わっている。

筆跡はまごうことなき僕の字なのだが、こんな文章を書いた記憶がまったくない。

だいたい、「サイケデリックトレイン」って何だ?

「郷里であるステネ」って、ほんとうにある地名なのか?

名探偵の名前が「デビッドパーサー」で、助手の名前が「カリントピーナツ」というのも、意味がわからない。

もう一人の登場人物「ケントチャクソン」は何者なのだ?

すべてが謎なのだが、これだけの文章から明らかにわかることは、どうやら僕は推理小説を書こうとしていたらしい。

名探偵の名前「デビッドパーサー」というのは、1983年末のYMOの散開コンサートでドラマーとして唯一ゲスト出演した「デビッドパーマー」を捩った名前だろうか。当時僕はYMOに心酔していて、YMOの散開がショックだったので、たぶんそれ以外には考えられない。ということは、YMOの散開後、つまり中2の終わりか中3になった1984年に、この文章が書かれたということになる。さらに調べてみると、冒頭に「二月二十二日(水)」とあるが、実際1984年の2月22日が水曜日だったことも、その傍証になろう。

謎なのは、なんとなくアガサ・クリスティの『オリエント急行殺人事件』をモチーフにしているような書きぶりなのだが、この時点で僕は、『オリエント急行殺人事件』を読んでいない。『オリエント急行殺人事件』の概要について知ったのは、大人になってからである

そして最大の謎は、このあと、僕はどのように事件を展開させて、名探偵に推理させようとしたのか?ということだ。あるいは、何も結末を決めずに書き始めたのかもしれない…。

書かれている文章のすべてが謎なのだが、ただひとついえることは、僕は中学時代、どうやら推理作家になりたいと思っていたということである。

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塩漬け回避

9月1日(金)

職場の会議に二つ出て、その合間は、原稿の校正である。いま手元にある校正は3つあるのだが、そのうちの2つを苦労して終えた。あとは、近々に迫っている講演会の原稿とパワポ作りである。

いちばん嫌いな言葉は「校正」である。「校正」ほど憂鬱なものはない。だいいち面倒くさいのだ。あたりまえのことなのだが、正確な事実を書いているかを、ウラ取りをしながらいちいち確認しなければならない。

今日、校正を仕上げた2つのうちの1つは、コロナ禍前の、2019年の夏だったか秋だったかに提出した原稿である。つまり、ほぼ4年前に書いた原稿である。

入稿してからこれだけ待たされたら、もう出ないんじゃねえの?と諦めていたが、まさかの初校が送られてきたのだ。

またこれも愚痴になるが、最近は、PDFファイルでいきなり校正が送られてくる。で、そのPDFファイルの校正を出力して、そこに赤字を入れて、それをスキャナーでPDFファイルにして返信をする、というケースが増えた。むかしはちゃんと紙で送られてきたんだけどねえ。

PDFファイルを出力しなくとも、直接ファイルに書き込める方法があるようなのだが、そんなやり方など知らないので、上述のような面倒な作業をしなければならないのである。この作業も含めて、校正というのは実に煩わしい。

4年も前に書いた内容を読み返すと、すっかり書いた内容を忘れていた。初めて読むような文章である。ま、夜に書いたラブレターは一晩寝かせて読み直せ、という教訓があるくらいだから、4年もの歳月をおいて自分の書いた文章は、ほとんど他人の書いた文章と言ってもよい。

何がうれしいといって、この原稿が塩漬けにならずにすんだことである。僕は校正紙を真っ赤にして出版社に返送した。

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