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皆既月食

11月8日(火)

皆既月食の日だという。ニュースでは、「皆既食」という言い方をしていたところもあるが、「皆既月食」と「皆既食」の違いって何なの?いまは「皆既月食」とは言わずに「皆既食」ということに決まったのか???よくわからない。

ふだん、夜空なんぞ見上げたことはないのだが、たまたま保育園のお迎えの時間に、皆既月食が始まっていた。

肉眼で見ると、たしかに月の左下の方に大きな影ができていて、それが次第に広がっていくように見える。

自宅に戻り、マンションから皆既月食の様子をスマホで撮影することにした。

ミラーレスカメラみたいなものも持っているのだが、どうもうまく撮れない。僕の持っているスマホは、30倍まで拡大できるので、スマホのカメラ機能の方が、性能がよいようなのである。

ちょうど月が半分くらい欠けたところをスマホで撮影したら、思いのほかよく撮れたので、最近ほとんど放置しているSNSにアップしたら、珍しく「いいね」という反応をもらったり、コメントをもらったりした。

「スマホなの?めっちゃきれいに撮れてますね」

とか、

「すごい」

とか。

得意になった僕は、「「これより欠けてもうまく撮れないし、あまり欠けてないと月食だかなんだかわからないし、ということで、このくらい(注:月が半分くらい隠れている状態)の形がちょうどいいみたいです」などと、ほら、『徒然草』の兼好法師も「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」って言ってるでしょ、ってな感じで、ひどく調子こいたコメントを書いたりした。

しかし、実は僕は皆既月食に関する知識がまったくなかった。月が完全に地球の影になってからが本番なのである。僕はてっきり、月が地球の影にすっぽり隠れると何も見えなくなるのだと思い込んでいたが、そのときに月は神秘的な赤銅色を放つというのだ。

それなのに僕は、半分欠けたところを撮っただけで満足してしまい、その後は家の中に入り、赤銅色に見えるという月の皆既食を一切観察しなかった。メインはそっちだろう!と。

僕は、同じ『徒然草』の中にある「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり」という仁和寺の法師の話を思い出した。

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欠席する理由

9月25日(日)

カナダのトルドー首相は、イベントを欠席するそうだ。

カナダ東部に上陸したハリケーンが大きな被害をもたらしており、対応が必要なためという。

たしかに、欠席する理由は、本当にそうなんだろうけれど、僕の邪推では、トルドーさんは、「よかった、これで欠席する理由が見つかった」と安堵したのかも知れない。

あくまでも、僕の邪推ですよ。

トルドーさんは、「出席しま~す」といち早く手をあげたはいいが、周りを見渡すと、G7主要7カ国の首脳のすべてが「欠席しま~す」と表明し、「え?手をあげたの、俺だけ?」ってなった。

で、いろいろ調べてみると、どうもそのイベントはスジが悪い。なにしろ国民のほとんどが反対している。しかも主催者側の醜聞が連日のように取り沙汰されている。

「しかし、外交だしなあ、行かなきゃダメかなあ…」とトルドーさん。

「そりゃあ行かなきゃダメですよ」どこにでも杓子定規な人間はいるものだ。「これは外交なんですから、ちゃんとマナーを守らなければなりません」

「でもさあ、こんなことで義理立ててどうするんだよ…」

困りはてたトルドーさん。そこに訪れたハリケーン。

被害を受けたことは間違いなく深刻だ。「これだ!」とトルドーさんは思った。これなら欠席する理由として、失礼にあたらない。

「ごめんなさい。ちょっとこっちの対応を最優先にしたいので、やっぱり行けません」

と相成ったのではないだろうか。

僕にも心当たりがある。

会合とか飲み会に誘われたとき、義理で行かなきゃ行けないかなあ、イヤだなあ、でも断る理由がないなあ、と思って、とりあえず参加を表明したら、たまたま家族が病気になった。

「すみません。家族が病気になったので、行けません」

これなら、たんに「行きたくない」という理由よりも、失礼にはあたらないだろう。事実だから、後ろめたくなることもない。

トルドーさんも同じで、ちょうどいい理由が見つかったのではないか、と僕は自分の体験に引きつけて想像したのである。

しかし、おかしい。

この国も一昨日から昨日にかけて、台風が猛威を振るってかなり被害が出た地域があったはずである。こっちのリーダーは、その対応を最優先にしないのだろうか?

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国葬雑感

9月20日(火)

抜き差しならない状況が続く。

午前中の定例の作業のあと、矢のようなメールに返信をする。

どれもが、反射神経的に応えればいいメールではなく、ちゃんと確認した上で返信をしなければならない。

「これでよろしいか、確認してください」

「具体的にどことどこを希望なのか、示してください」

みたいなヤツ。この「裏とり」に思いのほか時間がかかる。

あっという間に昼休みになったが、それでもメールの返信が続く。

午後の予定は、13時からオンラインによる定例の全体会議、17時から、僕が進行役のオンライン会議である。

13時からの会議は、ふだんだと、どんなに遅くとも16時には終わるのだが、今日に限って議題が多く、16時51分に終わった。

それから急いで、17時からの会議のZoomに接続する。

そうそうたるメンバーの中で、立場上、僕が進行をしなければならなかったので、プレッシャーがハンパではない。みんな一家言ある人ばかりなので、進行がまずくて怒られたらどうしようと、そればかりが気になって仕方がない。

1時間くらいで終わると思ったが、2時間近くかかって終了した。

その後もいくつか仕事をしたのだが、終わる気がせず、ヘトヘトになって帰宅した。考えてみれば、今週は平日が3日しかなく、3日間の間に、5日分の仕事をしなければならないので、忙しいはずである。

…いや、今日書きたいのは、そんなことではない。

昨日、英国のエリザベス女王の国葬の生中継をぼんやりと観ていた。なんかすげえ厳かで、参列している世界の要人もやんごとなき人たちばかりのように思えた。あのような荘厳な儀式に参加するのだから、それは当然のことなのだろう。

あんな厳粛で荘厳な儀式に、この国の首相は参加を検討したというのだから驚きである。「おまえみたいな凡人の来るところじゃねえ!」と言われるのがオチである。なにしろ格が違うのだ。

僕の記憶違いでなければよいが、エリザベス女王の国葬で、「友人代表の挨拶」とかって、なかったよね?そもそも、スピーチみたいなことは、だれもやらなかったんじゃないの?

冠婚葬祭でスピーチをする文化って、世界でどのくらいあるのだろう?

この国にいると、結婚式の披露宴で必ずスピーチがあるし、お葬式にも弔辞がある。

しかし以前、韓国の結婚式に参加したとき、日本の披露宴にあるようなスピーチは、一切なかった。

聞くところによると、こんどこの国で行う「国葬」では、「友人代表の挨拶」があるそうだ。しかしその「友人」が、ほんとうの「友人」なのかは疑わしい。ほんとうの友人は、もっとほかにもいるのではないだろうか。

あと、エリザベス女王の国葬を観ていて、ロンドンは緑が多いなあと感じた。都心の木を伐採して再開発に躍起になっているどこぞの国とは大違いであるように思うのだが、ロンドンに行ったことがないので、実際のところはよくわからない。

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ボートマッチ普及運動

選挙に行こう!キャンペーン実施中。

こぶぎさんの薦めで、マスコミ各社のボートマッチを試してみたが、これがすこぶる面白い。

25問ていどの質問に答えると、政党や、自分の住む選挙区の候補者との近さを、パーセンテージで教えてくれる。

前回の衆議院選挙だったか、ほら、「最高裁判所裁判官の国民審査」ってあるでしょう?いままではほとんど何も考えずに審査していたのだが、それぞれの裁判官が、いろいろな裁判でどのような判断を下していたか、というまとめサイトみたいなものを、マスコミ各社で示してくれたおかげで、自分の考えに近い裁判官と、そうでない裁判官が可視化された。つまり根拠をもって、○×をつけることができたのである。

これってけっこう大事なことで、たとえばアメリカの連邦最高裁判事は、いま共和党系が6名、民主党系が3名で、ここ最近の連邦最高裁は、じつに偏った判断をしている。町山智浩さんは、「いま、アメリカは南北戦争時代へ逆戻りしている」と警鐘を鳴らしているが、ここ最近は、時代に逆行する最高裁判断が横行しているのである。ま、この国の最高裁判断も同じようなものだけどね。

アメリカの最高裁判事は終身職なので、いちど判事になると、物故するか、自分で引退を決めない限りは、人が入れ替わることはない。

その点、この国には「国民審査」の制度がある。欲を言えば、「国民審査」にも、ボートマッチみたいなシステムがあれば、もっと簡便に○×を判断できるのだがなあ。

それはともかく。

ボートマッチは、各候補者との近さがパーセントで出てくるので、

「この候補者とは、80%くらいわかり合える」

とか、

「この候補者は、嫌いだけど、30%くらいはわかり合えるのかあ」

とか、

「この候補者は、なんとなく好きだけど、意外と50%しかわかり合えない」

といったことがわかるのである。

もちろん、人との近さはパーセントでははかれないことはわかっているのだけれども、どんなに嫌いな人間でも、2~3割くらいは、わかり合えるところがあるのだ、ということを教えてくれる。一般論として、人と人とがまったくわかり合えない、ということはないのだ。

ところが、である。

今回やってみて、一人だけ、0%という候補者がいた。

四半世紀以上前にテレビアイドルとして活躍していた候補者である!

言うに事欠いて、0%というのは酷すぎる。「まったくわかり合えない」ということではないか!!!

おそらく、わかり合えない、というより、話の通じない人なのかもしれない。

それにしても、いったいなぜ、0%などというあり得ない数字が出たのだろう?まさか、アンケートに無回答だったということはないよねえ。

で、僕は考えた。

これからは、ボートマッチを、候補者と有権者の義務としたら、候補者と有権者の双方の意識が変わり、投票率が上がるのではないだろうか?

マイナンバーカードの普及よりも、ボートマッチの普及を!

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贋作・アベノマスク論ザ・ファイナル

贋作・アベノマスク論

以前書いた「贋作・アベノマスク論」の意味が、森達也編著『定点観測・新型コロナウイルスと私たちの社会』(論創社)の中で、武田砂鉄氏が「アベノマスク論」を一貫して書いていることへのオマージュであることは、たぶん読者は誰も気づいていない。

このたび、この本の第4弾「2021年後半」編が出て、そこにも武田砂鉄氏が「アベノマスク論ザ・ファイナル」というタイトルで書いている。

アベノマスクというネタで、およそ2年、全4回にわたって書き続ける、というのは、ひとつの芸である。

この中で武田氏は、自分が大学卒業後に10年間勤務した出版社の思い出を書いている。

新入社員の研修で連れて行かれたのが、埼玉の奥のほうにある倉庫だった。倉庫には、書店から返品されてきた本がうずたかく積み上がっていた。研修の担当者は、「みなさんが編集した本が売れないとこんなになっちゃうんだからね」と笑いながら言った。

自分が実際に編集者になり、あの人たちの顔と声が頭によぎることになる。

「…必要以上の在庫はコストがかかるだけだから、最低限の本を残して断裁されてしまう。定期的に断裁リストが社内で配布される。シンプルに言えば、営業部が『こんな本はこれからも売れないのだから、これくらい残して、あとは全部処分しますからね』と通達してくる。逆らう言葉を探せずに、泣く泣くサインをする。これが市場メカニズムってやつだ」

このあと、「ほとんど誰も使わないものを送りつけ、倉庫に大量に残され、これを維持するために莫大なお金をかけ、それでいて、これは必要だったと言い張っているのだから、会社なら潰れるかもしれないし、社長なら辞任すべき事案なのかもしれない」と、アベノマスク批判が展開される。

僕が以前、自分の書いた本が上記とまったく同じ運命をたどったことを引き合いに出しアベノマスク批判をしたことと、論理展開は同じである。あたりまえである。倉庫に在庫を抱えて売れそうにない本は、コストがかかるので処分する。これは出版界の常識で、使わないアベノマスクを丁重に扱うことは常識の尺度では到底測れない。業界人ならば誰でも不条理に感ずるはずなのである。

もっとも、泣く泣くサインするのは編集者だけではない。著者自身も自分の本の処分に泣く泣くサインしている。いつぞやは、在庫のうち400冊を処分するという通知が来て、それでは自分の本があまりに不憫なので、自腹で100冊を買いとった。僕のように売れない本を書く人間もまた、自分の本の運命とアベノマスクの運命を比較してしまうのである。

それにしても、どうしてこうも、武田砂鉄氏と問題の視点が類似するのか。

思うに、「推し」っているでしょう。僕はとくに「推し」はいないのだが、なぜ「推し」にハマるのか、なぜ、その人が自分にとっての「推し」になるのか?それは、自分が思っていることを、あたかも「推し」が代弁してくれると感じているからではないだろうか。自分の内面を気づかせてくれる存在なのてある。クドいようだが、僕には「推し」がいないのだが。

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贋作・アベノマスク論

12月3日(金)

午前10時から午後5時過ぎまで、職場で途切れなく打合せが続く。その後も、メールの返事やら校正やらをしていたら、帰宅がすっかり遅くなってしまった。

TBSラジオ「アシタノカレッジ 金曜日」をアフタートークまで聴いた後に、誰にも読んでもらえないブログを書くことが、週の終わりのストレス解消法である。

それを自分でよしとしているのだが、その一方で、これだけ長々と書いても誰にも読まれないということに対して、凹まないといえば嘘になる。自分には文才がないのか、華がないのか、あるいはそのどちらともなのか。注目に値しない文章ばかり書いているのだろう。

「世の中でいちばんいい言葉は『重版』って言葉ですよね」

と、「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークの冒頭で、武田砂鉄氏がつぶやいた。

たしかにそうだ。重版。いい言葉だ。

最近僕は、二つの新書に関わった。関わった、といっても、原稿を書いたのはほんの少しだけで、そのうちの1冊(赤い表紙のほう)は、無記名である。どこからどこまでを僕が書いたのかは、読者にはわからない。もう1冊(黄色い表紙のほう)は、記名だが、頼まれてほんの数ページ書いただけである。

この二つの新書が、いずれも発売と同時に、重版がかかったのである。無記名で書いた方(赤い表紙のほう)は、発売前から話題になっていたので宜なるかなと思うのだが、もう1冊の方(黄色い表紙のほう)まで、発売直後に重版になるとは思わなかった。サブタイトルに「眠れなくなるほど面白い」みたいなフレーズが使われているので、おいおい、大きく出たな、と恥ずかしかったのだが、重版がかかったということは、タイトル負けしなかった、ということである。

しかも、僕が無記名で書いた方(赤い表紙のほう)の出版社の新書(赤い表紙の新書)の売れ行きランキングを調べてみたら、1位が僕が無記名で書いた本で、2位が町山智浩さんの書いた本なのだ。おいおい、町山さんに勝っちゃったよ!

ちなみに2冊とも、僕のところには原稿料や印税が入らないので、実のところ、「重版」と聞いても、さほど嬉しくはないのだ。

それに引き換え、である。

僕が単独で書いた本はすべて、重版になったことはない。このブログと同じく、まったく注目されないのだ。死んでから注目されるのだろうか、と一縷の望みをつないでいるのだが、そもそも生きている間に注目されなかった人間なのだから、死んでからも注目されることはないだろう。

いくつかの出版社から、お話はいただいているのだが、そんなわけで、単行本を書く意欲がすっかり削がれてしまっている。どうせ何を書いても売れないんだろう、と。

以前にも書いたかと思うが、あるとき、僕が書いた本の在庫が場所をとって倉庫代がかかるので400冊を廃棄処分します、という連絡があった。世の中でいちばんイヤな言葉は、「在庫本の廃棄処分」である。

僕がどうして、こんな愚痴を延々と書いているかというと、最近のニュースで、久しぶりに「アベノマスク」が脚光を浴びているからである。

ニュースによると、新型コロナウイルス対策で政府が調達した「アベノマスク」を含む8000万枚余の布マスクが使われずに大量に備蓄されている、ということで、厚生労働省が新聞などの取材に応じてマスクが保管されている倉庫を公開したところ、約5200平方メートルの区画内に、マスクの入った約10万箱の段ボールが、最高で約5メートルの高さに積み上げられていたという。そしてその経費は、6億円だというのだ。

これから先も使うあてのない布製の「アベノマスク」の在庫8000万枚が、6億円をかけて、倉庫で保管されるというのは、どう考えても納得できない。

だってそうでしょう?こちとら、苦労して書いた本の在庫を倉庫に保管すると経費がかかるので、400冊を処分しますと言われているんだぜ。6億円かけて保管する8000万枚の「使えないマスク」と、たった400冊すら倉庫に置いておくのが無駄だとして処分された俺の本。どちらが価値があるのか?ってハナシですよ。

僕はすっかり、文章を書く自信をなくしてしまった。どうやったらいい文章が書けるのだろう。

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謎の訂正

8月25日(水)

午後9時、緊急事態宣言の対象地域拡大にともなう首相会見。

毎回、首相会見を聞くたびに腹が立つのだが、ここ数回は、会見と同時にYouTubeで配信される、TBSラジオ「Session実況ライブ」で、荻上チキ、澤田大樹記者、南部広美さんが首相会見への副音声的な解説をやっていて、これを聴きながら首相会見を聴いていると、なかなかおもしろくて、つらい会見も最後まで聴き通すことができる。

今日の会見では、こんなやりとりがあった。TBSテレビの後藤記者の質問である。

「首相自らがテレワークを進める、あるいは、閣内のかなりの部分でテレワークを試みる、そういったお考えはありますか」

「まずテレワーク、これ推進してやらなければならないと思ってます。その中で、今日、新たに、(緊急事態)宣言地域とまん延防止地域を決めた会合については、テレワーク(笑)でやらせていただきました。まあそういう意味で、昨日も私、テレワークで規制改革会議、やってますから、そうしたことをこれからどんどんと増やしていかなければならないというふうに思ってます。」

このとき、首相は、半笑いで答えていた。これは、記者に対して、「お前、知らなかったの?ここ最近、俺がテレワークをやっているのを見ていなかったのか?」という笑いに聞こえた。

しかし僕は、ここ最近、ニュースを見るたびに、政府や与党の会議が、ほぼすべて、対面とオンラインを併用するいわゆる「ハイブリッド会議」であることに気づいていた。

たとえば、首相や主要閣僚は会議室に集まり、それ以外の人たちがオンラインで参加する、という形式がほとんどなのである。

そればかりではない。与党の青年局の会議の様子を数日前に見たのだが、それもまた同様であった。

つまり政治の世界では、ハイブリッド会議が主流で、テレワークはまったくおこなわれていないのだ。それを首相は、「みんな知らないと思うけど、俺なんかとっくにテレワークをしているぜ」と言っているのである。

ここである疑念がわいてきた。首相は、テレワークをハイブリッド会議と勘違いしているのではないか?つまり、テレワークの意味をまったく理解していないのではないだろうか?

しばらく会見を聴き続けていると、唐突に、首相が先ほどの質問に対する訂正を言い始めた。

「すみません。先ほどのTBSの後藤さんの質問で、テレワークとオンライン会議、こうしたことについて、混同してしまいました。お詫び申し上げたいと思います」

「それでは続いての質問…」

ええええぇぇぇっ!!??

やはり首相は、テレワークとオンライン会議(正確にはハイブリッド会議)の違いについて、まったく理解していなかったのだ、ちなみにこのとき会見に参加していた江川紹子さんが、会見直後にSession実況ライブに電話出演されて、訂正の紙が事務方から慌てて首相のもとにもたらされたと話していた。ということは、事務方に指摘されるまで、この違いについてまったく理解していなかったことになる。

そうなると、先週、経済三団体の長のところに首相が直接出向いていって、対面してテレワークについてお願いにまわったという、一見して本末転倒の行動の意味が理解できる。

やはりテレワークの意味を、首相はまるで理解していなかったのだ。

これでは、テレワークが進むはずがない。

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蛇腹の道は蛇

8月6日(金)

広島の原爆死没者慰霊式・平和祈念式を、リアルタイムで見ていた。

黙祷のあと、首相のスピーチ。

「…ヒロシマ、ナガサキが繰り返されてはならない。この決意を胸に、日本は非核三原則を堅持しつつ、核兵器のない、核軍縮の進め方をめぐっては、各国の立場に隔たりがあります」

意味が通じないなあ、と思って聞いていたら、とつぜん字幕が消えた。

しばらくして、字幕が復活する。

この一連の流れを見て、「はは~ん。首相は原稿を読み飛ばしたな」ということが、すぐにわかった。

NHKの紅白歌合戦でも、歌手が歌詞を間違えたりすると、すぐに字幕が消えたりする。字幕を瞬時に消すことについては、NHKはお手のものだし、何のためらいもないのだ。

ほどなくして、ニュースは、首相の「読み飛ばし」の件を伝えていた。

それはそうだろう。あのテレビを見ていた人たちは、その瞬間、誰もが不審に思ったに違いない。

それからしばらくして、首相側は「読み飛ばし」の事実を認めたが、その理由は驚くべきものであった。以下、共同通信の配信記事を引用する。

「政府関係者は6日、菅義偉首相が広島の原爆死没者慰霊式・平和祈念式でのあいさつの一部を読み飛ばした原因について、原稿を貼り合わせる際に使ったのりが予定外の場所に付着し、めくれない状態になっていたためだと明らかにした。「完全に事務方のミスだ」と釈明した。

 原稿は複数枚の紙をつなぎ合わせ、蛇腹状にしていた。つなぎ目にはのりを使用しており、蛇腹にして持ち運ぶ際に一部がくっついたとみられ、めくることができない状態になっていたという。」(2021/08/06 21:14)

「糊が貼り付いていたので、一緒にめくっちゃったため、1ページ読み飛ばした。という、予想の斜め上を行く言い訳、しかもそれは「完全に事務方のミスだ」という責任転嫁、など、もはや開いた口が塞がらない。首相は徹頭徹尾、責任を部下に押しつけたいようである。

そもそも挨拶を自分で考えてなかったのかよ!とか、大事な式の挨拶文なのだから下読みくらいしろよ!とか、国連総会の場で行った自分の言葉を読み飛ばすのかよ!とか、読んでいておかしいなと思ったらその場で仕切り直せよ!とか、読み終わっても気づかないようならばもう末期症状だよ!といった、数々のツッコミが考えられるのだが、僕が気になったのは、少し別のところにある。

では、読み飛ばした部分にはどんなことが書かれていたのか?

「ヒロシマ、ナガサキが繰り返されてはならない。この決意を胸に、日本は非核三原則を堅持しつつ、核兵器のない世界の実現に向けて力を尽くします。」と世界に発信しました。我が国は、核兵器の非人道性をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国であり、「核兵器のない世界」の実現に向けた努力を着実に積み重ねていくことが重要です。
 近年の国際的な安全保障環境は厳しく、核軍縮の進め方をめぐっては、各国の立場に隔たりがあります」(首相官邸ホームページによる)

と、赤字に書かれた部分である。これもすでに、報道等で公開されているし、なにより首相官邸ホームページに、本来の挨拶文の全文が掲載されている。

僕が気になったのは、挨拶文のレイアウトがどうなっていたのか?ということである。

周知の通り、この種の挨拶文は蛇腹式に折りたたまれていて、話者は、見開きの2ページを次々と目で追いながら、読み進めていく。2ページ分を読み終えると、次の見開き2ページ分をひらきながら読み続ける、というしくみである。

つまり、読み飛ばされた部分は、まるまる見開き2ページ分ということである。

さらに、「近年の国際的な安全保障環境は厳しく、」というところでページが変わることが明らかであることや、ここが段落の変わり目であることから、読み飛ばしたページの一番最後の行は、「近年の国際的な安全保障環境は厳しく、」であったと考えられる。ということはつまり、1行は19字程度だったことが推測できる。ちなみに読み飛ばし部分の見開きは、123文字である。

読み飛ばし部分を1行19字に設定すると、

「世界の実現に向けて力を尽くします。」と世

界に発信しました。我が国は、核兵器の非

人道性をどの国よりもよく理解する唯一の

戦争被爆国であり、「核兵器のない世界」の

実現に向けた努力を着実に積み重ねていく

ことが重要です。

 近年の国際的な安全保障環境は厳しく、」

となり、見開き2ページあたり7行ていどが書かれていると推定できる。

さて、そこで次に気になるのは、挨拶文全文が、蛇腹の紙にどのようにおさまっていたのかである。

首相官邸のホームページから、平和記念式典の挨拶文を全文コピーして、Wordに貼り付け、1行19字と設定する。

それと、ありがたいことに、首相官邸のホームページには、首相が挨拶している一部始終が動画撮影されており、その手元には、蛇腹の挨拶文がわずかに映っている。

首相はどのタイミングで、蛇腹の挨拶文をめくっているのか、一部わかりにくいところもあるが、映像をよーく観察すると、あるていどはそのタイミングを確かめることができるので、それを参考にしつつ、「全体として挨拶文はどのように蛇腹におさまっていたのか」を復元してみた。少し長くなるが。

「本日、被爆76周年の広島市原爆死没者慰

霊式並びに平和祈念式が執り行われるに当

たり、原子爆弾の犠牲となられた数多くの

(ここで蛇腹をめくる) 

方々の御霊(みたま)に対し、謹んで、哀

悼の誠を捧(ささ)げます。そして、今な

お被爆の後遺症に苦しまれている方々に、

心からお見舞いを申し上げます。

 世界は今も新型コロナウイルス感染症と

いう試練に直面し、この試練に打ち勝つた

めの奮闘が続いております。

(ここで蛇腹をめくる) 

我が国においても、全国的な感染拡大が続

いておりますが、何としても、この感染症

を克服し、一日も早く安心とにぎわいのあ

る日常を取り戻せるよう、全力を尽くして

まいります。

 今から76年前、一発の原子爆弾の投下

によって、

(ここで蛇腹をめくる) 

十数万とも言われる貴い命が奪われ、広島

は一瞬にして焦土と化しました。

 しかし、その後の市民の皆様のたゆみな

い御努力により、廃墟から見事に復興を遂

げた広島の美しい街を前にした時、現在の

試練を乗り越える決意を新たにするととも

に、

(ここで蛇腹をめくる) 

改めて平和の尊さに思いを致しています。

 広島及び長崎への原爆投下から75年を

迎えた昨年、私の総理就任から間もなく開

催された国連総会の場で、「ヒロシマ、ナガ

サキが繰り返されてはならない。この決意を

胸に、日本は非核三原則を堅持しつつ、核兵

器のない

(ここで蛇腹をめくる、はずだったが読み飛ばした) 

世界の実現に向けて力を尽くします。」と世

界に発信しました。我が国は、核兵器の非

人道性をどの国よりもよく理解する唯一の

戦争被爆国であり、「核兵器のない世界」の

実現に向けた努力を着実に積み重ねていく

ことが重要です。

 近年の国際的な安全保障環境は厳しく、

 (ここで蛇腹をめくる)

核軍縮の進め方をめぐっては、各国の立場

に隔たりがあります。このような状況の下

で核軍縮を進めていくためには、様々な立

場の国々の間を橋渡ししながら、現実的な

取組を粘り強く進めていく必要があります。

 特に、国際的な核軍縮・不拡散体制の

 (ここで蛇腹をめくる)

礎石である核兵器不拡散条約(NPT)体

制の維持・強化が必要です。日本政府とし

ては、次回NPT運用検討会議において意

義ある成果を収めるべく、各国が共に取り

組むことのできる共通の基盤となり得る具

体的措置を見出す努力を、核軍縮に関する

「賢人会議」の議論等の成果も活用しなが

ら、

(ここで蛇腹をめくる) 

引き続き粘り強く続けてまいります。

 被爆の実相に関する正確な認識を持つこ

とは、核軍縮に向けたあらゆる取組のスタ

ートです。我が国は、被爆者の方々を始め

として、核兵器のない世界の実現を願う多

くの方々とともに、核兵器使用の非人道性

に対する

 (ここで蛇腹をめくる)

正確な認識を継承し、被爆の実相を伝える

取組を引き続き積極的に行ってまいります。

 被爆者の方々に対しましては、保健、医

療、福祉にわたる支援の必要性をしっかり

と受け止め、高齢化が進む被爆者の方々に

寄り添いながら、今後とも、総合的な援護

施策を推進してまいります。

(ここで蛇腹をめくる) 

 先月14日に判決が行われました、いわ

ゆる「黒い雨」訴訟につきましては、私自

身、熟慮に熟慮を重ね、被爆者援護法の理

念に立ち返って、上告を行わないこととい

たしました。84名の原告の皆様には、本

日までに、手帳交付の

 (ここで蛇腹をめくる)

手続きは完了しており、また、原告の皆様

と同じような事情にあった方々についても

、救済できるよう早急に検討を進めてまいり

ます。

 今や、国際平和文化都市として、見事に

発展を遂げられた、ここ広島市において、

核兵器のない世界と恒久平和の実現に向け

 (ここで蛇腹をめくる)

力を尽くすことをお誓い申し上げます。原

子爆弾の犠牲となられた方々の御冥福と、

御遺族、被爆者の皆様、並びに、参列者、

広島市民の皆様の御平安を祈念いたしまし

て、私の挨拶といたします。

令和3年8月6日 」

以上が、挨拶文全文と、首相の挨拶映像から復元した、「見開き2ページあたりの文字数」案である。見開き2頁ごとの文字数が90字から120字程度とばらつきがあり、これでよいかと言えば、あまり自信がない。

冒頭の見開きの文字数が短いのは、最初に開いた見開きの右側が白紙で、左側から挨拶文が始まっていることを示しているのではなかろうか。

いくつか気づいたことがある。

挨拶文の原稿には「核兵器不拡散条約(NPT)」が出てくるが、挨拶の際には首相が「(NPT)」の部分を読んでいないので、次にもう一度出てくる「NPT」が唐突に聞こえてしまい、核兵器不拡散条約=NPTであることがわからない人にとっては、文意がとりにくい。

それと、「被爆者の方々に対しましては、保健、医療、福祉にわたる支援の必要性をしっかりと受け止め」とある「保健」は「保険」?

また、映像からは、例の読み飛ばしの部分の蛇腹をめくるとき、糊がくっついていたせいで2枚いっぺんにめくれてしまったのか、あるいは、首相自身が2枚いっぺんにめくってしまったのかは、確認できなかった。

この記事のタイトルを「蛇腹の道も蛇」としたが、その含意については、わかる人がわかればよい。

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オリンピックと戦争

「オリンピック作戦」とは、アジア・太平洋戦争時にアメリカ軍やイギリス軍、ソ連軍をはじめとする連合国軍による日本本土上陸計画の作戦名の一つとして知られている。1945年11月に九州から本土に上陸し、九州を占領しようとする作戦で、もうひとつ、1946年春に関東地方占領をもくろむ「コロネット作戦」と合わせて、「ダウンフォール作戦」と呼ばれた。いわゆる本土決戦である。これらの作戦は、1945年8月に日本が降伏することにより、実行はされなかった。

では、いまの世はどうだ?人類は新型コロナウイルスという見えない敵、それもそうとうにしつこい敵と戦っている。そんな中で、この国でオリンピックが開かれようとしている。世界各国からアスリートが「上陸」し、感染拡大の危険性は火を見るより明らかなのにもかかわらず、政権はこの事態を意に介さず突っ走ろうとしている。これでは感染による犠牲者がますます増える。これを「本土決戦」と言わずしてなんと言おう。

オリンピックが開かれないなんて、いままでがんばってきたアスリートがかわいそうではないか、アスリートに失礼だぞ!という言葉は、「前線でがんばっている兵隊さんに失礼だぞ!」というふうに、僕には聞こえる。

ちょっと前までは、前線でがんばっている人は医療従事者だった。がんばっている医療従事者のために、ブルーインパルスを飛行させて応援しましょう、と言っていた、そのブルーインパルスは、こんどはオリンピックのアスリートを応援するために空を舞った。いつの間にか医療従事者へのエールは、アスリートへのエールに変わってしまった。でも実際には、医療従事者の負担は変わっていない。それどころか、オリンピックによりさらに負担が増えることは間違いない。

開催直前になればなるほど、政府の「見通しの甘さ」が次々と露呈し始めた。それでいて、政府のトップはなぜかオリンピックは成功するものだと信じて疑わない。まったく科学的な見通しはなく、ひたすら精神論をくり返すのみである。

アジア・太平洋戦争末期のこの国の状況を、まるで追体験しているかのようである。

それでも政府は、オリンピックの開催に突っ走る。まるで「本土決戦やむなし」と強硬に主張する当時の陸軍のようである。

「多少の犠牲を払ってでも、オリンピックを開催しないことには、この日を夢見て前線でがんばっているアスリートに申し訳がない」

「そのためには、国民一人ひとりが、我慢することが大事なのだ」

「がんばってこの難局を乗り切ろう。」

まるで戦時中のスローガンのようである。

いやいやいや、誰も難局なんて望んでいない。乗り越える必要のない難局は、最初からない方がいいに決まっている。

これではまるで、「戦争的思考」ではないか。この国における戦争的思考とは、「思考停止」「非科学的思考」「精神論」「国民に行動制限を強いる」といった内容である。僕たちはいま、戦争に突き進んでいった80年前の体験をくり返しているのである。

平和の祭典であるはずのオリンピックが、戦争的思考によって強行されようとしている矛盾。

オリンピックが始まったら、国民の雰囲気も変わるさ、というのはオリンピック開催派の主張である。日本人が金メダルを取ったら、それまでの不満はなくなるだろうというのである。

戦争も、勝利に沸けば、国民の雰囲気が変わってくる。たしか大林宣彦監督の映画「この空の花 ー長岡花火物語ー」には、「勝っている戦争は楽しいのだ」とかいった表現が出てくる。

もちろんそのツケは、後になってまわってくるのだが。

つまり僕がこの文章で言いたいことは、明らかに多くの犠牲が出るオリンピックすら、目の前で止められないというこの国の人たちは、戦争が起きたとしたらなおさら止めることができない、ということである。

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だまし討ち

スポーツマンシップって、なんだろう?

どうやら東京五輪は、このままなし崩し的に突き進んでしまうようだ。

僕らはいま、人類が営々と築き上げてきた「言葉」や「論理」というものを、東京五輪大会と引き換えに手放しつつある。

政府は、緊急事態宣言やまん延防止等重点措置の解除後の大規模イベントの観客上限を5000人以下から1万人以下に緩和される見通しを示した。これに対して、分科会は、「オリンピックとは関係ない国内イベントについてですね」と何度も念押した上でこれを了承し、さらに「オリンピックはより厳しく」と付け加えたにもかかわらず、この提言を無視して、五輪の観客の上限も1万人とした。その際に、組織委員会の会長は「尾身会長の提言を受けて」と、その根拠を示したのである。

これではまったく、だまし討ちである。分科会から観客の上限1万人という言葉を引き出しておいて、一方で「この上限数は五輪には適用されない」という但し書きを無視して、あたかも尾身会長のお墨付きをもらったかのように平然と言ってのけたのである。

もともと尾身会長は、五輪の中止こそうたわなかったものの、やるとするならば無観客で実施すべきだと主張していた。その背景を考えれば、「尾身会長のお墨付きをもらって観客上限1万人とした」という発言は、あり得ないはずである。

だまし討ちはそれだけではない。

尾身会長をはじめ分科会の専門家有志が作成した提言書には、五輪を中止せよという文言は書かれていない。本来はそれも選択肢の一つだったのだが、首相がG7で世界の首脳に向けて五輪開催を表明してしまったために、提言書の中では中止の選択肢について言及できなかった、と述べている。

今度はそれを逆手にとり、「『中止』ということが尾身会長の提言には書いてなかった」ことを錦の御旗の如く、記者会見で大会組織委員長は、それを五輪開催の根拠として平然と主張したのである。

尾身会長からしたら、「話が違う…」と言いたくなるだろう。大会組織委員会の会長は、もともとオリンピックに出場経験のある元アスリートで、冬季五輪のスケートと、夏季五輪の自転車競技に出場している。

いったい、どこをどう読めば、こういう解釈ができるのだろう?こういう人とは、日常会話すら成り立たないのではないか、とさえ思えてくる。

伊集院光氏が、朝のラジオ番組で、「毎日毎日ニュースのコーナーで五輪開催に対する懸念を話しているけれども、さすがに僕も飽きてきて、リスナーにも『またかよ』と言われるかもしれないので、もうやめようかと思ったんだけれども、今回の組織委員会の会長の発言を聞いて、やっぱり言い続けなきゃダメだ、という思いを強くした。だって、『伊集院さんが何も言わなくなった、ってことは、開催に賛成してくれたんですね』と言われかねないし」

と言っていて、やはり一連の組織委員会会長の発言は、言葉を扱う職業の人からしたら、許しがたいものだったのである。

フェアプレー精神って、なんだろう?

東京五輪の観客についてもう少し言うと、「観客は上限1万人だけど、IOCとかスポンサーとかは関係者なので、それは観客とは別ね」という理屈で、ノーカウントされるということも明らかになった。つまり1万人にさらに上乗せされることになる。

これで思い出すのは、いとうあさこのライブである。

先日、草月ホールというところで、いとうあさこの単独ライブがおこなわれた。もっとも僕は観に行ったわけではなく、文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」の中で話していた内容を聞いただけである。

観客数は、緊急事態宣言下だったこともあり、500くらいある座席のうち、半分にしなければならない。たとえば席数が500だったとすると、250が観客数の上限となる。

しかし、250席をきっちり観客分にするわけにはいかない。なぜなら、客席には劇場のスタッフもスタンバイすることがあるので、その分を差し引かなければならない。ということで、観客の数を半分よりさらに減らして、チケットを販売した、というのである。

たかだか500席のライブでも、関係者分の席を観客分の席に含めているのである。身を切るような思いで、観客の人数を制限しているのだ。だが東京五輪の場合は、観客と関係者は別だと平然と言ってのけている。おかしくないか?

つまり、この文章でいちばん言いたいことは、「これではいとうあさこの努力が報われないではないか」ということなのである。

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