スポーツ

ノーマーク

この際、オリパラの開催の是非や、理念と実態の乖離といった問題は措いといてですよ。

純粋にエンターテイメントとして、オリパラの開会式を比較した場合、明らかにパラリンピックの開会式の方がクオリティが高かったことは、異論のないところだと思う。

まず最初に言っておきたいのは、たぶんこれは、この国で僕だけしか気づいていないことだと思うけど。

日の丸の掲揚の際に、「君が代」が歌われていたでしょ。

オリンピックの開会式では超有名で、圧倒的な歌唱力を誇る歌手が熱唱していた。それに対して、パラリンピックでは、公募で選ばれた全盲のシンガーソングライターの無名の音大生が熱唱していた。

どっちがすばらしかったかといえば、それはもう明らかに後者である。両者には雲泥の差があった。

僕はいろいろな人が「君が代」を独唱するのを聴くたびに、息継ぎのタイミングにばかり注目している。とくに「さざれ石の」という部分である。

注意深く聴いていると、ほとんどの歌手は「さざれ」と「石の」の間で息継ぎをする。

しかしこれはたいへんな間違いである。

正しくは、「さざれ石の」の部分を、息継ぎしてはならない。なぜなら、「さざれ石」がひとつの単語だから。

僕は小学生の時、担任の先生からこの点についてこっぴどく注意された。「絶対に『さざれ』と『石の』の間では息継ぎをしてはならん」と。それ以来僕は、「さざれ石の」の部分をいろいろな歌手がどう歌うかだけを注目するようになったのである。

「さざれ」と「石の」の間で息継ぎをする歌手は、極論すれば、歌詞の意味をまるで理解しないままに歌っていることになる。たとえて言えば、英語の歌を、歌詞の意味もわからず、カタカナで歌っているようなものだ。

オリンピックの開会式で歌っていた歌手は、「さざれ」と「石」の間で、思いっきり息継ぎをしていた。僕はこれが許せない。「ああ、せっかく歌がうまいのに、残念だなあ」という気持ちになってしまうのである。

では、パラリンピックの開会式で歌っていた音大生はどうだったか?見事に「さざれ石の」を息継ぎせずに歌っていた。「さざれ石の」を息継ぎせずに歌った人にめぐり会ったのは、何年ぶりだろうか。僕は感激してしまった。たぶん、あの歌い方の様子だと、偶然息継ぎをしなかったのではなく、あそこの部分は息継ぎをせずに歌おうと、最初から思っていたのだ。なおさらすばらしい。

…と、この1点だけを取ってみても、オリンピックの開会式に対する出演者の向き合い方と、パラリンピックの開会式に対する出演者の向き合い方に雲泥の差があることがわかるのだが、もう一つ、全体の構成といった点で言っても、パラリンピックは全体に統一感のとれた演出に終始していたのに対し、オリンピックのそれはまったく統一感のないものであった。

この理由は簡単である。オリンピックの開会式の演出には、権力者が口を出したからである。市川海老蔵と松井秀喜は森前組織委員会会長案件、火消しは小池都知事案件だということは、よく知られている。プチ鹿島さんは、「“森案件”の市川海老蔵、小池の“火消しと木遣り”…東京五輪の開会式は「政治利用」の答え合わせがたまらなかった!」と述べている。

つまり、森前会長や小池都知事が、開会式には絶対にこの人を出して!というリクエストがあり、それに抗することができなくなった結果、あのような意味のわからない演出になったわけである。

ここからわかることは、偉い人が口を出すと、ろくなもんじゃない、ということである。

それに対してパラリンピックの開会式では、そういう「上からの圧力」がなかったんじゃないかと思う。というか、権力者たちは、パラリンピックにさして興味がないのだろう。まったく、現金な人たちである。

| | コメント (0)

ウガンダ人選手の憂鬱

7月16日(金)

東京五輪の開会式まであと1週間。

この2~3週間の間をとってみても、五輪開催に関するさまざまな問題点が浮き彫りになり、それらのニュースが大量に消費されていくばかりである。本当は、その一つ一つを、後世の歴史の教訓として残していかなければならないのだが、数十年も経てば、今目の前で起こっている信じがたい出来事や、間違った政治判断などは、忘れ去られてしまうのかと思うと、それをなかなか指をくわえてみているわけにもいかない。

たとえば、次のようなニュースは、早晩、忘れられてしまうだろう。

「大阪府泉佐野市は16日、東京五輪の事前合宿で市内に滞在している9人のウガンダ代表選手団のうち、重量挙げの男性選手1人が所在不明になったと発表した。ホテルの部屋に置き手紙があり、「ウガンダでの生活が厳しいので日本で生活したい」との内容が書かれていた。市は府警に通報し、行方を捜している。

 発表によると、所在不明となったのはジュリアス・セチトレコ選手(20)。16日正午頃、毎日実施しているPCR検査の検体が提出されていないのに市職員が気付き、個室を確認したところ姿がなかった。同選手は来日前、世界ランキングで五輪出場圏内だったが、更新されたランキングで出場できないことがわかり、帰国する予定だった。

 捜査関係者によると、16日朝に宿泊先近くのJR熊取駅(大阪府熊取町)で電車に乗り、新幹線に乗り換えて名古屋駅で降りたとの情報がある。

 選手団は大会の新型コロナウイルス感染対策指針で、移動は原則、練習場所と宿泊先の往復に限られる。」(読売新聞7月16日)

6月19日に入国したウガンダ人選手団9名のうち、PCR検査の結果、新型コロナウィスルの陽性と判定された選手が2名出た、というニュースは、ウガンダ人選手団が外国人選手団のなかでも比較的早い段階で入国したこともあって、少なからぬ衝撃を与えたが、さらに新型コロナウィルスの問題とは別に、失踪した選手が出たというのである。

彼はまだ20歳で、日本に入国後に五輪に出場できないことがわかり、帰国しなければならなかったのだが、「ウガンダでの生活が厳しいので日本で生活したい」と置き手紙を残して失踪したのである。

これって、すげー哀しくない?しかもまだ20歳の青年である。

僕の大学時代の友人も、大学4年の時に、卒論に行き詰まって何か月か失踪したことがあったが、行く末が不安な20歳そこそこの若者は、ウガンダ人であれ、日本人であれ、思い詰めて逃げ出したくなることは当然あるのだ。

この場合の問題は、それが、五輪出場の候補者であるアスリートだということである。

ひとくちに「五輪アスリート」といっても、一人ひとりが抱えている事情はさまざまである。優秀なトレーナーや多くのスタッフに守られながらメダルに近づける人もいれば、文字通り生きていくために記録をのばさなければならない人も当然いるだろう。参加するすべての人がメダルに近づけるわけではなく、むしろメダルとは無縁のアスリートの方がはるかに多い。

僕が気になるのは、五輪の期間中にくり返し叫ばれる「アスリートの活躍が勇気や希望を与える」という言葉である。

「勇気や希望を与える」という言葉の不遜さはこの際措くとして、そんなきれい事ばかりが語られてよいのだろうか。百歩譲って、こんな言葉を吐けるとしたら、それはメダルに手が届く恵まれたアスリートのみではないだろうか。

「ウガンダでの生活が厳しいので日本で生活したい」と書き残し、失踪した20歳の青年は、「アスリートの活躍が勇気や希望を与える」という言葉を信じて、選手活動を続けていたのだろうか。僕はそのことを思うとき、とても複雑な気持ちになるのである。

| | コメント (0)

祝・ラグビーワールドカップ開催!

盛り上がってますねえ。ラグビーワールドカップ!

何を隠そう、このブログでも、ラグビーをテーマにした記事を、これまで数本書いております。

最初は、2013年1月の記事。

湯たんぽが先か、やかんが先か

本文を読んでも、湯たんぽの話ばかりでラグビーの話がいっこも出てこないって?

コメント欄をお読みください!!

ラグビー愛に溢れたコメントで埋め尽くされております!!!

正直に告白しますと、この当時は、ラグビーのラの字も知りませんでした。ドラマの「スクールウォーズ」の内容も、子どものころに見たっきりで、忘却の彼方でした。なのでラグビーについての記述がかなりボンヤリとしております。

それより何より、この記事は、その後の「こぶぎさんと僕のコメント欄での大喜利合戦」という名物コーナーの原点となった、記念碑的な記事なのであります!!

…ま、他人様にはどーでもいいことではありますが。

続いて、2015年9月の記事。

ラグビーの見方を教えてください

ラグビー解説者への道

ラグビー解説者への道・その2

立て続けにラグビーの記事を書いたのは、ちょうどこのとき、前回のワールドカップが開催されていたからである。

すっかり感化された僕は、半ば本気で、ラグビー解説者をめざそうと思っていた。

野球やサッカーの場合とは異なり、ラグビーはまだ的確な解説ができる人が少なく、いわば「鉱脈」だと思ったのである。ニッチビジネスとでも言おうか。

しかしすぐに飽きてしまい、現在に至る。

で、4年後。

うかうかしていたら、ラグビーの試合解説が4年前とくらべて格段に進歩していたのである!!

で、僕は、相変わらずラグビーのルールがよくわかっていない。

代表チームには、国籍にかかわらず、一定の条件さえクリアすれば外国人選手を登録してもいい、ということを、今回初めて知った。

あとは、ボールは後ろにパスしなければならない、とか、ボールを前に落としてはいけない、とか、地面に倒れたらその選手はプレーをしてはいけない、とか。

それくらいしかわからないのだが、でもそれだけでも知っていれば、なんとなく試合の動きがわかるような気がして、楽しめる。

あと、「ラストプレイ」というルールがあるそうで、文化放送の「大竹まことのゴールデンラジオ」で、きたろう教授が得意げに説明していたが、いまひとつよくわからなかった。

実際のところ、あまり試合を見ているわけではないのだけれど、湯たんぽをラグビーボールに見立ててくだらない文章を書いていたころにくらべると、格段の進歩である。

さて僕も明後日、7月末に続く2回戦である。「ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン」の精神で、乗り越えよう!

| | コメント (3)

大会廃止論

ここ数年、僕は高校野球大会廃止論を唱えている。

理由は簡単。「男女差別が平然とおこなわれているから」。

最近気づいたことなのだが、戦前に始まり、戦後も解体しなかったシステムというのがこの国にはいくつかあって、それらはいずれも戦前の価値観をいまも引きずっている。とりわけ、そういうシステムの中では、男女差別を平然と説く言説が横行している。

たとえば、代表的なものとしては、あの制度。

女の子が生まれたときよりも、男の子が生まれたときの方が、扱いが全然よかったではないか。あのとき、マスコミがあんなに公然と男女差別した報道をしたときには、愕然とした。

全国高校野球大会も然り。たとえば今年の高校野球のCMは、まるで「前線で戦っている男性兵士のために、女性は銃後で全力で応援すべし」と言っているようなCMである。

 

このCMに対してだれも疑問に思っていないところがすごい。いまは2019年ですよ!

ちなみにこの高校野球大会を主催している新聞社や、これを中継している公共放送も、戦前から存在し、戦後に解体されなかった組織である。

そもそも、熱中症で死者が出るようないまの気候で、昼間に野球の試合をさせること自体が、正気の沙汰ではない。根性論の世界である。

見ていてかわいそうでしかたがない。やめてやればいいのに、と思うのだが、見ている人や、純粋に楽しんでいる人が多いので、やめられないのだろう。そういう人がいるかぎり、高校野球は永遠に続くのだろう。

僕は高校時代、吹奏楽の部活に入っていて、母校の地区予選の応援にかり出されたことが何度かある。当時は何も思わなかったが、いまとなっては、自分もこのイベントの末端のところで「銃後」として加担をしていたことに対し、忸怩たる思いを禁じ得ない。

| | コメント (2)

ラグビー解説者への道・その2

10月3日(土)

ふだん使っていたパソコンの液晶画面が壊れてしまって、新しいノートパソコンを立ち上げたりデータを新しいパソコンに移行したりするのにで丸一日かかってしまった。

これを機にWindows8.1を使い始めたのだが、まことに使いづらくて辟易している。

使う側のことを考えたというよりも、製作者側の都合を優先したのだな。

便利な生活というのは、実に不便である。

そんなことはともかく。

以前、ラグビーの試合を、「飢饉の村の食料争奪戦」にたとえたが、これは間違いであることがわかった。

ラグビーとはすなわち、「陣地拡張合戦」である。

で、別のたとえを考えてみたのだが。

昔々、日本では土地の境界に石を置いていた。

石を置くことで、自分の土地の境界を示していたのである。

ラグビーボールとはたとえていえば、境界に置く石である。

相手の領地に進出していって、相手の領地の一番端っこに石を置けば、その土地すべてが自分のものになる。

だから、「境界に置く石」を両者が奪い合い、それを持ちながら相手の領地を突き進んでいき、その石を、相手の領地の反対側の境界線に置く。

これがすなわち、トライである。

ラグビーとは、「土地の境界に置く石の奪い合いである」というたとえは、どうだろう。

| | コメント (1)

ラグビー解説者への道

話をラグビーに戻す。

最近、このパターンが多いなあ。

テレビでラグビーワールドカップの日本対スコットランドの試合を見て、最も失望したのは、元ラグビー選手と思われる人による解説だった。

精神論しか言わない。

ふと思ったのは、ラグビーの試合は、テレビで放映される機会があまりないため、解説者が育っていないのではないだろうか?

昔々、テレビで見たラグビーの試合は、ただ単に俯瞰で試合の様子を映し出すものばかりで、一体グラウンドで何が起こっているのか、まったくわからなかった。

(なんか、遠くで揉めてるなあ)

という感じだったのである。

このたびのワールドカップでは、「見せ方」を工夫して、カメラワークを凝ったり、ルールの説明を画面の横に出したりして、たぶん以前よりもだいぶ見やすくなったのだろうと思う。

だが残念なことに、解説者だけは近代化が進んでいなかったのだ。

そこで思ったのだが。

野球とかサッカーとかテニスとか、すでに確固たる「解説者世界」が確立しているが、ラグビーの解説者世界は、いまだ荒涼たる大地である。

今からラグビーを勉強して、精神論ではない、合理的で面白い解説ができるようになれば、解説者として売れるのではないだろうか。

頑張れば、私だってラグビー解説者になれるのではないだろうか?

いやむしろ、ラグビーについてド素人の人間のほうが、あの複雑なルールをわかりやすく解説するのに適しているのではないだろうか。

なにより私は、元ラグビー選手だと言い張っても疑われない体型である。

4年後に日本で行われるワールドカップに向けて今から準備すれば、かなり需要があるのではないかと、とらぬ狸の皮算用をしているところである。

| | コメント (0)

ラグビーの見方を教えてください

9月23日(水)

何といっても、今はラグビーのワールドカップですね。

…といっても、私はラグビーに関して、何一つ知識がない。

子どもの頃、ドラマ「スクールウォーズ」をぼんやりと見ていた程度である。

ラグビーの試合を、まったく見たことがないのである。

今日たまたまテレビをつけると、日本とスコットランドの試合がテレビでやっていたので、途中からだったが見てみることにした。

ルールがまったくわからないので、試合をどのように見ていいのかも、よくわからない。

たぶんそういう人が多いのだろう。何かの反則で試合が中断した時など、関連するラグビーのルールについての簡単な説明がときおり画面の横にあらわれる。

しかしそれを読んでもわからない。

「スクラムで試合再開する」

と説明されても、こちとら「スクラム」の意味すらわからないのである。

しかし、見ている分には面白い。見ているだけでも、なんとなくルールがわかってくる。

まことに不謹慎かも知れないが、「飢饉の村どうしが、1つの食糧を奪い合っている」というつもりで試合を見れば、試合の展開が俄然面白くなる。

ところで、私のようなラグビーの試合を初めて見る人間ですら、

(どう考えても、スコットランドが優勢だよな)

と、見ていて思う。

日本はディフェンスは甘いし、突破力もないし、パスもつながらない。

それに対して、スコットランドの選手たちは、スタミナもあるし、とにかく運動能力が全然違う。

実際、スコットランドは次々とトライを決めているのである。点差がどんどん大きくなっていく。

ところが、である。

解説をしていた、おそらく元ラグビー選手とおぼしき人は、

「まだ大丈夫です」

と、何度も繰り返す。

(大丈夫だと思う根拠は何だよ!)

と、テレビに向かってつい言いたくなる。果ては、

「大切なのは、自分を信頼することです」

という始末。

さらに、終了20分前くらいになると、

「スコットランド勢は、後半かなり疲れていますからねえ。それに対して日本勢は、スタミナには自信がありますから、これから巻き返せます」

などという。

だが私には、どう見てもスコットランド側よりも日本側のほうがスタミナ切れのように見えるのだ。

その解説者は終始、精神論や楽観論に徹していた。ラグビーは、運動能力や技術ではなく、精神論や楽観論で勝てるのか?

その直前まで、映画「人間の條件」第5部をDVDで見ていた私には、その解説者の語る精神論や楽観論が、太平洋戦争末期の軍部の精神論や楽観論と、似ているように思えてならなかったのである。

もちろん、思い過ごしかも知れない。

ただ、日本チームのある選手が、試合の途中で負傷し、担架で運ばれた時に、

「1つのトライを決めるために、多くの犠牲がはらわれている」

みたいな、名誉の負傷を称えるような解説もあって、ちょっと違和感を覚えたのだ。

私はここで気づく。なぜ私が、スポーツ観戦が苦手なのかを。

やる側も見る側も、純粋にスポーツを楽しめばいいのに、どうもそれを許してくれない雰囲気が、スポーツにはあるのだ。

解説をするんだったら、精神論ではなく、そのプレーのすごさとか、失敗した理由とか、ルールや技術について、もっと理論的に聞きたいのに。だって、一流のアスリートたちがやっている試合なんでしょう?

私みたいな、「飢饉の村どうしの食糧争奪戦」という間違った試合の見方をしている人間に対して、蒙を啓いてくれるような解説を、である。

そうすれば、もっとラグビーがメジャーなスポーツとして受け入れられるのではないだろうか?

あと、スコットランド側に立った解説も、副音声で聞いてみたかった。

| | コメント (2)

ロードバイクはじめました

5月9日(土)

他人様(ひとさま)にはどうでもいい話題みたいで、すみませんね。

先日注文したロードバイクを、ようやく手に入れた。

Photo_3

さっそく、「県境を流れる川」のサイクリングロードで、乗ってみることにした。

1台しかないので、妻と交互に乗ることにした。ロードバイクに慣れるために、20分ほどかけてサイクリングロードを往復し、出発点に戻ったら相手と交替する。相手が20分間走っているあいだは休憩し、相手が戻ったら、再びロードバイクに乗り、20分ほどかけてサイクリングロードを往復する。

これを4セットほど繰り返した。

さすがに妻は疲れたらしく、「先に家に帰る」という。

私はだんだんロードバイクが楽しくなり、今度は少しだけ遠出してみよう、と思った。

で、行き着いた先が、ここである。

Photo

Photo_2

ロードバイクは、ママチャリとはまったく異なるものであることがわかった。「今ごろ何言ってるんだ!」と言われそうだが。

ロードバイクがこんなに気持ちのよいものだとは思わなかった。お尻が痛くなったけれど。

ロードバイクに対する扱い方、接し方は、愛玩動物に対する接し方と似ているような気がする。

ママチャリのように、雑に扱うことはできない。どこか悪いところはないか、常に確かめなくてはならない。メンテナンスも重要である。

ロードバイクに乗って外出するときは、常にロードバイクのそばにいないといけない。

乗らないときは、家の中に置いておく。

愛玩動物のように大事に扱うことが重要なようである。

さて、明日はどこに行くか。

| | コメント (1)

オリンピックは鎹(かすがい)

役立たずの自分に、落ち込む毎日である。 

2月14日(金)

いま、冬季オリンピックというのが開催されているらしい。

私の家にはテレビがないので、何がどうなっているのか、全くわからない。

今ごろはどこの家庭も、家族団らんで、オリンピック中継を見ながら盛り上がっているんだろうなあ。スポーツ一家ならなおのことだろう。

「○○、がんばれ~!」なんつってね。

そもそも私には、スポーツ観戦という習慣がないのだ。

子どもの頃は、野球を見たりプロレスを見たりするのが好きだったのだが、大人になってから、スポーツの観戦の仕方が、まったくわからなくなってしまった。

理由を考えてみるに、応援の仕方がわからなくなったからだろうと思う。

いったい誰に肩入れをしていいのかが、わからない。なぜなら、スポーツ選手は、みな自分にとって縁もゆかりもない人だからである。

これがもし、スポーツ選手の中に私にとっての命の恩人がいたとしたら、私は全力でその人を応援するだろう。

近い身内にスポーツ選手がいたら、さすがの私だって応援するに決まっている。

しかし今のところ、そんな人はいないのだ。

また、ずば抜けた身体能力を持っている人がいたら、すげえなあ、と尊敬の念をいだくが、だからといって、その人が誰かと競って勝ったら嬉しいかというと、そんなことはない。

…つまり私には、スポーツ観戦をする能力がないのだ。

こうしてみると私は、世間的には実につまらない人間といえる。

まったく、融通のきかない、話題のない人間である。

| | コメント (0)

いけすかねえスポーツ

11月20日(土)

左足が回復してきたので、今週の月曜日から、スポーツクラブ通いを再開した。

1カ月半ぶりくらいのスポーツクラブである。

時間が空きすぎてしまったこともあり、入会当初から続けてきた「シェイプアップコース」は、もうやめることにした。

決められたプログラムにしばられるのはもう御免だ。

これからは、自分のペースで続けていくことにしよう。

「痩せよう」などという野心は抱かない方がよい。

人間、身の程以上の野心を抱くと、ロクなことはないのだ。

さて今日、久しぶりに東京の家に戻ると、妻が「Wii Sports」のテニスをやっている。

「やってみたら?」とすすめられた。

ちょっと前までの私ならば、「やらない」と答えただろう。

高校、大学の頃、テニスやスキーをやるヤツは、いけすかねえヤツ、と、相場が決まっていた。おりしも、「バブルの時代」であった。

「夏はテニス、冬はスキー」といったサークルに入っているヤツは、自分とは対極にいる人間だ、と思いこんでいたのである。

だから、テニスとスキーだけは死んでもやるもんか、と、思ったものだ。

だが、つい先日、クルム伊達公子選手についてのドキュメンタリー番組を見て、

「アンタ、すげえよ!」

と、心の底から尊敬してしまった。私とほぼ同い年の人が、こんなに頑張っているんだな、と、感動したのである。

そんなことがあったので、やることにした。

コントローラーをラケットがわりに、テニスの試合が始まる。

1ゲーム、時間にしてわずか2,3分なのだが、終わると、ゼイゼイと息を切らしてしまった。

実際のところ、それほど力まなくてもラケットにボールを当てることはできるようである。現に妻は、実に軽やかにコントローラーを振っているではないか。だが私はつい本気になってしまい、ラケットがわりのコントローラーを思いっきりブンブン振りまわしてしまう。

それで、たった2,3分の試合でも、ゼイゼイと息を切らしてしまうのである。

私が子どものころ、同居していた父方の祖母が大のプロレスファンで、プロレスの番組を1時間見終わったあと、グッタリしていた。たぶん、テレビを見ながら一緒に闘っていたからであろう。私はどうも、その血を受けついだようである。

4試合くらいやったところで、すでに限界である。

夜、寝るころになって、右肩が猛烈に痛くなった。あまりの痛さに、眠れなくなってしまった。コントローラーを振りすぎたせいだ。

「たかがゲームで、なんで右肩が痛くなるの?」と、妻は訝しむ。

ゲームでさえこれだから、本当のテニスをしたら、どうなるのか?

あらためてクルム伊達公子選手を心から尊敬した。

いけすかねえ、と思い込んでいたスポーツは、実はやってみると意外と面白いのではないだろうか。

いちど、本当のテニスに挑戦したいものだ。

実は、「いけすかねえスポーツ」の中で挑戦してみたいものが、もうひとつある。

それは、サーフィンである。

サーフィンって、やってみると絶対に面白いと思うんだよなあ。

だが、はじめるきっかけというか、言い訳がみつからないので、今に至るまで、実現されないままである。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧