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2024年1月

手ぶらの日帰り出張

1月30日(火)

新幹線で2時間半ほどかけて、関西の観光都市に向かう。

昨年春のイベントでお世話になった方が、今度はご自身の職場でイベントを開催するということになった。その会期が今週末までということだったので、唯一空いているこの日に、日帰りで見に行くことにしたのである。

少し早めについたので、「高倉健の愛した、円形カウンターのある喫茶店」に立ち寄った。たしか昨年だったか一昨年だったか、訪れたときに、リニューアル工事をするというので閉店していたが、今日行くと、建物自体もなくなっていた。建て直すらしい。まだ当分、ここでコーヒーを飲むことはできない。

そこで、すぐ近くにある「高田渡の歌の舞台となった喫茶店」に入ることにした。実はこっちの方が本店である。僕は初めて入ったが、実に落ち着く空間だった。

いつまでもそこで休んでいたい衝動に駆られたが、約束の時間になったので、喫茶店を出て用務先に向かう。そこで、昨年お世話になった方に久しぶりにご挨拶して、東京駅で買った簡単な手みやげをお渡しした。

そもそも今回の旅は、先方にお渡しする手みやげのほかは、ほとんど手ぶらで移動したのである。正確にいえば、小さなポーチみたいなものを肩から掛けていたので、完全な手ぶらとは言えないが、両手が空いていること自体は事実である。以前だったら、どこに行くのでもノートパソコンを持ち歩いていたのだが、どうせ持っていても使わないのだから、持っていく必要はないことにようやく気づいたのだ。

折しも先日の韓国出張で、できるだけ余計な荷物を持たずに軽装で移動することのありがたみを感じたので、今回はほとんど何も持たずに移動してみることにしたのである。すると、ずいぶん楽だということに気づいた。いままで旅先に余計なものまで持っていったことがバカみたいである。

関西の観光都市での滞在時間は3時間。体調が低空飛行な僕は、それだけでもかなりの疲労を感じ、早めに新幹線で帰ってきた。

 

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人間ドックでした

1月29日(月)

人間ドックの問診票に

「コロナワクチンは最終的にいつ接種しましたか?」

みたいな質問があって、

「覚えてねえよ」

と思ったのだが、よく考えてみると、このブログに書いたなあと思って過去の記事を検索することで正確な接種年月日がわかった。このブログは日記代わりに書いているから、意外と役に立つこともある。

…というわけで、人間ドックの受診日もこのブログに書いておこうと思ったと、ただそれだけである。

昨年も同じ病院で受けたが、結果は昨年とほぼ変わらない。大きく目立ったような心配事はない、とのことだった。しかし実際に僕の身体には深刻な心配事があるわけで、人間ドックだけですべて身体の異変は見つけられないのだ、ということが毎度のことながらよ~くわかった。

そんなことを差し引いても、当然ながら受診しておくに越したことはないので、胃カメラを含めた定期的な検診をおすすめする。

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ママ友ディストピア

1月28日(日)

午後1時から、3月に行われる「卒園式」に関する会議が行われる。呼びかけ人は、ママ友有志たちである。

以前にも書いたが、うちの娘と同じ保育園クラスのママ友たちは、保育園の提供する通常の行事だけでは飽き足らず、自分たちでどんどん行事などを増やしていく。どこのママ友もそうなのだろうか?

地元の公会堂で1時から開始というので行ってみると、すでに会議が始まっていた。例によって、参加者16名のうち、ママ友が15名、パパは僕1人である。

どうしてママ友が主導権を握るのか?どうして意志決定からパパが排除されるのか?というのがいつも疑問で、それで僕は「バカなフリ」をしてママ友のみの会議に平然と顔を出すことにしたのである。

ママ友ばかり15人の中に入っていくことは勇気が要るのだが、「バカなフリ」をしているので恐いものは何もない。

今日の議題は、次の通りである。

①卒園式の時に、保育園と担任の先生に贈る花の可否

②子どもたちに記念品の可否

③卒園パーティーの可否

「可否」とあるが、以上の3つはすでにやることが決まっているので、いまさら反対するわけにもいかない。

卒園式というのは、3月21日(木)の午前中に行われる、保育園の公式行事である。子どもたちが歌を歌ったり、卒園証書を授与したりするという、おそらく1時間ほどで終わる簡素な儀式である。

ママ友たちは、それが気に食わないらしい。

「そんなのつまんな~い」

と一部のママ友が大声で駄々をこねたところからはじまり、あの手この手で卒園式を盛り上げようと考えた。それが、議題の①と②である。

①は、保護者たちが、保育園全体に対してと担任の先生に対して花束を贈るという提案で、保育園には大きな花束を、担任の先生にはそれなりの花束を贈ることになり、全部で2万円くらいの予算で花束を渡すことになってしまった。一見よさそうな提案だが、花束を渡すということは、だれかが花を注文して、花を取りに行くか届けてもらうかしなければならない。それだけ手間とお金がかかる。

②は、卒園式の時に保護者たちが子どもたちに向けて記念品を贈りたいという提案なのだが、そんなの、それぞれの家でやればいいじゃん!と喉元まで出かかった。なぜわざわざそんなことをする必要があるのか。

記念品の中身は、同じデザインの、かつそれぞれ自分の子どもの名前を入れた「鉛筆ひと箱」だということだった。鉛筆なんて、それぞれの家で買えばいいじゃん!と思うのだが、わざわざ同じデザインの鉛筆を作ることで、「小学校に行っても、保育園の友だちはいつも一緒にいるよ!」という意味を込めているという。

はぁ???意味がまったくわからないんですけど。というかそんなスピリチュアルな話、キモチワルイ!

卒園式はそれだけではない。卒園式の一部始終の様子を、業者にビデオ撮影してもらって、あとでDVDに焼いてみんなに配るという提案もなされた。なぜ業者に撮影してもらうかというと、保護者のだれかが撮影係になってしまうと、卒園式で一緒に感動できないから、だという。当然、その分の費用が保護者の負担となる。

するとこんどは、

「DVDに焼くのはヤダ!USBに入れたデータでほしい!」

と駄々をこねるヤツが出てきた。このあともそうなのだが、こいつはいちいちこのあとも自分のわがままを通そうとする。で、司会進行をしているママ友は、なんとかしてその意見をくみ取ろうとするので、どんどんと手間がかかる方向に進んでしまう。話し合えば話し合うほど、どんどんとお金と手間が増えていく。ダメな会議の典型である。重要なことなので2度言う。これはダメな会議の典型である。

③の「卒園パーティー」というのは、卒園式が終わったあとに、ママ友有志が主催するパーティーである。この日は平日なのだが、おそらくみんな終日休暇を取るだろうと推測して、午後に行うことが提案された。というかすでにお店も貸し切りでおさえたそうなので、反対する余地がない。

問題は、卒園パーティーを午後の何時から開始するかである。当初は午後4時から6時までの2時間として、卒園式が終わって、いったん家に戻って着替えをしたりしてクールダウンしてからパーティー会場に移動するというつもりだったようなのだが、また一部のわがままなママ友どもが、

「ええぇぇぇ?卒園パーティーも(着替えずに)おめかししたままやりた~い」

と言いだした。さあそこで、卒園パーティーを、いったん家に戻ってからお店に向かうか、それとも卒園式からそのお店に直行するかで、真っ向から意見が割れた。

ややこしいのは、別のヤツが、

「せっかくだから保育園の先生もよびましょう。謝恩会みたいな感じで」

と提案して、またもや場が盛り上がってきたのだが、僕はもう我慢できず、

「その時間、保育園の先生は勤務時間ですよ」

と反論した。午前の卒園式が終わってからも、保育士さんは午後に通常勤務があるのだ。この辺から僕はもう会議室のテーブルをひっくり返したい衝動に駆られた。

「卒園パーティーで何やりますか?」

「余興をやりましょう、余興を」

「スライドショーなんていいね」

おいおい、結婚披露宴かよ!!

「子どもたちの歌が聴きた~い」

「ママから子どもたちに歌のプレゼントがした~い」

「子どもたちが学芸会の時にやった劇を、パパたちにやってもらいた~い」

「ビンゴゲームをした~い」

「プレゼント交換をした~い」

「クイズをした~い。パパとママの小さい頃の写真を持ってきてもらって、『これはだれのパパ(ママ)でしょうか?』っていうクイズ~」

とまあ、次から次へとわがままな提案をしてきた。

卒園パーティーは、お店の都合で2時間しか貸し切りができないのだ。しかも、余興を考えれば考えるほど、そのための手間を増やすことになる。何度でも言うが、ダメな会議の典型である。

この中で「プレゼント交換」という提案が残ったが、具体的にどのようにするのか、まったく話がまとまらない。500円くらいのお菓子をそれぞれ買って交換したらどうか、と言うところまでは話が進んだのだが、そこから先、やれ包装はどうするかなど、細かい議論が始まって、いっこうに埒があかない。業を煮やした僕は、

「『まちおか500円チャレンジ』でいいんじゃないっすか?」

と思わず発言した。

「何ですかそれ?」

「知らないんですか?いま巷では『まちおか1000円チャレンジ』ってのが流行っているんですよ」

「知りません」

そりゃそうだ。TBSラジオ「東京ポッド許可局」のヘビーリスナーの間でしか流行っていないのだから。

「お店を『まちおか』に決めて、そこで500円以内のお菓子をそれぞれチョイスするのです。それを交換すれば、不公平がないでしょう?」

だれかが、

「『まちおか』の回し者ですか?」

と聞いてきたので、

「回し者です」

と答えてやった。

その提案が通るかはわからないが、おそらく通らないだろう。

最後にひとつ、ママ友の間で、こんな会話が交わされていたのを耳にした。

「卒園パーティーで子どもたちに歌ってもらおう」という提案の中で、何の歌を歌ってもらおうかという話題になった。さまざまな歌が提案されたが、なかに、

「やっぱり『一年生になったら』がいいんじゃない?」

と言った人がいた。すると僕の隣に座っていたママ友が、

「あの歌ですか…。『友だち100人できるかな』という歌詞は、友だちは多いほどよいという特定の価値観を押しつけているので、あんまりよくないんじゃないかという人もいますね…」

とぽつりと言った。僕も、たしかにそのとおりだと思った。するとそのまた隣に座っていたママ友が、

「そんなこと言ってるヤツには『黙ってろ』と言いたいわよ!」

と、声を荒げていた。そんなことぐだぐだ考えずに歌えばいいのよ、ということなのだろう。

結局、子どもたちが歌うという余興自体は行わないことになったが、それにしてもどんなディストピアなんだ、この世界は。

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極寒の再会

1月25日(木)

ホテルについて少し休んだあと、地下鉄「大邱駅」駅を出たところのユニクロに向かった。約束の17時半に間に合った。

少しして、ナム先生一家があらわれた。

ナム先生は、15年前の2009年、韓国に留学していたときの韓国語の先生の1人である。このブログで何度か登場しているので説明は省く。

国際会議のメンバーと別れて、単身「第三の故郷」である大邱に向かったのは、大邱がいまどうなっているかを知りたかったからである。しかし1人でまわっても効率が悪いと思い、いちばん連絡が取りやすいナム先生に連絡したところ、仕事が17時に終わるので、17時半に大邱駅のユニクロ前で待ち合わせましょう、ということになった。

ほんとうは、ナム先生の姉夫婦も会いたがっていたそうなのだが、ヒョンブ(姉の夫)が仕事の都合でどうしても時間が合わないということで、ナム先生一家、ナム先生ご夫妻と7歳の息子さん、とで会うことになったのである。僕はなぜか、本来は縁もゆかりもないヒョンブに好かれていて、10年以上前の2012年8月にヒョンブの家に泊まりに行って、一晩語り明かしたほどである。

ナム先生とは何年ぶりに会ったのか、よく覚えていない。息子さんが7歳になったということは、最後にあったのは7年以上前かもしれない。覚えているのは、2014年の12月25日に、韓国での仕事が早く終わったので大邱に行き、ナム先生ご夫妻と一緒に教会に行ったことである。それ以降あったかどうかは覚えていない。

ひとつ心配なのは、意思疎通ができるかどうかだった。僕の韓国語は完全に後退してしまって、国際会議でもほとんど片言で終わってしまったが、通訳がいたおかげでコミュニケーションが取れた」。ナム先生ご夫妻は、当然日本語がわからない。つまり逃げ場がないのだ。

「これから夕食を食べに行きましょう」

ナンピョン(夫)が運転する車に乗ってちょっと遠くのお店に移動するのだが、車内では矢継ぎ早にいろいろな質問が来て、それを韓国語で答えないのいけないので、かなりツラい。しかしえらいもので、ナム先生はいまでも朝9時から夕方6時まで外国人に韓国語を教えているから、平易な言葉を使ってくれて、おかげで質問の内容がすべてわかるのである。しかしそれを答えようとすると、今度はこっちの韓国語が出てこない。何とももどかしいのだが、それでも、僕のド下手な韓国語から内容を類推して、パラフレーズしてくれる。なるほどそう言えばいいのか、と、まるで韓国語の勉強をしているようだった。自分の韓国語能力の低さを、韓国語を使って救ってくれているのである。ほかの人ならばこうはいかない。

食事のあと、「私たちもまだ行ったことがないのですけれど、夜景がきれいな公園が最近できたので、行ってみましょう」と、再び乗り込んだ。12月25日~1月末までの期間のみ公園にイルミネーションがほどこされ、「サンタ公園」といわれている。

車から降りると、たしかにイルミネーションがきれいなのだが、なにしろ寒い。気温は氷点下である。あまりに寒いせいか、きれいな場所なのに、人っ子ひとりいない。

「この上に展望台があります。エレベーターがないので歩いてのぼりましょう」と、これまた寒い中、緩やかなスロープをらせん状にのぼりながら狭い展望台に着くと、夜だというのに解説員らしきおじさんがひとりいた。僕たちが熱心に見ていると、やたらと解説してくれるのである。そりゃあそうだ。寒くて展望台にはだれもいないんだもの。

「この方、日本の方ですよ」とナム先生が僕を紹介すると、その解説員は、なんと日本語で話し始めた。

聞いてみると、日本で仕事をしたことがあるらしく、奥さんは日本人だということだった。

「この展望台に立つと、市内が一望できます」

「ほんとですね」

しかし寒くて長い時間はいられず、再び長いスロープを歩いて下まで降りた。

そのあと身体を温めるために、コーヒーショップであたたかいお茶を飲みながら話をした。そこでも矢継ぎ早に質問が来る。話題は日本のアニメ「名探偵コナン」の話になった。「コナン」は韓国でも有名である。これまでずっと質問に答えるばかりだったのだが、自分から話題を出そうと、こんなことを言った。

「うちの娘は、私の仕事を知りません」

「そうなんですか?」

「だから、『パパの仕事は名探偵なんだよ』と言って、娘はそれを信じています」

「へえ、それは面白い!」

なんとか自分の言いたいことが伝わったことに、安堵した。

こうして4時間ほど、ナム先生ご一家と過ごし、ホテルの近くまで送ってもらった。

「今度はぜひ、ご家族3人で来てください」妻と娘にお会いしたいと何度も言っていた。

「わかりました」

車から降りてお別れをして、極寒の中をホテルへと向かった。

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ホテル変更

1月25日(木)

目覚ましが鳴らず、起きたのは7時45分だった。

やべえ!!8時にチェックアウトして車でバスターミナルまで送ってもらう約束だった!

国際会議が無事終わり、今日は参加メンバーが貸し切りバスに乗り、まる一日巡見する予定なのだが、さすがに僕は団体行動に疲れてしまい、わがままを言って1日早くこのホテルをチェックアウトして、1人で気ままに旅をすることにしたのである。

20分で着替えと荷造りを済ませ、ロビーに降りると、バスターミナルまで車で送ってくれるウさんとHさんがすでに待っていた。

「寝坊しちゃって、ごめんなさい」

「大丈夫ですよ」 

車に乗り込んで、ウさんの運転でバスターミナルに向かう。

ウさんは、15年前、僕が韓国に留学していたときに大変お世話になった方である。ウさんもこの国際会議にスタッフとして参加していた。15年ぶりの再会である。15年経っても、ウさんはまったく変わらなかった。

「昨日の2次会は途中で失礼しましたけど、あれからどうなったのですか?」

「ええ、めいっぱい仕事をしましたよ」とウさん。「仕事をした」というのは、「がんばって場を盛り上げた」ということを意味する。「某国の人たちは、ノリが悪くていけません。おかげでカラオケを2曲歌いましたよ」

そうこうしているうちに、バスターミナルに到着した。

「ウさん、お元気で」

「今度は日本でお会いしましょう」

さて、めざすは15年前に1年間暮らした大邱である。

いかにも地方都市のバスターミナルという趣で、まるで時間が止まっているような場所だった。

9時発のバスに乗ること2時間半、バスは大邱の西部バスターミナルに到着した。ここもまた時間が止まっている。ここから地下鉄1号線に乗り、東大邱駅まで移動する。東大邱駅に着いたのはちょうどお昼の12時くらいだった。

しかし今日泊まる予定のホテルの場所がわからない。この15年で、東大邱駅の周辺はかなり変わってしまった。

KTXの東大邱駅を出たところに観光案内所があったことを思い出し、行ってみたところ、むかしと変わらない場所に観光案内所があった。

「このホテルを探しているんですけれど」

と、スマホの画面を見せると、

「Kミニホテル??聞いたことないですねえ」

案内人がさっそくネットで検索してくれて、道順を教えてくれた。

教えられたとおりに歩いていくと、ボロボロの雑居ビルにたどり着いた。

見ると、

「Kミニホテル 3階」

と書いてある。3階には、薄暗くて狭い階段でのぼらなければならない。重いキャリーバッグを持ち上げながらやっとの思いで3階にたどり着いてびっくりした。

ボロボロのモーテルやないかい!!!

3階のワンフロア、といっても古いビルなので狭い空間に、客室が数室ひしめき合っているだけだった。掃除中のようで、すべての部屋のドアが開いていたので覗いてみると、ひどく狭くて、むかしのモーテルそのままである。

「だれかいますか~?」

と叫ぶと、掃除中の部屋から90度に腰の曲がったお婆さんが出てきた。

「あの、今日予約している…」

「ああ、予約してるのね。チェックインは夕方6時からですよ」

「夕方6時?」

見ると、Information Deskと書かれたところに貼り紙がしてあって、「チェックインは午後6時から」と、手書きで書かれている。Information Deskとはいっても、お婆さんが寝泊まりをしている守衛所のような空間である。

「荷物を預けたいんですけど」

「いいよ。そこに置いておきなさい」

そこって、どこ?どうやら廊下において置けということらしい。

不安そうな顔をすると、

「安心しなさい。心配しなくていいから」

と、その腰の曲がったお婆さんは言うのだが、だれもが持ち出せるスペースに置いておくのは、やはりかなり不安である。

それでも、仕方ないかと思っていったんホテルを出て、東大邱駅に戻ったのだが、やはりモーテルのことが気になって仕方がない。今日一晩、あのモーテルで寝泊まりすることは、やはり耐えられないと判断した。

そこで、急いで東横インを予約し、予約が完了したことが確認した時点で、さっきのモーテルに戻る。

「サジャンニム(社長様)!!!いますか?」

サジャンニムとは、腰の曲がったお婆さんのことである。何度か呼んでみると、やっと奥からお婆さんが出てきた。

「事情があって、今日は宿泊しないことになりました」

「安心しなさいよ。心配することないよ」

とお婆さんは再三言っていたが、預けた荷物を回収して、逃げるようにしてそのモーテルを出たのだった。

東横インは大邱駅から近いですよ、ということを国際会議に参加していた人から聞いて、その情報だけを手がかりに東大邱駅から地下鉄1号線に乗って大邱駅で降りたのだが、どこにあるのかが分からない。Googleマップを使って歩いてみたが、行けども行けどもたどり着かない。

そのうちに見慣れた町の光景が広がった。「中央路」という繁華街だ!15年前の留学中に、何もすることがないと、この繁華街にある映画館でよく映画を観た。いまも建物は残っていたが、映画館は閉館してしまっていた。

キャリーバッグを引きながらゆっくりと歩くと、繁華街が途切れるあたりのところに東横インを見つけた。結局地下鉄1号線の「大邱駅」から「中央路駅」まで、ひと駅分歩いてしまったことになるが、おかげで中央路の繁華街をゆっくりと通りながら、その風景を懐かしむことができた。

朝9時に大邱行きのバスに乗って、東横インにチェックインしたのは、6時間後のことだった。

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国際会議・2日目(最終日)

1月24日(水)

ホテルの部屋の中と外の寒暖差が激しく、朝からちょっとコンディションが悪い。

ちなみに韓国では、寒暖差のことを「일교차(イルギョチャ・日較差」)というそうだ。これは試験に出るぞ。

朝7時半~8時半がホテル内で朝食。9時から会議が開始、12時40分に午前の部が終わり、お昼ご飯はホテルの外の食堂で食べ、14時に午後の部を開始、18時30分に会議が終了し、そのまますぐにまた外の食堂で夕食を食べる、という一連の流れは、昨日とまったく同じである。会議にはほとんど通訳がつかないため、ちんぷんかんぷんのまま辛抱強く座っていなければならない。

今日はそれに加えて、歓迎会と称した2次会がホテル内の宴会場で行われたのだが、僕は今日1日、コンディションが悪いし、お酒も飲めないので、40分ほどだけ出て、「中座します」と言って、ホテルの部屋に戻ってきた。2次会では狂乱のカラオケ大会が始まり、カラオケの順番があたらないうちにと、ひっそりと抜けたたのである。

会議の話に戻る。僕の登壇は16時から始まる最後のセッションだったが、15分おして、16時15分からとなった。持ち時間は30分。通訳がつかないので、30分日本語でひたすら喋り続けた。

それが終わると討論である。ふつうは討論のときには通訳がつくのだが、時間がおしてしまったので、こちらも通訳をつけず、あらかじめ用意していた「質問に対する回答」を日本語で読み上げただけで終わった。僕がほかの人の話を聞いてもわからないように、僕の話もわかってもらえてないのではないだろうか。

そのあとすぐに始まった「閉会の辞」では、今回の国際会議が大成功のうちに終わったと高らかに述べていた。

日本語がわかる主催者側のスタッフたちと僕が一緒になると、スタッフたちは日本語でこのたびの会議や組織のあり方について、かなりなていど赤裸々に話してくれた。まるで日本語が秘密の暗号のように、である。僕も留学経験があり、そのあとも何度も韓国に来ているので、彼らの言いたいことが十分に理解できた。折しも、桐野夏生の『日没』(岩波学芸文庫)を旅のお供に持ってきて読んだばかりだったので、その内容が少しだけ頭をよぎった。

それでも、韓国留学中にお世話になった先生や、懐かしい友人とも再会できて、それだけは大きな収穫だった。

あと、某国の人の中から1人だけ、「あなたの話はとても面白かったです」と片言の日本語で言ってくれた人がいたのも救いだった。

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国際会議・1日目

1月23日(火)

国際会議・1日目。

客室はオンドルのおかげで汗をかくくらい暑いのに、同じホテルの建物にある会議室は、暖房が効いているとはいえ、厚手のコートを着ないととても居られないほどの寒さである。とくに足のあたりが寒い。「底冷え」というのはこういうことだろうな。オンドルのすばらしさを実感する。

とはいえ、天気は快晴である。

午前9時から会議が始まったが、僕の出番は、翌日の夕方なので、今日は基本的に「聞くだけ」の参加なのだが、基本的には韓国語か某国語で話を聞かなければならないので、なかなか集中して聞くのは難しい。

前々から気になっていたことがあった。僕は韓国留学中に韓国の銀行に口座を作った。しかしいまはもうほとんど使っていないので、口座を解約するか、口座に残っているお金をすべて引き出したいと思った。ところが、通帳と一緒に作ったキャッシュカードの期限がすでに切れていて、銀行の窓口に行かないとお金が下ろせないと聞いた。韓国に出張したときには、用務があるので平日の昼間に銀行に行って手続きをすることは難しい。どうしようかと思っていたところ、ハタと思いついた。この機会に、ちょっと会議を中抜けして銀行に行って手続きをしてしまうことはできないだろうか、と。

おそるおそる、今回の出張をアテンドしてくれた主催者側の知り合いにダメ元で相談してみると、

「いいですよ。銀行に行きましょう」

「いいんですか?」

「ええ、どうせ会議の内容を聞いてもわからないことばかりですから」

その知り合いはさっそく各方面に根回しをしてくれて、中座して銀行に行くことが叶うことになった。

ただ、会議場のある町にはその銀行の支店がなく、20キロ以上離れた隣の町にあるという。

銀行に着き、手続きをしようとすると、暗証番号を忘れてしまったり、パスポートが変わったりしてしまっていて、なかなか本人確認に難航したが、それでも無事に、口座の中にあるお金をおろすことができた。お昼休みまでに戻れるだろうか、とヒヤヒヤしたが、無事に昼食休憩の前までに戻ることができた。

午後は、ひたすら忍耐強く、韓国語と某国語による話を聞き続ける。夕方6時半過ぎ、1日目の会議が終わるとすぐに食事会場に移動した。今日もまたホテルを出て近くのサムギョプサル専門店で食事をする。

会議から解放され、食事も美味しかったこともあり、参加者はすっかりいい気分で酔っ払ってしまって、お酒のつぎ合いが始まってしまった。僕はこういうのがイヤで懇親会が苦手だったのだが、お酒をやめましたと宣言してソフトドリンクばかりを飲んでいるいま、つくづくお酒をやめてよかったという思いを噛みしめた。

夕食後は、「このあたりは夜景が有名なので、夜景を見に行きましょう」という計画が合ったのだが、あまりに寒すぎて中止となった。

 

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毎度のミステリーツアー

1月22日(月)

無事に韓国に到着した。まる一日の移動でほとほと疲れた。

朝、在来線と私鉄特急を乗り継いで、成田空港に到着。そこから飛行機に乗り釜山空港に着いたときは、すでに16時近くになっていた。

出口を出たところで知り合いが待ち構えていて、そこから車に乗ってひたすら走り続けること1時間半、目的の場所に到着した。途中、山と海が織りなす景観に目を奪われ、いったいどこに連れていかれるのだろうと不安になる。

アテンドしてくれた知り合いに、

「(国際会議の)会場となるホテルには行ったことがあるのですか?」

と聞いてみたところ、

「いえ、行ったことがありません。今日が初めてです」

という。主催者側の1人のはずなのだが、どういう会場なのかまったく情報がないらしい。

「まるでミステリーツアーですね」

「そうですね。私たちも何も知らされていませんから」

カーナビの通りに走って行くと、会場とおぼしきホテルの建物が見えた。

「え?あれですか?」

賢明な読者諸賢は、「国際会議」の会場と聞くと、どんなイメージを思い浮かべるだろうか。

僕は、広い宴会場を会議の会場として使って、朝・昼・晩はそのホテルで食事をする、だから会議中はホテルから一歩も外に出ない、といったイメージを抱いていた。

しかしホテルの前に着いて、驚いた。

「おんぼろじゃないですか!」

どうひいき目に見ても、国際会議をやるようなホテルではない。

「前日入りしたスタッフから聞いたところによると、客室のドアが開かないとか、シャワーのお湯が出ない、といった部屋があるそうです」

「…」

「ですので、それぞれの客室に行きましたら、ドアが開くかどうか、シャワーのお湯が出るかどうかを確認してください」

「わかりました」

「ではこのあと貸し切りバスに乗って夕食に行きますので、15分後に1階のロビーに集合してください」

15分後???いま着いたばかりだぞ。

「あのう、ホテルの外で食べるのですか?」

「ええ。ホテルでは朝食のみで、昼食と夕食はバス移動して外に出て食べます」

うーむ、めんどくさい。40人以上はいる参加者が、いちいち大型バスに乗って食事の場所まで移動しなければならないのだ。

自分の泊まる部屋のドアが開くことを確認し、部屋に入ってシャワーのお湯が出ることを確認して、荷物を整理していたら、あっという間に15分が経っていた。

急いで1階のロビーに行くと、僕が一番最後だったようで、最後にバスに乗り込むと、すでに大型バスは参加者でいっぱいだった。

「どこへ行くんでしょうか?」主催者側の知り合いに尋ねると、

「さあ、私にもわかりません」

主催者側のスタッフの中にもわかっていない人が多い。こりゃあ正真正銘のミステリーツアーだ。

バスで数分だけ移動して着いたお店は、地元で人気の定食屋さんだった。しかも決して広いお店というわけではない。

ひとつのテーブルに4人が座る形になっていて、韓国の「庶民の味」が次々と出てくる。それ自体は嫌いではないのだが、40人以上がぎゅうぎゅうになりながら、ふつうの食事をしただけだった。

時間になり、お店を出て大型バスに乗り込んでホテルに戻る。

僕は不安になって聞いた。

「あのう…会議は明日から2日間ですよね?」

「そうです」

「会議の資料というのは、前もっていただけるものなのでしょうか?それとも明日の朝にならないともらえないのでしょうか?」

会議がどんなスケジュールになっているのか、どんな話題が出るのか、まったくわからないのだ。

「いや、大丈夫だと思いますよ。会議資料はすでに会議場においてあると思いますので、ホテルに着いたら会議場の場所の確認をしがてら、資料集を前もってお渡しします」

ホテルに着くなり、さっそく僕を含めた4人ほどが会議場に向かう。ホテルの別館の6階にあるという。

行ってみて驚いた。

狭っ!!!

「この部屋に40人以上が座るのでしょうか?」

「そうです

「学校の教室よりも狭いですね」

「確かにギッチギチですね」

主催者側の知り合いも初めて会議場の狭さを知り、驚いていた。

「でも、部屋の3面はガラス張りで、オーシャンビューがのぞめますね」

「たしかに風光明媚な場所ということだけはわかりました」

「しかし実際は会議が始まったらスクリーンを使ったりするので、カーテンは閉めてしまうのでしょう?」

「そうですね。…あまり意味がありませんね」

どうして、ここで国際会議をやることになったのだろう?いまのところ合理的な理由が見つからないのだが、僕は招かれた側なので、文句は言えない。

僕はこの2日間で、自分の責めを塞ぐことに徹するのみである。

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韓国出張準備

1月20日(土)

来週の月曜日(1月22日)から5日間、韓国に出張する。国際会議で登壇者の一人として参加するためである。

「今までは新型コロナウィルスによる渡航制限などの理由によりオンライン参加も認めてきましたが、今回は現地参加をしてもらいます」と言われ、久しぶりに現地での国際会議に参加することになったのだが、場所がまた不便なところで、韓国第2の都市、釜山から120キロほど離れた韓国の「リゾート地」で行われるというのだ。

昨年7月に2泊3日で韓国出張したのが、コロナ禍が明けてから最初の出張になったが、4泊5日というのは長丁場である。僕はこのところすっかり体調が悪くなってしまったので、この5日間を無事に乗り切れるかどうかが、最大の焦点である。なにしろ、足が痛くて歩くのが億劫になるくらいだから、なるべく荷物を減らすことが最も重要なミッションである。

いつもは、大きなスーツケースと、ふだん背負っているリュックサックとで移動していたのが、あまりにも重い。そこで、スーツケースを「機内持込可」程度の大きさ、すなわち2~3泊程度を想定している小さなものに変え、リュックサックも辞めて、肩からかけるポーチサイズの小さなカバンにすることにした。以前は要らないものも平気で詰めていたりしていたが、今回は、必要最小限のものだけを厳選してカバンに詰めていくことにする。会議用にたくさん持っていった関係資料も、今回は持っていかない。登壇時間は30分程度だし、討論時間なんて、1人あたり13分、しかもそこには通訳も入るというから、ひとりあたり5,6分くらいしか質問に答えられない。そのために膨大な資料を持っていく必要はないと判断し、何も持っていかないことに決めた。

下着類はできるだけボロボロのものをまとって、現地のホテルに捨ててくることにした。

いちばんの問題は「薬」である。この5日間、こんな体調で韓国に滞在するのは不安で仕方がない。いつも服用している薬のほか、想定する症状が出てきた場合の薬も準備しなければならない。

ということで、いつもよりかなり神経を使って荷造りを数日かけて行うことにした。

荷造りしていくうちに、あれも必要だった、これも必要だった、といったものが次々と出てくる。それも忘れないうちに荷造りしておかなければならない。

そんなふうにシミュレーションして、なんとか目的のスーツケースと肩掛けポーチに納めることができた。パンパンになってしまったが。

とにかく、来週の5日間は体調を崩さずに無事に戻ることを祈るばかりである。

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タイムスリップ映画館

1月18日(木)

朝、在来線と新幹線を乗り継いで2時間ほどかかる地方都市を訪れる。

ほんとうは人知れず用務を済まそうとしたのだが、以前、その町でお世話になった人に連絡を入れたところ、「午前も午後も予定が入っていますが、お昼休みだけ空いておりますので昼食を奢ります」と言われ、恐縮してしまった。

午前中、1時間弱ほど用務をおこなっていると、11時半になってその方が午前の仕事を終え僕の用務先にやってきた。

「どうもご無沙汰しております」

「その節はお世話になりました」

僕の用務は、その人は直接関わっていないのだが、同じ部屋に、その人の部下として若者が1人いた。その人は、部下の若者を私に紹介したのであいさつをすると、

「実は、以前お会いしたことがあります」

「いつですか?」

「10年以上前に、韓国に行った時に、大学のゼミで、バスを仕立てて韓国に押しかけたことがあったでしょう?」

「ええ、覚えています。私が留学していた時ですね。あのときは大勢の教員と学生が来てたいへんでした」

「あの中の1人に、私がいたのです」

「そうでしたか」

世間はほんとうに狭いものだ。

「ゆっくりご覧になりますか?」

「いえ、午後もご予定があるのでしょう?時間がないので、昼食に行きましょう」

「今日はこの建物内の食堂が閉まっているので、外のお店にご案内します」

外か…。幸い、天気もいいし暖かい。しかしどれくらい歩くんだろう?このところずっと足が痛かったので、徒歩移動にはつい敏感になってしまう。

その方のお話を聞きながら10分ほど歩いただろうか、ある小さな定食屋に着いた。入ると、さまざまな芸能人が訪れたとおぼしきサイン色紙がズラッと貼られていた。

「お店の構えは古びていますけれど、地元では人気のお店です」

なるほど、たしかに個性的な定食で、味も悪くないので満足した。

気取ったお店ではなく、勤め人がお昼にささっと食べるようなお店なので、滞在時間は30分ほどだが、食事の間もその方はあれこれとお話になる。話題の尽きない方で、僕はひたすら相づちを打つことに徹した。

用務先に戻ろうとする道すがら、僕は、

「そういえば、この町に古い映画館があるそうですね。いまもあるのでしょうか?」

「ええ、ありますよ。行ってみますか?」

「え?近いんですか」

「ええ、歩いて15分くらいですので近いです」

15分か…。足の痛い僕は歩けるだろうか、ちょっと不安になった。

「あ、でも、午後の予定が…」といってその方が時計をみたら、12時10分をさしていた。

「大丈夫ですね。午後の予定は12時45分だから、十分間に合います」

というか、けっこうギリギリな時間である。

その映画館に行く道中は、「昭和」の雰囲気を残している何とも懐かしいアーケード街で、その方の案内を聞きながら歩いていると、タイムスリップした気持ちになった。

15分ほど歩いて、念願の映画館に到着した。

「ここは消滅の危機にありましたが、地元の人たちの運動により残されたのです。毎日上映をするというわけではありませんが、週末などの特定の日に古い映画を上映しています。年末年始は『寅さん』をやっていたんですよ」

たしかに、映画館の外側の壁には「寅さん」の映画の看板が掲げられていた。

滞在時間は数分。「さ、戻りましょう」

そこから、また別の古い街並みを歩きながら、その方はいろいろなお話をされた。考えてみたら、その方は再会した11時半からずーっとお話をされていて、愚鈍な僕はそれにただただ相づちを打つことしかできなかった。もっともお話の内容は、地元の町に関する僕の知らない話ばかりだったので、どの話も新鮮で、まったく飽きることはなかった。

急ぎ足で歩いたおかげで、もとの用務先に戻ったのは12時40分。なんとか先方の午後の所用の時間に間に合った。

「どうもありがとうございました」

「またお会いしましょう」

と、その方は去っていった。僕は引き続き午後も用務を続けたが、僕の足はすっかり「棒」のようになっていた。

たいして歩いていないのに、こんなに疲れるものだろうかと、僕は自分の体力がかなり落ちていることにショックを受けた。

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おっさんずラブ

「おっさんずラブ リターンズ」を観たけれども、こんなに面白いドラマとは思わなかった。

いちおう「おっさん同士の恋愛ドラマ」というふれこみになっている。まあそういうことなのかもしれないが、恋愛とまではいかなくとも、かなり薄めた形ではあるがおっさん同士であのような場面に出くわすことがしばしばあるのではないかと思う。だから観ていて違和感を覚えないのだ。

Facebookで、ある「おっさん」と友だちになっている(ここでは「おっさん」という名称で統一する)。そのおっさんとは、数年前にある地方都市で仕事をした時に、アテンドしていただいた方である。車で少しばかり町を案内していただいたり、駅までの送り迎えなどをしていただき、その道中でさまざまなお話をしたのだった。その一度しか、お会いしていない。

その「おっさん」のFacebookで、その地方都市でイベントがおこなわれるという案内があり、僕の仕事とも関係するイベントだったので、何の気なしに「○○日にうかがいます」とコメントした。ちなみにその「おっさん」はそのイベントに直接関係していないのだが、さっそくダイレクトメールが来て、「○○日の自分の予定を確認しました。午前中は用事があり、午後も別の対応があり、十分なお相手ができませんが、いらっしゃる時間など当日のご予定を教えて下さい。一目お会いしたく存じます」とあった。何の気なしに書いたコメントだったが、わざわざ時間を作って会いたいと言ってくださるのはじつに恐縮する。あんまりご迷惑もかけられないと思い、「とくにこの日はほかに約束や予定はありませんので、お時間は如何様にも対応できます」と返信すると、「それでは会場に○時×分に待ち合わせてお食事ご一緒しましょう。粗餐ですがご用意します」と返信をいただき、なんと、お昼ご飯までごちそうしてくださるというではないか。僕はすっかり恐縮してしまったが、「承知いたしました。どうもありがとうございます。では○時×分に会場にいるようにします。よろしくお願い申し上げます」と返信すると、「ありがとうございます(ニッコリの顔文字)。楽しみです」と書いてくださった。

もちろん僕とそのおっさんとの間には恋愛感情などないし、もとより一度しかお目にかかったことがない。それでも、わざわざ時間を作って食事までごちそうしていただくことになり、双方がその再会を楽しみにしているというのは、かなり薄めた形での「おっさんずラブ」なのである。

このおっさんに限らず、ほかの場所にも、再会するとなるとうきうきしてしまうようなおっさんが何人もいるのではないかという気がしてきた。「おっさんずラブ」はデフォルメされたドラマだが、なんとなく思いあたるフシがあるように感じるのは、そういうことなのかもしれない。

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ボランティア原稿

今週はほんとうに何もやる気が起きなかった。作成すべき書類はたくさんあるし、今月末締切の原稿もあるのだが、作業がパッタリと止まってしまった。何でもかんでも薬の副作用のせいにするなよ、と叱られるかもしれないが、こればかりは焦ってもどうしようもなく、ひたすら降りてくるのを待つばかりである。

某国のスジの悪いプロジェクトの担当者から、「原稿はどうなっていますでしょうか。進捗状況を教えてください」というさりげない催促が来た。もともと一昨年の年末に出すという約束をしていたが、それどころではなく、1年先延ばしにしてもらったが、やはり昨年末まで仕上げることができず、放っておいたら、先方も忘れておらず、軽い催促と相成ったのである。少しは書いているのだが、モチベーションはまったく上がらない。なにしろかなり長い文章の原稿を書くように指定されて、せっかくがんばって書いても、某国語に翻訳されて、この国はおろか、某国人にもほとんど読まれないのではないかということがわかりきっているのだから、いったい何のために書いているんだろうと空しくなる。

それに、五月雨式に原稿の依頼がいろいろなところから来て、それに応えるだけでも精一杯である。だが書いても書いても、儲かるわけではない。著者は買い叩かれ、雀の涙ほどの印税があるのはまだしも、原稿料が支払われない場合がほとんどである。先日聞いた話では、複数の執筆者によって書かれた本が、原稿料が支払われないだけではなく、たった1冊の本が現物支給されるだけで終わったという事例を聞いた。ふつうの出版社だよ。現物支給はやむを得ないとしても、1冊しかくれないというのは、遂にそこまで追い込まれてしまったかという感を禁じ得ない。本務がある人だったら業務の一環と割り切ってあきらめることもできようが、フリーランスのライターだったら、とても生活していけないではないか。

以前、ある外国人がこの国の出している本に原稿を寄せてくれたのだが、原稿料がなく現物支給であることを知って、「こっちは時間を使って原稿を書いているのに、なぜ原稿料が支払われないのか」とクレームを言ってきたことがあった。「だってしょうがないじゃん」とそのときほ思ったが、そんなことに慣らされている自分たちの方がどうかしているのではないかとも思い始めている。

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年賀状はいらない

毎年、高校時代の部活の同期の一人から年賀状をもらうのだが、

「ブログ読んでいます。コバヤシが登場していて嬉しい」

と書いてあった。彼には、僕のブログを通してコバヤシの消息を知ることができることが嬉しいようだ。それにしても、ブログの件はずっと以前に、一度だけ宣伝したような気がしたが、今でも律儀に読んでくれているのは驚きである。もっとも、年賀状を送ることになる年末になって、そういえばあいつはどうしているのだろう、と、このブログを覗く程度なのかもしれないが。

そのコバヤシとは、年賀状のやりとりを今までしたことがない。本当に親しい間柄だと、連絡したいときにいつでも連絡できるという安心感があるから、不要なのかもしれない。

新年が明けて、コバヤシにメールをしたが、今読み返すと、ふだんどおりの書き出しで、新年のあいさつすら書いていなかったことに気づいた。そういえば、コバヤシは喪中だったか…。

お互い「○○殿」と書き始め、文中では、「貴殿」「貴兄」と呼び合うスタイルが定着している。

最近はもっぱらお互いの健康を気遣うあいさつが続いている。こっちはこっちで大変だが、向こうも向こうで大変だ。お互い何かとままならない身体とつきあいながら生活している。

コバヤシからの返信に、「歳を取ってきた為か、あまり興味を持てないことに時間を割くのがだんだん面倒になってきました」とあり、今の僕とまったく同じ心境だということに、不思議と安堵感を覚えた。

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誕生日おめでとう

1月7日(日)

僕の同業者で、生年月日がまったく同じという人がいる。月日だけではなく、生年も同じなのである。そのことを知ったのは、20代の頃である。当時関西に住んでいた彼と、ある会合ではじめて会った時に知ってびっくりした。そのとき、どうして生年月日が同じという話にまでたどり着いたのかは、記憶にない。まったくの偶然である。

それから縁がないだろうと思っていたが、彼とはその後同じような職業的経歴を積み、いまではなぜか彼のプロジェクトに僕が参加し、昨年は共編で一緒に本まで出したのだから驚きである。「生年月日占い」というものがもしあれば、二人はほぼ同じ人生を歩んでいるのである。

Facebook上でも友だちにもなっているが、彼も僕も、Facebookをほとんど更新しない。しかしながら僕の誕生日に、彼に対する「誕生日おめでとう」のメッセージが届いているのを見るのは、変な感じだ。とくに、彼と僕のFacebook上での「お友だち」というのは、同じ業界人だけにかなり重なっていて、よく知る人たちから、Facebookをほとんどやっていない彼に、「誕生日おめでとう」のメッセージが届くのである。僕の誕生日はまったく無視される。

それもそのはずだ。数年前から、誕生日を非公開にしたので、お友だちから「誕生日おめでとう」メッセージが届くのがとたんに皆無になった。これだけでも精神的にずいぶん楽になった。あたりまえだが、「誕生日おめでとう」のメッセージなんて、誕生日を公開しているかしていないかに過ぎない、公開していない人の誕生日なんて顧みられないのだということに、彼へのメッセージを見ながら気づかされる。

では、「誕生日おめでとう」のメッセージがまったく不必要なのかといえば、そうは思わない。この年齢になっていまさら誕生日なんて、と思う人も多いかもしれないが、年齢が上がるほど誕生日は重要なのである。とくに病気をしてから感じたのだが、よくぞ生きて誕生日を迎えられた、という感慨に浸るようになったのである。

かといって、この記事を読んだ人が、万が一でも「誕生日おめでとう」とメッセージをくれるというのは違うなあと思う。まことにへそ曲がりな性格である。

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この体調、なんとかならんものか

1月6日(土)

年末に配信されたYouTubeのダースレイダー公式チャンネルで、ダースレイダーさんの一人喋りを聴いていたら、「最近、体調がよくなくってねえ。朝起きるとすでに疲れているんですよ」と言っていて、まさにいまの自分と同じだと思った。ダースさんも大病を経験され、いまもその途中にいる人なので、言ってみれば僕と同じ境遇である。その気持ちわかるよ~と叫びたいくらいだった。

たびたび書いているように、薬の副作用が辛い。朝起きると、すでに何もしたくないほど疲れている。今日は都内で会合があるのだが、5時間の長丁場なので、とても体力が持たないと思い、出席しますと言っちゃったけど、絶対に欠席しようと心に決めた。

しかし時間が経つにつれてその決断が揺らいでいく。でもなー、自分も正式に参加しているプロジェクトだし、出席しないと責任を果たせないような気がしてきた。もし疲れたら途中で帰ればいいや、というつもりで、やっぱり行くことにした。

しかし困ったのは都内への移動である。むかしなら難なく移動できたのだが、いまは歩くのが当社比で3分の1くらいのスピードまで落ちている。もう完全にお爺さんの歩き方なのだ。他人様よりも一足早く老化を体験しているような心持ちである。

しかも渋谷駅のみならず、いまは新宿駅も迷宮になっていることを知る。中央線から山手線への乗り換えにエラい苦労したけれども、もっと簡単な乗り換え方法があるのだろうか。

都内の会合では、「○時になったら早退しよう」ということばかり考えていたが、結局最後まで居続けた。あんまり弱音ばかり吐いていると自分を甘やかすことにつながると思ったのである。もっとも、とっくに甘やかしてはいるのだが。

そういえばダースレイダーさんは体調が最悪でも年始の「ヒルカラナンデス」で2時間喋り続けている。それを思ったらもう少しがんばらないとなあと思うのだが、それでもやるべきことに優先順位をつけていかなければ身体が持たない。手始めにこのブログの更新頻度を減らそうかと考えている。

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奇妙なクラス会

1月5日(金)

大学院時代のちょっとした知り合いからメールが来た。その人とは、いまでは年賀状を交わす程度の間柄である。

さて、今回はお願いごとがありまして、メールを差し上げます。

実は、大学1,2年のときのクラス会をやろうと思っているのですが、その後に大学の研究室に残った方以外はなかなか消息がつかめずにおりまして、3年次に鬼瓦さんの研究室に進んだ方々で、今のところ連絡先がわからないのが、…」

と、5名のフルネームをあげて、

「…の諸氏です。鬼瓦さんの1学年上の方々ということになりますが、もし上記の方の中で、いまでも連絡を取っておられる方がいらっしゃいましたらご教示をいただけると嬉しく存じます」

と書いてあったのだが、その5名の名前を見てもまったく心当たりがなかった。

ちょっと解説をしておくと、僕の出身大学では、入学すると第2外国語がどの言語かによって機械的にクラス分けがなされる。つまり、「同じ語学の授業を受ける」だけのために編成されたクラスである。だから、少なくとも私にとっては、大学1,2年のときのクラスというのはあくまでも便宜的なもので、大学生活のメインは、3年生以降になり各専攻に分かれてからなのではないかと思っていた。

僕が驚いたのは、その便宜的に振り分けられたクラスのクラス会をしたいという内容のメールだということだった。クラス会をしたいと思うほど、その2年間の仲間は濃密な関係にあったのか?

僕は、自分が所属した大学1,2年生時のクラスの印象がまったくない。友だちもだれひとりおらず、いまでは全員の名前がまったく思い出せない。今どこで何をしているかも、当然わからない。あたりまえだ、名前も忘れてしまっているくらいだから。

ところが、このメールには、消息不明とされている5人のフルネームが、しかも漢字で書かれている。ということは、大学1,2年次の名簿を後生大事に持っていたということか。それが驚きの2点目。

驚きの3点目は、消息不明の人たちにもなんとかして連絡を取りたいと執念を燃やしていることだ。いただいたメールの後半では、「鬼瓦さんがわからない場合は、鬼瓦さんと同じ研究室の1年先輩であるSさんがその5人の同期の方にあたるのでご存じかもしれませんので、その方の連絡先を教えてくれませんか」と、なんとかして連絡先を突き止めたいという熱意に溢れている。

僕からしたら、「連絡がつかないのならそっとしておいてやれよ」と思うのだが、メールをくれたその人は、どうしてもそういう人たちにも声をかけてクラス会に参加してほしいと考えているらしい。あるいは、僕の考えが及ばないほどに、そのクラスは強い絆で結びつけられていたのだろうか?いや、そもそも消息不明の人が複数いるということは、卒業後もとくに連絡を取り合っていたとも思われない。それなのになぜできるだけ多くの人を集めてクラス会をしたいとその人は思ったのか?…と、思考がグルグル回り出す。

ま、そんなことは余計なお世話で、他人が詮索しても始まらないことはわかっているのだが、この奇妙なクラス会がどういう意図で、何を目的に行われるのか、サッパリわからないまま僕の中でモヤモヤとした感情が残るのだった。

大学1,2年生の頃は、語学によって機械的に振り分けられたクラスよりも、むしろサークルの同期などの方が絆が固いと思うのだが…、

…とここまで書いて思い出した。僕が所属していた1,2年次のサークルは、同期が7名ほどの小さなサークルなのだが、在学中は四六時中一緒にいるような間柄だった。だから語学によって機械的に分けられたクラスよりもサークルの同期のほうがはるかに濃密な関係だった。もっともいまでは年賀状をやりとりする程度の関係である。

今年もサークルの同期の人たちから年賀状をもらったのだが、そこに驚くべきことが書いてあった。

「最近サークルの同期で飲みに行きました」

おいおい!俺もサークルの同期だぞ!しかも俺は部長までつとめたんだぞ!どうして飲み会の誘いが俺のところに来ないの?それなのにどうして「同期で飲み会をしました」ってわざわざ書くの?

…と、一瞬、仲間はずれにされたのか?と思ったが、冷静に考えると「あいつは大病をしたし、どうせ誘ったって来やしないから連絡するのはやめておこう」となったのだと思い直す。

僕を誘わなかったのは、同期たちの優しい配慮だったのだと思うことにした。消息不明な人をなんとか連絡先を突きとめてクラス会に誘おうとする人もいれば、連絡先がわかっているのにもかかわらず敢えて誘わない人もいる。いまの僕の場合、後者の方がありがたかったりする。

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格言カレンダー

元旦

妻の実家に行くと、義理の母が、はちみつ屋から毎年送られてくるカレンダーが圧が強すぎて家の中では貼れないと言っていたので、どんなカレンダーか見せてもらったところ、長細くて大きな大福帳のような形のもので、1枚目に「格言集」と書いてあった。長細い短冊状の紙に、1日ごとに大きな筆文字で格言が書いてある。メインはカレンダーではなく、格言である。

日めくり式のカレンダーなのだが、ふつう、日めくり式のカレンダーというと365枚あって、1日ごとにめくっていくスタイルのものだと思うのだが、この日めくり式のカレンダーは、「1日」~「31日」までの31日分しかない。月が変わるときには、もういちど「1日」からめくっていくという、なんともSDGsなカレンダーなのである。したがって格言は31種類ある。

ひととおり見てみると、たしかにこれは貼りたくない。

「教えられてうなずくだけでは忘れ易い。それを実行すれば自分ものになる」

「求め合う愛情には不足が生まれ与え合う愛情の中に幸せが生まれる」

「作物は自然の中に育つもの。成功は苦労によって育つもの」

「小さなつまらない事に心を使えば大きなものがつかめない」

「ほほえみの心で人に接してこそ人々を明るくし人生を豊かにする」

「私心なく人の声に耳を傾ける心あれば人々から崇められ伸びる人である」

「肩をはる生き方は疲れるが心にゆとりを貯える事が必要である」

「失敗の時の対処の仕方で人格の値打ちを測り知る事ができる」

「どの様な境遇でも希望と感謝の心があれば必ず道が展ける」

「現在の境遇は皆過去にまいた種が芽生えたものである」

最初の10日分をあげてみたが、どれ1つとっても、心に響く言葉ではない。これらの言葉が、大きめの筆文字で書かれているのだから、なおさら家の中に貼るのが躊躇される(これで心が動かされる人がいたらごめんなさい)。

昨年、一昨年のカレンダーも捨てずにとってあるというので見せてもらったところ、驚愕の事実が判明した。毎年同じ格言が並んでいるのかと思ったら、1年ごとに格言をすべて変えているのである。

たとえば2024年の1日、つまり最初の格言には、

「教えられてうなずくだけでは忘れ易い。それを実行すれば自分ものになる」

とあるが、2023年の同じ日の格言には、

「感謝の心が笑顔を造り笑顔こそ人の心を和らげる」

とあり、2022年の同じ日の格言には、

「日々の勤労の積み重ねが大きな仕事の基となる」

とある。つまり1つとして同じ格言はないのだ。

3年分、各31日分の格言を調べてみたが、やはり1つとして同じ格言は存在しなかった。つまり毎年、31の格言を考えてカレンダーにしているということである。しかしこれだけの数の「心に響かない格言」を考え出すというのも、それはそれで1つの才能である。なかには「くるった物差を持つ人程すぐ人を計りたがる」という意味不明な格言もあり、格言を作る苦労がしのばれた。

はちみつ屋のオヤジ、すげーなと思っていたら、どうやらこれは、この格言を考えるカレンダー業者がいて、そこに店名を入れたりしてカレンダーを作る商売をしているところがあるようだ。つまりはちみつ屋のオリジナル格言ではないようである。

そこで1つゲームを考えたのだが。

2人が対戦するゲームで、1人が格言を考える。で、もう1人は「NGワード」を2つか3つくらい考えてあらかじめ書いておく。もちろんそのNGワードは対戦相手には見せない。

そのNGワードというのは、「感謝」とか「努力」とか「成功」とか、いかにも格言に出てきそうなワードである。

考えた格言の中に、対戦相手があらかじめ設定したNGワードが含まれていたら負け、というゲームなのだが、「すごろく」や「かるた」などに続く新しいお正月のゲームとして盛り上がらないだろうか?…盛り上がらないだろうね。

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