第二章中 同期生列伝上
「師匠本紀」の送信後、すぐ続きに取りかかる予定だったのだが、職場でちょっとした「トラブル」が発生した。四捨五入して説明すると、直属の上司が今年度一杯で退社することが決定し、私が急遽後任になることとなってしまったのだ。そんなわけで、先週は話し合いのオンパレード。一切身動きが取れなかった(怒涛の展開だったなあ。そして、管理職にだけはなりたくなかったんだけどなあ。私、出世願望ないんですよ)。人生とはままならないものだ、と嘆息してばかりの今日この頃である……と、こんな前置きばかり書いていてもしょうがない。我が同期生たちに話題を移そう。
……学生時代の思い出といったらいくつかの情景が思い浮かぶ。その中でも特に印象的な場所なのが学生研究室である。朝方、昼時、夕刻、深夜と、思い出の場面はほぼ全時間帯。そこに集っているのは、α・β・γ三研究室の面々。メンバーは流動的で、十人近く集まっていることもあれば、僅か数人のみの場合もある。特に、学部の四年生に上がった直後あたりから卒業するまでの約一年間、月に一、二度、学生研究室でささやかな宴が催された。そして、出席者が多いときには決まって、鬼瓦先生の御臨席があった。
前回はお師匠様方の銘々伝であったが、今回は、同期生たちを『史記』列伝風、あるいはプルタルコスの『英雄伝』風に書き綴っていこうと思う(全然同窓会本編に行き着かないなあ・苦笑)。
巻一 I斑列伝
同期生たちの中で、私が最初に親しくなったのがI斑である。小柄で口の達者なラガーマンであった。初対面時から強烈なインパクトを放っている男で、当初は何とも近付き難い存在であった。が、ある日の帰宅時、部屋の鍵を開けようとしているところでI斑に声をかけられた。
「へえ~、おまえここ住んでんだ」
立ち話もなんだからと、自室に招き入れた……のではなく、奴はそのまま勝手に入ってきた! なんて厚かましい奴! 訊くと、同アパート内に別学部のラグビー部員がいるのだという。これがきっかけとなって、私は時折I斑とつるむようになる。私とI斑は対照的な一対であった。一方は、爆音を響かせながらバイクを乗り回すアクティブの極みのようなラガーマン。かたや、連日大学図書館に出没して乱読の限りを尽くす、ネガティブの塊の如き本の蟲。水と油のような関係性かと思いきや、何故か不思議と波長が合った。かくて、当時の我が母校周辺の国道では、小柄なライダーの背中にしがみつく、やや長身のどんくさい学生の姿が目撃されることとなる。
当時のI斑にとって、私の存在は大袈裟でなく「生命線」そのものであった。なにしろラグビーとアルバイトの新聞配達に明け暮れすぎて、全く授業には出て来ず、一般教養の単位を落としまくっていたのであるから。必須科目だけは落とさないよう、私が試験日やレポート提出日を伝達する。強面だが愛嬌があって要領のよいこの男は、必要最低限度の単位だけは取得していった。
二年次、私はβ研究室、I斑はγ研究室の門を叩いた。自然、履修科目は類似してくる。I斑の意図は明白であった。私と同一の講義を履修すれば、いざという時役立つだろうとの算段である。最初の一ヶ月程は真面目に出席していたI斑であったが、ある日突如音信不通になった。メールを打ってもなしのつぶてである。やむなく奴の自宅に言ってみると、そこには満身創痍のむくつけき小男の姿があった。
「いやあ、試合で骨折しちゃってさあ。しばらく授業は休むわ」
悪びれもせずそんなことを言ってヘラヘラ笑う松葉杖野郎。私は溜め息一つ残して大学に戻ると、I斑の代わりにγ研究室のY先生の元へ赴き、事情を縷々説明した 。
話を聞き終えたY先生は、「面倒は見ないよ」、と冷たくおっしゃった。それはそうであろう。I斑はY研究室のゼミのレジュメ発表をすっぽかし、日程に穴を空けていたのだ。激怒されても仕方ない。私はI斑の代わりに頭を下げて辞去した。結局I斑は二年次はほとんど学部棟に顔を出さずに過ごした。私も時折顔を合わせる程度となった。
三年生に進級する直前、I斑が突如私のアパートに乱入してきた。なんとしてもあと二年で卒業したいから手を貸してくれ、というのである。
「でも、もうY先生はおまえの相手なんかしたくないと思うよ」
「だから、おまえんとこの研究室に移りたい。A先生とK先生に口利いてくれねえ?」
「えー……なんて言われるかな…… 」
やむなく、私はA・K両先生に事情を話し、I斑の移籍を相談した。当時、我が研究室は「困ったときの駆け込み寺」と呼ばれていた。最初の所属先から見放された学生の引き取り先扱いされていたのである。両先生は、
「必ず授業に参加すること」
「ゼミに穴は空けないこと」
「移籍前にY先生のところに直接顔を出し、きちんと了承を得てくること 」
という三条件を提示した。切羽詰まっていたI斑は、全ての条件を呑むと約束した。が、三番目の条件のみ逡巡した。もじもじしながらI斑が言う。
「悪いんだけどさ、付いてきてくんない? 」
「はあっ???」
以外にも小心者なのである。私も付き合いの良いことに、Y研究室まで付いていってやった。さすがに一緒に入室するのはどうかと思ったので、I斑の入室後、しばらく室外で待つことにした。十数分で終わるだろうと思いきや、豈図らんや、待てど暮らせど戻ってこない。これはこってりやられてるんだろうな。
……約一時間が過ぎたあたりで、げっそりしたI斑が深々と頭を下げながらY研究室から退室してきた。相当絞られたらしい。Y先生は怒鳴り付けたりはせず、こんこんと教え諭し、最後に、「もしもβ研究室に迷惑をかけたら、A先生とK先生以上に、僕が許さない」と言い放った後、解放してくれたのだそうだ。
以来、I斑は変わった(と思う)。私と、それ以外の幾人かのサポートもあって、これまで取得していなかった単位をきちんと取り、ゼミにも欠かさず出席するようになったのである。元々勘所もよく、ユニークな意見も出せる男ではある。研究室内でも独自のポジションを築き上げることに成功した。このまま卒業論文まで一直線に進んでくれればよかったのだが……四年次、またまた異変に見舞われることになる。
巻二 末っ娘一号(S藤)列伝
「末っ娘一号」ことS藤は、β研究室のメンバーである。私とは所属が全く同一の、正真正銘の同期である。指導教授はA先生。私とは腐れ縁と言ってもよい。学部の一年次から面識があり、行動を共にすることが多かった 。
知り合ったきっかけは、一年次の必須科目だった「プレゼミ」である。これは、所属先が決まる前の学部一年生にゼミの雰囲気を味わわせ、レジュメの作り方、発表のノウハウなどを伝授するというものであった。メンバーと担当講師はランダムに選ばれ、学生側に選択権はなかった。私が所属することになったのは、外国文学が専門のF先生のプレゼミであった。授業初回時集まったのは、私の他、既述のI斑、末っ娘一号、それから後述することになるT、ほか五名の合計九名。私からしてみれば、これが最初の「ゼミ仲間」であった。この時のメンバーとは何故か縁があったようで、約半数がα・β・γの学生研究室で再集結することになる(それ以外の数名とも交流が続いた)。ちなみに、私はこのゼミを主宰したF先生に大変可愛がられ、所属研究室選択時に大いに迷うことになる。私にとっては、既述の五人の師匠の次にお世話になった方であった(F先生については、後にもう一度だけ言及する予定である)。
さて、S藤のあだ名である「末っ娘一号」というのは、文字通り彼女の生まれが「末っ子」だったから、というのがその由来である(「二号」については後述)。私が面白がって命名した。何かにつけ私を「兄」に見立てて手伝ってもらおうとする姿が、私の実の妹の言動に酷似していたのである。ある時私がTに、「まるで末っ子が増えたみたいだ」とぼやいたのが命名のきっかけであった。おそらく彼女はそう呼ばれるのは不本意であったろうが、そのうち諦めてくれた。
末っ娘一号と私の間には会話の「お約束(テンプレ?)」というのがあった。
「ねえねえ、聞いて聞いて~」
「……聞きましょう(返しには、「伺いましょう」、「直答を許す」などいくつか別バージョンがあった)」
「一昨日ね、家のトイレで用を足してたらケータイが鳴ったのね」
「……慌てて出ようとしたら、便器の中に落っことした、とか?」
「えっ!? なんで分かったの!? そう、落っことしたのよ!」
「……ご、御愁傷様です」
「で、汚いじゃん。思わずお風呂場で洗ったのね」
「壊れるやん……」
「そう、壊れたのよ! もう最悪! 」
「でしょうね……」
「というわけで、機種変したので、みなさん、もう一回アドレスを教えてくださ~い 」
……これに類するやりとりを、誇張ではなく百回は繰り返したと思う。横で見ていたTやYが忍び笑いしていたのを思い出す。なんとも平和な光景である。我が学生研究室定番のやりとりであった。
残念なエピソードばかりでは気の毒なので、まともな逸話も。末っ娘一号は大変な努力家であった。納得のいく卒論を書きたかった末っ娘一号は、卒業論文に必要な文献を収集するため東京にまで出向いたり、必要な語学をマスターしようと語学教室に通ったりと、コストと労力を惜しまない一面があった。その甲斐あって、彼女なりに満足のいく卒論が出来上がった。
卒論提出から一ヶ月後、口頭試問が執り行われた。学籍番号順に進んでいったので、私が最初、末っ娘一号が最後となった。いよいよ彼女の番。「緊張する~」と言いながら試問会場に向かっていった。私は標準的な時間で終わったので、彼女も同程度で終わるだろうと踏んでいたが、待てど暮らせど帰ってこない。時計の分針が一回りした頃に、ようやく学生研究室に戻ってきた。
「お疲れ、長かったね」
「……だって、議論が噛み合わないんだもん」
「えっ?」
「この後、延長戦だから、よろしくね」
試問後、A先生、N先生、私、末っ娘一号でささやかな打ち上げが催された。酒と料理の味は覚えていない。両先生と末っ娘一号が口頭試問の延長戦を開始したからである。A先生は苦笑い、そしてN先生はタジタジになっている。第三者である私が聴く限り、軍配はN先生に上がりそうなのだが、末っ娘一号が納得しないのである。
「……N先生はそうおっしゃいますけど、私はやっぱり違うと思うんですね」
「でも、この史料からはそうは読めないでしょ?」
「その史料だけだとそうなんですけど、こっちで引用した史料も見てみると、やっぱり私が出した結論になると思うんですよね」
「……自説を曲げないねえ」
「この史料に関しては、先生方より私の方が読み込んでますから。……ねえねえ、Iくん、どう思う?」
おい、こっちに振るなよ! と思いながら、私もやむなく参戦した。学生二人と若手講師が活発に議論する様子を、A先生は微笑ましそうにご覧になっていた。
末っ娘一号とは、大学卒業後も交流が続き(私の地元と彼女の地元が近隣だったということも大きい)、数年前に彼女が結婚したときには招待されて式にも出席した。本当はA先生も呼ばれていたのだが、学会の都合で欠席なされた。それが「悲劇」の始まりであった。
式当日、友人席に座っていた私に、彼女のお母様が近寄ってきた。
「本日はご出席賜りまして、誠にありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそおめでとうございます」
「娘の学生時代には、大変良くして頂いたそうで、ありがとうございました」
「いえいえ、大したことはしておりませんので」
「案外気が強い娘ですから、ご指導大変でしたでしょう?」
「……し、指導? 」
「卒論の担当だったと伺ってますけど……」
「……あのう、私は所属研究室が一緒だった、同級生のIと申します。ご指導くださったA先生は本日は欠席なされておりますが…… 」
「えっ! ……大変失礼致しました」
「……いえいえ、お気になさらず」
どうやら、私はA先生と同年輩に見えるらしい。貫禄があると喜べばいいのか、花嫁と同世代に見えなかったことを悲しめばいいのか、どちらであろう。後日、「お母さんから聞いたよ。ごめんね~。でも間違われたなんて超ウケるんですけど」と、全く謝っていないLINEが届いたものである。
挙式から十年弱。末っ娘一号も今では立派な一児の母。日々子育てに奮闘している、はずである。
巻三 T列伝
Tはγ研究室のメンバーであり、Y先生の門下生であった(厳密にはもう少しややこしいのだが、便宜上こう記しておく)。
知り合ったのは、先述のプレゼミだから、末っ娘一号とほぼ同時期であった。基本的には大変おとなしく、油断するとすぐに存在感を消して、その空間上で他者の定点観測を始めるという危険な存在であった。試みにこちらから話しかけてみると、やや早口だが大変論理性のある回答が返ってくる。柔和な表情で辛辣な台詞を吐く、という予想外のスペックも有しており、なかなかに凶悪な生命体である。また、本人は否定するが、かなりの酒豪であり、それこそ蟒蛇(うわばみ)のように酒を飲み干してしまう。私に負けず劣らずの本の蟲で、そういう点では気が合い、よく本の貸し借りをしながら悪口の交換会をしていた。
Tは髪型をポニーテールにしていることが多く、講義で私とI斑のひとつ前の席に座っていることが多かった。I斑は、その都度小声で囁きかけてきたものである。
「……なあ、あのポニーテール姿見てると、引っ張ってみたくならねえ?」
「ならない」
「引っ張りてえ……そして、おまえに罪を擦り付けて知らぬ顔を決め込みてえ」
「思うだけで実行には移すなよ 」
「つまんねえの~ 」
などという益体もないやり取りをしていた。彼女のことを「エゾシマリス」呼ばわりしたのもI斑である。見た目からあだ名が決まった悪い見本であろう。幸い、ほとんど定着しなかったが。
Tは学生研究室の「ヘビーユーザー」であった。学部の四年次には、ほとんど毎日顔を合わせていたのではなかろうか。マイペースなTは、学生研究室に出入りする他の同期生たちを尻目に淡々と日々の予習をこなしていた。皆と積極的に交流を持とうとする様子はなかったが、かといって完全にシャットアウトする風でもない。努めて誰との距離も等間隔にしているように感じられた。かつてそのことを指摘すると、
「ああ……うん、そうかもしれない」
とだけ呟いて俯いてしまった。恐らく当時の同期生のほとんどが、彼女のインナースペースには深入りしなかったように思う。数少ない例外が私で、割とズケズケとTの本心に迫っていった。
こんなことができたのには理由があって、私とTには共通の知人(Tの高校の同級生で、私のサークルの所属員だった男)がおり、その知人からTの本性(のようなもの)を聞かされていたのだ。その知人曰く、
「あ~、Tさんにはねえ、ある程度こっちから強引にでも距離を詰めていかないと、本音なんて出てこないよ。オレは詰め過ぎて煙たがられてるんだけど、Iくんなら絶妙なとこで止められるんじゃないの?」
ということであった。別にこのアドバイス(?)に従った訳ではないのだが、私は意識してTとの関係性を築いていった。当時、学生研究室に特に頻繁に出入りしていたのは、私、T、H、それにYであったが、時たまこの四人で「気晴らし」と称してドライブに出掛けることがあった。「呼吸するインドア」とでも言うべきTが参加するようになったというだけでも驚愕ものであったろう。こんなことを続けてきたからか、二十年以上経った今でも時たま、LINE上で毒舌の応酬をすることがある(さすがにここで晒すのは気が引けるので止めておく)。
Tの逸話の中でも特に印象に残っているのは、「留年事件」であろうか。四年次の年末、いつものように学生研究室に何人かの同期生が集い、黙々と卒論を書いていた頃のことである。ひとりTだけが何か別の勉強をしている。それに気付いた私が、何気なく声をかけた。
「へえ、卒論は割と余裕あるんだ?」
「あ、うん……まあ、そんなようなもの」
「いつになく歯切れ悪くない?」
「うーん……言ってなかったんだけど、実は、今年度は卒論提出しないことにしたんだ」
「え? 留年するの?」
「うん、そう、就職も決まってないし……」
この時期は就職氷河期真っ只中であったから、Tの決断は判らないではなかった(就職浪人するよりは、敢えて留年して次年度に備える方が良いという判断だったのだろう)。
「そっか……Y先生、なんて言ってた?」
「えっ、うーん……まだ言ってない」
「はあっ?」
「卒論提出日に言いに行こうかなあって……」
「いや、それはマズいでしょ。今すぐ行ってきな。そして、お小言頂戴してきな」
「えー、でも……」
「いいから行け!」
……この数日後、必要があってY先生の研究室にお邪魔したところ、Y先生が複雑そうな表情で愚痴をこぼされた。
「Tさんが留年するって決断をすること自体は仕方ないと思うんだよ。でもさあ、もうちょっと早く話してもらいたかったなあ」
Tにはこういうところがあるのである。決してY先生を信頼していなかったのではない(と思う)。言いにくいことを後回しにしてしまう、というところがあるのだ。却って言い出せなかったというのに近いのだろう。私なんぞに口添えされたくないだろうな、と思いつつ、Tをフォローしてみたのだが、Y先生は納得しがたいという顔で天井を見上げておられた。
……と、ここまで書いてきて気付いたことがある。私たちの年度生、Y先生に迷惑かけすぎじゃないか? とんでもない連中ばかりである。届かないと知りつつ、でも、Y先生に衷心から謝罪せずにはいられない。後日、TがY先生と未だに年賀状のやりとりをしていることを知り、私は少しほっとした。
留年した甲斐があったのだろう、Tは無事地元の自治体に就職し、現在も地方公務員として働いている。(つづく)
〔付記〕
最初の指導教授とその同世代の2人の教授を除き、出身大学の教員にはあまりいい印象を持っていない。
大学1年の頃からたいへんお世話になっている先生がいた。ご自宅にもお邪魔したほどだったが、僕が学籍を離れた頃、ある雑誌にその先生の書いた本の書評を頼まれ、読んでみたところ、自分とは相容れないことが書いてあり、こっぴどい批判を書いた。自分にとっては挑戦的な書評であり、若気の至りといえなくもないが、自分のアイデンティティーに関わることでもあるのでどうしても譲れなかった。
客観的にみれば恩を仇で返すようなものである。その先生は怒りに震えたのか、僕の心を打ち砕くような反論を雑誌に書いた。若造相手に容赦をしない反論を、である。
僕はすっかり打ちのめされた感じになったが、出身大学の教員は、同僚の手前、僕を擁護する人はいなかった。
ところが、ある会合に参加した時に、他の大学の先生がわざわざ僕のところにやって来て、
「あんなもの、気にする必要なんかありませんよ」
と言ってくれ、心が軽くなった。
それから僕は吹っ切れたように、どんなことを言われても動じなくなった。言いたいやつには言わせておけ、自分は自分の道をゆく、という境地になった。
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