インフルエンザはまだなおらない。
家で昼食をとろうとしていたら、携帯電話が鳴った。
着信画面を見ると、全国紙の記者の名前だった。まだ30代中頃の若い記者で、僕は1度会ったことかあるだけで、あとはオンライン画面上の小さな会合で何度かお目にかかるていどだった。
僕は以前に、ある知り合いから自分の知り合いの記者だと紹介されただけで、僕が直接取材されたことはない。言ってみれば「知り合いの知り合い」にすぎなかった。そんな僕に何の用件だろうと不審に思いながら電話をとった。
「ご無沙汰しております」
「先生、お元気でしたか?」
「いえ、いまインフルエンザで寝込んでおります。その前は1カ月半ほど入院していました」
「そうでしたか。何も知らず大変なときにお電話してしまい申し訳ありません。いまお電話して大丈夫でしたか?」
「ええ、大丈夫です」
「実は私、つい先日育休が終わりまして、これから仕事に本格復帰することになりました」
「そうでしたか」そういえば、その記者が育休をとっているという話は、知り合いから聞いた記憶がある。
「それでご挨拶をしようと思いまして」
「そうでしたか。わざわざありがとうございます」
そうは言ったものの、そういう挨拶だけを受けるような間柄ではない。
1,2分雑談したあと、先方は本題を切り出した。
「先生、4年ほど前に戦争体験当事者とそのご家族に関するプロジェクトをされていましたよね。ちょうど新型コロナウィルスがいちばん流行したときでしたね」
「ええ」僕はイヤな予感がした。
「あのときは私も最後のほうに1度だけオンラインで参加させていただきました」
「ええ、覚えています」
「あのプロジェクトは、その後どうなりましたか?」
「2年間続けたあとは、別のプロジェクトを立ち上げてしまったので、それっきりです」
「そうでしたか」
「中途半端に終わってしまったプロジェクトだったので、何とかケリが付けられないだろうかと気になってはいたところです」
「コロナ禍も明けて、再開するということはお考えですか?」
「プロジェクトの再開はあり得ませんが、何らかの形で戦争体験当事者のご家族とは久しぶりに連絡をとらなければならないとは思ってはいます」
「もしそれが実現したら、私も立ち会わせてもらってもよろしいでしょうか」
体調が悪い僕に、さらに体調を悪くさせるような発言だった。
その記者は、戦争をテーマにする取材をして記事にすることが記者としての自分の使命だとして、これまで一貫して戦争に関する記事を書いて、紙面を割と大きく飾っていた。もちろんそれ自体は決して悪いことではなく、むしろ戦争を知らない若い世代に、戦争について体験した当事者やそのご家族から聞いたお話を伝えることはとても大切であると思っている。そしてそれが戦争を知らない世代の記者がおこなうことにも大きな意味があると思っている。
僕は、その記者の取材の様子を、オンライン画面上でのある小さな会合でも見たこともあったし、伝聞で知ったこともあった。その記者が取材したことは、とくに敗戦の日のあたりには確実に記事になっていたと思われるが、どれも「いっちょかみ」で記事にしていく人だなあという印象を持っていた。ま、そうでないと記者がつとまらないことは僕も重々承知している。
僕が最も懸念していたのは、実はそのプロジェクトがその記者のせいで瓦解してしまったという事実である。
あるとき、その記者がプロジェクトにオンライン参加したいといってきた。僕にではなく、プロジェクトのリーダー格の人にである。
リーダーは悪い話ではないと思い、その申し出を二つ返事で受け入れ、いちおう副リーダーをしている僕にも許可を求めてきた。
僕は逡巡した。戦争体験はとてもデリケートな問題で、まだクローズドでおこなっているプロジェクトに記者に参加してもらってよいものだろうか。しかし知らない記者ではないし、リーダーも好意的に受けとめてしまっているので、反対する理由を見つけるのが難しかった。
で、その記者にもオンライン参加してもらったのだが、懸念していた通り、記者がこのプロジェクトに参加するや、会合のあと、メンバーの一人から猛烈な反対意見が出た。自分たちが積み重ねてきたこのプロジェクトの成果を、自分たちが公表する前に記者に記事にされてしまうのは絶対に避けなければならない、と。その強硬な反対意見に、記者の参加を何とも思っていなかった多くのメンバーは、「この人は厄介な人だなあ」と思ったのかもしれないが、僕はその反対意見に十分に理があると思い、うかつに参加を認めてしまったことを反省した。そのメンバーはもし記者がこの先も出るようだったら自分はこのメンバーから降りる、とまでの強い信念を持っていた。
メンバーの分裂は避けたいということで、その後、記者にはオンライン会合の日程を知らせることなく、ほどなくしてそのプロジェクトは期間を終了した。
以上の経緯を、その記者は知らない。
だから何の躊躇もなく取材させてほしいと言ってきたのである。むしろ自分もそのプロジェクトにもオンラインで参加していたことがあるので、取材する権利はあるだろう、というニュアンスに僕には聞こえた。
「もし、戦争体験当事者のご家族にお話を聞くような機会があれば、私もそこに立ち会わせてください」
「でも、どうなるかわかりませんよ」
「なんか急かしてしまったようですみません」
急かしていたのか…。僕はその言い方に驚いた。そして、その次のひと言にも驚いた。
「来年は終戦から80年になる記念の年ですので」
そうか、つまり敗戦後80年を迎える来年8月の記事の「ネタ」にしたいということだったのだ。だからこの時期からその仕込みをしようと、僕に電話をかけてきたのだ。しかしそれを記事にしていいのかどうか、僕の一存では決められない。あのときのトラウマがあるからだ。
しかし記者というのは、記事にするためにはどこまでも貪欲な存在なのだろうか。僕にはなんとなく、そうやって戦争体験当事者とその家族のお話を聞いてそれをそのまま記事にすることで、戦争を消費しているにすぎないようにも思えてしまった。
もちろん戦争体験当事者やその家族に戦争のお話を聞くことはとても大事なことだが、それをそのまま記事にするのではなく、戦争に関するこれまでのさまざまな手記や回想録、研究史、そして戦争文学をまずは読み込んで、戦争に関する知識を深めてほしいと、切に願った。もちろんそんなことは本人には言わなかったけれど。
どうも最近愚痴っぽくていけない。
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