書かねば逃げるぞ
I先輩の同窓会伝、大変楽しく読ませていただいております。
私はおそらく先輩方よりも何学年か下になるかとは思いますが、文中に登場したA先生、N先生、Y先生のことは鮮やかに記憶しており、忘れようもありません。
N先生初任時のキレッキレなエピソードは意外でしたが、ご専門の某国を探訪された際のこぼれ話など、人生で一番かと思うほど笑った思い出があります(ちなみに、同率一位で笑った思い出は、鬼瓦先生に引率していただいて行った関西への実習の際、某歴史上の場所で催された寸劇です)。
一年次から素晴らしく研究熱心でいらっしゃった先輩の足元にも及ばず、お恥ずかしい限りですが、せっかくなので私も鬼瓦先生とのファーストコンタクトの思い出を。
私が鬼瓦先生を訪ねたのは、入学してしばらく経ったころです。
学問というものは宇宙のごとく広く遠いもので、わずかな学生生活ではそのうちの1%も手中にできないのだなと痛感しながら卒業しましたが、当時はさらにその1%もわかっていませんでした。専門の話をしようにも、自分で情けなくなるほど低レベルなことしか言えず、大変恥ずかしかったことを覚えています。
その流れというわけではありませんが、出身校の話題になりました。私はてっきり、先生という方々はその学校の卒業生が多いのかなと思っていましたが、どうやら違うようです。「あのー、先生はどちらの大学を…?」と、アホ丸出しな質問をしてしまいました。すると鬼瓦先生、「〇〇大学です」とおっしゃるではありませんか(ブログをお読みの方でしたらおわかりかと思いますので、伏字にします)。
(えっ?〇〇大学?)
私は、その大学ご出身の方にお会いするのが初めてでしたので、固まってしまいました。どっひゃああ!す、すごい!と心の中で叫びましたが、そんな反応をするとますますアホがばれると思い、
「はあー、そうなんですかぁ」と頷くことで精いっぱいでした。
ただ、そのときもう一つすごいと思ったことがあります。
先生、略称である「〇大」と言わず、きちんと正式名称で「〇〇大学」とおっしゃったのです。
まるで、ぜんぜん一般的でない名前だけど、こういうところの者なんです、と言われたような感じでした。
それを、自慢でも謙遜でも、もちろんイヤミでもなく、まったくもって自然な調子でおっしゃいます。ひたすらフラット、と申しましょうか。そこには偏差値も見栄えも、どんな敷居も存在しませんでした。今にしてみれば、それは学問の…いえ、人としてのありかたにつながる非常に重要な態度だったのだと思います。
もちろん当時はそこまで考えが及んでいたわけではありませんが、この方はなんと素晴らしい人格者なのだ!と私は天啓に打たれた気持ちでした。この方が私の恩師になるのだと(勝手に)確信したものです。
その後、私は何人かの〇大生や卒業生が自己紹介する場面をテレビなどで見かけましたが、みなさん「〇大です」か「いちおう〇大です」と言っています。※ものすごく少ないサンプルです。
もちろんそれも愛着ですとか、さまざまな思いの表現の一つでもあるでしょうし、何となく「いちおう」と付けたくなる気持ちもものすごくわかります。
それでも、吹けば飛ぶような新入生相手に、きちんと正式名称で名乗ってくださった先生の分け隔てなさと誠実さを、私はずっと誇らしく思っています。
先生には、飲み会で恋バナをしたり、授業の合間にも人生や進路についての悩みを聞いていただいたりと、今思えば研究の邪魔にしかならない無礼千万なことばかりしてしまいましたが、いつも真剣に耳を傾けてくださって、感謝しかありません。
卒業時、私の色紙に書いてくださった言葉は、
「書かねば逃げるぞ」。
最後の挨拶に訪ねた際には、「書くことだけは、やめないでくださいね」とおっしゃっていただき、大泣きしてしまいました。
誰にも言っていなかったことなのですが、当時私は公募の文学賞で4回連続一次落ちの最中でした。就職のために帰った故郷で5回目の郵送をし、それも途中で落ちてしまいましたが、たまたま編集者から声がかかりました。もっともその後、今に至るまで七転八倒ならぬ千転万倒くらいすることになるのですが。
出会いの話のみならず、卒業のことまで書いてしまいました。
良き恩師、良き友に巡り会えた4年間は、私にとって人生の宝物です。そう言える学生生活であって本当に幸福でしたし、それがあるからたぶんいろいろなつらいことにも耐えられているような気もします。また戻りたいと、どうしようもなくせつなくなるときもありますが、青春とはそういうものでしょうか。
とりあえず、芋煮の季節が来るので今年も作ります。
追伸
数独は私もやったことがありません。が、友人に愛好者がいて、大学時代に部室で何時間もやっていたことが思い出されます。
私が昔嗜んだのは囲碁でして、高校時代に数合わせで同好会創設に駆り出され、卒業までの二年半やっていました。
最初は興味がなかったのですが、やりだすと意外とハマってしまい、授業中に先生が板書した文字列すら白と黒の碁石に見えてきたものです。
中毒性があることを知ったので、仕事が詰まっているときは絶対に手を出さないようにしていますが、妊娠中につわりで死にそうだったとき、気を紛らわすために無心で囲碁アプリをやっていました。そういう意味では命の恩人です。
〔付記〕
卒業生のOさんからの投稿でした。
例によって憶えていないことが多い。「書かねば逃げるぞ」なんていういい言葉、書いたっけ?今となってはまるで自分に向けて書いた言葉のようだ。
関西の実習先の歴史的な場所で即興の寸劇をしたことはよく憶えています。後にも先にも、あの時だけだったんじゃないかなあ。
卒業の時に、「書くことだけは、やめないでくださいね」と言ったことは鮮明に憶えています。
そして卒業から十数年後、Oさんの住む北の町で仕事があったとき、再会することになる。今度はプロの小説家として。
「北の町の再会」
http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2023/02/post-d3b817.html
「1年ぶりの再会」
http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2024/02/post-2a57f0.html
「北の町の再会·夏褊」
http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2024/07/post-ebdb2e.html
「イベント2日目·再会のための旅」
http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2025/02/post-0bd180.html
今や僕はOさんの小説の一読者であり、新作を待ち焦がれる一ファンである。
人生とは、伏線が回収されるもの。なんとつじつまの合う物語だろう。
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