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2024年12月

引きの強い三代

12月31日(火)

朝、娘が寝ている僕を起こして、

「『モアナ』を観に行きたい!」

と言いだした。いま公開中のディズニー映画『モアナと伝説の海パート2』のことである。

僕はパート1をちゃんと観ていないのだが、娘が「モアナ」の大ファンで、くり返し観ていたことは知っていた。

「わかったわかった。観に行こう」

起き抜けにスマホで予約をする。映画館はどこにしようかなあ。ここから一番近い映画館は、車を停めるところがないし、実家のあるF市にある映画館にしようか、それともその隣のC市の映画館にしようか。

迷ったあげく、自宅と実家のあるF市との中間にあるC市の映画館で観ることに決めた。

10時25分の上映時間になんとか間に合い、無事に映画を観ることができた。観客は当然、親子連れが多い。

僕はパート1を観ていなかったせいもあって、映画の世界観がわかっていなかったのだが、あっという間に引き込まれてしまった。

ディズニー映画とかピクサー映画って、頭のいい人たちがよってたかって作っている映画なので、面白くないはずはないのだ。

映画が終わって会場を出ると、

「あら、○○ちゃん!」

と娘を呼ぶ声がした。見ると、娘と同い年くらいの女の子とその両親である。娘を呼んだのは女の子の両親のほうだった。

「こんにちは」

と娘が言って、同い年くらいの女の子とも二言三言挨拶を交わしていた。

「じゃあまたね!」

しかし僕は、その家族が何者なのか、わからない。

その家族が去ってから娘に、

「いまの人、だれ?」

と聞くと、

「アンちゃんとそのお父さんとお母さんだよ」

と答えた。

「アンちゃんって、あのアンちゃん?」

「そうだよ」

娘の日常会話の中で、「アンちゃん」という名前は何度となく聞いていた。同じクラスのお友だちで、学童も同じである。学童の帰りには一緒に遊んだりして、とても仲のよい友だちの一人なのだ。

そのアンちゃんが、同じ時間に、同じ映画館で、同じ映画を観ていたのだ!

こんな偶然ってある??だって最寄りの映画館ではなく、車で行かないとたどり着けないC市の映画館なんだぜ。僕の気まぐれで、もしF市の映画館を選んでいたら、会えなかったわけだ。実際僕は、最初F市の映画館を予約しようとして、やっぱりやめようとキャンセルしてC市の映画館を選んだのである。

それにしても不思議だ。僕はアンちゃんはおろか、アンちゃんのご両親もどんな顔をしているか全然わからないのに、なぜかアンちゃんのご両親は僕の娘の顔をわかっていたのだ。

「どうしてアンちゃんのお父さんとお母さんは○○ちゃんのことを知っているの?」

「だって、学童が終わってから遊んでいると、アンちゃんのお父さんとお母さんがいつも迎えに来てくれるから」

なるほど、そういうことだったのか。僕は何も知らなかったことを恥じた。

「でもアンちゃんに会えてよかった。ほんとうはこの冬休みに遊びたかったんだよ」

会えただけでもうれしかったらしい。

それにしても、である。

母と私が「引きが強い」人生を送っていることは、以前にも書いたことがある

このうえ娘までも引きが強いではないか!

引きの強さは遺伝するのか???

「鹿島さんこれって…」

「スピってます」

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原稿は2つに分けられる

12月30日(月)

「原稿は2つに分けられる。気持ちが乗る原稿と、気持ちが乗らない原稿だ」

長年原稿を書いてきて、僕が到達した境地である。

…というか、あたりまえのことなのだが。

年明け締切厳守の原稿を抱えている。原稿、といっても正確には以前書いた原稿の修正をしたり差し替えをしたりする作業なのだが、多くの人の目が入るので、ダメ出しの数が半端ではない。これらのダメ出しにまともにつきあっていくと、とてもではないが作業は終わらない気がしてきて、作業に取りかかる気持ちになるにはそれなりに時間がかかる。しかもそれが「公共性の高い文章」であればなおさらである。

自分の原稿にダメ出しをされると、当然ながら凹むのだが、しかしよくよく読んでみると、ダメ出しをする側の思い込みや、揚げ足取りや、実現不可能な修正希望などが多くあり、編集部も「できる範囲でけっこうですよ」と言ってくれているので、理不尽なダメ出しには取り合わないことにした。それでも締切を厳守しなければならないので焦るばかりである。

一方で昨日、読者が10名ほどのミニコミ誌から原稿依頼が来た。

そのミニコミ誌にはこれまでにも何度か書いてきて、たまに思い出したように原稿依頼をいただく。これまで何度か書いてきたので、もうネタがないなあと困っていたところ、一晩寝たら、まてよ、あのことを書けばミニコミ誌にふさわしい原稿が書けるのではないかとハタと思いつき、翌朝起き抜けに1300字ほどの文章を1時間ほどで書いて送信した。こういうときはスラスラと書けるから不思議である。

僕の場合、多くの人に読まれる文章とか、公共性の高い文章とかを書くのはまったく気乗りがしない。むしろ読者が少なければ少ないほど気持ちが乗って文章が書ける。責任の重さの違いからそんなふうに考えるのかもしれない。だがどちらにせよ、自分からは文章を書いたという宣伝はしない。できるだけ読んでもらいたくないのである。

むかし深夜のラジオで伊集院光さんが、「(深夜のラジオは)聴いてもらいたいけど聴いてもらいたくない」という葛藤を吐露したことがあって、まさにその心境が、今になってわかるのだ。

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足踏み

12月29日(日)

少し熱がぶり返した。咳もまだ続いている。

今年の11月と12月は「失われた2カ月」だった。入院をして、退院したら今度はインフルエンザを発症してしまった。先日外来診察を受けた先生からは、「踏んだり蹴ったりですね」と言われた。「弱り目に祟り目ですよ」と応えようとしたが、そんな元気もなかった。

人生には足踏みをする時間が何度か訪れる、というのがぼくの持論である。15年ほど前の2009年に韓国に1年3カ月留学したときに、この国に帰ってきたら浦島太郎みたいになるんじゃなかろうかと思っていたら、ある人に、

「この業界、1年や2年いなくったって、たいして変わりはしないよ」

と言われた。つまり業界にはあまり進歩はないよ、という意味だが、たしかにその通りだった。

2011年の東日本大震災のときもそうだ。通常の生活に戻るまでには少し時間を要した。

2020年のパンデミックのときは、この国全体が3カ月ほど機能不全に陥った。その後も日常生活はかなりの制限を受けた。

もちろんこの国は、ゆっくりと衰退に向かってはいるが、それでもまだなんとか続いている。

職場ではいろいろな仕事を任されていて、この2カ月間は何もできずにすべて仕事をキャンセルしたが、代理で仕事をしてくれる人や、日程を再調整してくれる人がいて、仕事がまわらなくなったということはなかった。もちろん休んだことで迷惑をかけたことは申し訳なく思っているが、それでも仕事がまわる職場は、よい職場である。

レギュラー番組をもつラジオパーソナリティーが少しの間休んだりすると、ほかの人が代打をつとめることがある、そんなとき、「休んでいるうちに自分のレギュラーがなくなってしまうのではないか」という不安に苛まれるといういうことを聞いたことがある。別にぼくには野心があるわけではないが、その気持ちはなんとなくわかる。

しかし最近は、人生にはときに足踏みが必要かもしれないと思うようになった。そうしないと心と体がもたない。

さて、毎年年末になると、恒例の「年賀状会議」が家族でおこなわれることになるのだが、今年はだれも言い出さなかった。年賀状じたいも買っていない。僕はこの通りだし、そのしわ寄せで家族もそれどころではなかった。なので今年は年賀状を出さない。毎年娘の成長を楽しみにしている人が一人二人いるのだが、その方には申し訳ないが、いかんせん健康で時間に余裕がないと年賀状は出せないので仕方がない。

…とここで言ってみてもほとんど意味のないことであるが、ここを古くから読んでいる人の中には年賀状をいただくこともあるので、あらかじめおことわりしておく。

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変更

12月27日(金)

僕は今年の紅白歌合戦を見るつもりはないのだが、星野源さんが紅白歌合戦で歌う予定だった「地獄でなぜ悪い」が、「ばらばら」という歌に変更になったというニュースは、少し気になった。といっても、自分の考えが十分に整理されているわけではない。

「地獄でなぜ悪い」は2013年に公開された園子温監督の映画『地獄でなぜ悪い』のエンディングテーマ曲である。僕もこの映画を観て、それがきっかけで星野源という人を認識したし、エンディングの曲に魅了された。

ところがその後2022年に監督の園子温さんによる性加害が複数の女性俳優から告発され、それをきっかけに映画界における性加害の問題について映画界が真剣に取り組むことが表明された。映画関係者たちが声を上げたことはとても意義のあることだと思う。

そうした経緯もあり、性加害疑惑のある園子温監督の映画の中で使われた、しかも映画と同名の曲を紅白歌合戦で歌うのは、二次加害にあたる可能性が指摘され、ふさわしくない、という判断から、当初の予定を変更し、別の曲に変更することにしたと、ニュースにあった。星野源さんと彼のスタッフチームは、「私たちは、あらゆる性加害行為を容認しません」と表明している。

ほぼ同じときに、ある有名な音楽プロデューサーも、この件について「星野さんとNHKは楽曲変更を考え直してもらいたい」という強い調子のコラムを発表している。曰く、星野源さんほどの人権意識の高い人が、紅白歌合戦で「地獄でなぜ悪い」を歌うのはあり得ない。それは園子温監督の性加害をウォッシングし矮小化することに加担してしまうことになる。この曲で励まされた人も多いという名曲だが、そんなことは問題ではない。人権より重い曲なんて、この地球のどこにもない。歌いたければ、ワンマンライブなどで自由に歌えばよい。NHKという公共放送で歌うことを問題にしているだけだ、と。

僕はこの音楽プロデューサーのコラムを読んで、いささか複雑な思いにとらわれた。

実際僕も、この楽曲には励まされたクチである。この歌は、映画の内容とはまったく関係なく、むしろ星野源さん本人の体験、とくにご自身が大病を患って入院したときの体験、が歌になっている。

僕が7年前に大病で入院したとき、どれだけこの歌に励まされたかわからない。つい先日1か月半ほど入院したときも、この歌が頭に浮かんだ。病気の種類は違うが、歌詞と今の自分の状況が見事に重なったのである。

僕は星野源さんの曲を、メディアから流れてくるものや薦められたものを聞く程度の人間だから、偉そうなことはいえないのだが、それでも「地獄でなぜ悪い」はいちばん好きな曲である。

しかしそんな個人的な思いはどうだっていいのだ。星野さんとそのスタッフチームがNHKという公共放送、しかも紅白歌合戦で歌わないという判断をしたのは賢明だろうと思う。一方で当初、この歌を選定したという最初の判断もわからなくはない。

有名な音楽プロデューサーは、「公共放送で歌うからダメなんで、ワンマンライブなどで自由に歌えばよい」と書いていたが、はたして今後、紅白歌合戦では歌いませんでしたが、自分のライブでは歌います、というわけにいくのだろうか。

そうなると、この曲は地下に埋もれてしまうのだろうか。個人がひっそりと聞くだけの曲になってしまうのか。発禁にならなかっただけよかったと思うべきなのか。僕にはよくわからない。

ほら、だから最初に、自分の考えが整理されているわけではないと言ったでしょう。

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電話

12月25日(水)

インフルエンザはまだなおらない。

家で昼食をとろうとしていたら、携帯電話が鳴った。

着信画面を見ると、全国紙の記者の名前だった。まだ30代中頃の若い記者で、僕は1度会ったことかあるだけで、あとはオンライン画面上の小さな会合で何度かお目にかかるていどだった。

僕は以前に、ある知り合いから自分の知り合いの記者だと紹介されただけで、僕が直接取材されたことはない。言ってみれば「知り合いの知り合い」にすぎなかった。そんな僕に何の用件だろうと不審に思いながら電話をとった。

「ご無沙汰しております」

「先生、お元気でしたか?」

「いえ、いまインフルエンザで寝込んでおります。その前は1カ月半ほど入院していました」

「そうでしたか。何も知らず大変なときにお電話してしまい申し訳ありません。いまお電話して大丈夫でしたか?」

「ええ、大丈夫です」

「実は私、つい先日育休が終わりまして、これから仕事に本格復帰することになりました」

「そうでしたか」そういえば、その記者が育休をとっているという話は、知り合いから聞いた記憶がある。

「それでご挨拶をしようと思いまして」

「そうでしたか。わざわざありがとうございます」

そうは言ったものの、そういう挨拶だけを受けるような間柄ではない。

1,2分雑談したあと、先方は本題を切り出した。

「先生、4年ほど前に戦争体験当事者とそのご家族に関するプロジェクトをされていましたよね。ちょうど新型コロナウィルスがいちばん流行したときでしたね」

「ええ」僕はイヤな予感がした。

「あのときは私も最後のほうに1度だけオンラインで参加させていただきました」

「ええ、覚えています」

「あのプロジェクトは、その後どうなりましたか?」

「2年間続けたあとは、別のプロジェクトを立ち上げてしまったので、それっきりです」

「そうでしたか」

「中途半端に終わってしまったプロジェクトだったので、何とかケリが付けられないだろうかと気になってはいたところです」

「コロナ禍も明けて、再開するということはお考えですか?」

「プロジェクトの再開はあり得ませんが、何らかの形で戦争体験当事者のご家族とは久しぶりに連絡をとらなければならないとは思ってはいます」

「もしそれが実現したら、私も立ち会わせてもらってもよろしいでしょうか」

体調が悪い僕に、さらに体調を悪くさせるような発言だった。

その記者は、戦争をテーマにする取材をして記事にすることが記者としての自分の使命だとして、これまで一貫して戦争に関する記事を書いて、紙面を割と大きく飾っていた。もちろんそれ自体は決して悪いことではなく、むしろ戦争を知らない若い世代に、戦争について体験した当事者やそのご家族から聞いたお話を伝えることはとても大切であると思っている。そしてそれが戦争を知らない世代の記者がおこなうことにも大きな意味があると思っている。

僕は、その記者の取材の様子を、オンライン画面上でのある小さな会合でも見たこともあったし、伝聞で知ったこともあった。その記者が取材したことは、とくに敗戦の日のあたりには確実に記事になっていたと思われるが、どれも「いっちょかみ」で記事にしていく人だなあという印象を持っていた。ま、そうでないと記者がつとまらないことは僕も重々承知している。

僕が最も懸念していたのは、実はそのプロジェクトがその記者のせいで瓦解してしまったという事実である。

あるとき、その記者がプロジェクトにオンライン参加したいといってきた。僕にではなく、プロジェクトのリーダー格の人にである。

リーダーは悪い話ではないと思い、その申し出を二つ返事で受け入れ、いちおう副リーダーをしている僕にも許可を求めてきた。

僕は逡巡した。戦争体験はとてもデリケートな問題で、まだクローズドでおこなっているプロジェクトに記者に参加してもらってよいものだろうか。しかし知らない記者ではないし、リーダーも好意的に受けとめてしまっているので、反対する理由を見つけるのが難しかった。

で、その記者にもオンライン参加してもらったのだが、懸念していた通り、記者がこのプロジェクトに参加するや、会合のあと、メンバーの一人から猛烈な反対意見が出た。自分たちが積み重ねてきたこのプロジェクトの成果を、自分たちが公表する前に記者に記事にされてしまうのは絶対に避けなければならない、と。その強硬な反対意見に、記者の参加を何とも思っていなかった多くのメンバーは、「この人は厄介な人だなあ」と思ったのかもしれないが、僕はその反対意見に十分に理があると思い、うかつに参加を認めてしまったことを反省した。そのメンバーはもし記者がこの先も出るようだったら自分はこのメンバーから降りる、とまでの強い信念を持っていた。

メンバーの分裂は避けたいということで、その後、記者にはオンライン会合の日程を知らせることなく、ほどなくしてそのプロジェクトは期間を終了した。

以上の経緯を、その記者は知らない。

だから何の躊躇もなく取材させてほしいと言ってきたのである。むしろ自分もそのプロジェクトにもオンラインで参加していたことがあるので、取材する権利はあるだろう、というニュアンスに僕には聞こえた。

「もし、戦争体験当事者のご家族にお話を聞くような機会があれば、私もそこに立ち会わせてください」

「でも、どうなるかわかりませんよ」

「なんか急かしてしまったようですみません」

急かしていたのか…。僕はその言い方に驚いた。そして、その次のひと言にも驚いた。

「来年は終戦から80年になる記念の年ですので」

そうか、つまり敗戦後80年を迎える来年8月の記事の「ネタ」にしたいということだったのだ。だからこの時期からその仕込みをしようと、僕に電話をかけてきたのだ。しかしそれを記事にしていいのかどうか、僕の一存では決められない。あのときのトラウマがあるからだ。

しかし記者というのは、記事にするためにはどこまでも貪欲な存在なのだろうか。僕にはなんとなく、そうやって戦争体験当事者とその家族のお話を聞いてそれをそのまま記事にすることで、戦争を消費しているにすぎないようにも思えてしまった。

もちろん戦争体験当事者やその家族に戦争のお話を聞くことはとても大事なことだが、それをそのまま記事にするのではなく、戦争に関するこれまでのさまざまな手記や回想録、研究史、そして戦争文学をまずは読み込んで、戦争に関する知識を深めてほしいと、切に願った。もちろんそんなことは本人には言わなかったけれど。

どうも最近愚痴っぽくていけない。

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インフルエンザだった!

12月23日(月)

土日はずっと高熱が続き、今朝も熱をはかったら38.9度あった。

(う~む、これはどういうことだろう)

だんだん不安になってきた。

折しも今日の午前9時からは、入院した病院で外来受診を予約していたので、38度後半の発熱している状態で受診してもよいものか、あるいは発熱のことも含めて診てもらうことはできないかと、電話で問い合わせたところ、もし病院まで通うのが辛くなければ発熱していても来てもらって大丈夫ですよと言われ、予定より1時間遅れて病院に着いた。ちなみに家を出る直前に体温をはかったら38.4度になっていた。

採血を終え、診察室前の待合室で待っていると、体温計を渡され、体温をはかってくださいと言われ、はかってみたところ、その時点では37.5度まで下がっていた。

どういうこっちゃ。こっちは「38度後半」と病院に自己申告していたのに、虚偽の報告と思われてしまうではないか。どうも体温計はあてにならない。

そのすぐあとに診察室に呼ばれたので診察室に入ると、外来診察の先生は入院中からお世話になった、明るくて元気な先生だった。入院時の僕のイメージでは、「おっさんずラブ」の眞島秀和さんにクリソツと思い込んでいたが、実際に対面すると、声の感じが似ている、という程度だった。それでもよく通る声であることには違いない。

僕が新鮮だと感じたのは、いろいろとこの間の経緯を細かく聞いた上に、触診をしてくれたことである。あたりまえだろ!と思うかも知れないが、僕がかかりつけのクリニックのヤブ医者は、月に一度、もう6年くらい通っているのに、触診を一度もしたことがない。ネットの口コミ情報を見ても、パソコンの画面ばかり見ていて触診もせず間違った薬を処方するのでもうあのクリニックには金輪際行かない!という書き込みが散見されて、まあヒドイ書かれようだが、同じことを考えている人がけっこういたんだなとそれらの書き込みを微笑ましく眺めた。それに比べてこの病院の主治医の先生は実に誠実に診察してくれたのである。

僕の話を聞いた先生は、「発熱はおそらくウィルス性の風邪によるものでしょう。ただこちらが恐れているのは入院の時の症状がぶり返したという可能性です」

僕もそのことが一番の心配だった。仮に高熱の原因が風邪とかインフルエンザとかコロナウイルスでないとすると、また入院に逆戻りすることになりかねないからである。

「さっそく検査しましょう」

と、先生は僕を別室に連れていき、ウイルスの検査をしてもらった。鼻の穴に綿棒みたいのを突っ込むアレである。 

こうした忙しい大病院だったら、ふつうは看護師さんがやりそうなもんだが、主治医の先生自ら、僕の鼻の穴に綿棒を突っ込んだ。なんというフットワークの軽い先生だ。

「結果が出るのに1~2時間かかりますから、今日はこれで帰ってもらって、結果がわかり次第お電話でお伝えします。もしインフルエンザだったとしても、ピークアウトしているようなので特別な治療薬は不要です」と、解熱剤だけを処方してもらい、会計を済ませて病院をあとにした。

1時間後、電話が鳴ったので出てみると、主治医の先生がじきじきに電話をかけてきた。

「結果が出ました。インフルエンザです。こういう言い方はヘンですが、インフルエンザでほんとうによかった。おそらくあと2~3日で熱が下がると思います。もしそれでも回復していなかったら木曜日に病院に来てください。回復していたら木曜日の予約は取り消していただいて結構です」

それを聞いて僕も安心した。インフルエンザとわかって安心するというのもヘンな話だが、主治医の先生の機動力と判断力に、僕はすっかり感動してしまった。

そして僕を何より安心させたのは、主治医の先生から直接そのことを聞いたことである。何事も看護師さん任せにする医師もいたりするのがこの業界にありがちなことなのかも知れないが、その先生は鼻の穴の検査から検査結果の報告まで、すべてご自身でされていた。なるほど、人に信頼されたり安心感を与えたりするというのは、こういうことなのかとあらためて学んだのであった。僕は我が身を振り返った。

自宅に戻って熱をはかりなおすと、38度だった。ほんとうにピークアウトしたのか?

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職場復帰したはいいものの

12月20日(金)

職場復帰した。

さっそく上司にご挨拶に行ったところ、待ってましたとばかりにさまざまな話をされた。その大半は雑談だったが、要所要所に仕事のまじめな話も出て、いきなり戦場に戻ってきた感覚になった。結局上司との話は2時間半ほどに及んだ。

今日は軽い挨拶だけで明るいうちに帰ろうと思っていたのだが、12月25日締切の原稿の素材を集めたりしていたらあっという間に夕方になり、あたりは真っ暗になってしまった。

しかも道路は大渋滞していて、帰宅したのが夜の8時半になってしまった。

その後、急に喉が痛くなり、ひどく寒気がしたのだが、この日はそのまま寝ることにして、翌朝(21日[土])に熱をはかったら高熱が出ていたので、急いで解熱剤を飲んで安静にすることにした。

これはいま流行しているアレか?と一瞬思ったが、よくわからない。職場復帰の日は少数の人にしか会っていないし、車通勤だった。そうなると、一昨日の総合病院での診察の時だろうか?あのときは病院がひどく混雑していたから、そこで何かをうつされたとか?

いずれにしても病み上がりで体力や免疫が落ちているところに何らかのウィルスが入り込んだのかも知れない。退院したことで自分の体力が戻ったと過信していたことを反省した。

同世代の古い友人たちから新年会の誘いを受けたが、こんな体力の私が行けるはずもない。ましてやインフルエンザが大流行しているなかで、人混みの中を分け入って大勢の人と会食するのは恐くて仕方がない。そのことを気にするわけでもなく、学生時代と同じノリで集まれる人の体力と健康がうらやましい。そして比較的時間に融通がきく身軽さも。僕はそのどちらも持ち合わせていないが、自分の中の優先順位が何かを教えてくれる今のこの状態も悪くないと思っている。

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原稿ため込み党の復活

12月18日(水)

退院して1週間が経った。まだ日常生活に体が慣れていない。2日後に職場復帰をすると言ってしまった手前、早く慣れておかないといけない。

さっそく原稿にとりかからなければいけなくなった。

ひとつは、とっくに締切が過ぎていて、しかも刊行時期が決まっている書籍の原稿がひとつ。書籍といってもそのごく一部を担当するだけなのだが、先方から連絡が来るまで黙ってようと思っていたら、ちょうど昨日夕方に「ご体調はいかがですか?」という件名でメールをもらった。

僕は先週退院したことを告げ、まだ本格復帰に至っていませんと断った上で、「締切をとっくにすぎた原稿、まだ間に合いますか?」とおそるおそる聞いたところ、来年の1月7日(火)までに提出いただければ何とかなります、との返信をもらった。僕はその出版社に迷惑のかけ通しだったので、せめてこの最後の締切には間に合わせようと決意したのであった。

もうひとつは、2月初旬にある場所で話をするための原稿。口からでまかせに話すのではなく、ちゃんと原稿をあらかじめ提出したり、パワポを準備したりして、それらを提出しなければならない。その締切が年末なのである。

こちらの原稿のほうは、何を書いたらいいかまったく思い浮かばず、もはやこれまでかと諦めかけていたのだが、昨日だったか、いきなり原稿の神様が降りてきて、書く内容が固まってきた。僕にはたびたびそんなことが起こる。というかほとんどそんなことばかりだ。原稿の神様が逃げないうちに、書く内容をメモし、だんだん形を整えていって文章にする作業をする。

こう書いていると、さっそくバリバリ原稿を書いているのかと思われてしまうのでイヤだが、実際には書くのもなかなかしんどいので、書いては休み、書いては休みと、少しずつしか進められない。しかし進めないことには終わらない。とりあえず年末年始の目標は、この二つの原稿を仕上げることだ。それでなくとも、2日後に予定している職場復帰をしたら、重たい仕事が待っているのだ。

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耳栓・最終回

12月14日(土)

入院中、結局テレビを一度も見ることがなかった。習慣で聴いていたラジオやPodcastの音声番組も聴く気が起きなかった。Wi-Fiの環境がよくなかったせいもあるが、体調の関係もあり、それぞれのコンテンツのテンションになかなかついていけないというのが大きな理由だろう。もっぱら本を読むことだけが楽しみとなった。

しかし相変わらず聞こえてくるのは、隣の「2代目もしも~しおじいさん」の独り言である。僕は相変わらず耳栓生活を続けていたが、一方で日に日におじいさんの声が小さくなっていく。その代わりにベッドの柵の部分を小刻みに叩いたり、さまざまな不可解な行動を起こしたりするようになった。

夜中にカタカタをいう音がして、それがあまりに長く続いているので、私はすっかり眠れなくなってしまい、ナースコールのボタンを握りしめ、よっぽど「なんとかしてください」と言おうかと思ったが、しばらくするとカタカタという音が止んだりするので、ナースコールのボタンを押すタイミングがわからなくなり、押すのを諦めた。やはり自衛するしかない。僕は耳栓をさらに耳の奥まで入れて耳を塞いだ。

そして12月11日(水)、僕は退院することになった。1か月半ぶりに病院の外に出て自宅に戻ることになったが、入院期間のあまりの長さのせいか、外に出ると軽いめまいを覚え、足もともかなりふらついていた。なるほどシャバに出るというのはこういうことか。こりゃあ、本格的な社会復帰までちょっと時間がかかりそうだぞ、と。

しかし退院後すぐにどうしても行きたいところがあった。散髪屋さんである。散髪をして、髪を丁寧にあらってもらい、顔をあたってもらい、サッパリとした気分で退院の喜びを噛みしめたかった。僕はフラフラとした足取りで散髪屋さんに行った。そして散髪は裏切らなかった。やはり気分がサッパリした。しかし相変わらず足もとはふらついている。正確に言えば足腰の筋力が相当弱まっているのだ。僕はその日からたちまちひどい腰痛に襲われた。少しずつでも筋力を回復させていかないとならないと痛感した。

こうして僕は耳栓を使わない生活に戻ったが、それにつけても気にかかるのはあのおじいさんである。いささか大げさだが、おじいさんには老後の生き方について教えてもらったような気がする。

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後悔はしていない

12月10日(火)

最近、有名人の訃報を目にすることが多い。僕より1歳年下の俳優の中山美穂さんの突然の訃報にも驚いたが、そのあと日を置かずして、テレビ司会者の小倉智昭さんの訃報を聞いた。それを聞いてある思い出がよみがえってきた。

5年ほど前のある日の夕方のことである。フジテレビの朝の情報番組の「とくダネ!」のディレクターから電話が来た。電話を取り次いだ方の話では、出演依頼の話らしい。なんでこの俺が?と思い、そのときは居留守を使ったが、その後そのディレクターからメールが来て、番組の中でかくかくしかじかのテーマでお話ししてほしいということだった。どうやらディレクターはそのテーマでネット検索したら僕の名前が出てきたからということらしい。

僕はその依頼の仕方も失礼だなと思ったが、何より失礼と思ったのは翌日の朝の番組に生出演してほしいということだった。そんな横暴な依頼があるだろうか。こっちだって予習する時間が必要なんだ。それに僕なんかよりほかにふさわしい人がたくさんいるではないか。僕はすぐにお断りの返信をした。

仮に出演したとしても、あの番組には僕の嫌いなコメンテーターが出演していて、そういう人と共演するのはまっぴらごめんだという気持ちもあった。

唯一逡巡したのは、メイン司会者の小倉智昭さんに生でお会いしてみたい、ということだった。しかしそれをもってしても、あまりに乱暴な依頼には出演を瞬速で断るという選択肢しかなかったのである。

小倉智昭さんの訃報を聞いてそのことを思い出し、心残りだったが、あの時断ったことはいまも後悔していない。

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話の極意

12月9日(月)

スマホのYouTubeを開いたら、おすすめの動画として「ナイツ塙会長の自由時間」というチャンネルがあがっていて、伊集院光さんがエピソードトークの極意について塙さんと語っていた。1年前の動画のようで、僕は初めて見たのだが、これがめちゃくちゃおもしろかった。

若い頃、伊集院さんのラジオは毎週欠かさず聴いて、その話術というか話芸の面白さの虜になっていたのだが、その話芸の極意がかなりロジカルに語られていた。僕が若い頃に、伊集院さんの話芸のコツについて漠然と考えていたことが、理論化、言語化されていて、僕は溜飲が下がったのであった。

リスナーにわかりやすく面白く伝えるために、若手芸人5人と飲んだことを2人で飲んだことにして話がややこしくならないようにするとか、2回に分けて行った場所について、それをそのまま話すとややこしくなるので1回の話にまとめてしまうとか。それはラジオの尺を考えながらそのときの判断で話を組み立てる、というのである。

伊集院さん本人はそのことを「話を盛る」と表現していたが、「盛る」というよりも「組み立てる」とか「組み換える」といった方がふさわしいのかもしれない。

僕も長らくラジオを聴いていて、漠然とそんなことを感じていたので、それが言語化されたことにちょっと感動した。

こんなことを書くと「おまえそれは後付けだろ!」と叱られてしまうかも知れないが、このブログもそんな感じで書いている。エピソードじたいは本当の出来事でも、時間の前後を入れ換えたり、不必要なことは省いたり、会話を足したりしている。

伊集院さんは「(初めてこのラジオを聴いてくれる)リスナーを置いてきぼりにしない」とも言っていて、実際にラジオのトークではそうならないように話の端々に補助線を引いていたことを思い出す。

一番よくないのが、エピソードの全部を話そうとすること、あるいはエピソードの本筋とは関係ないことまで話そうとすることだと言っていて、これにも同感だった。要するに全部を説明しようとするのはよくないということである。

僕は前の職場にいた頃、若者たちに「知ってることとか調べたこととかを全部書こうとするのはよくない。文章の極意はそれらを如何に捨てるかということである」と、偉そうに指南していた。今から思うとまことに恥ずかしいが、あながち間違っていなかったのではないかと思う。

自分がそのことをできているかははなはだ心許ない。実際、これだけクドい文章を書いているということは、まだまだ修行が足りないということなのだろう。

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思い出したこと

12月8日(日)

たんなる思い出話。

3年ほど前、民放局のテレビ番組の取材を受けた。戦争に関する番組である。

電話をかけてきたディレクターの方がめずらしく誠実そうな方だったのでその取材をお受けすることにした。

「当日はうちのニュース番組のキャスターがお話をうかがう形で撮影します。ただ平日夕方のニュース番組を担当しておりますので、土日にお仕事場に取材にうかがってもよろしいでしょうか」

「わかりました」

平日夕方のニュース番組のキャスター?誰だろう?ひょっとしてあの人か?などと胸踊らせながら当日を迎えると、予想に反して男性アナウンサーだった。

その男性アナウンサーは、シュンとした顔立ちで、身長もスラリと高い。いまどきルッキズムかよ!と叱られるのを覚悟でいえば、「好感度の高そうなイケメンアナウンサー」に見えた。学歴もエリート街道を歩まれてきたらしい。

しかし、そのときの態度を見て僕は少し驚いた。

取材陣と最初に挨拶をして、ディレクターと撮影の打合わせをし始めると、彼はどこかへ行ってしまった。

打合わせに同席しなくていいのかな?と僕は少し心配したが、そういうものなのかなぁとそのときはそう思った。

しかし番組のテーマは「戦争」である。デリケートなテーマを扱うのだから、通常の仕事の中のひとつ、というわけにはいかないのではないかという思いも依然として残り続けた。

結局、彼は撮影をはじめるという時になってようやくあらわれ、ぶっつけ本番で撮影をして、帰っていった。

実際の番組を見ると、さすがディレクターの思いの強さがあらわれている番組に仕上がっているなぁと思った。だからこの番組にお手伝いできたことはとても貴重な体験となった。

ただひとつ心に引っかかったのは、あのアナウンサーの態度である。彼は番組自体に関心がなさそうに僕には見えた。事前に下調べをしたのかどうかもよくわからない。いや、しているのかも知れないが、もしそうだとしたらもう少し関心のある姿勢を見せるはずである。それ以降、僕はそのアナウンサーに対する見方がガラリと変わってしまった。

なぜこんなことを思い出したかというと、今日のニュースをチェックしていたら、そのアナウンサーがレギュラー出演するニュース番組の中で、韓国のユン大統領の戒厳令の一連の動きを報じたあと、「韓国では民主主義が根付いていないのかな」と発言し、「軽率な発言だった」と、ニュース番組とは別にレギュラー出演しているラジオ番組で謝罪した、というニュースを見たからである。僕はそのニュース番組もラジオ番組もリアルタイムではチェックしていなかったが、映像や音声に残っていた。

僕は「出るべくして出た発言だな」と、3年前のことを思い出し感慨深く思った、という、ただそれだけの話である。

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耳栓·その4

12月6日(金)

カーテンを隔てて隣にいる「2代目もしも~しおじいさん」は、日に日に支離滅裂なことを叫んでいる。

人間ってあんなにアッサリと壊れていくものなのかと驚きを禁じ得ない。

叫んだところでその声は看護師さんには届かない。ナースコールを連打することも忘れたらしい。「もしも~し」のムダ打ちをして、その被害に遭うのはこの僕である。

自分が病院にいることも忘れている。ホテルに泊まってると思い込んでいる。知り合いはみんな自分のまわりにいると思い込んでいて、「もしも~し」のあとに、知り合いとおぼしき人の名前を叫んでいる。いや、ほんとうは知り合いの名前かどうかすらわからない。

毎食は、自分一人では食べられないので、ナースステーションで車椅子に乗って移動し、たくさん人のいるところで食事をする。

不思議なことに食事から帰ってくると、一瞬回路がつながったように看護師さんとの会話が成立している。ここから学ぶことは、少しでもいろいろな人と場をともにすることは、社会性やコミュニケーションを維持するいちばんの薬ではないかということだ。しかし食事から戻って看護師さんがいなくなると、とたんに元に戻ってしまう。

お連れ合いの方が時々面会にやってくる。声を聞くとやはりご高齢の方のようである。イヤでも耳に入ってくるのだが、どうもご自宅から病院までは公共交通機関を乗り継いで片道2時間かかるという。なので向かいの家の「チバさん」という人に車で送ってもらうことが多いらしい。

不思議なのは片道2時間、往復4時間かけて面会に来るお連れ合いが、10分そこそこで帰ってしまうことである。会話が成立しないので顔を見るだけで帰るのかも知れない。もう少し長く居れば会話の回路がつながるのではないかととも余計なお世話を焼いてしまうが、お連れ合いの方も来るだけで疲れてしまうのかも知れない。

そんなわけで1カ月以上も病室にいる僕もメンタルをやられつつある。しかし最近この相部屋の病室に入ってきた患者さんの既往症を看護師さんとの会話の中で聞くとはなしに聞いたら、いくつもの修羅場をくぐり抜けている僕よりもはるかに多くの修羅場をくぐり抜けきたようで、それでも声の調子から平然としているようすを聞き、こんなことでは修行が足りぬと自分に言い聞かせたのであった。

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好青年医師

12月4日(水)

毎週水曜日は感染症科の外来診察がある。

外来診察といっても、感染症科の主治医の先生と若手の医師たち数人が病室に回診に来るという形なので、僕はその場にいればよい。ただしその時間は主治医の先生次第なので、いつ来るのかわからない。

その前の午前中に、先兵として若い医師が一人来て、「体調はいかがですか?」と聞きにくるのが回診の段取りのようだ。

午前中、ベッドに座って本を読んでいると先兵の若い医師が来た。

「体調はいかがですか?…あ、あの本は読み終わりました?」

キング·オブ·「積ん読」本を読んでいたときにその本に反応を示してくれたあの若い青年医師か!

「ええ、なんとか読み終わりました」

「そうですか。すごいなあ」

素直に驚いている様子だった。そしてテーブルの上にあった本に気づいた。

「今度はどんな本を読んでいるんですか?ずいぶん分厚い本ですね」

本にブックカバーをしていたので、そのブックカバーをはずして本のタイトルを見せた。

「難しそうな本ですね…」

青年医師は著者の名前を知らないらしい。

「いえいえ、そんなことはありません。この著者は探検作家で、人の行かないようなところに行って、その冒険譚をわかりやすく面白く書いているんです」

私はその本の内容について少しばかり話した。少しよけいなことを話しすぎたかも知れない、と後になって反省した。しかし青年医師は辛抱強く聞いてくれたようだった。

「僕にも読めますかね」

「大丈夫ですよ」

「それにしてもすごい数の付箋がついてますね」

今度は付箋に気が付いた。僕は昨年あたりから、100円ショップのセリアで売っている「フィルムふせん」という極細の付箋を愛用するようになった。付箋をつけながら読むことがすっかり習慣となった。

「大事かなと思うところや印象的な言葉だなと思ったところに付箋をつけているんです」

それにしても興味を持って聞いてくれるという姿勢が実に嬉しい。

「その本、あとでチェックしてみます」

と言って去っていった。何という好青年だ。

午後になって主治医の先生は、その好青年医師を含む数人の若手医師を連れて回診にやって来た。もちろん回診の間、その好青年医師は一言も発せず、型通りの回診が終わると帰っていった。

本の話はいわば二人だけの秘密の会話だ。些細なことだが、それだけでも楽しい。

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僕が寝てる間に

12月4日(水)

朝起きたらこぶぎさんがブログにコメントを書いてくれていた。

「あなたが寝ている間に

大統領が非常戒厳令を宣布し

戒厳軍が国会に侵入し

国会が与野党全一致で非常戒厳反対を決議し

憲法により非常戒厳が無力化し

戒厳軍が原隊に復帰(午前5時現在)

おかげで、わたくしめは寝れなかったんですけど。

耳栓貸してくれないかな、まったく」

最初読んだ時には何のことかサッパリわからない。「大統領」とあるからあの悪名高いアメリカの大統領のことかなと思ったが、ニュースを見て、そうではなく韓国のユン大統領のことだった。

いったいどういうこっちゃ?と思ってニュースを読んだり旧Twitterを見たりしていると、旧Twitterに簡にして要を得たツイートを見つけた。内容はこぶぎさんが書いてくれた通りだった。

「いいですか、落ち着いて聞いてください。あなたが寝ている間に、韓国で夜11時に突然戒厳令が敷かれ、国民は猛反発し議員は軍を押しのけ国会に入場し、深夜1時半に解除案が可決され、午前4時に大統領がこれを受け入れ、午前5時に正式解除されました。そして今日おそらく大統領は弾劾される見通しです」

さらにいろいろなニュースを見ると、こんなことも書いてあった。

「韓国における戒厳令は1979年10月以降45年ぶりのことで、1987年の民主化以降、初の事態だった」(ニューズウィーク日本版)

「韓国で戒厳令が出されるのは、抗議する市民が軍に鎮圧され犠牲になった「光州事件」へとつながった80年以来、44年ぶり。尹政権の支持率はこのところ約20%と低迷。政権の求心力低下が著しい状況下で、権力回復へ形勢逆転を狙った大胆な行動に出たが、失敗に終わった」(時事ドットコム)

なるほど、44年ぶりか。僕はむしろこっちの方に興味がある。

44年前の戒厳令があの光州事件を引き起こしたことを、ユン大統領は知らなかったのだろうか。

アン·ソンギやキム·サンギョンが出演した映画『華麗なる休暇』(邦題『光州5・18』2007年)とか、ソン·ガンホ主演『タクシー運転手 約束は海を越えて』(2017年)とかを見ていなかったのかな?

また、1987年の民主化ということでいうと、韓国の名だたる俳優が出演した『1987 ある闘いの真実』(2017年)が思い出されるが、これも見ていないのか?

韓国の民衆はこうした映画を通じて戒厳令とか政権による弾圧の歴史について大統領よりもはるかによく学んでいた。だから戒厳令などという大統領の「ご乱心」を一夜にして解除できたのではないだろうか。もちろんそれだけではないと思うけれども、民衆の方が歴史から学び、遥かに意識が高かったことは間違いなさそうだ。国民を舐めんなよ!といったところだろうか。それにしてもなぜ大統領がこんな時代錯誤なことをしたのかわからない。

そう考えると、地道にこういう映画を作り続けるって大事だ。しかも一流の俳優たちが躊躇なく出演している。それがまた民衆の心を惹き付ける。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という格言を持ち出すまでもなく。

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耳栓·その3

12月1日(日)

相変わらず耳栓が大活躍している。

4人部屋の相部屋の病室、僕の隣にいる「2代目もしも~しおじいさん」は、「初代もしも~しおじいさん」とくらべると力のない小声なのだが、起きている間は独り言のように繰り返している。大きな声でなくても、カーテン1枚隔てた僕にとってはよく聞こえることに変わりなく、つまりはいちばんの被害者はこの僕ということになる。

昨日くらいからナースコールの押し方を知ってからは、ナースコールを連打するようになった。と同時に「もしも~し、助けてくださ~い」とつぶやくことは変わらない。看護師さんも手が足りないので、ナースコールのたびにいちいち駆けつけることはしない。

ただおじいさんからすれば、ベッドから自力で起き上がることもできない。看護師さんの手を借りないと掛け布団を掛け直すことも、水を飲むこともできないのである。不安になりナースコールを連打する気持ちもわからなくはない。つまりこれは完全な介護である。

看護と介護。看護師さんはこのおじいさんに対してはその二つをこなさなければならない。

しかも日曜日は看護師さんの数も少なく、仕事が完全にまわっていない。

いったい誰が悪いのだろう?

政治家は都合が悪いと逃げるように入院することがある。いちど個室ではなくカーテンで仕切られた相部屋に入院してみてはいかがだろうか?マイナ保険証なんかよりはるかに重要な問題が医療の現場では起こっていることに気づくのではないだろうか?いや、気づかねえか。

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