踊る阿呆と踊らない阿呆
5年ほど前に上の記事を書いて以来、このお祭りを興味深く見守っている。
毎年夏のこの時期に行われる日本有数の「踊るお祭り」。現在は各地で同名のお祭りが行われているのでややこしいが、僕が注目しているのは、本家本元の地で行われるお祭りである。残念なことに僕は、このお祭りを直接見に行ったことはない。僕が興味があるのは、このお祭りそのものではなく、このお祭りを取り巻くさまざまな人の考えについて、である。
そういう意味では、久しぶりに好事家としての僕の興味をひかずにはいられないニュースがあった。
毎年8月12日~15日にわたって行われるお祭りだそうで、例年100万人を超える観客が見に来るようだが、とくに今年の夏は、新型コロナウイルス感染症が2類から5類に引き下げられたことにより、久しぶりに通常通りの形式で行われるようになったという。
しかしここで新たな問題が浮上する。折しもこの時期に台風7号がその地に接近するという問題である。とくに14日、15日あたりは、台風の進路にあたるという予報が出されていた。
そこで市長は、そのお祭りを取り仕切る実行委員会に、14日のお祭りは中止してほしいという要請を出した。
市長の立場としては当然である。この日は暴風警報が出されていて、「高齢者等避難」の情報も流れていたからである。そんなときに、野外で踊っている場合ではない。
ここで僕は初めて知ったのだが、このお祭りを中止する権限は、市にはなく、お祭りを取り仕切る実行委員会の判断に委ねられているそうなのである。だから、市長はあくまで「要請」という形で、実行委員会におうかがいを立てたのである。
さて、実行委員会は、14日の午後1時に、お祭りを中止するか、予定どおり行うかの会議をはじめた。この会議には、28人の委員のうち17人が参加し、1時間ほど議論をした末、評決をとったところ、開催が9人、中止が7人という結果となり、多数決により予定どおりの開催を決めたという。
「暴風警報とはいっても、そんなに風も強くないし、雨も降ってないよねえ」
「そうねえ。これくらいだったら大丈夫じゃね?」
「せっかくこの日のために練習してきたのだから、これくらいの雨で中止にするには忍びない」
「そうだよねえ」
みたいな話し合いが行われたのだろうか。
ま、そんな見通しで強行開催されたお祭りだが、実際には予報どおりずぶ濡れになりながら踊っていたようで、踊っていた人の中には、「こんなときにふつうはやらないよね」と取材に答えている人がいたようである。観ている人も、傘をさしながら観ていたのだろうか?大雨の中を、ずぶ濡れになりながらどんな気持ちで観ていたのか、興味がある。
踊るほうの当事者たちは決して一枚岩ではなかった。取材に答えていた踊り手の一人も「ふつうはやらないよね」とこたえていたし、実行委員会のメンバーも開催派が9人、中止派が7人と、ほぼ拮抗していたのである。
さて、この14日の午後1時に行われた実行委員会については、いくつかの疑問がある。
新聞記事によると、実行委員は28人おり、そのうちの17人が会議に出席したという。残りの11人はなぜ欠席したのか?
開催の可否を決める重要な会議であるにもかかわらず、欠席者の数が多くないか?
もう一つ、会議に参加した17人のうち、開催派が9人、中止派が7人だったとあるが、票が1人分足りないぞ。残りの一人は、棄権したのか?白票を投じたのか?
「もう、開催していいか、中止にしていいか、わかんないよ~」
と自分でもどうしていいかわからなくなったのだろうか?
三谷幸喜脚本の傑作喜劇「12人の優しい日本人」の中で、陪審員ひとりひとりに、被告人が有罪か無罪かを述べさせるくだりで、陪審員の一人がパニックになるシーンがある。
「…む~ざいです」
「む~ざい?それは有罪なんですか?無罪なんですか?」
「ですからむ~ざいです」
「む~ざいなんて言葉ありませんよ!」
「だってわかんないんだもん、もう鼻血でそう!」
たしかこんなやりとりだったと思うが、出席した実行委員の一人も、そんな感じで、開催か中止かわからなくなり鼻血が出そうになったのだろうか。
そう考えると、開催か中止かを決める重要な会議に28名中11名も欠席した、というのも、判断がつかず最初から棄権したのではないかと勘ぐりたくもなる。
いずれにしても、委員28人のうち、明確に開催を主張した人がたった9人だったにもかかわらず、開催を決定したというのは、いかにも心許ない。
幸い、14日のお祭りは大事には至らなかったようだが、翌15日はさすがに中止を決めたという。この点については、実行委員会の賢明な判断に敬意を表したい。
僕としては、行政の要請に従わない一方で、伝統的なお祭りには殉じるという、この国のおそらく各地の伝統的なお祭りを支えているメンタリティーが今回も発揮されたことを微笑ましく思う。僕の仮説が証明されたという意味において、である。
その一方で、しかしそれは決して一枚岩ではないということが今回の票の割れ方で可視化されたことに、かすかな希望を感じるのである。
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