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質問攻め

10月3日(金)

3種類のリハビリのうち、言語聴覚療法は、脳トレみたいなチェックテストが毎回行われる。僕は意識レベルでは問題がないので、成績は健常者と変わらないのだが、それでも「試験」のようなものを課されるたびにいまだに緊張する。「クイズタイムショック」に出演している気分である。

僕はともかく、物忘れが激しい高齢者には、もっと基本的な質問がくり返される。「おいくつですか」とか「今の季節はわかりますか」など。

伊藤亜紗・村瀨孝生『ぼけと利他』(ミシマ社、2022年)に面白い事例が載っていた。

介護保険の要介護認定の際に、調査員が本人に簡単な質問をする。それ自体、答えられるか答えられないかをあげつらう質問として不愉快な質問なのだろうが、それに対する(物忘れの激しい)高齢者の答えが奮っている。

93歳のおばあさんに調査員が「おいくつですか」と質問する。

それに対するおばあさんの答えは、

「忘れることにしています」

「忘れました」ではなく「忘れることにしています」というのが面白い。

そのほかにも、こんな例を紹介している。

「今の季節はわかりますか?」「そりゃもう、最高の季節です」

「お生まれはどちらですか?」「あなたこそ、どちらのお生まれですか?」

「お母さん、私、誰かわかる?」「知っとくるさ、あんたはあんたよ」

こうしたやりとりに対し、介護の専門家・村瀨孝生さんは、

「『できる/できない』という質問を普通の会話に変える。質問に対して質問で返す。『できない』ことがバレないように取り繕うお年寄りの、飾り気のない機智が小気味よいのです。深いぼけのあるお年寄りは、『人を試す』かのような質問でも誠実に答えてくれます。答えに『ずれ』を携えて。でもその『ずれ』は『わたしたち』が知の領域としているストライクゾーンが、いかに狭いかに気付かせてくれる。ぼけの『知』には、てらいのない寛容な構えがあります」(20頁)

たしかに「できるかできないか」という基準で他人に試されるのは、僕だって不愉快だし、緊張する。いままでそうしたことを仕事にしてきたのに身勝手な話だが、そうなのだから仕方がない。

それをうまくかわしながらコミュニケーションを成立させようとするぼけの「知」には、長く生きてきた知恵が凝縮されているとも思う。

それはさておき。

以下は、本書の核心とはまったく関係のない話だが、村瀨さんは94歳女性のKさん、85歳男性のMさん、92歳女性のSさんという3人の会話を紹介している。

「Kさん『わたしゃ、ずいぶんと前から気になっとったんですがねぇ。頭の、その穴はなんですか』

Mさん『ああ、これですか。まず綿を詰めます。そして種を埋めます』

Kさん『そうですか』

Mさん『そして水をやります』

Sさん『わたしゃ、前々からあの緑がよかと思いよった』

Sさん『やっぱり、緑はよか』

Kさん『ああ、そうですか』

Kさんが気にしているのは、Mさんの頭にある穴のようなものでした。それは硬膜下血腫の手術痕です。陥没しており穴に見えます。Mさんの髪型は磯野波平と同じですから、よく目立つのです。

Kさんは突然その「穴」は何かと尋ねます。(略)

Mさんは「ああ、これですか……」と「穴」について語り出します。手術痕である穴に綿を詰め種を埋めるというものでした。おそらくMさんは『別の穴』の使用法を説明しているのです。(略)

さらにMさんは水をやって種を育てると言います。(略)頭に花を咲かせたMさんを想像してしまい笑いを抑えきれませんでした」(95頁)

すでに読者(ダマラー)にはお気づきだと思うが、これはまるで落語の「頭山(あたまやま)」である。ひょっとして落語の「頭山」は、こんなふうな会話から生まれたのか?

それとも、この3人は落語の「頭山」を知っていてこのような会話を繰り広げたのか?だとしたらすごい。

真相はどうであれ、3人の意図せぬ会話は、落語のような世界観に通じる機智に富んだやりとりであるということである。

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