アニメ・コミック

いまさらコナン

4月29日(土)

久しぶりの「いまさらシリーズ」。

「名探偵コナン」の劇場版最新作「黒鉄の魚影」を、5才の娘と観に行った。最近、テレビで放送していた過去の劇場版「名探偵コナン」を娘が立て続けに見て、たちまちファンになったのである。

かくいう僕は、恥ずかしながらこれまで「名探偵コナン」をちゃんと観たことがない。僕の「名探偵コナン」に関する知識は、

「主人公のコナンは、ほんとうは高校生なのだが、何らかの事情で小学生になっている」

というぼんやりとした1点だけである。つまり僕は「コナン弱者」なのだ。いまどき、コナンについてこの程度の知識しか持っていない人間は、そうそういないのではないだろうか。

そんな僕が、娘が夢中になって観ている「名探偵コナン ハロウィンの花嫁」という過去の劇場版を横目でチラチラ見ていると、おいおい、なんかすごいことになってるぞ、大スペクタクルじゃないか。

「名探偵コナン」のレギュラー放送は、ほとんど観ていないのだが、何となくイメージでは、密室殺人事件を推理するとか、そういう推理劇が多いのかなと勝手に思い込んでいたが、派手な爆破や破壊が起こったり、荒唐無稽なアクションがあったりと、まるで全盛期のルパン三世のようである。

また、話の展開が、何となく劇場版「相棒」とも親和性があるような気がする。

…と、ここまで読んできた「名探偵コナン」ファンからは、「おめえ、何言ってんの?バッカじゃねえの」と袋だたきにあいそうだが、まあコナンのコの字も知らない「コナン弱者」の感想に過ぎないのでご容赦ください。

…で、劇場版最新作を観てみたら、これが先日横目でチラチラ見た「ハロウィンの花嫁」以上の大スペクタクルな物語になっていて(少なくとも僕はそう感じた)、すっかり心を奪われてしまった。

映画に登場する複雑な人間関係については、僕自身、まだわかっていないことが多いのだが、そんな僕でも十分に楽しめたのである。

この映画の脚本を担当したのは、櫻井武晴氏。やはり「相棒」の常連脚本家ではないか。で、調べたら、けっこう名探偵コナンのレギュラー放送や劇場版の脚本を手がけているんだね。

この映画が層の厚いスタッフによって作られていることが、恥ずかしながら初めてわかった(あたりまえのことだが)。

どことなく「ルパン三世」のような荒唐無稽なアクションをこれでもかと見せるスタイルが印象的なのも、シリーズの脚本家の中に、ルパン三世の脚本を手がけている人がいるようで、やはり親和性が高いように感じた。というか、俺のアニメ知識、かなりショボい。

「江戸川コナン」という名前はもちろんだが、「阿笠博士」とか「毛利小五郎」とか「目暮十三」とか「少年探偵団」とか、古今東西のミステリー小説へのオマージュがみられることは、ミステリーファンにはたまらないのだろう。

ひとり、よくわからなかったのは、「安室透」という人物の本名が「降谷零」で、その声を声優の古谷徹さんがあてている、という点である。

たしか「機動戦士ガンダム」に「アムロ・レイ」という登場人物がいて、古谷徹さんが声を担当していたと記憶しているけれど、「名探偵コナン」の中の「安室透」は、それに対するパロディーというか、オマージュなのか?

僕のガンダム知識といえば、

「機動戦士ガンダムにはアムロ・レイという登場人物がいて、その声を古谷徹さんが担当している」

という1点しかないのだ。

そう、ドストライクの世代なのに、実は僕は「ガンダム弱者」でもあるのである。

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いまさら『大奥』

恒例の「いまさら」シリーズ。

10月11日(月)

ひとり合宿、1日目。

現実からの逃避が、ひとり合宿でしか実現しないとは、なんとも不健康な逃避方法である。

まあそれはともかく。

ひとり合宿でどんな本を持っていくか、というのは、毎回楽しみでもあり、迷うことでもある。

読みかけの本を持っていくか、久しぶりに松本清張の『昭和史発掘』を持っていくか、カフカの小説を持っていくか、などといろいろと迷ったのだが、今回はよしながふみさんの漫画『大奥』が僕のことを呼んでいた。

というのも、わが家ではいま『大奥』ブームなのである。

「絶対おもしろいから読んだ方がいいよ」

と家族に言われたのだが、はっきり言ってピンとこない。

たしか民放で『大奥』というドラマをやっていたことはことは知っていたが、一度も観たことがない。

「わかったわかった。じゃあ最初の1巻だけ借りるよ」

と、2週間くらい前に借りたのだが、そのままになっていた。

そもそも僕は、漫画をあまり読まない。世の中にはとんでもなくおもしろい漫画が星の数ほどあるということは、もちろんわかっているのだが、だからこそ、限られた時間の中でどんな漫画を読んでいいかわからなくなるのである。ここ最近、全巻通して読んだのは、武田一義さんの『ペリリュー』だけである。

これではいつまで経っても『大奥』を読み始める踏ん切りがつかない。

家族が業を煮やしたのか、今朝起きたら、朝食時に、TBSラジオ「ライムスター宇多丸 アフター6ジャンクション」の「大奥特集」をラジオクラウドを通じて流していた。たぶん今年の春先くらいの放送だと思う。

3人の『大奥』ファンが、まだ読んだことのないライムスター宇多丸さんに、『大奥』がいかにおもしろい漫画であるかを熱くプレゼンテーションするという企画で、宇多丸さんも僕と同様に、最初は半信半疑だったようなのだが、そのプレゼンを聴いているうちに、その面白さに気づいていく、という内容だった。

家族がわざと僕にその放送を聴かせた、ということは、これはもう最後の手段という意味である。「宇多丸さんだって心が動いたんだから、あんたも心を動かせよ」と。

「わかったわかった。じゃあひとり合宿に持っていくよ」

「何冊?」

さあ困った。実際、何冊くらい読めるかわからない。読むんだったら、この機会にできるだけまとめて読んでみたいという気持ちもあるが、途中で飽きちゃうかもしれないし。

「5冊」

「え?」

「あ、いや、…10冊」

「じゃあ、あいだをとって6冊ね」

ということで僕は、『大奥』の1巻から6巻をカバンに詰め込んで、ひとり合宿に向かったのであった。

で、実際読んでみると…。

1日目にして、あっという間に5巻まで読んでしまった。こういう話だったのね。すげーおもしろい!というか、大河ドラマにした方がいいよ!

「うーむ。やはり10冊にすべきだったな」

ちょっと根を詰めて読み過ぎたので、今日はここまで。

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蛇の道は蛇

4月9日(金)

今週も仕事ではいろいろなことがありすぎて、ストレスがたまる一方だったが、なんとか金曜日を無事に迎え、TBSラジオ「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークを聴くことができた。

さて、視覚障害者向けに本を音読する奉仕団の方が、うちの職場で作った本の音読をすることになったそうだ。僕もその本に少しだけ書いているのだが、僕の書いたコラムの中で、読めない名前があるので、読み方を教えてほしいという問い合わせが来た。

僕はそのコラムの中で、「モンゴル風の名前」として、「伯顔帖木兒」と「都兒赤」という名前を紹介したのだが、この二つは何と読むのか、という問い合わせである。

…というか俺、どんなコラムを書いてんだ???ふつう、コラムに「伯顔帖木兒」とか「都兒赤」とかは出てこないだろう。

自分で書いておいて、この二つの名前が何と読むのか、まったくわからない。なのでルビも振らなかったのである。

「都兒赤」が、どうしても「麿赤兒」に見えてしまい、「まろあかじ」と読みたくなってしまう。知ってると思うけれども、俳優の麿赤兒ね。大森南朋のお父さん。

しかし「まろあかじ」と読むわけにもいかず、どう読んだらいいのか、皆目見当がつかない。どうしよう…。

そうだ!僕の友人に、モンゴルの専門家がいることを思い出した。彼ならわかるかもしれない。

でも、この「モンゴル風の名前」というのは、ずいぶんと古い時代の名前なので、はたしていまのモンゴル語で読めるのかどうかもよくわからない。ダメ元で、恥を忍んでモンゴルの専門家の友人に聞いてみることにした。

するとメールの返信がすぐに来た。

「どんな難題かと思いましたが、一応私の守備範囲なのでひと安心です。

まず「伯顔帖木兒」は、バヤン・テムルです。バヤンが豊かな、テムルが鉄なので、二つの語の合成名です。どちらもモンゴル語です。

「都兒赤」は恐らくドルジです。

そう!朝青龍で有名になったドルジです! モンゴル人がよく付ける名前でかなりむかしから普通に付けています」

ということで、「伯顔帖木兒」はバヤン・テムル、「都兒赤」はドルジだということがわかった。

なんかすごくない?モンゴル人の名前のことがわかってないと、絶対に読めないよねえ。

さすがは専門家、蛇の道は蛇である。ふつうの人にはどんなに逆立ちしてもわからないけれど、専門家にとっては朝飯前のことなのだ。僕はこういう瞬間に、最も感動するのだ。

さて、ここからは僕の分析。

この二つの名前をくらべてみると、共通するのは「兒」。どうやら「兒」は「ル」という発音をするらしい。ということは、表音文字なのか?

その仮説でいくと「都」は「ド」、「兒」は「ル」、「赤」は「ジ」ということになる。

「伯顔帖木兒」もその線でいくと、「伯」が「バ」、「顔」が「ヤン」、「帖」が「テ」、「木」が「ム」、「兒」ガ「ル」となる。

…と、ここまで書いてきて、ハッと思い出した。

手塚治虫の初期の漫画に、『ロストワールド』という作品がある。この作品、大林宣彦監督をして「手塚漫画の一冊、というと、ぼくは躊躇うことなく《ロストワールド》をあげる」と言わしめた初期の傑作である。

この作品の中で、まるまると太った「豚藻負児」という博士が登場する。豚藻負児博士は、あやめという美しい植物人間を作り出し、自分に愛の告白をさせたいと願うのだが、それが叶わない。これは、ヒッチコック監督が終生夢に描き、結局は実現しなかった「メアリー・ローズ」という作品と重なるのだというのである。「メアリー・ローズ」とは、いわゆる「ヒッチコック・ブロンド」と呼ばれた美女たちに、「もしあなたがはげの太っちょになっても、私はちっともかまわないわ」とまるで自分自身に対して愛の告白をさせたい、という願いだけで作ろうとした映画だった。だが結局その夢は叶わなかった。あたかも豚藻負児博士の夢が叶わなかったのと同じように。

さて、話が脱線したが、「豚藻負児」は何と読むのか?「ぶたもまける」と読むのである。豚も負けるくらい太っていて醜い男という意味である。手塚先生は、なんと残酷な名前を付けたのだろう。

それよりもここで大事なのは、「児」を「る」と読ませていることである。

ひょっとしてこれは、モンゴル語か??手塚治虫は、モンゴル語の読みを知っていたのだろうか?

さらに調べていくと、「加答児」という語を見つけた。「カタル」と読み、いわゆる「腸カタル」などの時の「カタル」である。

そうか、手塚治虫は、もともと医学生だったから、「カタル」を「加答児」と書くことを知っていて、それで「児」を「る」と読ませることに抵抗がなかったのだな。

では、「加答児」を「カタル」と読ませるのは、そもそもなぜだろう?

…という疑問が次に浮かんだが、今日はここまで。

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楳図かずおの『ウルトラマン』

子どもの頃、いちばん好きだった漫画家は楳図かずおだった。いまでもそうかもしれない。とくにあの怪奇漫画は、僕の心をとらえてはなさなかった。

いちばん好きな楳図漫画はどれか、といわれたら、迷うことなく『おろち』と答える。なかでもいちばん好きなエピソードは、「ステージ」である。「ステージ」は、いわゆるホラー要素がまったくないのだが、人間の憎しみや復讐をテーマにした人間ドラマと言うべき文学的傑作で、何度も読み返した。『おろち』については、別の機会に書くとしよう。

20代の頃だったか、古本屋さんで、楳図かずお『ウルトラマン』という漫画を見つけた。楳図かずお先生がウルトラマンを漫画にしていたのか、とその時初めて知って、ぜひ読んでみたいと思ったのだが、希少なものだったらしく、高値がつけられていて、買おうかどうしようか迷ったあげく、結局買うのをあきらめた。

ところが最近、そのことを思い出して調べてみたら、安価に入手できる形で復刊されていることを知り、さっそく読んでみることにした。

20代の頃、古本屋さんで、表紙だけを眺めていたときは、

(楳図先生も売れない頃は、怪奇漫画のタッチとは違う、ヒーローものを描いていた時期があったんだなあ。)

と勝手に思い込んでいたのだが、実際に読んでみるとさにあらず。

これ、立派な怪奇漫画じゃん!!!

ということがわかった。

というか、このときすでに楳図先生は、怪奇漫画の第一人者として確固たる地位を築いており、「怪奇漫画を描く楳図先生なら、怪獣漫画も描いてくれるだろう」という出版社の目論見のもとに、楳図先生のところに依頼が来たらしい。

怪奇漫画と怪獣漫画って、たしかに一字しか違わないけど、全然違うジャンルじゃね?

しかも読んでみると、バルタン星人とかジラースとかレッドキングとかメフィラス星人とか、テレビ版で有名な怪獣が登場するのだが、

あれ?バルタン星人の回って、こんな話だったっけ?

というくらい、楳図ワールド全開の展開なのである。子どもの頃に読んでいたら、あまりにこわくてトラウマになるよ!

ジラースの回なんか、途中のホラー的展開に力を入れすぎちゃって、予定のページ数が足りなくなって肝心のウルトラマンとの戦闘シーンが大幅に省略されたらしく、「ウルトラマンがそのあとジラースをやっつけたのはここに書くまでもありません」という文字による説明で終わっているのである。

そんな雑な終わり方ってある???ま、おもしろいんだけど。

調べたところによると、楳図先生の『ウルトラマン』の連載は、本放送の開始とほぼ同時期に始まったそうである。つまり、まだウルトラマンについてあんまり情報がないときに漫画執筆を依頼されて、円谷プロからもらった資料だけでストーリーを膨らませて漫画を描いたらしい。たしかに、いきなりウルトラマンとバルタン星人のラフスケッチが送られてきて、「これで漫画を描いてください」というのだから、楳図先生としては開き直って楳図ワールド全開のホラータッチの漫画に仕上げるほかなかったのだろう。

読み進めていくと、自分の子どもの頃の記憶にあるテレビのウルトラマンのストーリーとはまったく異なる世界観で描かれていて、何というか、パラレルワールドを体験した気分になる。

それにしても、牧歌的な時代である。

いまだったら、テレビとタイアップして漫画を描くとなったら、テレビのイメージを損ねないようにとか、テレビのストーリーをコミカライズするとか、そういった理由で、事前に周到に情報を漫画家に渡して、プロダクションも内容についてチェックしたりすると思うのだが、そうではない。まだテレビ放送の内容も決まっていない段階で、キャラクターについてのだいたいの資料だけを渡して、これでなんとか漫画を描いてください、と依頼して、漫画家もよくわからないもんだから、自分の世界観でむりやりストーリーを作り上げる。で、せーの、で完成した作品は、テレビと漫画では似ても似つかないものになるのである。

もう、こんな作り方をしていた時代には、戻れないんだろうなあ。だとしたら、楳図かずおの『ウルトラマン』は、コミカライズという概念とはまったく異なる手法を用いた、今後二度と生まれない、貴重な作品といえるのではないだろうか。

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マンガの監修をしました!

僕が監修したマンガがようやく公刊されました!

…といっても市販してはおりません。

僕が数年前からお仕事させていただいている「光の国の姉妹都市」で、地元の若い人たちにもっと町のことを知ってもらおうと、マンガの小冊子を作ることになり、僕がその監修を仰せつかったのだ!

マンガを描いたのは、地元のマンガ専門学校の学生さんたち。一人が描いたのではなく、できるだけたくさんの学生さんにチャンスを与えようという配慮なのか、1ページごとに違う人が描いている。だから1ページごとに画風が異なるという、これまた味わい深い作品に仕上がっているのだ。

オールカラーだが、ホッチキスで簡易に製本してあり、ほとんど同人誌の趣であるが、コンパクトで、おそらく無料配布されるのだろうから、その町を知るには重宝すること請け合いである。

そういえば、いまから15年ほど前だったか。

ある仕事で知り合った同業者が、その仕事の合間に、

「いま、『仁』というマンガの監修をしてるんですよ。みなさん知らないと思いますけど、面白いマンガなんで、だまされたと思ってまあ読んでみてください」

と言っていて、そのときは、

(『仁』…知らんなあ)

と思いながら、とりあえず最初の数巻を読んでみたら、これがまあ面白かった。

そしたらあーた、その数年後にドラマ化されて、大人気になったじゃあ〜りませんか!

それだけでなく、韓国でもリメイクされていたぞ!

それからというもの、

(うーむ。俺もマンガの監修をしてみたい)

と思ったものだが、このたびついに、その夢が叶ったのである!

フュージョンバンドを結成してライブをしたり映画の推薦文を書いたり映画のトークショーに出たり、マンガの監修をしたりと、僕の夢だったことがどんどん叶えられてゆく。

めざすはみうらじゅん先生である。

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作風

お酒をやめて、かれこれ3年くらいたつが、お酒が無性に飲みたくなる、ということはあんまりない。最近は、麦茶と炭酸水を交互に飲めば、ビールを飲んでいるつもりになれることを発見した。そんなことはともかく。

昨年末まで、MXテレビで放映されていた「ルパン三世 パート2」を録画して、空いた時間に視聴しては、視聴し終わったものを消していた。

なにしろ、155回くらいあるからね。全部残していたら、ハードディスクがたちまちいっぱいになってしまう。その中でも、よほどこれは、といういわゆる「神回」的な回のみを残すことにした。

ルパン三世のアニメをちゃんと見るのは、10代以来だから、かれこれ35年ぶりとか40年ぶりくらいである。なので、内容じたいはほとんど覚えていなかった。当時だって、まじめに毎回見ていたわけではない。

強烈に覚えていたのは、ある回で、ルパンが何かの計算をしている場面があり、「え~っと、サインコサインタンジェント、と…」という台詞があったなあ、ということくらいで、物語の本筋とはまったく関係のない場面だったのだが、実際にその場面に再会したときは、ちょっと感動した。

…いや、そんなことを書きたいわけではない。

MXテレビの再放送は昨年末にめでたく最終回を迎えたのだが、僕は録画した最終回を見ないままにしていた。見てしまうと、「これで終わりか…」と寂しくなる感じがしたからである。

そうしたところ、最近妻がルパン三世の最終回を先に見てしまったらしく、

「ルパン三世の最終回、見た?」

「いや、まだだけど」

「すごいよ。まるで映画みたいにホンイキで作られてるよ」

そこには、たかだか30分のテレビアニメなのに、というニュアンスが込められていた。

「ジブリ作品だよ、絶対」

どれどれ、と見てみると、たしかにぶったまげた。

「これは完全に、宮崎駿作品ではないか…」

いやいや、ここまでの文章をルパン三世マニアの方が読んでいたら、「おまえいまさら何言ってんの?そんなの常識だよ!」と言われるかもしれないが、こちとら、40年ぶりくらいに見ているのだ。まったく、何の知識もなく見てみたら、誰だって驚くはずである。

前の回までと、作風が全然違う。完全にラピュタの世界観ではないか。それに、ルパンを始めとする出演者の「顔つき」も違うのだ。早い話が宮崎駿タッチである。

決定的なのは、劇中に「炎のたからもの」のインストがBGMで流れていたことである。「カリオストロの城」じゃん!話の最後も、カリオストロの城を彷彿とさせる。

そう言われてみると、最終話のヒロイン役の声が、クラリスであり、ナウシカである。

これはもう、間違いないな、と思って、エンディングの歌とともに流れるスタッフロールを見ると、脚本、作画、演出にいずれも「照樹務」とあった。後で調べたところ、これは宮崎駿のペンネームであることがわかった。

というか、これくらいのことはすべて、ウィキペディアに書いてあることなので、こんなことは常識なのだろう。

それよりも僕がびっくりしたことは、そのウィキペディアによれば、宮崎駿は第145話「死の翼アルバトロス」も担当していたという事実である。何にも知らないで見ていた僕は、この145話を見たときに、「こりゃあすごい」と思い、神回に認定して録画を残しておいたのである。

作風ってのは、つきまとうんだねえ。

どちらの話にも共通しているのは、空(そら)や雲の描き方の美しさである。空や雲を強調するような画面展開なのである。

あと、これもびっくりしたのだが、ルパン三世パート2の最終話が1980年、「カリオストロの城」が1979年で、映画の方が前だったんだね。てっきり「カリオストロの城」は、ルパン三世パート2のシリーズが終わってから公開されたのだと思っていた。「炎のたからもの」のインストがBGMに使われたのも、これで納得できた。これもまた、マニアには常識なのだろう。

最終話のヒロインの声をつとめたのは、クラリスやナウシカの声を担当した島本須美さんだということもわかったのだが、島本さんは、ほぼ同じ頃に放映された「ザ☆ウルトラマン」というアニメで、女性隊員役の声を担当していたり、「ウルトラマン80」の第4話では、この回の主人公である中学生(あだ名はスーパー)のお姉さん役で、つまり役者として出演している。ちょうどいま、YouTubeの円谷プロ公式チャンネルで見たばかりだったので、これにも驚いた。

これもまた、マニアには常識のことなのだろう。ということで、マニアにとってはきわめて退屈な文章でございました。

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本棚

TBSラジオ「荒川強啓デイキャッチ」の後継番組「アクション」。

僕は直接は聴いていないのだが、フリーライターの武田砂鉄さんがMCの曜日、というのがあって、お笑い芸人「フォーリンラブ」のバービーさんがトークゲストとして出演した日があったのだという。

「フォーリンラブ」のバービーさん、って、一瞬、だれだっけ?と思ったが、最近よくテレビで見る、女性芸人の方である。

武田砂鉄さんが、バービーさんをゲストに呼ぶことにした理由がおもしろい。彼のツイッターに、こんなツイートがある。

「昨日、『メレンゲの気持ち』を見ていたら、芸人のバービーさんの自宅訪問があり、一瞬だけ映った本棚に、牧野雅子『刑事司法とジェンダー』などなど興味深い書籍がいくつも並んでいた。番組は相変わらず女子力高い云々だったが、本棚をじっくり見たかった。」

なんときっかけは、バービーさんの自宅の本棚の本を見て、興味をもち、それでラジオ番組のゲストに呼んだ、というのである。

たしかに、テレビで見る芸人としてのバービーさんのイメージと、本棚に並んでいる本のイメージは、なかなか結びつかない。実に興味深いではないか。

残念ながらそのラジオを直接聴くことができなかったのだが、インターネットにあがっている文字起こしを読むと、文字起こしなのでその時の正確なニュアンスはなかなか伝わりにくいのものの、それでも、好感の持てる対談で、いままでまったく興味のなかったバービーさんを応援しよう、という気持ちになったのである。

本棚とは、人生である。

本棚で思い出した。

先日、『ルパン三世 PART2』の「第82話 とっつあん人質救出作戦」を見ていたら、ルパンたちのアジトらしき部屋の本棚が映っていた。

武田砂鉄さんと同様に、僕もまた、他人の本棚が気になるタイプである。

69633212_715400098871822_404473797014454 つい本棚に見とれていると、背表紙にタイトルが書いているものがいくつかあった。

ある場面には、「石川達三集」と背表紙に書かれた本がある。

カットが切り替わると今度は、「金子光晴」と背表紙に書かれた本が確認できる。

69584268_715400172205148_789989333076960本棚で確認できる日本の文学者は、この二人のみである。

石川達三と金子光晴って…。

もちろん有名な作家であり詩人であることは間違いないのだが、なんか微妙な人選だよなあ。もちろんこの人選は個人的には嫌いではない。

どうしてことさらに石川達三と金子光晴が選ばれたのか。これはちょっとした謎である。

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人生で大切なことはすべて○○から学んだ

相変わらず仕事がクソ忙しいのだが、仕事の話を書くとシャレにならないほどの愚痴になるので、全然別の話を書く。

よく「人生で大切なことはすべて○○から学んだ」というフレーズがあるよね。昨日、家族とそんな話題になった。

で、調べてみると、童門冬二という作家が、

『人生で大切なことはすべて映画で学んだ』

という本と、

『人生で必要なことはすべて落語で学んだ』

という本を書いていることがわかった。おまけに、

『人生の歩き方はすべて旅から学んだ』

という本も書いていることがわかり、どないやねん!と突っ込みたくなった。いっそのこと、

『人生で大切なことは、映画、落語、旅からそれぞれ三分の一ずつ学んだ』

という本を書けばいいのに。

それはともかく。

自分にとっては、○○のところに何が入るだろう?と、昨日から考えていて、ハッと思い至った。

「人生で大切なことは、すべて『ルパン三世』から学んだ」

これだ!これに間違いない!

このところ、アニメ『ルパン三世』の再放送をやっているので、折にふれて見ているうちに、あることに気づいた。

子どものころの知識や教養は、ほとんど「ルパン三世」から学んでいたことを、である。

まず、『ルパン三世』のエピソードは、世界のありとあらゆる国が舞台となっている。当然そこには、その国の名所も登場する。ひょっとしたらノートルダム大聖堂も登場していたかも知れない。

つまり僕は、学校で習うよりも前に、「ルパン三世」を通じて世界の地理を学んでいたのである。

世界の地理だけではない。北京原人の謎やら、ジンギスカンの謎やら、世界史上のさまざまな謎もモチーフになっている。ナチスを思わせる独裁国家が登場する回もあったりして、世界史のありとあらゆる出来事が総動員されてエピソードが作られているのだ。

海外だけではないぞ。日本の歌舞伎や時代劇の知識だって得られるのだ。そもそも銭形警部とか石川五右衛門なんて名前は、時代劇へのオマージュだし、忠臣蔵をモチーフにしたエピソードや、歌舞伎の白浪五人男をモチーフにしたエピソードなんかもある。忠臣蔵のストーリーなんて、「ルパン三世」を見てはじめて知ったんじゃなかったろうか。

ほかにも、古今東西の名探偵が一堂に会する「名探偵空をゆく」というエピソードや、007シリーズをもじったタイトルなど、オマージュやパロディーまで含めると、それだけで世界の文学史や映画史が「ルパン三世」を通じて語れるのではないだろうか。

つまり、古今東西のありとあらゆる知識や教養は、子どものころに「ルパン三世」を通じて学んだのである。

知識だけではない。愛や憎しみ、友情や孤独、といった人間のさまざまな感情も、すべて「ルパン三世」の中で語られていたことである。

本編だけじゃないぞ。音楽だってそうだ。

「ルパン三世80のテーマ」は、なんといっても衝撃だった。あの曲が、自分にとってのジャズの原体験だったといってもよい。

というわけで、自分にとっては疑いなく、「人生で大切なことはすべて「ルパン三世」から学んだ」のである。

「ルパン三世」の原作者であるモンキー・パンチ先生が亡くなられたという。合掌。

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クレーターの男

僕は「理屈バカ」というか「屁理屈お化け」のところがあり、くどくどと書いてばかりで気さくに振る舞えないので、そこがあまり好かれない要因らしい。

これから書く話も、そんなくどい話なので、またかと思ったら読み飛ばしてほしい。

昨日、テレビで映画「オデッセイ」を放送していたので、見ることにした。

マット・デイモンが主演の映画で、宇宙飛行士扮するマット・デイモンが火星にひとり取り残され、そこで生き延びていく、という話である。

見始めてから、どうやらそういう話らしいということがわかって、手塚治虫の「ザ・クレーター」という短編漫画集の、「クレーターの男」という話を思い出した。

たしかあの漫画も、一人の宇宙飛行士が月の取り残されて、生き続けるっていう話だったよなあ。

さて、映画「オデッセイ」は、火星に取り残されるという絶望的な設定にもかかわらず、全体にわたってとても明るい映画で、ハッピーエンドで終わっていた。映画として、実によくできていた。

映画を見終わったあと、そういえば手塚治虫の「クレーターの男」はどんな内容だったかなと気になって、読み返してみることにした。

それは、こんな内容である。

アポロ18号で月に着陸して、火山の噴火口を調査していた主人公は、不慮の事故によりほかの仲間とはぐれてしまい、噴火口に取り残されてしまう。

そしてアポロ18号は、彼を取り残したまま、地球に帰ってしまう。

ここまでは、映画「オデッセイ」の設定と、さほど変わりがない。違うのは、ここからである。

主人公に残された酸素は約5時間分。身動きのとれなくなった彼は死を覚悟したが、不思議なことに、月の火山ガスのおかげで、彼は生き返ったのである。

それから130年後、地球から月にロケットがやってくる。

彼はようやく地球から来た人間に会うことができたのだ。彼は、自分が生き続けることができたのは、月の火山ガスのおかげだから、ぜひ月の火山ガスの調査をしてほしい、そうすれば、私たちは永遠の生を手に入れることができるかも知れない、と、宇宙飛行士たちにそう訴えたのである。

しかし、宇宙飛行士たちは、彼の話に取り合わず、月の火山ガスにまったく興味を示さない。

「俺たちは、ウラニウムを手に入れに月にやってきた。いま、地球は世界が真っ二つに割れていて、憎み合っている最中である。永遠の生を手に入れることよりも、どうやって敵に勝つかのほうが重要なのだ。だから月の火山ガスなんぞ持って帰る暇はない。それよりもウラニウム鉱脈を教えろ」

この言葉に、主人公は絶望する。主人公は、月に残ることを決意するのである。

やがて、その採石ロケットは、月のウラニウムを積みこんで地球に戻っていった。

あるとき、主人公が地球を眺めると、世界中で核爆発の光が輝いていることに気づく。

核戦争が世界中に起こって、地球上の人間はもはや死に絶えてしまったことを悟るのである。

彼はただ一人の人間として、月世界で生き続ける、というところで、この物語は終わる。

…なんとも、暗い物語である。

もっとも、短編漫画集『ザ・クレーター』は、どの話も暗い。だから僕は大好きな漫画なのだが。

これを読み直して思ったのは、この漫画は、決して映画にはなり得ないだろう、ということだった。

このモチーフは、漫画という表現でこそ、人の心を動かし得るのである。

その一方で、「オデッセイ」は、やはり映画だからこそ表現し得る世界である。

この違いは、何なのだろう?

話は飛ぶが、映画監督の黒澤明は、若い頃、画家を目指していた。

「黒澤監督は、若い頃、画家を目指していたそうですけれども、なぜ映画監督になろうと思ったのですか?」

という質問に、

「画家では食えないしね。それに、絵では、自分の世界を十分に表現できないと思ったんだ。それで映画をやろうと思った」

と答えていた。

自分の世界を表現するためには、絵ではなく映画がふさわしいと考え、黒澤はその通りに映画で自分の世界を表現し続けた。映画こそが、黒澤にとって最もふさわしい表現手段だったのである。

その黒澤明が、手塚治虫を評して、

「ああいう人が映画の世界にいてくれないのは、実にもったいない」

というようなことを語っていた。

…このあたりのエピソードは、かなりうろ覚えで記憶違いかも知れないのだが、要するに黒澤明は、手塚治虫はあれだけの漫画が描ける才能の人のだから、その才能を映画の世界で発揮してもらいたかったと述べたかったのであろう。

しかし、それは間違っていると、僕は思う。

手塚治虫は、自分の思いを漫画でしか表現できないと思い、その点を徹底的に追求したのだ。

容易には映画に置き換えられない漫画を、手塚治虫は描き続けたのだ。

表現をする、ということは、そういうことなのではないだろうか。

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人間ども集まれ!

以前、映画「クラウドアトラス」について書いたことがある。

時代を超えた6つの物語が交錯する、複雑きわまりない壮大な物語である。

6つのエピソードのうちの1つ、2144年の未来社会を舞台にしたエピソードでは、遺伝子操作で作られた合成人間(複製種)たちが登場する。複製種たちは人間(純血種)に支配され、労働力として酷使されていたが、これに疑問を抱いた複製種のソンミ(ペ・ドゥナ)が革命家と出会い、複製種の尊厳を取り戻そうと立ち上がる。

これとほぼ同じモチーフの物語が、手塚治虫の漫画の中にある。『人間ども集まれ!』である。

東南アジアのパイパニア共和国の戦争に義勇兵として参加していた日本の自衛隊員・天下太平は、脱走兵として捕まり、パイパニア共和国が進めていた人工受精の実験台にされてしまう。

太平の精子はきわめて特殊なもので、生まれる子どもは男でも女でもない「無性人間」だった。この「無性人間」は、働き蜂のような従順な性質を持っており、この性質を利用した医師の大伴黒主は、無性人間を大量生産して、これを兵士として世界中に輸出し、大儲けすることをたくらむ。

「商品」として輸出され、兵士として虫けら同然に扱われていた無性人間たちは、やがて人間たちに抑圧されていることに疑問を持ち、人間に対する反乱をくわだてるのである。

1967年~68年に発表された漫画だが、まるでこれは映画「クラウドアトラス」における「純血種」と「複製種」のエピソードを先取りしたような話である。いまから半世紀近くも前に、手塚治虫はすでにこんなことを考えていたのだ。

この作品自体は、当時のベトナム戦争を強烈に意識して描かれているが、いまの私たちが読んでも、いま現在の問題としてとらえることができる必読の作品である。

手塚治虫の構想力には、あらためて驚嘆せざるを得ない。

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