ニュース

僕が寝てる間に

12月4日(水)

朝起きたらこぶぎさんがブログにコメントを書いてくれていた。

「あなたが寝ている間に

大統領が非常戒厳令を宣布し

戒厳軍が国会に侵入し

国会が与野党全一致で非常戒厳反対を決議し

憲法により非常戒厳が無力化し

戒厳軍が原隊に復帰(午前5時現在)

おかげで、わたくしめは寝れなかったんですけど。

耳栓貸してくれないかな、まったく」

最初読んだ時には何のことかサッパリわからない。「大統領」とあるからあの悪名高いアメリカの大統領のことかなと思ったが、ニュースを見て、そうではなく韓国のユン大統領のことだった。

いったいどういうこっちゃ?と思ってニュースを読んだり旧Twitterを見たりしていると、旧Twitterに簡にして要を得たツイートを見つけた。内容はこぶぎさんが書いてくれた通りだった。

「いいですか、落ち着いて聞いてください。あなたが寝ている間に、韓国で夜11時に突然戒厳令が敷かれ、国民は猛反発し議員は軍を押しのけ国会に入場し、深夜1時半に解除案が可決され、午前4時に大統領がこれを受け入れ、午前5時に正式解除されました。そして今日おそらく大統領は弾劾される見通しです」

さらにいろいろなニュースを見ると、こんなことも書いてあった。

「韓国における戒厳令は1979年10月以降45年ぶりのことで、1987年の民主化以降、初の事態だった」(ニューズウィーク日本版)

「韓国で戒厳令が出されるのは、抗議する市民が軍に鎮圧され犠牲になった「光州事件」へとつながった80年以来、44年ぶり。尹政権の支持率はこのところ約20%と低迷。政権の求心力低下が著しい状況下で、権力回復へ形勢逆転を狙った大胆な行動に出たが、失敗に終わった」(時事ドットコム)

なるほど、44年ぶりか。僕はむしろこっちの方に興味がある。

44年前の戒厳令があの光州事件を引き起こしたことを、ユン大統領は知らなかったのだろうか。

アン·ソンギやキム·サンギョンが出演した映画『華麗なる休暇』(邦題『光州5・18』2007年)とか、ソン·ガンホ主演『タクシー運転手 約束は海を越えて』(2017年)とかを見ていなかったのかな?

また、1987年の民主化ということでいうと、韓国の名だたる俳優が出演した『1987 ある闘いの真実』(2017年)が思い出されるが、これも見ていないのか?

韓国の民衆はこうした映画を通じて戒厳令とか政権による弾圧の歴史について大統領よりもはるかによく学んでいた。だから戒厳令などという大統領の「ご乱心」を一夜にして解除できたのではないだろうか。もちろんそれだけではないと思うけれども、民衆の方が歴史から学び、遥かに意識が高かったことは間違いなさそうだ。国民を舐めんなよ!といったところだろうか。それにしてもなぜ大統領がこんな時代錯誤なことをしたのかわからない。

そう考えると、地道にこういう映画を作り続けるって大事だ。しかも一流の俳優たちが躊躇なく出演している。それがまた民衆の心を惹き付ける。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という格言を持ち出すまでもなく。

| | コメント (0)

オールドメディア

11月19日(火)

恥ずかしながら、先般取材を受けた記事が10日ほど前の全国紙の全国版に、これまでにないくらい大きく取りあげてくれたのだが、数名から読んだというメッセージがきたほかは世間的な反響がほとんどない。

別に反響を期待しているわけでもなければ、読んだことをいちいち報告してもらわなくて全然かまわないのだが(ほんとそれは遠慮します)、世間的にインパクトのない記事だったのかもしれない、とかいろいろ考えた挙げ句、そもそも紙の新聞を読む人が少なくなっているのではないかという1つの仮説を立ててみた。

新聞やテレビは「オールドメディア」などと言われるようになってきて、インターネットからすぐに取り出せる情報のみが拡散される。新聞やテレビはオワコンなのか?少なくとも僕も含めて、新聞が読まれなくなったことは感じる。

昨今の選挙選でオールドメディアがもう少しジャーナリスト精神を発揮すれば、おかしな結果にはならなかったのではないかという気もするが、ほんとうに終わってしまったメディアなのだろうか。自分の記事にかこつけて、「余計なお世話」の心配をついしてしまった。

| | コメント (0)

なし崩し的に進む政治

「衆議院解散って、よくわかんないけど、内閣不信任案が可決された場合に内閣総辞職するか衆議院解散するかを選択するんじゃなかったっけ?総理の気まぐれで解散できたんだっけ?」

ってつぶやいたら、全然知らない人が、

「憲法第7条による解散です。7条3号に、天皇は、内閣の助言と承認により、衆議院を解散することと定められています」

と教えてくれた。もちろん「7条解散」という言葉は聞いたことがあるが、しかし教えてくれたことは答えになっていないようにも思えた。

そこで、日本国憲法を調べてみた。すると7条に、

「第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ」

とあり、その第3項に、

「三 衆議院を解散すること。」

とある。しかしこれだけではよくわからない。

日本国憲法の中に、解散という言葉は意外と少なくて、

「第45条 衆議院議員の任期は、4年とする。但し、衆議院解散の場合には、その期間満了前に終了する。

「第54条 衆議院が解散されたときは、解散の日から40日以内に、衆議院議員の総選挙を行ひ、その選挙の日から30日以内に、国会を召集しなければならない。

2 衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。

3 前項但書の緊急集会において採られた措置は、臨時のものであつて、次の国会開会の後10日以内に、衆議院の同意がない場合には、その効力を失ふ。」

「第69条 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。」

この6カ所である。第7条も含めて4条分しかない。

で、僕が習ってきたのは、69条による解散だった。つまり不信任決議案の可決もしくは信任決議案の否決の場合に、解散か総辞職を選ばなくてはならないと習ってきたのである。

頭の悪い僕は、それ以降法律の勉強をしてこなかったので、「7条解散」という言葉も最近知ったのだった。

しかし第7条を読んでみても、たとえば「民意を問う」の理由で解散してよいなんてひと言も書かれていないし、「解散は総理の専権事項である」ともひと言も書かれていない。天皇の国事行為として解散を行うこと、つまり「解散の詔書」にもとづいて解散をする、ということしか書かれていないのである。これをどう読んだら、「解散は総理の専権事項」とか「民意を問うために解散する」と解釈できるのかがまったくわからない。僕の頭が悪いことは重々承知している。

ふつうですよ、日本国憲法には衆議院解散の定義は69条にのみ書かれているのだったら、7条の「解散」は、69条のような事態になった場合の「解散」のことを想定していると考えませんか?かんたんな国語の問題です。

こんなことを思ったのは、つい最近、現職の兵庫県知事に不信任決議案が満票で可決した際に、知事は辞職するのか、あるいは議会を解散するのか、あるいは議会の解散を判断しないまま失職するのか、という選択を迫られた、というニュースを目にしたからである。もちろん全然違うレベルの話かもしれないが、それとも知事は、総理大臣と同様、「議会解散は知事の専権事項」として、自分の好きなタイミングで議会を解散できるんだっけ?

まったくもってよくわからない。

もちろん、これについて憲法学者の先生の間で長い長い議論があることはよく知っている。どうやら、なし崩し的に「7条解散」が都合よく解釈されてきた歴史があるらしいということもわかる。しかし、僕が日本国憲法を読む限り、これって憲法違反なんじゃねえの?とつい思ってしまうのだが、党首討論においても、メディアにおいても、まったく取りあげられることはなく、これってどういうことなのだろうとますます疑問が深まるばかりである。

なんとなくなし崩し的に進むのがこの国の政治なのだとしたら、僕たちはいつまでそんなことにつきあわされるのだろう。

|

文章を舐めるな

7月9日(火)

毎週火曜日はストレスフルな会議が続く。そればかりか解決する見通しのない問題について、ここ2カ月近く頭を悩ましている。

長年、いろいろな文章を読んだり書いたりしていると、他人を文章を読んだだけで、その人がどのような人間性であるかがわかる。…いや、わかるつもりになっているだけかもしれないが。

「自分がメンタルが強いのは相手の問題がどうなっても私は知りませんよっていう風に言い切れるからだ」といったことを選挙前に出した自著に書いている選挙候補者がいた。あるラジオパーソナリティーはその一文に注目し、「政治家が相手の問題がどうなっても私は知りませんよという聞く耳を持たない態度をとれば、なかなかそこに意見を届けることが難しくなってしまうのではないでしょうか」と本人に質問をしたところ、どうやらその質問の意味が理解できなかったらしく、逆質問をくり返したり、挙げ句の果てには論点ずらしをしたりして、わずか4分弱で化けの皮がはがれるというか、馬脚をあらわすというか、その候補者の底の浅さが露呈されたのである。これはたんに本人が勝手に自滅しただけなので、いわゆる「論破した」ということではない。

このやりとりはSNS上でバズったのだが、僕はこの候補者の書いた一文について、重要な問題は別にあると感じていた。

本当にメンタルの強い人は、さまざまな「相手の問題」について真剣に向き合って粘り強く対応することができる人である。「相手の問題がどうなっても私は知りません」という態度は、どう考えても「メンタルが強い」ことを意味しない。たんに「相手の問題」から逃げているだけじゃないか。そういうのを「弱腰」という。口惜しかったら俺の仕事を代わってみろ!と言いたい。僕はその一文の内容もさることながら、こういう破綻した文章を書くことが許せない。文章を舐めんなよ!

 

| | コメント (0)

夏休みの読書

毎年この時期になると気になるのは、「夏休みに首相はどんな本を読むのか」である。

ここ最近の首相は、夏休み前になると都内の大型書店にくり出し、夏休みに読む本を何冊か購入する、というパフォーマンスを見せるのだが、あれはどんな意図を狙っているのだろうかと、いつも訝しく思う。

今年の夏休み前は都内の大型書店で10冊の本を購入した、とニュースにあったが、その10冊のうち、何冊かは書名が公開されている。ある記事によると、

「『世界資源エネルギー入門』(平田竹男・著)、『地図でスッと頭に入る世界の資源と争奪戦』(村山秀太郎・監修)、『まるわかりChatGPT&生成AI』(野村総合研究所・編)、『アマテラスの暗号』(伊勢谷武・著)、さらに、村上春樹の長編小説『街とその不確かな壁』など」

と5冊の書名が公開されている。

ほかにもいろいろな記事を見てみたが、これ以上の情報は得られなかった。ある大新聞社の記事には、

首相周辺によると、村上春樹さんの新作長編小説「街とその不確かな壁」や、世界の資源エネルギーに関する解説書、生成AI(人工知能)の入門書などを買ったという」

とあり、村上春樹の新作の書名のほかは、なぜか書名がぼかしてある。

「入門」とか、「スッと頭に入る」とか、「まるわかり」とかいったフレーズが入ったタイトルの本を、書店に行ってこれ見よがしに購入する一国の首相の心理というのは、どういうものなのだろう。というか、首相がいまさら入門を読むのかよ!と心許なくていけない。

せっかくパフォーマンスとして購入する本なのだから、もう少し購入する本の内容とか書名を吟味する必要があったのではないだろうか、と思ったのだが、少し調べてみると、首相は今年の正月休みにも、本を15冊ほど購入していたらしい。

そのなかに『カラマーゾフの兄弟』全5巻があったそうなのだが、ある記事によると、首相は1巻で投げ出し、長男に『読んで内容を教えてくれ』と託した、とあった。

その反省があってなのか、今夏は自分が読めそうな本を選んだ、ということなのだろうか。よくわからない。

休暇前に首相が書店に行って本を購入する、というパフォーマンスが、いつ頃から始まったのか、よくわからない。僕の記憶では、前の前の首相がそんなパフォーマンスをやり、SNSで誇らしげに購入した本を公開していたと記憶する。そのとき僕はそれを見て、明らかに特定の支持者へのアピールだな、と感じたものである。

いまや政治家は知性や教養を誇るという時代ではなくなったということだろうか。幕末の倒幕派を気取る党名を持つ公党のマスコットキャラクターが、当時佐幕派を象徴していた組織の「だんだら羽織」を着ているというデザインなのは、もはや「何でもあり」の世界である。

1993年からその翌年まで首相を務めた細川護熙氏が、首相を務めた時期に書いていたという『内訟録』という日記が出版されていて、この本がめちゃくちゃ面白いのだが、そこには、イヤミなくらいに、惜しみなく自らの知識や教養を端々に披露している。そもそも、文体が文語体なのだ。

首相たるもの、これくらいの教養は身につけておかないといけないという見本のような日記だったのだが、あれから30年たったこの国は、それでも「進歩した」「発展した」と言えるのだろうか。

| | コメント (0)

踊らにゃ損

踊る阿呆と踊らない阿呆

5年ほど前に上の記事を書いて以来、このお祭りを興味深く見守っている。

毎年夏のこの時期に行われる日本有数の「踊るお祭り」。現在は各地で同名のお祭りが行われているのでややこしいが、僕が注目しているのは、本家本元の地で行われるお祭りである。残念なことに僕は、このお祭りを直接見に行ったことはない。僕が興味があるのは、このお祭りそのものではなく、このお祭りを取り巻くさまざまな人の考えについて、である。

そういう意味では、久しぶりに好事家としての僕の興味をひかずにはいられないニュースがあった。

毎年8月12日~15日にわたって行われるお祭りだそうで、例年100万人を超える観客が見に来るようだが、とくに今年の夏は、新型コロナウイルス感染症が2類から5類に引き下げられたことにより、久しぶりに通常通りの形式で行われるようになったという。

しかしここで新たな問題が浮上する。折しもこの時期に台風7号がその地に接近するという問題である。とくに14日、15日あたりは、台風の進路にあたるという予報が出されていた。

そこで市長は、そのお祭りを取り仕切る実行委員会に、14日のお祭りは中止してほしいという要請を出した。

市長の立場としては当然である。この日は暴風警報が出されていて、「高齢者等避難」の情報も流れていたからである。そんなときに、野外で踊っている場合ではない。

ここで僕は初めて知ったのだが、このお祭りを中止する権限は、市にはなく、お祭りを取り仕切る実行委員会の判断に委ねられているそうなのである。だから、市長はあくまで「要請」という形で、実行委員会におうかがいを立てたのである。

さて、実行委員会は、14日の午後1時に、お祭りを中止するか、予定どおり行うかの会議をはじめた。この会議には、28人の委員のうち17人が参加し、1時間ほど議論をした末、評決をとったところ、開催が9人、中止が7人という結果となり、多数決により予定どおりの開催を決めたという。

「暴風警報とはいっても、そんなに風も強くないし、雨も降ってないよねえ」

「そうねえ。これくらいだったら大丈夫じゃね?」

「せっかくこの日のために練習してきたのだから、これくらいの雨で中止にするには忍びない」

「そうだよねえ」

みたいな話し合いが行われたのだろうか。

ま、そんな見通しで強行開催されたお祭りだが、実際には予報どおりずぶ濡れになりながら踊っていたようで、踊っていた人の中には、「こんなときにふつうはやらないよね」と取材に答えている人がいたようである。観ている人も、傘をさしながら観ていたのだろうか?大雨の中を、ずぶ濡れになりながらどんな気持ちで観ていたのか、興味がある。

踊るほうの当事者たちは決して一枚岩ではなかった。取材に答えていた踊り手の一人も「ふつうはやらないよね」とこたえていたし、実行委員会のメンバーも開催派が9人、中止派が7人と、ほぼ拮抗していたのである。

さて、この14日の午後1時に行われた実行委員会については、いくつかの疑問がある。

新聞記事によると、実行委員は28人おり、そのうちの17人が会議に出席したという。残りの11人はなぜ欠席したのか?

開催の可否を決める重要な会議であるにもかかわらず、欠席者の数が多くないか?

もう一つ、会議に参加した17人のうち、開催派が9人、中止派が7人だったとあるが、票が1人分足りないぞ。残りの一人は、棄権したのか?白票を投じたのか?

「もう、開催していいか、中止にしていいか、わかんないよ~」

と自分でもどうしていいかわからなくなったのだろうか?

三谷幸喜脚本の傑作喜劇「12人の優しい日本人」の中で、陪審員ひとりひとりに、被告人が有罪か無罪かを述べさせるくだりで、陪審員の一人がパニックになるシーンがある。

「…む~ざいです」

「む~ざい?それは有罪なんですか?無罪なんですか?」

「ですからむ~ざいです」

「む~ざいなんて言葉ありませんよ!」

「だってわかんないんだもん、もう鼻血でそう!」

たしかこんなやりとりだったと思うが、出席した実行委員の一人も、そんな感じで、開催か中止かわからなくなり鼻血が出そうになったのだろうか。

そう考えると、開催か中止かを決める重要な会議に28名中11名も欠席した、というのも、判断がつかず最初から棄権したのではないかと勘ぐりたくもなる。

いずれにしても、委員28人のうち、明確に開催を主張した人がたった9人だったにもかかわらず、開催を決定したというのは、いかにも心許ない。

幸い、14日のお祭りは大事には至らなかったようだが、翌15日はさすがに中止を決めたという。この点については、実行委員会の賢明な判断に敬意を表したい。

僕としては、行政の要請に従わない一方で、伝統的なお祭りには殉じるという、この国のおそらく各地の伝統的なお祭りを支えているメンタリティーが今回も発揮されたことを微笑ましく思う。僕の仮説が証明されたという意味において、である。

その一方で、しかしそれは決して一枚岩ではないということが今回の票の割れ方で可視化されたことに、かすかな希望を感じるのである。

| | コメント (0)

差別の国

6月9日(金)

臆面もなく、差別を公然と肯定する風潮があたりまえになりつつなる。

僕がショックを受けたのは、「名古屋城エレベーター問題」である。

新たに復元するという木造の名古屋城には、バリアフリーの概念をなくし、エレベーターを付けないとする計画がある。理由は、「名古屋城が建てられた当時にはエレベーターがなかったから」だそうだ。

市民討論会に出席した車椅子の男性が、「障害者を排除しているとしか思えない」と訴えると、同じく市民討論会の参加者から、引用するのもおぞましい発言が出た。

平等とわがままを一緒にすんなって話なんですよ。エレベーターも電気もない時代に作られた物を再構築するっていう話なんですよ。その時になんでバリアフリーの話が出てくるのかっていうのが荒唐無稽で。どこまでずうずうしいのって話で、我慢せえよって話なんですよ、おまえが我慢せえよ」

さらに別の男性は、直接的な差別表現を交えて主張する。

「生まれながらにして不平等があって平等なんですよ。(差別用語)で生まれるかもしれないけど、健常者で生まれるかもしれない、それは平等なんですよ。どの税金でメンテナンス毎月するの?そのお金はもったいないと思うけどね」

なんともおぞましい発言である。

しかも驚くべきことに、その場に同席していた市長は、差別発言をした人物をたしなめることなく、あろうことか「熱いトークがあってよかった」と、市民討論会をまとめたのである。まともな神経ではない。

ここで差別されているのは、車椅子の人たちだけではない。たとえば、小さい子どものいる家族はどうだ?ベビーカーで子どもを連れている家族も我慢しろということか?

この僕はどうだ?

僕は、昨冬あたりから両足がすごく痛い。原因ははっきりしていて、そのための治療もおこなっているが、はたしてこの先、この痛みが和らぐのかどうか、まったくわからない。

足が痛くなってからというもの、椅子から立ち上がるときや、階段を上り下りするたびに、足に激痛が走るようになった。平地や坂道を歩く分には、それほど痛くないけれども、それでも歩くスピードは著しく遅くなった。

最近は、駅や公共施設などでは必ずエスカレーターやエレベーターを使う。階段しかない場合は、階段を使わざるをえないのだが、手すりにしがみつき、激痛に耐えながらでないと上ることができない。

僕は自分の足が痛くなってから、町中を歩く人たちの歩き方を観察するようになった。すると、つらそうに歩いている人、あるいは、歩くのがつらい人が、かなりいるのではないか、という仮説を抱くようになった。

市民討論会での差別発言は、目の前にいる車椅子の人だけに向けられたものではなく、エレベーターを利用せずにはいられない人すべてに向けられたものである。

僕は1年前、足がこんなに痛くなるとは思わなかった。それが1年に満たずして、階段を上り下りすることが苦痛になる健康状態になったのである。つまり、いつ、自分が差別される側の人間になるかは、わからないのである。

その差別発言した人が、僕と同じ病気になったら、その発言は撤回されるのだろうか?

それとも、こんどは自分に向けられたその差別を、甘んじて受け入れるのだろうか?

これとまったく同じような発言が、過去にもあった。あろうことか、この国の首相によって、である。

G20大阪サミットの夕食会でのこと、首相は各国の首脳の前で、大阪城は明治維新の混乱により焼失したが、その後、天守閣が復元された。しかしその復元時にエレベーターを設置したことは「大きなミス」だった、という「ジョーク」をとばした。「大阪城を当時の姿のまま忠実に復元したものではないことを『大きなミス』と言ったのだ」と、周囲の幇間たちは火消しに躍起になっていたが、外国の要人たちはどの程度この「ジョーク」を笑えたのだろう?今回の名古屋城のエレベーター問題は、市長がこの首相の発言を真に受けたのではないかと勘ぐりたくなる。

この数日で、差別を公然と容認する法案を成立させてしまうこの国の土俗的で野卑な風土を目の当たりにすると、取り返しのつかない国に成りはててしまったと絶望するばかりである。

| | コメント (0)

皆既月食

11月8日(火)

皆既月食の日だという。ニュースでは、「皆既食」という言い方をしていたところもあるが、「皆既月食」と「皆既食」の違いって何なの?いまは「皆既月食」とは言わずに「皆既食」ということに決まったのか???よくわからない。

ふだん、夜空なんぞ見上げたことはないのだが、たまたま保育園のお迎えの時間に、皆既月食が始まっていた。

肉眼で見ると、たしかに月の左下の方に大きな影ができていて、それが次第に広がっていくように見える。

自宅に戻り、マンションから皆既月食の様子をスマホで撮影することにした。

ミラーレスカメラみたいなものも持っているのだが、どうもうまく撮れない。僕の持っているスマホは、30倍まで拡大できるので、スマホのカメラ機能の方が、性能がよいようなのである。

ちょうど月が半分くらい欠けたところをスマホで撮影したら、思いのほかよく撮れたので、最近ほとんど放置しているSNSにアップしたら、珍しく「いいね」という反応をもらったり、コメントをもらったりした。

「スマホなの?めっちゃきれいに撮れてますね」

とか、

「すごい」

とか。

得意になった僕は、「「これより欠けてもうまく撮れないし、あまり欠けてないと月食だかなんだかわからないし、ということで、このくらい(注:月が半分くらい隠れている状態)の形がちょうどいいみたいです」などと、ほら、『徒然草』の兼好法師も「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」って言ってるでしょ、ってな感じで、ひどく調子こいたコメントを書いたりした。

しかし、実は僕は皆既月食に関する知識がまったくなかった。月が完全に地球の影になってからが本番なのである。僕はてっきり、月が地球の影にすっぽり隠れると何も見えなくなるのだと思い込んでいたが、そのときに月は神秘的な赤銅色を放つというのだ。

それなのに僕は、半分欠けたところを撮っただけで満足してしまい、その後は家の中に入り、赤銅色に見えるという月の皆既食を一切観察しなかった。メインはそっちだろう!と。

僕は、同じ『徒然草』の中にある「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり」という仁和寺の法師の話を思い出した。

| | コメント (1)

欠席する理由

9月25日(日)

カナダのトルドー首相は、イベントを欠席するそうだ。

カナダ東部に上陸したハリケーンが大きな被害をもたらしており、対応が必要なためという。

たしかに、欠席する理由は、本当にそうなんだろうけれど、僕の邪推では、トルドーさんは、「よかった、これで欠席する理由が見つかった」と安堵したのかも知れない。

あくまでも、僕の邪推ですよ。

トルドーさんは、「出席しま~す」といち早く手をあげたはいいが、周りを見渡すと、G7主要7カ国の首脳のすべてが「欠席しま~す」と表明し、「え?手をあげたの、俺だけ?」ってなった。

で、いろいろ調べてみると、どうもそのイベントはスジが悪い。なにしろ国民のほとんどが反対している。しかも主催者側の醜聞が連日のように取り沙汰されている。

「しかし、外交だしなあ、行かなきゃダメかなあ…」とトルドーさん。

「そりゃあ行かなきゃダメですよ」どこにでも杓子定規な人間はいるものだ。「これは外交なんですから、ちゃんとマナーを守らなければなりません」

「でもさあ、こんなことで義理立ててどうするんだよ…」

困りはてたトルドーさん。そこに訪れたハリケーン。

被害を受けたことは間違いなく深刻だ。「これだ!」とトルドーさんは思った。これなら欠席する理由として、失礼にあたらない。

「ごめんなさい。ちょっとこっちの対応を最優先にしたいので、やっぱり行けません」

と相成ったのではないだろうか。

僕にも心当たりがある。

会合とか飲み会に誘われたとき、義理で行かなきゃ行けないかなあ、イヤだなあ、でも断る理由がないなあ、と思って、とりあえず参加を表明したら、たまたま家族が病気になった。

「すみません。家族が病気になったので、行けません」

これなら、たんに「行きたくない」という理由よりも、失礼にはあたらないだろう。事実だから、後ろめたくなることもない。

トルドーさんも同じで、ちょうどいい理由が見つかったのではないか、と僕は自分の体験に引きつけて想像したのである。

しかし、おかしい。

この国も一昨日から昨日にかけて、台風が猛威を振るってかなり被害が出た地域があったはずである。こっちのリーダーは、その対応を最優先にしないのだろうか?

| | コメント (0)

国葬雑感

9月20日(火)

抜き差しならない状況が続く。

午前中の定例の作業のあと、矢のようなメールに返信をする。

どれもが、反射神経的に応えればいいメールではなく、ちゃんと確認した上で返信をしなければならない。

「これでよろしいか、確認してください」

「具体的にどことどこを希望なのか、示してください」

みたいなヤツ。この「裏とり」に思いのほか時間がかかる。

あっという間に昼休みになったが、それでもメールの返信が続く。

午後の予定は、13時からオンラインによる定例の全体会議、17時から、僕が進行役のオンライン会議である。

13時からの会議は、ふだんだと、どんなに遅くとも16時には終わるのだが、今日に限って議題が多く、16時51分に終わった。

それから急いで、17時からの会議のZoomに接続する。

そうそうたるメンバーの中で、立場上、僕が進行をしなければならなかったので、プレッシャーがハンパではない。みんな一家言ある人ばかりなので、進行がまずくて怒られたらどうしようと、そればかりが気になって仕方がない。

1時間くらいで終わると思ったが、2時間近くかかって終了した。

その後もいくつか仕事をしたのだが、終わる気がせず、ヘトヘトになって帰宅した。考えてみれば、今週は平日が3日しかなく、3日間の間に、5日分の仕事をしなければならないので、忙しいはずである。

…いや、今日書きたいのは、そんなことではない。

昨日、英国のエリザベス女王の国葬の生中継をぼんやりと観ていた。なんかすげえ厳かで、参列している世界の要人もやんごとなき人たちばかりのように思えた。あのような荘厳な儀式に参加するのだから、それは当然のことなのだろう。

あんな厳粛で荘厳な儀式に、この国の首相は参加を検討したというのだから驚きである。「おまえみたいな凡人の来るところじゃねえ!」と言われるのがオチである。なにしろ格が違うのだ。

僕の記憶違いでなければよいが、エリザベス女王の国葬で、「友人代表の挨拶」とかって、なかったよね?そもそも、スピーチみたいなことは、だれもやらなかったんじゃないの?

冠婚葬祭でスピーチをする文化って、世界でどのくらいあるのだろう?

この国にいると、結婚式の披露宴で必ずスピーチがあるし、お葬式にも弔辞がある。

しかし以前、韓国の結婚式に参加したとき、日本の披露宴にあるようなスピーチは、一切なかった。

聞くところによると、こんどこの国で行う「国葬」では、「友人代表の挨拶」があるそうだ。しかしその「友人」が、ほんとうの「友人」なのかは疑わしい。ほんとうの友人は、もっとほかにもいるのではないだろうか。

あと、エリザベス女王の国葬を観ていて、ロンドンは緑が多いなあと感じた。都心の木を伐採して再開発に躍起になっているどこぞの国とは大違いであるように思うのだが、ロンドンに行ったことがないので、実際のところはよくわからない。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧