ニュース

陰謀論者のリハビリスタッフ

12月8日(月)

今日は「よく喋る男性リハビリスタッフ」に2人ほどあたった。

一人は延々と自分語りをするスタッフで、その語りは、わかりやすく、論理的なので、聞いていても心地いい。こういうときは、こちらが下手に口を差し挟まない方がよい。時々、話を膨らませるような合いの手をいれるだけで、気持ちよく喋ってくれる。

もう一人は、例の「床屋政談」が好きなスタッフである。例によって中国ネタを話し始めた。

「最近気になっているのはパンダのことなんですよ」

「パンダ?」

「来年の2月に上野動物園の2頭のパンダが中国に返還されることになっていて、それ以降は、日本に貸し出されない可能性があるんですよ」

今の日中関係を想定しての話である。そもそもパンダは1972年に日中国交正常化の象徴として日本に二頭が贈られた。ただし、パンダは絶滅危惧種に認定されたため、「贈与」ではなく「貸与」という形である。もしこの関係が途絶えたら、不用意な発言をした現首相の責任となるのだが、その辺のところが彼の頭の中で結びついているのかどうかはわからない。

「それから、全国にチェーン展開している○○ホテルをご存じですか?」

「ええ、知ってますよ」

「そのホテルの各部屋には、中国をディスる内容の本が置かれているそうです」

「へぇ~。知らなかった」

「そのホテルに泊まった中国人観光客が、その本を見つけて、気分を害して、「○○ホテルには泊まるな!」と中国のSNSに書いたら、それが中国内に拡散されて、その○○ホテルに泊まる中国人観光客がいなくなったそうです」

○○ホテルの社長はもともとネトウヨなので、そういうことをしかねない人間であることは容易に想像できるのだが、僕は知らないふりをした。

「そしたらその社長さん、『中国人観光客が泊まらなくても経済的には影響はない』と意に介さず、その本も撤去しなかったそうなんです」

「へぇ~、そうですか」

「ま、これはネットに書いてあった情報なんですがね」

なんだよ!ネットだけ見て鵜呑みにしたのかよ!ファクトチェックしてないのかよ!

とにかく何かにつけて中国をディスりたいらしい。

「台湾有事」の件についても現首相の発言ではなく質問した野党議員が悪いとお決まりの「愛国しぐさ」をしていた。

僕はただただ黙って聞いていた。もう少し踊らせたかったなぁ。

| | コメント (0)

知事の定例記者会見

毎日毎日、リハビリが間断なく続いていて、疲労困憊である。もうダメかもわからんね。

今日も例によって書くことがない。

兵庫県の斎藤元彦知事が定例記者会見で、記者の質問にあまりに頓珍漢な答えをするので、この人はほんとうに地方自治というものをわかっているのだろうか、と首をかしげるばかりだった。

そこで、全国の他の知事の定例記者会見と見比べてみたら面白いんじゃねえか?と思いつき、他の都道府県の知事の定例記者会見を見てみることにした。

知事の定例記者会見は、大抵の場合、YouTubeにアップされている場合が多い。

僕はまだ数県の知事の定例記者会見しか見ていないが、その中でも断トツに面白かったのは、鳥取県の平井伸治知事の定例記者会見であった。

基本的に記者の質問にNGはない。どんな質問にも答える。わからないときは「わからない」と素直に答える。しかしその回答は軽妙洒脱で、地方自治を担う矜持と、鳥取県に対する愛情に満ちている。

こんな質問が記者から出た。

「元政治家の宮崎謙介氏が、自身のSNSで、鳥取を訪れた際に『鳥取県は活気や活力がない』と書かれていましたが、知事の受けとめを教えてください」

こんなときに兵庫県の斎藤元彦知事だったら、

「承知をしておりません」

「個別の投稿についてはコメントを差し控えます」

などと、見ていないふりをするか、個別の案件にはコメントしないとして、その質問から逃げることだろう。実際、兵庫県にとってきわめて深刻な事態をもたらしたSNSの誹謗中傷についても、「個別の案件についてはコメントを差し控えます」の一点張りだった。この人には心がないのかと、呆れるばかりだった。

さて、鳥取県の平井伸治知事はどう答えたか?

平井知事は、鳥取県に関する宮崎謙介氏の投稿を隅から隅までチェックしていた。たしかに宮崎謙介氏は鳥取県をディスっていた。

しかし怒りをあらわにすることなく、宮崎謙介氏の面目を潰すことなく、鳥取の町の開発の歴史を何も見ずに滔々と述べて、宮崎謙介氏にやんわりと反論したのである。

僕には「鳥取のことをよく知らないくせに活気がないとか言うなよ!」というニュアンスが伝わったのだが、もちろんそんな言い方はしない。

「こんど宮崎謙介氏が鳥取に来られた時には私が隅から隅までご案内します。その時は、鳥取をディスるのではなく、「ディスカバリー鳥取」というふうにお気持ちが変わるでしょう」と、最後は駄洒落で締めたのである。

僕はこの回答にすっかり感激してしまった。なんと懐の深い人だ、そしてなんと鳥取愛に満ちた知事だ!と。

今日のニュースで、平井知事が11月19日に高市総理と面会した際、「地方は東京を見習って」と言われ、強い違和感をおぼえたという。そのことを県議会の場で告白している。これもまた、地方自治を担う知事としての矜持である。

というか、知事たるもの、一国の総理と渡り合える胆力が必要なんだな。当たり前のことなのだろうが。

結局何が言いたいかというと、どんな仕事でも矜持と胆力が必要だということだ。今の僕にはできないけれど。

| | コメント (0)

床屋政談

11月16日(日)

昨日の夕方から試験外泊で自宅に帰っていた隣の患者(ガハハおじさん)が、午後2時早々に帰ってきた。

早すぎるぞ!午後8時までが門限なのに。

静謐な休日はあっという間に終わった。文字通り、五月蝿い「絶好調節(ぶし)」も帰ってきた。

そんなことはともかく。

今日ほど疲れた日はない。リハビリがハード過ぎて全身がガタガタである。動きたくても動けない。これはもうダメかもわからんね。

何がツラいって、毎日行っている立ち座り体操である。時間は短いものの、足腰にすごくこたえる。

リハビリスタッフが2人担当するのだが、今日の担当のうちのひとりは、床屋政談が好きな若き青年スタッフである。

立ち座り体操の休憩時間にこんなことを言った。

「現総理が『台湾有事は存立危機事態だ』と発言して中国を怒らせましたけど、僕はそんなことはないと思うんです。台湾は親日国家ですし、東日本大震災の時なんかはいち早く募金を集めてくれましたしね。当然の発言ですよね。所詮中国政府が文句を言っているだけでしょう?」

僕以外の他の3人の老人も概ね賛成という感じだった。

「君はどう思う?」

床屋政談が好きなリハビリスタッフは、もう一人の若き青年スタッフにコメントを求めた。

「いや、僕は全然わかりません」

彼は本当にこのニュースのことを知らなかったのだろうが、それにしてもこの回答が一番正解のように思われた。わからなければ何も喋らないことが社会人としてのマナーだからである。

もし僕がコメントを求められたら、

「喋ると私のバカぶりがばれてしまうので、コメントしません」

と言うだろう。

それでもどうしてもコメントを求められたら、こう答えただろう。

「台湾は国家ではありませんよ。『中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。 日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する』と宣言した1972年の日中共同声明以来、歴代の内閣はこの声明を踏襲しています。2015年の安保法制で集団的自衛権を認めたときすら、安倍首相は中国に気を使って台湾という言葉を法律の条文には決して出さなかった。これは当然、アメリカの立場と歩調を合わせるためでもあります。ですから今回『台湾』という名前を具体的に出したことは、中国のみならずアメリカのメンツも潰したことになり、まことに不用意な発言と言わねばなりません」

この理屈がどれだけ理解されるかはわからないので黙っていた。

ひとつ言えることは、現内閣が若い人に支持されている理由が、なんとなくわかったということである。

僕はもうすぐ消えますので、あとは若い人たちでよろしくやってください。

| | コメント (0)

晴れの特異日の起源

11月3日(月)

以前、内田百閒の『東京焼盡』(中公文庫)に、

「(1944年)十一月三日金曜日。明治以来お天気にきまった十一月三日の今日は雨なり」(16頁)

とあることを発見し、11月3日が、明治時代からずっと晴れの特異日と考えられていたことを紹介した。

では、11月3日は本当に晴れの特異日なのか?

ウェザーニュースというサイトに次のような説明があった。

「気象庁の統計で1961年から2000年までの40年間の晴天率を調べると、11月3日の東京では晴天率が80%でした。この期間の10月・11月の平均晴天率は64%でしたので、15ポイント以上も晴れる確率が高かったことになります」

「北海道から沖縄の各地域についても概ね同様の傾向があり、実際に文化の日は晴天率が高い「晴れの特異日」だったといえそうです」

「一方、統計期間を最近の1991年から2020年の30年間にすると、11月3日の晴天率は57%に低下してしまいます」

「東京では2021年から去年2023年まで3年連続の晴天となっています。今年も4年連続の晴天が予想され、晴れの特異日としての復活の兆しがあるかもしれません」

問題は、これを科学的に説明できるか?である。

11月3日は、「文化の日」と言われるが、戦前は「明治節」、つまり明治天皇の誕生日だった。戦後に「文化の日」と名称が変わったのは、この日に日本国憲法が公布されたことにちなんだと考えられる。

僕の考えでは、11月3日を「晴れの特異日」とする科学的な根拠はなくて、明治天皇の誕生日だからというスピリチュアルな理由で、戦前から「晴れの特異日」として喧伝されていたのではないかと踏んでいる。

よく宗教団体が、「教祖様が現れると曇り空だった空が突然晴れて、太陽の光が差し込んできました」などという話を耳にするが、明治節を晴れの特異日とする考えもそれに近いものだったのではあるまいか?

現在の天皇陛下が即位されたときも、即位の儀式が始まると空が晴れて、その直後に上空に虹が現れたと、当時のニュースがまるでそれを吉兆のように伝えていたのは、もはや非科学的でしかなかった。「晴れの特異日」も、この種の霊験譚と変わらない。

ところで、昭和天皇の誕生日である4月29日が「みどりの日」を経ていつの間にか「昭和の日」に名称が変わったように、11月3日も「明治の日」と改称するという運動が、超保守的な団体や政治家によりいまでも続けられていると知り、驚いてしまった。彼らは「昭和の日」の成功体験に味をしめて、「明治の日」となることを虎視眈々とねらっている。保守系政治家にとっての「理想の時代」とは、いまだに明治時代~戦前にかけての「大日本帝国憲法下の時代」なのだ。そういうの、いい加減やめませんか?

| | コメント (2)

元アイドルの復帰

10月7日(火)

今日は朝から夕方までびっしりとスケージュールが詰まっており、疲れはてたので何も書くことはない。

しかし何か書くことがあるだろう、と思ってパソコンを開いてみたら、驚くべきニュースが目に入ってきた。

僕と同い年の元アイドルが、大病を患い、しかもそれと同じくらい大きな病気の合併症を引き起こし、芸能界を長期で休んでいて、このたび7か月ぶりにラジオ出演に復帰したというニュースである。

バラエティー系のアイドルとしてデビューしたその女性は、アイドルをやめてからも、芸能界で一定の地位を築き、露出は少ないながらも、要所要所で人気番組のレギュラーとしてテレビに出演し続けた。テレビだけではなくラジオのパーソナリティーとしても活躍した。

僕はアイドル全般にあまり興味がなかったが、同い年ということで、彼女がメディアに出演しているところをみると、なぜか安心した。

最近はテレビを観なくなったので、彼女の動向を追うこともなくなったが、大きな病を二つも抱えていたことを知り、たいへん驚いたのである。

その記事によれば、

「『最初のころは、もう私が言葉を話すことはないって家族は言われてたんだって』と声をつまらせた。『だから…しゃべれるようになって…。リハビリのおかげだね。ありがたいことに麻痺とかも残らずにね』と奇跡的な回復を見せたようだ。」とある。

僕の見立てでは、あれだけの大病で、7か月で仕事に復帰するというのは、驚異の回復力である。

ま、人によりけりだとは思うのだけれど、最近の僕は、本当に復帰できるのだろうかと、不安に苛まれてばかりいた。

しかしその元アイドルの復帰をニュースで知り、少しばかり希望をわいてきた。もちろん、この先どうなるかわからないが。

あと思ったのは、7か月くらい仕事を休んだところでどうってことはない、てことだ。それよりも、「仕上がった」状態で仕事に復帰する方がよっぽどいい。どうせ世の中は何も変わらないのだから。

| | コメント (0)

強さは武器か

10月4日(土)

あまり政治の話はしたくないんだが。

自民党の新総裁が高市早苗に決まった。

そのニュースを知ったのは、リハビリの療法士さんからだった。若いアラサーの男性療法士さんである。

「たった今、自民党の新総裁が高市早苗さんに決まったそうですよ」

「そうですか」

「女性初の総理大臣が誕生すると、女性ばかりが優遇されるのかなあ?」

えっ?そっち?そっちの心配をしているの?

奈良の鹿の話とか外国人差別の話とかの心配じゃなく?

僕はすっかり呆れてしまったが、これから長くお世話になる療法士さんなので、ここで喧嘩はしたくない。

「大丈夫ですよ。高市さんは名誉男性ですから」

「名誉男性?…ひょっとして女性から男性へ性転換したんですか?」

そこから説明しなきゃいけないのかよ!

「いえ、そうではなく、女性であるにもかかわらず、男性社会で生きていくために男性的な思考をする女性のことです。だから女性を優遇することはないと思いますよ」(実際、選択的夫婦別姓にも反対しているし)

「そうですか。ああよかった」

読者(ダマラー)のみなさん。世間の人の認識なんてこんなものなんですよ。世の中を洗練した社会に変えていくことがいかにむずかしいかわかるでしょう?

このたびの総裁選では、やたらと「強さ」が強調されていた。

「強いリーダーシップ」

「日本列島を強く豊かに」

では弱い人はどうなるのか?これから高齢者や病人などの「弱者」はどんどん切り捨てられていくぞ。少なくとも弱者にとっては生きにくい社会になることは間違いない。

外国人排斥の次は、弱者排斥にむかう。弱者をなきものと考えられるようになる。

考えすぎだろうか。考えすぎであってほしい。

| | コメント (0)

知れば優しくなる、という仮説

いまの石破首相は、地味だし、人気がないし、顔が腹話術の人形みたいだし、軍事オタクだし、右翼の政治家だし、まったく支持することができないが、与党のほかの政治家はもっと酷い人ばかりなので、辞任したとしてももっとひどい政治家が首相に手を挙げる可能性もある。つまり八方ふさがりということである。

唯一、これまでの首相と違うのは、官僚の文章をそのまま読まず、自分の言葉で語っていることくらいである。

8月6日(水)の広島の原爆の日では、毎年首相が挨拶を述べるのだが、広島と長崎の挨拶がコピペであったり、ページを1枚とばしてしまい、気づかないまま挨拶が進み、「糊がひっついてたせいだ、事務官が悪い」と明らかな嘘を言って人のせいにしたり、歴代首相たちによる珍挨拶が続いていた。

今年の石破首相の挨拶は、それにくらべればマシな方であった。挨拶の内容のほとんどは、歴代首相の挨拶の内容を踏襲したものであり、それ自体は新味があるわけではないが、ところどころで、自分が原爆資料館を訪れた時の感慨を述べたりして、なんとかオリジナリティを出そうとしていた。

極めつけは、挨拶の最後に述べられた、次の言葉である。

「『太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり』。『太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり』。公園前の緑地帯にある『原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑』に刻まれた、歌人・正田篠枝(しょうだ しのえ)さんの歌を、万感の思いをもってかみしめ、追悼の辞といたします。」

短歌を引用して挨拶を締めるなんてことをした歴代首相がいたのかどうかはわからないが、たぶんこれは石破首相のオリジナルであろう。

石破首相の知識人たる面目躍如の一文である。

この最後の一文は参加者にどう聞こえたのだろう。

僕がテレビで見た範囲では、この一文があることにより、歴代首相よりも被災者に寄り添っているように聞こえた。この一文があることにより、型どおりの挨拶で終わらせることなく、ある種の優しさが垣間見られた感じがするのである。

つまり何が言いたいかというと、知識があるということは、優しさを感じさせる効果をもたらす、という仮説である。

同じ日の民放のお昼のニュース番組では、吉川晃司さんがインタビューを受けていた。

吉川晃司さんといえば、私の青春時代のアイドルである。別にファンということでもなかったが、デビュー当時の鮮烈な印象はなかなかのものであった。

で、インタビューの内容は、広島県出身の吉川晃司さんは被ばく二世で、ある時期から自分のアイデンティティと向き合うことになり、広島の原爆被害に積極的に関わっていったと語っていた。自分は若い頃、やんちゃばかりをしていて、周りの人に迷惑をかけることもあった。それは自分にとって恥ずかしい過去だ。ある時期から、いわばその罪滅ぼしではないが、広島の原爆被害について積極的に関わっていこうと思った。そうすると、自分がいかに何も知らなかったかを思い知らされ、知ることがいかに大切かを身にしみて感じた。

と、たしかこんな内容だった。それを語る吉川晃司さんは、若い頃のとんがっていた印象ではなく、ひと言ひと言を大事に語りかける誠実なオジさん、という印象に映った。ま、たんに年を重ねて還暦となり、まるくなったと言えなくもないのだが、でもそうじゃない人もいるでしょう。

知ることにより人は優しくなれる、というのは、ちょっと無理な仮説だろうか。しかし僕は声を大にして言いたい。

いまこそ知識人の復権を!

| | コメント (0)

告訴

最近は書くことがないので、昔のことを思い出してネタを探している毎日である。

大学生の頃、突然見知らぬ人から電話があった。

「あなたを刑事告訴しました」

と。

突然のことでビックリした。

話を聞くと、ある雑誌が、ある人物を批判する特集を組んだところ、その人物の信奉する人が「ウキー!」となって、その雑誌に関わった人間を刑事告訴することにしたという。つまり電話をかけてきた人は、「ある人物」その人ではなく、その信奉者というわけだ。

で、僕がなぜ刑事告訴されたかというと、たまたまその雑誌に名を連ねていたからだという。

しかし僕はその特集にまったく関わっておらず、というかその特集に関わりたくなかったので、まったく身に覚えのない刑事告訴だったのである。もらい事故のようなものである。

ここまでは話についてきてるかな?

当時大学生だった僕は、刑事告訴したと言われてうろたえた。俺は犯罪者になってしまうのか???

急に不安になって、その特集記事を企画した人に電話をかけた。

「あのう、かくかくしかじかで、僕を刑事告訴したという電話があったんですけど…」

「あなたのところにも電話がかかってきたのですか」

「ええ」

するとその人は、深刻な感じではなく、余裕綽々の感じの声で、こんなことを言った。

「刑事告訴したと言ってもねぇ、起訴される可能性はほとんどないと思いますよ。告訴には刑事告訴と民事告訴があって、民事告訴にはお金が必要で、お金を払って民事告訴されると裁判に持ち込まれますけれど、刑事告訴は訴えるのにお金がいらないんです」

「そうなんですか?」

「ええ。だから只で刑事告訴ができるということで、民事告訴と比べて誰でも気軽に告訴できるんです。その代わり、何でもかんでも起訴するわけではなく、箸にも棒にもかからない告訴は起訴されません」

「つまり、玉石混淆というわけですか」

「そうですね。今回の場合、訴えの内容が箸にも棒にもかからないので、起訴されることはないと思いますよ。ですから安心してください」

「わかりました。ありがとうございます」

電話を切ったあと、心が軽くなった。

そして実際に、起訴されることはなかった。

僕はそのとき無知で、同じ告訴でも刑事と民事があって、2つの告訴には大きな違いかあることをまったく知らなかったのである。そのことを身を持って体験した。

しかしいくら問題がないとはいえ、刑事告訴をしたと言われたこと自体、精神的にプレッシャーであり、一種の脅迫行為である。うちのボスを批判するなという、いわば言論の自由を萎縮させる行為である。それを妄信的な信奉者がやっているというのだから、信奉者は恐ろしい。自分はどんな場合でもそうならんとこ、と自分を戒めた。

こんなことを思い出したのは、今年の7月22日の兵庫県知事の定例会見で、時事通信の女性記者が、兵庫県知事の不審な答弁に疑問を持ち、その点を質問したところ、それを知った兵庫県知事を支持する政治団体の代表が、自分のSNSでその記者の名前と時事通信社の電話番号を公開し、それを見たその政治団体の信者たちが、その日のうちに時事通信社に苦情の電話をかけまくってその記者を誹謗中傷し、翌日には時事通信社がその記者を県政担当からはずし、配置替えをした、という事件があったからである。

…なんとも長ったらしい説明で、説明が下手で申し訳ないが、今風の言葉で説明するならば、

「兵庫県知事に批判的な質問をした時事通信の女性記者を気にくわないと思った、兵庫県知事を支持する政治団体の代表が、自分の信者たちや兵庫県知事を狂信的に支持する信者たちに『犬笛』を吹いて、その『犬笛』を聞いた信者たちが、こぞって時事通信社に『電凸』して、この案件が『炎上』し、困った時事通信社はその翌日、記者を配置替えをすることで県政担当からはずし、今後兵庫県知事の記者会見に出席させないことにした」

ということである。これでも説明が長いな。

これの何が問題かというというと、信者らによる根も葉もない苦情電話の圧力に時事通信が屈したということである。これは言論の自由を萎縮させる事案であり、こんなことを許してはならないと、言論界では大変な騒ぎになっている。合わせて、女性記者ばかりが狙われるので、ミソジニーという問題も孕んでいる。

僕は40年ほど前にそれに近い体験をしているので、こうした手口はずっと前から存在していたことは明らかである。それがSNSが登場してから、より大規模に行われるようになった。問題は言論の自由を萎縮させる手口がより巧妙に、そしてより深刻になってきていることである。言論界に生きる人々は、不肖僕も含めて、こんなことで言論の自由を萎縮させてはいけないし、それに対しては声をあげていかなければならないと思う。

| | コメント (0)

津波警報

7月30日(水)

カムチャッカ半島でマグニチュード8.7の地震が起こり、その影響で朝から太平洋岸に津波警報が出た。東日本大震災のときのことを思い出して、内陸部に住んでいたとしても、あまり気持ちのいいものではない。ましてや海の近くに居る人たちにとっては、気が気ではないであろう。

朝から津波警報のニュースで持ちきりだ。お昼頃、テレビをつけると各テレビ局で予定を変更して津波警報の報道をしている。

画面を見ると大きな字で「津波にげて!」と呼びかけている。そして各沿岸への津波到達時刻と津波の高さを刻々と報じている。

お昼の段階で、各地の津波の高さは30cm~50cmくらいだった。それでも危険なことには変わらない。沿岸部に居る人は取るものも取り合えず、沿岸から離れてできるだけ高いところに避難してくださいとしきりに呼びかけていた。東日本大震災の悪夢を繰り返したくないからである。

ある民放のニュース番組を見ていたら、アナウンサーが、津波の専門家とおぼしき学者と電話をつないでいた。

「ただいま、海岸にクジラが打ち上げられているという情報がありました」というニュースを繰り返し報じた後、アナウンサーが電話の向こうの専門家に質問した。

「先生、津波でクジラが海岸に打ち上げられることはあるのでしょうか?」

「そりゃあ、津波というのは海面が移動するものですからね。クジラが打ち上げられることもありますよ。珍しいことじゃありません」

と専門家が話した直後、アナウンサーが、

「あ、ただいま情報が入りまして、クジラが打ち上げられたのは津波とは関係ないとのことです」

と訂正をした。

スタジオが相当混乱していることを意味するのだろうが、そんなことを差し引いても、専門家との電話はなんとなくちぐはぐなように思えた。

それを決定的にしたのはそのあとのやりとりである。

「先生は今回の津波をどのようにご覧になっていますか」

「心配することはないです」

えっ?と、一瞬スタジオが凍りついたように思えた。

「でも、海底の地形によっては津波の高さが高くなる可能性もあるのではないでしょうか?」

早く逃げてくださいとさっきからさんざん呼びかけているアナウンサーは、専門家の回答にとまどっている様子が声のトーンからうかがえた。

「たしかに海底の地形によっては高さが左右されますね。しかし地震はカムチャッカ半島で起こっていて、それによる津波であることを考えると、あまり海底の地形の影響を考える必要はないので、心配ないです」(聞き流していたので、発言が不正確かもしれないことをご了承下さい)

その後もその専門家は「心配ないです」を繰り返した。

アナウンサーは、

「それでも海岸から離れて高いところに避難する必要がありますよね」

「まあそうですね」

「○○先生、ありがとうございました」

と、電話を切った。

アナウンサー、というか、放送局の立場としては、一刻も早く避難してくださいと呼びかけているので、専門家にはそれを後押ししてもらうためのコメントを期待したはずである。しかしその専門家は、マイペースな人なのか、「心配ないです」と、話の腰を折るようなコメントをしたのである。アナウンサーは最後になんとか誘導して、「早く避難する必要がある」というコメントに着地させたが、ベテランのアナウンサーをもってしても、動揺している雰囲気が伝わる会話だった。

ここからは僕の仮説。

「心配ない」というその専門家の認識が甘い可能性ももちろんある。

一方で、いろいろな事象を分析して、今回の津波は大騒ぎするほどではない、心配ないと結論付けた可能性もある。つまり学問的にみて「心配ない」という結論に帰着した可能性もある。

しかし学問的にみて「心配ない」と結論を出したとしても、それで安全が確認されるわけではない。学問は所詮人間の思考にすぎず、えてして自然災害は、人知を越える被害をもたらすからである。自然災害は人間の都合など考えないのだ。ここ30年ほどの自然災害で、我々は学んだはずである。

学問とは無力なものだ。なぜならそれは人間の思考以上のことを想定できないから。僕は最近そんな考えに取り憑かれている。そんな限界を認めつつ、やり続けなければならないのが、学者の業(ごう)ではないかと思い始めている。

| | コメント (2)

ルッキズム

書くことがないので、先日の選挙の話でも。

最近の選挙では、SNSをうまく使うことが勝敗を左右する、みたいなことが言われ、それは一面の真実であるかも知れないのだが、ある著述家は、

「それよりもルッキズムが選挙の勝敗を左右する。有権者の中には政策の内容よりもルッキズムを重視する者がいる」

と言っていた。「ルッキズム」とは簡単に言えば「見た目のよさ」のことである。

たしかにこのたびの選挙では、政策よりも「ルッキズム」で当選した女性候補者が何人かいた。女性候補者のなかには、政党の党首とか党首に近い位置にあるオジさんが、候補者としてスカウトされた人がいたりする。そういう場合は、本人の意志にかかわらず、党首などのオジさんの意志決定にしたがって政策を述べなければならないので、本人に決定権がない。そうなるとまるで家父長制的な組織である。新興の政党にもそういう傾向が見られるのだから手に負えない。

男性の場合もそうである。あの府知事とかあの県知事とかは、いい加減辞めたらいいのにと思っても、なぜか支持している人がいるのは、やはりルッキズムによるものであろう。

だが、ルッキズムによる判断が一概に間違っているのかというと、そうとは言えない場合もある。その使い方を工夫すれば、ルッキズムによる判断もあながち間違いではないこともあるのではないか。

ふつうの社会人として仕事をしていれば、イヤでもさまざまな人とコミュニケーションをとる。そのうちに、相手の顔を見ただけで、この人は信頼できそうだなとか、こいつは信頼できそうにないなとか、そう言った判断力が自然に身に付くはずである。それは美醜にかかわらない。

僕は、政党や候補者の政策や思想信条のほかに、そういう基準で候補者を見ていた。あ、この男性候補者はいい歳をして口元がダラシナイから、今まで研鑽を積んでこなかったんだなとか。しかし仕事ができそうにないそういう候補者にも、一定の支持層がいる場合があるので、世の中というものはわからない。

美醜のルッキズムではなく、その人から滲み出るルッキズムで判断すべきである。

| | コメント (0)

より以前の記事一覧