傾聴の極意
10月8日(水)
同じフロアの患者さんに、かくしゃくとしたおじいさんがいる。
病棟を杖1本で一人で歩き回り、意識もしっかりとしている。
うらやましい反面、ちょっとイヤだなあと思うこともある。
それは、リハビリの間中、若い療法士さんに向かってずっと喋っていることである。
それは、蘊蓄を喋ったり、自分自身のいまの状況をクドいくらいに細かく喋ったり、むかしの武勇伝を喋ったり、とにかくおしゃべり好きなのである。
それを辛抱強く聞いた若い療法士さんたちは、「なるほど」「そうですか」と相づちを打ったりしているのだが、本当の気持ちはどうなのだろう?
僕だったら、
「あんたになんかそれほど興味はないよ!」
と思ってしまい、イライラが募るばかりだろう。療法士さんは、言ってみれば客商売だから、そんなことを微塵も表情に出せないのだろう。
こういうのを「マンスプレイ二ング」というのか?
かくいう僕も、自分がそうならないように気をつけている。ともすると蘊蓄を喋ろうとするきらいがあるので、こちらから喋ることはせず、何かを聞かれたときに最小限の答えをするように心がけている。しかしそれが守られているかどうかは心許ない。
それで思い出した。
むかし、芸人の上岡龍太郎さんが、「自分はラジオでフリートークをするのが苦手である。なぜならリスナーに求められていない話をしているかもしれないから。しかしリスナーからのはがきで「○○についてどう思いますか?」と聞かれたら、少なくともそのリスナーは聞きたいと思うわけで、そのときはなんぼでも喋るよ、と。
上岡龍太郎さんほどの話芸の達人ならばどんなフリートークも面白いはずだ、と思うのだが、そう言われてみると、上岡龍太郎さんは「受け」の達人である。
むかし「鶴瓶・上岡パペポTV」というテレビの二人のトーク番組があり、笑福亭鶴瓶師匠が「先日、こんなことがありましてん」と話を切り出すと、それを承けて上岡さんがその話を膨らませ、それに関連した話題を繰り出す、というのが二人のやりとりのパターンだった。
この番組では、上岡さんから口火を切ることはなく、鶴瓶師匠がもっぱら口火を切っていた。上岡さんはあくまでも受けの姿勢だったのである。
それでいて、二人の話芸は最高だった。そもそも、漫才のボケとツッコミというのはそういうものなのだろう。
聞かれたことにだけ答え、かつ、その答えが話芸として成立していること。相手が出した話題に対して、その話題を理解してパラフレーズしてしかも盛り上げること。
それが傾聴の極意かもしれない、と思い始めている。僕にはとても真似のできないことだけど。
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