文章の極意
1月17日(金)
口を開けばいつもと同じ愚痴になってしまうので、今回は「文章の極意」について書こうと思う。
別に自分が文章の達人とは全然思っていないが、むかしから若い人の文章を添削したりする機会が多く、いまもわずかながらもそんなことをしているので、その経験からのお話に過ぎない。
結論から言うと、文章の極意は、
「いかに捨てるか」
ということに尽きる。
これはエッセイやエピソードやお堅い文章、はては職業的文章に至るまで、すべての文章にあてはまる。
自分が体験したことや自分が調べたことをぜーんぶ書いたりするのは最悪である。
そのためにまず何をしたらよいか。
文末に「( )(カッコ)」を絶対に使わない、という意気込みで書くことである。
カッコの中の文章は、たいていの場合、余談だったり補足だったりすることが多い。読むほうとしてはそれが煩わしいのだ。本当にカッコの中の文章を残したいのだったら、本文の中に入れるための努力が必要である。それが無理だったら、その文章は捨ててしまってよい。
カッコが多い文章は悪文だと思え。
かくいう僕も、カッコを付けることがよくあるので他人様のことを言えないのだが、カッコが多い他人の文章を読んだときに、悪文の理由はカッコの中の文章にあるのではないかと気づき、それ以来、なるべくカッコを付けないことに決めた。どれだけ実行されているかは心許ないが。
だいたい自分が逐一体験したことなんて他人にとってはまったく興味がない。だから削ぎ落とすことが重要なのである。
おまえ、いつも自分の体験を延々と書いてるじゃないか、と批判されそうだが、僕は他人に読まれたくないので自分の体験を延々と書いているのである。
ここで、この一文の最後に「(屁理屈)」と入れたいところだが、そこはグッと我慢しなければならない。
もうひとつの極意は、「一文は短く」。
ずいぶんむかし読んだ清水義範さんのエッセイに「スカートとスピーチは」というタイトルのものがあった。あとに続く言葉は容易に想像がつくであろう。
基本的に一文が長い文章は悪文である。しかしそれが「味」になっている場合もあって、その線引きは難しい。自分の文章には「味」がないと思っている人は、一文を短くするに越したことはない。
最後に、
「書き終わったら音読する」
音読してみると、自分の書いた文章がいかに稚拙であるかを思い知らされる。
ここまで書いてきて、「おまえの文章は余談ばかりだし、一文も長いじゃないか」という批判が当然出てくるだろう。くり返すが、僕は他人に読まれたくないので一文が長くてクドい余談ばかりの文章を書いているのである。だから自分の書いたものがオーディオブックになったら公開処刑をされたのと同義である。
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