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2025年8月

巣の上で(1)

8月29日(金)

入院してから2週間が経った。

医者の先生にさんざん言われたのは、

「ここはキュウセイキの病院です」

キュウセイキ?九世紀?

調べてみたら「急性期」の病院という意味だった。

僕は救急車に運ばれてこの病院にやってきたから、「急性期」の患者なのだそうだ。

この急性期は、病気が不安定な時期で、それ専用の病棟に入れられる。だから病気発症当初の、重い症状の患者が多い。

で、2週間経つと「慢性期」もしくは「回復期」と見なされて、急性期病棟を追い出される。これはどこの病院でも同じらしい。

たしかに2週間経った今は、病状の悪化の懸念がなくなり、リハビリのおかげもあり、以前だったら看護師さん3人がかりの補助がないとできなかったことが、一人でできることも少しずつ増えてきた。

そうするとどうなるかというと、次第に僕に対する扱いが雑になり、放っておかれるようになるのである。

考えてみれば当然のことだ。僕が2週間居るうちに、病状の重い患者が次々と運ばれてきて、反対にこっちは少しずつ回復に向かっているのだから、僕なんかにかまってはいられない。

だからできるだけナースコールを使わずに一人でできそうなことは一人ですることにした。

で、今日、急性期の病棟から、「退院や転院を待つための病棟」に引っ越しした。

今までとは打って変わって、建物が古い。病室も薄暗くて、独房の雰囲気を醸し出している。窓はあるのだが、眺めはあまりよくない。

でも転院先と転院日が決まるまで置いてもらっているのだから文句は言えない。粛々とリハビリに励むしかない。(つづく)

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書かねば逃げるぞ

I先輩の同窓会伝、大変楽しく読ませていただいております。

私はおそらく先輩方よりも何学年か下になるかとは思いますが、文中に登場したA先生、N先生、Y先生のことは鮮やかに記憶しており、忘れようもありません。

N先生初任時のキレッキレなエピソードは意外でしたが、ご専門の某国を探訪された際のこぼれ話など、人生で一番かと思うほど笑った思い出があります(ちなみに、同率一位で笑った思い出は、鬼瓦先生に引率していただいて行った関西への実習の際、某歴史上の場所で催された寸劇です)。

一年次から素晴らしく研究熱心でいらっしゃった先輩の足元にも及ばず、お恥ずかしい限りですが、せっかくなので私も鬼瓦先生とのファーストコンタクトの思い出を。

私が鬼瓦先生を訪ねたのは、入学してしばらく経ったころです。

学問というものは宇宙のごとく広く遠いもので、わずかな学生生活ではそのうちの1%も手中にできないのだなと痛感しながら卒業しましたが、当時はさらにその1%もわかっていませんでした。専門の話をしようにも、自分で情けなくなるほど低レベルなことしか言えず、大変恥ずかしかったことを覚えています。

その流れというわけではありませんが、出身校の話題になりました。私はてっきり、先生という方々はその学校の卒業生が多いのかなと思っていましたが、どうやら違うようです。「あのー、先生はどちらの大学を…?」と、アホ丸出しな質問をしてしまいました。すると鬼瓦先生、「〇〇大学です」とおっしゃるではありませんか(ブログをお読みの方でしたらおわかりかと思いますので、伏字にします)。

(えっ?〇〇大学?)

私は、その大学ご出身の方にお会いするのが初めてでしたので、固まってしまいました。どっひゃああ!す、すごい!と心の中で叫びましたが、そんな反応をするとますますアホがばれると思い、

「はあー、そうなんですかぁ」と頷くことで精いっぱいでした。

ただ、そのときもう一つすごいと思ったことがあります。

先生、略称である「〇大」と言わず、きちんと正式名称で「〇〇大学」とおっしゃったのです。

まるで、ぜんぜん一般的でない名前だけど、こういうところの者なんです、と言われたような感じでした。

それを、自慢でも謙遜でも、もちろんイヤミでもなく、まったくもって自然な調子でおっしゃいます。ひたすらフラット、と申しましょうか。そこには偏差値も見栄えも、どんな敷居も存在しませんでした。今にしてみれば、それは学問の…いえ、人としてのありかたにつながる非常に重要な態度だったのだと思います。

もちろん当時はそこまで考えが及んでいたわけではありませんが、この方はなんと素晴らしい人格者なのだ!と私は天啓に打たれた気持ちでした。この方が私の恩師になるのだと(勝手に)確信したものです。

その後、私は何人かの〇大生や卒業生が自己紹介する場面をテレビなどで見かけましたが、みなさん「〇大です」か「いちおう〇大です」と言っています。※ものすごく少ないサンプルです。

もちろんそれも愛着ですとか、さまざまな思いの表現の一つでもあるでしょうし、何となく「いちおう」と付けたくなる気持ちもものすごくわかります。

それでも、吹けば飛ぶような新入生相手に、きちんと正式名称で名乗ってくださった先生の分け隔てなさと誠実さを、私はずっと誇らしく思っています。

先生には、飲み会で恋バナをしたり、授業の合間にも人生や進路についての悩みを聞いていただいたりと、今思えば研究の邪魔にしかならない無礼千万なことばかりしてしまいましたが、いつも真剣に耳を傾けてくださって、感謝しかありません。

卒業時、私の色紙に書いてくださった言葉は、

「書かねば逃げるぞ」。

最後の挨拶に訪ねた際には、「書くことだけは、やめないでくださいね」とおっしゃっていただき、大泣きしてしまいました。

誰にも言っていなかったことなのですが、当時私は公募の文学賞で4回連続一次落ちの最中でした。就職のために帰った故郷で5回目の郵送をし、それも途中で落ちてしまいましたが、たまたま編集者から声がかかりました。もっともその後、今に至るまで七転八倒ならぬ千転万倒くらいすることになるのですが。

出会いの話のみならず、卒業のことまで書いてしまいました。

良き恩師、良き友に巡り会えた4年間は、私にとって人生の宝物です。そう言える学生生活であって本当に幸福でしたし、それがあるからたぶんいろいろなつらいことにも耐えられているような気もします。また戻りたいと、どうしようもなくせつなくなるときもありますが、青春とはそういうものでしょうか。

とりあえず、芋煮の季節が来るので今年も作ります。

追伸

数独は私もやったことがありません。が、友人に愛好者がいて、大学時代に部室で何時間もやっていたことが思い出されます。

私が昔嗜んだのは囲碁でして、高校時代に数合わせで同好会創設に駆り出され、卒業までの二年半やっていました。

最初は興味がなかったのですが、やりだすと意外とハマってしまい、授業中に先生が板書した文字列すら白と黒の碁石に見えてきたものです。

中毒性があることを知ったので、仕事が詰まっているときは絶対に手を出さないようにしていますが、妊娠中につわりで死にそうだったとき、気を紛らわすために無心で囲碁アプリをやっていました。そういう意味では命の恩人です。

〔付記〕

卒業生のOさんからの投稿でした。

例によって憶えていないことが多い。「書かねば逃げるぞ」なんていういい言葉、書いたっけ?今となってはまるで自分に向けて書いた言葉のようだ。

関西の実習先の歴史的な場所で即興の寸劇をしたことはよく憶えています。後にも先にも、あの時だけだったんじゃないかなあ。

卒業の時に、「書くことだけは、やめないでくださいね」と言ったことは鮮明に憶えています。

そして卒業から十数年後、Oさんの住む北の町で仕事があったとき、再会することになる。今度はプロの小説家として。

「北の町の再会」

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2023/02/post-d3b817.html

「1年ぶりの再会」

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-2a57f0.html

「北の町の再会·夏褊」

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2024/07/post-ebdb2e.html

「イベント2日目·再会のための旅」

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2025/02/post-0bd180.html

今や僕はOさんの小説の一読者であり、新作を待ち焦がれる一ファンである。

人生とは、伏線が回収されるもの。なんとつじつまの合う物語だろう。

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幸福な連鎖

病室の引っ越しのことを書こうと思ったが、予定を変更して別の話題を書くことにする。

高校時代の親友·コバヤシから、またもやメールが来た。

「今日も腐れ縁の副社長Mさんに誘われて飲みに行き、あーでも無いこーでも無いと酔っ払って話した後、家に帰り貴君のブログを読むと、また新たな教え子が寄稿してくれているではないですか!

おかげ様で、私も貴君のおこぼれ頂戴で、暫し幸福な一時を味合わせて貰いました。

何度でもしつこく書きますが、これもやはり貴君が書き続けているからです。貴君が書き続けていることで幸福な連鎖が起こっている訳です。」

「新たな教え子の寄稿」とは、Sさんのメールのことである。

幸福な連鎖、とはありがたい言葉だ。本当にそうなのか、半信半疑ではあるが、「私も貴君のおこぼれ頂戴で、暫し幸福な一時を味合わせて貰いました」と書いているから、少なくともコバヤシには連鎖したのだろう。

「サイレントダマラー」という言葉を考えてみた。短いメッセージの中でダマラー(このブログの読者)であることを伝えてもらったり、ちょっとした感想をもらったりすることがあり、飽きずに見守ってくれていることは本当にありがたい。このたび入院した時にいちど投稿を呼びかけたが、本当は読んでもらうだけでありがたいのだ。それが幸福な連鎖につながっていることを意味するのかは、はなはだ自信がない。

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ナンプレの話

8月26日(火)

言語療法リハビリは、やり尽くしたみたいだ。言語聴覚士さんの繰り出すさまざまな課題を僕が次々とクリアするものだから、もはやネタが尽きたようだ。

さて今日は、と身構えて待っていると、

「今日は数独をやります」

と言われた。

「スウドク?」

「ナンプレとも言います。ご存知ですか?」

「いえ、まったく知りません」

数独のルールを説明するのはめんどうくさい。みなさんは当然ルールを知ってるよね。念のためネットに転がってたルールを引用すると、

1.まだ数字の入っていないマスに1から9までの数字のどれかを1つずつ入れましょう。0(ゼロ)は使いません。

2.タテ列(9列あります)、ヨコ列(9列あります)、太線で囲まれた3×3のブロック(9つあります)どれにも、1から9までの数字を重複しないように1つずつ入るようにします。

…ということである。

「では始めます。よろしいですか?」

よろしいもなにも、初めてのことなのでルールを飲み込むまでに時間がかかる。

「これ、時間制限はあるんですか?」

今まで、何の課題をやるにしても言語聴覚士さんが常にストップウォッチを持っていたので、すっかり「時間制限恐怖症」に陥っていたのだ。

「いえ、時間制限はありません。じっくりと考えていただいて結構です」

これで安心して取り組める。

やっていくうちにだんだんコツがつかめてきて、数字を矛盾なく埋めることができた。

「できました」

答え合わせをすると、全問正解だった。ビギナーズラックというヤツである。

「パズルはお得意ですか?」

「いえ、まったく得意ではありません。どちらかといえば、これまでパズルを避けてきたクチです」

「そうは思えませんねえ」

本当なんだから仕方がない。パズルとかカードゲームとかトランプとか将棋とか囲碁とかオセロとか麻雀とか、そういうものをやらずに済ますように生きてきたのだ。

しかしこの年齢になって数独デビューした。

このことを妻に話したら「信じられへん」という顔をした。妻は私と正反対で、パズルとみるとやりたくなる性分なのだ。

数独(あるいはナンプレ)って、みんなが知っているような常識的なゲームなの?そこを問いたい。

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ふらりと訪ねる

いま、卒業生のI君の投稿が連載中だが、同期の卒業生のSさんからメールをいただいたので、本人の許可を得て、抜粋し、固有名詞を特定しないなどの改変を加えて、紹介する。

「鬼瓦先生

I君より、同窓会の報告が届いているかと思いますが、当日先生からメッセージをいただけてとても嬉しかったです!

それもあり、久しぶりに先生のブログにおじゃまさせていただいたところ、入院されていると知りました。

ご連絡するのも億劫に感じさせてしまうかしらとメールを控えていようかと思っていたのですが、I君めちゃくちゃ原稿送ってんな!?(笑)となったので私もメールをお送りしようと思った次第です。

2年前かな?先生に職場にいらしていただいた際には、短い時間でしたが色々とお話ができてとても嬉しかったです。

あの頃、ちょっと行き詰っていまして、仕事を続けるかどうか……というメンタルでいましたので、先生とお話して、色々と初心に戻れた部分がありました。

今は別の職場に異動となりましたが、元気に楽しく仕事をしております。

それから、いつか先生を講師としてお呼びできるような企画を立てる!というのを野望に仕事をしていますので、先生の体調が落ち着いてこられた暁には、ぜひともご講演をしていただきたいなあと思っております!

そのためにも私ももっと色々なことを勉強してより良い企画を考えていかなければ!!

あれこれ企画を平行して考えなければいけない時なんかは、先生が卒論を書く時に「文章に行き詰まったらその間に参考文献とかの整理をして事務的なことをやると良いよ」と言っていたのを思い出して、一度企画を寝かせて他のことをしてから練り直しをしたりしています。

私がメールを送りたい!と思っただけですので、お返事はお気になさらないでくださいね。

かわりに、先生のブログの更新を楽しみにしております!

またそのうち近況などメールさせてください!」

僕は、卒業生の職場や勤務地などにふらりと訪ねたりするのが好きだった。もっとも、わざわざ会いに行くというわけではなく、その地で仕事があったついでの時に限られる。もちろん空振りの時もある。

たいていの卒業生は驚く。そりゃそうだ。だってふらりと訪ねるんだもん。

Sさんの場合は、受付で呼び出してもらうという、いわば予告なしに訪ねたので、さぞびっくりしたことだろう。

訪ねたはいいが、あらかじめ話す内容を決めるわけではなく、たんに話を聞くだけである。別に何らかのアドバイスをするわけでもない。

話してもらっているうちに、結局は自分自身が答えを見つけるのである。

各世代の卒業生がそういう人ばかりだったので、僕自身は本当に楽だった。

ただ、

「文章に行き詰まったらその間に参考文献とかの整理をして事務的なことをやると良いよ」

というアドバイスをしたことは明確に覚えている。何気なく言った言葉だが、いまも覚えていてくれているのは嬉しい。

だから、ちょっとした言葉であっても、それを発することは責任重大なのだ。文章もまた、同じである。

メールに書かれていることが本当に実現するかはわからないが、いまの僕には病気を早く回復させるためのモチベーションを上げる役割をはたしている。

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壮大なサプライズ

先日、このブログで夏目漱石の「硝子戸の中」を取り上げた。私のブログに似ていると、友人が薦めてくれた漱石の随筆である。

その記事をアップした日に、病室に僕宛ての郵便物が届いた。

見ると、「硝子戸の中」を薦めてくれた友人からである。

こんな偶然ってある???

というか、僕が入院している病院がなぜわかったのだろう???

たしか誰にも教えていないはずである。その友人にも教えた記憶がない。

宛先の住所欄に「○○病院気付」とあった。今まで数々の入院を経験しているが、病院に直接郵便物が届いたことはない。でも「○○病院気付」で届くもんなんだね。驚くと同時に、なるほどこの手があったかと、思わず爆笑してしまった。

中身を開けてみると、1冊の文庫本が入っていた。その文庫本を買った書店のブックカバーもついていて、僕の高校時代の思い出のM書店のものだった。

文庫本には1枚の絵はがきがはさまっていた。

「ブログに掲載の写真を眺めながらこれを書いています。○○の山並みと木々の緑は、いつも変わらず深く穏やかですね」

…ちょっと待てよ。ひょっとしてブログに掲載した写真だけで病院名を推理したのか???

「土地と景色に合いそうな本を一冊を差し入れます。既に読んだ本かも知れませんが、暇つぶしになれば幸いです」

たしかにこの土地と景色にこれ以上にないふさわしさをもつ文庫本である。しかも僕はまだこの本を読んだことがない。初めて読む本なので、新鮮な気持ちでこの本と対峙できる。

その文庫本の書名は、堀辰雄『大和路·信濃路』(新潮文庫)である。

なんとも壮大なサプライズである。というか友人のAさんはいつも壮大なサプライズを仕掛けてくる。

…と、ここまで書いたら、文庫本拝受のお礼を友人のAさんにメールした、その返信が届いていた。

「病院名を言った覚えがないとは、ずいぶんなご挨拶だねワトスン君。あんな写真を投稿したら、少なくとも僕にとっては『デーリー・テレグラフ』に広告を打つのと同じだということは、他ならぬ君なら先刻ご存知だろう。もうずいぶん長い付き合いなのだから、僕が物事をどのように観察しているかよく知っているはずだ」

で始まる返信は、シャーロック·ホームズそのままの口調だった。そういえばシャーロック·ホームズのテレビドラマのDVDも、以前に彼から病気見舞いで送ってくれたことがあった。メールの文面からは、そのドラマでシャーロック·ホームズの声を担当した露口茂の声が聞こえてきた。

壮大なサプライズは果てしなく続く。

〔追記〕

ブログにあげた写真を見直してみたら看板に答えが書いてあった。コメントで江戸川君も指摘していた。迂闊だった…。

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さるかに合戦

平日にはリハビリが1日に3回ある。理学療法リハビリ、作業療法リハビリ、言語療法リハビリの3種類である。それぞれ40分~1時間くらいかかる。

このうち言語療法リハビリとは、意識障害を発症した場合に回復につとめるリハビリで、脳トレとか発話についてのトレーニングをする。

不幸中の幸いにして、このたびの発症では意識障害も見られず、発話もとくに問題なかったのだが、念のためにということで、言語療法リハビリを受けている。

今年春の病気では、実は発話がうまくいかず、呂律がまわらない喋り方しかできなくなった。実家の母からは「音読の練習をしなさい」と毎日のように電話で諭されたのだが、僕は音読の練習をすることが怖かった。できない自分を認めたくなかった。だから長らく音読の練習をしなかった。

しかしそのうちに滑舌も戻るようになり、以前のように「聞き返される」ということもなくなった。

ようやく滑舌が戻ってきたという矢先、このたびの発症となってしまったのだが、心配していた意識障害や発話障害もなく、いまに至っている。

なので言語療法リハビリのテストでは、健常者とほぼ変わらない成績である。発話も、若干声が出しにくいことはあっても、聞き返されることはない。もともと論理的な人間なので、理路整然と、ユーモアを交えながら話すことが苦手ではないのだ。

「では、昔ばなしを読んでみましょうか」

言語療法士さんに不意に言われた。言語療法士さんは1冊の本を取り出し、

「この中から、好きな昔ばなしを1つ選んで音読してみてください」

見ると、一寸法師やら花咲かじいさんやら金太郎やらと、みんなが知っているような日本の昔ばなしが並んでいる。

「どれにしますか?」

「じゃあこれにします」

僕は「さるかに合戦」を選んだ。

本の該当ページを開き、初見で、しかも情感を込めて、ゆっくりと読み始めた。久しぶりの音読だ。あれだけ怖かった音読の練習が、今は読んでいるうちに楽しくなってきた。

読み終わって、言語療法士さんが言った。

「…残酷な物語ですね」

僕がこの昔ばなしを選んだのは、まさにその点だった。かにもさるも両方とも死んでしまう。つまり救いのない物語なのだ。そういう話こそ、音読する価値があると考えたのだ。

あまりに楽しくて、昔ばなしを音読するYouTubeチャンネルを立ち上げようかと考えたが、考えたらむかしTBS テレビ(毎日放送制作)で「まんが日本昔ばなし」という名作番組があったし、いまもNHK-Eテレで「おはなしのくに」という昔ばなしを語る番組があったと思うから、僕の出る幕ではない。自分の子どもに読み聞かせればいいだけの話か。

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「I、同窓会幹事引き受けるってよ」by I、第2章上

第二章上 師匠本紀

 十章構成になる予定の本企画、今後登場人物がまあまあ多くなる。そこで、本章は今後登場予定の鬼瓦先生以外の師匠&同期生を、「列伝」形式で列記していこうと思う(章題で「師匠本紀」などと記したのは、あくまでも洒落のようなもので、「本紀」だから年表風に記す、ということではない。基本的にどれも略伝・逸話語り風の記述となる)。

巻一 A老師本紀

 A先生は、私の所属したβ研究室の主任教授だった方である。私とA先生との「出会い」は、私の地元の県立図書館であった。そこに所蔵されていた『現代紳士録』(のようなもの)で、受験予定の大学の所属希望研究室の教授がA先生と後述のK先生であることを知った(まだネット検索が一般化する以前だったからこその検索方法である)。浪人決定直後で、まだ若く汚れを知らず、純粋無垢だった当時の私は、「進学したら、この先生方の下で卒業論文が書けるんだ!」と意気込んでいたものである。幸い、この目標は「半ば」達成されることになる

 翌年、浪人生活を何とか一年で終え、無事大学進学を果たした私は、とあるサークルに所属した。そこの先輩には偶然にもA先生の門下生がおり、A先生のお人柄を耳にする機会も多かった。話を聞くにつれ、いてもたってもいられなくなった私は、大学図書館でA先生の論文を集められるだけ集めて複写・通読し、質問事項をリスト化してからA先生の研究室の門を叩いた

 まだ学部一年生だった私の突来を、A先生は快く受け入れて下さった。裏話をすると、当時β研究室は大層不人気で、所属する生徒を獲得できていなかった。わざわざ研究室にまで顔を出した一年生を無碍にすることなどできなかったのである。

 A先生は、当時の私の両親とほぼ同年代ーー四十代半ばーーに見える風貌の紳士然とした方であった(後日判明したことであるが、実際、私の母と同い年であった)。先生は暖色系のバーバリーのベストかセーターを着こなしておられた(余談であるが、この数年後、A先生は今に至るまでトレードマークとなる口髭を蓄えることになる。これは、同期生たちの間で「A先生の口髭アリナシ論争」が勃発するほど話題を集めることになる)。私は生意気にも、集めた論文を読んでの感想を喋り散らし、これまた大変生意気にも、

「この一連の論文は連作であるように思うのですが、これらをまとめて一冊の本になさるご予定はないのでしょうか?」

などと言い放ってしまった。A先生は一瞬驚いた表情を浮かべた後、こうおっしゃられた。

「実は、数年後に一冊にまとめる予定はあるんですよ。もしかすると君に、その論文集の索引作りや校閲の一部を頼むことになるかもしれなませんね」

 A先生は数年後、予告どおり論文集を刊行することになるのだが、その論文集のあとがきには、校閲協力者として私の名前が記されることとなる。私の密やかな自慢である。

 A先生は放任主義の先生であった。少なくとも、生徒を自分の影響下に置きたがる、というタイプではなかった。例えば、私は本当に生意気な生徒だったから、A先生のゼミでのレジュメ発表時、参考文献として、A先生とはライバル関係にあたる研究者の論文・著書ばかり引用してみたことがある。A先生の見解に敢えて異論を唱えて、ひと搔きでいいから引っ掻き傷をつけてみたかったのだ。A先生は温容を崩さず、「なるほど、そういう解釈もあるかもしれないね」と呟き、異論も反論も受け止めてくださった。当時の私は肩透かしを食らったような気分になったものだが、今にして思えば、自由な発言を容認し、活発な議論をしやすい環境を作られていたのだろうと思う。「A先生は研究者である以上に教育者である」という評を、私は大学院進学後に知ることとなる。

 A先生は、私の卒業論文に大きな影響を与えたという存在ではなかった。研究したいと思うテーマが大きく異なっており、参考にしづらいと感じていたからだ。どこかで、A先生の存在を軽んずるような気分も、あるいはあったかもしれない。だが、大学院修了後、「教育に関係する職種」に就いてから、実はA先生の影響が大きかったことに気が付いた。敢えて異論を出してくるような生意気な生徒に接するとき、私は、知らず知らずのうちにA先生と同じ態度を取ることが多い。何故か自然とそうなってしまうのである。

ーーそうか、A先生はこうやって私を受け入れてくれていたのか。

 師匠の深慮遠謀に気付いたのは、実に十年後のことであった。全くもって歩みの遅い弟子である。お会いする機会が減ってからの方が、A先生を思い返す機会が増えていった。その後も不定期にはなってしまったが、研究室にお邪魔しては近況を報告していた。最後にお会いしたのは平成三十(2018)年三月のこと。還暦を過ぎたA先生は変わらずお元気なご様子であった。ただ、この年の一月に、A先生の恩師(私も大学院で謦咳に接したことのある老名誉教授)に当たられる方が急逝したということもあってか、どこか寂しげな表情でもあった。その後、令和三(2021)年三月に定年退職。コロナ禍の真っ只中ということもあり、お祝いの会を開いて差し上げることも叶わなかった。私の地元の日本酒をお贈りするのが精一杯のことであったが、それでも先生は喜んでくださったようである。

 令和七年(2025)年現在、A先生は同大学の名誉教授として、今も時折教壇に立っておられる。そして、今年の下半期にはいよいよ古稀を迎えられる。

巻二 Y老師本紀

 私が所属していたコースは、鬼瓦先生が担当するα研究室、A先生・K先生・N先生が担当し私が所属していたβ研究室、そして、Y先生が担当していたγ研究室の三研究室から構成されていた。

 私はβ研究室の所属ではあったが、α研究室の鬼瓦先生のところに頻繁に出入りしていたというのは既述の通りであるが、当時のα・β・γ三研究室に大きな垣根はなく、理論上はどの研究室のゼミに参加することも可能であった。ただ、ゼミの時間帯が重なっていることが多く、現実問題として受講することは難しかった。が、α・β・γのいずれのジャンルにも興味関心があった私は、暇を見つけては担当教授の部屋に足を運んだ。鬼瓦先生と並んで、私が頻繁に出入りしていたのが、γ研究室のY先生のところであった。

 Y先生は痩身に口髭を生やしたシャープな風貌の持ち主で、一見すると冷徹な官僚のようにも見えた。一対一で話してみると、柔和な口調に温容を湛えて接してくださる。が、不正や誤魔化しを嫌い、だらしのない生徒には時に峻厳な態度で接しておられた。

 私は、よく研究室にお邪魔してはY先生の蔵書をお借りしていたのだが、ある時、「どうしてそんなに直接は関係のない本ばっかり借りていくの?」と尋ねられたことがある。当時の私はK先生の影響でα・β・γ三ジャンルの比較検討の真似事をしていたので、そのことを正直に申し上げた。すると、面白がってくださったY先生は、「じゃあさ、その比較した成果を時々でいいから話して聴かせてよ」とおっしゃられた。内心、「か、課題が増えた……」とは思ったが、面白そうだとも思った私は、時折レジュメ(の、ようなもの)を持参して、一対一の講読ゼミ(オーバー)の如き時間を過ごすようになった。

 一度、Y先生には派手に叱責されたことがあった。学部の四年の秋口だったと記憶している。当時私たちが利用していた学生研究室は、学部棟の一階にあったのだが、土日になると自由な出入りが禁止されていた(大学院生以上の身分になると電子キーが貸与され、土日も自由に出入りができた)。私たち当時の学部生は、土日もここで勉強がしたかったので(紛れもない事実である。工具書が常備してあり、予習復習に最適な環境だったのである)、色々と策を弄した。金曜日の夜、誰かがそのまま徹夜して土曜日の朝まで学生研究室で過ごし(この役回りを担当したのが、主に私かHであった)、土曜日の午前中に別の学部生の誰かと交代するのである(出入口の自動ドアは、内側に人が立つとセンサーで開くようになっていた)。または、学生研究室が一階であることに着目し、金曜日の夜のうちに事前に学生研究室の窓の鍵を開けておき、土曜日の朝こっそり窓から侵入して利用するのである。

 これが問題になった。ある週末、Y先生が学生研究室に顔を出し、「土日の学生研究室の使用を制限しようと思う。あんまり勝手なことをしないように」とおっしゃった。表面上、「判りました」と答えつつ、当時の私は心で舌を出していた。

 翌日(土曜日)、私はいつもどおり、あらかじめ鍵を開けておいた学生研究室の窓を開け、窓枠に足をかけた。そのまま研究室に降り立った瞬間、向かいのドアが開いた。そこには、沈痛な表情を浮かべたY先生の姿があった。絶句して立ち竦む私に、Y先生は厳しい口調でこう言い放った。

「Iくん、僕は君を誤解していたよ。君は、規則も守れない男だったんだな? 今日はもう帰りなさい! そして月曜日、僕の研究室に顔を出して。少し話そう」

 有無を言わさぬ口調とはこのことであった。私は、入室したばかりの研究室からすごすごと退散せざるを得なかった。幸い、Y先生に対する怨み辛みはなかった。「自分が調子に乗っていたのだ」と自省するばかりであった。

 ……翌日、重い足取りでY研究室の門扉を叩く。Y先生は「ああ、来たね」とだけ呟くと、少し濃いめの珈琲を煎れてくださった。Y先生は、私の言い分を聞き終えると、珈琲の湯気に口髭を燻らせながら、静かに口を開かれた。

「やっぱり窓から入るなんて許されない。もしどうしても土日も研究室を利用したいのなら、私かA先生に事前に連絡しなさい。それから、金曜日徹夜して研究室に居残るっていうのも、セキュリティを考えると決して褒められたものじゃないな。やるなとまでは言わない。が、あまり頻繁にはやらないでくれ」

 耳朶と口内に苦味の残ったこの一件があって以降、毎週末になると、私はA or Y研究室に顔を出し、「明日は○○時になると思います。開けて頂けないでしょうか?」と許可をもらってから学生研究室を利用するようになった。ごく稀に、「なんなら昼飯でも食べに行こうか?」とお誘い頂くこともあった。叱られたはずなのに却って親睦が深まった出来事であった。卒業後も何度かY先生とお会いしているが、このときの件が話題に上ると決まって、「怒鳴りつけたりして、僕も若かったなあ」と苦笑いされる。

 そんなY先生は一昨年、定年退職を迎えられた。Y先生とは、実は他にも「重め」の逸話があるのだが、それはまた別章で語ることとしよう。

巻三 K老師本紀

 私の直接的な「師匠」と呼び得る人が、K先生(と、後述のN先生)である。当時のK先生は、β研究室の若手研究者であった。年齢は鬼瓦先生と同い年(どちらかが早生まれだったはず)。お二人は大学の同門であり、旧知の仲であった(正確な情報は失念してしまったので間違っているかもしれないが、確か、K先生の方が入学年度が一年早かったが、気が付いたら鬼瓦先生と同じ学年になっており、さらに気が付いたら鬼瓦先生に追い抜かれ、就職でも先を越されてしまったのだが、いつの間にか同じ大学の姉妹研究室の若手講師として轡を並べることになった、らしい)。

 私がK先生と出会ったのは、A先生の研究室の門扉を叩いた直後だったと記憶している。A先生に、「こんな研究がしたいんです」と話したところ、「ああ、だったらK先生の方が近い研究をしているから、一度話を聞いてもらったらいいですよ」と、アドバイス頂いたのである。

 私は勇躍してK研究室のドアをノックしたのだが、灯りは点いているものの不在であった(こういうことがよくあった)。それが運悪く三日続いた。一般教養の授業を受ける以外暇を持て余していた私は、K先生が戻ってくるまで、研究室の前で待つことにした。

 待つこと十数分。無駄に図体のでかい私よりも小柄な、三十代半ばの男性が近付いてきた。
「……あのう、なにかご用ですか?」

 呼び掛けのことば自体は一般的なものであったが、一般的でなかったのは、その風貌と声であった。風貌は、誤解を恐れずに表現すれば、「さる高貴な血筋の人」を少し圧縮して前後に潰したような、声は、想定していたよりも遥かに甲高いものであった。私は、多くの人に勝手に渾名をつける悪癖があるのだが、このときもそれが発動してしまう。以来、私はK先生のことを心の中では「殿下」、七年前からは「陛下」とお呼びしている(無論、直にそう言ったことは一度もないが、ご自分でも自覚のあったK先生は、柏原芳恵の逸話の時同様ご自身でネタにしておられた)。

 殿下、もとい、K先生に声をかけられた私は、「A先生に言われてお邪魔しました」と伝え、研究室に入室することに成功した。が、足を踏み入れた瞬間、衝撃を受けることになる。そこには、うず高く積み上げられた人文科学関連の書籍の小山が出来ていたからである。

「ああ、汚いところで申し訳ないねえ。その椅子の上の本をどかしてもらってもいいかな? そしたらそこにお座りください」

そう言われて手に取った本は、金欠の私にはなかなか手が出ない、箱入りハードカバーの学術文庫のかたまりであった。思わず、タイトルを読み上げ陶然としている、

「ん? 読みたい? 貸してあげてもいいよ? 僕もまだ読んでないけど」

「よ、よろしいんですか?」

「だって、机の上、こんなだよ? 当分そこには行き着かないからねえ」

 完全にK先生のペースであったが、気を取り直してひとまず着席すると、簡単に自己紹介し、「こんな研究がしたいんです」という一連の話をぶちあげた。すると、

「……ああ、じゃあ、T川先生とK勝先生の論文は読んでるのかな?」

「はい」

「それじゃあ……K本先生とK添先生とM崎先生は?」

「はい、それも読んでます」

「あ、判りました。じゃあねえ……これを貸してあげよう」

 K先生は無造作にファイルの束を取り出すと、私が見たことのない研究者の論文を四~五本取り出した。

「これとこれとこれは参考になるんじゃないかな? あと、これとこれはそれに対する反論の論文ね。あとはねえ……」

 呆気に取られている私を尻目に、K先生は蔵書と論文をどんどん取り出していかれた。

「……大体こんなものかな? これが、君がやりたいことの先行研究。好きにコピーしていいから。さすがに全部ではないから、残りは自力で見つけてね」

「ちょ、ちょっと待ってください! ひとつお訊きしたいんですが、K先生も私と同じテーマの研究をなさるおつもりなんですか?」

「いや、そんなつもりはないよ」

「じゃあ、どうしてこんなに論文をお持ちなんでしょうか?」

「これは、まあ……趣味だね。なんか集めちゃうんだよ。で、こういうときに役立つ、と」

 ……趣味。絶句するしかなかった。そして、誰かにこういうことが言える人間になりたい、と思ってしまった。

 以来、私の人生は変わった。暇があると図書館に向かい、手当たり次第に本を読み、論文を集め、先行研究を整理する日々を送るようになったのである。これが無上に楽しかった。脳内に少しずつ先行研究が蓄積されていくことで、自分がどんな研究をしたいのかが整理されていく。体系化された学問を習得する悦びを実感できたように思う。

 そして、K先生は、先述のとおり各研究者個々人の経歴や研究内容にも大変精通しておられる方であった。研究史整理の達人だったのである(おそらくそれと連動して、研究者間のゴシップにもとてつもなく精通しておられた)。その影響は凄まじかった。私の卒論の四分の一は研究史整理に費やされているのだが、これは明らかにK先生の影響によって出来上がったものである。口頭試問の際、A先生から、「Iくんの卒論の出色なところは、この先行研究整理に尽きるね。K先生の直弟子の名に恥じないよ」と言っていただいた。

 ……だが、にもかかわらず、この口頭試問にK先生の姿はなかった。K先生は口頭試問の一年半前、東京の某大学に転任されてしまったからである。

 現在、K先生は都内某所の大学の副学長(!)を務めていらっしゃる。実は、K先生とは二年前に都内で再会を果たしているのだが、それはまたまた別章で語ることとしよう。

巻四 N老師本紀

「……なんかねえ、途中でいなくなるなんて、Iくんからしてみたら、詐欺に遭ったようなもんだよねえ。本当に申し訳ない」

と言いながら、芋煮を旨そうに頬張るK先生の姿を、私は生涯忘れないだろう。この日は、帰京してしまうK先生の送別会。幹事は私(そう、二十数年前も私は幹事をやっていたのである!)。大学キャンパスのあるY市名物の芋煮を研究室総出で作り、河原で食べているところであった。複雑な表情で傍らに座る私に、K先生が続ける。

「……でもね、Iくんにとっては、僕の転任はラッキーな出来事になるかもしれないよ。僕の口からはこれ以上詳しくは言えないんだけど、きっとそうなると思うから、気を落とさずに、ここまでやってきたことを継続してください。時々会いに来ますから」

 師匠に去られることの何がラッキーなんだろう? このときの私にはさっぱり判らなかった。

 K先生との別れから約一ヶ月後。K先生の後任講師としてN先生が着任した。N先生は弱冠二十八歳。私とはたったの六歳しか違わない。大学院出立ての超若手講師であった。

 N先生は小柄で童顔、老け顔の私などと並ぶとどちらが年上か判らないと言われるくらいの若々しさであった。正直、師匠というより、先輩、兄弟子というに近い。が、この小柄な兄(あん)ちゃんが、私の人生を再度変えることになる。

 N先生の専門は、実は、私の卒論テーマとかなり近しいものであった。異なるのは対象とする地域と時間。そして、私の卒論テーマに語学はほぼ不要だったが、N先生の研究テーマでは語学とフィールドワークが欠かせないものだった。実体験に基づく立論の仕方、他地域との差異を踏まえた上での比較検討……K先生から教わったアプローチ法とは異なるものの、私が欲していた先達そのものがN先生だったのである。K先生が「ラッキー」とおっしゃったあのなぞかけが解けた瞬間であった。こうして私の二人目の直接的な「師匠」となったのが、N先生であった。

 N先生は、複数の言語を習得したポリグロットであった。しかも、N先生のかつての所属大学にはその複数の言語を教えてくれる存在がおらず、ほぼ独学でマスターしてしまったという人である。とにかく自分に厳しい人であったから、当然、所属ゼミの生徒にも同様の態度で接してくる。

「……ふうん、I大先生はそうおっしゃるけれど、そんな風に考えた根拠はどこにあるの?」

 N先生のゼミでもっとも多用された一言は「根拠は?」の一言であったろう。自分なりの根拠に基づいた発言であっても、N先生が納得いかない根拠であった場合、やり直しを促される。A先生やK先生のそれとは全く異なるゼミの風景であった。

「先行研究整理にかまけて、やるべきことをやってないんじゃないの? 卒論を書いている今、Iくんがやるべきことは、まず論理の構築でしょ? 先行研究まとめもいいけれど、まず自分の考えをまとめてきなよ」

「そういうのは根拠って言わない。トートロジーの罠に陥ってる」

「本当に辞書を引いてきたの? そんなことが書いてある辞書があるなら、おれの前に持ってきてよ」

 学生研究室に戻ってから、同期生たちに、

「またNの兄ちゃんにボコされた! 次は絶対反撃してやる!」

などと悪態を吐いていた記憶ばかり甦る。怖かったし、疲れきりもした。だが、N先生とのやり取りは刺激に満ちていて、すこぶる楽しかったのである。そうやって完成した卒論は、巧拙は置いて、思い出深いものとなった。

 後年、N先生に謝罪されたことがある。

「あの時は初年度だったから、力加減が判らなかったんだよね(←やっぱりな!)。結構ハードな要求を突きつけてたかもしれない(←本当そうですよ!)。君らの後の年度生に同じ要求はできなかったよ(←つまり、うちらだけハードモードで戦わされてたんですね!)。いやあ、若気の至りってことで許してください(←……でも楽しかったんで、許します)」

 現在もN先生は我が母校で教壇に立っておられる。あの若かった兄ちゃんも遂に知命の年(=五十歳)。昔と変わっていないのだとしたら、日本と某国を行ったり来たりする生活をしているはずである。

 今、私は教壇に立って授業をする身だが、授業スタイルは、A先生とK先生とN先生のハイブリッドである。授業前の調べごとの仕方はK先生仕込み、授業時、必ず生徒に根拠を求めるのはN先生の流儀、そして、生意気な生徒の意見に耳を傾けるのはA先生のスタンス……。

 アーネスト・ヘミングウェイのことばになぞらえて言えば、「わたしをつくったもの」は先生方である。出来の悪い、不肖の弟子ではあろうけれども。だから、今現在の「私」という存在の製造責任者たるお歴々に、時折無性に会いたくなってしまうのはやむを得ざることだと思って頂きたい。(つづく)

〔付記〕

大学の研究室時代の僕の思い出はほとんどない。指導教授は仰ぎ見る存在で、お話をする機会などまったくなかった。

指導教授の還暦パーティーの時、並みいるお弟子さんたちの中で、当時最年少の弟子であった僕がなぜかスピーチをさせられ、

「先生は真夏の暑い盛りの巡見の時に、自動販売機で缶のコーラをお買いになり、美味しそうに飲んでおられました」

というエピソードを披露するのが精一杯であった。

まことに不肖な弟子である。

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めざせ漱石門下

「何があっても書き続けてください」と言われても、実際にそれを続けるのは難しい。左手で文字を入力するのは慣れてきたにしても、スマホでブログを書こうとすると、時折文字のポイントが不統一になるなどの誤作動が生じたりして、書式をととのえるのに時間がかかる。細かい話だが、それが若干ストレスになる。

 そんなことをつらつら考えていたら、このブログがお手本とすべき重要な作品があることを思い出した。

夏目漱石の随筆「硝子戸の中」である。

「硝子戸の中」については、かつてこのブログにも記したことがある。

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2021/09/post-656b20.html

そうそう、この作品を忘れてた。僕がめざしていたのはこれだった。

あらためて読んでみると、次の記述に目を引かれる。

「私がこうして書斎に坐っていると、来る人の多くが『もう御病気はすっかり御癒りですか』と尋ねてくれる。私は何度も同じ質問を受けながら、何度も返答に躊躇した。そうしてその極いつでも同じ言葉を繰くり返かえすようになった。それは『ええまあどうかこうか生きています』という変な挨拶に異ならなかった。

 どうかこうか生きている。――私はこの一句を久しい間使用した。しかし使用するごとに、何だか不穏当な心持がするので、自分でも実はやめられるならばと思って考えてみたが、私の健康状態を云い現わすべき適当な言葉は、他にどうしても見つからなかった。

 ある日T君が来たから、この話をして、癒なおったとも云えず、癒らないとも云えず、何と答えて好いか分らないと語ったら、T君はすぐ私にこんな返事をした。

『そりゃ癒ったとは云われませんね。そう時々再発するようじゃ。まあもとの病気の継続なんでしょ』

 この継続という言葉を聞いた時、私は好い事を教えられたような気がした。それから以後は、『どうかこうか生きています』という挨拶あいさつをやめて、『病気はまだ継続中です』と改ためた。そうしてその継続の意味を説明する場合には、必ず欧洲の大乱を引合ひきあいに出した。

『私はちょうど独乙ドイツが聯合軍と戦争をしているように、病気と戦争をしているのです。今こうやってあなたと対坐していられるのは、天下が太平になったからではないので、塹壕の中に這入って、病気と睨めっくらをしているからです。私の身体からだは乱世です。いつどんな変が起らないとも限りません』

 或人は私の説明を聞いて、面白そうにははと笑った。或人は黙っていた。また或人は気の毒らしい顔をした。

 客の帰ったあとで私はまた考えた。――継続中のものはおそらく私の病気ばかりではないだろう。私の説明を聞いて、笑談と思って笑う人、解らないで黙っている人、同情の念に駆かられて気の毒らしい顔をする人、――すべてこれらの人の心の奥には、私の知らない、また自分達さえ気のつかない、継続中のものがいくらでも潜んでいるのではなかろうか。もし彼らの胸に響くような大きな音で、それが一度に破裂したら、彼らははたしてどう思うだろう。彼らの記憶はその時もはや彼らに向って何物をも語らないだろう。過去の自覚はとくに消えてしまっているだろう。今と昔とまたその昔の間に何らの因果を認める事のできない彼らは、そういう結果に陥った時、何と自分を解釈して見る気だろう。所詮我々は自分で夢の間まに製造した爆裂弾を、思い思いに抱いだきながら、一人残らず、死という遠い所へ、談笑しつつ歩いて行くのではなかろうか。ただどんなものを抱だいているのか、他ひとも知らず自分も知らないので、仕合せなんだろう。

 私は私の病気が継続であるという事に気がついた時、欧洲の戦争もおそらくいつの世からかの継続だろうと考えた。けれども、それがどこからどう始まって、どう曲折して行くかの問題になると全く無知識なので、継続という言葉を解しない一般の人を、私はかえって羨しく思っている」

以上。

これは今の僕の気持ちをも表している。これからは「どうにかこうにか生きています」と言わずに「病気はまだ継続中です」と言おう。それでもなお根掘り葉掘り聞きたい者がいたら、世界で起こっている戦争のことを引き合いに出そう。そうすればそれ以上聞かれなくて済む。

先日このブログのお手本として紹介した『東京焼盡』の著者·内田百閒は夏目漱石の弟子だし、ひょっとしたらこのブログは漱石門下のお家芸の一つとして評価することができるのか?…んなこたーない。

ところで、それとなく本を薦めてくれる友人は僕にとってありがたい存在である。それがどんな本でもかまわない。最新の小説でも、エッセイでも、古い文学作品でも、推理小説でも、海外の小説でも、お笑いの本でも。面白そうだったらすぐに読むし、そうでなくても自分の頭の中のデータベースにストックしておいて、時機が来たら読む。

そういう「聞きかじりの読者体験」が好きだ。

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「I、同窓会幹事引き受けるってよ」byI、第1章

第一章 八年ぶりの同窓会企画

 私の「悪友」に「S田」という、かつての鬼瓦ゼミの門下生がいる。私がこの駄文を綴るにあたり、「煽り屋」として私のケツを蹴っ飛ばした人物である。『風の便りの吹きだまり』上では、お笑いコンビ・バナナマン好きの教え子として知られる、あのS田さんである。

私が知り合ったのが学部三年の頃だから、もうかれこれ四半世紀の付き合いになる。S田は、私の人生の転機に現れる人である。この二十数年間ずっとそうである。具体的には書けないことばかりなのだが、大小様々な出来事に彼女は密接な関わりを持っている。私の秘事のおそらく七~八割は知られてしまっている(ややぶっちゃけると、私の恋愛相談役は彼女である)。私の人生には、何故か昔から「頭の上がらぬ女性」というのが数多く登場するのだが、S田はその筆頭格である。そんな彼女のことを、私は畏敬の念を込めて「姐(ねえ)さん」と呼んでいる。「姉さん」でも「嫂さん」でもなく、「姐さん」である。他に呼びようがない。というわけで、以下、彼女のことは「姐さん」と呼ぶことにする。そんな姐さんから、「昨日、Hから連絡あったのよ、元気〜?って(笑)」というLINEをもらったのが、今年の三月上旬のことである。姐さんが「飲み会したいね」と伝えたところ、Hから「幹事よろしく~」という返事があったというのだ。

 H。彼も『風の便りの吹きだまり』に登場したことのある鬼瓦ゼミの門下生である。直近のネタでいくと、先月私の送ったメールを元にして鬼瓦先生の書かれた「同窓会」記事中で、昨年先生が退院した翌日に自分の授業方法について電話してきた、というのが、このHである。私とHは、「えらく疎遠な無二の親友」ということになっている。なにしろ、たまにメールのやり取りはするものの、この十数年ろくに顔を合わせたことがない。私は共通の友人たちとの間でHの話題が出ると、表面上は「あんにゃろう、ろくに連絡もよこしゃしねえ」と悪態を吐いているのだが、実は全く何とも思っていない。学部卒業直前、Hに言われた一言が、耳朶に残り続けているからである。

「おれ、卒業したら、おまえとはあんまり連絡とらねえ気がするんだよな。おまえとは何年連絡とってなかったとしても、会えば昨日別れた続きみてえに話せる気がするからさ」

私とHはそんな関係である(と、私が思い込んでいるだけかな・苦笑)。

実は前年にも姐さんや他の同期生との間でのとりとめもない雑談の中で、「またそろそろ同窓会やりたいねえ」などという話題が出てはいたのである。最後に開催したのが平成末期、つまりコロナ禍の前である。

――久々にやるかあ……。でも、結構大変なんだよなあ。

 何がしんどいって、日程調整である。仕事や家庭のある同期生全員に連絡を取って、調整をつける。場合によっては誰かに涙を呑んでもらう場合だって出てくる。同窓会の幹事役などというのは、労多くして功少ない「お仕事」なのである(私見)。

……読者の皆さんの中には、「だったら、他の誰かに任せればいいじゃないか。何故おまえがやろうとしてるんだ?」と思っておられる方もいらっしゃるだろうが、私が幹事役をやるというのは、この同期メンバー全員にとっては、ある種「既定路線」なのである。細かな要因はいくつかあるのだが、

➀私が同窓会幹事役をやるのは、もはや伝統と化している(なにしろ、二十年前からやっているのである)

②メンバー全員の連絡先と近況を把握していて、比較的密な連絡を取ることができる中継点役が私だけである(「I=同期メンバーのハブ空港」説)

➂「どうせ放っておいても、そのうちあいつがやるだろう」と皆に思われている(「I=歩く苦労性」説)

という三点に集約されるであろう。結局、この段階では明確な決断はできず、一旦保留、ということになった。

 姐さんとのやり取りから数ヶ月後、少々厄介な仕事を終えた私は、自宅でぼんやりとカレンダーを眺めていた。と、「2025」という数字を見ていて、ある事実に気付く。

――ん? もしかして、今年って大学卒業から丁度二十年なんじゃないか?

2004年度に母校を卒業、ということは、卒業式があったのは2005年の3月だったはずである。そうか、二十年経ったのか……と感慨に耽るようなことは実はしていない。世の中には「節目の年」というものがある、ということになっているが、私自身は「節目の年」とやらにさしてこだわりがあるわけでもない。ただ、社会人生活をしてきて、多くの人が「節目の年」という言葉に弱い、ということは判ってきた。これを惹句にすれば、同窓会の出席率は上がるのではなかろうか。

そして、ここから更に思考が高速回転する。今から約五年前、我が敬愛する恩師のひとり、A教授が定年退職を迎えた。この時期、私はコロナ禍と転職に伴う上京が重なってしまい、定年退職のお祝いをすることができなかった。慙愧の念に堪えなかった私は、日本酒一本を教授宛にお贈りしてお茶を濁してしまった。どうして会いに行かなかったのだろう? いや、当時は会いに行った方がかえって迷惑だったはずだ、と自分に言い聞かせ、あまり考えないようにして荷造りに勤しんだ記憶がある。あれからもう五年も経ったのか……ん? もしや、A先生、今年で古稀になられたんじゃないか? 同窓会にA先生をお呼びして、古稀のお祝いをして差し上げるというのはどうだろう? いやいや、いっそのこと同期生たちにとっての恩師全員にお声掛けしたらどうなるだろう? 同期生たちもこぞって出席したがり、近年稀にみる盛況っぷりとなるのではなかろうか?

……発想がやや歪んでいるかもしれない。だが、私はこういう思考法でものを考える生き物なのである。思い立ったが吉日という。スマホをフリック入力する指先の速度がいつになく速くなっていった。その日のうちに、同期生宛の文面を書き上げると、同期生たちにLINEまたはメールを送信する。続けざまに師匠五人宛のメール文面をしたため、幾人かの同期生に文面チェックをしてもらった上で送信する(それが、「同窓会」記事中に引用されたメールである)。

 前回から数えて実に八年ぶり。同窓会企画が走り出した。(つづく)

〔付記〕

僕は大学の研究室の同期が私を含めて5人しかいない。そのうちの2人は死んじゃった。

その中で唯一連絡がとれるのがサラリーマンのU君である。U君からは内田百閒の小説の面白さを教えてくれた。本人もそんな感じの人だった。

今年の春、指導教授だった先生の追悼行事が行われた。U君は僕が欠席しているのを不審に思い、周囲の人に病気だと聞き、逡巡した挙げ句に僕にお見舞いのメッセージをくれた。ありがたかった。いつか生き残った3人で同窓会をやろう。

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晴れの特異日と十三日の金曜日

内田百閒の『東京焼盡』(中公文庫)から小ネタを2つ。

「(1944年)十一月三日金曜日。明治以来お天気にきまった十一月三日の今日は雨なり」(16頁)

とある。今でも11月3日は晴れの特異日と言われているが、明治時代からずっと晴れの特異日と考えられていたのか。知ってました?

「四月十三日金曜日一夜(略)珍しい十三日の金曜日也」(135頁)

「13日の金曜日」って、戦前から知られていたんだね。てっきり1980年の映画『十三日の金曜日』以降にこの国に広まったのかと思い込んでいた。Wikipediaによると、

「1907年のトーマス・ウィリアム・ローソンの小説「13日の金曜日」は、この迷信を広めるために出版された可能性がある」

とあるから、この影響があるのかもしれないが、よくわからない。

知らないことが多すぎるね。

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高校野球決勝戦

8月23日(土)

テレビをまったく見ていない。だから世間で何が起こってるかわからない。

えっ?二階堂ふみとカズレーザーが結婚?!

そういう芸能ニュースは、今でもアンテナを張っている。

午前中、言語療法士さんに車椅子を押されてリハビリ室に移動していると、「デイルーム」と呼ばれる談話室みたいな部屋に、めずらしくおじさんたちがたむろしている。

不思議に思っていると、言語療法士さんが言った。

「今日は高校野球の決勝なんですよ。デイルームはタダでテレビが見られるからみんな集まっているんです」

「どことどこが対戦するんです?」

「西東京代表と沖縄代表です」

「そうですか…」

「高校野球に興味ありますか?」

「いえまったく。そもそも野球そのものに興味がありません」

昔だったら、自分にゆかりのある地域の代表が出ているんだからちったあ盛り上がるのだが、今は高校野球をまったく見ない。それどころか高校野球なんて廃止すればいいと思っている。

…口が悪いねどうも。何もそこまで言わなくたっていいのに。

なぜそう思うのかというと、戦後に消滅することなく、戦前から続いているスポーツイベントには、戦前からのメンタリティが色濃く残っているからである。

高校野球なんて、まるで軍隊みたいじゃないか。それに、大相撲もそうだか、男尊女卑が甚だしい。こんなスポーツイベントがいまだにはびこっていることは、この国の社会のあらゆる場面に影響が派生しており、ひいては社会の成熟度を下げているに等しい。

高校野球を主催している新聞社も、戦前からある企業だ。これも油断していると、かつてのようにいつの間にか戦争に加担してしまうメディアになるぞ!

…まあそう興奮するな、と自分を落ち着かせたいのたが、でもどこかでこのことを言っておかないと、自分もそれに加担してしまうことになるので、ここで言っておく。対外的には「興味がない」の一点張りで貫くつもりだ。

新聞社で思い出したが、いま読んでいる内田百閒の『東京焼盡』(中公文庫)に、次のような記述があった。

「考へて見るに、この頃は毎朝の新聞が面白い。特にB29に関する記事は本気で読んで、こちらへ来るか来ないかの判断をする。眼光紙背に徹するの概がある。ラヂオがこはれて聞かれぬ所為もあるが、新聞がつまらないと云っていた時分とは読む気持ちが違っている」(1945年3月28日、114頁)

新聞は元来つまらないものであるが、読みようによっては面白くなる、とは、現在の新聞に対する評価とさほど変わりないではないか。してみると新聞は、昔からずっと「オールドメディア」だったんだな。昔からずっと「近頃の若い者は」と言われているが如くである。

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何があっても書き続けてください

8月22日(金)

高校時代の親友·コバヤシからのメール。

「先程、貴君のブログ読みましたが、ついに教え子達が登場してきましたね。

これも貴君が教育者として長年頑張って来たこと、そして文章を書き続けたことの結果です。

貴君のブログを読んで、私のことでも無いのに、嬉しくて涙が出てしまいました。

だから、やっぱり何があっても書き続けてください。

ちゃんと見てくれる人は見てくれているのですから。」

友人を「学生時代の友人」と「社会人になってからの友人」に分けるとすれば、「友人」の意味するところがなんとなく異なる気がする。

「社会人になってからの友人」は、自分に刺激を与えてくれる友人である。理想は一緒に仕事がしたいと思わせる人。

「学生時代の友人」は、多少キザなことを言えば、我がことの如くに涙を流してくれる友人。広い意味で言うと、自分の分身のような人。

異論は認める。

僕にとって理想的だなと思う「学生時代の友人」は、コラムニストの小田嶋隆さんとCM プランナーの岡康道さん。二人は都立小石川高校時代の同級生。その関係についてはかつてこのブログにも書いたことがある。今となっては二人ともこの世にはいなくなってしまった。

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2020/12/post-40735d.html

小田嶋さんと岡さんとの関係は、まさに僕とコバヤシとの関係になぞらえられる。代筆する関係という意味で。…いちいちこんなことを説明するのは野暮な話だが。

さて、「何があっても書き続けてください」と言われた。

そんな僕がお手本にしようと思っているのは、いま読んでいる内田百閒の『東京焼盡』(中公文庫)である。

この本がめちゃくちゃ面白い。

1945年3月10日の東京大空襲を挟んで、1944年11月1日から敗戦後の1945年8月21日まで、内田百閒が毎日つけていた空襲日記である。

毎日のように空襲に怯えるという非常時にあっても、内田百閒の文学的感性で日記を書き続けた。その叙述は読んでいて飽くことがない。絶望的な状況であるにもかかわらず、である。

書き続けるヒントは、この本のなかにあるのではないかと思っている。

(左手と右手)

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なんでもドリフのコントにたとえてみる

いくつか前の記事で、「寝たまま入る風呂」のたとえに、ドリフの大爆笑の「もしもこんな銭湯があったら」のコントのようだと指摘した。

「人間洗濯機」というたとえでもよかったのかも知れないが、大阪万博に行っていないので、そもそも「人間洗濯機」がどういうものかわからない。やはりドリフの銭湯コントのほうがしっくりくる。

ここからは少々汚い話なのでイヤな人は読まないでください。

さて、私の病室は個室だが、扉は開け放たれていて、扉の代わりにカーテン1枚で遮られているていどである。だから廊下の声が丸聞こえである。

ある朝、おじいさんらしき人の声で、

「オェー、オェー、オェー」

と、何かを吐いているようなエヅキ声がする。

時間から考えて、朝食を吐いているんだなと容易に想像できた。

そのおじいさんは、食事のたびごとに、

「オェー、オェー、オェー」

と嘔吐をくりかえす。扉を開け放しているので丸聞こえである。

その声を聞いているうちに、あることに気づいた。

ドリフのコントで、おじいさんに扮した志村けんが、「オェー」とえづいている声とそっくりだ!

そう思ったらもう、そのおじいさんが志村けんに思えて仕方がない。

僕は、おじいさんに扮した志村けんが「オェー」と言っている姿を想像して急に可笑しくなり、思わず声に出して爆笑しそうになった。しかし個室の扉は開け放たれているので、声に出して笑うわけにはいかない。

ご本人にとっては深刻な問題なので、それを笑うことは不謹慎なのだが、ご本人が真剣であればあるほど、よけいに笑いがこみ上げてくる。毎食後、かなりの確率で「オェー」を言うので、そのたびに笑いを堪えていた。そのうちに、そのことを思い出すだけで笑いがこみ上げてきて、その笑いを抑えるたびに涙が止まらなくなった。笑いのツボにハマったというヤツである。

極めつけは、ある日の朝、看護師さんが吐瀉物の掃除をしたときに口にしたセリフ。

「○○さんの吐瀉物のなかに入れ歯が混ざっていました」

これには堪えきれず思わず吹き出してしまった。朝食の牛乳を飲んでいるときでなくてよかった。

おそらく吐瀉物と一緒に入れ歯を吐き出してしまったんだろうね。ピョーンと。

向こう半年くらいは思い出し笑いができる一連の出来事だった。

それがあーた、カーテン1枚を隔てた廊下からすべて聞こえてきたんですからね。音や声だけで想像するとよけいに可笑しい。

僕の病室の前の廊下でおじいさんと看護師さんが立ち話している感じは、本当に志村けんが喋っているような口調だ。その話し相手になっている看護師さんのあしらい方もたまらなく可笑しく、「もう笑かすのやめて!!」と叫びたくなった。

やはりドリフは偉大だ。病院を一瞬でコント会場に変えてしまうのだから。

(左手)

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【鬼瓦先生の無聊を慰めるための緊急投稿企画】

今、私が先生のためにできることは何だろうか、と考えた結果が、以下の駄文です。ご笑覧頂ければ幸いです。

*********************

「I、同窓会幹事引き受けるってよ」

序 章 鬼瓦先生と私

「ブログの代理執筆を希望される方は、完全原稿でお送りください。送信方法は問いません。体調が良ければ掲載します」

 ↑↑↑この一文を発見・一読したとき、「あ、書きたい。でも無理」という願望と逡巡とが綯い交ぜになった感情に囚われた。その直後、「悪友」のS田に、「Iくん、鬼瓦ブログ参戦しなよ!」と煽られてしまう。「いや、来週から仕事だし……」となおも躊躇しつつ、でも「これを書くのはおまえの義務だ」と内なる自分が囁いてくる。そんな肥大化した自己顕示欲と、「顕示欲なぞ押し潰してしまえ!」とのたまうもう一人の内なる自分とが鬩ぎ合う。

 ……まあ、実はそこまで大袈裟なものでもないのだが、些かの葛藤を経た上で、今私は、この駄文を綴っているのである。

 「風の便りの吹きだまり」の読者の皆様、こんにちは、鬼瓦先生の予備門下生No.001(?)のIと申します。「予備」などという殊更な留保がつくのは、鬼瓦ゼミに参加したことはないものの、鬼瓦先生の講義と「課外授業」には頻度高く出席し、多大なる影響を蒙ったからである。

 鬼瓦先生との出会いは、私が学部二年になった年の九月上旬のこと。先生は、集中講義という形で私たちの眼前に立ち現れた。当時鬼瓦先生は、私たちの通う学部の新任講師として着任したばかりであった。

 その連続講義の三コマ目のこと(だったはず)、鬼瓦先生は昼食を取り終えた直後の私たに、何気なく「爆雷」を投下した。

「宇多田ヒカルが、結婚しましたね」

 ざわめきひとつ起こらない。芸能ゴシップ好きの私は、実は大笑いしそうになったのだが、つい周囲の様子を見て、ノーリアクションを貫いてしまった。周囲の受講生たちが何とも言えない顔で俯いている。嗚呼、気の毒に。着任早々外しちゃったよ、この先生……。でもこの瞬間、私のスタンスは決定した。

ーーよし、この先生に付いていこう。

 実は私は、所属研究室の担当講師のK先生から、旧知である鬼瓦先生についての「レクチャー」を受けていたのである。K先生曰く、「ん~、僕の講義を聴いて面白いと思える感性を持っているんなら、きっと彼の講義も楽しく受けられるんじゃないかなあ」とのことであった。何を隠そうK先生も芸能ゴシップまみれ(妄言多謝)の講義を全面展開するタイプの先生であったから、鬼瓦先生の一言から、「あ、同じ界隈の先生だ!」という親近感が発生したのは間違いない。

 以来私は事あるごとに鬼瓦先生の研究室を訪問し、先生が専門とする領域に関する疑問をぶつけまくった。私が専攻する領域と鬼瓦先生が専門とする領域が重なりあう部分についての質問が多かったと記憶している。鬼瓦ゼミに参加しているわけでもない、全くの門外漢の青二才が口にすることにも、鬼瓦先生は大変熱心に耳を傾け、快く蔵書や論文をお貸し下さった。

 とある宴席でのことである。店で流れていた歌謡曲を耳にした鬼瓦先生が、「おっ、懐かしい、柏原芳恵ですねえ」と口にすると、K先生がすかさず、「僕に顔立ちの似ている『さる高貴なお方』が、彼女の大ファンなんだよねえ」と呟き、私と鬼瓦先生は大爆笑、なんて一幕もあった。

 そうやって親交を深めて(?)きた私と鬼瓦先生であるが、私が学部を卒業してからもささやかながら交流を保ち続けることとなる。鬼瓦先生が韓国に留学なさる直前、とある地方都市で送別会が営まれたのだが、私もぬるっと参加している。その後も時折研究室に顔を出したり、既出のS田の結婚式場で顔を合わせたり……(実は、「風の便りの吹きだまり」にも一度ゲスト出演(?)を果たしている)。

 そんな鬼瓦先生と最後にお会いしたのは、平成二十四(2012)年四月のことだったと記憶している。この時期、私は失意のどん底にいた。前年の東日本大震災直後に離職し、精神的にも金銭的にも不安定。やるせない気持ちを吐き出す場が欲しかった私は、鬼瓦先生につい愚痴をこぼしてしまったのだ。先生は慰めの言葉など発さず、黙って私の繰り言に耳を傾けてくださった。今にして思う。あの日あの時あの場所で、鬼瓦先生にお会いしていなかったら、自分は何か良からぬことをしでかしていたのではなかったか、と。この日以降も数年間、私は変わらず腐ってはいたのだが、誰かに過度に愚痴をこぼすということだけはしなくなっていた。

 幸い、離職の数年前、鬼瓦先生から直接「風の便りの吹きだまり」の存在を教えて頂いていた。鬼瓦先生のインナースペースとその周辺で繰り広げられる喜怒哀楽の数々に、当時の私は幾度救われたかしれない。「風の便りの吹きだまり」の中で語られるのは、平凡でちっぽけな、それでいて実り豊かな「人間賛歌」である(と私は思っている)。鬼瓦先生は記事の中で、時折ご自身の感情を剥き出しになされる。読者はそれを読むことで同種の感情を刺激され、追体験することになる。それが読者に何とも形容しがたい心地良さを与えているのではないだろうか。

 数年後、再就職して生活基盤を再建することに成功した私は、また鬼瓦先生の元へ足を運ぼうと思い立ったのだが、先生は既にかつての我が学び舎を離れ、現職に就いておられた。いつか会いに行こう、会いに行こうと思いながら、長年果たせずにいたところに、今度はコロナ禍がやってきてしまった。何ともままならぬものである。

 その後、私自身の状況も転変する。再度転職し、己でも予想外に上京することとなったのである。鬼瓦先生の現勤務地に大幅に近づいたものの、引き続きのコロナ禍ということもあり、なおもお会いすることができずに歳月が過ぎさった。

 ……そんな中、「とある企画」が立ち上がることとなったのである。(つづく)

*********************

以下、投稿予定記事章題

第一章 八年ぶりの同窓会企画

第二章 師匠本紀・同期生列伝

第三章 二十年越しの和解

第四章 言い出しっぺたちの欠場

第五章 やる気を出す末っ娘

第六章 幕間狂言 ~福井珍道中記~

第七章 0次会(という名の身の上相談会)

第八章 一次会前編(近況報告会&ある罪の告白)

第九章 一次会後編(A先生の古稀を祝う会)

第十章 二次会(ヲタトークと学会動向の狭間で)

終 章

〔付記〕

朝起きたら、前の職場の卒業生のI君から、先日の同窓会の時の大量の写真と、I君の熱のこもった原稿が送られてきて、それを読みとても感動した。というか熱量高すぎるだろ!(笑)

彼らが2年生の時の9月に新人教員として最初の授業を担当したことはよく憶えている。そして授業中、こちらをロックオンして熱心に私の話を聞いていたI君の表情も。

しかしそれ以外、ここに書かれていることはほとんど憶えていない。(笑)。さしてファンでもない宇多田ヒカルとか柏原芳恵の話なんてしたっけ?(笑)

人間の記憶というのはかくも面白い。自分という存在は自分の記憶だけで存立し得るものではない。周りの人たちの記憶があってはじめて、自分という存在が形作られるのだ、ということをこの文章は教えてくれる。

「『風の便りの吹きだまり』の中で語られるのは、平凡でちっぽけな、それでいて実り豊かな「人間賛歌」である」

という言葉、まさに僕もそれが言いたかった。本にするときは帯文にします(笑)

ちなみに本文に登場するS田さんの結婚式についての記事がこちら。

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/2-6b02.html

さあ、これでI君が先陣をきってくれました。よろしければみなさんもどしどしお寄せください。I君も続きを期待しております。

気恥ずかしいので次回はくだらない記事を書きます。

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書き続けてください

以前病気になったとき、長く療養が続いたのだが、ある人が僕を励ますつもりで、「明日は今日よりもきっとよくなっている」「自暴自棄にならずに前向きに考えよう」などとアドバイスしてきて、ちょっとカチンときた。

あのねえ。僕は数々の病気を経験してきて、そのたびに入院して、入院した当初は自分の人生の行く末に絶望して、しばらくしたら立ち直って…を何度も繰り返してるわけ。そんな僕によくそんなアドバイスができたな。ま、カチンときた僕の了見が狭いんだろうけど。

余談だが、大林宣彦監督は『麗猫伝説』というテレビ映画のなかで、コメディアンの内藤陳さんに、

「悲しみも、惰性になってきたなぁ」

という台詞を言わせている。それに倣えば、

「絶望も、惰性になってきたなぁ」

というのがいまの僕の心境。

ブログはそうした心境を表している。入院し始めたときは、ブログが続けられないと思い、1行程度の短いものにとどまっていたが、ある程度時が経って精神的に立ち直ってきた頃に、いつもの調子の文章に戻っている。この繰り返しである。

このたびの入院は、いままでよりもひときわ絶望度が高かったのだが、高校時代の親友·コバヤシが代理執筆してくれた「Eさんのこと」を掲載した次の記事から、通常営業に戻した。もちろん、辛ければ休むことを前提に。

その後、コバヤシからメールをもらった。

「実はメールを送った翌朝、今の貴君にあんな内容のメールを送って良かったのだろうか、送るべきではなかったのではないかと、ずっと考えていました。幸いにも貴君が前向きに捉えてくれたようで良かったです。

ブログも読ませてもらいましたが、私のメールに対する感想は身に余るものが有りますが、そんなことよりも貴君がまた積極的にブログを書き始めたことが本当に嬉しかったです。

なかなか書くネタが無いので私のメールの方は断続的になると思いますが、貴君は是非書き続けてください。」

コバヤシらしい、気を遣ってくれたメールだった。僕はコバヤシの「Eさんのこと」に本当に励まされて、それで通常の長さの記事を書くことにしたのである。感謝をしたいのは僕の方である。

他の読者にとってはどうでもいい話かもしれない。しかし「貴君は是非書き続けてください」という読者が一人でもいる限り、書くことをやめない。

(左手)

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潜入取材

ジャック·ニコルソン主演の映画『カッコーの巣の上で』(1975年)は、刑務所の強制労働から逃れるために、男が精神異常者のふりをして精神病院に入り、そこで病院のさまざまな暗部を目の当たりにするという話(未見)。

あるいは、Amazonの配達現場で実際にアルバイトをして、Amazonの闇を暴いたルポライターがいた。

さらに、漫才師の浅草キッドの水道橋博士は、ルポライターの竹中労に憧れ、自ら芸能界に入り、芸能界をルポルタージュする本を何冊も書いている。最近では国政選挙に当選し、国会議員になるも、鬱病を発症して議員辞職した。これも一種の選挙や国会についての体験的ルポルタージュといえる。

何が言いたいかというと、僕もまた、実際に病気になることで、現代の医療界の実態をルポルタージュしている心持ちになっているということである。

これだけさまざまな種類の病気を体験しているのも同世代のなかでは珍しい。さまざまな医師から「診察を受ける」ことを「取材する」ことと同義であると考えれば、医師の話を聞くのも楽しくなる。自分を「医療系ルポライター」と考えれば、自分のいまの存在価値も満たされる気がする。

といって医療界の暗部を明らかにしたいという考えはさらさらなく、「取材」の成果をまとめようとも思わない。ただ、僕と同じ病気を体験した人の話を、共感をもって聞くようになりたいと思うのみである。

(左手でここまで書けました)。

〔補記〕

これを書いたあと、映画『カッコーの巣の上で』を動画配信サービスで観ました。

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Eさんのこと

鬼瓦殿

こんばんは。コバヤシです。

ご療養中、お見舞い申し上げます。

学生時代のネタでもメールしようと思ったものの、ちょっと違うなあと思いつつ、貴君の病状を知り、久し振りに思い出した方のことを書いてみようと思います。

私が嫌々サラリーマンになったことは折に触れて話して来ましたが、では30数年に渡るサラリーマンがそんなに嫌だったのか?というと決してそういう訳でも無く、その時々で嫌々働く私を鼓舞してくれる人たちが現れ、おかげでどうにかこうにか私もサラリーマンを続けることが出来ました。

そんな私を鼓舞してくれた1人がEさんです。

Eさんは、私よりも3歳上の女性で、短大卒の所謂一般職(この言葉は今では死語かもしれませんね)ながら、仕事に取り組む真摯な態度とその厳しさは、私の会社人生でも一二を争う方でした。

私が勤める鉄鋼会社が合併して、それを機に私は千葉の工場に転勤になり工場の出荷全般を担当することになったのですが、その時に出会ったのが本社に勤務するEさんでした。

Eさんの仕事に対する態度は本当に厳しいもので、当時、私と一緒に働いていた子会社の物流会社の仲間達も恐れる存在でした。

Eさんは、日々起こるトラブルに右往左往する我々工場の人間からすると、ちょっとそこは見逃してくれないかということにも一切忖度すること無く正論を突き付けて来ます。その弁舌は本当に見事で、前述の物流会社のリーダーに元暴走族の総長をしていたTさん(TさんはEさんにとって盟友とも言うべき人です)という方が居たのですが、Tさんをして「Eの追い込みは本物だ。俺も怯むぐらいだ。」と言わしめるほどで、少し若い奴などは、ちょっと誤魔化そうといい加減な発言をしたことを電話口で徹底的に糾弾され半泣きになるぐらいでした。

ただ姉御肌の人情味もある人だったので、我々が本当に困っているときは助けの手を出してくれて庇ってくれることも多々ありました。

とは言え普段の仕事では日々バチバチで、電話で1時間近くも怒鳴られたり、言い合いになることは日常茶飯事でした。

でも、Eさんは人と人との関係を大切にする方だったので、年に2~3回は後輩のNさんを連れて我々のいる千葉に来て飲みに行くのが常で、そんな時は本当に楽しく和やかな時間を一緒に過ごしたものでしたし、私の千葉の仲間達と一緒に旅行に行くことも有ったぐらいです。

そんなEさんは私のことを気に入ってくれていたらしく、いつか本社で一緒に仕事をしたいね、と事あるごとに言ってくれたものでした。

そうこうする内に、私は福岡に7年間転勤で行くことになり、Eさんとも暫く話す機会を失うことになります。

7年後に私は何度か書いた今の会社の上司でもあるMさんに東京に呼び戻されることになり、Eさんとはグループは違うものの同じ部署で働くことになりました。

私が転勤になると、Eさんは本当に喜んでくれて、赴任してすぐに歓迎会も開いてくれ、同じグループで働きたいね、とまた何度も言ってくれました。

ただ、残念ながらそれが叶うことは有りませんでした。

私が東京に赴任して3年経ったある日の冬、Eさんのいるグループがざわついていたので、どうしたのかと尋ねると、今朝がたEさんが自転車で駅に向かっている途中で脳梗塞で倒れ病院に運ばれたというのです。

Eさんは入院中も厳しい状態が続き、結局、左半身付随となり言葉を話すことも1人で生活することも出来なくなり、3年に渡り会社を休むことになります。

その3年目に、漸く私はEさんのグループに上司として異動することになりました。同僚の女性がEさんに私のことを連絡してくれたらしく、異動して間もなくEさんから私の携帯にメールが入りました。

「コバヤシさん、やっと私のグループに来てくれたのね。でも残念ながら私はこんな状態なので一緒に働くことは叶いません。コバヤシさんと一緒に仕事をしたかったな。」

Eさんは会社を休業して3年目だったので、会社の規定で退職を余儀なくされることになりました。

私はEさんの上司として色々手続きをしなければならなかったので、Eさんのご親族であるお姉さん夫婦にも何度かお会いすることになりました。お姉さんから「コバヤシさんのことは妹から何度も聞いています。本当にお世話になりました。ウチの妹、我儘だったから本当に大変だったでしょう。」と言って貰ったのはせめてもの救いだったように思います。

お姉さんや、同僚の女性(彼女達は定期的にEさんを訪ねていました)の話を伺うと、Eさんは24時間介護の状態で、家の中も車椅子でしか移動出来ず、言葉を喋ることも出来ないので、最初の1年は自暴自棄だったらしいのですが、この1年ぐらいは本当に前向きになり、こんな自分でも何か出来ることがある筈と一生懸命考えているし、喋ることは出来なくとも携帯でメールをする速度は常人を凌駕しており、片手だけで打つ速さは喋る速さ並みだとのこと。

そんな話を聞いて私も少し安心をしました。

ただ、Eさんに関しては少し気がかりなことが1つあって、私が福岡赴任中にEさんより一回りほど先輩のNさんと仲違いして、Nさんは失意の中、会社を去っていったと聞いていたことでした。私は二人には本当にお世話になっていたので、残念で仕方が有りませんでした。

Nさんとは福岡から東京に戻った後も、前述のMさんの計らいで何度も会う機会が有ったのですが、そんな時、Nさんはいつも仲違いしていた筈のEさんのことをしきりに心配してしていました。

それもあり、Eさんが会社を退職する直前に私はEさんにメールをして、NさんがEさんのことを本当に心配していること、私がそんなことを言える立場ではない事は重々承知な上だが、やはりNさんと仲直りして欲しい、と伝えました。

暫くしてEさんからメールが届きました。

「お姉ちゃん(EさんはNさんのことをそう呼びます)にメールしました。あの時は色々有って酷いことを言ったことを謝りました。おかげでお姉ちゃんとまた仲直りすることが出来まし,た。コバヤシさん、ありがとう。」

このメールを読み、色々なことがあっても、生きている限りまたやり直すことが出来るんだなあと、本当に涙が止まりませんでした。

それからEさんとは一度も連絡を取っていませんが、Eさんは今もきっと前向きに生きているに違いないと信じています。貴君の近況を知り、またEさんと連絡を取りたいなあと思った次第です。

ちょっと感傷的な内容になってしまいましたね。すみません。

それでは、また。

お大事に。

〔付記〕

個室の病室でひとり嗚咽しながら読んだ。途中で看護師さんが入ってきて焦った。涙はいまも枯れない。

幸いにして、僕は意識があるし、話すこともできる。リハビリを頑張って仕事復帰したいと考えている。このブログも左手で入力している。しかし運命が少し、Eさんの境遇に近くなったとしたら、心が折れない保証はあるだろうか。

そして、こんな僕でも、また一緒に仕事をしたいと言ってくれる仕事仲間はいるだろうか。ここまで病気が長引けば、もうそんな人はいないかもしれない。我が身を振り返り恥じ入るばかりである。

ぜひ、今回の記事の感想をお聞かせください。私宛に何らかの方法でお送りくださいますと幸いです。原則公開はしません。励みになります。

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窓から見えるのは?

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青空と山並み。花火大会は見られなかった。

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「寝たままお風呂」の感想は?

たとえて言えばドリフの銭湯コントのような感じ。

https://youtu.be/0f2EjPtr19A?si=E5DBTSXGjZkzXv3Q

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業務連絡

ブログの代理執筆を希望される方は、完全原稿でお送りください。送信方法は問いません。体調が良ければ掲載します。

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食事は?

朝昼晩、3食ともおにぎり。2日目にして飽きる。

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書いてみたい本

病院放浪記。

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入院

しばらくブログを休みます。

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転地療養

8月13日(水)

昨日の検査で異状なしという結果が出てホッとした理由は、翌日から転地療養をする予定になっていたからである。

もし検査で引っかかって「ひとり合宿」なんてことになったら、転地療養は中止になってしまう。家族にも迷惑をかけてしまう。これはまさに天国と地獄である。

で、検査の結果、晴れて転地療養が可能になった。とはいってもお盆休みの間だけの話である。

いままで、病院やリハビリデイサービスに行くとき以外には自宅から出たことがなかったのだが、なんといきなり車で3時間ほどかかるところまで遠出した。しかも標高1500mである。

朝に家を出て、お昼ごろに目的地到着した。昼食は恒例の「高原の蕎麦屋」さんでとった。アニメ映画の巨匠がこよなく愛した蕎麦屋さんである。その店名がご自身の傑作アニメ映画のキャラクターの名前に使われているほどだ。

お盆休みのせいでひどく混んでいたが、このお店の蕎麦を食べることができるのであれば待つことも苦にならなかった。

標高1500mなので涼しいし空気がいい。週末までの短期間の滞在だが、基本的には療養なので何をするわけでもない。ただせっかくなので周辺を散歩して足腰を強くするリハビリをしてみたいと思う。

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検査の結果は

8月12日(火)

午前中、いよいよ都内のクリニックの検査の日。

昨日も書いたように、検査に引っかかれば2泊3日の地獄の「ひとり合宿」、引っかからなければ無罪放免。

検査を終え、さっそく主治医の先生の診察室に呼ばれた。このときは、判決を言い渡される瞬間に似た緊張である。といっても、裁判を受けたことがないからわからない。

これがテレビ番組だったら、「ドッキン、ドッキン、ドッキン」という効果音が入る場面だろう。

「今回の検査……」

「…………」

「異常ありませんでした!」

うぉぉぉぉぉぉぉーっ!!!、という大歓声。

…と、実際にはこんなドラマチックな伝え方をされたわけではない。あたりまえか。

しかし僕にとっては、判決が言い渡された瞬間、裁判所から駆け出して「逆転無罪」と大書された紙を見せたい心境である。

診察が終わって、立ち上がって帰ろうとすると、主治医の先生が言った。

「ずいぶん痩せましたね」

「ええ」実際、20㎏以上痩せたのだ。

「今が一番いい状態に思えますよ」

「この体重を維持します」

病気になってよかったことは、体重が減って、適正体重に近づいたことである。病気になっても、前向きになれる要素はいくらでもあることを学んだ。

リハビリに励むことにも弾みがついた。

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訪問リハビリに盆休みなし

8月11日(月)

3連休の3日目。というかお盆休み9連休中の3日目。もっとも僕はずっと休みが続いているので関係ない。

本来は明日火曜日の午前中が訪問リハビリの時間なのだが、明日は午前中に都内のクリニックで検査をすることがもともと決まっていた。

僕は3か月に1度行われるこの検査が大の苦手である。検査の結果が悪ければ有無を言わせず2泊3日の「ひとり合宿」をやらされ、かなり大がかりでめんどうな治療が行われる。治療じたいは1日だけだが、精神的にも肉体的にも辛い治療で、退院後2~3日は尾を引く。

検査の結果、問題なければ、当然ながら「ひとり合宿」は免除される。こんな「天国と地獄」、というか最後の審判のような思いが8年間、3か月に1度続いているのだから、僕の精神力も相当なものである。正岡子規の「平気で生きる」という言葉を胸に抱いて生きているおかげである。

ま、明日の検査結果がどうなるかは明日考えればいいんで。

というわけで8月12日(火)は訪問リハビリを休みたいと言ったら、火曜日の振替として1日前の今日、月曜日の午前中に行うことになった。

「訪問リハビリにはお盆休みとか関係ないんで」

と理学療法士の方は言っていたが、いやはや、理学療法士さんも大変である。

聞くと、僕と同じくらいの年齢のお子さんがいるらしく、お盆休みにパパが仕事でいないとは寂しいだろうなと同情を禁じ得ない。

最近、体調がいいおかげで、リハビリもいい感じでこなすことができた。理学療法士の方も驚くような回復ぶりだった。リハビリが終わってから、小2の娘とトランプゲームをした。

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50代の挑戦

コロナ禍の前の、今から6~7年前、あるプロジェクトのために関西圏に出張したことが何度かあった。

用務先の近くには、民間の会社に勤める後輩がたしか住んでいたなあと思い出し、あいつ、いまどうしてるんだろうと連絡をすると、久しぶりにお話ししましょうとなり、用務が終わったあとに、喫茶店で会うことになった。

通学していた頃は、軽口を叩きあうばかりで、大事なことなど何一つ話したことがなかった。しかし、久しぶりに会ったときは社会人になって30年くらいたっていて、さすがに礼儀とか言葉使いがちゃんとしていたことに驚いた。

しかし本質は変わってなく、久しぶりに会ったにもかかわらず、昨日の話の続きのように話をすることができた。

思い出話もそこそこに、それぞれの今の興味関心について話をした。そこではじめて知ったのだが、後輩は実は昔から読書家で、読書に関する話題が絶えることがなかった。社会人になってかなりの年月を迎えたからこそ、できる話である。もう思い出話など必要がなかった。

そしてコロナ禍に入って2年目の時、後輩から連絡をもらった。

「お久しぶりです。6月に転職します。

新しいカルチャーで働くことになります。新しい世界で自分自身を成長させながら結果を出したと言えるようになるには最低5年は欲しいですし、年齢的に3年後に同じような仕事を得られないと思い決断しました。

一回きりの人生、50を過ぎてこんな大きなことに挑戦するのも自分らしいかなぁと今は思ってます」

そしてコロナ禍から4年目の春、私が担当した職場のイベントに、友人と二人で来てくれた。残念ながら僕はそのとき不在だったが、後日誠実な感想を送ってくれた。

転職後の状況についてまたお話ししましょうと約束したが、今に至るまで実現していない。

50代で新たに挑戦した友人がもう一人いる。

その友人は、50代になって、仕事の合間に「学校」へ通い出した。

「学校」といっても大学とか、そういうところではない。自分の仕事にもまったく関わりのない「学校」である。

プロをめざすためのコースと、一般向けのコースとがあるらしいが、その友人はプロをめざしているわけではないので、一般向けのコースで学んでいる。

しかし、一般向けのコースとはいっても、おざなりの座学勉強というわけではない。ちゃんと「手を動かす」授業である。

さまざまな分野について、高度な宿題が出され、課題に沿った成果物を出すなど、実践的な学びをしている。なかには自分の武勇伝や自慢話をするベテランの講師もいるそうだが、若い講師ほど実践的な課題を出し、それが自分にとってかなり勉強になるという。

50代に新たな挑戦をするということは、いいことだ。

いま読んでいる小説の作者は、55歳にして小説講座に通い始め、その後芥川賞を史上2番目の高齢受賞となった。その芥川賞受賞作を読んでいる。

こうした話に接するたびに、自分は50代になって何か新しい挑戦ができるだろうかと思案しているが、あっという間に50代後半になってしまったので、どうなるかはわからない。しかし希望は与えられている。

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気は病から

長期の病気になって、もうブログなんかやめちゃおうと思っていたが、続けることができたのは、こんな拙いブログでも、読むのを楽しみにしてくれる読者が少しでもいることがわかってきたからである。その言葉はお世辞ではないだろうと信じて、書き続けている。

体調が悪すぎてどうにもならない時期には、よく癇癪を起こして家族にも迷惑をかけた。それと連動するように、このブログも、自暴自棄になって書いてしまい、結果的に毒を吐くような内容の文章になり、「濾過」せずにそのまま載せてしまったりしたこともある。きっと傷ついた人もいたかもしれない。

体調がいささかよくなってきた今では、癇癪を起こすこともなくなり、ブログも平穏な気持ちで書くことができるようになってきた。楽しみに読んでくれている人がいると考えるなど、心に余裕もできた気がする。もっともそう思っているのは自分だけで、相変わらず酷い文章を書いている可能性もあるのだが。

体調が良くなってくると、だいたいのことがうまくまわり始める。話を聞くのでも余裕が出てくる。

例えば昨日の午後に自宅に来た男性の訪問看護師の方が、薬の副作用でできてしまった足の皮膚の潰瘍を治す心構えとして、次のようなことを言っていた。

「足の皮膚にできた潰瘍を早く治すためには、小麦粉の食品を控えた方がいいです。とくに白い食品ですね。食パンとかうどんとかパスタとか」

「ええええぇぇぇ!?パスタが好きで、冷凍食品のパスタをよく食べるんですけど、これからは食べない方がいいんですかっ?!」

「…いえ、まあ体調がいいときはそんなに気にすることはないですが、体調が悪いときには、潰瘍の回復に障りますので、小麦粉はやめた方がいいです。ま、日本人なんだからお米を食べましょう」

それを聞いて、おいおい参政党の支持者じゃないんだから!と思わずツッコミを入れようと思ったのたが、実際に口にはしなかった。ほんとうにそうだったら困るからね。

要は、それくらい思考の余裕が出てきたと言いたいのたが、出した例がわかりにくかったね。

若いころから潰瘍性大腸炎に苦しんできた文学紹介者の頭木弘樹さんは、自分の人生が「絶望人生」であるとして、古今東西の「絶望名人」の言葉や文学作品などの紹介につとめてきた。自分の中にある絶望を飼い慣らしてきた人ともいえる。

そんな頭木さんが、「病は気から」ではなく「気は病から」という言葉を提唱している。云わく、「そういう性格だから病気になる」というよりも、「そういう病気だからそういう性格になる」のだ、と。

僕が考える「気は病から」は、それと似ているがちょっとだけ違っていて、「病気による体調の変化が、自分の中の思考に変化をもたらす」という意味にとらえている。しかしそれも僕の思い込みかも知れない。人を傷つけないように書いたつもりでも、ちょっとした言葉のニュアンスの違いなどで信頼する読者が離れていくことを、いつも心配している。

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訪問看護師

8月8日(金)

金曜日の午前中は、リハビリデイサービスに通っている。

「みなさん、おはようございます。今日は何日ですか?」

「8月8日です」

「8月8日はなんの日かわかりますか、8(パチ)8(パチ)で、そろばんの日だそうです」

なるほど、パチパチは、そろばんをはじく音か…って、言うてる場合か!

とさんま師匠のようなツッコミを入れたくなる。

そして今日も、平和なリハビリデイサービスが始まる。

最近の僕は、すこぶる体調がよくなっているみたいで、リハビリのメニューも見違えるほど安定してこなしている。

ま、一時的なものかも知れないが、とりあえず問題なくリハビリが終了した。

午後は、訪問看護の契約があった。

自分が介護を受ける身になって、じつにさまざまな制度が用意されているんだということがわかった、というか、複雑すぎていまだによくわかってない、ということがわかった。

訪問看護とは、看護師が自宅に訪問して医療行為を行うことである。ヘルパーさんなどは、医療行為をしてはいけないことになっている。

僕は、薬の副作用で足のあちこちに潰瘍ができていて、そのために患部に薬を塗ってガーゼを張ってその上から筒状の包帯を被せる、ということをしているのだが、これがなかなかの負担である。それらをはやく落ち着かせるために、その一部を訪問看護師さんに頼ることにした。

ところが、訪問看護を申し込むには、まず訪問医療に申し込み、その医師が「指示書」を出すことで、訪問看護の恩恵が受けられるらしい。訪問医療の会社と、訪問看護の会社は、提携はしているものの別の会社のようである。

ここまでのことを聞いただけで、頭が混乱してくる。なんと複雑なしくみなのか。しかもこれは、介護保険ではなく、通常の医療保険が適用されるというのだから、まずまず混乱してくる。

こっちは、薬を処方してくれるかかりつけの病院もあって、そこでも診察を受けているし、このうえ訪問医師や訪問看護師がいるとなると、いったい誰のアドバイスを聞けばいいのか、混乱してくる。

ところで、今日の午後に来ていただいた訪問看護師は、2人とも男性だった。僕はうっかり、看護師といえば女性、という古い考え方にとらわれていたので、自宅に来られたときはいささか驚いたが、考えてみれば、病院でも男性の看護師がいて、時に女性よりも優しかったりしたのを思い出したので、看護師に女性も男性もないことに、あらためて気づかされたのであった。

もう少し年をとったら、いずれ本格的な介護を受けるかも知れない。いまはそれに備えるための練習期間だと思っている。だって、あらかじめ知っておいた方がいいではないか。

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知れば優しくなる、という仮説

いまの石破首相は、地味だし、人気がないし、顔が腹話術の人形みたいだし、軍事オタクだし、右翼の政治家だし、まったく支持することができないが、与党のほかの政治家はもっと酷い人ばかりなので、辞任したとしてももっとひどい政治家が首相に手を挙げる可能性もある。つまり八方ふさがりということである。

唯一、これまでの首相と違うのは、官僚の文章をそのまま読まず、自分の言葉で語っていることくらいである。

8月6日(水)の広島の原爆の日では、毎年首相が挨拶を述べるのだが、広島と長崎の挨拶がコピペであったり、ページを1枚とばしてしまい、気づかないまま挨拶が進み、「糊がひっついてたせいだ、事務官が悪い」と明らかな嘘を言って人のせいにしたり、歴代首相たちによる珍挨拶が続いていた。

今年の石破首相の挨拶は、それにくらべればマシな方であった。挨拶の内容のほとんどは、歴代首相の挨拶の内容を踏襲したものであり、それ自体は新味があるわけではないが、ところどころで、自分が原爆資料館を訪れた時の感慨を述べたりして、なんとかオリジナリティを出そうとしていた。

極めつけは、挨拶の最後に述べられた、次の言葉である。

「『太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり』。『太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり』。公園前の緑地帯にある『原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑』に刻まれた、歌人・正田篠枝(しょうだ しのえ)さんの歌を、万感の思いをもってかみしめ、追悼の辞といたします。」

短歌を引用して挨拶を締めるなんてことをした歴代首相がいたのかどうかはわからないが、たぶんこれは石破首相のオリジナルであろう。

石破首相の知識人たる面目躍如の一文である。

この最後の一文は参加者にどう聞こえたのだろう。

僕がテレビで見た範囲では、この一文があることにより、歴代首相よりも被災者に寄り添っているように聞こえた。この一文があることにより、型どおりの挨拶で終わらせることなく、ある種の優しさが垣間見られた感じがするのである。

つまり何が言いたいかというと、知識があるということは、優しさを感じさせる効果をもたらす、という仮説である。

同じ日の民放のお昼のニュース番組では、吉川晃司さんがインタビューを受けていた。

吉川晃司さんといえば、私の青春時代のアイドルである。別にファンということでもなかったが、デビュー当時の鮮烈な印象はなかなかのものであった。

で、インタビューの内容は、広島県出身の吉川晃司さんは被ばく二世で、ある時期から自分のアイデンティティと向き合うことになり、広島の原爆被害に積極的に関わっていったと語っていた。自分は若い頃、やんちゃばかりをしていて、周りの人に迷惑をかけることもあった。それは自分にとって恥ずかしい過去だ。ある時期から、いわばその罪滅ぼしではないが、広島の原爆被害について積極的に関わっていこうと思った。そうすると、自分がいかに何も知らなかったかを思い知らされ、知ることがいかに大切かを身にしみて感じた。

と、たしかこんな内容だった。それを語る吉川晃司さんは、若い頃のとんがっていた印象ではなく、ひと言ひと言を大事に語りかける誠実なオジさん、という印象に映った。ま、たんに年を重ねて還暦となり、まるくなったと言えなくもないのだが、でもそうじゃない人もいるでしょう。

知ることにより人は優しくなれる、というのは、ちょっと無理な仮説だろうか。しかし僕は声を大にして言いたい。

いまこそ知識人の復権を!

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イノダコーヒーのミッション

8月5日(火)

午前中に週1回の訪問リハビリがあり、午後には訪問診療があった。「訪問診療」は、今日が始めてある。

その合間、ちょうど昼食を食べ終わった頃に、荷物が届いた。

たいていはマンションの宅配ボックスに入れるものだが、宅配ボックスに入らないほどの大きいダンボール箱だった。

差出人は、友人からだった。なんだろう?と思って、厳重に梱包されていたダンボール箱を開けると、なななななんと、イノダコーヒーの「アラビアの真珠」のコーヒー豆を挽いたものを入れた缶詰と、イノダコーヒーで使っている専用のカップ&ソーサー一式だった。

少し前、「イノダコーヒ三条店」という記事を書いたが、その記事の最後に「友人のメールには、『いずれ偵察に行ったら報告します』とあった。それを期待する」と書いてしまったために、京都に用事があったついでにわざわざイノダコーヒーに寄ってくれて、前日は証拠写真までメールで送ってくれていた。

厳密に言うと、私が通っていたのは「三条通店」で、友人は「本店」に寄ったことが写真からわかったが、たしかに本店と三条通店は近くにあって紛らわしい。私も何度か本店に通ったことがあるのでそちらも思い出深い。いすれにしてもブログに書いてしまったミッションを達成してくれたのだなとと思っていた。

しかし「ミッション」はそれだけにとどまらず、実際にコーヒー豆とイノダコーヒー専用のカップ&ソーサー一式まで送ってくれたというのだから、恐縮ものである。

これは、イノダコーヒーの専用カップに、「アラビアの真珠」のコーヒーを入れて飲んでいるところの写真を送ることが、今度は私に与えられたミッションである。

幸い、この日は妻も在宅だったので、贈られたコーヒーをさっそく2人でいただいた。で、そればかりでなく、僕がコーヒーをイノダコーヒー専用のカップで飲んでいるところを、妻に写真を撮ってもらった。この写真はとても味わい深く撮れていて、この写真を友人に送った。

するとほどなくして、「ミッション完了」というメールが返ってきた。

なるほど、僕が自宅でイノダコーヒーの「アラビアの真珠」をいただくまでが、ひとつのミッションだったんだな。

返信には、「(写真は)まさにイノダのお客の雰囲気、表情そのものです。自宅にいても、心は三条に飛んでいることが如実に分かります」とあった。いつになるかわからないが、次回は必ず京都でイノダコーヒーを味わいたいと思う。

〔付記〕

この記事を書いたあと、友人から、「ミッションの修正を感じたので、帰り際にこちらにきています。カウンター、健在でした!次回来訪を楽しみに」と、イノダコーヒー三条通店に入った写真とともに返信が来た。これでほんとのミッション完了!

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ノートパソコンのリハビリ

8月5日(火)

最近は、体調がすこぶるよくなったのではないかと、家族やかかりつけの病院の先生、リハビリの先生などから言われる。相変わらず各所が痛いことには変わりないが、歩き方も少し安定してきたし、食欲も出てきたし、滑舌も戻ってきたし、たしかに最初の一番酷いときよりは、ずいぶんよくなったと思う。

なんたって最初は、呂律が回らなくて、社長からいただいた電話で一生懸命喋っていると、

「なんか、酔うてるようやな」

といわれる始末。

しかしいまでは、完全に回復したわけではないが、だいぶ喋りも滑らかになってきた。

なにより一番驚いたのは、ノートパソコンのブラインドタッチが復活したことである!

3月後半に退院して自宅療養に切り替えてから、どうしても送らなければいけない原稿があって、ノートパソコンを使おうとしたら、思い通りに指が動かなかった。全然思った通りにキーボードが打てない。それで癇癪を起こしたほどである。

ああ、もうノートパソコンは使えない。病気が回復したらまた一からブラインドタッチのトレーニングをしなければならないのか、と絶望し、それからはノートパソコンに触るのが怖くなった。それに、ノートパソコンのキーボードを打つために椅子に座り続けることも苦痛だったのである。

それ以来、メールの返信やブログの更新は、すべてスマホのフリック入力でおこなった。寝ながら入力できるし、そちらの方が便利になったのである。

ということで、3月後半からずっと、ノートパソコンから離れていたのだが、昨日、どうしてもノートパソコンからメールを返信しなければならないことがあり、じつに4か月半くらいに久しぶりにノートパソコンを開いてキーボードを打ってみたら、あ~ら不思議。ブラインドタッチでストレスなく文字が打てるようになったのである。もちろん、まだ完全ではないけれど、まったくストレスなく、癇癪を起こすことなく、スラスラと打てるようになったのである。

とくにそのためのリハビリをしたわけではないのに、ブラインドタッチが戻るというのはどういうことなのだろう。不思議である。

こうなると、ブログもノートパソコンで書きたくなるというのが人情である。ということで、いまこの記事は、ノートパソコンで書いています。

しかし家族には「あまり根を詰めないように」と釘を刺されている。調子に乗るな、と。

ノートパソコンで文章を書けるようになると、時間を忘れて書きたくなってしまう。とくに職業的文章などを書こうとするとそうなってしまう。だが、しかしそれに耐えうる体にはなっていない。まだ長時間椅子に座り続けることが難しいのである。

なのであまり調子に乗らず、ほどほどにします。

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回転寿司でこんにちは

(近石真介さんのラジオ5分番組「はがきでこんにちは」風に)

回転寿司のエピソードをいただきました。こちらは○○県✕✕市にお住まいのOさん。

「鬼瓦さんこんにちは。

私は20代のころ、回転寿司を10皿くらい食べました。現在は食べ盛りの小4、小2、偏食家の4歳の三姉妹がいますので、私たち夫婦はとてもではありませんが喉を通らず、夫などは3皿くらいでビビッてやめてしまいます。

私は彼より無神経ですのでもう少し食べますが、つい皿を数えてしまって楽しめない自分に嫌気が差し、最近はサイドメニューの海鮮丼と味噌汁を頼んでそれで完結させることにしました。私の横で皿はバベルの塔となり、あるいは投入口に吸い込まれてくじ引きの養分となりますが、私自身は「無」の境地です。これは何となく人生にも通じるものがありそうです。さようなら」

これ、わかるなぁ。食べ盛りのお子さんがいると、おいおい何皿食べるんだ、とビクビクしてしまいますよねぇ。うちの娘も現在小学校2年生なんですけどね。これからさらに食べ盛りの時期を迎えることになるかと思うと、お父さんがビビって3皿くらいでやめてしまう気持ち、わかるなぁ。

で、お母さんはお皿の数を数える自分に嫌気が差し、海鮮丼一択とお味噌汁(笑)。なるほどその手がありましたか。

「私の横で皿がバベルの塔となり」って、文学的な表現だなぁ。これもわかりますよ。この間行った回転寿司屋さんで、4人家族が隣のテーブルに座っていて、そのうちの2人が見るからに食べ盛りの息子さん。お父さんの横にはお皿がバベルの塔のように積まれていました(笑)。

「(お皿が)投入口に吸い込まれてくじ引きの養分に…」っていうのは、あれかな?「K寿司」という回転寿司屋さんかな?あれは射幸心を煽るんですよ。余計にお皿が増えちゃう(笑)。

そして最後の「これは何となく人生に通じることがありそうです」。これは深いなぁ。そう、回転寿司は自分の人生を映し出しているんですよ。

さ、みなさんも回転寿司のエピソードをお寄せください。まだまだ募集しております。

よろしくどうぞひとつ!

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人事の人見·その2

もうとっくに終わってしまったドラマだが、以前にフジテレビ系のドラマ『人事の人見』についてこのブログに書いた。僕にはただただ不愉快な内容に思えた。なぜなのだろうと、ずっと考えてきて、ようやくその理由がわかった気がした。

まず、『人事の人見』がどのような内容のドラマだったかというのを、Wikipediaから引用する。

「文房具メーカー「日の出鉛筆」は、体育会系で営業部などという現場の声が最優先という、古い体質が残る会社だった。そんな日の出鉛筆の人事部に、ある日海外企業から超エリートが入ってくるという噂が。

期待をする人事部一同だったが、入ってきたのは人見廉という、噂とは全く違うおバカでピュアな男だった。会社勤めをしたことのない人見が、持ち前の性格で様々な会社の問題を解決する痛快オフィスエンターテイメント」

この人見廉という「おバカでピュアな男」「会社勤めをしたことのない人間」が、「様々な会社の問題を解決する」という。実際にドラマを見ても、そのようなストーリーになっている。

僕が引っかかっていた点は、まさにこの点だった。まったく会社勤めの経験のない人間が、思いつきだけで会社の問題を解決できるのだろうか?まったく経験や蓄積のない人間が、戦力になりうるのか?

もちろんこれはファンタジーでありエンターテインメントだからそんなに目くじらを立てることはないという反論が来るのは当然かもしれない。

僕が問題にしているのは、何の経験も蓄積もなく、勢いだけで会社を改革できる人間にカタルシスを感じている、ドラマの制作陣と視聴者がいるという事実である。

このドラマのクール中は、参議院選挙の期間中と重なっていた。今回の選挙の最大の特徴は、多党化が進み、新興政党が勢力を伸ばしてきたことにある。具体的に言おう。参政党とか日本保守党とか、新党みらいとかである。

これらは街頭演説やSNSなどを通じて勢力を伸ばしていったが、はっきり言って政治のド素人集団であり、街頭演説の様子をSNSなどで見ると、聞くに耐えないような政策を訴えている。

しかも「既成政党の古い考え方」を打破して、新しい(と思われる)政策や極端な改革案(らしきもの)を述べて、一部の人の熱狂的支持を得たりしている。その結果、参政党は躍進して議席を大幅に伸ばした。候補者のほとんどが政治の素人で構成されている集団にもかかわらず、である。

「何にも知らない素人だったら、古い因習にとらわれている既成政党の政治を改革して、政治がよくなるんじゃね?」というのは、会社勤めの経験がなく、おバカでピュアなキャラクターの人見廉が、会社の古い体制を改革してくれることにカタルシスを感じることと、同じメンタリティなのではないだろうか。

しかし現実の社会では、そんなことがうまくいくはずはない。なぜなら、それは幻想にすぎないから。人見廉が会社の仕組みをまったく勉強する気がなかったように、ド素人の政治集団が本気で政治について勉強することはないであろう。それで成功するのは、ドラマの中だけである。

その幻想に安易に寄りかかってしまう有権者を育ててしまったのは、既成政党か新興政党かにかかわらず、政治家の責任である。

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ひとりアフレコ

8月2日(土)

昼食を回転寿司でとったあと、夕方に妻の頭痛がひどくなり、夕食を作るのを途中で交代した。といってもうどんを茹でてどんぶりに盛っただけだが。

今まで妻に食事を作ってもらっていたので、妻が調子が悪いときは、当然代わらなければならない。といって僕も万全の体調ではないので腰の痛みに耐えながら、夕食の準備と片付けをした。でもこんなことは誇るべきことでも何でもない。

妻には早めに寝てもらって、夕食後は小2の娘と、この日の昼間にNHK-BSで放送していた映画『赤毛のアン』(前編)を録画していたので、観ることにした。

娘は、いまNHKのEテレで放送しているアニメ『アン·シャーリー』に夢中である。僕らの頃は『赤毛のアン』と言ったが、いまはアンのフルネームがタイトルになっている。タイトルは違えど、娘は『赤毛のアン』のストーリーについて大まかに把握しているのだ。

しかしこの日に録画した映画『赤毛のアン』は、1985~1986年にかけてカナダや米国で公開された実写映画の字幕版である。小2の娘には、字幕を読むのが難しい。とくに習ってない漢字が使われたりしてるからね。

そこで僕が、字幕を全部読むことにした。どうせ読むなら声色も少し変えたりした。言ってみれば「ひとりアフレコ」である。

1時間40分、ひたすら「ひとりアフレコ」をやり続けるのは疲れたが、これもリハビリの一貫である。病気になった最初の頃は、酒に酔ってんのかというくらいに呂律が回っていなかったが、いまは1時間40分、「ひとりアフレコ」ができるようになったのだ。

おかげで、まったく忘れていた『赤毛のアン』のストーリーを、あらためて理解することができた。後編が次の土曜日に放送されるので、また「ひとりアフレコ」をやらされるかもしれない。夜10時まで娘とテレビを見て、娘を寝かせた。

しかししばらくすると娘の様子がおかしい。娘がしくしく泣いている。もしやと思って体温を測ると、まさかの38.8度!これには妻も慌てて起きてきて、解熱剤を飲ませたり、氷枕を使ったりして、再び寝かせた。

8月3日(日)

早めに起きていた娘の熱を測ったら、36度台に下がっていた。調子も戻ったみたいだ。ひとまず安心した(しかし今後また熱がぶり返す可能性もある)。

妻は相変わらず頭痛が酷くて寝ているので、僕は自分と娘の朝食の準備と片付けを済ませ、洗濯機をまわした。これもリハビリだと言い聞かせ、ベランダに洗濯物を干し終わったときには腰がもう限界。

でもまあ娘の高熱が一夜にして平熱に下がっただけでもよかった。もし高熱が続いたら、病人の僕はなす術を失うだろう。早く健康にならないとと、健康のありがたみをつくづく噛み締めた週末でありました。

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「回転寿司」と「推し活」

8月2日(土)

久しぶりの家族3人揃っての外食である。

今まで僕は、外来診療で通院している病院の食堂以外は、外食することがなかった。

週末に外食したのは半年ぶりじゃなかろうか。

記念すべき久しぶりの外食場所は、回転寿司である!

……回転寿司って(笑)。

近所にある回転寿司屋さんは、週末は激混みして、前日までに予約をしないと席がないというほどの人気ぶりである。

前の日に予約をしてからワクワクが止まらない。

おかげで今日は待つこともなく入店できた。

回転寿司ってのはさぁ、ふつう何皿くらい食べるものなの?

僕は元気な頃は、マックスで15皿くらい食べていたけど、久しぶりに回転寿司を食べたら、5皿くらいを食べた頃からお腹がキツくなり、頑張って8皿まで食べたが、あまりにお腹がキツすぎて、もう夕食は要らない、というくらいになった。

かなり食が細くなったなぁと自分でも思ったのだが、ひょっとしたら僕の年齢ではこれが標準なのかも知れない。

みなさんは回転寿司を何皿くらい食べますか?よかったら教えてくださいね。

…というラジオ風のまとめはともかく。

まったく別の話になるが、僕は外出するとき、Tシャツと短パンというスタイルで出かける。出かけると言っても、今は病院とリハビリのデイサービスくらいで、それもドアツードアで車に乗せてもらうので、とくに問題がない。それにあっちぃし。

問題は着ているTシャツである。

このTシャツを着ていると、たまに聞かれることがある。

「ドジャースのファンですか?」

たしかに、Tシャツには青地に白い筆記体の文字で、

「Dodgers」

と読める。ドジャースとは、大谷翔平が所属している大リーグのチーム名である。

「違います。これはドジャースのTシャツではありません」

「どこからどう見てもドジャースのユニフォームを模したTシャツですよ」

「よく見てください。Dodgersとは書いてありません」

「Dodesyo、……ドウデショウ?」

「そうです。『どうでしょう』と書いてあるでしょう?これは『水曜どうでしょう』の番組のノベルティTシャツです。いわばドジャースのユニホームを模したTシャツの『パチもん』です。むかしに買って、着るチャンスがなかったから、いま着ているのです。

で、僕は野球ファンでも大リーグファンでもありません。大谷翔平の活躍の様子がテレビで取り上げられたりすると、すぐにチャンネルを変えるくらいですから」

相手は

(なにもすぐにチャンネルを変えるまでしなくてもいいのに……)

という表情をしながら、

「そうですか…」

と、とくにそのあとに話題が膨らむことはない。

いま書いていて思い出した。

「自分には『推し』がいない」と思い込んでいたが、いたね。『水曜日どうでしょう』という「推し」が。

いまはすっかり冷めてしまったが、かつては番組のDVDを集める、グッズを買う、イベントに参加する、番組のロケに使われた日本各地を聖地巡礼をして、果ては韓国やベトナムのロケ地を聖地巡礼する、番組名物の「四国八十八ヶ所巡礼」を追体験するために車で八十八ヶ所を巡り、大泉洋さんが食べたうどん屋さんでうどんを食べる、さらには名古屋にある藤村ディレクターの実家の喫茶店にもわざわざ行って、「小倉トースト」を食べる、など、できうる限りの「推し活」をしていたのだった。僕はどちらかというと、タレントの大泉洋さんと鈴井貴之さんの「推し」というよりも、藤村ディレクターと嬉野ディレクターの「推し」だった。だから渋谷のイベントに行って、二人のディレクターと一人ずつツーショット写真を撮ってもらった時は感激した。

そうか、僕にも「推し活」をしていた時期があったんだな。これからは「推し活」をしたことに胸を張ろう。そしていまさまざまな「推し活」をしている人を応援しよう。

……ってなわけで、調子に乗って2つの話題を書いてしまった。「回転寿司」の話と「推し活」の話を分けて投稿すれば2つの記事になったのに、もったいない。しかし勢いで書いてしまったものは仕方ないから、そのまま投稿することにする。

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8月1日はお盆の日

8月1日(金)

金曜日の午前中は、リハビリのデイサービスの日である。今日は8名中2名が欠席で、6名の利用者が揃ったところでリハビリの先生の朝の挨拶が始まる。

最初に、

「みなさんおはようございます。今日は何月何日ですか?」

「8月1日です」

というやりとりの後、例によってリハビリの先生が「今日は何の日?」の豆知識を披露する。

「今日はパインの日です。パ(8)イ(1)ンという語呂合わせです」

と、何のひねりもない豆知識を披露した。

8月1日。僕にとってはそれよりも重要な日である。

それはお盆の日である。

お盆といえば、8月15日とか、場所によっては7月15日などが頭に浮かぶが、僕の実家のある地域は、むかしから8月1日がお盆の日と決まっていた。

8月1日をお盆の日とするのはなかなか珍しいが、子供の頃聞いた話では、この辺り一帯が、もともと養蚕農家が多くて、通常のお盆の日が繁忙期であり、それを避けるために8月1日をお盆の日にしたという。いま僕の住んでいる町もたまたま8月1日がお盆の日である。やはり同様の理由でお盆の日をずらしたのであろう。

さてリハビリが始まって、各種メニューをこなしていると、リハビリの先生が、

「今日は鬼瓦さん、見違えるようですね。体の調子がいいですね」

という。たしかに自分でも、以前と比べると安定してきたことを実感する。

お昼前に帰宅すると、妻が在宅勤務で家にいた。

「今日はそちらの家のお盆の日でしょう?午後にお墓参りに行かない?ついでにお母さんの病院の面会にも」

なるほど、たしかにこうして平日の日中に夫婦が揃うことも珍しい。小2の娘は学童保育に行っていて不在である。母のリハビリ病院は小学生以下は面会不可なので娘を病院に連れていくことができない。娘がいないこのタイミングでしか面会するチャンスがない。

父の眠るお墓は、母の入院しているリハビリ病院から目と鼻の先である。つまり面会と墓参りをいっぺんに済ますことができる。

加えて今日の僕はすこぶる体調が良い。天気は台風が近づいていて不安定だが、いつもにくらべればはるかに涼しい。

こんなにいい条件が揃った機会はない。この勢いで、妻に車を運転してもらって、母の面会と父のお墓参りに、急遽行くことにした。

入院している母はすこぶる元気で、まあよく喋る喋る。あっという間に予定の30分が経過してしまい、母と別れて、道路を挟んだ向かい側にある霊園に車で向かう。文字通り目と鼻の先にある父のお墓にあっという間に着いた。

途中でスコールに見舞われたものの、雨が小降りになったタイミングで車を出て、父のお墓まで歩いた。お墓に至る未舗装の道には、霊園が手入れを怠っているせいか夏草が生い茂り、歩きにくかった。

春のお彼岸はお墓参りができなかったので、お盆の日に短時間でもお線香をあげてお墓参りできたことで、少し心が軽くなった。

午前中には伯母(母の姉)がお墓参りに来てくれたそうで、お墓には新しい花が供えられていた。

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