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2025年7月

告訴

最近は書くことがないので、昔のことを思い出してネタを探している毎日である。

大学生の頃、突然見知らぬ人から電話があった。

「あなたを刑事告訴しました」

と。

突然のことでビックリした。

話を聞くと、ある雑誌が、ある人物を批判する特集を組んだところ、その人物の信奉する人が「ウキー!」となって、その雑誌に関わった人間を刑事告訴することにしたという。つまり電話をかけてきた人は、「ある人物」その人ではなく、その信奉者というわけだ。

で、僕がなぜ刑事告訴されたかというと、たまたまその雑誌に名を連ねていたからだという。

しかし僕はその特集にまったく関わっておらず、というかその特集に関わりたくなかったので、まったく身に覚えのない刑事告訴だったのである。もらい事故のようなものである。

ここまでは話についてきてるかな?

当時大学生だった僕は、刑事告訴したと言われてうろたえた。俺は犯罪者になってしまうのか???

急に不安になって、その特集記事を企画した人に電話をかけた。

「あのう、かくかくしかじかで、僕を刑事告訴したという電話があったんですけど…」

「あなたのところにも電話がかかってきたのですか」

「ええ」

するとその人は、深刻な感じではなく、余裕綽々の感じの声で、こんなことを言った。

「刑事告訴したと言ってもねぇ、起訴される可能性はほとんどないと思いますよ。告訴には刑事告訴と民事告訴があって、民事告訴にはお金が必要で、お金を払って民事告訴されると裁判に持ち込まれますけれど、刑事告訴は訴えるのにお金がいらないんです」

「そうなんですか?」

「ええ。だから只で刑事告訴ができるということで、民事告訴と比べて誰でも気軽に告訴できるんです。その代わり、何でもかんでも起訴するわけではなく、箸にも棒にもかからない告訴は起訴されません」

「つまり、玉石混淆というわけですか」

「そうですね。今回の場合、訴えの内容が箸にも棒にもかからないので、起訴されることはないと思いますよ。ですから安心してください」

「わかりました。ありがとうございます」

電話を切ったあと、心が軽くなった。

そして実際に、起訴されることはなかった。

僕はそのとき無知で、同じ告訴でも刑事と民事があって、2つの告訴には大きな違いかあることをまったく知らなかったのである。そのことを身を持って体験した。

しかしいくら問題がないとはいえ、刑事告訴をしたと言われたこと自体、精神的にプレッシャーであり、一種の脅迫行為である。うちのボスを批判するなという、いわば言論の自由を萎縮させる行為である。それを妄信的な信奉者がやっているというのだから、信奉者は恐ろしい。自分はどんな場合でもそうならんとこ、と自分を戒めた。

こんなことを思い出したのは、今年の7月22日の兵庫県知事の定例会見で、時事通信の女性記者が、兵庫県知事の不審な答弁に疑問を持ち、その点を質問したところ、それを知った兵庫県知事を支持する政治団体の代表が、自分のSNSでその記者の名前と時事通信社の電話番号を公開し、それを見たその政治団体の信者たちが、その日のうちに時事通信社に苦情の電話をかけまくってその記者を誹謗中傷し、翌日には時事通信社がその記者を県政担当からはずし、配置替えをした、という事件があったからである。

…なんとも長ったらしい説明で、説明が下手で申し訳ないが、今風の言葉で説明するならば、

「兵庫県知事に批判的な質問をした時事通信の女性記者を気にくわないと思った、兵庫県知事を支持する政治団体の代表が、自分の信者たちや兵庫県知事を狂信的に支持する信者たちに『犬笛』を吹いて、その『犬笛』を聞いた信者たちが、こぞって時事通信社に『電凸』して、この案件が『炎上』し、困った時事通信社はその翌日、記者を配置替えをすることで県政担当からはずし、今後兵庫県知事の記者会見に出席させないことにした」

ということである。これでも説明が長いな。

これの何が問題かというというと、信者らによる根も葉もない苦情電話の圧力に時事通信が屈したということである。これは言論の自由を萎縮させる事案であり、こんなことを許してはならないと、言論界では大変な騒ぎになっている。合わせて、女性記者ばかりが狙われるので、ミソジニーという問題も孕んでいる。

僕は40年ほど前にそれに近い体験をしているので、こうした手口はずっと前から存在していたことは明らかである。それがSNSが登場してから、より大規模に行われるようになった。問題は言論の自由を萎縮させる手口がより巧妙に、そしてより深刻になってきていることである。言論界に生きる人々は、不肖僕も含めて、こんなことで言論の自由を萎縮させてはいけないし、それに対しては声をあげていかなければならないと思う。

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津波警報

7月30日(水)

カムチャッカ半島でマグニチュード8.7の地震が起こり、その影響で朝から太平洋岸に津波警報が出た。東日本大震災のときのことを思い出して、内陸部に住んでいたとしても、あまり気持ちのいいものではない。ましてや海の近くに居る人たちにとっては、気が気ではないであろう。

朝から津波警報のニュースで持ちきりだ。お昼頃、テレビをつけると各テレビ局で予定を変更して津波警報の報道をしている。

画面を見ると大きな字で「津波にげて!」と呼びかけている。そして各沿岸への津波到達時刻と津波の高さを刻々と報じている。

お昼の段階で、各地の津波の高さは30cm~50cmくらいだった。それでも危険なことには変わらない。沿岸部に居る人は取るものも取り合えず、沿岸から離れてできるだけ高いところに避難してくださいとしきりに呼びかけていた。東日本大震災の悪夢を繰り返したくないからである。

ある民放のニュース番組を見ていたら、アナウンサーが、津波の専門家とおぼしき学者と電話をつないでいた。

「ただいま、海岸にクジラが打ち上げられているという情報がありました」というニュースを繰り返し報じた後、アナウンサーが電話の向こうの専門家に質問した。

「先生、津波でクジラが海岸に打ち上げられることはあるのでしょうか?」

「そりゃあ、津波というのは海面が移動するものですからね。クジラが打ち上げられることもありますよ。珍しいことじゃありません」

と専門家が話した直後、アナウンサーが、

「あ、ただいま情報が入りまして、クジラが打ち上げられたのは津波とは関係ないとのことです」

と訂正をした。

スタジオが相当混乱していることを意味するのだろうが、そんなことを差し引いても、専門家との電話はなんとなくちぐはぐなように思えた。

それを決定的にしたのはそのあとのやりとりである。

「先生は今回の津波をどのようにご覧になっていますか」

「心配することはないです」

えっ?と、一瞬スタジオが凍りついたように思えた。

「でも、海底の地形によっては津波の高さが高くなる可能性もあるのではないでしょうか?」

早く逃げてくださいとさっきからさんざん呼びかけているアナウンサーは、専門家の回答にとまどっている様子が声のトーンからうかがえた。

「たしかに海底の地形によっては高さが左右されますね。しかし地震はカムチャッカ半島で起こっていて、それによる津波であることを考えると、あまり海底の地形の影響を考える必要はないので、心配ないです」(聞き流していたので、発言が不正確かもしれないことをご了承下さい)

その後もその専門家は「心配ないです」を繰り返した。

アナウンサーは、

「それでも海岸から離れて高いところに避難する必要がありますよね」

「まあそうですね」

「○○先生、ありがとうございました」

と、電話を切った。

アナウンサー、というか、放送局の立場としては、一刻も早く避難してくださいと呼びかけているので、専門家にはそれを後押ししてもらうためのコメントを期待したはずである。しかしその専門家は、マイペースな人なのか、「心配ないです」と、話の腰を折るようなコメントをしたのである。アナウンサーは最後になんとか誘導して、「早く避難する必要がある」というコメントに着地させたが、ベテランのアナウンサーをもってしても、動揺している雰囲気が伝わる会話だった。

ここからは僕の仮説。

「心配ない」というその専門家の認識が甘い可能性ももちろんある。

一方で、いろいろな事象を分析して、今回の津波は大騒ぎするほどではない、心配ないと結論付けた可能性もある。つまり学問的にみて「心配ない」という結論に帰着した可能性もある。

しかし学問的にみて「心配ない」と結論を出したとしても、それで安全が確認されるわけではない。学問は所詮人間の思考にすぎず、えてして自然災害は、人知を越える被害をもたらすからである。自然災害は人間の都合など考えないのだ。ここ30年ほどの自然災害で、我々は学んだはずである。

学問とは無力なものだ。なぜならそれは人間の思考以上のことを想定できないから。僕は最近そんな考えに取り憑かれている。そんな限界を認めつつ、やり続けなければならないのが、学者の業(ごう)ではないかと思い始めている。

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1枚の写真

7月29日(火)

高校時代の親友·コバヤシからメールが来た。

「鬼瓦殿

上司のMさんの歌が載った本を買ってくれた上に、早速読んでくれたようで、ありがとうございます。

今朝、そのことを仕事の報告のついでに伝えたら、メチャクチャ喜んでいました。

ついでに言うと、自分の歌を読んでくれた感想はあった?と聞かれたので、無かったです、と答えたらちょっと残念そうでした。

本人的にはなかなかの自信作だったようで、私も改めて、その本のMさんの歌を見せて貰いましたが、上司の歌よりも、穂村弘の解説文の方が、上手いこと書くなあ、と思い、その旨本人に伝えたら、そうなんだよなあ、穂村弘の解説、本当に上手いんだよなあ、と一緒に感心してしまいました。

北原白秋の歌の解説も見せて貰いましたが、失明直前に御茶ノ水の病院に入院した際に詠んだ歌だったんですね。浪人時代、駿台に通ってたので、ニコライ堂は予備校の真ん前、病院は通学時に毎日みていたので、ちょっと感慨深いものがありました。

ということで、取り敢えずご報告まで。」

会社の上司の短歌が掲載されているという穂村弘さんの『満月は欠けている』(ライフサイエンス出版、2025年)を、さっそく僕が買って読んだ、という話をこのブログに書いたら、コバヤシはそのことを上司に伝えてくれて、上司はとても喜んでくれたという。なんか少し良いことをしたような気分になった。

しかし話はこれだけでは終わらない。ここから話がガラッと変わる。

SNSの一つにFacebookがある。僕もアカウントを持っているが、ここ最近は全然投稿していない。ただ、Facebookで流れてくるタイムライン、つまり他人様の記事はチェックしていて、たまに「いいね」を押したり、コメントも書くことがある。

今日、Facebookのタイムラインを見たら驚いた。

前の職場時代からの十数年来の友人の投稿した記事に、1枚の写真があげられている。

そこに写っていたのは、穂村弘さんの『満月が欠けている』と、武田砂鉄さんの『わかりやすさの罪』の2冊だった。いずれも僕のブログで取り上げた本である。コメントは「うむ」だけ。

僕はこの1枚の写真から、さまざまなメッセージをくみ取った。僕のブログを読んでますよ、そしてそこで触れていた本を入手しましたよ、早く元気になってください、など。

それだけではない。この写真は、他の人が見たら、何のこっちゃわからないと、意味不明な写真に見えるだろう。だってよくわからない2冊をならべた写真にすぎないから。

でも僕だけにはわかる。つまりこの写真は、僕だけに対するメッセージなのだ。しかも、僕がいつ見るとも知れないFacebookに投稿して、僕がその写真を見つけるだろうと確信して。

なんとも粋なことしはるねぇ。僕はこの物言わぬ1枚の写真を見て、ふだんはまったく連絡を交わさない友人が、僕を見舞ってくれているメッセージだろうと、少し涙が出た。

本当はこのことは僕の胸に秘めておくべきことなのかもしれないが、嬉しくてつい野暮な解説をしてしまった。それともそれは考えすぎで、ブログを読んで、単にこの2冊が読みたくなっただけかもしれない。

それでもいいのだ。とにかく僕が言いたいのは、

「コバヤシ!君がブログに文章を書いてくれたおかげで、穂村弘さんの本が2冊売れたぞ!よかったなぁ。上司も喜ぶだろう」

ということである。

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1985年、の続き

7月28日(月)

昨日、ブログを書いた時点からいままで、高校時代の同じクラスの有志によるグループLINEに、1985年の思い出を書いてくる人はいない。1985年の思い出話は、あまり盛り上がらなかったようだ。

しかしこの話題、もう少しこすろう。どうせ書くこともないし。

あれからずっと1985年の出来事を考えていたが、大事な出来事を忘れていた。

「つくば万博」だ!

正式には「国際科学技術者博覧会」というそうだが、「万博」と呼べる博覧会は物心がついてから初めてだったので、テンションが上がったのを覚えている。

会期は1985年3月17日~9月16日。同じクラスでよくつるんでいたK田君とO君の3人で博覧会場に行った。いずれもクラスでは「二軍」メンバーだ。

3人で筑波まで行って、パビリオンを見てテンションが上がったのを覚えているが、何を見たのかはまったく覚えていない。

いまでもひとつだけ覚えているのは、どこかのパビリオンで、女性のナレーションを聴いたのだが、僕はむかしからラジオばかり聴いていたから、声を聴いただけでそれが誰なのかがすぐにわかるという特技を持っていて、

「あのナレーション、斉藤由貴じゃね?」

「マジでー。おまえよくわかったな」

みたいな会話をしたことを覚えている。そうそう、1985年は斉藤由貴が「卒業」という曲をリリースした年でもある。

K田君で思い出したのは、同じ年の冬に、僕が初めてスキーツアーに参加したことである。K田君のほかに、M苗君も一緒に参加した。M苗君もクラスの「二軍」メンバーである。

1980年代後半は空前のスキーブームだった。「私をスキーに連れてって」という映画が公開されたのは1987年である。

さて、我々が向かうスキー場は志賀高原。渋谷からスキー客のための深夜バスが出ていて、それに乗って志賀高原スキー場についたのは、翌日の朝だった。

僕以外の二人はスキー経験者だが、僕はまったくの初心者である。僕は初日に転び方を間違えて、あり得ない足の曲げ方をして左足の靭帯を断裂してしまった。

2泊3日のスキーツアーから帰ると、もう二度とスキーをしないぞと誓い、自宅から少し離れた整形外科だったか整骨院だったかのクリニックに通うことにした。

クリニックの院長は男性で、その妹さんがクリニックのお手伝いをしていた。つまり兄妹の二人だけでそのクリニックを切り盛りしていた。

左足の靭帯断裂ということで、毎回、患部に電気治療を施す、という治療だった。院長が不在だったり手が空かなかったりするときは、妹さんが代わりに電気治療をしてくれる。

妹さんというのは私より年上で、25歳くらいだったと思う。そのときはまだ独身のようだったが、容子がよく、僕がクリニックに来ると決まって嬉しそうな顔をしたので(妄想)、高2の僕は、クリニックに通うことがすっかり楽しみになってしまった。いま思うと、年上の女性にほのかな恋心を抱いていたのかな。知らんけど。

数ヵ月通って、僕の左足はおかげで回復した。それからはそのクリニックに通っていない。ほのかな片想いも数ヵ月で終わった。

何年か経って、どこだか忘れてしまったが、そのクリニックの妹さんらしき人を見かけた。その時は小さいお子さんを連れてらしたので、ああ、ご結婚されたのだなと知って、なぜか安堵したのだった。早いものであれから40年が経ってしまった。いまも幸せな人生を送っていることを願ってやまない。

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1985年

7月26日(土)

夜11時近くに、LINEのメッセージが届いたという着信音が鳴った。

誰からだろう?と思ってスマホを開いてみると、高校時代に同じクラスだった有志によるグループLINEだった。いつもは飲み会の誘いで使われているグループLINEなので、また飲み会の誘いかよと思って開いてみたら、飲み会の誘いではなく、K君からのメッセージだった。

このグループLINEは、運動部に入っていた人たち(おもにテニス部やバスケ部)が参加している。要するにクラスの「一軍」のメンバーによるグループLINEである。

僕は運動部ではなく、クラスでも地味な方だったので「二軍」だったのだが、どうも「二軍」の特別枠として誘われたようだ。

もっぱら飲み会の誘いに使われていて、僕はずっと不参加なので既読スルーをしていたが、K君のメッセージは飲み会の誘いではなかった。

K君は高校時代にテニス部に入っていて、容子もいいし頭もいいというので紛れもなくクラスの「一軍」だったが、彼はどことなく孤高の人というのか、マイペースな人間で、飲み会を率先して企画するというタイプではなかった。

では、どんなメッセージだったのか、高校時代のクラスの連中はどうせこのブログの存在を知らないだろうから、ちょっと紹介したいと思う。

K君「40年になったね。1985年。高校2年生。 日航機墜落、紙幣変換で新渡戸稲造に似たT先生が話題に。自分の17歳の一年は衝撃的だった」

なるほど、高校2年生から40年経った感慨を述べているんだな。

「日航機墜落事故」は明確に覚えている。あれは吹奏楽部恒例の車山高原合宿から帰ってきた日で、ちょうど日航機が墜落した時間に、みんなで乗ったバスが中央道の山梨県付近を走っていた。家に帰ってから大変な飛行機事故が起こったことをニュースで知り、ビックリした。ひょっとしたらバスで帰る途中に、頭上にその飛行機が飛んでいたかもしれないとまで想像した。

その次の「紙幣交換で新渡戸稲造に似たT先生が話題に」。これがわからない。たしかに現代文担当のT先生には習ったが、こんな話題があったかまったく記憶にない。それに新渡戸稲造とT先生はさほど似ていない。たぶん僕の知らないところで話題になったのだろう。

ちょっと中途半端な振り返りだなぁ、それを「自分の17歳の一年は衝撃的だった」とざっくりまとめてしまうのは、いかにもK君らしい。

いきなりの1985年ネタだったので、みんなの反応は薄いようだ。誰か返信してやってよと思って待っていたら、しばらく経って同じくテニス部のY子さんの、

「国鉄テロで通学に使っている電車が止まったのもこの年?」

という返信が来た。

なになに?国鉄テロ?知らんぞ俺は、と思っていたら、すかさずK君が

「浅草橋焼き討ち」

という謎の一言で返信してきた。ますますわからない。ということで調べてみると、1985年に「国電同時多発ゲリラ事件」があり、とくに浅草橋駅が焼き討ちにあったそうだ。そんな大変な事件があったとは全然知らなかった。というかこの当時、僕は自転車通学をしていたので知らないのも無理はなかろう。

なんだよ、日航機墜落事故以外は、僕に響かないものばかりじゃないか、とたまらなくなり、つい僕も返信してしまった。

「阪神優勝、映画「アマデウス」の公開なども。ちなみにこの年の政権は中曽根内閣。久米宏さんの「ニュースステーション」もこの年に始まった」

と、まくし立てるように書いた。

1985年といえば、これが穏当な答えだろう。

映画「アマデウス」公開というのは、馴染みがないかも知れないが、僕にとっては衝撃的な映画だった。学校行事としてみんなで一緒に見に行った記憶もうっすらあるのだが、自信がない。

ニュースステーションは、初回を見て興奮したので、よく覚えているのだ。

するとしばらくしてからやはりテニス部だったI君から返信が来た。

「ニュースステーションの初代ディレクターは、今やテレビ朝日の会長。あの番組はインパクトがあったんだよな〜」

ニュースステーションの初代ディレクターがいまのテレビ朝日の会長だなんて知らなかった。勉強になる~。

ということで今日(7月27日〔日〕)の午前11時まででこの話題は途絶えている。もう少し待ったら別の人の1985年にまつわるメッセージが来るかもしれない。しかし全体としてはリアクションは低調である。

しかしこの短いやりとりの中でも、僕の知らないことを勉強することができた。それに、当たり前のことだが、1985年についての思い出は人によって異なるということも知ることができた。つまらない結論になってしまった。

〔補足〕

いまある本を読んでいたら、中曽根首相が靖国神社を公式参拝した年が1985年だったと書いてあった。この年は政治的には保守色の強い年だったと思われる。

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ルッキズム

書くことがないので、先日の選挙の話でも。

最近の選挙では、SNSをうまく使うことが勝敗を左右する、みたいなことが言われ、それは一面の真実であるかも知れないのだが、ある著述家は、

「それよりもルッキズムが選挙の勝敗を左右する。有権者の中には政策の内容よりもルッキズムを重視する者がいる」

と言っていた。「ルッキズム」とは簡単に言えば「見た目のよさ」のことである。

たしかにこのたびの選挙では、政策よりも「ルッキズム」で当選した女性候補者が何人かいた。女性候補者のなかには、政党の党首とか党首に近い位置にあるオジさんが、候補者としてスカウトされた人がいたりする。そういう場合は、本人の意志にかかわらず、党首などのオジさんの意志決定にしたがって政策を述べなければならないので、本人に決定権がない。そうなるとまるで家父長制的な組織である。新興の政党にもそういう傾向が見られるのだから手に負えない。

男性の場合もそうである。あの府知事とかあの県知事とかは、いい加減辞めたらいいのにと思っても、なぜか支持している人がいるのは、やはりルッキズムによるものであろう。

だが、ルッキズムによる判断が一概に間違っているのかというと、そうとは言えない場合もある。その使い方を工夫すれば、ルッキズムによる判断もあながち間違いではないこともあるのではないか。

ふつうの社会人として仕事をしていれば、イヤでもさまざまな人とコミュニケーションをとる。そのうちに、相手の顔を見ただけで、この人は信頼できそうだなとか、こいつは信頼できそうにないなとか、そう言った判断力が自然に身に付くはずである。それは美醜にかかわらない。

僕は、政党や候補者の政策や思想信条のほかに、そういう基準で候補者を見ていた。あ、この男性候補者はいい歳をして口元がダラシナイから、今まで研鑽を積んでこなかったんだなとか。しかし仕事ができそうにないそういう候補者にも、一定の支持層がいる場合があるので、世の中というものはわからない。

美醜のルッキズムではなく、その人から滲み出るルッキズムで判断すべきである。

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かき氷の日

7月25日(金)

毎週金曜日の午前中はリハビリのデイサービスの日である。

リハビリの利用者が全員集まると、挨拶をして、事業所の管理者、えーい面倒くさいんで「リハビリの先生」と呼ぶことにしよう、が、「今日は○○の日です」と豆知識を披露してくれる。

よし、今日は何の日と言うか、予想してやろうと思い立ち、デイサービスに行く前に、インターネットで「今日は何の日」と入れて検索すると、いとも簡単にわかった。

それによれば、7月25日は、

「かき氷の日、日本住宅公団発足記念日、うま味調味料の日(味の素の日)、知覚過敏の日、はんだ付けの日、体外受精の日、さいたま2020バスケの日、ナブコの日、なつこの日、ワキ汗治療の日、伍代夏子の日、プレミアムフライデー、システム管理者感謝の日、プリンの日、いたわり肌の日、甘露忌、天神の縁日」

と、たくさん出てきた。

この中で妥当なのは筆頭にあげられた「かき氷の日」であろう。「プリンの日」も可能性がありそうだ。リハビリにちなんで「わき汗治療の日」かとも思ったが、さすがに挨拶で「今日はわき汗治療の日です」とは言わないだろう。

個人的には「うまみ調味料の日(味の素の日)」に強く惹かれる。説明によれば、

「1908年(明治41年)のこの日、化学者であり東京帝国理科大学(現:東京大学理学部)の教授であった池田菊苗博士が、「グルタミン酸塩を主成分とせる調味料製造法」の特許を取得した」

とある。ここに出てくる「池田菊苗博士」は、僕がお世話になった先生の祖父にあたる。だから僕にとっては「うまみ調味料の日(味の素の日)」がこの中で一番感慨深いのだ。

でも最有力が「かき氷の日」であることは間違いない。そこでなぜ今日が「かき氷の日」なのか調べてみると、

「日付は「かき氷」が別名で「夏氷(なつごおり)」とも呼ばれることから、「な(7)つ(2)ご(5)おり」と読む語呂合わせと、1933年(昭和8年)のこの日、フェーン現象により山形県山形市で当時の日本最高気温40.8℃を記録したこと(日本最高気温の日)にちなみ、かき氷を食べるのにふさわしい日とのことで7月25日が選ばれた」

と、僕にとってはこれまたテンションの上がることが書いてある。

僕は「かき氷の日」に違いないと踏んで、デイサービスにのぞんだ。

リハビリの先生の挨拶が始まる。

「みなさん、おはようございます。今日は『かき氷の日』です」

よし!当たった!

「どうして今日が『かき氷の日』なのか……。わかりません」

おいおいそこはちゃんと調べろよ!先週の「光化学スモックの日」はあれだけ豆知識を披露したのに。

たしかに、「かき氷の日」では、あんまり魅力がないのかも知れない。

でも「な(7)つ(2)ご(5)おりと読む語呂合わせ」は説明してほしかった。

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カミングアウト

穂村弘さんの『満月が欠けている』(ライフサイエンス出版、2025年)は、穂村弘さんが40代にさしかかった頃、緑内障という「不治の病」と診断されたことをカミングアウトした本である。緑内障になるに至る半生も語られていて、さながら自叙伝である。

僕も8年前に大病を患い、その後、今に至るまでいろいろな病気に悩まされた。はっきりと病名のわかるものもあれば、いまの病気は病名がよくわからず、病名が簡潔に「何」と説明できない。もちろん仕事に迷惑をかけている職場の上司にはその都度説明しているが、それ以外の機会には、説明するのが面倒くさい。しかし病名を知りたがる人からすれば、簡潔に「何」と知りたがるのだろう。

カミングアウトと言えば、最近、ここ8年間の病気について、ある媒体でカミングアウトした。自分と同じ境遇の人がその媒体に文章を書いていて、その人を応援する意味で自分もカミングアウトしたのである。

編集担当者は、大っぴらにしていいんですかと心配していたが、その文章の筆者(全然面識がないが)を応援することになるのなら、ほとんど目につかない媒体だし、カミングアウトするならばこの媒体しかないと思ったので、かまいません、と答えた。カミングアウトといっても、わずか600字程度の文章で8年間の病気遍歴を書いた程度であるが、次号に掲載されることになるだろう。

いずれは穂村弘さんのような、自分の病気遍歴を自分の半生と関わらせるような語りをしてみたいと思う。

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サラリーマンは腐れ縁 ~自慢話~

鬼瓦殿

こんばんは。コバヤシです。

大分暑い日が続いていますが、体調は大丈夫ですか。

ネタ切れで困っていたら、腐れ縁の上司が小ネタを提供してくれたので、忘れないうちにメールさせていただきます。

今日も朝イチから、20年来の腐れ縁の上司、今では私の会社の副社長になってしまったMさんへの業務報告です。

今日は案件が多かったのと、私の報告の後すぐにMさんに来客が有りお尻が切られていたので、早めに入ってしまおうと副社長室を覗くと、丁度暇そうだったので、良いですか?と言いながらズカズカと部屋に入り、返事も待たずに自分のパソコンを副社長室のモニターに繋ぎ、さっさと報告の準備にかかります。

「今日は何の報告だ?」とMさんが聞くので、カクカクシカジカと、今度の会議の議題や資料や、私が企画した9月に開催する若手社員の社長報告会(本当はそんな面倒なことはしたくなかったのですが、行きがかり上、やると言ってしまった)の概要の報告と相談です、と答え、早速、説明を始めました。

Mさんからは、あの会議にはアレも報告させろとか、社長報告会には上司達もオンラインで良いから必ず参加させろとか、社長報告会に部下を出張させる予算が無いと言うバカがいたら、お前の上司の接待ゴルフ削らせればいいだろう!と言ってやれなどと、いつものように、あーだこーだ言いだします。私の方も、いつもの調子で、ハイハイとか、え〜っ!などと言いながら報告を進めます。

気付けば、意外に報告が早く終わり副社長室を出ようとしていたら、Mさんは「ちょっと自慢していい?」と嬉しそうに私を呼び戻します。私は「また、なんか良い本買ったとかいう自慢ですか?」(以前書きましたが、須賀敦子全集を買ったと自慢されたこともあります)と聞くと、「お前、穂村弘って知ってるか?」と逆に質問しできます。「確か有名な歌人でしたっけ?前にMさんに、穂村弘と川上未映子だったかの対談集を貸して貰ったような。」と答えると、「そう、その穂村弘だよ。」と言って、少し派手目な表紙の一冊の本を取り出しました。

Mさんによると、最近、緑内障に侵され目が不自由になってきた穂村弘が書いた本だということで、「満月が欠けている」という本を見せてくれました。

私は「その本がどうしたんですかか?」と聞くと、Mさんは本のページをめくりながら、「ちょっと見て見てみろよ。この本の終わりの三分の一ぐらいは、穂村弘が選んだ、古今東西の病について読んだ歌が紹介されてるんだよ。」と言うので、私はちょっと興奮気味に「まさか、Mさんの歌が載ったんですか!?」と聞き返すと「そうそう、ほらこのページに寺山修司の歌が紹介されてるだろ、で、一番最後は北原白秋の歌で終わるんだよ。」と言いながら、またページを前にめくって行くと「ほら見ろよ!ここに俺の歌が載ってるんだ!どうだ、凄いだろ!寺山修司と北原白秋の間だぜ!娘にも自慢したら、流石にコレは凄い!と言ってくれたよ。」と嬉しそうに話します。

私もちょっと嬉しくなって「コレは確かに凄いっすね!自慢したい気持ちも分かりますよ。」と答えると、Mさんも「そうだろ!凄いだろ!」と嬉しそうに繰り返します。

実はMさんも、ここ数年目の難病を患って両目のレンズを変える手術をしたのですが、今一つ芳しく無く、かなり見えにくいと嘆いています。

そんな気持ちを表現した歌を、常連になっている日経新聞の歌壇に投稿したところ、選者をしている穂村弘の目に留まり、晴れてこの本に掲載されることになった、とのことでした。

Mさんは、興奮気味に更に、出版社から掲載許可の連絡があったことや、掲載のお礼としてこの本を出版社が送って来てくれたことを話してくれました。

他人ごとながら、ちょっと私も嬉しくなったのと、貴君もちょっとは面白がってくれるかな、とメールした次第です。

と書いて、このメールを終わらせようとしていたところで、そういえば高校時代の貴君が雑誌に書いた文章を読んだ、私の母校の名誉教授だった亀井孝さんが貴君の家に電話してきたということを思い出し、あの時も貴君から自慢された私はなんだか嬉しいような、誇らしいような気持ちになったことを思い出しました。

それでは、また。


〔付記〕

『満月が欠けている』(ライフサイエンス出版、2015年)をさっそくAmazonで注文した。僕は穂村弘さんの本、とくにエッセイが好きで読んでおり、穂村弘さんの最新刊にコバヤシの上司の歌が掲載されていると聞けば買わないわけにはいかない。こうして私の人生にまた1冊が加わってゆく。

高校時代に亀井孝先生から電話をいただいたエピソードも、当時は誰にも言わなかったが、コバヤシにだけは打ち明けていたのか。上司のMさんと同じことをしていたんだな、と苦笑を禁じ得ない。

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お願いD.J.

単調な毎日で、ことさら書くこともないので、少しでも何かあるとどうしてもブログに書きたくなる。

こんなことを書いたら本人にご迷惑になるのではないかという思いもあるのだが、嬉しいことがあるとどうしても書きたくなってしまう。Oさんごめんなさい。

前の職場の教え子であるOさんは小説家である。文芸誌に載せた小説や、電子書籍や、文庫本など、さまざまな媒体で作品を発表している。このたび、小説が掲載された文芸誌が送られてきた。1カ月前には、近況報告の長いメールを送ってくれて、自分の今の仕事の状況を書いてくれた。小説を書くのが忙しいという嬉しい内容だった。

このたびの文芸誌にも、長い手紙が同封されていた。そこには小説を書くことへの逡巡が綴られていた。武田砂鉄さんの『わかりやすさの罪』(朝日文庫)を引いて、言語化してしまえばそれ以外の可能性を消し去ることになってしまうことになる、ということに対する不安などである。

僕も武田砂鉄さんの『わかりやすさの罪』は座右の書なので、その気持ちはよくわかる。

その他にも近況報告や最近考えていることをいろいろと書いてくれているのが嬉しかった。

お恥ずかしい話だが、僕は自分をラジオのパーソナリティになぞらえることがある。近況報告やいま自分が考えていることを、何の損得勘定もなしにただ単に「聞いて!」というメッセージが何より嬉しい。それが何よりのお見舞いだ。

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選挙特番

大きな選挙があった日は、午後8時からTBSラジオの選挙特番を聞くことにしている。司会が荻上チキさんで、その脇を南部ひろみさん、武田砂鉄さん、能條桃子さん、安田菜都紀さん、澤田大樹さんといったTBS ラジオ「荻上チキ Session」の常連さんたちが脇を固めるほかに、今回はTBS アナウンサーの日比麻音子さん、お笑い芸人の大島育宙さんなどが参戦する。今回も最強の布陣である。

午後8時~深夜0時までの4時間の生放送で、僕はそのすべてをぶっ続けで聞いたが、あっという間の4時間だった。

番組は、選挙速報も伝えるが、メインは、荻上チキさんをはじめとする出演者が、各党の代表にインタビューする場面である。

限られた時間の中で、各党の党首などへのインタビューを、司会の荻上チキさんを筆頭に、他の出演者ともアイコンタクトをとりながら、連係プレーによって党首の言質をとったり、矛盾を突いた質問をしたりする。質問は、フワッとしたものではなく、これまでの裁判の判例や法律や歴史的経緯や党首自身が書いた著書などを踏まえたガチな質問ばかりである。決して打ち合わせをしているわけではないが、その連係プレーは見事の一言に尽きる。今回初めて出演した芸人の大島育宙さんは、その「圧」に驚きながらも、ちゃんとそのチームプレーに参加し、痺れてしまうような質問を投げ掛けていた。

ガチな質問をすることにより、その党首の知識のなさや選挙の公約に対する思い入れのなさなどが露呈するほか、その答えるときの様子やちょっとした態度からも、その人物の人間性が垣間見れる。これは別に「論破」ではない。向こうが勝手にその正体を露し、自滅していくのである。

何より荻上チキさんをはじめとする出演者の「質問力」に惚れ惚れする。

私は4時間の放送時間に飽き足らず、有料の「アフタートーク」配信も購入し、引き続き深夜1時半まで楽しんだ。この「アフタートーク」なしには最初の4時間は楽しめない。

僕が選挙に行くのは、この番組を聴くためだと言っても過言ではない。

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選挙とリハビリ病院についての補足

昨日の期日前投票と母のリハビリ病院についての補足を少々。

1.私は人間観察として、党首が陰謀論やデマばかりを街頭演説する党を見てきた。

大方の予想を裏切ってある県の市議に当選したN党のF氏は、政治の勉強をまるでしていないが、N党の党首のこのたびの選挙運動には我が身を捧げて奔走する。市政よりも我がが党首のほうが大事らしい。

その市議にとってはデマを撒き散らす党首こそがすべててあり、その他の現実はまったく見えていないのである。完全にカルト宗教の世界である。そしてカルト党の信者だけでコミュニケーションを成立させているから、そこから抜け出そうとしない。なぜならその方が楽だから。

ああいう人がおるんやなあと、少し気の毒に思えてきた。何も勉強しないとこうなってしまうのか、あるいは今まで何も勉強してこなかったからこそ、党首のデマ演説を疑わないのか、おそらく両方だろう。

これは一例に過ぎないが、このたびの参議院選挙ではこの種の複数のカルト政党の信者が増えていると知り、天を仰いで嘆息せざるを得なかった。だから無理をしてでも選挙に行ったのである。

2.その後に母の面会に行ったリハビリ病院は、大きくて有名な病院である。しかし母が住む市の隣の市であり、少し遠いし、手続き的に隣の市のリハビリ病院に転院してよいのか、よくわからない。

しかし母はこの病院への転院を強く希望した。そしてその希望は実現した。

その理由が、面会に行ってみて、なんとなくわかった。

その病院の、大通りを挟んだはす向かいには、霊園がある。その霊園には、父の墓がある。

母は、できるだけ父の墓の近くに居たかったのではないだろうか。その建物からは、父の墓が見えるのかもしれない。

ということを考えてみたのだが、そんなこと、こっ恥ずかしくて本人に聞けないので、僕の頭の中の想像だけに留めておく。

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期日前投票、からの面会

7月19日(土)

明日が参議院選挙の投票日なのだが、いつも行く投票所も期日前投票の会場になっていることを知り、同じ会場ならば今日行ってしまおうと、期日前投票に行くことにした。

少し前に行なわれた東京都議会議員選挙には行かなかったが、このたびの参議院選挙にはぜひ投票に行かねばと思ったのである。

YouTubeをみると、各党の党首による街頭演説の動画があがっており、今回の選挙ではとくに、陰謀論やデマを撒き散らす党首がいて、しかもそんなデタラメな党に感化された支持者が増えているというではないか。実際に街頭演説を聞いてみると、小、中学生が言いそうな政策しか述べられておらず(小、中学生には失礼だが)、しかしながら支持層、というか信者がどんどん増えていってるということを聞いて、これはなんとしてでも止めなきゃならんと思い、今回は這ってでも投票所に行こうと決意したのである。

投票所は歩いて10分ほどのところにあり、リハビリも兼ねて、杖をついて歩いて行くことにした。

もちろん、投票前には選挙広報を入念に読み込んだ。陰謀論やデマを撒き散らす党は論外としたうえて、僕が注目したのが「介護の充実」に言及している候補者や党に投票することにした。

というのも自分が介護される身になって、介護の現場がいかに人手不足か、そしていかに家族に負担をかけているかが身に染みてわかったからである。僕は目を皿のようにして選挙広報を読み、「介護」に言及している候補者や党を探した。

すると「介護」に言及している候補者や党はひどく限られていて、多くは勇ましいことを述べるものばかりだった。なので比較的早く、投票すべき候補者と党を絞ることができた。さぁあとは投票所に行ってその候補者名と党名を書くだけだ。

自宅を出て、久しぶりに杖をついて歩いてみる。外はびっくりするような暑さだ。歩いてみると、たちまち腰や足が言うことをきかなくなり、動けなくなってしまう。投票所まで歩くのに、ふだんなら10分程度で着くところを、途中のベンチなどで休み休みしながら、30分以上かかってようやく投票所に着いた。

着いたはいいものの、もう足腰は限界である。それを見た係の人が、すかさず車椅子を用意してくれた。

そこで知る。投票所には僕みたいな歩けない人のために車椅子が一台用意されていることを。健康な時分はまったく気づかなかったことである。

そして係の人に車椅子を押してもらって、座ったまま投票用紙が書ける、通常よりやや低いスペースまで案内してもらった。こんなスペースがあることも、今まで気づかなかった。おかげで自分がこれと思う候補者名と党名を書いて、投票することができた。

帰りは、さすがに足腰が痛くてとても徒歩で帰れないので、妻に自宅に戻ってもらい、あらためて車で迎えに来てもらうことにした。その間、僕は投票所の片隅で椅子に座って待たせてもらった。

見るとはなしに見ると、期日前投票には若い人が多く来ていた。「若い人」というのはアラサーぐらいの、まだ子どもが小さな世代である。高齢者はほとんどいなかった。選挙当日に投票するのだろうか。最終的に、投票率や、世代別の割合がどうだったかを知りたいものである。

こうして無事に投票を終えたが、昼食をとった後、今度は実家の母が入院しているリハビリ病院に面会に行くことにした。

午前の期日前投票ですっかり歩けなくなったので病院の車椅子を借りて母の病室に向かう。

母はリハビリ病院を満喫しているようで、元気そうだった。

面会は30分程度で切り上げたが、帰り際に病院内を見学すると、じつに快適そうな病院である。ここなら長くいてもいいなぁと、うらやましくなった。

かくして期日前投票からリハビリ病院での面会へと動きまわり、僕にとっては忙しくも充実した1日となった。あ~疲れた。

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謎の紳士

鬼瓦殿

こんばんは。コバヤシです。

今日は広島の福山に日帰り出張です。

帰りの新幹線の時間潰しに、久しぶりに思い出した小ネタを書いてみます。

私が千葉に住んでいた頃のことなので、もう20年ほど前でしょうか。

当時、週末は良く御茶ノ水にあるディスクユニオンにCDを物色に行っていたのですが、確か夏の夕方だったのではないかと思うのですが、欲しかったCDを手に入れ、千葉の家に帰ろうと駅前の丸善の辺りを歩いていた時に、突然、目眩がして立っていられないぐらいよろけてしまいました。でも、途中で揺れているのは自分では無く地上の方だと気づきました。震度5強の揺れだったのではないかと記憶しています。

揺れがおさまり御茶ノ水駅の改札前まで行くと、電車は止まっていて復旧の目処が立っていないというアナウンスが聞こえ、駅前は凄い人です。

私は暫くどうしたものかと考えていたら、そう言えば神保町に、昔、会社の同期とよく行っていたベルギービールのバーがあるではないかと思い出し、電車が動くまでの2、3時間、その店で時間を潰すことにしました。

神保町まで坂を下って、その店に着くと、先客が1人います。

店員に、昔良くこの店に来ていたなどと話しながら、ビールを飲んでいると、暫くして先客でいた身なりの良い紳士が私に話しかけて来ました。

紳士は、映画好きとのことで、神保町にちょくちょく来ては昔発売されていたVHSの映画のビデオを集めているとのこと。私にもその日の戦利品を見せてくれたのですが、なにせ私は映画には全く興味が無かった為、スミマセンなどと話していたのだと思います。

すると、その紳士は話題を変え、突然、「宇崎竜童さんの奥さんの阿木燿子さんはご存知ですか?」と私に尋ねます。私が「え〜、お名前ぐらいは。」と答えると、「阿木燿子さんは、本当に美しい方です。私はお二人のことを昔から知っているのですが、今でもお綺麗ですが、若い頃の阿木さんは本当に美しかったんです。旦那になった宇崎さんは、それはもう阿木さんにぞっこんだったみたいです。」と語り、続けて「でも残念なことに、お二人は今、別居しているんですよ。」などと、聞いてもいないのに説明してくれます。

その後、また突然「和田誠さん、あの人はダメです。」と語りだします。「和田さん、最近、あまり表舞台に出て来なくなくなったでしょう。あの人、若い女性スタッフと浮気しているんですよ。そういう人はダメです。」と、そんな業界の裏話を見ず知らずの私なんかにしてもいいの?と私は戸惑うばかり。「和田さんも昔から知っているだけに残念でたまりません。」と紳士は続けます。

そうこうするうちに夜になり、電車も動き出したのではないかと、私は店を出ることにしました。

あの紳士は一体何者だったのだろうか?今でもたまに思い出すことが有ります。しかも、何故あんな話を私にしたのか。

でも、今になって思うと、紳士はしがらみのある身近な人達には話せなかったのではないか。

逆に、何の縁もゆかりもない私だったからこそ、紳士は自分の残念な思いを話すことが出来たのではないだろうか。

今は何となく、そう思ったりします。

それにしても、あの紳士は何者だったのだろうか?

それでは、また!

これからどんどん暑くなるので、くれぐれもご自愛ください。

〔付記〕

今回いただいたメールは、着眼点とか、何気ないやりとりとか、なんとなく不肖僕が書く文章に近づいていると思う。

むかしコバヤシから、お前の書くブログの文章は、オチがあるんだかないんだかわからない、と言われたことがあって、たしかにそうだ、と我ながら思ったことがある。いまでもオチがあるんだかないんだかわからない文章を書き続けている。

そういう意味でいうと、この「謎の紳士」も結局何者かがわからずに文章を終えている。これは僕がよくやる手口だ。

僕のブログの文体に合わせてくれたのか?それとも長年読んでいると、似てくるものなのか?

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今日は何の日

毎週金曜日の午前は、リハビリのデイサービスの日である。

例によって社長が運転する車でデイサービスの部屋まで送り迎えしてくれる。

僕はてっきり「社長」と思い込んでいたが、正しくは事業所の管理者という肩書きなんだな。上には院長がいるらしく、意志決定は院長なる人が行うらしい。ちなみにいつも運転手で送り向かいする「管理者」は、僕よりも若い男性である。

駅の近くの、雑居ビルの1階ワンフロアをデイサービスの事業所としている。

金曜午前の利用者は8人。いずれも僕よりも遥かに高齢者である。今日は一人欠席だった。

みんなが揃った段階で管理者の男性が音頭をとって朝の挨拶をするのだが、この挨拶というのがなかなか面白い。

「みなさんおはようございます」

「おはようございます」

「今日は何月何日ですか?」

ふだん日にちを気にしない僕にしたら、不意の質問である。利用者の中で一番若いので答えられなければマズイ。

あれ、何日だっけ?というケースが何度かあったので、リハビリの事業所に行く前に、今日の日付を確認することが習慣になった。

面白いのはここからである。

「7月18日です」みんなが答える。すると、

「7月18日は何の日だか知ってますか」

と、「今日は何の日?」の豆知識が語られるのである。

「7月18日は光化学スモッグの日です」

初めて聞いた。

「1970年のこの日に、初めて光化学スモッグが発生したそうです。この時杉並区の小学生40数人が次々と倒れて病院に搬送されました。それで7月18日は光化学スモッグの日なのです」

へぇ、知らなかった。そういえば小学生の頃、よく光化学スモッグ注意報が出されていたが、あれは1970年以降のことなんだな。僕は1975年に小学校に入学したから、やたらと光化学スモッグ注意報を出して警戒していたのか。今はどうなんだろう。

それにしても、挨拶のたびに「今日は何の日?」の豆知識を披露している管理者の男性は、いちいち調べるのが大変だなー。それともそういう本があるのか?

そうなると、次の週の金曜日は何の日かが気になる。よし!何の日かをあらかじめ調べて、来週の金曜日に答え合わせをしよう!とひらめいたが、それほどまでに関心のあることではないので、やらないかもしれない。

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親子でリハビリ

先月だったかな。

実家の母が知り合いの葬式の帰りに、雨の中、転んで大腿骨を骨折した。

幸いまわりにいた人が助けてくれて、そのまま救急車で運ばれて入院した。

その知らせを受けたのが母本人からの電話である。

「もしもし。どうしたの?」

「雨の中、転んじゃってさあ」

「いまどこ?」

「救急車の中」

えええぇぇぇぇ!

救急車で運ばれたことにも驚いたが、ふつう、救急車の中から電話してくるか?

「また電話する」

といって電話を切った。

次に電話がかかってきたのは病院の部屋からである。

そこで初めて、大腿骨骨折だということがわかった。

「ごめん、○月✕日はそっちに行けないかも知れない」

「いいんだよ、そんなこと。それどころじゃないんだから」

僕が病気で会社を休んで以降、実家の母にはずいぶん助けられた。妻が出張でいないときには、代わりに自宅に来てもらって泊まってもらったりとか、あと妻が仕事で一日不在のときも、代わりに来てもらったりした。妻は妻で仕事が忙しいし、向こうの両親の面倒も見なければならないので、頼めるのは実家の母しかいなかったのである。

その母が入院してしまったのである。

息子である僕も身動きがとれないので、面会に行くこともできない。

入院の手続きその他は、愚妹がすべてしてくれた。家ではだらしないが、愚妹は銀行員なので、面倒な書類にもちゃんと対応した。本来ならば長男である僕のつとめかもしれないのだが、僕がこんなだから、実家の母のことは愚妹に任せるよりほかなかった。

聞いたら病室は4人部屋だという。

「ダメだよ4人部屋から電話しちゃ。他の患者さんに迷惑だろ!」

「大丈夫。ちゃんと看護師さんにも許可とってあるから」

どこまでも抜け目のない母である。考えてみたら入院のあいだは寝たきりなので、電話をかけてよいスペースまでは行けないのである。

そして昨日、退院して、今度はリハビリ専門の病院に転院した。また4人部屋である。今度はさすがに病室から電話をかけることは禁止されたらしい。電話ができるスペースまで車椅子で移動して、そこから電話をかけるという。そして本日、母から電話があった。

「また4人部屋?個室にすればいいのに」

「いいのよ、個室は高いし。それに誰とでもうまくやっていける性格だから、苦にならないのよ」

たしかに母のコミュニケーション能力は並外れて高い。誰とでも話ができ、すぐ仲良くなれるのだ。

「それよりさあ、ここの病院のご飯、とても美味しいのよ。前にいた病院のご飯はとても不味くて、残したりしたけども、このリハビリ専門病院のご飯は、毎回わりと洒落てて美味しいのよ。だから食事の時間が楽しみで」

たしかに一般の病院の食事は美味しくない。僕なんか、わざと残してハンストを起こしたぐらいだもの。母も、食事を残すことでハンストをしていたらしい。それにしてもどこまで前向きなんだ!と思う。

1日の予定を聞くと毎日3時間のリハビリをするという。リハビリ専門病院なのであたりまえか。

僕なんか週に2回だぜ。うち1回は訪問リハビリを1時間、もう1回はデイサービスのリハビリに通い3時間。3時間と言ったって他のリハビリ患者さんもいるから実質1時間ていどの運動である。

それだけでも疲れてしまうのに、毎日3時間のリハビリはさぞ疲れるだろう。

しかし母はそんなことは意に介さない。なにしろ中学·高校のときにバレーボール部の選手で、国体にも出たっていうくらいだから。まかり間違ったら前の東京五輪の選手に選ばれたかも知れない。

それくらい根性の座っている人間なのだ。1日3時間のリハビリを毎日したところで、どうってことはない。

しかし待てよ。

いま、期せずして親子がリハビリをしているが、これ、ことによると母の方が早く回復しそうだぞ。というか絶対にそうだ。それは勘弁してほしい。

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たった一人の反響

あまり宣伝したくないのだが、僕が「究極のミニコミ誌」と呼んでいるガリ版刷りの会誌に原稿執筆の依頼を受けたのが昨年の後半で、締切が今年の3月末。退院直後が締切だったが、せっかくの原稿依頼を落とすわけにもいかず、なんとか3月末の締切に間に合った。で、めでたくその原稿が巻頭に掲載された。

「究極のミニコミ誌」に自分の文章が掲載されることが僕の夢だった。このミニコミ誌は以前に高校時代の恩師がひっそりとエッセイを連載していて、そのエッセイを見つけたのが「究極のミニコミ誌」との出会いだった。それから紆余曲折あって、僕の夢だった「究極のミニコミ誌」に原稿が掲載されたのである。残念ながら恩師の連載はその前の号で終わってしまい、師弟共演とはならなかったが、それはまあ仕方がない。

そして次の号か送られてきた。実を言うと、次の号が出るのを楽しみにしていた。僕の文章にどんな反響があるかを知りたかったからである。

そして次号が送られてきた。封筒には次号だけでなく、編集担当者の方の一筆箋が同封されていた。それを読んで驚いた。

「前号の鬼瓦さんのご寄稿に対する感想があまり届かず、えっ、どうして?と私もあっけにとられています。申しわけありませんでした」

たしかに、ふつうは読者投稿欄にいろいろな人からの、前号の感想が掲載されているが、僕の文章に言及した読者が一人もいなかった。まるで、なかったことにされているみたいだ。巻頭に6000字も書いた文章なのに。

僕はできるだけ分かりやすく書いたつもりだが、世間的には堅苦しいテーマを扱ったので、読者に敬遠されたようだ。そのことは僕の文章の中にも自嘲気味に書いて覚悟していたのだが、まさか社会的関心の高い「究極のミニコミ誌」の読者にもまったく響かない内容だったとは。分かりやすく書いたつもりでも、読むのが億劫になるほど難しい内容だったのだろうか。誰にも響かないとは、僕の文章力や知名度のなさは勿論だが、この国の社会全体を象徴する現象なのではないかと思えてならなかった。

編集担当者からの一筆箋には続きがあった。

「読者投稿欄のレイアウト、ガリ切りが終わったところに、Nさんが感想を送ってくださり、ありがたく載せさせてもらいました」

Nさんというのは高校時代の恩師のことである。ミニコミ誌の読者投稿欄の最後のところを見ると、「追加の読者投稿」として、恩師の感想が掲載されていた。

「わぉ、鬼瓦くん、守備範囲、広いね。韓国を含め、いくつかの大学を渡り歩きながら、よそ者の目で、その土地の伝承や遺跡を新しい視点から見る。見えたものを土地の人に伝えたら次に移る。

何年か前には、僕の長年の知己であるSさんの縄張りにまで入り込んで、マーシャル諸島の人々や歴史にまで手を出した。

ぼくの関心事とも重なるものがあったから、あの時は、驚きと嬉しさで興奮した。

今度はこのミニコミ誌に新しいテーマで執筆するとは!(略)」

少し改変させていただいたが、この感想は何よりも嬉しかった。

そうだった。僕は高校時代の恩師に読んでもらうために、この文章を書いて掲載させてもらったのだった。つまりたった一人のために書いた文章だ。その「一人」から過分の感想をいただいた以上に、何を望むことがあろう。たとえ万人に響かなくとも、誰か一人のためにでも書き続けよう、と思い直した。

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裏話、あるいは舞台裏

今はもっぱらブログを書くのにスマホを使うようになったため、ろくに推敲もせずになぐり書きした文章をそのままあげている。だからむかしと比べると文章の粗さが目立つ。書いた文章をほっぽりっぱなしにしているので自分のブログをろくに見返していなかった。

しかし最近、あらためてブログを見ると、コメント欄にこぶぎさんがせっせとコメントを書いてくれていたことに気づいた。

今ごろ気づいて、こぶぎさんには申し訳なかった。

最近このブログを読み始めた読者(そんな人いるのか?)のために説明しておくと、こぶぎさんは「前の前の職場」からの友人で、決して「コメント欄荒らし」ではない。

今までコメントでいろいろ助けてもらい、つまらない本文をおもしろくしてくれた。ときに漫才のようにコメント合戦をしたことがある。あるいはブログの本文以上の力作を書いてくることもある。

最近は家を出てないのであまりおもしろくないネタばかり書いているが、こぶぎさんのコメントが面白さを補完してくれている。高校時代の親友·コバヤシに本文を任せている場合であっても、変わらずコメントをつけてくれる。

こぶぎさんのコメントはこのブログに欠かせない存在なのである。

聞くところによると、かつてはラジオのハガキ職人をしていて、自分の書いたハガキが採用されたこともあったそうだ。

このブログのコメント欄は、さしずめラジオ番組へのハガキみたいなものだ。こぶぎさんには今まで通り、コメント欄で大暴れしてほしい。

さて、病気療養中でもなんとしてもブログに文章を載せなければ、と思った理由がある。

「前の勤務地」の頃からの友人で、盟友といってもいい人から、少し前にメッセージが送られてきた。

「(うちの)奥さんもブログ見て確認してる。なんか書いてあげて。喜ぶから。」

そう言われちゃうと、このブログをやめるわけにはいかない。生存確認のためにも、書き続けなければならない。

たまに、読者本人がご家族やお身内の方に宣伝してくれて、読者よりもその家族やお身内の方が熱心に読んでくれることがある。

そういう話を聞くと素直に嬉しい。「前の職場」にいた頃、「うちの父も熱心に読んでいます」と学生に言われたことがある。もうずいぶん前の話なので、とっくにこのブログに飽きてしまっているかも知れないが、でもそういう話を聞くと、恐縮しながらも嬉しい気持ちになる。

今日は珍しくこのブログの裏話というか、舞台裏を書いてみた。生存確認の場として、これからも書き続けます。

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同窓会

先日、メールが来た。

 「拝啓

 長らくご無沙汰しております。○○年度卒業生のIです。鬼瓦先生におかれましては、いかがお過ごしだったでしょうか(といいつつ、長年ブログを愛読しておりますので、近況は存じ上げております。お身体、どうぞご自愛ください。……この言い方は暴力的、でしょうか?)。先生と最後にお会いしましたのが、平成二十四(2012)年四月のことだったと記憶しております。その後、私自身の状況も大きく変わりまして、転職して上京したのが令和三(2021)年、今年で五年目となりましたが、何とか元気にやっております。先生の職場にいつか顔を出そう、顔を出そうと思いながら、未だ果たせずにおります無礼をどうかお許しください。

 さて、今年は私どもが大学を卒業して丁度二十年の節目の年に当たります。我々の代は、卒業後も時折有志で集まっては久闊を叙しておりましたが、コロナ禍以降そうした機会も激減し、いつしか何もやらないのが当たり前となってしまいました。

 ですが、昨年末から年始にかけて、また久々に皆で集まりたい、という声(主要な声の主はH君とS田さんです)が聞こえてくるようになり、企画・検討を重ねて参りました。学部三年の芋煮会以来、我が年度生の間では、何故か私に音頭取りを任せるのが通例となっておりまして、今回も僭越ながら幹事役を買って出ることとなりました。仕事の都合や家庭の事情等で、現段階では保留中という者どももおりますが、少なくとも私も含めて五名以上は集まることになりそうです。

 そこで、もしよろしければ、鬼瓦先生にも御臨席を賜れないかと思い、ご連絡差し上げた次第です。ご多忙のこととは存じますが、是非私どもと歓談のひとときを過ごして頂ければ幸いです。

日時 2025年8月○日の夕刻

場所 大学のある市内(はるか遠方になってしまい、申し訳ございません。

 という訳で、大変唐突かつ不躾なお知らせとなりましたが、ぜひ御来会の程お願い申し上げます。

 それでは、用件のみで失礼いたします。」

メールは適業編集を加えたが、卒業生のI君から送られてきたメールである。

たしか僕が「前の職場」に着任して2、3年目の卒業生じゃなかったかな。あれから20年たったのか。

文面を見て驚いたのは。彼がまだこのブログの読者であったことだ。

「お身体、どうぞご自愛ください。……この言い方は暴力的、でしょうか?)と書いてあることに僕は笑った。少し前の記事で、病人に大丈夫ですかとか体調はいかがですか、と書くのは暴力的である、という最近僕が書いた記事を読んでいたからであろう。悪いことを書いてしまったな、と思った。

I君は直接の教え子ではないが、広い意味で同じコースの学生で、在学中はよく話をした。たしか卒業後は他大学の大学院生になったのではなかったのかな。学問に熱心な彼らしい丁寧で心のこもったメールだった。

文中に出てくるH君は、高校の教師である。同業者としてごくたまに電話をかけてくる。いちばん最近来た電話は昨年の12月12日である。僕が長期入院から退院した翌日くらいのことで、散歩をしていたら突然電話が来た。高校の授業の指導方法の件である。おい、俺は昨日長期入院から退院したばかりなんだぞ、と言いたかったが、彼は事情をまったく知らなかったらしい。ごくたまに、彼は思い出したようにいまでも電話やメールをくれる。その時も、彼らしいなと感じた。

もうひとり、S田さんは、たしか結婚式の2次会に出たんじゃないかな。いまでもバナナマンが好きなのだろうか。とにかく楽しい学生だった。

そんなことを思い出しつつ、僕は早速I君に返信のメールを書いた。

「I様

ご無沙汰してます。

ちっとも暴力的ではありませんよ(笑)むしろご連絡をいただき嬉しく思います。

今は原因不明のめまいに悩まされ、足もともおぼつかないので歴博を長期にお休みをして、自宅療養の毎日です。リハビリをするようになりわかったのは、まだオモテを歩けるようになるには時間がかかるということです。今月(7月)は2度ほど仕事で「前の職場」を訪れる予定でしたが、病気がこんなに長引くとは思わず、2件ともキャンセルしました。

8月に入ってもおそらく体調不良は変わらず、オモテを出歩くことは困難だと思われますので、たいへん残念ですが、今回は不参加ということにさせてください。

今後も引き続きよろしくお願い申し上げます」

せっかく同期生の誘いを受けたのに、行けないのは残念だった。

するとI君から返信が来た。

「鬼瓦先生

ご返信ありがとうございます。

そうですよね、やはり難しいですよね。ブログを拝見していて、万全なご様子とは思えませんでしたので、メールをお出しする直前までお誘いしていいのかどうか随分躊躇っておりました。そんなときにS木さんから、「鬼瓦先生は、たとえ来られなくてもお声がけがあったらきっと喜ばれると思うよ! 今回は難しいって言われるかもしれないけど、体調良くなったらまた参加してもらえるよ!」と言ってもらえたので、敢えてご連絡させて頂きました。

先生の御著作の2冊の一般書は、最近でも歴史や古文の授業時に活用させて頂いております。中学生向けに書かれたシリーズは、小5の甥っ子に預けたところ、大変熱心に読み込んでくれました。

いつかお会いできたときには、そうしたお話しを酒の肴に、皆で歓談したいものですね。今後も、また懲りずにお誘いすることがあると思いますので、今回はどうぞリハビリにご専念ください」

この文面に出てくるS木さんはS市に在住で、数年前に出張でこの町を訪れた際、アポ無しで彼女の職場に突然訪れたことがある。しばらくお話をして、楽しい時間を過ごした。さすがS木さん、僕の性分をよくわかっている。

この学年の学生たちがいた頃、僕はこの職場に来たばかりで、暗中模索していた時期だった。だからこの学年の卒業生には思い入れがあるのかもしれない。

I君の返信のなかの文面に、僕の書いた一般向けの本を生徒に読ませたり甥っ子に読ませているとあり、嬉しかった。いずれもI君が卒業してから出した本である。宣伝をした記憶もないのに、僕の本を見つけてくれたんだな。卒業後も僕の動向を追いかけてくれていたことに、僕は泣きそうになった。

この代の卒業生に限らず、いつか教え子の同窓会をしたいが、楽しみとしてとっておく。

〔付記〕

こんなエピソードをあえて書いたのは、高校時代の親友·コバヤシのくれたメールの中に

「ちょっと話は変わりますが、貴君がブログで昔の教え子に会った話が度々出て来ますが、私はそんな話を読む度に、貴君、良かったなあ、と思いながら読んでいます。」

という文言があり、ごく最近の、教え子との交流を、I君の許可なしにではあるが書いてみる気になったのである。プライバシーには配慮したつもりだが、I君、お許しください。

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ヤマジョーの思い出

鬼瓦殿

こんばんは。コバヤシです。

昨日、今日と、久しぶりに涼しくなりましたね。体調はいかがでしょうか?

ブログを読む限りでは、少しずつ快方に向かっているようですが、あまり無理はしないでください。

さて、貴君にリクエストされた「福岡の思い出」の方は全く書く気が起こらず、これが貴君がよくブログに書いていたことなのだろうかと、比べるレベルでは無いことは重々承知ので上ではありますが、つらつらと考えでしまう今日この頃です。

では、仕方ないが無いので、もっと昔の思い出はどうかというと不思議なことにネタが浮かんで来たりします

最近、とみに物覚えが悪くなり、最近会った筈の人の名前や顔が浮かばないのに、幼少期の友達の名前や顔が、50年以上も会っていない筈なのに、鮮明に思い出されるのはどういうことなのでしょうか?

大学時代のジャズ研の同期、ヤマジョー(日本のジャズ界ではこの呼び方が定着しているようです)に初めて出会ったのは何時のことだったのか。

貴君が記憶に残っているかどうかは分かりませんが、忘れもしない高校2年の11月、多分、土曜の吹奏楽部の練習が終わり、当時、よく部活に顔を出していたOBのT先輩も一緒に、後に私が入学することになる近くのH大学の学祭を観に行った時のことだと、今でもハッキリ覚えています。

せっかくなのでジャズ研の演奏を聴いてみようと、多分、T先輩、貴君、アサカワ辺りと行ったのではないかと思います。

ジャズ研が演奏する部屋に入ると長髪で白いTシャツにGパン姿の若者がアルトサックスを吹いています。私は、さすが大学生、上手いなあ、大学生になったら自分もこれぐらい吹けるようになるのだろうかなどと思いながら聴いていたのですが、演奏が終わった後のメンバー紹介で、先程の長髪の若者が、実は17歳の高校2年生だと分かり、まさか自分と同い年だったとは!と衝撃を受けたのが最初の出会いでした。

ただ、その時分かったのは彼が同い年の高校生ということだけで、名前までは知ることが出来ませんでした。

その後、浪人生活を経た3年後に、私は再び彼に出会うことになります

私は晴れて前述のH大学に通うことになり、入学式を終えた我々新入生は様々なサークルの勧誘を受けることになります。

ただ、私は最初から大学に入ったらジャズ研に入ると決めていたので(私の大学の選択条件の一つは、ジャズ研が有り、かつプロを輩出している、というものでした)、他の勧誘には目もくれず、新入生勧誘の演奏を行なっているジャズ研のステージを観に行きました。

ステージでは、長髪の学生がアルトサックスで流暢なソロをとっています。私は、大学三年生ぐらいになったら、これぐらい吹けるようになるのかなあと思いながら演奏に聴き入り、その後、ジャズ研の部室に入部の申し込みに行きました。部室には、先程のアルトの学生がおり、新入生のコバヤシですと自己紹介すると、驚くことに、彼は自分も新入生なのでヨロシクと言います。

そして、よく見れば、数年前に大学祭で観た高校生に似ているように思われたので、その旨を伝えると、確かにその時の高校生は自分だと言うではないですか。そして、初めて私は彼の名前を知ることとなりました。

こうして、私はヤマジョーことジョーに再び出会い、彼がアメリカに留学していた一年半を除く約二年半の時間を共に過ごすことになります。まあ、と言っても、ジョーは入学して間もなくプロ活動を開始したので、部室に来るのは週に1、2回ぐらいだったのですが。

ジョーは、当時の大学生には比べる者もいない程の実力だったにも関わらず、我々新入生にジャズのアドリブについて、丁寧に教えてくれました。このコードには、このスケールを使うというような基本的なことや、音楽理論はこの本を読むと良い、などということも助言してくれました。

気軽に一緒に吹いてくれたりもしたので、ある日などは、少しは吹けるようになったつもりでソロをとっていた私に、演奏後、「お前が吹いているのは何だ?ただの音の羅列だろ。アドリブはそんなものではない。言葉と一緒で、楽器を使って、おはよう、とか、こんにちは、とか伝えるものなんだ。」と言ってくれたことは、今でも鮮明に覚えています。

またある時は、ジャズの語法について教えてくれ、チャーリー・パーカーのソロのコピー譜を例に、ジャズのフレーズというのは言葉と一緒で、フレーズのある音にアクセントを付けたりタンギングをしたり、音を飲んだりと、アティキュレーションをきちんとすることで初めて意味を持つことになる、外国語と同じように話し方をきちんと勉強しないとジャズは吹けない、などということも教えてくれました。

ただ、今でもジョーに対して一言苦言を呈したいことは、私が、「やはり誰かプロについて習った方が良いのだろうか?」と相談した際に、「ジャズは人に習うもんじゃない。自分でやり方を見つけていくものだ。それに、分からないことがあったら俺や、Oさん(ウチのサークルで初めてプロになったOBのテナー奏者)に聞けばいいじゃないか!」と言われたのですが、その後、彼がアメリカ留学から帰ってきて初めて私の演奏を聴いた時に、「お前、結構吹けるようになったんだな。本当にビックリしたよ!一年生の時のお前の演奏を聴いてた時は、どうなることかと思ってたんだけど。」と言われたのと、大学を卒業して暫くしてからプロで活動するジョーの経歴紹介を雑誌かなにかで読んだところ(その頃の彼はスイングジャーナルの人気投票のアルトサックス部門で、あの渡辺貞夫を抜いて何年か1位に輝いていました)、中学時代には日本を代表するビッグバンドのシャープス・アンド・フラッツのリード・アルトの方に習い、その後の親の転勤でニューヨークに住んでいた頃は高名なスタジオミュージシャンに習っていたと書いて有り、私は「ちょっと待て。あの時、お前、俺に、ジャズは人に習うもんじゃない、って言っただろうが!その言葉を信じて俺は挫けそうになりながらも独りで毎日何時間も練習してたんだぞ!」と心の中で叫んでしまいました。とは書きましたが、もしかしたら、学生時代の彼の中では、先生について習ったことにより、自分の演奏が型にハマったものとなってしまったというジレンマがあり、当時の私に、自分で考えろと言ったのではないかと思ったりもします。

ジョーと過ごした学生時代のことで思い出されるのは、彼がアメリカから帰ってきてから少しして、三年生になった私はジャズ研の部長になったのですが、当時、色々あり活動が停滞気味になっていた我がジャズ研を潰してはイケナイ、新入生に好印象を持って貰う為には先ずは部室を綺麗に掃除しよう、ということで2人だけで汚い部室を掃除したことや、何かの用でジョーに電話をした際は、必ず音楽についての議論になり、1時間も2時間も、我々は音楽で何を表現しようとしているのかとか、良い音楽とはどんなものなのか、など今となっては何を話していたのかあまり思い出せないのことも多いのですが、青臭い議論を延々としていたことでしょうか。

大学も四年生になると、私もご多分に漏れず就職活動を始めたのですが、楽器を続ける為に一年ぐらい留年してもいいかなあなどと考えていた私は、当然、就職活動に身が入る訳も無く、いくつかの企業の面接に都心まで行きはしたもの、だんだんウンザリしてきたので、家に帰りしな、そうだアイツだったら昼間は暇な筈だと、当時、荻窪に住んでいたジョーの家に電話して、暇だったら遊びに行っていいか?と言って何度か彼の家に押しかけたこともあります。

そんな時は、ジャズのCDやビデオなんかを聴かせてくれて、この演奏のここが良いんだ、とか、ソロのカッコイイところで「イエ~イ!」などと言いながら何時間も2人でジャズを聴き続けたものです。

そうした体験は今でも自分の音楽を聴き方に少なからず影響を与えており、特にジョーが、晩年のレスター・ヤングやビリー・ホリデイの演奏、彼等が全盛期からするとかなり衰えた頃の演奏を聴かせてくれた時に「一流ミュージシャンの晩年、特に死ぬ前の演奏は本当に凄い。楽器や歌の上手い下手なんてことは通り越して、本当に説得力のある表現だけが残るんだ。」というようなことを言っていたことが今でも記憶に残っています。この言葉は、楽器が上手い下手で聴いていたところも無かったとは言えない私には強く印象に残り、以降の私の音楽の聴き方や好みに大きな影響を与えることになります。

私の大学生時代の演奏は、まあ当時の学生の中ではそこそこのレベルではあったものの、ジョーなどのプロからしたら足元にも及ばないレベルでしたが、学祭などでたまに演奏を聴いてくれた際には、当時、私はフリー・ジャズにもハマっていたことも有り、自分のバンドなどでは力任せにフリーキーなソロを取ることも多々あったのですが、それを彼は「エナジー」という1つの表現だ、などと言ってくれたこともありました。

また、確か大学四年の冬だったと思いますが、ジョーが遅くまで独り部室で練習して終電を逃してしまったことがあったのですが、ウチに泊めてくれと電話してきたので、いいよ、と泊めてやり、ついでに腹が減ってるだろうと豆のカレーをご馳走した後、じゃあ俺の最後の定演の演奏(貴君にも来て貰った府中のバベルセカンドの演奏です)を聴いて感想を聞かせてくれと言ったことがありました。今思い出すと、よくそんな恥ずかしいことを言ったなと思うのですが、ジョーは、最初の曲の出だしでベースが走ってリズムが裏返りそうなところを聴いて「お前、バックがこんな状態で良くソロなんか吹けるな。俺には無理だよ。」と言いながらも、黙って最後まで聴いてくれました。最後に私の演奏について何と評したのか全く覚えていないのですが、Ask me nowというセロニアス・モンクのバラードのソロを私が吹いている時に、当時、私がしきりに練習していた変則的なコード・チェンジの長いフレーズがばちっと嵌まった瞬間があり、そこでジョーがすかさず「イエ~イ!」と一言いってくれ、それが本当に嬉しかったことは今でもハッキリ覚えています。

私は、幾度かの中断を挟みながら、今でも細々とジャズを続けています。また、昔ほどは長い時間は聴かなくなりましたが、たまにレコードやCDを引っ張り出して来て、今でもジャズを聴き続けています。そうした音楽を演奏したり楽しんだりするうえで、ヤマジョーが教えてくれたことは大きな糧になっています。私がジャズを続けているのも全て彼のおかげと言っても過言ではありません。

大学を卒業してからジョーと会って話したのは、新入社員だった頃の夏に一度だけ、青山のブルー・ノートにライブを二人で観に行ったのが最後です。

それから30年以上、彼と会って話したことは殆どありません。正確に言うと8年前ぐらい(貴君のブログで確認しました(笑))に、彼の復活ライブに行った際に、演奏後、一言二言、言葉を交わしただけです。

ただ、いつか「お前のおかげで、細々とだけど音楽を楽しむ人生を送ることが出来ているよ。」と感謝の言葉をジョーに伝えることが出来たらなあ、と思うことがあります。でも実際に会っても、そんなことを上手く伝える自信は無いので、夢想するだけで終わりそうです。

今回もかなり長くなってしまい失礼しました。しかも最後の方はかなり感傷的な内容になってしまいお恥ずかしい限りです。

でも、せっかく書いたので、え~い、とメールしちゃいます。

それでは、また。ご機嫌よう!

〔付記〕僕は8年前に「おかえり、ヤマジョー」という記事を書いた。

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-f7e8.html

高校2年の時、H大の学園祭で同い年のヤマジョーが演奏しているのを聴いて衝撃を受けたことを僕もよく覚えている。

その後、コバヤシはヤマジョーと同じくH大のジャズ研に入ったことも知っていた。

しかしその後、二人がどういう交流をしてきたかは知らなかった。今回のメールで初めて知った。

読んでいくうちに、涙がとめどなく流れてきた。大げさだが「嗚咽」といっていいくらい涙を流した。

それはたぶん、僕も思い出を少しだけ共有しているからだろう。陳腐な言い方かもしれないがコバヤシとヤマジョーの「絆」を感じることができた。気の効いた言葉が見つからない。

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リハビリデイサービス

週に1度、リハビリのデイサービスに通っている。同じ市内だが、車を使わないと行けないので、毎回、決まった時間に車で迎えに来てもらって、それどころかマンションの部屋の玄関まで来てもらって、その運転手の介助でマンションの外に駐車している車に乗り込む。当然相乗りで、ワンボックスカーには私のほかに3人が同じ車でデイサービスに向かう。

運転手さんというのはそのデイサービスの社長さんで、つまり社長自らが車を運転して迎えにまわっているのである。

僕が通っている時間のお客さんは全部で8人。いうまでもなく僕が最年少者。あたりまえだが高齢者がほとんどである。そして部屋は意外と狭い。

8人がリハビリをするのだが、デイサービスの職員は社長を含めて3人。社長は男性だがあとの2人は女性である。つまりこの3人でデイサービスをまわしているのである。

リハビリの内容は歩く練習をしたり、4種類の器具を使って下半身の筋肉つけたりといった、簡単なリハビリを8人が順番にこなしていく。そして最後に、社長によるマッサージがある。社長はもともとそういう資格を持った方なので、僕はマッサージしてくれることをひそかな楽しみとしている。

最初、見学に来たとき(高齢者中心の、ずいぶんユルいリハビリだな…)と思っていたが、実際に通ってみると、僕がいちばんリハビリが必要な人間だったということがわかった。踏み台昇降も歩く練習も僕がいちばん足もとがふらついており、他の高齢者の歩き方はカクシャクとしている。ユルいリハビリどころではなく、僕にとってはピッタリのブログラムであった。

高齢者の中に混じって若造の僕がひとり加わる、というのはなかなかない体験なので、僕はそのリハビリデイサービスの潜入取材をしている気になる。そうやってデイサービスを楽しむことにした。

それにしても職員3人で8人のリハビリを面倒見るというのはなかなかたいへんな上に、それを午前中の2時間ほどでまわさなければならないのでかなり職員の負担が大きく、タイトなスケジュールになってしまう。それを午前だけでなく午後もまた、別の客に同じことをしなければならない。それが週に5日続くと考えると、途方もなくたいへんな仕事だ。リハビリに来た人々に、当然怪我などさせてはいけないので神経も使う。

昨日のリハビリでは職員の一人がお休みだったので職員2人で8人の面倒を見なければならなくなった。もちろん休むのは当然の権利だが、2人ではなかなかプログラムをこなすのが難しい。それでも来ている8人とはいつも通りに接しなければならない。結局、社長によるマッサージはその日は中止になった。もし社長が倒れたらリハビリは成り立たなくなるのではないかと心配になる。「余人を持って変えがたい」とはこういうときに使う言葉である。

何がいいたいかというと、介護の現場では深刻な人手不足に陥っているのではないか、ということである。「余人を持って変えがたい」ような社会になってしまってよいのだろうか。

いま、参議院議員選挙の選挙期間である。子育て支援の公約はよく聞くが、介護の充実についてはあまり話題にのぼらないような気がする。しかし現場は人手不足で、使命感のある人がなんとか踏んばっている状況である。僕がもし立候補するとしたら、介護の充実を公約の目玉として掲げたいと思う。でも立候補などしないので、介護についても熱心に考えている候補者に投票したい。

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栄養剤

最近、食欲がないということで主治医の先生が栄養剤を処方してくれた。7月7日のことである。処方箋によれば1日2回飲むようにとある。いまの私には何にもすがりたい気持ちなので、処方箋を薬局に持っていくと、缶に入った栄養剤てあった。不味いと聞かされていたけれども僕にとってはそうでもなかった。朝に1缶、夜に1缶ずつ、1日に2回を飲み干した。

栄養剤というくらいだから、たんぱく質やその他の栄養がバランスよく配合されている。それらの栄養素を効率よく摂取できるという。

調子にのって毎日飲んでいたら、ある異変を感じた。

それは、夕食後に急に腹というか、胃のあたりが目一杯膨れ上がったのである。風船が膨らむような感じでお腹が膨らんだのである。

おかしいな。今日の夕食は素うどんで、しかもそんなに食べていない。なのに満腹したときのようにお腹が膨らむわけではないはずだ。

「おやつにスナック菓子を食べたからじゃないの?」

いや、そんなことはない。たしかにおやつにスナック菓子を食べたが、そんな腹が膨れるほど食べたわけじゃない。

最後に思いあたるのは栄養剤である。

もしやと思い、栄養剤についてインターネットで調べてみると、副作用として下痢、腹痛、腹部膨満感などが起こる場合がある、と書かれている。

腹部膨満感…?

これだ!と思った。お腹が膨れ上がったようになっているのは、腹部膨満感、すなわち栄養剤の副作用による現象だった可能性が高い。僕はそうとは知らずにガブガブと栄養剤を飲んでいたのである。

栄養剤といっても薬は薬である。副作用があって当然だ。僕はそんなことを思わずにゴクゴクと飲んでいたのだ。

僕は1日あたりの栄養剤の摂取量を半分の量に減らして飲むことにした。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」とはよく言ったものである。

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ホームドラマ

自宅に誰もいない時間に、ようやくリビングの椅子に座ってテレビを長時間見る気になったので、今まで録りためておいた映画やドラマを2時間程度、椅子に座って集中して見ることができた。

今までは、椅子に座っていられないという事情でテレビ番組を見る気が起こらなかっただけに、僕にとっては相当な進歩である。

録りためたもののひとつに、山田太一脚本の連続ドラマがある。山田太一さんが亡くなられたあと、BS-TBSが追悼特集として山田太一脚本の連続ドラマを再放送した。その中のひとつに「沿線地図」(1979年)がある。

「沿線地図」というタイトルは、昔から知っていたが、実際のドラマは観たことがなかった。そこで観てみることにしたのである。

1回1時間、全部で15回あるのでとても一日で見ることはできない。僕も椅子に座っていられる限界が3時間程度なので、無理をせずに少しずつ観ることにした。

傑作であることは間違いないが、内容は、いかにも山田太一さんのホームドラマという感じだった。だからといって我々が懐かしむだけの過去のドラマとして観てはいけない。現代社会を考える上でも非常に大きな課題を投げかけているドラマなのである。というか、山田太一さんのドラマはどれも現代社会に通ずる葛藤を描いたものばかりで、そういうつもりで観ないといけない。

「沿線地図」の「沿線」とは東急電鉄の大井町線か田園都市線かと思われる。あまり鉄道に詳しくないのでわからないが、とにかく東急電鉄(東京急行)であることには違いない。

時折電車が陸橋を走っている映像が差し込まれるが、あの川は多摩川である。

山田太一さんのドラマには多摩川がよく出てくる。「岸辺のアルバム」(1977年)も多摩川の決壊により家が流される東京都狛江市が舞台である。これは山田太一さんが多摩川沿いの(対岸の)川崎市に住んでいたためで、山田太一さんにとっての生活圏を舞台にしていたということなのだろう。

山田太一さんのホームドラマは、高度経済期の典型的な家族像を描いているが、ドラマを見ながらひとつの妄想が浮かんできた。

ホームドラマならば、一見平凡そうにみえる今までの我が家族が、あることをきっかけにいろいろな事態に巻き込まれる、という意味で山田太一さん並みのホームドラマの脚本、あるいは原作小説が書けるかも知れないぞ。今の我が家族は「事実は小説より奇なり」で、次から次へといろいろなことが起こる。そのディテールをホームドラマにしたらどうだろう?と考えたのである。

しかし、それはこのブログにも書けないような、個人情報のオンパレードとなるので諦めた。

映画作家の大林宣彦さんは、「映画はウソから出たマコトを描くものだ」というのが口癖だった。確かにそうだが、それに倣えば「ウソのようなマコト」を描いても面白いのではないか、という気がしている。でも僕自身はそれを書くつもりはない。

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監視員

小学校のプールの授業を廃止する小学校が増えているという。うちの娘の小学校も、授業期間中は数回あるものの、夏休みのプール実習はない。

酷暑による熱中症を予防することはもちろん、感染症予防や、小学校の先生の負担を軽減させるためなど、さまざまな事情が考えられる。

夏休みのプールで思い出したことかある。

僕が大学生の頃、夏休みのプール実習の監視員のバイトをしないかと、小学校4年から高校3年までクラスが一緒だったO君に誘われた。

O君のお父さんは小学校の先生で、知り合いがいる小学校で夏休みの監視員のアルバイト2人を探しているということで、息子のO君がまず引き受けた。

しかしもう一人必要だということで、僕が誘われたのである。

夏休みの監視員のバイトといえば、体育大学在学中の筋骨粒々の学生がやるというイメージがあるが、O君も僕も、お世辞にも筋骨粒々とは言えない。小太りのだらしない体なのだ。それでもいいのか?

O君はそれでもいいといった。だってお前、中学校のときに水泳部だったろ、と言われて返す言葉がなかった。

ま、小太りでだらしない体のO君がつとまるくらいだから僕もつとまるだろうと思い直し、仕方なくそのバイトを引き受けることにした。

やることといえば、まず朝早く学校に来てプールに塩素の円い錠剤を投げ込むこと、これ、一度やってみたかったんだよなぁ。

小学生が授業をするときはなにもせず、ブールサイドでもってただ監視するだけ。授業の途中に、自由時間があり、そのときだけ小学生とプールに入り、水中プロレスなんかをして、小学生たちと戯れた。

小学生も残酷で、「あっ、ムックだ!ガチャピンはどうしたの?」と僕に向かって聞いてくる。

「ガチャピンはね、今日はお休みなんだ」と答えるのが精一杯だった、とするとO君はガチャピンだと思われてるんだなと、いささか情けなくなった。

このバイトをO君と交代交代で何回かやり、夏休みが無事に終了した。

あの頃は牧歌的だった。プール実習の監視員のバイトなんか、めったに機会が訪れないだろう。今となっては貴重な思い出である。

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書ける範囲で書いています

大きな病気にかかったとき、それをありのままに公にするタイプと、できるだけ知られたくないタイプがいる。僕はどちらかといえば後者である。以前、大きな病気にかかったとき、あまり人に知られたくなかったのに、ちょっとイヤな思いをする体験があって、それ以来あんまり自分の病状を書くのをよそうと思った経緯がある。今の病気のこともしかりである。勿論仕事で迷惑をかけている人に対しては病状を詳しく伝えて、迷惑を詫びるようにしている。

かかりつけの病院を転院したことにより、より多くの医者の先生にお世話になっているが、お医者さんにもいろんな人がいるもんだ、と思うだけにして、しばらくは書かないことにしている。

リハビリの先生にもとてもお世話になっているが、これもまた、そうとしか言えない。

通院とリハビリだけの日々である。だからブログに書けることは少ない。もっぱら過去の思い出を探しているが、大抵のことはもうブログに書いてしまっているので、それを読んでもらうしかない。

そう考えると、高校時代の親友のコバヤシが、サラリーマンネタを書くために日々頭を悩ましているという気持ちがよくわかる。今の僕は、書ける範囲で書けるネタがないか、必死に悩んでいる。ま、これは僕の問題で、読者のみなさんにとってはどうでもいい話なのだが。

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フリー·ジャズ

鬼瓦殿

おはようございます。コバヤシです。

暑い日が続きますが、体調はいかがですか?

ネタ切れとなってしまったこともあり、たまには昔の話でも書いてみようと思います。

登場人物を知っている人は殆どいないと思うので、実名で書いてみました。

大学時代、私がジャズ研で音楽に没頭していたことは、貴君もたまにライブに聴きに来て貰っていたので、覚えていてくれているのではないかと思います。

当時の私は、メインストリームのジャズを演りながらも、フリー・ジャズにも傾倒していました。

何故、フリー・ジャズだったのかと言えば、若かった事もあり、伝統的な枠に縛られない何か自由なものを求めていたこと、更に言えば若く無知だから故に、自分が何か新しいものを創造出来るのではないかと信じていたのだと思います。

まあ、そんなことはさておき、フリー・ジャズに傾倒していた私は、やはり同じことを志向する友人がいたことも有り、友人達と当時の先鋭的な様々なライブを観に行ったり、時にはセッションのようなものにも参加してみました。

そんなある日、確か大学2年の頃だったと思いますが、ベースを演っていた友達が、当時の学生の誰もが読んでいた雑誌ピアで、銀座のギャラリーでフリー・ジャズ・セッションが開催されるのを見つけて来ました。

その友達が行ってみないか?と言うので、ちょっと怖いなぁと思いながらも、好奇心も有り、当時一緒に演っていた友人2人と私の3人で、とりあえず行ってみようということになりました。

銀座のどの辺りだったのかは、今では全く思い出せませんが、ギャラリーの名前は覚えていて、確かケルビームという名前だったと思います。

中央線で有楽町まで出て、銀座のギャラリーに何とか辿り着き、恐る恐るギャラリーの扉を押すと、中では既にセッションが始まっていました。

ギャラリーには、巨大な黒人の立体作品が壁一面に飾られており、その作者と思しき若い派手な格好の女性がいます。

その会場の中で、頭にピッタリとした帽子のようなものを被った小柄な中年男性が胡座をかいてポケット・トランペットを吹いています。後はパーカッションの方だけだったように思います。

お店に入り暫く演奏を聴いたのですが、フリー・ジャズと言いながらも、トランペットが奏でる音は何か不思議なメロディアスな演奏でした。

トランペットの男性は、我々に気付くと、演奏を終わらせて、セッションに参加する為に来たのかと尋ねます。そうです、と伝えると、先ずは何か一緒に演ってみようということで、みんなで演奏を始めました。

フリー・ジャズのセッションなので、曲などは無く、確かパーカッションをバックにトランペットのソロから始まり、順番にソロを回して、最後はトランペットの合図で演奏を終了したように思います。

その後、トランペットの方が自分が、このセッションの主催者で、元々は東京で演奏をしていたが、今は地元の伊豆の下田に戻ってチェシャー・キャットというジャズ喫茶を営なみながら、月に一回ぐらい東京に出て来て(その方曰く、昔の女のところに泊めて貰ってるんだ、とのことでした)、演奏活動を続けている、というようなことを話してくれたように思います。

お名前は、庄田次郎という方で、ニュージャズ・シンジケートというフリー・ジャズ・オーケストラも主催しているとのことでした。

後で調べると、ニュージャズ・シンジケートというのは、70年代から活動している日本のフリー・ジャズ・オーケストラの草分け的存在で、一時期は日本を代表するジャズ・パーカッション奏者である富樫雅彦も参加しており、数多くのフリー・ジャズの演奏者を輩出しているバンドということが分かりました。

しかも、庄田次郎という方は、知る人ぞ知るフリー・ジャズのトランペッターで、早逝の伝説的アルトサックス奏者、阿部薫の盟友だったようです。

ちなみに、阿部薫という人は70年代の日本のフリー・ジャズを象徴する人物で、その破天荒な人生と共にアルトサックス・ソロで数々の伝説的ライブを行ったことで有名な方です。

やはり、70年代に活躍した女流作家の鈴木いづみの夫だった人でもあり、2人のことを描いたエンドレス・ワルツは、後に映画化されたので、貴君も知っているのではないでしょうか。

庄田次郎さんは、我々に、自分のアイドルは、マイルス・デイビスとドン・チェリーであり、こんな感じでセッションをしたりしながら細々と全国で演奏を続けていると語り、良かったらまたセッションに来てくれと言ってくれたので、どうやら我々の演奏も悪くはないと思ってくれたようでした。

確かもう一度くらい、ケルビームのセッションに行ったのではないかと思うのですが、今となっては判然としません。

ただ、その時に、連絡先を交換したように記憶します。

暫くして、当時、私が下宿していた所沢の祖母の家に、2度程、庄田次郎さんから電話が有りました。

どちらが先だったかは定かでは有りませんが、一回は、日本縦断ツアーをやるのだが、テナーで参加してくれないか?というものでした。ただ、バンで日本縦断するのと交通費、宿泊費等で参加費を10万円を用意して欲しいとのこと。

もう一回は、ニュージャズ・シンジケートでテナーの欠員が出たので加入しないか、というものでした。

前者は、そんなお金も無いし、貴君もご存知の通り私は乗り物が嫌いなのに、車で日本縦断なんて耐えられない、しかも知らない人達なんかと、いう事で、後者の方は、ちょっと興味はあったものの、言い方は悪いけどそんなアングラなバンドというか、得体の知れないバンドに参加するのはやはり怖い、ということで、すみません、と断ってしまいました。

しかし、あの時、参加すると言っていたら、自分の人生はどうなっていたのだろうか?と今でもたまに思うことがあります。

また、庄田次郎さんには、阿部薫のことや、日本のフリー・ジャズについて、色々と聴いてみれば良かったなあ、と思うこともの有ります。

まあ、今となってはもうどうしようもないことなのですが。

貴君が先日、ブログに書いていたアクション俳優の方とお寿司を食べた話を読み、こんな話を書いてみてもいいかなあ、と思いメールしました。

今回もマニアックな話な上に、また長くなってしまったので、つまらなかったら、すみません。

それでは、また!

〔付記〕せっかくのチャンスを、怖くなって辞めてしまった経験は僕にもあります。でもそれはそれで自分の運命で、いまの状況は必然なのだと思うことにしています。小椋佳の作詞した『遥かな轍』の「こうとしか生きようもない人生がある」という歌詞を思い出します。

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イノダコーヒ三条店

私はべつにコーヒーに詳しいわけでもこだわりがあるわけでもないのだが、喫茶店に行くのは好きである。過去にブログで書いた記事を引用する。(2010年11月6日条)

「京都に行くと、必ず立ち寄る喫茶店がある。

三条通にある有名な喫茶店。

店の中に入ると、奥に円形の大きなカウンターがある。

そのカウンターの中で、2,3名の店員がひたすらコーヒーを入れている。

言ってみれば、厨房の周りに、客が座るカウンターが取り囲んでいるのである。360度を取り囲む客に見られながら、店員たちは黙々とコーヒーを入れている。

コーヒーを入れる店員は、いずれもおじさんだが、そのおじさんはみな、黒い蝶ネクタイに白衣のようなジャケット、といういでたちで、それがなかなかに格好良い。

円形のカウンターに座る客たちは、ひとくせもふたくせもあるようなおじさんたち。黙って新聞を読んだり、もの思いにふけったりしている。常連の客も多いようで、店員は、コーヒーといっしょに、その客の愛読する新聞をサッと差し出したりしている。

私はこの雰囲気が好きで、京都に来ると立ち寄るようになった。抵抗なく入れるようになったのは、私がおじさんになった証拠か。(中略)

平日の昼間にもかかわらず、円形のカウンターはほぼいっぱいである。平日の日中から500円のコーヒーを飲みにくるこの人たちは、いったいどういう人たちなんだろう、と想像をめぐらせるのも、また楽しい。(後略)」

過去にそう書いた喫茶店の名は、「イノダコーヒ三条店」である。京都に訪れるたびに、時間があるとその喫茶店に立ち寄っていた。何をするかというと、ただボーッとしているだけである。あと、持ってきたり買ってきたりした本をたまに読んだりする。つまり僕にとっては「ラーハな時間」を過ごす場所なのだ。

ところが2022年4月に行くと喫茶店の跡地が更地になっていた。閉店したのかと思いきや、2023年春を目処にリニューアルすると書いてあった。

それ以降、京都に行く機会が減り、その度にイノダコーヒ三条店のある場所を訪れたが、更地のままだったと記憶する。その後長期の病気療養に入ってしまったため、京都出張をしなくなってしまった。

どうしてこの喫茶店のことを今頃になって思い出したかというと、友人からのメールに、イノダコーヒはKEY COFFEEの子会社になったという情報が書いてあったからである。

気になって検索してみると、イノダコーヒ三条店は2024年10月にリニューアルオープンしたようで、オシャレな外観になったが、かつての円形のカウンターは残っているようだった。ますます人気店になったようで、もう気軽な気持ちで入られないかもしれない。ましてやオーバーツーリズムなこのご時世では、客層もずいぶん変わっているかも知れない。

友人のメールには、「いずれ偵察に行ったら報告します」とあった。それを期待する。

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いままででいちばん美味い寿司屋さん

寿司屋のカウンターでお寿司を食べる体験は数えるほどしかないので偉そうなことは言えない。ふだんはもっぱら回転寿司である。

そんな僕が、いままででいちばん美味いと思った寿司屋はどこかと聞かれたら、迷わず奈良県橿原市にある寿司屋と答える。店名はすっかり忘れてしまった。

海の近くの新鮮な魚介類が食べられる場所じゃないのかよ!内陸の奈良県橿原市のありふれたお寿司屋さんがいちばん美味かったというのはどういうことだ?これから説明する。

大学生の時、ふとしたことでテレビドラマで活躍していたアクション俳優と知り合いになった。「ふとしたこと」というのは愚妹の同級生の父親だったことによる。興味関心が私と共通するため、何度か家に遊びに行っては、そんな話をして盛り上がった。ご自宅に泊まって夜遅くまで語り合ったこともある。

ある時、その方が言った。

「こんど旅番組の撮影で奈良に行くんだが、撮影が終わったあとしばらく奈良をブラブラしようと思っている。もしよければ、君もそのときに奈良に来ないか?」

その方が大手の芸能事務所を辞め、ご自身の個人事務所を立ち上げたばかりのころであった。別にその事務所が気に入らなかったからではない。週に一度、ゴールデンタイムに放映される刑事ドラマが忙しくなり、自分の趣味に打ち込めるような自由時間が持てず、自分のペースで仕事をしたいと思ったからではないかと、僕は想像した。

僕は二つ返事で奈良の旅をご一緒することにした。待ち合わせ場所は近鉄奈良駅からすぐのところにある喫茶店。僕がその喫茶店に行くと、すでにその方が座ってコーヒーを飲んでいた。「よう!こっちこっち」僕は有名俳優を待たせていたのだ。

「旅番組の撮影が無事に終わってね。さぁこれから自由時間だ」

喫茶店で少しお話をしたあと、その方が奈良まで乗ってきた自家用車に乗り、その方の運転でとくに宿を決めず行きたいところに連れていってもらった。

その日の夕方に橿原に着き、橿原のビジネスホテルで泊まることになった。適当なビジネスホテルが見つかり、そこにチェックインした。

その日の夕食をとる店もビジネスホテル周辺をブラブラ歩きながら決めた。

(本当に行き当たりばったりの旅だな)

そう思って入ったお店が、どこにでもありそうな寿司屋さんである。

有名な芸能人だけあって道行く人に声をかけられる。当然、ふらっと入ったふつうの寿司屋の主人もすぐに「◯◯さんですね」と、その方を瞬時に認めた。関西弁で言うところの「顔をさす」というヤツである。

カウンターに座り、大トロの寿司を食べたときに、こんなに美味い寿司を食べたことがない、と思うほど美味しかったのである。

…何が言いたいかというと、美味しさはどこで食べるかよりも誰と食べるかによるのではないかということである。

寿司屋の主人は、有名芸能人がふらっと食べにきたということで、人一倍に腕をふるい、素材も最上のものを選んで寿司を握ったのではないだろうか。僕一人がふらっとそのお店に入ってもこんなに美味い寿司にはありつけないだろう。なによりカウンターでお寿司を頬張りながら趣味の話をするというのが、幸福な時間だった。

その俳優さんとはその後も何度か旅をご一緒したが、今は年賀状のやりとりだけをする関係になった。その年賀状も、ここ数年で出さなくなったと思う。でもあの頃の旅の思い出は、今も時々思い出しては懐かしんでいる。

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