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「私」の物語を生きる

こちら、だまらーネーム「わさびな」さんからお便りをいただきました。

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こんにちは。

だまらーネーム わさびなです。

日記に書いた文章ですが、誰かにひっそりと読んで欲しい気持ちになったので送ります。

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中学生のころ、私は少し変わった立場の子どもだったと思う。

勉強も運動もできた。音痴でもなかった。

先生に頼まれて学級委員長をやった。

でも決して、でしゃばらない。

目立とうとしない。

人の悪口も言わない。

だから誰も私を傷つけられなかった。

というより、ツルツルとしてひっかかりがなく、関わりようがなかったのだと思う。

いま私は、とあるラジオを聴いている。

「絶望」という名を冠した番組には、常連のリスナーがいる。

悪口や殺意。鬱や希死念慮。性欲。フィクションのような不幸の連続。

そんなことを書いたレターがよく採用されている。

パーソナリティは、それらのレターに丁寧に向き合ってコメントをつけていく。

決して解決しようとしない。寄り添わない。

ただ真摯に向き合う。

そのレターを書いた人のパーソナルな部分への言及もする。

まるで、他人の交換日記を見せつけられているような気持ちになる。

このラジオを聞いている時に感じるさみしさは、中学の教室で「問題児」が、教室を舞台に繰り広げられる物語の中心に据えられているのを見ていた時の感情によく似ていると思う。

あの頃の問題児たちのように、常連リスナーは、時に常識や倫理から逸脱して、生き生きと絶望を語る。

パーソナリティにいじられる常連リスナーたちは、名前のある登場人物として、その番組の名前を冠したひとつの物語を生きている。

私自身も番組に何度もレターを送ってきたが、なかなか採用されない。

そして、採用されても、常連の人たちのように、パーソナリティから、「私」という人間に向き合ってもらえたという感覚を持てたことがない。

レターの言葉から立ち上がってくる「私」の像には、彼の心を動かすものが欠けているのだと思う。

決して「拒絶」されているわけではない。

でも、私が番組に送った言葉は、「宙吊り」のまま、どこにも引っかからずに消えていく。

私は、誰の敵にもならない。誰からも攻撃されない。

けれど、同時に、誰からも触れてもらえない。

だから、孤独になる。

冷静に考えれば、レターを読まれる人は、番組が素材として扱える人なのだろうと思う。

番組にとって扱いやすい種類の絶望なら、物語として昇華される。

私の言葉はたぶん素材として美味しくない。

絶望の度合いも中途半端で、コメディに昇華できるような悲劇でもない。

番組のフォーマットの外にある言葉。

つまり、読まれないというのは、パーソナリティから嫌われているからでも、興味を持たれていないからでもない。

私の言葉はこの番組にとって、あってもなくても良い言葉というだけの話だ。

この番組のパーソナリティは、かつて、「ファンからいくら手紙をもらっても、何も積み重なるものはない。無。」と発言したことがある。

問題児たちだけは「無」ではないのではないかと考え出すと、ますますさみしくなるが、これは認知の歪みだろうか?

私は、ずっと、誰にも傷つけられない場所にいて、誰にも抱きしめられない場所にいる。

それが一番の傷であり痛みなのかもしれないと思った。

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僕が好きな映画監督である大林宣彦さんの映画には、しばしば映画の最後に、物語の中心から「取り残された人」が登場します。その場面は実に印象的です。物語の中心から取り残された人への眼差しを決して忘れないところに、僕が大林宣彦監督の映画が好きな最大の理由があることを、お便りを読みながら思い出しました。

みなさまからも、どんなことでも構いません、ちょっと聞いてほしいなあというつぶやきなどがありましたら、引き続きお便りを募集しております。

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