アニメ・コミック

いまさらコナン

4月29日(土)

久しぶりの「いまさらシリーズ」。

「名探偵コナン」の劇場版最新作「黒鉄の魚影」を、5才の娘と観に行った。最近、テレビで放送していた過去の劇場版「名探偵コナン」を娘が立て続けに見て、たちまちファンになったのである。

かくいう僕は、恥ずかしながらこれまで「名探偵コナン」をちゃんと観たことがない。僕の「名探偵コナン」に関する知識は、

「主人公のコナンは、ほんとうは高校生なのだが、何らかの事情で小学生になっている」

というぼんやりとした1点だけである。つまり僕は「コナン弱者」なのだ。いまどき、コナンについてこの程度の知識しか持っていない人間は、そうそういないのではないだろうか。

そんな僕が、娘が夢中になって観ている「名探偵コナン ハロウィンの花嫁」という過去の劇場版を横目でチラチラ見ていると、おいおい、なんかすごいことになってるぞ、大スペクタクルじゃないか。

「名探偵コナン」のレギュラー放送は、ほとんど観ていないのだが、何となくイメージでは、密室殺人事件を推理するとか、そういう推理劇が多いのかなと勝手に思い込んでいたが、派手な爆破や破壊が起こったり、荒唐無稽なアクションがあったりと、まるで全盛期のルパン三世のようである。

また、話の展開が、何となく劇場版「相棒」とも親和性があるような気がする。

…と、ここまで読んできた「名探偵コナン」ファンからは、「おめえ、何言ってんの?バッカじゃねえの」と袋だたきにあいそうだが、まあコナンのコの字も知らない「コナン弱者」の感想に過ぎないのでご容赦ください。

…で、劇場版最新作を観てみたら、これが先日横目でチラチラ見た「ハロウィンの花嫁」以上の大スペクタクルな物語になっていて(少なくとも僕はそう感じた)、すっかり心を奪われてしまった。

映画に登場する複雑な人間関係については、僕自身、まだわかっていないことが多いのだが、そんな僕でも十分に楽しめたのである。

この映画の脚本を担当したのは、櫻井武晴氏。やはり「相棒」の常連脚本家ではないか。で、調べたら、けっこう名探偵コナンのレギュラー放送や劇場版の脚本を手がけているんだね。

この映画が層の厚いスタッフによって作られていることが、恥ずかしながら初めてわかった(あたりまえのことだが)。

どことなく「ルパン三世」のような荒唐無稽なアクションをこれでもかと見せるスタイルが印象的なのも、シリーズの脚本家の中に、ルパン三世の脚本を手がけている人がいるようで、やはり親和性が高いように感じた。というか、俺のアニメ知識、かなりショボい。

「江戸川コナン」という名前はもちろんだが、「阿笠博士」とか「毛利小五郎」とか「目暮十三」とか「少年探偵団」とか、古今東西のミステリー小説へのオマージュがみられることは、ミステリーファンにはたまらないのだろう。

ひとり、よくわからなかったのは、「安室透」という人物の本名が「降谷零」で、その声を声優の古谷徹さんがあてている、という点である。

たしか「機動戦士ガンダム」に「アムロ・レイ」という登場人物がいて、古谷徹さんが声を担当していたと記憶しているけれど、「名探偵コナン」の中の「安室透」は、それに対するパロディーというか、オマージュなのか?

僕のガンダム知識といえば、

「機動戦士ガンダムにはアムロ・レイという登場人物がいて、その声を古谷徹さんが担当している」

という1点しかないのだ。

そう、ドストライクの世代なのに、実は僕は「ガンダム弱者」でもあるのである。

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いまさら『大奥』

恒例の「いまさら」シリーズ。

10月11日(月)

ひとり合宿、1日目。

現実からの逃避が、ひとり合宿でしか実現しないとは、なんとも不健康な逃避方法である。

まあそれはともかく。

ひとり合宿でどんな本を持っていくか、というのは、毎回楽しみでもあり、迷うことでもある。

読みかけの本を持っていくか、久しぶりに松本清張の『昭和史発掘』を持っていくか、カフカの小説を持っていくか、などといろいろと迷ったのだが、今回はよしながふみさんの漫画『大奥』が僕のことを呼んでいた。

というのも、わが家ではいま『大奥』ブームなのである。

「絶対おもしろいから読んだ方がいいよ」

と家族に言われたのだが、はっきり言ってピンとこない。

たしか民放で『大奥』というドラマをやっていたことはことは知っていたが、一度も観たことがない。

「わかったわかった。じゃあ最初の1巻だけ借りるよ」

と、2週間くらい前に借りたのだが、そのままになっていた。

そもそも僕は、漫画をあまり読まない。世の中にはとんでもなくおもしろい漫画が星の数ほどあるということは、もちろんわかっているのだが、だからこそ、限られた時間の中でどんな漫画を読んでいいかわからなくなるのである。ここ最近、全巻通して読んだのは、武田一義さんの『ペリリュー』だけである。

これではいつまで経っても『大奥』を読み始める踏ん切りがつかない。

家族が業を煮やしたのか、今朝起きたら、朝食時に、TBSラジオ「ライムスター宇多丸 アフター6ジャンクション」の「大奥特集」をラジオクラウドを通じて流していた。たぶん今年の春先くらいの放送だと思う。

3人の『大奥』ファンが、まだ読んだことのないライムスター宇多丸さんに、『大奥』がいかにおもしろい漫画であるかを熱くプレゼンテーションするという企画で、宇多丸さんも僕と同様に、最初は半信半疑だったようなのだが、そのプレゼンを聴いているうちに、その面白さに気づいていく、という内容だった。

家族がわざと僕にその放送を聴かせた、ということは、これはもう最後の手段という意味である。「宇多丸さんだって心が動いたんだから、あんたも心を動かせよ」と。

「わかったわかった。じゃあひとり合宿に持っていくよ」

「何冊?」

さあ困った。実際、何冊くらい読めるかわからない。読むんだったら、この機会にできるだけまとめて読んでみたいという気持ちもあるが、途中で飽きちゃうかもしれないし。

「5冊」

「え?」

「あ、いや、…10冊」

「じゃあ、あいだをとって6冊ね」

ということで僕は、『大奥』の1巻から6巻をカバンに詰め込んで、ひとり合宿に向かったのであった。

で、実際読んでみると…。

1日目にして、あっという間に5巻まで読んでしまった。こういう話だったのね。すげーおもしろい!というか、大河ドラマにした方がいいよ!

「うーむ。やはり10冊にすべきだったな」

ちょっと根を詰めて読み過ぎたので、今日はここまで。

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マンガの監修をしました!

僕が監修したマンガがようやく公刊されました!

…といっても市販してはおりません。

僕が数年前からお仕事させていただいている「光の国の姉妹都市」で、地元の若い人たちにもっと町のことを知ってもらおうと、マンガの小冊子を作ることになり、僕がその監修を仰せつかったのだ!

マンガを描いたのは、地元のマンガ専門学校の学生さんたち。一人が描いたのではなく、できるだけたくさんの学生さんにチャンスを与えようという配慮なのか、1ページごとに違う人が描いている。だから1ページごとに画風が異なるという、これまた味わい深い作品に仕上がっているのだ。

オールカラーだが、ホッチキスで簡易に製本してあり、ほとんど同人誌の趣であるが、コンパクトで、おそらく無料配布されるのだろうから、その町を知るには重宝すること請け合いである。

そういえば、いまから15年ほど前だったか。

ある仕事で知り合った同業者が、その仕事の合間に、

「いま、『仁』というマンガの監修をしてるんですよ。みなさん知らないと思いますけど、面白いマンガなんで、だまされたと思ってまあ読んでみてください」

と言っていて、そのときは、

(『仁』…知らんなあ)

と思いながら、とりあえず最初の数巻を読んでみたら、これがまあ面白かった。

そしたらあーた、その数年後にドラマ化されて、大人気になったじゃあ〜りませんか!

それだけでなく、韓国でもリメイクされていたぞ!

それからというもの、

(うーむ。俺もマンガの監修をしてみたい)

と思ったものだが、このたびついに、その夢が叶ったのである!

フュージョンバンドを結成してライブをしたり映画の推薦文を書いたり映画のトークショーに出たり、マンガの監修をしたりと、僕の夢だったことがどんどん叶えられてゆく。

めざすはみうらじゅん先生である。

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作風

お酒をやめて、かれこれ3年くらいたつが、お酒が無性に飲みたくなる、ということはあんまりない。最近は、麦茶と炭酸水を交互に飲めば、ビールを飲んでいるつもりになれることを発見した。そんなことはともかく。

昨年末まで、MXテレビで放映されていた「ルパン三世 パート2」を録画して、空いた時間に視聴しては、視聴し終わったものを消していた。

なにしろ、155回くらいあるからね。全部残していたら、ハードディスクがたちまちいっぱいになってしまう。その中でも、よほどこれは、といういわゆる「神回」的な回のみを残すことにした。

ルパン三世のアニメをちゃんと見るのは、10代以来だから、かれこれ35年ぶりとか40年ぶりくらいである。なので、内容じたいはほとんど覚えていなかった。当時だって、まじめに毎回見ていたわけではない。

強烈に覚えていたのは、ある回で、ルパンが何かの計算をしている場面があり、「え~っと、サインコサインタンジェント、と…」という台詞があったなあ、ということくらいで、物語の本筋とはまったく関係のない場面だったのだが、実際にその場面に再会したときは、ちょっと感動した。

…いや、そんなことを書きたいわけではない。

MXテレビの再放送は昨年末にめでたく最終回を迎えたのだが、僕は録画した最終回を見ないままにしていた。見てしまうと、「これで終わりか…」と寂しくなる感じがしたからである。

そうしたところ、最近妻がルパン三世の最終回を先に見てしまったらしく、

「ルパン三世の最終回、見た?」

「いや、まだだけど」

「すごいよ。まるで映画みたいにホンイキで作られてるよ」

そこには、たかだか30分のテレビアニメなのに、というニュアンスが込められていた。

「ジブリ作品だよ、絶対」

どれどれ、と見てみると、たしかにぶったまげた。

「これは完全に、宮崎駿作品ではないか…」

いやいや、ここまでの文章をルパン三世マニアの方が読んでいたら、「おまえいまさら何言ってんの?そんなの常識だよ!」と言われるかもしれないが、こちとら、40年ぶりくらいに見ているのだ。まったく、何の知識もなく見てみたら、誰だって驚くはずである。

前の回までと、作風が全然違う。完全にラピュタの世界観ではないか。それに、ルパンを始めとする出演者の「顔つき」も違うのだ。早い話が宮崎駿タッチである。

決定的なのは、劇中に「炎のたからもの」のインストがBGMで流れていたことである。「カリオストロの城」じゃん!話の最後も、カリオストロの城を彷彿とさせる。

そう言われてみると、最終話のヒロイン役の声が、クラリスであり、ナウシカである。

これはもう、間違いないな、と思って、エンディングの歌とともに流れるスタッフロールを見ると、脚本、作画、演出にいずれも「照樹務」とあった。後で調べたところ、これは宮崎駿のペンネームであることがわかった。

というか、これくらいのことはすべて、ウィキペディアに書いてあることなので、こんなことは常識なのだろう。

それよりも僕がびっくりしたことは、そのウィキペディアによれば、宮崎駿は第145話「死の翼アルバトロス」も担当していたという事実である。何にも知らないで見ていた僕は、この145話を見たときに、「こりゃあすごい」と思い、神回に認定して録画を残しておいたのである。

作風ってのは、つきまとうんだねえ。

どちらの話にも共通しているのは、空(そら)や雲の描き方の美しさである。空や雲を強調するような画面展開なのである。

あと、これもびっくりしたのだが、ルパン三世パート2の最終話が1980年、「カリオストロの城」が1979年で、映画の方が前だったんだね。てっきり「カリオストロの城」は、ルパン三世パート2のシリーズが終わってから公開されたのだと思っていた。「炎のたからもの」のインストがBGMに使われたのも、これで納得できた。これもまた、マニアには常識なのだろう。

最終話のヒロインの声をつとめたのは、クラリスやナウシカの声を担当した島本須美さんだということもわかったのだが、島本さんは、ほぼ同じ頃に放映された「ザ☆ウルトラマン」というアニメで、女性隊員役の声を担当していたり、「ウルトラマン80」の第4話では、この回の主人公である中学生(あだ名はスーパー)のお姉さん役で、つまり役者として出演している。ちょうどいま、YouTubeの円谷プロ公式チャンネルで見たばかりだったので、これにも驚いた。

これもまた、マニアには常識のことなのだろう。ということで、マニアにとってはきわめて退屈な文章でございました。

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人生で大切なことはすべて○○から学んだ

相変わらず仕事がクソ忙しいのだが、仕事の話を書くとシャレにならないほどの愚痴になるので、全然別の話を書く。

よく「人生で大切なことはすべて○○から学んだ」というフレーズがあるよね。昨日、家族とそんな話題になった。

で、調べてみると、童門冬二という作家が、

『人生で大切なことはすべて映画で学んだ』

という本と、

『人生で必要なことはすべて落語で学んだ』

という本を書いていることがわかった。おまけに、

『人生の歩き方はすべて旅から学んだ』

という本も書いていることがわかり、どないやねん!と突っ込みたくなった。いっそのこと、

『人生で大切なことは、映画、落語、旅からそれぞれ三分の一ずつ学んだ』

という本を書けばいいのに。

それはともかく。

自分にとっては、○○のところに何が入るだろう?と、昨日から考えていて、ハッと思い至った。

「人生で大切なことは、すべて『ルパン三世』から学んだ」

これだ!これに間違いない!

このところ、アニメ『ルパン三世』の再放送をやっているので、折にふれて見ているうちに、あることに気づいた。

子どものころの知識や教養は、ほとんど「ルパン三世」から学んでいたことを、である。

まず、『ルパン三世』のエピソードは、世界のありとあらゆる国が舞台となっている。当然そこには、その国の名所も登場する。ひょっとしたらノートルダム大聖堂も登場していたかも知れない。

つまり僕は、学校で習うよりも前に、「ルパン三世」を通じて世界の地理を学んでいたのである。

世界の地理だけではない。北京原人の謎やら、ジンギスカンの謎やら、世界史上のさまざまな謎もモチーフになっている。ナチスを思わせる独裁国家が登場する回もあったりして、世界史のありとあらゆる出来事が総動員されてエピソードが作られているのだ。

海外だけではないぞ。日本の歌舞伎や時代劇の知識だって得られるのだ。そもそも銭形警部とか石川五右衛門なんて名前は、時代劇へのオマージュだし、忠臣蔵をモチーフにしたエピソードや、歌舞伎の白浪五人男をモチーフにしたエピソードなんかもある。忠臣蔵のストーリーなんて、「ルパン三世」を見てはじめて知ったんじゃなかったろうか。

ほかにも、古今東西の名探偵が一堂に会する「名探偵空をゆく」というエピソードや、007シリーズをもじったタイトルなど、オマージュやパロディーまで含めると、それだけで世界の文学史や映画史が「ルパン三世」を通じて語れるのではないだろうか。

つまり、古今東西のありとあらゆる知識や教養は、子どものころに「ルパン三世」を通じて学んだのである。

知識だけではない。愛や憎しみ、友情や孤独、といった人間のさまざまな感情も、すべて「ルパン三世」の中で語られていたことである。

本編だけじゃないぞ。音楽だってそうだ。

「ルパン三世80のテーマ」は、なんといっても衝撃だった。あの曲が、自分にとってのジャズの原体験だったといってもよい。

というわけで、自分にとっては疑いなく、「人生で大切なことはすべて「ルパン三世」から学んだ」のである。

「ルパン三世」の原作者であるモンキー・パンチ先生が亡くなられたという。合掌。

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人間ども集まれ!

以前、映画「クラウドアトラス」について書いたことがある。

時代を超えた6つの物語が交錯する、複雑きわまりない壮大な物語である。

6つのエピソードのうちの1つ、2144年の未来社会を舞台にしたエピソードでは、遺伝子操作で作られた合成人間(複製種)たちが登場する。複製種たちは人間(純血種)に支配され、労働力として酷使されていたが、これに疑問を抱いた複製種のソンミ(ペ・ドゥナ)が革命家と出会い、複製種の尊厳を取り戻そうと立ち上がる。

これとほぼ同じモチーフの物語が、手塚治虫の漫画の中にある。『人間ども集まれ!』である。

東南アジアのパイパニア共和国の戦争に義勇兵として参加していた日本の自衛隊員・天下太平は、脱走兵として捕まり、パイパニア共和国が進めていた人工受精の実験台にされてしまう。

太平の精子はきわめて特殊なもので、生まれる子どもは男でも女でもない「無性人間」だった。この「無性人間」は、働き蜂のような従順な性質を持っており、この性質を利用した医師の大伴黒主は、無性人間を大量生産して、これを兵士として世界中に輸出し、大儲けすることをたくらむ。

「商品」として輸出され、兵士として虫けら同然に扱われていた無性人間たちは、やがて人間たちに抑圧されていることに疑問を持ち、人間に対する反乱をくわだてるのである。

1967年~68年に発表された漫画だが、まるでこれは映画「クラウドアトラス」における「純血種」と「複製種」のエピソードを先取りしたような話である。いまから半世紀近くも前に、手塚治虫はすでにこんなことを考えていたのだ。

この作品自体は、当時のベトナム戦争を強烈に意識して描かれているが、いまの私たちが読んでも、いま現在の問題としてとらえることができる必読の作品である。

手塚治虫の構想力には、あらためて驚嘆せざるを得ない。

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トキワ荘中心史観

TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」の「さいとう・たかを特集」が面白かった。

漫画家のみなもと太郎が、さいとう・たかをの偉大な功績を語る、という企画で、いってみれば「レジェンドがレジェンドを語る」という内容である。

みなもと太郎は「さいとう・たかを」を語るのに、その前提として、日本における漫画の歴史から始まり、漫画の歴史における手塚治虫の位置づけ、という話に進んでいき、なかなか本論の「さいとう・たかを」にたどり着かない。

本題になかなかたどり着かない語り口は、まさに代表作『風雲児たち』を彷彿とさせる。

しかも漫画史に対する考察は、まるで学問におけるパラダイムを語るがごとくである。

私が最も学問的スリリングを感じたのは、以下のくだりである(実際にポッドキャストを聴くことをオススメする)。

「(みなもと太郎)…さいとう・たかをさんは『新宝島』を初めて見た時に、「ああ、紙で映画が作れるんだ」と思って、それを実践していったと。

(宇多丸)いわゆる子供向け「まんが」的な感じではなくて。本当にストーリーがあって。いまで言う漫画ですよね。

(みなもと太郎)そうです。それで、石ノ森章太郎である、水野英子である、赤塚不二夫である、藤子不二雄であるという人たちも……

(宇多丸)いわゆるトキワ荘的な人たち。

(みなもと太郎)そういう人たちも、『新宝島』を見て。要するに、あの当時の少年たちはみんな『新宝島』にショックを受けたわけですが。で、手塚治虫のような作品を書きたいということで。ただ、いま『新宝島』を我々が見て、それほどの衝撃を受けようというのは無理な話で。だけども、今、『新宝島』が世間にどういう評価をされているか、一言で言えますでしょ? 手塚治虫は何をしたのか?って。

(宇多丸)ええと、映画的な表現を漫画に持ち込んだ。

(みなもと太郎)はい、その言葉です。だとすれば、手塚治虫のいちばんやりたかったことを実現させえたのはさいとう・たかをじゃないのか? と。

(宇多丸)ああっ、つまり……

(みなもと太郎)で、そこで「ああ、つまり……」と言わないでほしい。「えっ、そんなはずはない」でしょう? 手塚治虫がやろうとしたことは、さいとう・たかを劇画に発展させたかったのか?

(宇多丸)ああ、もちろん手塚治虫は、こういう漫画像を理想としては、ビジョンとしては描いていないですよね。

(みなもと太郎)だけども、今の世間の評価は「手塚治虫は映画的表現を開発した」と言う。もし、それを言うのであれば、さいとう・たかをがそのトップバッターじゃないのか? でも、それは変だと思うでしょ? あなたも私も。俺も、そう思う。

(宇多丸)その「手塚の血統だ」と言われると、大変違和感がある。

(みなもと太郎)違和感があるでしょう? だから、手塚治虫を見て、『ドラえもん』もできた。『星のたてごと』もできた。『忍者武芸帳』もできた。『ねじ式』だってやっぱり手塚治虫を……

(宇多丸)ああ、そうですか。つげ義春でさえ。

(みなもと太郎)つげ義春でさえ、手塚漫画に衝撃を受けて漫画家になっていって。そういう百花繚乱な中。だから、まずその手塚治虫の『新宝島』の評価というものを、まだ世間は捉えていない。手塚治虫もまた理解されていないと俺は言いたい!

(宇多丸)なるほど。つまり、「映画的表現を持ち込んだ」っていうこの割り切り方がちょっとおかしいですかね

(みなもと太郎)そう。おかしいでしょう。今、これを言うと。「映画的表現」って言うなら、じゃあ『ゴルゴ13』が手塚治虫の正当の跡継ぎになるんじゃないか?って。でも、それは俺自身でも変だと思う(笑)。

(宇多丸)はいはい。たぶんトキワ荘中心史観みたいなものを、特に僕みたいな門外漢とか、後から来た世代は、そこの歴史だけはよく知っていて。

(みなもと太郎)だから歴史というのは、そういうもんなんですよ。

(宇多丸)まさに『風雲児たち』!(笑)。」

宇多丸さんが瞬間的に生み出した「トキワ荘中心史観」という言葉に、思わず手をたたいてしまった。

なるほど、私たちの戦後漫画史のパラダイムは、「トキワ荘中心史観」だったのかもしれない。

しかしそれを克服することが、手塚治虫に対する新たな評価にもつながる。

ちょっと学問的興奮を覚える一幕であったので、心覚えに書きとどめておく。

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八角形の館

4月1日(火)

2008年11月30日、韓国に留学した初日の日記に、私は次のように書いた。

「むかし、手塚治虫先生の『ザ・クレーター』という短編マンガ集の中に、漫画家だった男が、まったく別の人生を生きたいと思い、それまでの人生を捨ててプロボクサーとして生きるという話があったことを、なぜか思い出した。これからの1年3カ月の世界は、これまでの世界とは、まったく別の世界のように思える」

今日もまた、同じ心境である。

さて、この短編漫画の内容を、もう少し詳しく思い出してみよう。

主人公の漫画家の男は、漫画家の人生に失望し、ある古びた八角形の館に行った。その八角形の館は、別の人生を歩むことのできる場所だった。彼は気がつくと、プロボクサーになっていた。

だがこの八角形の館の掟は、「2度目の後悔は許されない」というものであった。つまり、「新しい人生に後悔した瞬間、とんでもないことが起こる」というのである。

決して後悔なんかするもんか、と、彼はプロボクサーになるのだが、初試合でこてんぱんに負けてしまった彼は、リングに倒れ、朦朧とした意識の中で、プロボクサーに失望し、「やはり漫画家になればよかった」と、後悔するのである。

その瞬間…。

その漫画は、とんでもない結末を迎えて、終わる。

たしかそんな内容だったと思う。

1日にして、まったく新しい世界に飛び込む。

一生に何度か、それも、この日がそれにあたることが、多いのではないだろうか。

では、この日にちなんだ曲を1曲。

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灰色の男、羊の木

1月26日(木)

東京で学生をしていたころ、「シティボーイズ」という3人組のコントライブを、よく見に行っていた。

若い人は、「シティボーイズ」なんていったって、わからないだろうな。

大竹まこと、きたろう、斉木しげる、というおじさん3人組のコントグループである。

まだ20代のころ、「けったいなおじさんたちがいるもんだ」と思っていたが、いまや私も、そのころの3人の年齢になっていて、十分に「けったいなおじさん」である。

私が好きなコントに、「灰色の男」と題するものがある。

ある団地に、「幼女誘拐殺人」の容疑者として逮捕された一人の男(斉木しげる)が住んでいた。のちにその男は裁判で無罪になった。

だが団地の自治会で、そのことが問題となり、その男に団地から退去してもらうことが決まった。

自治会から選ばれた2人(きたろう、大竹まこと)が、何とかその男に退去してもらおうと、説得にあたることになる。

2人のうちの1人(きたろう)は、無罪となったその「男」をあいかわらず犯罪者あつかいして、団地から何とか追い出そうと思っている。だが「犯罪者」という偏見が、逆に彼を震え上がらせて、妄想が広がってゆく。

それに対して、もう1人(大竹まこと)は、これに真っ向から反対する。無罪だということは、一般市民と同じであり、偏見の目をもって団地から追い出すことは、許されないことだからである。そこで彼は、「男」に対する極端なまでの偏見をとりのぞこうと、必死に反論する。こうして、2人は口論になる。

その二人のやりとりが、実におもしろい。おもしろい、というか、考えさせられるのである。自分がこの立場だったら、どう考えるだろうか。やはり偏見のまなざしで見るだろうか、それとも、そうした偏見にとらわれないでいられるだろうか…。

当然自分は後者だ、と誰しも思うだろう。だが、斉木しげる演じる「灰色の男」の、妙に神経質で、時折見せる狂気の表情は、「あるいはひょっとして…」という気にさせるのである。この3人の芝居は、見事というほかない。

もはやこれはコントではない。日常にひそむ、ちょっとしたホラーである。

どうしてこのコントを思い出したかというと、最近、山上たつひこ原作・いがらしみきお作画の『羊の木』という漫画を読みはじめたからである。まだ1巻しか出ていないが。

山上たつひこ、若い人は知らないだろうなあ。『がきデカ』を描いた漫画家。

人口減少に悩む地方都市が、あるプロジェクトをたちあげる。それは、刑期を終えた犯罪者11名を町で受け入れて、一般市民として住まわせる、というプロジェクトである。

出所した人たちはいずれも、凶悪な事件を起こした人たちばかりである。

このプロジェクトについて知っているのは、町長を含む3名。それ以外の市民は、この事実を知らない。つまり彼らの素性を知るのは、3人のみである。

だが彼らの素性を知る3人は、「刑期を終えたのだからもはや一般市民なのだ」と思いながらも、心のどこかで、また何か事件をおこすのではないか、と恐怖を感じている。一方で、いやいやそれは偏見なのだ、ふつうに接しなければダメなのだ、と強く思う。その2つの感情の間で、激しく揺れ動くのである。

何かが起こりそうで起こらない。「笑い」とも「恐怖」ともつかない感覚。この微妙な感覚が、さきの「灰色の男」のコントと通ずるのである。

はたして自分は、自分の中にある「偏見」をどれだけ自覚しているだろうか。それを試されているような気がしてならない。

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漫画リハビリ

「『真っ白な灰』事件」のショックから、「そうだ、久しぶりに漫画を読もう」と思い立つ。

私は漫画をほとんど読まない。

だが、子どものころ、漫画家に憧れたことがある。

小学校5年生のころだったか。

当時『週刊少年ジャンプ』を発刊していた集英社が、「手塚賞」「赤塚賞」という、10代の新人漫画家を発掘する新人賞を主催していた。手塚賞は、少年向けのストーリー漫画、赤塚賞は、少年向けのギャグ漫画というように、ジャンルわけされていた。

小学校5年の私は、友だちと二人で、無謀にもこの賞に応募することにした。いや、正確にいえば、漫画好きの友だちに誘われて、応募させられる羽目になったのである。

松本零士の「戦記もの」に傾倒していたその友だちは、戦記ものの漫画を描いて手塚賞に応募した。応募を考えるくらいだから、絵はけっこう上手かった。

それにつきあわされる私は、仕方なく、手塚賞ではなく、赤塚賞に応募することにした。どんな内容のものを描いたか、ほとんど覚えていないが、たしか、顔が「釜飯の釜」の形をしているおじさんが主人公の、ギャグ漫画だったと記憶する。「釜飯おじさん」である。

むろん、そんな漫画が入選するはずもなく、漫画家の夢は潰えてしまった。

このあと、中学生になって、ミュージシャンになろうと、今度は音楽好きの友だちと、坂本龍一にデモテープを送ったのだが、これもなしのつぶてだった。これはまた、別の話。

まあそんなことはよい。

最近、どうしても読みたい漫画があった。

8ddf82c694b1 落合尚之『罪と罰』(双葉社)である。

現在、『漫画アクション』に連載中のこの漫画。ドストエフスキーの『罪と罰』を、設定を現代の日本に置き換えた、いわゆる翻案もの。

なぜこの漫画を読もうと思ったか。

それは、作者が、私の高校時代の部活の1年上の先輩だからである。

落合先輩は、ブラバンで、トランペットを吹いていた。

個人的に、あまり話したことはないが、独特の感性を持った人で、面白い人だな、思っていた。

高校卒業後、大学に入り、漫画家をめざしている、と聞いた。いやすでにもう、漫画家になっていたのかも知れない。

でも、実際に、どの雑誌に漫画が載っているのか、よくわからなかった。

高校卒業後はまったくお会いしていない。ただ、あれは、大学時代だったか。OBとして、後輩がやっている定期演奏会を聞きに行ったときに、一度だけ演奏会場でお会いしたことがある。

そのとき、聞いてみた。「いま、漫画は描いているんですか?」

すると先輩は、

「充電中」

とだけ答えた。

(なんだよ、いきなり充電中かよ!)と、そのとき強く思ったことを覚えている。

最近、その先輩のことを思い出し、(いまも漫画を描いているのだろうか…)と思って調べてみると、『罪と罰』という漫画を連載していることを知る。

しかもそれが、いま大変な評判になっている、というではないか。

ラジオで伊集院光氏が絶賛していた、とも聞いた。

帰国後、最初に読む漫画はこれにしよう、と決め、本屋に向かう。

東北の地方都市の本屋にもかかわらず、なんと平積みになっているではないか。

ちょっと感動ものである。

どちらかといえばマイナーで、寡作という評判の先輩が、いよいよブレイクしたか!

さっそく、これまで出ている巻を読み始める。

一気に読んでしまった。面白い!

こりゃ、絶対、いずれドラマ化か映画化されるだろうな。

それにしても、申し訳ない。

おそらくは、入念な準備と相当な手間をかけて描かれた漫画を、一晩で読み流してしまうのだから。

一コマ一コマに込められた思いが、一瞬のうちに過ぎ去ってゆく。

漫画家とは、なんと、割に合わない商売なのだろう。

オリンピック選手が頑張っているのを見て、「私も頑張ろう」とは思わないが、高校の時に、多少なりとも話したことのある先輩が、いい作品を描いているのをみると、「私もいい仕事をしよう」という気に、ちょっとなるね。

それと、小学校の時、「釜飯おじさん」なる漫画を描いて漫画家をめざそうとした軽率な行為を、お許しください。漫画家なんて、そんな軽はずみになれるものじゃないんですよね。

ああ、第8巻が待ち遠しい。

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