アニメ・コミック

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ある時期から漫画をまったく読まなくなったが、ここ最近で、唯一全巻を通して読んだのは、武田一義さんの『ペリリュー 楽園のゲルニカ』(全11巻+外伝4巻)である。あ、吉永ふみさんの『大奥』も、全巻かは忘れてしまったが、少なくとも大部分は読んだ。

武田一義さんの『ペリリュー』をなぜ読むようになったのかというと、ある本に紹介されていたのを見て、面白そうだなと思って読み始めたのがきっかけだったと思う。

もうひとつの理由は、今から4年ほど前の2021年、ある小説に関するオンライン読書会になぜか僕が招待されて、その読書会のメンバーの一人に武田一義さんがいたのである。

他のメンバーは、その小説を書いた作家本人やその編集者も含めて、すでにお互いを知っている関係だったが、僕だけが「おたくさん、誰です?」という感じの完全アウェイの読書会だった。しかしまあせっかく呼ばれたので、その小説を必死に読み込み、僕なりの感想を述べることで責めを塞いだ。

3時間以上にわたる読書会は思いのほか盛り上がった。メンバーたちはそれでも飽き足らず、一斉メールのような形で、それぞれ読書会自体の感想を書き合って盛り上がった。いわば二次会のようなものである。

僕も調子に乗ってその二次会に加わり、こんなことを書いてしまった。

「…小説の読後感として、読書会の中では構成や技法という点から福永武彦の『忘却の河』をあげましたが、読み終わった時の衝撃という点では、韓国映画の『オールド・ボーイ』(パク・チャヌク監督、2003年)を観終わった時の衝撃に近いものを感じました。ただなぜそう感じたのか、自分の中でそれをうまく言語化できていなかったので、会の中では申し上げませんでしたが」

そしたらあーた、武田一義さんから僕宛てに、こんな返信をいただいたのである。

「読後感について『オールドボーイ』というのは僕も「なんとなく分かる!」という思いです。

僕はこの小説を読み終えた直後、傑作に出会った興奮状態の中で「似てるってことではないけど芥川龍之介の『藪の中』とかタランティーノ映画を初めて見たときみたいな衝撃」と妻に伝えました。

鬼瓦さんの挙げた2作品とは、なんとなく共通点があるように思えます。

語るとキリがなさそうなので、僕もこれくらいにしておきます。

ではまた、ご縁がありましたら」

韓国映画の『オールドボーイ』はタランティーノが評価してやまなかった作品である。そのことを知っていた上で、「なんとなく分かる!」という共感のコメントをいただいたのである。僕はこの言葉にすっかり感激してしまった。この感性の共鳴は、読書会のほかのメンバーには理解できなかっただろう。

僕がすっかり武田一義さんのファンになったのも無理はない。

さて、肝心の『ペリリュー』の内容は、アジア·大平洋戦争末期、南方のペリリュー島での日本軍兵士たちの戦いを、実際の取材を通して、虚構を交えながら描いた傑作である。大岡昇平の小説『野火』にもインスパイアされていると本人は述べている。

「戦争漫画は苦手だ」という人には無理には奨めない。しかし、この漫画に登場する人物たちはいずれも三頭身で、かわいらしく愛すべきキャラクターである。その点では、もちろん悲惨な戦場を描いてはいるのだが、リアルに描いているわけではない。

残念ながら、入院中の身ではいま公開中の映画『ペリリュー 楽園のゲルニカ』を観に行くことができない。もしだまらーのみなさんの中で観に行く方がいれば、感想をお寄せくださいますと幸いです。厚かましいお願いですがよろしくお願いいたします。

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『巨人の星』と『侍ジャイアンツ』

12月3日(水)

この病院のリハビリスタッフたちは、父親が僕と同じ世代だということで、むかしの漫画やアニメの話をしてもまったくわからないと言われる。もう何を話してもムダだということがわかり、最近は何も雑談をしていない。

リハビリスタッフのNさんがある仮説を立てた。リハビリの時間にとてもハードなトレーニングをすれば、歩くことが楽に思えるのではないか、と。

「次からはハードなトレーニングのプログラムをやってみましょう」

「はぁ」

また面倒くさいアイデアを考えたものだ。僕は絶望した。しかしその考え方に、僕の中でむかしの漫画が思い浮かんだのだが、たぶん知らない漫画だろう。

「まるでむかしの野球漫画みたいですね」

とだけ言うと、

「ああ、聞いたことがあります!幼い頃に父からよく話を聞きました。あの主人公、名前、何て言いましたっけ?」

「星飛馬」

「そうそう、思い出した!星飛馬でしたね。漫画のタイトルはなんでしたっけ?」

「『巨人の星』」

「そうでした。たしか体に筋トレのためのギブスをつけて、その結果、早いボールが投げられるようになったんですよね。父からよく聞きました」

ようやく話が繋がったようだ。しかしこの話がかえってリハビリスタッフさんの仮説に自信をつけてしまったようで、僕はこの話題を出したことを後悔した。

ほんとうは『侍ジャイアンツ』を例に出したかったんたけどなあ。『侍ジャイアンツ』の方がますますわかりにくいだろうと思って、その例を出すのをやめた。

僕は『巨人の星』より『侍ジャイアンツ』の方が好きだった。『巨人の星』はどちらかといえば暗い話で、『侍ジャイアンツ』の方は荒唐無稽でアニメ全体に明るさがあった。でも『侍ジャイアンツ』のタイトルを出したところで、ますますわからないだろう。

調べてみると、この二つの漫画の原作はいずれも梶原一騎先生だったんだね。読売ジャイアンツのV 9時代の黄金期を舞台にした漫画。当時この二つの漫画で、世の少年たちはジャイアンツファンとして洗脳された。

こんなことを書いてもこのブログの読者(だまらー)のほとんどには何のことやらわからないであろう。それこそがこの記事を書いた真の目的である。

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いまさらコナン

4月29日(土)

久しぶりの「いまさらシリーズ」。

「名探偵コナン」の劇場版最新作「黒鉄の魚影」を、5才の娘と観に行った。最近、テレビで放送していた過去の劇場版「名探偵コナン」を娘が立て続けに見て、たちまちファンになったのである。

かくいう僕は、恥ずかしながらこれまで「名探偵コナン」をちゃんと観たことがない。僕の「名探偵コナン」に関する知識は、

「主人公のコナンは、ほんとうは高校生なのだが、何らかの事情で小学生になっている」

というぼんやりとした1点だけである。つまり僕は「コナン弱者」なのだ。いまどき、コナンについてこの程度の知識しか持っていない人間は、そうそういないのではないだろうか。

そんな僕が、娘が夢中になって観ている「名探偵コナン ハロウィンの花嫁」という過去の劇場版を横目でチラチラ見ていると、おいおい、なんかすごいことになってるぞ、大スペクタクルじゃないか。

「名探偵コナン」のレギュラー放送は、ほとんど観ていないのだが、何となくイメージでは、密室殺人事件を推理するとか、そういう推理劇が多いのかなと勝手に思い込んでいたが、派手な爆破や破壊が起こったり、荒唐無稽なアクションがあったりと、まるで全盛期のルパン三世のようである。

また、話の展開が、何となく劇場版「相棒」とも親和性があるような気がする。

…と、ここまで読んできた「名探偵コナン」ファンからは、「おめえ、何言ってんの?バッカじゃねえの」と袋だたきにあいそうだが、まあコナンのコの字も知らない「コナン弱者」の感想に過ぎないのでご容赦ください。

…で、劇場版最新作を観てみたら、これが先日横目でチラチラ見た「ハロウィンの花嫁」以上の大スペクタクルな物語になっていて(少なくとも僕はそう感じた)、すっかり心を奪われてしまった。

映画に登場する複雑な人間関係については、僕自身、まだわかっていないことが多いのだが、そんな僕でも十分に楽しめたのである。

この映画の脚本を担当したのは、櫻井武晴氏。やはり「相棒」の常連脚本家ではないか。で、調べたら、けっこう名探偵コナンのレギュラー放送や劇場版の脚本を手がけているんだね。

この映画が層の厚いスタッフによって作られていることが、恥ずかしながら初めてわかった(あたりまえのことだが)。

どことなく「ルパン三世」のような荒唐無稽なアクションをこれでもかと見せるスタイルが印象的なのも、シリーズの脚本家の中に、ルパン三世の脚本を手がけている人がいるようで、やはり親和性が高いように感じた。というか、俺のアニメ知識、かなりショボい。

「江戸川コナン」という名前はもちろんだが、「阿笠博士」とか「毛利小五郎」とか「目暮十三」とか「少年探偵団」とか、古今東西のミステリー小説へのオマージュがみられることは、ミステリーファンにはたまらないのだろう。

ひとり、よくわからなかったのは、「安室透」という人物の本名が「降谷零」で、その声を声優の古谷徹さんがあてている、という点である。

たしか「機動戦士ガンダム」に「アムロ・レイ」という登場人物がいて、古谷徹さんが声を担当していたと記憶しているけれど、「名探偵コナン」の中の「安室透」は、それに対するパロディーというか、オマージュなのか?

僕のガンダム知識といえば、

「機動戦士ガンダムにはアムロ・レイという登場人物がいて、その声を古谷徹さんが担当している」

という1点しかないのだ。

そう、ドストライクの世代なのに、実は僕は「ガンダム弱者」でもあるのである。

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いまさら『大奥』

恒例の「いまさら」シリーズ。

10月11日(月)

ひとり合宿、1日目。

現実からの逃避が、ひとり合宿でしか実現しないとは、なんとも不健康な逃避方法である。

まあそれはともかく。

ひとり合宿でどんな本を持っていくか、というのは、毎回楽しみでもあり、迷うことでもある。

読みかけの本を持っていくか、久しぶりに松本清張の『昭和史発掘』を持っていくか、カフカの小説を持っていくか、などといろいろと迷ったのだが、今回はよしながふみさんの漫画『大奥』が僕のことを呼んでいた。

というのも、わが家ではいま『大奥』ブームなのである。

「絶対おもしろいから読んだ方がいいよ」

と家族に言われたのだが、はっきり言ってピンとこない。

たしか民放で『大奥』というドラマをやっていたことはことは知っていたが、一度も観たことがない。

「わかったわかった。じゃあ最初の1巻だけ借りるよ」

と、2週間くらい前に借りたのだが、そのままになっていた。

そもそも僕は、漫画をあまり読まない。世の中にはとんでもなくおもしろい漫画が星の数ほどあるということは、もちろんわかっているのだが、だからこそ、限られた時間の中でどんな漫画を読んでいいかわからなくなるのである。ここ最近、全巻通して読んだのは、武田一義さんの『ペリリュー』だけである。

これではいつまで経っても『大奥』を読み始める踏ん切りがつかない。

家族が業を煮やしたのか、今朝起きたら、朝食時に、TBSラジオ「ライムスター宇多丸 アフター6ジャンクション」の「大奥特集」をラジオクラウドを通じて流していた。たぶん今年の春先くらいの放送だと思う。

3人の『大奥』ファンが、まだ読んだことのないライムスター宇多丸さんに、『大奥』がいかにおもしろい漫画であるかを熱くプレゼンテーションするという企画で、宇多丸さんも僕と同様に、最初は半信半疑だったようなのだが、そのプレゼンを聴いているうちに、その面白さに気づいていく、という内容だった。

家族がわざと僕にその放送を聴かせた、ということは、これはもう最後の手段という意味である。「宇多丸さんだって心が動いたんだから、あんたも心を動かせよ」と。

「わかったわかった。じゃあひとり合宿に持っていくよ」

「何冊?」

さあ困った。実際、何冊くらい読めるかわからない。読むんだったら、この機会にできるだけまとめて読んでみたいという気持ちもあるが、途中で飽きちゃうかもしれないし。

「5冊」

「え?」

「あ、いや、…10冊」

「じゃあ、あいだをとって6冊ね」

ということで僕は、『大奥』の1巻から6巻をカバンに詰め込んで、ひとり合宿に向かったのであった。

で、実際読んでみると…。

1日目にして、あっという間に5巻まで読んでしまった。こういう話だったのね。すげーおもしろい!というか、大河ドラマにした方がいいよ!

「うーむ。やはり10冊にすべきだったな」

ちょっと根を詰めて読み過ぎたので、今日はここまで。

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マンガの監修をしました!

僕が監修したマンガがようやく公刊されました!

…といっても市販してはおりません。

僕が数年前からお仕事させていただいている「光の国の姉妹都市」で、地元の若い人たちにもっと町のことを知ってもらおうと、マンガの小冊子を作ることになり、僕がその監修を仰せつかったのだ!

マンガを描いたのは、地元のマンガ専門学校の学生さんたち。一人が描いたのではなく、できるだけたくさんの学生さんにチャンスを与えようという配慮なのか、1ページごとに違う人が描いている。だから1ページごとに画風が異なるという、これまた味わい深い作品に仕上がっているのだ。

オールカラーだが、ホッチキスで簡易に製本してあり、ほとんど同人誌の趣であるが、コンパクトで、おそらく無料配布されるのだろうから、その町を知るには重宝すること請け合いである。

そういえば、いまから15年ほど前だったか。

ある仕事で知り合った同業者が、その仕事の合間に、

「いま、『仁』というマンガの監修をしてるんですよ。みなさん知らないと思いますけど、面白いマンガなんで、だまされたと思ってまあ読んでみてください」

と言っていて、そのときは、

(『仁』…知らんなあ)

と思いながら、とりあえず最初の数巻を読んでみたら、これがまあ面白かった。

そしたらあーた、その数年後にドラマ化されて、大人気になったじゃあ〜りませんか!

それだけでなく、韓国でもリメイクされていたぞ!

それからというもの、

(うーむ。俺もマンガの監修をしてみたい)

と思ったものだが、このたびついに、その夢が叶ったのである!

フュージョンバンドを結成してライブをしたり映画の推薦文を書いたり映画のトークショーに出たり、マンガの監修をしたりと、僕の夢だったことがどんどん叶えられてゆく。

めざすはみうらじゅん先生である。

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作風

お酒をやめて、かれこれ3年くらいたつが、お酒が無性に飲みたくなる、ということはあんまりない。最近は、麦茶と炭酸水を交互に飲めば、ビールを飲んでいるつもりになれることを発見した。そんなことはともかく。

昨年末まで、MXテレビで放映されていた「ルパン三世 パート2」を録画して、空いた時間に視聴しては、視聴し終わったものを消していた。

なにしろ、155回くらいあるからね。全部残していたら、ハードディスクがたちまちいっぱいになってしまう。その中でも、よほどこれは、といういわゆる「神回」的な回のみを残すことにした。

ルパン三世のアニメをちゃんと見るのは、10代以来だから、かれこれ35年ぶりとか40年ぶりくらいである。なので、内容じたいはほとんど覚えていなかった。当時だって、まじめに毎回見ていたわけではない。

強烈に覚えていたのは、ある回で、ルパンが何かの計算をしている場面があり、「え~っと、サインコサインタンジェント、と…」という台詞があったなあ、ということくらいで、物語の本筋とはまったく関係のない場面だったのだが、実際にその場面に再会したときは、ちょっと感動した。

…いや、そんなことを書きたいわけではない。

MXテレビの再放送は昨年末にめでたく最終回を迎えたのだが、僕は録画した最終回を見ないままにしていた。見てしまうと、「これで終わりか…」と寂しくなる感じがしたからである。

そうしたところ、最近妻がルパン三世の最終回を先に見てしまったらしく、

「ルパン三世の最終回、見た?」

「いや、まだだけど」

「すごいよ。まるで映画みたいにホンイキで作られてるよ」

そこには、たかだか30分のテレビアニメなのに、というニュアンスが込められていた。

「ジブリ作品だよ、絶対」

どれどれ、と見てみると、たしかにぶったまげた。

「これは完全に、宮崎駿作品ではないか…」

いやいや、ここまでの文章をルパン三世マニアの方が読んでいたら、「おまえいまさら何言ってんの?そんなの常識だよ!」と言われるかもしれないが、こちとら、40年ぶりくらいに見ているのだ。まったく、何の知識もなく見てみたら、誰だって驚くはずである。

前の回までと、作風が全然違う。完全にラピュタの世界観ではないか。それに、ルパンを始めとする出演者の「顔つき」も違うのだ。早い話が宮崎駿タッチである。

決定的なのは、劇中に「炎のたからもの」のインストがBGMで流れていたことである。「カリオストロの城」じゃん!話の最後も、カリオストロの城を彷彿とさせる。

そう言われてみると、最終話のヒロイン役の声が、クラリスであり、ナウシカである。

これはもう、間違いないな、と思って、エンディングの歌とともに流れるスタッフロールを見ると、脚本、作画、演出にいずれも「照樹務」とあった。後で調べたところ、これは宮崎駿のペンネームであることがわかった。

というか、これくらいのことはすべて、ウィキペディアに書いてあることなので、こんなことは常識なのだろう。

それよりも僕がびっくりしたことは、そのウィキペディアによれば、宮崎駿は第145話「死の翼アルバトロス」も担当していたという事実である。何にも知らないで見ていた僕は、この145話を見たときに、「こりゃあすごい」と思い、神回に認定して録画を残しておいたのである。

作風ってのは、つきまとうんだねえ。

どちらの話にも共通しているのは、空(そら)や雲の描き方の美しさである。空や雲を強調するような画面展開なのである。

あと、これもびっくりしたのだが、ルパン三世パート2の最終話が1980年、「カリオストロの城」が1979年で、映画の方が前だったんだね。てっきり「カリオストロの城」は、ルパン三世パート2のシリーズが終わってから公開されたのだと思っていた。「炎のたからもの」のインストがBGMに使われたのも、これで納得できた。これもまた、マニアには常識なのだろう。

最終話のヒロインの声をつとめたのは、クラリスやナウシカの声を担当した島本須美さんだということもわかったのだが、島本さんは、ほぼ同じ頃に放映された「ザ☆ウルトラマン」というアニメで、女性隊員役の声を担当していたり、「ウルトラマン80」の第4話では、この回の主人公である中学生(あだ名はスーパー)のお姉さん役で、つまり役者として出演している。ちょうどいま、YouTubeの円谷プロ公式チャンネルで見たばかりだったので、これにも驚いた。

これもまた、マニアには常識のことなのだろう。ということで、マニアにとってはきわめて退屈な文章でございました。

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人間ども集まれ!

以前、映画「クラウドアトラス」について書いたことがある。

時代を超えた6つの物語が交錯する、複雑きわまりない壮大な物語である。

6つのエピソードのうちの1つ、2144年の未来社会を舞台にしたエピソードでは、遺伝子操作で作られた合成人間(複製種)たちが登場する。複製種たちは人間(純血種)に支配され、労働力として酷使されていたが、これに疑問を抱いた複製種のソンミ(ペ・ドゥナ)が革命家と出会い、複製種の尊厳を取り戻そうと立ち上がる。

これとほぼ同じモチーフの物語が、手塚治虫の漫画の中にある。『人間ども集まれ!』である。

東南アジアのパイパニア共和国の戦争に義勇兵として参加していた日本の自衛隊員・天下太平は、脱走兵として捕まり、パイパニア共和国が進めていた人工受精の実験台にされてしまう。

太平の精子はきわめて特殊なもので、生まれる子どもは男でも女でもない「無性人間」だった。この「無性人間」は、働き蜂のような従順な性質を持っており、この性質を利用した医師の大伴黒主は、無性人間を大量生産して、これを兵士として世界中に輸出し、大儲けすることをたくらむ。

「商品」として輸出され、兵士として虫けら同然に扱われていた無性人間たちは、やがて人間たちに抑圧されていることに疑問を持ち、人間に対する反乱をくわだてるのである。

1967年~68年に発表された漫画だが、まるでこれは映画「クラウドアトラス」における「純血種」と「複製種」のエピソードを先取りしたような話である。いまから半世紀近くも前に、手塚治虫はすでにこんなことを考えていたのだ。

この作品自体は、当時のベトナム戦争を強烈に意識して描かれているが、いまの私たちが読んでも、いま現在の問題としてとらえることができる必読の作品である。

手塚治虫の構想力には、あらためて驚嘆せざるを得ない。

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トキワ荘中心史観

TBSラジオ「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」の「さいとう・たかを特集」が面白かった。

漫画家のみなもと太郎が、さいとう・たかをの偉大な功績を語る、という企画で、いってみれば「レジェンドがレジェンドを語る」という内容である。

みなもと太郎は「さいとう・たかを」を語るのに、その前提として、日本における漫画の歴史から始まり、漫画の歴史における手塚治虫の位置づけ、という話に進んでいき、なかなか本論の「さいとう・たかを」にたどり着かない。

本題になかなかたどり着かない語り口は、まさに代表作『風雲児たち』を彷彿とさせる。

しかも漫画史に対する考察は、まるで学問におけるパラダイムを語るがごとくである。

私が最も学問的スリリングを感じたのは、以下のくだりである(実際にポッドキャストを聴くことをオススメする)。

「(みなもと太郎)…さいとう・たかをさんは『新宝島』を初めて見た時に、「ああ、紙で映画が作れるんだ」と思って、それを実践していったと。

(宇多丸)いわゆる子供向け「まんが」的な感じではなくて。本当にストーリーがあって。いまで言う漫画ですよね。

(みなもと太郎)そうです。それで、石ノ森章太郎である、水野英子である、赤塚不二夫である、藤子不二雄であるという人たちも……

(宇多丸)いわゆるトキワ荘的な人たち。

(みなもと太郎)そういう人たちも、『新宝島』を見て。要するに、あの当時の少年たちはみんな『新宝島』にショックを受けたわけですが。で、手塚治虫のような作品を書きたいということで。ただ、いま『新宝島』を我々が見て、それほどの衝撃を受けようというのは無理な話で。だけども、今、『新宝島』が世間にどういう評価をされているか、一言で言えますでしょ? 手塚治虫は何をしたのか?って。

(宇多丸)ええと、映画的な表現を漫画に持ち込んだ。

(みなもと太郎)はい、その言葉です。だとすれば、手塚治虫のいちばんやりたかったことを実現させえたのはさいとう・たかをじゃないのか? と。

(宇多丸)ああっ、つまり……

(みなもと太郎)で、そこで「ああ、つまり……」と言わないでほしい。「えっ、そんなはずはない」でしょう? 手塚治虫がやろうとしたことは、さいとう・たかを劇画に発展させたかったのか?

(宇多丸)ああ、もちろん手塚治虫は、こういう漫画像を理想としては、ビジョンとしては描いていないですよね。

(みなもと太郎)だけども、今の世間の評価は「手塚治虫は映画的表現を開発した」と言う。もし、それを言うのであれば、さいとう・たかをがそのトップバッターじゃないのか? でも、それは変だと思うでしょ? あなたも私も。俺も、そう思う。

(宇多丸)その「手塚の血統だ」と言われると、大変違和感がある。

(みなもと太郎)違和感があるでしょう? だから、手塚治虫を見て、『ドラえもん』もできた。『星のたてごと』もできた。『忍者武芸帳』もできた。『ねじ式』だってやっぱり手塚治虫を……

(宇多丸)ああ、そうですか。つげ義春でさえ。

(みなもと太郎)つげ義春でさえ、手塚漫画に衝撃を受けて漫画家になっていって。そういう百花繚乱な中。だから、まずその手塚治虫の『新宝島』の評価というものを、まだ世間は捉えていない。手塚治虫もまた理解されていないと俺は言いたい!

(宇多丸)なるほど。つまり、「映画的表現を持ち込んだ」っていうこの割り切り方がちょっとおかしいですかね

(みなもと太郎)そう。おかしいでしょう。今、これを言うと。「映画的表現」って言うなら、じゃあ『ゴルゴ13』が手塚治虫の正当の跡継ぎになるんじゃないか?って。でも、それは俺自身でも変だと思う(笑)。

(宇多丸)はいはい。たぶんトキワ荘中心史観みたいなものを、特に僕みたいな門外漢とか、後から来た世代は、そこの歴史だけはよく知っていて。

(みなもと太郎)だから歴史というのは、そういうもんなんですよ。

(宇多丸)まさに『風雲児たち』!(笑)。」

宇多丸さんが瞬間的に生み出した「トキワ荘中心史観」という言葉に、思わず手をたたいてしまった。

なるほど、私たちの戦後漫画史のパラダイムは、「トキワ荘中心史観」だったのかもしれない。

しかしそれを克服することが、手塚治虫に対する新たな評価にもつながる。

ちょっと学問的興奮を覚える一幕であったので、心覚えに書きとどめておく。

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八角形の館

4月1日(火)

2008年11月30日、韓国に留学した初日の日記に、私は次のように書いた。

「むかし、手塚治虫先生の『ザ・クレーター』という短編マンガ集の中に、漫画家だった男が、まったく別の人生を生きたいと思い、それまでの人生を捨ててプロボクサーとして生きるという話があったことを、なぜか思い出した。これからの1年3カ月の世界は、これまでの世界とは、まったく別の世界のように思える」

今日もまた、同じ心境である。

さて、この短編漫画の内容を、もう少し詳しく思い出してみよう。

主人公の漫画家の男は、漫画家の人生に失望し、ある古びた八角形の館に行った。その八角形の館は、別の人生を歩むことのできる場所だった。彼は気がつくと、プロボクサーになっていた。

だがこの八角形の館の掟は、「2度目の後悔は許されない」というものであった。つまり、「新しい人生に後悔した瞬間、とんでもないことが起こる」というのである。

決して後悔なんかするもんか、と、彼はプロボクサーになるのだが、初試合でこてんぱんに負けてしまった彼は、リングに倒れ、朦朧とした意識の中で、プロボクサーに失望し、「やはり漫画家になればよかった」と、後悔するのである。

その瞬間…。

その漫画は、とんでもない結末を迎えて、終わる。

たしかそんな内容だったと思う。

1日にして、まったく新しい世界に飛び込む。

一生に何度か、それも、この日がそれにあたることが、多いのではないだろうか。

では、この日にちなんだ曲を1曲。

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灰色の男、羊の木

1月26日(木)

東京で学生をしていたころ、「シティボーイズ」という3人組のコントライブを、よく見に行っていた。

若い人は、「シティボーイズ」なんていったって、わからないだろうな。

大竹まこと、きたろう、斉木しげる、というおじさん3人組のコントグループである。

まだ20代のころ、「けったいなおじさんたちがいるもんだ」と思っていたが、いまや私も、そのころの3人の年齢になっていて、十分に「けったいなおじさん」である。

私が好きなコントに、「灰色の男」と題するものがある。

ある団地に、「幼女誘拐殺人」の容疑者として逮捕された一人の男(斉木しげる)が住んでいた。のちにその男は裁判で無罪になった。

だが団地の自治会で、そのことが問題となり、その男に団地から退去してもらうことが決まった。

自治会から選ばれた2人(きたろう、大竹まこと)が、何とかその男に退去してもらおうと、説得にあたることになる。

2人のうちの1人(きたろう)は、無罪となったその「男」をあいかわらず犯罪者あつかいして、団地から何とか追い出そうと思っている。だが「犯罪者」という偏見が、逆に彼を震え上がらせて、妄想が広がってゆく。

それに対して、もう1人(大竹まこと)は、これに真っ向から反対する。無罪だということは、一般市民と同じであり、偏見の目をもって団地から追い出すことは、許されないことだからである。そこで彼は、「男」に対する極端なまでの偏見をとりのぞこうと、必死に反論する。こうして、2人は口論になる。

その二人のやりとりが、実におもしろい。おもしろい、というか、考えさせられるのである。自分がこの立場だったら、どう考えるだろうか。やはり偏見のまなざしで見るだろうか、それとも、そうした偏見にとらわれないでいられるだろうか…。

当然自分は後者だ、と誰しも思うだろう。だが、斉木しげる演じる「灰色の男」の、妙に神経質で、時折見せる狂気の表情は、「あるいはひょっとして…」という気にさせるのである。この3人の芝居は、見事というほかない。

もはやこれはコントではない。日常にひそむ、ちょっとしたホラーである。

どうしてこのコントを思い出したかというと、最近、山上たつひこ原作・いがらしみきお作画の『羊の木』という漫画を読みはじめたからである。まだ1巻しか出ていないが。

山上たつひこ、若い人は知らないだろうなあ。『がきデカ』を描いた漫画家。

人口減少に悩む地方都市が、あるプロジェクトをたちあげる。それは、刑期を終えた犯罪者11名を町で受け入れて、一般市民として住まわせる、というプロジェクトである。

出所した人たちはいずれも、凶悪な事件を起こした人たちばかりである。

このプロジェクトについて知っているのは、町長を含む3名。それ以外の市民は、この事実を知らない。つまり彼らの素性を知るのは、3人のみである。

だが彼らの素性を知る3人は、「刑期を終えたのだからもはや一般市民なのだ」と思いながらも、心のどこかで、また何か事件をおこすのではないか、と恐怖を感じている。一方で、いやいやそれは偏見なのだ、ふつうに接しなければダメなのだ、と強く思う。その2つの感情の間で、激しく揺れ動くのである。

何かが起こりそうで起こらない。「笑い」とも「恐怖」ともつかない感覚。この微妙な感覚が、さきの「灰色の男」のコントと通ずるのである。

はたして自分は、自分の中にある「偏見」をどれだけ自覚しているだろうか。それを試されているような気がしてならない。

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