鬼瓦殿
こんばんは。コバヤシです。
昨日、今日と、久しぶりに涼しくなりましたね。体調はいかがでしょうか?
ブログを読む限りでは、少しずつ快方に向かっているようですが、あまり無理はしないでください。
さて、貴君にリクエストされた「福岡の思い出」の方は全く書く気が起こらず、これが貴君がよくブログに書いていたことなのだろうかと、比べるレベルでは無いことは重々承知ので上ではありますが、つらつらと考えでしまう今日この頃です。
では、仕方ないが無いので、もっと昔の思い出はどうかというと不思議なことにネタが浮かんで来たりします
最近、とみに物覚えが悪くなり、最近会った筈の人の名前や顔が浮かばないのに、幼少期の友達の名前や顔が、50年以上も会っていない筈なのに、鮮明に思い出されるのはどういうことなのでしょうか?
大学時代のジャズ研の同期、ヤマジョー(日本のジャズ界ではこの呼び方が定着しているようです)に初めて出会ったのは何時のことだったのか。
貴君が記憶に残っているかどうかは分かりませんが、忘れもしない高校2年の11月、多分、土曜の吹奏楽部の練習が終わり、当時、よく部活に顔を出していたOBのT先輩も一緒に、後に私が入学することになる近くのH大学の学祭を観に行った時のことだと、今でもハッキリ覚えています。
せっかくなのでジャズ研の演奏を聴いてみようと、多分、T先輩、貴君、アサカワ辺りと行ったのではないかと思います。
ジャズ研が演奏する部屋に入ると長髪で白いTシャツにGパン姿の若者がアルトサックスを吹いています。私は、さすが大学生、上手いなあ、大学生になったら自分もこれぐらい吹けるようになるのだろうかなどと思いながら聴いていたのですが、演奏が終わった後のメンバー紹介で、先程の長髪の若者が、実は17歳の高校2年生だと分かり、まさか自分と同い年だったとは!と衝撃を受けたのが最初の出会いでした。
ただ、その時分かったのは彼が同い年の高校生ということだけで、名前までは知ることが出来ませんでした。
その後、浪人生活を経た3年後に、私は再び彼に出会うことになります
私は晴れて前述のH大学に通うことになり、入学式を終えた我々新入生は様々なサークルの勧誘を受けることになります。
ただ、私は最初から大学に入ったらジャズ研に入ると決めていたので(私の大学の選択条件の一つは、ジャズ研が有り、かつプロを輩出している、というものでした)、他の勧誘には目もくれず、新入生勧誘の演奏を行なっているジャズ研のステージを観に行きました。
ステージでは、長髪の学生がアルトサックスで流暢なソロをとっています。私は、大学三年生ぐらいになったら、これぐらい吹けるようになるのかなあと思いながら演奏に聴き入り、その後、ジャズ研の部室に入部の申し込みに行きました。部室には、先程のアルトの学生がおり、新入生のコバヤシですと自己紹介すると、驚くことに、彼は自分も新入生なのでヨロシクと言います。
そして、よく見れば、数年前に大学祭で観た高校生に似ているように思われたので、その旨を伝えると、確かにその時の高校生は自分だと言うではないですか。そして、初めて私は彼の名前を知ることとなりました。
こうして、私はヤマジョーことジョーに再び出会い、彼がアメリカに留学していた一年半を除く約二年半の時間を共に過ごすことになります。まあ、と言っても、ジョーは入学して間もなくプロ活動を開始したので、部室に来るのは週に1、2回ぐらいだったのですが。
ジョーは、当時の大学生には比べる者もいない程の実力だったにも関わらず、我々新入生にジャズのアドリブについて、丁寧に教えてくれました。このコードには、このスケールを使うというような基本的なことや、音楽理論はこの本を読むと良い、などということも助言してくれました。
気軽に一緒に吹いてくれたりもしたので、ある日などは、少しは吹けるようになったつもりでソロをとっていた私に、演奏後、「お前が吹いているのは何だ?ただの音の羅列だろ。アドリブはそんなものではない。言葉と一緒で、楽器を使って、おはよう、とか、こんにちは、とか伝えるものなんだ。」と言ってくれたことは、今でも鮮明に覚えています。
またある時は、ジャズの語法について教えてくれ、チャーリー・パーカーのソロのコピー譜を例に、ジャズのフレーズというのは言葉と一緒で、フレーズのある音にアクセントを付けたりタンギングをしたり、音を飲んだりと、アティキュレーションをきちんとすることで初めて意味を持つことになる、外国語と同じように話し方をきちんと勉強しないとジャズは吹けない、などということも教えてくれました。
ただ、今でもジョーに対して一言苦言を呈したいことは、私が、「やはり誰かプロについて習った方が良いのだろうか?」と相談した際に、「ジャズは人に習うもんじゃない。自分でやり方を見つけていくものだ。それに、分からないことがあったら俺や、Oさん(ウチのサークルで初めてプロになったOBのテナー奏者)に聞けばいいじゃないか!」と言われたのですが、その後、彼がアメリカ留学から帰ってきて初めて私の演奏を聴いた時に、「お前、結構吹けるようになったんだな。本当にビックリしたよ!一年生の時のお前の演奏を聴いてた時は、どうなることかと思ってたんだけど。」と言われたのと、大学を卒業して暫くしてからプロで活動するジョーの経歴紹介を雑誌かなにかで読んだところ(その頃の彼はスイングジャーナルの人気投票のアルトサックス部門で、あの渡辺貞夫を抜いて何年か1位に輝いていました)、中学時代には日本を代表するビッグバンドのシャープス・アンド・フラッツのリード・アルトの方に習い、その後の親の転勤でニューヨークに住んでいた頃は高名なスタジオミュージシャンに習っていたと書いて有り、私は「ちょっと待て。あの時、お前、俺に、ジャズは人に習うもんじゃない、って言っただろうが!その言葉を信じて俺は挫けそうになりながらも独りで毎日何時間も練習してたんだぞ!」と心の中で叫んでしまいました。とは書きましたが、もしかしたら、学生時代の彼の中では、先生について習ったことにより、自分の演奏が型にハマったものとなってしまったというジレンマがあり、当時の私に、自分で考えろと言ったのではないかと思ったりもします。
ジョーと過ごした学生時代のことで思い出されるのは、彼がアメリカから帰ってきてから少しして、三年生になった私はジャズ研の部長になったのですが、当時、色々あり活動が停滞気味になっていた我がジャズ研を潰してはイケナイ、新入生に好印象を持って貰う為には先ずは部室を綺麗に掃除しよう、ということで2人だけで汚い部室を掃除したことや、何かの用でジョーに電話をした際は、必ず音楽についての議論になり、1時間も2時間も、我々は音楽で何を表現しようとしているのかとか、良い音楽とはどんなものなのか、など今となっては何を話していたのかあまり思い出せないのことも多いのですが、青臭い議論を延々としていたことでしょうか。
大学も四年生になると、私もご多分に漏れず就職活動を始めたのですが、楽器を続ける為に一年ぐらい留年してもいいかなあなどと考えていた私は、当然、就職活動に身が入る訳も無く、いくつかの企業の面接に都心まで行きはしたもの、だんだんウンザリしてきたので、家に帰りしな、そうだアイツだったら昼間は暇な筈だと、当時、荻窪に住んでいたジョーの家に電話して、暇だったら遊びに行っていいか?と言って何度か彼の家に押しかけたこともあります。
そんな時は、ジャズのCDやビデオなんかを聴かせてくれて、この演奏のここが良いんだ、とか、ソロのカッコイイところで「イエ~イ!」などと言いながら何時間も2人でジャズを聴き続けたものです。
そうした体験は今でも自分の音楽を聴き方に少なからず影響を与えており、特にジョーが、晩年のレスター・ヤングやビリー・ホリデイの演奏、彼等が全盛期からするとかなり衰えた頃の演奏を聴かせてくれた時に「一流ミュージシャンの晩年、特に死ぬ前の演奏は本当に凄い。楽器や歌の上手い下手なんてことは通り越して、本当に説得力のある表現だけが残るんだ。」というようなことを言っていたことが今でも記憶に残っています。この言葉は、楽器が上手い下手で聴いていたところも無かったとは言えない私には強く印象に残り、以降の私の音楽の聴き方や好みに大きな影響を与えることになります。
私の大学生時代の演奏は、まあ当時の学生の中ではそこそこのレベルではあったものの、ジョーなどのプロからしたら足元にも及ばないレベルでしたが、学祭などでたまに演奏を聴いてくれた際には、当時、私はフリー・ジャズにもハマっていたことも有り、自分のバンドなどでは力任せにフリーキーなソロを取ることも多々あったのですが、それを彼は「エナジー」という1つの表現だ、などと言ってくれたこともありました。
また、確か大学四年の冬だったと思いますが、ジョーが遅くまで独り部室で練習して終電を逃してしまったことがあったのですが、ウチに泊めてくれと電話してきたので、いいよ、と泊めてやり、ついでに腹が減ってるだろうと豆のカレーをご馳走した後、じゃあ俺の最後の定演の演奏(貴君にも来て貰った府中のバベルセカンドの演奏です)を聴いて感想を聞かせてくれと言ったことがありました。今思い出すと、よくそんな恥ずかしいことを言ったなと思うのですが、ジョーは、最初の曲の出だしでベースが走ってリズムが裏返りそうなところを聴いて「お前、バックがこんな状態で良くソロなんか吹けるな。俺には無理だよ。」と言いながらも、黙って最後まで聴いてくれました。最後に私の演奏について何と評したのか全く覚えていないのですが、Ask me nowというセロニアス・モンクのバラードのソロを私が吹いている時に、当時、私がしきりに練習していた変則的なコード・チェンジの長いフレーズがばちっと嵌まった瞬間があり、そこでジョーがすかさず「イエ~イ!」と一言いってくれ、それが本当に嬉しかったことは今でもハッキリ覚えています。
私は、幾度かの中断を挟みながら、今でも細々とジャズを続けています。また、昔ほどは長い時間は聴かなくなりましたが、たまにレコードやCDを引っ張り出して来て、今でもジャズを聴き続けています。そうした音楽を演奏したり楽しんだりするうえで、ヤマジョーが教えてくれたことは大きな糧になっています。私がジャズを続けているのも全て彼のおかげと言っても過言ではありません。
大学を卒業してからジョーと会って話したのは、新入社員だった頃の夏に一度だけ、青山のブルー・ノートにライブを二人で観に行ったのが最後です。
それから30年以上、彼と会って話したことは殆どありません。正確に言うと8年前ぐらい(貴君のブログで確認しました(笑))に、彼の復活ライブに行った際に、演奏後、一言二言、言葉を交わしただけです。
ただ、いつか「お前のおかげで、細々とだけど音楽を楽しむ人生を送ることが出来ているよ。」と感謝の言葉をジョーに伝えることが出来たらなあ、と思うことがあります。でも実際に会っても、そんなことを上手く伝える自信は無いので、夢想するだけで終わりそうです。
今回もかなり長くなってしまい失礼しました。しかも最後の方はかなり感傷的な内容になってしまいお恥ずかしい限りです。
でも、せっかく書いたので、え~い、とメールしちゃいます。
それでは、また。ご機嫌よう!
〔付記〕僕は8年前に「おかえり、ヤマジョー」という記事を書いた。
http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-f7e8.html
高校2年の時、H大の学園祭で同い年のヤマジョーが演奏しているのを聴いて衝撃を受けたことを僕もよく覚えている。
その後、コバヤシはヤマジョーと同じくH大のジャズ研に入ったことも知っていた。
しかしその後、二人がどういう交流をしてきたかは知らなかった。今回のメールで初めて知った。
読んでいくうちに、涙がとめどなく流れてきた。大げさだが「嗚咽」といっていいくらい涙を流した。
それはたぶん、僕も思い出を少しだけ共有しているからだろう。陳腐な言い方かもしれないがコバヤシとヤマジョーの「絆」を感じることができた。気の効いた言葉が見つからない。
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