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入学式

4月8日(月)

どこもかしこも、今日は入学式のようだ。

高校時代のクラスの有志で作っているグループLINEに、今日は出身高校の入学式だと書いてあった。

出身高校の近所にある国立大学も、今日が入学式だという。

うちの市内の小学校も、今日が入学式である。

ずいぶん前に、そのことに気づかずうっかり出張を入れてしまったのだが、あとでこの日が入学式だと気づき、慌ててほかの同僚に代わりに出張に行ってもらった。のっけから情けないスタートである。

入学式は13時半からだが、午前中もいろいろと準備があり、小学校には開会の40分前には到着しないといけなかったので、あまり余裕などなかった。

入学式が行われる体育館に入ると、愕然とした。

入学式のフォルムというのか、舞台装置というのか、僕が半世紀前に小学生になった時の入学式と、まったく同じだからである。もちろん、娘の小学校と僕の小学校は、別々の小学校なのだ。にもかかわらず、会場の設営の仕方がまったく同じというのは、どういうことだろう?

驚いたのはそれだけではなかった。

「式次第」も、半世紀前に体験した入学式と、何ら変わっていないのだ。

いや、ひとつだけ違うのが、「国歌斉唱」というのがあるということだ。僕が小学校の時はなかったと思う。国旗・国歌法が制定されて、いつの間にか入学式で国歌を歌うことが義務づけられたのだろう。

入学式が始まった。

国歌斉唱のあと、学園歌斉唱というのもあった。

うちの町は少し変わっていて、小・中学校の9年は一貫した教育をするという方針のようで、市内の小・中学校はひとつの「学園」ととらえられている。その「学園歌」というものが存在するようなのである。

もちろん、初めて聴く歌なので、歌えるわけはないのだが、あらかじめ録音してある生徒たちの歌を聴くと、難しくて覚えられないほど、歌詞やメロディーが複雑な歌である。

(ここの小中学生は、こんな難易度の高い「学園歌」をおぼえなければならないのか…)

次に校長先生の挨拶である。校長先生が壇上に立つと、合図にしたがって新1年生が頭を垂れてお辞儀をした。

校長先生は、新1年生に向けて、道徳的な訓辞を垂れるのだが、

「戦前か!」

と思う内容の訓辞だった。

続いて、教育委員会の告辞である。これもまた、十年一日、いや、百年一日のような内容だった。

次に来賓紹介。いま告辞を述べたばかりの教育委員会の人を筆頭に、市会議員とか、あとはよくわからない団体の人などが紹介される。

いちばん笑ったのが、その町の駐在所のおまわりさんである。

僕はこの町に6年住んでいて、僕の住むマンショのすぐ向かいに駐在所があるのだが、いつ見ても、駐在所のお巡りさんの姿が見えない。まるで無人の駐在所なのである。

ところが今日、6年目にしてはじめて、駐在所のおまわりさんの顔を見た。おいおい、こんなんで地元の治安は守られるのかよ!

その後、担任紹介や小学校6年生による歓迎の言葉などがあり、最後に「校歌斉唱」である。

「学園歌」のほかに、この小学校独自の「校歌」もあるのだ。

どんだけ歌うんだよ!しかも校歌もまた難しい。

この小学校に通う児童はともかく、保護者は「学園歌」も「校歌」も、ひとっつも覚えることなく終わってしまうのかと思うと、絶望すら感じる。

入学式に出た感想は、

「ずいぶんと権力的な入学式だった」

という一言に尽きる。校長や教育委員会が壇上から児童たちを見下ろして訓辞や告辞を垂れるという権力構造は、おそらく戦前からちっとも変わっていないのだろう。その証拠に、歓迎の言葉を述べた6年生の児童は、壇上に上がらせてもらえなかったのだ。

儀式とは権力構造を確認する行為に過ぎないというかねての主張は、小学校においても同じであるということを目の当たりにして、暗澹たる気持ちになった。

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