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2025年9月

病院食の憂鬱

9月29日(月)

転院してから、朝、昼、晩の食事は毎食おにぎりである。

転院する前の病院でも毎食おにぎりだったので、ずーっとおにぎりである。

右手が不自由なので左手でつかんで食べられるものということで、おにぎりということになった。

しかしさすがに飽きてきた。いまはもう右手で箸を使えるようになってきているのである。

カレーライスが出たときも、他の人は白米にカレーの汁をかけて食べていたが、僕だけおにぎりだった。

ちょっと腹が立ったのでおにぎりをカレーの汁にぶち込み、おにぎりをぐちゃぐちゃにして食べてやった。少しでもカレーライスに近づけるためである。

ところが、今日の昼食から事態が動いた。

本来は週に3日、朝食にはパンが出ていたのだが、そのときも僕はおにぎりである。

それを、みんなと同じようにパン食に切り替えようと上が決定した。

ついては、パンを飲み込めるかどうかの検査をした上で正式に決定するとのことだった。

どういうこっちゃ???いちいち飲み込みの検査をするのか??俺は毎朝7錠の錠剤を一気に飲み干している人間だぞ!

しかしよく考えればお年寄りの中にはパンを喉に詰まらせる人もいるだろうから、念のため検査が必要なんだろう。そのことは理解するが、しかし杓子定規な話である。

さて、昼食が運ばれてきた。またおにぎりじゃん!!と思って、ほかの小皿の蓋を開けてみたら、バターロールが1個入っていた。

「いまからこのバターロールを飲み込んでいただきます」

ジャムも何もつけずに、無味のバターロールを飲み込んだ。

するとスタッフはおもむろに聴診器みたいなものをとりだし、僕の喉にあてがった。飲み込む音を聞いているらしい。

「はい、合格です」

あたりまえだよ!

ついでに僕は恐る恐る尋ねた。

「あのう、さすがに毎食おにぎりというのが飽きたので、白米に変えていただくことは可能ですか?」

「わかりました。では夕食からそうしましょう」

そこは検査しないのかよ!箸で食べられるかどうかとかさー。

あとは麺類がクリアできればふつうの病院食にありつける。そのことをいつ言い出したらよいか、タイミングを計りかねている。話のわかるスタッフに聞かないと失敗する可能性があるからである。

「もうこの病院に慣れましたか?」といろいろなスタッフに聞かれるが、僕が口ごもるのは、こういうことの多さによる。

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高校時代の恩師との対話・その2

高校時代の恩師との対話

9月28日(日)

着信履歴をみたら、高校時代の恩師から電話があった。

病室では電話ができない。リハビリが終わった後、電話のできるスペースで電話をかけ直した。

「その後どうですか。ちょっと気になってね」

恩師は、僕が「究極のミニコミ誌」の最新号に自分の病気遍歴を600字程度で明け透けに告白したのを読んで、近況について気になっていたらしい。

「実はあのあと……」

かくかくしかじかと、いまの状況をお伝えすると、恩師はひどく驚いた様子だった。

それは当然である。あの文章を書いたあと、僕の病気遍歴は「もうひと転がり」したからである。

恩師は言葉のない様子で、「人生、何があるかわからないね。そんなに病気が続くことになるとは…」

いやいや恩師、あなたの人生もたいがいですよ。僕はあなたの連載を読んでこれまでの恩師の病気遍歴に驚いていたんですから。いまはその文章に励まされてなんとか明るく生きているんです。

…と、喉元まで出かかったが、その言葉をグッとこらえた。

恩師は死んだ父と生年が同じである。若い頃、あれだけいろいろな病気を抱えていたにもかかわらず、電話の声と言葉は高校時代の恩師と変わらなかった。

「こんど、時間があったらお見舞いに行きます」

これは恐縮である。高校を卒業してから40年も経つ教え子のことを、いまだに心配してくれている。

「何もできないのが申し訳ない…」

と恩師は最後におっしゃっていたが、そんなことはないですよ。クドいようですが、僕はあなたの文章に励まされたんです、とはついに言えなかった。

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本が増えていく病室

9月27日(土)

妻が、ノートパソコンと、3冊の本を持ってきてくれた。自宅に届いた本である。

1冊目は、僕がAmazonで注文しておいた本。注文と支払いは病院ででもできる。

2冊目は、職場の仕事仲間が送ってくれた本。驚いたことに、僕宛てに著者のサインが入っていた。どのようにしてサインをもらってくれたのだろう。

3冊目は、以前の職場の元同僚が送ってくれた本。最近、久しぶりに連絡をもらい、近況を報告したところ、さっそく本を送ってくれた。

いずれも読んでみたいと思う本ばかりである。

僕にとって本をプレゼントされることが一番嬉しい、ということを僕の周りの人たちがみんな知っている。もちろん、打合せをしたわけでもない。一人ひとりが選書して、手間ひまをかけて送ってくれる。その時間こそが嬉しくもあり、手にとった本は何よりの薬である。

そして、この記事は、試みに、妻が持ってきてくれたノートパソコンを使って書いている。右手にはまだ麻痺が残るが、ブラインドタッチがなんとかできるようになってきたことをご報告したい。

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ILL COMMUNICATION·再び

ダースレイダーさんのYouTubeチャンネルで、「ILL COMMUNICATION」と題して、歌手の和田彩花さんと対談していた。

2時間にわたる対談だったが、もうね、これほど僕の気持ちをスッキリさせてくれて、代弁してくれた対談はない!というほど、最初から最後まで頷きっぱなしだった。

対談相手が和田彩花さんというのも、これは僕のために用意してくれた対談か?と自惚れてしまうくらい最高の座組だった。

和田彩花さんとは、2020年のコロナ禍の時に、一度だけ一緒に仕事をしたことがある。職場のイベントの「関連イベント」の時だった。

僕は武田砂鉄さんのラジオ番組で和田彩花さんがゲストとして対談していたのを聴いて、初めてその存在を知り、聡明な人だなと、ファンになった。

その後、めぐりめぐって職場のイベントに関連したイベントでご一緒したのである。そのときも、和田彩花さんのコメントが素晴らしく、やはりイメージ通りの人だなと感激した。今回のダースレイダーさんとの対談でもその聡明さは変わらなかった。

ではなぜ「ILL COMMUNICATION」に登場したのだろう。

全然知らなかったのだが、朝日新聞によれば、和田彩花さんは8年ほど前のアイドル時代から鬱病を患っていたとのこと。アイドルという仕事柄、それを公表することを躊躇っていた。最近になってようやく公表できるように、自分の気持ちも整理できたということなのだろう。

病気を公表すること、あるいはどの程度まで公表したらよいかは悩ましい。

これに対してダースレイダーさんは早くから自分の病気を公表してきた。それは、「病気は治すというよりも共に歩むものである」という境地に達したからである。

今回の対談ではそのことがさらに明確に語られていた。以下、その言葉の一部を拾っていくと、

「『もとに戻る』とか『回復した』とか『早く帰ってきてね』という言われ方をしてたんだけど、それには違和感があって、『病気になった後の自分』にしかなれないんじゃないのかなと思うようになった。回復したとかもとに戻るとかいう考え方は、病気が悪いものだという発想にもとづくものではないか」

「病気を告白できないというのは自分が悪い状態なんだということを言えなくなっているこの国の社会的状況に原因がある。

自分にとって病気は日常で、そこに何の後ろめたさを感じる必要はない。背か高いとか低いとかのような、個人の特徴に過ぎない。

本当の自分なんて存在しない。元気な自分が本当の自分?そんなことはない。『病気の自分』も自分なのだ」

「病気に対する社会の嫌悪感がコロナ禍を通して可視化された。誰にでも罹りうる病気なのに」

「病気のことを発信しなければならない。それが発信できる病人の役目だ」

「健常者は、病人というカテゴリーでその人を判断しがちである。しかし病人としてではなく、個人として尊重すべきである」

と、思いつくままに言葉を拾ってみたが、いまの僕にとってはそのすべてが腑に落ちることばかりである。

僕も病院に入院することを「地元に帰る」と言いたいくらい、この8年ほどさまざまな病院のお世話になってきた。今まで避けてきたが、それを発信することも、僕に与えられた役割かもしれない。

「ゆく河の水は絶えずして、しかももとの水にあらず」(鴨長明『方丈記』)の如く、人生も流れていき、元の人生に戻ることはできない。

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口に苦きも薬なり

以前も書いたかも知れないが、Facebookがますますオジサンの解放区になっている。

最近、こんな投稿を見つけた。

「Facebookを見ると、投稿してる人が少なくなっているような気がする」

その人は自分の投稿に対する「いいね」の数が少なくなっていることを気にしているらしい。本来はもっと多いはずなのにと思っている。

実際、いまは特定の「友達」ばかりの投稿が目立っている。

僕も、最初は面白がって投稿していたが、今はめっきり投稿しなくなった。

それは、Facebookの「身内性」がほとほとイヤになったからである。

情報共有の投稿はありがたい。自分の近況を淡々と語る投稿もよい。しかしそれは少数で、アラフィフ以上のオジサンの多くは、自己愛に満ちた投稿や、知識をひけらかす投稿や、権威に対してただ口汚く罵るだけの感情的な投稿や、これ以上にない卑屈な謙遜をしながらその実自慢話をしている投稿や、承認欲求の強い投稿や、「飲みニケーション」の写真ばかりアップしてリア充ぶりを自慢する投稿など、あまり親しくない「友達」のオジサンの投稿に溢れている。

これらは読んでいてイラっとくるものばかりだが、かといって不愉快だから読まないわけではなく、私はちゃんと読むことにしている。なぜこの人はこんなイラっとさせる文章を書くんだろう、という分析こそが楽しいのだ。

高校の同窓会報なんかもそうだ。これも以前に書いたが、戦前の旧制中学時代からある高校なので、さまざまな世代の卒業生が書いているが、その多くが野心的な人が書いた自慢話である。

その高校の出身者の中には、僕が愛読している大先輩の芥川賞作家と、1年後輩の人気作家がいるが、二人はいずれも同窓会報にコミットしていない。その品のよさもまた、僕がファンでいられる理由である。

といって、イラっとする同窓会報をまったく読まないかというと、そんなことはない。一人ひとりの文章を熟読し、「ああ、この人は乗せられて上手く踊っているなぁ」とか、「この人は踊ることなく、素直で好感がもてるなぁ」など、人物査定をするのである。我ながら意地の悪い読者である。

そういえば、ライターの武田砂鉄さんは、自分と思想信条がまったく異なる政治家の本を読んで、敵の思考様式を分析して、それをエネルギーに文章を書いている。僕もそれに近いことをやっている。イラっとする文章を読むこともエネルギーである。

「良薬は口に苦し」ではない。「口に苦きも薬」なのだ。

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チェックテスト地獄

9月24日(水) 某氏退院。

この病院はやたらチェックテストが多い。

入院してしばらくは病院スタッフ(看護師、看護補助、療法士)の完全な管理下に置かれる。ベッドから車椅子に乗り移るのでさえ、病院スタッフの見守りがないとできない。

トイレに行くときもナースコールで病院スタッフを呼んでから、スタッフが来て初めてベッドから起き上がって、車椅子に乗り移り、看護師が車椅子を押して、トイレに入り、車椅子から下りて便座に座ったのを確認してから、スタッフが中座する。

用を足したら、便座から立ち上がってはいけない。スタッフを呼び出してスタッフがトイレに入り、そこて初めて立ち上がることができるのである。

こんな手順を踏むから、急を要する時は大変である。出物腫れ物ところ構わず。間に合わないと大惨事になる。

転院前の病院ではそんなことはなかった。一人で車椅子でトイレに行くことは、誰の許可を得ることもないし、見守るスタッフもいなかった。それはそれでどうかとも思うが、牧歌的だったのである。

だから早く自由意思で車椅子に乗って自走したいのだ。自走することを「自立」という。

数日前、チェックをクリアしてようやく「朝7時~夜9時までの自立」を許可された。残すは、夜間の自立の許可のみである。

夜間は、トイレに行くタイミングに病院スタッフによるチェックが行われる。

ベッドから車椅子に乗り移り、車椅子用のトイレの札を「空室」から「使用中」にひっくり返し、扉を開けてトイレに入り、便器に車椅子を近づけて、ストッパーをかけて便座に座る…と、ここまではよかった。

用を足したあと、座ったままでスタッフを呼び、立ち上がろうとすると、

「残念、不合格です」

えええぇぇぇ?!ここまで上手くいってたのにぃぃぃ???

「便座に接して停めた車椅子の角度がちょっと違っていました」

そんなことで???

「また明日の夜に再試験をやります」

要するに車庫入れの際に線をはみ出て停めたというようなもんである。

その翌日の夜、再試験をやって、ようやく合格した。これで終日、ナースコールを押すことなしに車椅子に乗って自走することことが可能になった。夜中にナースコールを押すたびに自責の念に駈られていただけに、気持ちがたいぶ楽になった。

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○○ファースト

武田砂鉄『「いきり」の構造』(朝日新聞出版、2025年)を読んでいくと、拾いたくなる文章がたくさんある。

なかでも本書の最終章に語られている言葉は、とくにいまの僕の思いを代弁してくれている。ある政党による「日本人ファースト」というキャッチフレーズについて述べたくだりである。

「ファーストを作るためには、セカンドに追いやる存在が必要になる。外国人だけではない。性的少数者や終末期医療の患者たちを苛む言説を撒き散らしている。その言動に多くの人が熱狂している。(略)

明日から、誰だって、彼らの設定するファーストではなく、セカンドに転げ落ちるかも知れない。2年ほど前、私のよく知る70代後半の女性が、商業施設の階段で転び、大腿骨を骨折してしまった。それまでとても健康的な人だったが、入院生活を余儀なくされ、厳しいリハビリの末、退院した。ところがしばらくして、レストランの入り口で同じように転んでしまい、入院、リハビリ、退院の流れを繰り返した。あちこち出歩くのに不自由はありつつも、なんとか日常生活を取り戻しているようだ。人間は誰もが、明日どうなるかもわからない存在であり、どうかなってしまった時に、日常を取り戻すのに相当な労力を必要とする。自分にもいずれそういう瞬間がやってくる。『日本人ファースト』と叫んでいる人にも、それに熱狂する人にも、ファースト扱いされない場面がやってくる。やがて、ではなく、熱狂した帰り道かもしれない。物議をかもす発言で人を操ろうという人は、そちら側にはいかない確信があるようだが、そんなはずがない」(250頁)

ここで紹介されている、入院、リハビリ、退院を繰り返す高齢女性の話は、いまの僕にそのままあてはまる。僕だってこんなことになるとは思わなかった。自分がいつ社会の中の弱者として排斥される存在になるかはわからない。その可能性は誰にでもあるのだ。

私は少し前にこのブログに寄せられた江戸川君のコメントに、同意する意味で次のようなコメントを書いた。

「社会保障の予算を減らして軍事費にまわせとか棄民政策を声高に主張する政党は本当に許しがたいです。いずれ自分も当事者になる可能性があるのに」

勇ましい発言をする人は、差別や病気に苦しむ人のことを顧みない。想像もできない。想像もできないから自分もそうなる可能性があることに思いが至らない。したがって政策も思いつかない。

だから僕は「○○ファースト」を標榜する政治家は、例外なく「うさんくさい人物」と断定することにしている。よく恥ずかしげもなく「○○ファースト」という言葉が使えるなぁと呆れるばかりである。

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女性週刊誌

「駆け出しの入院患者」である僕は毎食、病室から食堂に強制的に連れて行かれるのだが、食事の時間より30分くらい前に連れてこられ、そこにスタンバイさせられることが多い。うっかり丸腰で行ってしまうと食事の時間まで時間を潰すのに苦労する。

最近になってようやく「スマホと本」を小さな手提げかばんに入れて持っていく知恵をつけたが、最初は備えつけの新聞や雑誌を読んでいた。しかしすでにほかの人の手に渡っていることがあり、なかなか読みたい新聞や雑誌にありつけることは少ない。それでなくても雑誌の種類は限られているのである。

それでも「活字中毒」であり「情報スケベ」である僕は、とりあえず何でもいいから雑誌を手に取る。手にした雑誌は女性週刊誌だった。

久しぶりに読む女性週刊誌、といってもこれまで熟読したことはない。

芸能ゴシップと皇室ネタで埋め尽くされているのは、たぶんむかしと変わっていないのだろう。ひとつひとつの芸能ゴシップは、見開き2ページで簡潔に完結している。

「水谷豊、鬼父宣言!」

という見出しが気になったので読んでみると、俳優の水谷豊さんを父、伊藤蘭さんを母に持つ俳優の趣里さんがミュージシャンと妊娠婚したらしい。その相手がまあチャラ男のようで、数々の女性と浮き名を流していた。当然両親は二人の結婚に難色を示していたようなのだが、生まれてくる子どもには罪はないので最終的には同意した。父の水谷豊さんは、「たとえ相手に浮気されても助けない!」という宣言をしたというのである。なるほどそれで「鬼父宣言」か…。

女性週刊誌といえば「馬鹿っ母」である。そのことについては前に書いた。

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-38c0.html

「鬼父」は、「馬鹿っ母」を引き継いでいる表現として、女性週刊誌の伝統を守り続けていた。

ほかには、歌手·長渕剛の不倫に関する記事や歌舞伎役者の松本白鴎の記事もあった。いずれの記事も、ショックだったのは内容もさることながら、志穂美悦子と松本白鴎の現在の写真である。長渕剛の妻·志穂美悦子は若い頃の面影がなく、松本白鴎は歩くのもままならず車椅子生活を続けながら、現役の役者を続けている。年を取ると誰でもそうなることとは言え、若い頃を知っている身としては、深く考え込んでしまう。やがてその矛先は自分に向かう。いまの俺も同じように、まわりからはそう見えているのではないか、と。

結局安心して読めたのは、武田砂鉄さんが連載している「テレビ磁石」だけだった。

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タメ口

9月21日(日)

久しぶりに武田砂鉄さんの本を読んでいる。『「いきり」の構造』(朝日新聞出版、2025年)という最新刊だ。

武田砂鉄さんの本の全体的な特徴は、あたりまえのようにたれ流されている言説や、「そういうことになっているから」という慣習めいた発言に対し、立ち止まって言葉をこねくりまわしながら、「本当にそうだろうか?」と疑ってかかるというということである。どの本にもその視点が貫かれている。

僕もそういう思考をするクセがある。それは、むかしからそうだったのか、あるいは武田砂鉄さんの本を読み始めてからそのような思考様式がそなわったのか、記憶が定かではない。

しかし武田砂鉄さんの本を読む以前に、コラムニストの小田嶋隆さんの文章に惹かれていたことからすると、元来僕に備わった思考様式である可能性が高い。この点、むかしから僕を知る人に確かめてみたい気もするが、おめえのことなんか知らねえよ!と言われるのが関の山である。

ここ最近の入院エピソードもそうした思考様式から書いたものが多く、結局はたんなる「愚痴」である。不快に思っている読者(ダマラー)も多いだろうと思いながら、僕の性分なのだから仕方がないというスタンスでつい書いてしまう。僕の愚痴がまったく不届き千万なことなのか、ある程度共感できるものなのかは、いつも悩んでいる。

かなり前置きが長くなったが、例えば、こういう事象はどうだろう?

いま入院しているリハビリ病院の患者は、高齢者がほとんどである。

どのくらいの高齢者かというと、先日まで同じリハビリ病院に母が入院していた(今は退院)。看護師さんにそんな話をしたとき、

「お母様はいくつですか?」

「81歳です」

「じゃあまだお若いですね」

「ええぇぇぇ!?若いんですか?」

「うちの病院は80代後半から90代の患者さんが多いですから」

「じゃあ僕なんか『クソガキ』ですね」

というやりとりがあった。それくらい高齢者で溢れているのである。リハビリ病院という性格上、それはやむを得ないことだ。

しかしながら僕が気になるというか、違和感を抱くのは、病院スタッフがみな「タメ口」で高齢の患者さんに話しかけるということである。

ほかの病院に入院したときにもそんなことがあったから、全国共通のスタイルなのだろうか。

僕はいつもその場面に遭遇するたびに、イラッとしてしまう。

例えて言えば、幼稚園の先生や保育士さんが幼児に声をかけるのと同じ感じである。

高齢者はある意味子どもに還るようなものだから、理に叶っているというのだろうか?まさかそんなことはあるまい。

高齢者の立場になって考えると、自分より若い他人からタメ口で話しかけられることに対して、どう思っているのだろうか。人それぞれだろうが、僕だったらイラッとくる。

なぜイラッとくるのか、考えてみると、そこに、管理したい病院側と、管理されるべき患者という力関係がはたらいているからではないだろうか。

病院なので、患者を管理するのは当然なのだが、そのためにはタメ口で話しかける必要はあるのだろうか。

穿った見方をすれば、高齢の患者さんの脳の認知機能が低下していることを理由に、タメ口で話しかけることためらいがないのではないか。どんな病人であれ、もう少し高齢者に敬意を払ってもいいのではないか、とまで思ってしまう。

僕が違和感を抱いたのは、タメ口のなかに、病院内の支配ー被支配関係がみてとれるのではないかと勘ぐってしまったことによる。ええ、誰にも共感されない話だということは重々承知してますよ。

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総無責任体制

9月20日(土)

毎食は食堂で食べるということは前に書いた。

食堂に連れていくのも、食堂から戻るのも、すべて病院スタッフ次第である。何しろ車椅子の自走がまだ許されてはいないからである。

転院前の病院では車椅子で自走してトイレにまで行けたのだが、そんなことはこっちの病院では知ったこっちゃない。こっちはこっちのやり方があるんだという理屈で、それじたいはまったく間違っていない。

食事のあとは必ず歯磨きをする。

「そろそろ歯磨きに行きましょうか」

食事が終わってしばらくしてから病院スタッフに声をかけられて、初めて歯磨きをすることができる。ただし食堂の洗面台は数に限りかあるので、大抵は食堂近くの病室の洗面台を使用する。洗面台にはベルが置いてあって、

「終わったらベルを鳴らしてくださいね」

といって病院スタッフは去ってゆく。ベルというのは、ホテルのフロントとかにあるベルである。

いつも思うのは、「ベルが本当に聞こえているのか」ということと、「僕が歯をみがいていることを忘れられてはしないか」ということである。

何しろ食堂はてんてこ舞いの忙しさで、僕のことなんか誰も気にしてはいないのだ。僕よりも手のかかる患者さんばかりなので、それは致し方ないことである。

僕を洗面台まで連れてきたスタッフも、すぐに別の仕事が入ってしまうので、連れてきたはいいが、たちまち僕のことなど忘れてしまう。

案の定、ペルを鳴らしても誰も来ない。しばらく待っているが、本当に誰も来ない。

はしたないと思いながら、ベルを連打するのだが、それでも誰も来ない。自走が禁止されているので、自分で勝手に病室に戻ることもできない。

待つこと30分、ようやく存在が気づかれ、病室に戻ることができた。

自走が禁止されているんだから、最後まで責任を持てよ!と言いたかったが、歯向かうと『カッコーの巣の上で』みたいになると思うのでグッとこらえた。みんなで責任を負うような体制を作ると、誰も責任を負わなくなるのだということを学んだ。

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引きが強いリハビリ患者

9月19日(金)

転院4日目。

相変わらず憂鬱な日々だが、「こんなことってある?」という出来事があった。

午前中のリハビリは、Sさんという若い好青年の理学療法士さんが担当である。初めての担当なので、「はじめまして、よろしくお願いします」と挨拶をすると、

「実は僕、先生の本を読んだことがあります」

と言われ、ええぇぇぇ!!となった。

聞くと、僕が20年前、30代の半ばに出した、最初の専門書である。

「どうしてあんな地味な本を?!」

そもそも一般向けに書かれた本ではない。普通だったらまず目につかない本である。

しかもなぜ理学療法士さんが自分の専門と全然関係のない本を読むのか?

「僕の父は高校の教師だったのです。家には蔵書がたくさんあり、僕も小さい頃から父と同じ勉強をしたいと思っていました」

なるほど、そうするとお父さんの蔵書の中に僕の本が混ざっていたのかも知れない。

「で、大学では父と同じ専攻に進んだのですが、1カ月ほどでやめてしまい、それから紆余曲折あって、理学療法士の道に進みました」

ということは、大学生の1カ月間か、あるいはそれ以前に僕の本を読んだということか。

よりによってなぜ最初の本を…。そのあとに出した本の方がよっぽど面白いよ(全然売れなかったけど)、と口もとまで出かかったが、いやらしい宣伝になるのでそれ以上何も言わなかった。

それより、紆余曲折あって理学療法士になったというその顛末が知りたいと思ったが、根掘り葉掘り聞くのもアレだと思ってこちらからは何も聞かなかった。

それでも問わず語りの彼の話を聞くと、こちらが羨ましくなるほどの学者一族であることがわかった。

「これはあまり他人には言っていないのですけれど、母方の祖父は東日本大震災の頃、○○大学の学長でした。今は退職しましたけど」

えぇー!!マジで~?

「○○大学といったら、以前勤めていた職場の隣県の大学ですね。ひょっとしたら一度くらいお目にかかったことがあるかもしれない」

東日本大震災のころ、○○大学の偉い人たちがうちの職場に来たことがあって、ペーペーの僕もその会合に参加したことがあるので、その時に会っているかもしれない。ほとんど記憶の彼方だけど。

僕は病院で、何度となく自分の仕事について聞かれた。しかしそれに答えても、「ふーん」という反応が返ってくるばかりだった。あたりまえだ。生きている世界が違うのだから。

しかしその認識は間違いだった。どこの世界にいても、「拾う神」はあらわれる。

この病院にいることが、少しだけ楽しみになってきた。

「また担当させてもらったら、お話しさせてください」

どこまでも聡明な青年だった。

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管理社会の憂鬱

9月18日(木)

入院したとたん、病院の完全な管理下に置かれた。

ほんと、映画『カッコーの巣の上で』を地で行く展開である。

リハビリ病院の宿命なのかも知れないが、何をするにも病院スタッフの許可というか、立ち会いが必要である。

前の病院では自分一人でベッドから起き上がって車椅子に乗り移り、自走して車椅子用のトイレに一人で入り、用を足して病室に戻るという一連の行為を誰の許可も得ずに自由にできたのだが、こんどの病院ではそれが絶対に許されない。

そもそも勝手にベッドから起き上がることが許されない。まずナースコールで病院スタッフを呼び、スタッフが来てからベッドから起き上がり、車椅子に乗り移り、スタッフの後押しで車椅子用のトイレに行く。トイレの中にまでスタッフがついてきて、車椅子からトイレに移り、ズボンとパンツをおろして便座に座るところまで見届けて、ようやくスタッフがトイレを出る。

用を足し終わったあとも大変だ。まず、便座に座ったままでいなければならず、絶対に立ち上がってパンツやズボンを上げたりしてはいけない。スタッフを呼び、スタッフが確認した上で立ち上がることができる。大事なのはスタッフが一から十まで見守ることなのだ。

一度、用を足したあと、一人でうっかり立ち上がってパンツとズボンを上げてしまった。そのあと入ってきたスタッフに、

「スタッフの中には、勝手に立ち上がると烈火の如く怒る人がいますから注意してください」

と釘を刺されて冷や汗をかいた。

病室に戻り、患者がベッドに横になることを確認すると、勝手に起き上がらないようにベッドの柵を塞いで、ようやくスタッフが帰る。まるで牢屋に入った心持ちになり、いささか屈辱的である。

食事のときは、自立できないと見なされた患者が食堂に集められ、病院スタッフの監視下に置かれる。食事が終わったからといって勝手に自分の病室に戻ることは許されない。すべて病院スタッフの指示に従わないといけない。

もちろんこれは、一人で動いても心配ないという許可が降りれば緩和される。僕は入院してまだ3日目なので、どこまで自分でできるかをはかりかねているため、とりあえずすべて監視下に置かれているのである。

仕方のないことなのだが、やはり屈辱的な仕打ちである。スタッフが終始不機嫌で、しかも多少乱暴なタメ口を使うのも、それに拍車をかける。

母の言う「郷に入っては郷に従え」という意味がようやくわかった。考えてみれば、僕自身にプライドがあることがいけないのである。自己評価を最低にする癖をつけよう。あとは、癇癪を起こさないように気をつけよう。

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リハビリ病院の洗礼

9月17日(水)

転院2日目。

さっそくフルスペックのリハビリが始まった。

1日4回、合計で3時間のリハビリを行うのがフルスペックのリハビリである。

今日は4回中3回が、歩きのリハビリだった。この歩きのリハビリが一番辛い。

しかも3回とも担当者がちがう。一応一人につき担当者は決まっているのだが、すべてを受け持つわけではない。

担当者が違うと、当然リハビリのやり方はさまざまである。

どんなリハビリをさせられるのか、いつもビクビクする。

「3人目の担当者はこのリハビリ病棟のリーダーの方です」

とあらかじめ聞いて、嫌な予感がした。ベテランの療法士さんでリーダーということは、厳しいに決まっている。

そのベテランの療法士さんは、たしかにリーダー然としていた。僕のマッサージをしながらも、視線はほかの若い療法士さんたちの様子に向いている。時折若い療法士さんに声をかけたり、アドバイスをしたりする。

若手も、そのリーダーを見かけると「ほうれんそう(報告·連絡·相談)」をしたりして、慕われているのか、恐れられているのか、よくわからない。ただ言えることは、僕はとても苦手なタイプだった。

さて、肝心なリハビリの方は、僕の体の固さと体力のなさを嘲るような表情をして(被害妄想)、

「とりあえず何もつかまらずに歩いてみましょう」

「何もつかまらずにですか???」

「ええ」

何もつかまらずに歩いた経験はない。

いきなり、獅子が我が子を千尋の谷に突き落とすようなことを言う。

もちろん療法士さんの介助はあるのだが、それでも不安である。

結局、30mくらいの距離を4セット歩いて、リハビリは終了した。最後は疲れはててしまいボロボロだった。

療法士さんはニヤニヤするだけで、歩き方がいいとも悪いとも言わなかった。

僕は回復の道は遠いと悟った。ひょっとしてそれをわからせるために初日にこうした荒療治をしたのかもしれない。

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転院

9月16日(火)

1カ月ほど過ごした旅先の病院に別れを告げ、自家用車で3時間ほどかけて自宅に比較的近いリハビリ専門の病院に転院した。

入院を転々としている身にとっても、病院の生活というものにはいつまで経っても慣れない。それぞれの病院にはそれぞれのお作法があるためである。リハビリ病院入院経験者の母からも「郷に入っては郷に従え」と口酸っぱく言われた。

恐いのはリハビリ専門の病院ということもあって、これまで以上にリハビリがハードになるんじゃないかという懸念である。はたしてその厳しいリハビリに耐えられるだろうか。

いつになったら仕事に復帰できるか、ますます不安になってきた。

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巣の上で(9)叫ぶ人

9月15日(月·祝)

以前、近くの病室で、「お願いです。早く助けてください!」と1日中叫んでいるおばあさんがいたことを書いた。

その人はもう退院して、ようやく静かになったと思ったら、今度はダミ声で叫ぶおばあさんが入院してきた。

看護師さんが「食事は食べないの?」と聞くと、「食べない!食べない!食べな~い!」と叫ぶ。「じゃあ薬だけでも飲もうよ」と言うと、「飲まない!飲まない!飲ま~ない」と駄々をこねる。このやり取りが毎食続く。毎日食事を何にもとらずに、そのうえ薬を飲まないのは何にせよよくない。看護師さんも埒があかず困っている様子だった。

そのおばあさんもいつの間にか退院して病室界隈は再び静謐を取り戻した。

そしたら今日、その二人を上回るおばあさんが入院した。

そのおばあさんは、えらく興奮して、というか半狂乱のような声を出し、突然、「助けて!助けて!助けて!○○さんが恐い!○○さんが恐い!助けて!助けて!」と絶叫している。

「○○さん」とは看護師さんの名前である。僕もその看護師さんに担当してもらったことがあるが、非常に穏やかな人で、決して恐い人ではない。

その声はほかの看護師さんの耳にも届き、何人かの看護師さんが間に入ってようやく静かになった。そのおばあさんの興奮状態もどうやら落ち着いたらしい。

僕の病室は扉を開け放しにしているので、ほかの病室の叫び声や、廊下での看護師さんの立ち話も丸聞こえである。

看護師さんの立ち話によると、おばあさん患者はひどく興奮して、目の前にいる看護師さんの目をクッと見つめ続けながら手を強く握りしめて、看護師さんを正確に名指ししながら「恐い!助けて!」と叫び始めたという。こうなるとヘビに睨まれたカエルさながら、看護師は身動きがとれなかったのだという。

「あれは大変だったわねえ」と看護師さんたちはその騒動のあとに笑いあっていたが、僕がその看護師さんだったら確実にメンタルがやられていただろう。だからこそ、看護師さんたちは笑い飛ばさないとやってられないのかも知れない。

最近は「カスハラ」(カスタマーハラスメント)という言葉がだいぶ定着してきたが、例えば「クランケハラスメント」という言葉を使うのには慎重でありたい。クランケ本人もまた、ままならない病気で苦しんでいるからである。その板挟みに悩まされているのは現場の看護師さんさんたちである。

さて、1カ月お世話になったこの病院とも9月16日(火)でお別れ。自宅に近いリハビリ病院に転院して引き続きリハビリに励む。環境が変わる転院先で、引き続きブログを更新できるかはわからない。

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余生を生きて○年

僕が「究極のミニコミ誌」と読んでいるガリ版刷りの会誌に原稿を寄せたのは、今年の3月のことで、掲載は5月である。

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2025/07/post-49c955.html

その次号の読者投稿欄には、僕の文章はまったく反響がなかったが、代わりに「余生を生きて12年」という連載が始まっていた。書いた人は私の知らない方で、おそらくペンネームを使っていると思われる。

その方は、12年前に大病を患い、その後もさまざまな病気に苦しみながら、それでも前向きに生きていることを綴っていた。

僕はそれを読んで大いに共感し、編集された方に感想を送った。自分も8年前に大病を患い、その後もさまざまな病気に悩まされているので、このたびの連載に共感し、僕ならさしずめ「余生を生きて8年」です、とまとめた。文字数にして600字あまりの中に、具体的な病名を折り込みながら、8年前から今までの、正確に言えば今年の7月までの病気遍歴を書いた。

そうしたところ、その編集の方から返信がきた。ぜひ次号の読者投稿欄に掲載させてほしいと。ただし具体的な病名が書かれているが、公開しても問題ないでしょうか、と心配されていたので、公開しても構いませんと返信した。どうせ知り合いは誰も読まないんだし、僕を知る読者は高校時代の恩師しかおらず、恩師にはすでに粗方お話ししていたので、何の問題もなかった。

そして今日、「究極のミニコミ誌」の最新号を家族が病院に持ってきてくれて、読者投稿欄に僕の文章が掲載されていたことを確認した。

しかしなんか物足りない、と思ったら、8月半ば新たに発症して今も入院している病気のことが書かれていないせいだと気づいた。執筆のタイミングを考えたら当然のことなのだが、僕はつくづく余生のことを考えた。この先も何が起こるかわからない。「余生を生きて8年」の「余生」はあと何年更新されるだろう。僕は「一寸先は闇」という月並みな言葉を噛みしめた。

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救急車の思い出·後編

(承前)

Bさんが寝ている和室に行くと、Bさんが息苦しそうに呼吸をして、大汗をかいて布団に入っている。これはたしかに尋常ではない。学生たちが「様子がおかしい」と僕の部屋に駆け込んできたことは、決して大げさなことではない。

「あのぅ……」

Aさんが口を開いた。

「ひょっとして、私の霊感がうつったんじゃないでしょうか?」

霊感がうつる?霊感って、伝染するものなのか???

とにかくBさんをこのまま放っておくわけにはいけない。この時間だと病院はどこも閉まっているし、これで何か不測の事態が起こったら僕の責任だ。

僕は救急車を呼ぶことにした。

実習中に救急車を呼ぶなんて、前代未聞のことである。しかしBさんに何かあっちゃいけない。

救急車が来た。僕は救急車に同乗した。ほかに、Bさんと親しいCさんも同乗したと記憶する。

「とりあえず一晩入院しましょう」

救急車で運ばれた病院の先生が言った。「ついては入院の承諾書に署名してください」

ふつうなら家族が署名するところだが、代理で僕が署名するしかなかった。

「あのぅ……」

Bさんが息も絶え絶えに口を開いた。

「この私の携帯電話の一番上の電話番号にかけて、事情を説明していただけないでしょうか」

「誰?ご家族?」

と聞いたら、Bさんは言いにくそうに、

「彼氏です」

と言った。

おいおい、家族に連絡する前に彼氏に連絡するのか?

僕がかけるとややこしくなるため、同行したCさんに電話をお願いした。

僕は、その彼氏はBさんをそうとう束縛するタイプなのだろうと推測した。だから家族を差し置いて、いの一番に彼氏に電話したのだ。

その晩は旅館に戻り、翌朝、再びCさんと病院に向かった。Bさんはすっかり回復していて、安堵した。退院の手続きをとり、ほかの学生たちと合流した。やれやれ、一件落着である。

僕はその翌月の9月に職場を移ったから、それ以来、AさんにもBさんにもCさんにも会っていない。

でも今ならはっきりと言える。

あれは霊感なんかじゃなかった。熱中症だったのだ、と。

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救急車の思い出·前編

リハビリをするほかは、もう毎日がヒマでヒマで、書くことが何もない。いくら捻り出そうとしても、何にも思い浮かばない。

ヒマだと、自分がどんどん老け込んでゆくことがわかる。浦島太郎の玉手箱というのはこういうことのメタファーなんだなということがよくわかる。

このたびの入院では、初めて救急車に乗った。

(とうとう俺も救急車のお世話になってしまったか…)

と気落ちしていたのだが、待てよ、救急車に乗ったのは初めてではないぞ、と記憶がよみがえってきた。

それはもう25年ほど前のことになる。僕がまだ「前の前の職場」に勤めていた時のことである。

毎年、夏の8月に、学生を連れて関西方面に実習に行くことになっていた。実習先の京都に行ったとき、名前がすぐに思い出せないので仮にAさんとしよう、そのAさんがこう言った。

「私、霊感が強いので、京都に行けるか心配です」

たしかに京都は歴史的に大きな戦乱がいくつもあり、その霊が跋扈していそうな古都である。でもいくらなんでもそれで何かあるわけではないだろう。

だが僕の見通しは甘かった。養源院というお寺をめぐっていたとき、Aさんがとたんに気分が悪くなったのだ。

養源院には血天井というものがある。この血天井とは、伏見城の戦い(1600年)で自害した徳川の将士らの血で染まった廊下を、弔いのために天井に上げたものである。

伏見の戦いで亡くなった者たちの霊を感じとったということなのかぁ??

養源院を出た途端、Aさんは座り込んでしまった。僕はAさんが霊感が強いという告白を、過小評価していたのだ。

それでもしばらく経つとAさんは復活し、なんとか無事に京都の巡見を終えた。

その日の晩。

京都の旅館に泊まり、そろそろ寝る時間という頃に、学生たちが慌てた様子で僕の部屋にきた。

「先生、大変です!明らかに様子がおかしいんです」

「誰が?Aさんか?」

「いえ、Bさんです」

「Bさん???」

どういうこっちゃ!Bさんも霊感が強かったなんて聞いてないぞ!

僕は慌ててBさんのいる部屋に向かった。

(つづく)

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ILL COMMUNICATOR

9月10日(水)

ラッパーのダースレイダーさんのYouTubeによると、1週間の入院を終えて自宅に戻ったらしい。自宅からひとり語りの配信が行われていた。

1週間の入院では血液透析を初めて体験したそうで、入院加療後は、体調がよくなったという。声のトーンも戻ってきたように思えた。

これからは通院して週に3回の血液透析をするという。ここからが「インドア派宣言」の正式なスタートである。

1回の透析には3~4時間かかるそうで、その間は暇なので読書したり動画配信サービスを見たりするという。治療の時間が終わっても、そもそも入院中は暇なので、ラップの詩を作ったりして、「インプット」だけでなく「アウトプット」もしたという。

僕の場合とまったく同じだ。そもそも入院中は「孤独」と「暇」に苦しめられるので、読書するか動画を観るしかないのである。でもそれだけでは寂しいから何らかの「アウトプット」もしたい。それが、ダースレイダーさんの場合は作詞であり、僕の場合は文章を書くことなのである。

そういえば、ダースレイダーさんのYouTubeで4年前に配信された動画がめちゃくちゃ面白くて、あまりに面白かったのでこのブログに感想を書いたことがある。たけし軍団のグレート義太夫さんと対談した「ILL COMMUNICATION」というタイトルの動画である。後にこのタイトルは、ダースレイダーさんの著書のタイトルにもなった。

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2021/02/post-80fece.html

さて、ダースレイダーさんは今回の退院で体調がよくなったせいか、あれもしたいこれもしたいと、やりたいことを次々とあげていった。病人が体調がよくなると調子に乗る、という「病人あるある」である。

そしてそれとは裏腹に、病人としての愚痴も語られていた。具体的には、政府が進めようとしている「高額医療費制度の上限限度額の引き上げ」の問題である。これは高額医療費を払っている病人にとっては文字通り死活問題であり、病人に対する棄民政策であるといえる。誰もが当事者になる可能性があり、まずは病人が声をあげなければならない。そのためにはダースレイダーさんのような「ILL COMMUNICATOR(イル コミュニケーター)が必要であり、僕もひとりの「イル コミュニケーター」として、病人をとりまく理不尽な政治的·社会的状況にコミットしていきたい。

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どう断ったらよいものか

高校時代の有志のグルーブLINEで、久しぶりに飲み会の誘いが来た。

「皆さん、ご無沙汰しております。

まだまだ暑い日が続きますが、来月あたりは少し涼しくなっていると思い、飲み会を設定したいと思います。来月の10/24(金)新宿あたりで考えております。日程の調整をお願いします。また、事前に打診致します」

ゴロウ君からだ。テニス部に所属していたゴロウ君は高校時代からクラスのリーダー的存在で、今も有志による飲み会の呼びかけ人になっている。

そんなゴロウ君に最近に会ったのは、2年前の11月、恩師を招いた公式のクラス会のときである。

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2023/11/post-370d77.html

ずいぶん恰幅もよくなり、よく見たら前歯が1本ない。

クラスのムードメーカーだったアベ君が聞いた。

「おまえ、どうして前歯が1本ないの?」

「焼き鳥を食ってたら歯が欠けた」

えぇぇぇ!!そんなんで歯が欠けちゃうの??

アベ君はすかさず、

「とりあえずおまえは歯を入れろ!」

とひと笑いが起きた。そんなことを気兼ねなく言える、楽しい会だった。

しかしグループLINEを通じての、クラスの有志の飲み会には、これまで参加したことがない。あまり乗り気になれなかったこともあるが、ここ数年は体調不良が続いたため、現実に参加することができなかったのである。

僕はずっと「体調不良により参加できません」と曖昧な答え方をしてきたが、前回の飲み会のお誘いをいただいた時、ある女子が、具体的に病名をあげて「参加できない」という返事をしてきた。それははちょっと深刻な響きをする病名で、不参加を表明するのも無理はないと誰もが思った。そして多くの人がその女子にお見舞いの言葉を送った。

今回の飲み会の誘いも、まだ回復していないことを理由に不参加の返事があった。しかし返信の様子では、徐々に回復に向かっている様子が感じられた。

その返事を読んで、さぁ僕はどうしよう、と悩み始めた。今回も「体調不良」を理由に断ってもよいものか。漠然と「体調不良」と書いてしまうと、「ことによるとあいつは、断る口実として『体調不良』と言い続けているんじゃねえの?」と思われるのではないかと、急に不安になったのである。

でははっきりと病名を公表して入院もしていると説明して断ろうか、とも考えてみたが、そんな細かい事情を説明しているのは、仕事でご迷惑をかけている上司と、ほかにごく数名である。別に隠すことでもないのだろうが、ほかの親しい人を差し置いて、ほとんど会わない人たちに詳しい説明をすることが許されるだろうか。

他人から見たらどうでもいい話だが、誰にどの程度、今の状況を伝えるかは、けっこう悩ましい問題なのだ。極度に心配されても困るし、無責任に広められても困る。さてどう断ったらよいものか。

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「インドア派」では済ませたくない

元気な頃は、毎週金曜日のお昼から配信しているYouTube番組「ヒルカラナンデス」をよく視聴していた。時事芸人のプチ鹿島さんとラッパーのダースレイダーさんが約2時間、その週に起こった時事ネタを、「まじめに」「茶化しながら」トークをくり広げる。このグルーヴ感がたまらない。聴くほうは、政治を始めとする時事的な話題についての知識と、かつ二人がくり出す掛け合いを面白いと思う感性が試される。

しかし昨年(2024年)11月に入院した頃から、「ヒルカラナンデス」を試聴する気力がなくなってしまった。一旦視聴しなくなると、今度はその習慣が続いてしまう。

先日久しぶりにダースレイダーさんのYouTubeチャンネルをたまたま覗いたら、「インドア派活動報告」というタイトルでひとり語りする動画があり、ちょっと胸騒ぎがした。

それによると昨年末くらいから体調をくずし、いよいよ血液透析をしなければならなくなり、明日から入院すると語っていた。

1週間の入院後は、退院して週3回の血液透析をしなければならない。つまり長期の旅仕事ができなくなり、活動が大幅に制限されるわけである。

なるほどそれで「インドア派」になるということか。

もともとダースレイダーさんには勝手な親近感がある。出身大学の学部の8年くらい下の後輩にあたり(もちろん面識はない)、若い頃からさまざまな病気に苦しめられていた。トレードマークの眼帯は、脳梗塞の影響で片目を失明したことによる。

その他にもさまざまな病気を抱えているにもかかわらず、本業のラップのライブや選挙の取材や映画の制作とその舞台挨拶などで、日本全国はおろか、世界中を精力的にとびまわっていた。その様子を見るにつけ、体調は大丈夫だろうか、と、同じく出張で飛び回っていた僕も、余計なお世話な心配をしていた。

僕もまた8年くらい前からいろいろな病気に苦しんでいたから、ダースレイダーさんの活躍を見ながら自分を励ましていた。彼の著書『イル・コミュニケーション 余命5年のラッパーが病気を哲学する』(ライフサイエンス出版、2023年)を読んでどれだけ励まされたかわからない。

その彼がこれまでの活動の多くを封じられて「インドア派宣言」をせざるを得なくなり、今後の活動をどうすればいいのか、悩んでいるようだった。ふだんは楽天的にみえる表情が、この動画では憂鬱な表情に見えた。

動画の中で、「生きるとは単に生命を維持することではなく、尊厳のある生き方をいかに構築していくかということだ」と語っていたのが印象的だった。

また、「入院中に何ができるかわからないけど、これまで溜めてきた『積ん読本』をこの機会に読みたい」という発言は、僕も同じ発想でそうしてきたので、微笑ましかった。

ダースレイダーさんの煩悶はそのまま今の僕にもあてはまる。今後、僕も活動を制限されるかも知れない。その中で自分にできることは何だろうと、その都度考えながら生きていかなければならないだろう。

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巣の上で(8) 嗜み

療法士さんや看護師さんの中には、個人的なことを根掘り葉掘り聞いてきたり、逆に自分のことを喋ったりしてくる人がいる。

ま、コミュニケーションは人間関係を円滑にする大切な手段なので、それ自体は苦にならない。

しかし担当の療法士の一人が、毎回、マッサージ中にやたらと自分の息子のサッカーの試合の話をしてくるものだから、さすがにリアクションがしにくくなってきた。

しかも小さい声で話すので、聞き返すのも失礼と思い、その話に真剣に耳を傾けなければならない。

そもそも僕はサッカーにまったく興味がないから気のきいたサッカー話ができない。仕方がないので、

「どこで試合があったのですか?」

「○○湖畔です」

「え、○○湖畔なら以前に一周したことがありましたけど、サッカーグランドなんかありましたっけ?」

「やはりそうでしょう?地元に住んでいる僕も、息子の試合をそこでやるまで気づかなかったんですよ~」

と、なんとなく会話が盛り上がる。

看護師さんにも、足の潰瘍の処置をしてもらいながら、まれに話しかけられることがある。

「ご自宅は東京なんですってね」

「ええ、そうです」

「東京のどこですか?」

「○○市です」

「そうですか。私、✕✕駅の近くで生まれたんですよ。住所は隣の◇◇市ですけど」

「✕✕市といったら、僕が3年間、高校に通ったところです」

「そうですか」

「今ではすっかり駅も変わってしまいましたけどねえ」

「そのようですね」

「でも今は、むかしの駅舎が復元されたんですよ」

「それは知らなかったです。こんど行ってみます」

…という地元ネタに始まり、続けてこんな話もした。

「そういえばこの前、母と一緒に△△市に行ったんですよ」

「△△市といったら、僕の自宅のある市の隣の市ですね。何かの用事ですか?」

「推しのコンサートがありまして」

「あの市にコンサートができるホールなんてありましたっけ?」

「スタジアムです」

「ああ!なるほど」

そんな大きなスタジアムでコンサートするって誰だろう?俄然興味が湧いてきた。

「差し支えなければ、誰のコンサートだったのか教えてくれませんか」

「ジャニーズのHey! Say! JUMPです」

一番苦手な分野である。そもそもジャニーズの事務所はなくなったんじゃないっけ?というツッコミは、推しの前では絶対に言ってはいけない。さて、どうやって話を膨らまそう…。

「でも、メンバーの一人が突然脱退を宣言して、その日のうちに脱退しちゃったんですよ。そのコンサートも一人欠けたメンバーでやってました。前もって言ってくれればいいのに」

「それは突然すぎますね。ふつうはもっと事前に宣言するものですよね。あの『嵐』だってずいぶん前に解散宣言してましたものね」

「そうなんですよ…」

僕はありったけのジャニーズ知識を総動員してなんとか話を繋いだ。看護師さんからしたら、「オッサンなのにジャニーズに詳しい人」と映ったのではあるまいか。

コミュニケーションの秘訣は、何事も嗜むことが必要である。

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巣の上で(7) モヤモヤすること

病院のスタッフの中には看護師さんだけではなく、お風呂係や清掃係や配膳係など、さまざまな人たちがいる。当然看護師資格のない人たちなので、医療行為はできないし、何か別の用事をお願いすることもできない。そんなことはみんなが知っている当たり前のことである。

それを心得ている上で、なおも僕の心がモヤモヤするのは、配膳係さんのことである。これはどの病院に入院していたときにも感じていたことである。

どの病院の配膳係さんもそうなのだが、決まった時間になると食事を運んできて、食事を狭いテーブルの上に無理やり置いて、

「食事を持ってきました~。ごゆっくりどうぞ」

と、風のように去ってゆく。

「ごゆっくりどうぞ」と言いながら、ほぼ正確に30分後に、

「食事は済みましたか?」

と言って食器を取りに来る。つまり30分以内に食べ終わらなければならない。

病棟にはたくさんの患者がいるので限られた時間で食器の上げ下げをするためには、そうしなければならないのは当然である。仕事のやり方として正しい。もし30分以内に食べ終わらなくても、食器を下げるのを待ってもらうこともできる。それで責められることはない。理屈上はね。

頭ではわかっていても、なんか心がモヤモヤするのはなぜだろう。

それぞれの患者にいかなる事情があろうと、テンプレート通りに食事の配膳を行うからだろうか。

それもあるが、配膳の仕方が、まるで餌を与えているように見えるからではないかと、最近そう思えてきた。

こんなことを気にするのは僕だけかもしれない。とんでもないことを考える奴だ、食事を運んでくれるだけでもありがたいと思え、と蔑まれることは覚悟している。

しかしどの病院も同じように感じてしまうのだ。おかげでどの配膳係さんも同じ顔に見えてしまう。個性的な働き方ってどういうことだろうと考えさせられる。僕はそれが許される仕事を続けたい。

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らくごのご

自分らしい文章を書くにはどうしたらいいかを、常に考えている。

YouTubeを見ていたら、ある著述家が「文章を書くコツは、自分の思っていることと、書いたことの間の距離が近ければ近いほどよい」と言っていた。

どういうことかというと、たとえばちょっとしたテーマで文章を書く必要が生じた場合、人は正解を求めようとする。このテーマだったらこう書くのが正解なのだろうと思いながら書く場合が多い。

僕の例をあげて恐縮だが、娘が保育園を卒園するとき、保護者が子どもへのメッセージを書くという課題が課せられた。そのとき僕は、およそ正解とは思えないメッセージを書いた。その顛末はすでに以下に書いた。

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2024/03/post-4f09e9.html

その著述家の話を聞き、このときのメッセージは、たしかに自分の思っていることと書いていることの距離がゼロの文章だなと我が身を振り返った。要は、卒園のメッセージといえばこう書くのが正解、こう書くのが常識、というようなフワフワした文章は書きたくなかったのだ。

前の職場を退職するときも、退職の挨拶を200字ていどで書いてくれという職場からの依頼があった。そのときも月並みな挨拶を書くのがイヤで、山田洋次監督の映画を引き合いに出して職場への別れを告げる文章を書いた。今でも自分の中では最高の挨拶文を書いたという自負があるが、残念ながらその挨拶文を掲載していた職場のホームページからは消えてしまったようである。

何が言いたいかというと、文章を書く際に正解を求めてはいけないのということなのだ。前にも書いたが、結婚披露宴のスピーチもまた同様である。これが正解、というものはないのだ。

そのあとその著述家は、視聴者のチャットから3つのキーワードをもらって、それを使って200字以内の即興のコラムを書く、という試みをライブで実践していた。限られた時間で200字の文章をまとめていく過程が画面上で確認できて、わくわくしながら見た。

これは落語の「三題噺」を捩ったものである。むかし「らくごのご」という番組があった。笑福亭鶴瓶師匠と桂ざこば師匠の二人が、客席から3つのお題をもらってそのお題を盛り込んだ即興の落語を作り上げていくというもので、僕はこの番組が好きで毎週観ていた。

そうか、文章でも三題噺ができるのか、と気づき、自分もやってみたいという衝動に駆られた。

三題噺をバカにしてはいけない。あの有名な落語の「芝浜」は、三遊亭圓朝が客から出された3つのお題から作り上げた三題噺がもとになっていると言われている。三題噺から名文ができあがる可能性だってあるのだ。

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社会人の友達

鬼瓦殿

こんばんは。コバヤシです。

東京は漸く猛烈な暑さから解放されそうですが、療養先のそちらはいかがですか?

先週の木曜(9月4日)の夕方6時過ぎに、翌日に仙台出張が控えていることも有り、さっさと会社から帰ろうと、ふと横の副社長室を覗くと、まだMさんが仕事をしているではないですか。

黙って帰るのも何だなあと思い、Mさんに「すみませんが私は先に帰らせて貰います。Mさんも仕事はほどほどに早く帰ってくださいね。」と挨拶をすると、Mさんはそっけなく「お~!お疲れさま。じゃあ、またな。」と言います。いつものパターンだと、大体Mさんから「じゃあ、(呑みに)行くか!」と言われるので、今日は何もなかったなあ、とちょっと物足りなく思いながら5、6歩歩いたところで、副社長室から「コバヤシ!ところでさあ、あれどうなってんだっけ?」と呼ぶ声が聞こえます。

えっ、さっき「またな。」って言ったじゃんと思いながらも、まあ仕方ないかとMさんのところに戻り、かくかくしかじかと説明すると、「あ~、もう仕事やる気なくなったわ!じゃあ、しょうがないから行くか!」と言い出します。私はすかさず「ちょっと待ってくださいよ!何ですか、その『しょうがないから!』って言うのは。私は何も誘ってませんよ。家に帰ろうとしてたんですから!」と言うと、Mさんは「まあ、良いじゃん。呑みに行こうよ!」と言うんで、まあ確かに帰りの挨拶に行った時点で、呑みに行くのかなあ、と思っていたのは確かなので、「じゃあ、行きますか。」と結局、予定調和的に呑みに行くことになりました。

2人で会社の地下までエレベーターで降りながら、どこに行こうかと話し、結局、蕎麦屋に行くことにしました。

Mさんは「今日は軽くな。日本酒は2種類までにしよう。」と言うので、私は「2種類って言うけど、1合か2合かじゃ大違いですすよ。どうするんすか?」と聞くと、Mさんは「じゃあ2合ずつにしよう!」と言います。私は、全然軽くじゃないじゃん!と心の中で思いつつ、まあいつものことだしいいか、と蕎麦屋に入りました。

こうして二人で呑みながら、お互いの仕事の話をあれこれしているうちに、何故か友達とは?という話に話題は変わっていました。

酔っぱらった私は「Mさんが何と言うかはか分かりませんし、5歳も年上の人に言うのも何ですが、私にとってMさんはやっぱり大事な友達なんですよね!」と言うと、Mさんは「勿論、俺もお前のことを友達だと思ってるよ!」と言います。

更に続けて「俺は思うんだけどさあ。社会人になってからの友達ってさあ、仕事を通じて苦楽を共にした仲間だと思うんだよね。そいつがいなかったら、俺が社会人として生きてこられなかった、俺を助けてくれた仲間だと思うんだよ。俺も20代、30代の若い頃はさあ、自分が一番!自分は何でも出来る!と根拠の無い自信に溢れてたんだけど、歳を取って初めてそうじゃなかったことに気付いたんだよね。」と言います。

確かに私もそう、20代、30代の初めまでは、俺は何でも出来る!と思っていたけど、色々と苦労してそうじゃなかったと気付いたんだよな、やはり皆んな同じなんあだなあ、と思いつつ、こうして今、そう言ってくれる人がいるということは、自分の社会人人生も満更でも無かったんあだろうなあ、としみじみと思わせてくれました。

その後も、あーでもない、こーでもないと話をしてから、2人地下鉄で帰りました。

明けて今週、Mさんのところに、やはり子会社に出向して社長をしている、Mさんの2つ上の先輩であり、私の千葉、福岡時代の上司でもあったOさんが、仕事の相談をしに来ました。

我々が参加する会議の前に打合せをしていたのですが、会議の開始時間を過ぎても一向にMさんが来る気配はありません。

仕方がないので、2人がいる応接室の前まで行って中を覗き込むと、ちょうどOさんと目があったので、ずかずかと応接室に入り、Mさんに皆んなが会議室で待っていることを伝えると、2人はスマンスマンと言って部屋を出て、Oさんはそれじゃあ帰るかということになったのですが、帰り際Oさんは私に向かって「コバヤシさあ、こんなにお前のことを愛してくれる上司なんて世の中に居ないぞ。良くその有り難さを考えろよ。」と言います。

思わずMさんと私は口を揃えて「だって長年の腐れ縁ですから!」と答えていました。

貴君も、社会人になってからの友達は、また一緒に仕事をしたいと思わせてくれる人だ、と書いていたように思いますが、確かにそうなのかもしれません。

更に言えば、歳の差も地位も関係無く友人関係が成り立つのも社会人の友達だからではないでしょうか。

話は変わりますが、私の福岡の友人Yさんも社会人になってからの大切な友達です。

貴君にYさんの話をしたことは殆ど無かったように思いますが、Yさんは福岡で一緒にバンドをやっている同い年のドラマーの友達です。

Yさんとは、福岡に赴任して2年目ぐらいに当地のビックバンドに入団して知り合ったのですが、もう15年以上の付き合いでしょうか。Yさんは博多出身の熱い九州男児で、鹿児島の大学を出てから、今は亡き都銀に入ったもののバブル後の金融業界の酷さに精神的に耐えられず福岡に帰って来て、今は保険の外交員をしながらアマチュアとして音楽を続けています。非常に世話好きなのですが、ちょっとキレやすいのが玉に瑕でしょうか。

それでもYさんは、彼が居なければ私は福岡で音楽活動を続けることが出来ていない、本当に大切な友達です。

Yさんは、私が福岡に帰ってくることを心待ちにしながら、あちらこちらに音楽仲間や、演奏する場所を開拓してくれています。今のバンドも、もう15年近く続けていますが、私とYさん以外のメンバーは何人も変わっています。

バンドメンバーが辞める都度、Yさんは新しいメンバーを見つけてきてくれ、おかげ様で今のメンバーは3年目を迎えています。

また、福岡の門司港での演奏を始め、今でも年に2度ほどライブのブッキングをしてくれます。

その度に私は東京から遠路はるばる福岡に行くことになるのですが、それもYさんとまた一緒に演奏したいと思うからです。

まあそんな訳で、貴君のブログをきっかけに、社会人の友達について思いを巡らせてみました。

そうそう忘れるところでしたが、貴君が大好きだと書いていた小田嶋隆さんでしたっけ、確か小石川高校卒業だとのことでしたが、何を隠そう私の父親も小石川高校の卒業生です。

と言っても、うちの父親は府立5中から戦後そのまま小石川高校に上がった口ですが。

まあ、どうでもいい話でしたね。失礼。

それでは、また。

お元気で!

〔付記〕

「20代、30代の初めまでは、俺は何でも出来る!と思っていたけど、色々と苦労してそうじゃなかったと気付いたんだよな」

「歳の差も地位も関係無く友人関係が成り立つのも社会人の友達だからではないでしょうか」

これは本当にそう。学生時代は先輩、後輩を過剰に意識するけれど、社会人になれば年齢も肩書きも関係なく友人になれる。これが社会人になってからの友人のよいところ。

上記の文章を読んで、学生時代の友人について付け加えるならば、「社会人になって進む道は違っても、社会人での体験から得られた境地については共感をもって話をすることができる間柄」、と言えるのではないだろうか。

僕の場合、学生時代の友人のサンプルがコバヤシしかいないのが説得力に欠けるのだが。

http://yossy-m.cocolog-nifty.com/blog/2025/08/post-6a4d76.html

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巣の上で(6) 車の運転練習とパソコン

9月4日(木)

復帰後の夢は、車の運転をしたいということと、ノートパソコンでブラインドタッチをして文章を書きたいという2点である。

「じゃあ、今日から車の運転の練習をしましょう」

リハビリ室には車の運転のシュミレーションができる器具がある。ハンドルの前にはフロントガラスを模したモニタ画面があり、そのモニターに道路と周りの風景が映し出され、さながら運転のバーチャル体験ができる。今日は初日なのでその初級編で、信号のない道路をひたすら走るというものである。

問題はアクセルとブレーキを踏む右足である。ほとんど自由がきかないのでアクセルやブレーキを踏むことができるか不安である。

「初めての方は、必ず事故を起こしますので気にしないでください」

いよいよスタートである。

片側1車線の山道。信号もなく対向車も少ないのでアクセルを踏んだまま走ることができる。

しかし難点が一つある。山道なので登り坂もあれば下り坂もある。登り坂ではアクセルを踏み込まなければ前に進まなければならないのに対し、下り坂では自然にスピードか出てしまうので、あらかじめ事前にスピードを落としておくか、必要に応じてブレーキを踏んでスピードを落とさなければならない。

カーブも多いので、そのたびにハンドルさばきとスピードの調整が必要となる。

運転すること30分。なんと無事故でゴールした。

「初めての練習で無事故の人はまずいません」

またしてもビギナーズラックである。これからだんだんと難しい道路を走るというので慢心してはいけない。

一方のノートパソコンの練習は、ある文章を2~3行ほど打つのだが、右手が不自由なので、思ったように入力できず、ともするとせっかく打った字がなぜか消去されたりするので、イライラが募ってゆく。

そればかりか、横で療法士さんがずっと話しかけてきて、それに対して相づちを打つことに気を取られて、入力に集中できない。

(お願いだから話しかけないでくれ!)

と言いたいのだが、横から話しかけられることも含めてリハビリである可能性もあり、結局入力しながら相づちを打つ羽目になる。

文章の例題も悪い。「結婚記念日」にまつわる文章である。

療法士さんが横で「結婚記念日」にまつわる話を執拗に聞いてくるので、すっかり調子が狂ってしまった。

もっと入力したくなるような文章を持ってきてよ!

おかげでノートパソコンのリハビリはボロボロであった。

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笑った

9月4日(木)

笑った。

先ほど、お風呂係のおばちゃんが病室に入ってきたと思えば、僕の耳もとに近付いて来て、手をメガホンかわりにして、

「明日のお風呂のことで来ました」

と大声で話しかけてきたので、

「そんな大声を出さなくても聞こえてますよ!」

と言うと、

「あらごめんなさい。ついいつものクセで」

ふだん耳の遠い老人を相手にしているので、僕のことも耳の遠い老人だと勘違いしてしまったらしい。

それがやたら可笑しくて、そのおばちゃんと一緒に大笑いしてしまった。

いっそ、僕が耳の遠い老人のふりをすればよかったか。「あんだって?」と聞き返す志村けんみたいに。

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巣の上で(5) エネルギー

9月3日(水)

病室のドアは相変わらず終日開け放しなので、廊下からはいろいろな声が聞こえてくる。

病棟を移ってからずっと、別の病室から聞こえてくる声があった。

しかも朝の5時くらいから、夜の9時くらいまで、ずっと大声をはりあげて何かを訴えている。叫び声をあげているといったほうがよい。

声の様子から、かなりご高齢の女性といった雰囲気なのだが、最初は何を叫んでいるのかわからなかった。

よくよく聴いてみると、

「お願いです!助けてください!早く助けてください」

と繰り返し叫んでいる。

当然、看護師さんにも聞こえていて、そのたびに病室を訪れるようなのだが、その患者さんは、

「お願いです!助けてください!早く助けてください」

としか言わない。こんなことが繰り返されては、看護師さんのメンタルも壊れてしまう。

看護師さんだけでなく、その叫び声を1日中聞いている僕のメンタルもおかしくなりそうである。

看護師さんたちもどことなくピリピリした雰囲気となり、関係のない僕もそのとばっちりを受けているような気がして、なるべくナースコールを使わないとようにすると心に決めた。

それでもたまに看護師さんにお願いがあってナースコールを押すと、「すみません」「ごめんなさい」と、悪くもないのに謝るクセがすっかりついてしまった。「なんでも言ってくださいね」と言ってくれるのだが、表情が裏腹な気がして字義通り受け取れない。とくに男性の看護師はちょっと高圧的な感じがして、どうかあたりませんようにと願っている自分がいる。

そんなことはどうでもいいのだ。僕が言いたいのは、1日中叫んでいるあのおばあさんのことである。1日中大声で叫ぶというのは、かなりのカロリーを消費するはずだ。どうかそのエネルギーを、病気を治す方にまわしてくださいと願わずにはいられない。

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巣の上で(4) 褒めるとダメになるタイプ

9月2日(火)

平日は3種類のリハビリがある。

担当の療法士さんはみなさんいい方で、その療法士さんがお休みの時の代理の療法士さんも、幸いにしていい人にあたっている。

療法士さんは、基本的にマイナスのことは言わない。「よくなってきましたよ」という褒め言葉をかけることが多い。

疑心暗鬼の私はいつも疑ってかかるのだが、「腹筋が弱いですね」と「体が硬いですね」は例外なく全員に指摘されるので、こちらのほうが真実性が高い。

本日の作業療法リハビリでは、「玉入れ」をした。

立ち上がって、右手でお手玉をつかみ、少し離れたところにあるバケツに投げ入れる、というトレーニングである。簡単に思えるが、わざわざ不自由な右手を使って、遠くにあるバケツに上手くお手玉を入れるのはなかなか難しい。周りの患者が同様のトレーニングをしているところを見ても、みんなかなり苦戦しているようである。

ところが僕は、投げたお手玉が、なぜか面白いように次々とバケツに吸い込まれていく。

こりゃあパーフェクトかもしれないぞと思って投げ続けていると、時折、療法士さんが、

「上手ですねえ」

とか、

「いい調子ですねえ」

などと合いの手を入れてくる。その言葉を聞いた直後に投げた玉は、決まってバケツには入らずにはずすのである。

それを見ていた療法士さんは、

「褒めるとダメになるタイプですね」

と言った。

たしかにそうだ。褒められると心が乱れ、何事も上手くいかなくなることが多いのだ。つまり「褒めて伸びる」タイプではなく、「褒めるとダメになる」タイプなのである。

カチンとなる一言を言われたほうが、「なにくそ」と思って頑張れるのかも知れない。

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「1.同窓会幹事引き受けるってよ」byI、第二章中 同期生列伝上

第二章中 同期生列伝上

 「師匠本紀」の送信後、すぐ続きに取りかかる予定だったのだが、職場でちょっとした「トラブル」が発生した。四捨五入して説明すると、直属の上司が今年度一杯で退社することが決定し、私が急遽後任になることとなってしまったのだ。そんなわけで、先週は話し合いのオンパレード。一切身動きが取れなかった(怒涛の展開だったなあ。そして、管理職にだけはなりたくなかったんだけどなあ。私、出世願望ないんですよ)。人生とはままならないものだ、と嘆息してばかりの今日この頃である……と、こんな前置きばかり書いていてもしょうがない。我が同期生たちに話題を移そう。

 ……学生時代の思い出といったらいくつかの情景が思い浮かぶ。その中でも特に印象的な場所なのが学生研究室である。朝方、昼時、夕刻、深夜と、思い出の場面はほぼ全時間帯。そこに集っているのは、α・β・γ三研究室の面々。メンバーは流動的で、十人近く集まっていることもあれば、僅か数人のみの場合もある。特に、学部の四年生に上がった直後あたりから卒業するまでの約一年間、月に一、二度、学生研究室でささやかな宴が催された。そして、出席者が多いときには決まって、鬼瓦先生の御臨席があった。

 前回はお師匠様方の銘々伝であったが、今回は、同期生たちを『史記』列伝風、あるいはプルタルコスの『英雄伝』風に書き綴っていこうと思う(全然同窓会本編に行き着かないなあ・苦笑)。

巻一 I斑列伝

 同期生たちの中で、私が最初に親しくなったのがI斑である。小柄で口の達者なラガーマンであった。初対面時から強烈なインパクトを放っている男で、当初は何とも近付き難い存在であった。が、ある日の帰宅時、部屋の鍵を開けようとしているところでI斑に声をかけられた。

「へえ~、おまえここ住んでんだ」

 立ち話もなんだからと、自室に招き入れた……のではなく、奴はそのまま勝手に入ってきた! なんて厚かましい奴! 訊くと、同アパート内に別学部のラグビー部員がいるのだという。これがきっかけとなって、私は時折I斑とつるむようになる。私とI斑は対照的な一対であった。一方は、爆音を響かせながらバイクを乗り回すアクティブの極みのようなラガーマン。かたや、連日大学図書館に出没して乱読の限りを尽くす、ネガティブの塊の如き本の蟲。水と油のような関係性かと思いきや、何故か不思議と波長が合った。かくて、当時の我が母校周辺の国道では、小柄なライダーの背中にしがみつく、やや長身のどんくさい学生の姿が目撃されることとなる。

 当時のI斑にとって、私の存在は大袈裟でなく「生命線」そのものであった。なにしろラグビーとアルバイトの新聞配達に明け暮れすぎて、全く授業には出て来ず、一般教養の単位を落としまくっていたのであるから。必須科目だけは落とさないよう、私が試験日やレポート提出日を伝達する。強面だが愛嬌があって要領のよいこの男は、必要最低限度の単位だけは取得していった。

 二年次、私はβ研究室、I斑はγ研究室の門を叩いた。自然、履修科目は類似してくる。I斑の意図は明白であった。私と同一の講義を履修すれば、いざという時役立つだろうとの算段である。最初の一ヶ月程は真面目に出席していたI斑であったが、ある日突如音信不通になった。メールを打ってもなしのつぶてである。やむなく奴の自宅に言ってみると、そこには満身創痍のむくつけき小男の姿があった。

「いやあ、試合で骨折しちゃってさあ。しばらく授業は休むわ」

 悪びれもせずそんなことを言ってヘラヘラ笑う松葉杖野郎。私は溜め息一つ残して大学に戻ると、I斑の代わりにγ研究室のY先生の元へ赴き、事情を縷々説明した 。

 話を聞き終えたY先生は、「面倒は見ないよ」、と冷たくおっしゃった。それはそうであろう。I斑はY研究室のゼミのレジュメ発表をすっぽかし、日程に穴を空けていたのだ。激怒されても仕方ない。私はI斑の代わりに頭を下げて辞去した。結局I斑は二年次はほとんど学部棟に顔を出さずに過ごした。私も時折顔を合わせる程度となった。

 三年生に進級する直前、I斑が突如私のアパートに乱入してきた。なんとしてもあと二年で卒業したいから手を貸してくれ、というのである。

「でも、もうY先生はおまえの相手なんかしたくないと思うよ」

「だから、おまえんとこの研究室に移りたい。A先生とK先生に口利いてくれねえ?」

「えー……なんて言われるかな…… 」

やむなく、私はA・K両先生に事情を話し、I斑の移籍を相談した。当時、我が研究室は「困ったときの駆け込み寺」と呼ばれていた。最初の所属先から見放された学生の引き取り先扱いされていたのである。両先生は、

「必ず授業に参加すること」

「ゼミに穴は空けないこと」

「移籍前にY先生のところに直接顔を出し、きちんと了承を得てくること 」

という三条件を提示した。切羽詰まっていたI斑は、全ての条件を呑むと約束した。が、三番目の条件のみ逡巡した。もじもじしながらI斑が言う。

「悪いんだけどさ、付いてきてくんない? 」

「はあっ???」

 以外にも小心者なのである。私も付き合いの良いことに、Y研究室まで付いていってやった。さすがに一緒に入室するのはどうかと思ったので、I斑の入室後、しばらく室外で待つことにした。十数分で終わるだろうと思いきや、豈図らんや、待てど暮らせど戻ってこない。これはこってりやられてるんだろうな。

 ……約一時間が過ぎたあたりで、げっそりしたI斑が深々と頭を下げながらY研究室から退室してきた。相当絞られたらしい。Y先生は怒鳴り付けたりはせず、こんこんと教え諭し、最後に、「もしもβ研究室に迷惑をかけたら、A先生とK先生以上に、僕が許さない」と言い放った後、解放してくれたのだそうだ。

 以来、I斑は変わった(と思う)。私と、それ以外の幾人かのサポートもあって、これまで取得していなかった単位をきちんと取り、ゼミにも欠かさず出席するようになったのである。元々勘所もよく、ユニークな意見も出せる男ではある。研究室内でも独自のポジションを築き上げることに成功した。このまま卒業論文まで一直線に進んでくれればよかったのだが……四年次、またまた異変に見舞われることになる。

巻二 末っ娘一号(S藤)列伝

 「末っ娘一号」ことS藤は、β研究室のメンバーである。私とは所属が全く同一の、正真正銘の同期である。指導教授はA先生。私とは腐れ縁と言ってもよい。学部の一年次から面識があり、行動を共にすることが多かった 。

 知り合ったきっかけは、一年次の必須科目だった「プレゼミ」である。これは、所属先が決まる前の学部一年生にゼミの雰囲気を味わわせ、レジュメの作り方、発表のノウハウなどを伝授するというものであった。メンバーと担当講師はランダムに選ばれ、学生側に選択権はなかった。私が所属することになったのは、外国文学が専門のF先生のプレゼミであった。授業初回時集まったのは、私の他、既述のI斑、末っ娘一号、それから後述することになるT、ほか五名の合計九名。私からしてみれば、これが最初の「ゼミ仲間」であった。この時のメンバーとは何故か縁があったようで、約半数がα・β・γの学生研究室で再集結することになる(それ以外の数名とも交流が続いた)。ちなみに、私はこのゼミを主宰したF先生に大変可愛がられ、所属研究室選択時に大いに迷うことになる。私にとっては、既述の五人の師匠の次にお世話になった方であった(F先生については、後にもう一度だけ言及する予定である)。

 さて、S藤のあだ名である「末っ娘一号」というのは、文字通り彼女の生まれが「末っ子」だったから、というのがその由来である(「二号」については後述)。私が面白がって命名した。何かにつけ私を「兄」に見立てて手伝ってもらおうとする姿が、私の実の妹の言動に酷似していたのである。ある時私がTに、「まるで末っ子が増えたみたいだ」とぼやいたのが命名のきっかけであった。おそらく彼女はそう呼ばれるのは不本意であったろうが、そのうち諦めてくれた。

 末っ娘一号と私の間には会話の「お約束(テンプレ?)」というのがあった。

「ねえねえ、聞いて聞いて~」

「……聞きましょう(返しには、「伺いましょう」、「直答を許す」などいくつか別バージョンがあった)」

「一昨日ね、家のトイレで用を足してたらケータイが鳴ったのね」

「……慌てて出ようとしたら、便器の中に落っことした、とか?」

「えっ!? なんで分かったの!? そう、落っことしたのよ!」

「……ご、御愁傷様です」

「で、汚いじゃん。思わずお風呂場で洗ったのね」

「壊れるやん……」

「そう、壊れたのよ! もう最悪! 」

「でしょうね……」

「というわけで、機種変したので、みなさん、もう一回アドレスを教えてくださ~い 」

 ……これに類するやりとりを、誇張ではなく百回は繰り返したと思う。横で見ていたTやYが忍び笑いしていたのを思い出す。なんとも平和な光景である。我が学生研究室定番のやりとりであった。

 残念なエピソードばかりでは気の毒なので、まともな逸話も。末っ娘一号は大変な努力家であった。納得のいく卒論を書きたかった末っ娘一号は、卒業論文に必要な文献を収集するため東京にまで出向いたり、必要な語学をマスターしようと語学教室に通ったりと、コストと労力を惜しまない一面があった。その甲斐あって、彼女なりに満足のいく卒論が出来上がった。

 卒論提出から一ヶ月後、口頭試問が執り行われた。学籍番号順に進んでいったので、私が最初、末っ娘一号が最後となった。いよいよ彼女の番。「緊張する~」と言いながら試問会場に向かっていった。私は標準的な時間で終わったので、彼女も同程度で終わるだろうと踏んでいたが、待てど暮らせど帰ってこない。時計の分針が一回りした頃に、ようやく学生研究室に戻ってきた。

「お疲れ、長かったね」

「……だって、議論が噛み合わないんだもん」

「えっ?」

「この後、延長戦だから、よろしくね」

 試問後、A先生、N先生、私、末っ娘一号でささやかな打ち上げが催された。酒と料理の味は覚えていない。両先生と末っ娘一号が口頭試問の延長戦を開始したからである。A先生は苦笑い、そしてN先生はタジタジになっている。第三者である私が聴く限り、軍配はN先生に上がりそうなのだが、末っ娘一号が納得しないのである。

「……N先生はそうおっしゃいますけど、私はやっぱり違うと思うんですね」

「でも、この史料からはそうは読めないでしょ?」

「その史料だけだとそうなんですけど、こっちで引用した史料も見てみると、やっぱり私が出した結論になると思うんですよね」

「……自説を曲げないねえ」

「この史料に関しては、先生方より私の方が読み込んでますから。……ねえねえ、Iくん、どう思う?」

おい、こっちに振るなよ! と思いながら、私もやむなく参戦した。学生二人と若手講師が活発に議論する様子を、A先生は微笑ましそうにご覧になっていた。

 末っ娘一号とは、大学卒業後も交流が続き(私の地元と彼女の地元が近隣だったということも大きい)、数年前に彼女が結婚したときには招待されて式にも出席した。本当はA先生も呼ばれていたのだが、学会の都合で欠席なされた。それが「悲劇」の始まりであった。

 式当日、友人席に座っていた私に、彼女のお母様が近寄ってきた。

「本日はご出席賜りまして、誠にありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそおめでとうございます」

「娘の学生時代には、大変良くして頂いたそうで、ありがとうございました」

「いえいえ、大したことはしておりませんので」

「案外気が強い娘ですから、ご指導大変でしたでしょう?」

「……し、指導? 」

「卒論の担当だったと伺ってますけど……」

「……あのう、私は所属研究室が一緒だった、同級生のIと申します。ご指導くださったA先生は本日は欠席なされておりますが…… 」

「えっ! ……大変失礼致しました」

「……いえいえ、お気になさらず」

 どうやら、私はA先生と同年輩に見えるらしい。貫禄があると喜べばいいのか、花嫁と同世代に見えなかったことを悲しめばいいのか、どちらであろう。後日、「お母さんから聞いたよ。ごめんね~。でも間違われたなんて超ウケるんですけど」と、全く謝っていないLINEが届いたものである。

 挙式から十年弱。末っ娘一号も今では立派な一児の母。日々子育てに奮闘している、はずである。

巻三 T列伝

 Tはγ研究室のメンバーであり、Y先生の門下生であった(厳密にはもう少しややこしいのだが、便宜上こう記しておく)。

 知り合ったのは、先述のプレゼミだから、末っ娘一号とほぼ同時期であった。基本的には大変おとなしく、油断するとすぐに存在感を消して、その空間上で他者の定点観測を始めるという危険な存在であった。試みにこちらから話しかけてみると、やや早口だが大変論理性のある回答が返ってくる。柔和な表情で辛辣な台詞を吐く、という予想外のスペックも有しており、なかなかに凶悪な生命体である。また、本人は否定するが、かなりの酒豪であり、それこそ蟒蛇(うわばみ)のように酒を飲み干してしまう。私に負けず劣らずの本の蟲で、そういう点では気が合い、よく本の貸し借りをしながら悪口の交換会をしていた。

 Tは髪型をポニーテールにしていることが多く、講義で私とI斑のひとつ前の席に座っていることが多かった。I斑は、その都度小声で囁きかけてきたものである。

「……なあ、あのポニーテール姿見てると、引っ張ってみたくならねえ?」

「ならない」

「引っ張りてえ……そして、おまえに罪を擦り付けて知らぬ顔を決め込みてえ」

「思うだけで実行には移すなよ 」

「つまんねえの~ 」

 などという益体もないやり取りをしていた。彼女のことを「エゾシマリス」呼ばわりしたのもI斑である。見た目からあだ名が決まった悪い見本であろう。幸い、ほとんど定着しなかったが。

 Tは学生研究室の「ヘビーユーザー」であった。学部の四年次には、ほとんど毎日顔を合わせていたのではなかろうか。マイペースなTは、学生研究室に出入りする他の同期生たちを尻目に淡々と日々の予習をこなしていた。皆と積極的に交流を持とうとする様子はなかったが、かといって完全にシャットアウトする風でもない。努めて誰との距離も等間隔にしているように感じられた。かつてそのことを指摘すると、

「ああ……うん、そうかもしれない」

とだけ呟いて俯いてしまった。恐らく当時の同期生のほとんどが、彼女のインナースペースには深入りしなかったように思う。数少ない例外が私で、割とズケズケとTの本心に迫っていった。

 こんなことができたのには理由があって、私とTには共通の知人(Tの高校の同級生で、私のサークルの所属員だった男)がおり、その知人からTの本性(のようなもの)を聞かされていたのだ。その知人曰く、

「あ~、Tさんにはねえ、ある程度こっちから強引にでも距離を詰めていかないと、本音なんて出てこないよ。オレは詰め過ぎて煙たがられてるんだけど、Iくんなら絶妙なとこで止められるんじゃないの?」

ということであった。別にこのアドバイス(?)に従った訳ではないのだが、私は意識してTとの関係性を築いていった。当時、学生研究室に特に頻繁に出入りしていたのは、私、T、H、それにYであったが、時たまこの四人で「気晴らし」と称してドライブに出掛けることがあった。「呼吸するインドア」とでも言うべきTが参加するようになったというだけでも驚愕ものであったろう。こんなことを続けてきたからか、二十年以上経った今でも時たま、LINE上で毒舌の応酬をすることがある(さすがにここで晒すのは気が引けるので止めておく)。

 Tの逸話の中でも特に印象に残っているのは、「留年事件」であろうか。四年次の年末、いつものように学生研究室に何人かの同期生が集い、黙々と卒論を書いていた頃のことである。ひとりTだけが何か別の勉強をしている。それに気付いた私が、何気なく声をかけた。

「へえ、卒論は割と余裕あるんだ?」

「あ、うん……まあ、そんなようなもの」

「いつになく歯切れ悪くない?」

「うーん……言ってなかったんだけど、実は、今年度は卒論提出しないことにしたんだ」

「え? 留年するの?」

「うん、そう、就職も決まってないし……」

 この時期は就職氷河期真っ只中であったから、Tの決断は判らないではなかった(就職浪人するよりは、敢えて留年して次年度に備える方が良いという判断だったのだろう)。

「そっか……Y先生、なんて言ってた?」

「えっ、うーん……まだ言ってない」

「はあっ?」

「卒論提出日に言いに行こうかなあって……」

「いや、それはマズいでしょ。今すぐ行ってきな。そして、お小言頂戴してきな」

「えー、でも……」

「いいから行け!」

 ……この数日後、必要があってY先生の研究室にお邪魔したところ、Y先生が複雑そうな表情で愚痴をこぼされた。

「Tさんが留年するって決断をすること自体は仕方ないと思うんだよ。でもさあ、もうちょっと早く話してもらいたかったなあ」

 Tにはこういうところがあるのである。決してY先生を信頼していなかったのではない(と思う)。言いにくいことを後回しにしてしまう、というところがあるのだ。却って言い出せなかったというのに近いのだろう。私なんぞに口添えされたくないだろうな、と思いつつ、Tをフォローしてみたのだが、Y先生は納得しがたいという顔で天井を見上げておられた。

 ……と、ここまで書いてきて気付いたことがある。私たちの年度生、Y先生に迷惑かけすぎじゃないか? とんでもない連中ばかりである。届かないと知りつつ、でも、Y先生に衷心から謝罪せずにはいられない。後日、TがY先生と未だに年賀状のやりとりをしていることを知り、私は少しほっとした。

 留年した甲斐があったのだろう、Tは無事地元の自治体に就職し、現在も地方公務員として働いている。(つづく)

〔付記〕

最初の指導教授とその同世代の2人の教授を除き、出身大学の教員にはあまりいい印象を持っていない。

大学1年の頃からたいへんお世話になっている先生がいた。ご自宅にもお邪魔したほどだったが、僕が学籍を離れた頃、ある雑誌にその先生の書いた本の書評を頼まれ、読んでみたところ、自分とは相容れないことが書いてあり、こっぴどい批判を書いた。自分にとっては挑戦的な書評であり、若気の至りといえなくもないが、自分のアイデンティティーに関わることでもあるのでどうしても譲れなかった。

客観的にみれば恩を仇で返すようなものである。その先生は怒りに震えたのか、僕の心を打ち砕くような反論を雑誌に書いた。若造相手に容赦をしない反論を、である。

僕はすっかり打ちのめされた感じになったが、出身大学の教員は、同僚の手前、僕を擁護する人はいなかった。

ところが、ある会合に参加した時に、他の大学の先生がわざわざ僕のところにやって来て、

「あんなもの、気にする必要なんかありませんよ」

と言ってくれ、心が軽くなった。

それから僕は吹っ切れたように、どんなことを言われても動じなくなった。言いたいやつには言わせておけ、自分は自分の道をゆく、という境地になった。

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巣の上で(3)

のっけから尾籠な話で恐縮だが、僕は元来便秘気味の体質で、入院中の心配事は「いかに便秘にならないか」に尽きる。

幸い、このたびの入院では規則正しいお通じが続いている。しかし当初は車椅子用のトイレも使えず、病室内に置いてもらった「ポータブルトイレ」で用を足していた。これが、座っているとすこぶる気持ちが落ち着いてお通じが出やすい。自分の個室なのでせき立てられることもない。トイレの通常の便器にくらべると座りやすく、それもまたお通じをうながす要因にもなっている。

日中は一人で車椅子用のトイレに入り用を足しているのだが、明け方のお通じだけはポータブルトイレがゆずれない。

しかしこれには難点がある。出したものの処理を看護師さんにお願いしなければならない。これが心苦しいというか後ろめたいのだ。

病棟を移ってから、看護師さんにそれとなく「そろそろ明け方のお通じも車椅子用のトイレでしたらどうです?その方がリハビリになりますよ」と言われ、一瞬カチンときた。なんでもかんでも「リハビリ」を盾にとって説得するとは虫がよすぎるぞ、と思い、「お通じの場合、ポータブルトイレのほうが落ち着くんです」「車椅子でトイレに行く間に便意が引っ込むんです」などと小さい声で反論してみたが、考えてみればこれは僕のわがままである。僕は明け方のお通じも車椅子トイレに行くようにした。

患者はわがままな存在であり、それを管理するのが看護師である、というのは当然の理屈なのかも知れない。実際、病棟には一日中意味不明なことを大声で叫ぶ患者がいて、看護師さんはたまらず「お願いだから静かにして!」と嗜めることもしばしばだ。

しかしその患者にもはかりしれない苦しみがあるわけで、当然患者が責められるべきものでもない。

入院病棟は、日々こうした葛藤が続いている。

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巣の上で(2)

8月30日(土) 

病棟を引っ越しして2日目。

次第にこの病棟の日常がわかってきた。

急性期の病棟にくらべると、なんというか、洗練されていない。吹きだまりのような建物である。それもそのはず、急性期の病棟は比較的新しいため、雰囲気が明るく、設備も行き届いている。それに対してこの病棟は、病院の中でもいちばん古い建物で、病室も暗く、窓からの眺めも悪い。設備の使い勝手も悪く、とくに車椅子で移動する身のことはあまり考えられてはいない。

病室は引き続き個室にしてもらっているが、相変わらずドアは開け放しである

開け放しにしていると、他の病室からの患者の声も聞こえてくる。それを聞くと、とても「回復期」「慢性期」の患者とは思えない唸り声や泣き声も聞こえてくる。看護師もその患者のために奔走するので、常に忙しい

しかも僕の病室はナースセンターのすぐ近くなので、看護師どうしの会話も丸聞こえである。

そこで語られているのは、事務的な引き継ぎのほかに、わがままな患者に対する愚痴など、さまざまである。

少ないスタッフで仕事を回しているので愚痴の一つも出てこよう。それはかまわないのだが、僕も愚痴の対象者になっているかと思うと、急に不安になり、極力看護師さんに迷惑をかけないように、一人でできそうなことはリハビリのつもりで頑張るしかないと決めた。

明け方、うとうとしていると、患者さんが何か大声を出したらしく、

「大声を出したらダメよ。ほかの患者さんはまだ寝てるんだから、大声を出したらダメ」

と看護師さんが廊下で大声を出して何度も注意していた。(その声がいちばんうるさいんだがな…)と、僕は苦笑を禁じ得なかった。

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