座談会
10月29日(日)
ある出版社のシリーズ企画の本に原稿を書いた。その本というのは、1冊ごとにテーマを決めて複数の執筆者が書くスタイルなのだが、それだけではなくて、巻末には執筆者たちによる座談会を掲載するという、たいへん面倒くさい構成になっている。
どうしてそんなに面倒くさいことをするのかとたずねてみると、「シーズン1」の時にそのスタイルで出版をしたら、本の中でも、座談会のところが一番よく読まれたのです、座談会は、各執筆者の文章を読むための格好な導入になっているのです、という答えだった。ということは、シーズン1のやり方が好評だったからシーズン2の企画が通ったんだなと思ったが、こっちとしてはたまったものではない。僕は座談会というのがそもそも苦手なのである。同業者が集まっての座談会となればなおさらである。
座談会というのは、一種の反射神経を競う競技のようなものである。しかも、自分にそれ相応の実力がないと、ほかの人たちと太刀打ちできない。いちど、業界誌のある企画で鼎談をしたことがあるが、あまり達成感のない結果に終わってしまった。
それと、座談会ということになると、そのときに喋っている一人ひとりの様子が写真に撮られ、「いま語ってますよ」という雰囲気の写真が本に掲載されるわけだが、それもまた苦手である。ほかの人の写真は、見るたびに「いいタイミングで撮られているなあ」とか「いい表情をしているなあ」と思うのだが、いざ自分が撮られるとなると、「いい表情」をする自信が全くない。
原稿を書くだけで勘弁してくれよ、と思うのだが、そこにもうひと手間かけなければいけないわけである。
たいへんなのは執筆者だけではない。座談会を文字起こしして、読める文章にする作業をする編集者もまた、たいへんである。喋った言葉が一字一句、そのまま使える文章になる、ということはまずあり得ない。「座談の名手」は、徳川夢声くらいじゃなかろうか。
出版社は、そんなことはすべてお見通しで、事前に、「緊張しないで、自由に発言してください!」とか、「発言内容は、メモを作ってきても結構ですが、棒読みにならないよう、くれぐれも注意してください。数字や細かい内容にこだわる必要はありません」と釘を刺した注意事項が送られてきた。そうはいっても、僕以外は百戦錬磨の同業者である。こういうときは、
「なんかあっちゃいけねえ」
と考えるのが僕の性分なのだ。
そこで、事前に送られてきた資料を読み込んだり、座談会の展開をイメージトレーニングして想定問答を考えたりと、いろいろと準備をしようと思ったのだが、金曜日は夜遅くに出張から戻り、昨日の土曜日はまる一日、5歳の娘の子守をして、さらに今日の午前中は、娘が「公園に行きたい」と言ってきかないので、公園に連れていったりと、結局何も準備できなかった。
仕方ない、ぶっつけ本番でのぞむかと、午後、都内に移動して、威圧するような出版社の建物を前にしてさらにプレッシャーを感じながら、建物の中に入る。
幸いだったのは、執筆者はいずれも以前からの知り合いで、僕が苦手とする人は一人もいなかった。こっちが多少ヘンなことを言ってもうまく拾ってくれるだろう。
座談会が始まってほどなくすると、
(ははあ~ん、さてはみんな準備してきていないな)
というのがわかり、少し安堵した。もちろん、あらかじめメモを作ってきている人もいなかった。ほかの執筆者たちも「出たとこ勝負」でのぞんでいたようだ。
座談会は2時間ほどで終わったが、僕が編集者だったら、
(うーむ、この数々のカオスな発言を、どのようにして自然な感じの座談会にまとめていけばよいだろうか)
と頭を悩ませるに違いない。そうとうたいへんだぞ。
しかし、そんな心配も杞憂に終わるだろう。なぜならそんなことは百も承知の、百戦錬磨の編集者たちだからだ。あとは、その「ビフォーアフター」とも言うべき編集の妙を楽しみにしていさえすればいいのだ。
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