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水曜だけど土曜の番組

10月27日(水)

2日間にわたる出張は、思いのほか体力と忍耐力と集中力を強いられたので、終わるとすっかりくたびれてしまった。

作業1日目の夜、「国际オンラインオフ集会」という、とくに国際的でもない、集会と呼べるほどの規模でもない、こぢんまりしたミーティングがあったのだが、その席で「水曜だけど土曜の番組」というテレビ番組の話題が出た。

熊本放送のローカルテレビ番組だそうなのだが、「いまいちばん面白いテレビ番組はこれだ!」というプレゼンがされたので、試しにTVerにあがっている1回分を見てみることにした。

プレゼンターが言っていたように、たしかに「水曜どうでしょう」テイストの番組である。出演者はまさやんと糸永アナの二人だが、これた大泉さんとミスターの関係を彷彿とさせる。さらに、僕が観た回では、「スタッフ1号」という陰の声と、もう一人「スタッフ研修生」といういまどきの女性がいて、これた、藤村Dと嬉野Dを彷彿とさせるのだ。

ただ、4人だけで自己完結する番組ではなく、まさやんが熊本の各地に出かけていって、そこで出会う一般人とのふれあいが、実によい。登場する一般人はどれも個性的で魅力的である。それはおそらくまさやんがその面白さを引き出しているのだろうということが容易に想像できる。「水曜どうでしょう」でいえば、「ユーコン川下り」編とか、「激闘!西表島」編などを思い出す。

やっぱりユルい感じのローカル番組というのが、いちばん面白いのだ。

プレゼンターはほかに、いくつかおすすめのローカルラジオ番組を紹介したが、その中で、プロレスラーのスーパー・ササダンゴ・マシンさんが地元の新潟でパーソナリティーをつとめているラジオ番組のプレゼンもした。

スーパー・ササダンゴ・マシンさんと言えばたしか、TBSラジオ「アフター6ジャンクション」で宇多丸さんとトークしていたことを思い出し、

「『俺の家の話』は、スーパー・ササダンゴ・マシンさんをモデルにしていますよ」

とコメントしたら、プレゼンターは

「『俺の家の話』って何です?」

と言うので、

「クドカンが脚本を書いたドラマですよ」

と答えたら、「『俺の家の話』っと…」と、メモをとっていた。

公表できるのは、このくらいかな。「#会いに行ける○○○」は、ぎりぎりアウトかも。

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「THE ALFEEの話をすると場が和む」のはなぜ?

怒濤の週明けである。

11月30日(月)の午前は、都内某所で、「絶対にしくじれない会議」。僕がホスト役になり、背広を着て出席しなければならない厳粛な会議である。無事、予定通り終了し、午後は職場に向かい、夕方から社長室で打ち合わせ。かえってヘトヘトになる。

そして今日(12月1日)は、朝9時半から職場でこれまた僕が司会進行の会議。2時間半かけて職場に通勤する。午後もさまざまな案件がふりかかり、もうヘトヘトである。

そんなことはともかく。

インターネットサイトで連載している、武田砂鉄氏の「ワダアキ考」。

「THE ALFEEの話をすると場が和む」というタイトルに惹かれる。曰く、

皆さん薄々勘付いているとは思うが、THE ALFEEの話をすると、その場が和み、にこやかになる。どんなアーティストでも、そのファン同士が語り合えばにこやかになるに決まっているが、THE ALFEEの場合、ファン以外の人同士でも、話題にあげるだけでにこやかになる。「特にファンではない人がそのアーティストについて話した時、場が和む確率」という統計はとれないものの、他のアーティストと比べても突出した数値になるのではないか。」

そうそう、そうなんだよ!と思って読み進めようとすると、

「ここから先は有料会員登録が必要です」

となっていて、先に進めない。

「なんだよ!気になるじゃないか!!」

続きを読みたいのだが、有料会員になるのも二の足を踏んでしまう。

しかし冷静に考えてみると、「みなさん薄々勘付いているとは思うが」と前置きして、さも当然のごとく「THE ALFEEの話をすると場が和む」ことを「あるある」のように書いていて、僕は共感しているのだが、このタイトルを読んで、どのくらいの人が共感しているのだろうか?

高校時代、THE ALFEEの大ファンだった後輩がいて、僕はといえば、同じ3人組でも、YMOファンだったので、THE ALFEEのファンでも何でもなかったのだが、それでも、その後輩とTHE ALFEEについて話をすると、その場が一瞬にして和んだのだった。

それからずいぶんたって、立派な社会人になってから、というかいい年齢になってから、その後輩に、いまでもTHE ALFEEのファンなのかと尋ねたら、

「もちろんですよ。もう、半ば義務的にコンサートに行ってます」「生存確認ですね」

みたいなことを言っていて、またしてもその場が一瞬にして和んだのだった。どうして、THE ALFEEの話題が出ると、とくにファンでもない僕も、顔がほころんでしまうのだろう?

そんなことを思っていたら、THE ALFEE ファンの後輩から、

「動画サイトのALFEEキッチンを観て頂けたら和む理由がわかると思います」

というメッセージが来た。

少し見始めたが、なるほど、和む理由がなんとなくわかる。が、その理由を言語化することができない。

やはり武田砂鉄氏の続きの文章を読みたい、という思いがますます募ったのであった。

うーむ。有料会員登録をすべきか。それとも、書籍化されるまで待つか。それが問題だ。

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バズる・その2

バズる

5月23日(土)

先ほどちょっとこのブログのアクセス数を確認してみたら、いつもの5倍くらいのアクセス数があった。

しかも、午後8時頃にアクセス数が一時的に急上昇し、その後はすぐに通常のアクセス数に戻っている。

何なんだ?この現象は?また寅さんか???

思いあたるフシがまったくなかったのだが、どの記事へのアクセスが多かったのだろう?と思って調べてみると、なんといまから10年以上前( 2009年11月12日) に書いた「フンブとノルブ」という記事らしいのである。「フンブとノルブ」とは、韓国の昔話である。

なんでいまごろ「フンブとノルブ」がバズったのか?よくわからない。

ふつうならここで諦めるところだが、もう少し調べていると、どうやらこの日、K-POPのアイドルが、FMのラジオ番組か何かで、昔話の朗読?読み聞かせ?みたいなことをやっていて、今日はどうやら「フンブとノルブ」をとりあげたらしいのだ。

そしてそのK-POPアイドルというのが、どうも、あのBTSだったようなのである!

あのBTSですよ!すごくないですか?

そのFM番組というのが、日本の放送局なのか、韓国の放送局なのかはわからないのだが、とにかく、日本のBTSファンの方々が、その番組を聴いて、「フンブとノルブ」を検索して、このブログにたどり着いたというのが、真相のようだ。

実際に「フンブとノルブ」で検索をすると、このブログが検索画面の1ページ目に出てくるので、参照しやすいことはたしかである。

何にせよ、このブログが、韓国のBTSファンのみなさんにお役に立ったことは、うれしい限りである。僕はいま、K-POPから遠ざかってしまった、というか、10年前の知識からまったくアップデートされていないのだが、心の中ではいつも応援している。

しかし「フンブとノルブ」について僕の書いた文章は、いま読むと、昔話をちょっとひねくれて解釈しているところがあり、純粋に昔話を楽しむ人にとってみたら、あまり役に立たない内容であったに違いない。

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バズる

1月10日(金)

妻は、ある小さな研究会のブログを管理していて、折にふれて匿名で記事を書いて情報発信したりしているのだが、その存在はほとんど知られておらず、1日にひとケタ、という程度のアクセス数だそうである。マニアックな研究会だから、あたりまえといえば、あたりまえである。

それが、昨日、いきなりアクセス数が1000以上になった!

この場合のアクセス数とは、訪れた人の数、という意味である。

つまり昨日は、1000人以上の人が、その小さな研究会のブログをのぞきに来たのだ!

俺のブログだって、1日に1000人のアクセス数を越えたことなんて一度もないぞ!!!

どういうこっちゃ???

調べてみて、ビックリした。

そのブログで、妻が書いた最新の記事が、Twitterで紹介され、拡散していたのである!!!

つまり、Twitterから多くの人がそのブログに流れてきたというわけである。

こういうの、バズるっていうの?それともインフルエンサー?

そのブログの記事は、某サイトを紹介した記事なのだが、なぜかそのサイトそのものではなく、それを紹介した妻の記事のほうがTwitterで拡散されたのである。

記事を見てみると、某サイトを的確に解説している文章で、たしかに、某サイトそのものをダイレクトに紹介するよりも、その紹介記事を読んでから某サイトを見たほうがはるかにわかりやすいのだ。

それにしても恐るべし、Twitterの威力である。

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ついに3000本!新たなる決意!

12月27日(金)

今日は今年の仕事納めの日。

そしてついに、公開記事が3000本に達しました!

これを機に、新たな決意を固めました。

それは、

年賀状をやめる!!!

という決意表明です!

年賀状関係者の方には、申し訳ない。

いちおう、年賀状用の写真も撮ったのだが、急遽、年賀状を出すのをやめることにした。

年末年始が忙しく、とても年賀状のことで気に病んでいる場合ではないのだ。

振り返ってみれば、毎年の年末は、年賀状に悩まされてばかりいた。

2018年「年賀状やめたい」

2016年「年賀状改革」

2016年「喪中はがき」

2014年「年賀状やめませんか」

2013年「年賀状会議」

2011年「年賀状の憂鬱」

もうね、2011年からずっと年末には年賀状についての愚痴を書いているのだ。

もう年賀状に悩まされるのはまっぴらだ!

年賀状って、予告なしにやめてしまっても大丈夫なんだろうか?やっぱり、失礼にあたるんだろうか?

しかし、「年賀状やめま~す」というメッセージを、いままで年賀状を出していた人たちに伝えるには、どうしたらいいのだろうか?

…ということでまた、考え出すと眠れなくなっちゃう。

しかし、ズルズルと続けるわけにはいかない。とくにこの年末年始は、年賀状にかかわっている時間も精神的余裕もないのだ。

この記事を読んでいる心当たりの方、年賀状はもう出しませんので、ご了承下さい。

…ということで、

「3000本目の記事は、どんな内容になるか?クイズ」

の正解は、

「年賀状」

でした。正解者には「出すつもりだった幻の年賀状」をお送りするつもりでしたが、正解者がゼロだったので、というか、誰も予想を書いてこなかったので、残念ながら年賀状はお送りできません。

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ついに3000本!と思ったら、あと5本

いよいよこの記事で、3000本達成!

…と思って、この記事を書く前に、よくよく確かめてみたら、「下書き(非公開)」の状態で保存している記事も含めて、2999本だったことがわかった。

下書きで保存しておいた記事を整理したつもりだったのだが、まだ9本ほど、下書きの状態で保存されていた。つまり、この記事を書く前の時点で、公開されている記事は2990本。

これをどーにかこーにかリライトして、4本、公開の状態にした。

これで、公開した記事は、2994本である。

あと5本が、どうしても公開できない。

公開できない記事は、すべて、2011年3月の東日本大震災の直後に書いたものである。ある記事の中で、震災の被害に直面して、そこからなんとかがんばっている人のことを書いた。個人が特定されないように配慮して書いたつもりが、どうやら個人が特定されてしまったらしく、その人に迷惑がかかることになったので、記事を慌てて非公開にしたのである。それに合わせて、前後の記事も非公開にした。

いっそ、記事自体を削除しようとも考えたが、これ自体が一つの記録となっていることもあり、自分自身だけが見られればいいやと思い、「下書き」の状態で残すことにした。

僕はこのとき、ネットの恐ろしさを実感したのだが、今はまだ、この顛末を書くことすらできない。

ということで、この記事を書いたので、非公開記事を含めて、ついに3000本達成!

公開記事に限定すると、3000本まで残るはあと5本!

…実に煮え切らない。どっちが公式記録なんだろう?

ナンダカワカラナイが、とりあえず今年中に、3000本公開を目標とする。

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3000回目前!人間観察編

3000回目前シリーズ第2弾。人間観察編。

「人間観察編」とは、ここでは、まったく見ず知らずの人を観察した記録のことをいう。

このルーツとなった記事は、初期の「神エピソード」と自画自賛する「サムルノリ戦争!」である。

サムルノリ戦争!」(2009年4月26日)

これは、当時の読者から絶賛されたエピソードである。

以下、記憶をたよりにあげてみる。

やきとり屋は、人生だ!」(2015年1月16日)

家族の春休み」(2015年3月28日)

再遭遇!駅弁スマホ女」(2016年2月17日)

東京駅彷徨」(2017年1月28日)

成田空港彷徨」(2017年1月28日)

もっと数があるかと思ったが、こんなもんか?ほかにもあったら教えて下さい。

あと、こんな新カテゴリーがつくれるんじゃないか、という提案も募集します。

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3000回目前!プチ・パニック編

10年もの間、さまざまな駄文を書いてきた。

これまでカテゴライズしてこなかったが、「プチ・パニック編」というべきエピソードを、いくつか書いてきた。

「プチ・パニック編」とは、自分の身のまわりで起こった、ちょっとしたパニックのことである。たいしたパニックではないので、「プチ・パニック」なのである。

最近の例で言うと、「車のバッテリーが上がる」みたいな感じの話。

「プチ・パニック」のルーツと言えるのが、2009年1月11日の「彷徨」という記事である。

彷徨」(2009年1月11日)

たいした話ではないのだが、当時、この記事を読んでくれた人が、「おもしろい」と言ってくれて、それ以来、これくらいのユルいパニックが起きるたびに、書いてきた。

記憶のかぎりにたどってみると、

消えた携帯電話」(2009年12月13日)

誤作動の理由」(2010年4月21日)

開かないフタはない」(2011年5月22日)

ロードサービスを待ちながら」(2012年2月3日)

物置、横転!」(2012年3月5日)

ああ!火災報知器」(2013年10月19日)

今年最初の『軽く死にたくなりました』」(2014年1月5日)

バルブはなぜゆるんだのか」(2014年4月12日)

ああ!宅配ボックス」(2014年5月 8日)

新幹線で便意もよおす」(2014年7月31日)

なくなりそうでなくならないこうもり傘」(2015年1月29日 )

ちぐはぐな日・市立図書館編」(2017年1月16日)

ほかにもあったと思うが、忘れてしまった。

これらの話をおもしろいと思ってくれた人とは、友だちになれそうである。

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タイトル神経症

他人様にはどうでもいい話なのだが、ブログの記事にどんなタイトルを付けるかということに、頭を悩ませることがある。

他人様のブログを覗いたりすると、タイトルがかなり安直につけられているな、と思うものがけっこうあり、ゲンナリすることがある。

文章だけでなく、映画にしても、絵画にしても、音楽にしても、タイトルというのは非常に大事である。タイトルをおろそかにするものは、中身もおろそかにしているということを意味する。

自分の場合はできるだけ、安直にならないタイトルをつけようと考えているのだが、それでも最近はだんだん手を抜いてきて、安直につけてしまうことが多い。むかしはけっこう、凝ったタイトルを考えたりしたんだけどね。

前回の文章、最初は「今日の空脳」というタイトルで書き始めた。書いていくうちに、オチが落語の「粗忽長屋」のような感じになったので、最初に考えていたタイトルを改め、「粗忽ハガキ」に替えたのである。

ところがその後、こぶぎさんから「時空のゆがみ」という観点から僕の文章を解釈するコメントをもらって、

(そうか、落語の「粗忽長屋」風のオチではなく、時空のゆがみという観点からのオチも可能だったか)

と思い直した。書いている本人は、この文章のオチは「粗忽長屋」でまとめるしかない、と思い込んでいたので、それ以外のオチの可能性についてはまったく気づかなかったのである。

つまり、事実に対する解釈は一つとは限らないことをあらためて思い知らされたのである。

この文章のオチを、「ひょっとしてこれは時空のゆがみなのか?」とした場合、タイトルは「時をかけるハガキ」としてもよかったかも知れない。

そう思って自分の体験をあらためて振り返ると、数日前に出したはずのハガキが、数日経って、自分の机の上に置いてあることに気づくというシチュエーションは、まさに映画「時をかける少女」そのものである。

「粗忽ハガキ」とするのと、「時をかけるハガキ」とするのとでは、どちらが読者の共感を呼びやすいだろうか。

ま、他人様にはどーでもいい悩みなのだが、年がら年中、僕はこんなことで頭を悩ませているのである。

…それよりも、タイトルをどのようにつけたらよいか悩んでいることについて書いたこの文章のタイトルを、どのようにつけたらよいかわからない。

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下書きの復活

このところ、かつて書いていたもののボツにした文章を掲載してばかりいる。

ブログの公開設定には、「公開」「下書き」「公開日時を設定」の3つがあり、書いてはみたもののさまざまな理由で公開を見送った文章は、「下書き」として保存しておいた。

ボツにした文章には、いくつかのパターンがあって、

1.すぐに公開してよいかどうか迷った内容の文章

2.何がいいたいのかわからない文章

3.東日本大震災に関する記録

の3つがある。

ここ最近、掲載しているのは、1である。

2は、ふつうは下書きにすら残さずに削除してしまうのがふつうなのだが、まれに下書きのまま残ったりする。

3は、実は一度公開したのだが、公開してすぐに非公開にしたものばかりである。震災で避難を余儀なくされた方について書いた文章は、個人名が特定されないように配慮したつもりでも、読む人が読めば個人名が特定される場合がある。とくに人口の少ない町では、少ない情報でも、個人名が特定されることがあることを知り、公開直後に指摘を受けて非公開にしたものがある。この先、これらの記事が公開される可能性はまずないだろう。

なぜいまこんな作業をしているのかというと、あと50本程度の文章を書くと記事が3000本に達する。ところがこの記事の本数というのは、下書き保存されている文章も含まれているのである。ということは、実際に公開している文章の数は書いた記事の本数よりも少ないことになり、なんとなく気持ちが悪い。せっかくならば、書いた記事の本数と公開した本数を限りなく近づけたい。そこで、書いた記事の本数と、実際に公開している記事の本数をできるだけ近づけるために、下書き保存している記事の中で、公開できそうなものは公開し、削除してもいい記事は削除して、下書き保存している記事を整理しようと考えたわけである。ま、人様にとってはどーでもいい話である。

だいぶ蔵出しをしたつもりだが、それでもまだ、公開すべきか迷っている記事が残っている。

一度書いてボツにした文章でも、なかなか捨てられないのはなぜだろう。どんなにくだらない本を買ってしまっても捨てられないという心境に似ているかもしれない。

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