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文章を舐めるな

7月9日(火)

毎週火曜日はストレスフルな会議が続く。そればかりか解決する見通しのない問題について、ここ2カ月近く頭を悩ましている。

長年、いろいろな文章を読んだり書いたりしていると、他人を文章を読んだだけで、その人がどのような人間性であるかがわかる。…いや、わかるつもりになっているだけかもしれないが。

「自分がメンタルが強いのは相手の問題がどうなっても私は知りませんよっていう風に言い切れるからだ」といったことを選挙前に出した自著に書いている選挙候補者がいた。あるラジオパーソナリティーはその一文に注目し、「政治家が相手の問題がどうなっても私は知りませんよという聞く耳を持たない態度をとれば、なかなかそこに意見を届けることが難しくなってしまうのではないでしょうか」と本人に質問をしたところ、どうやらその質問の意味が理解できなかったらしく、逆質問をくり返したり、挙げ句の果てには論点ずらしをしたりして、わずか4分弱で化けの皮がはがれるというか、馬脚をあらわすというか、その候補者の底の浅さが露呈されたのである。これはたんに本人が勝手に自滅しただけなので、いわゆる「論破した」ということではない。

このやりとりはSNS上でバズったのだが、僕はこの候補者の書いた一文について、重要な問題は別にあると感じていた。

本当にメンタルの強い人は、さまざまな「相手の問題」について真剣に向き合って粘り強く対応することができる人である。「相手の問題がどうなっても私は知りません」という態度は、どう考えても「メンタルが強い」ことを意味しない。たんに「相手の問題」から逃げているだけじゃないか。そういうのを「弱腰」という。口惜しかったら俺の仕事を代わってみろ!と言いたい。僕はその一文の内容もさることながら、こういう破綻した文章を書くことが許せない。文章を舐めんなよ!

 

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夏休みの読書

毎年この時期になると気になるのは、「夏休みに首相はどんな本を読むのか」である。

ここ最近の首相は、夏休み前になると都内の大型書店にくり出し、夏休みに読む本を何冊か購入する、というパフォーマンスを見せるのだが、あれはどんな意図を狙っているのだろうかと、いつも訝しく思う。

今年の夏休み前は都内の大型書店で10冊の本を購入した、とニュースにあったが、その10冊のうち、何冊かは書名が公開されている。ある記事によると、

「『世界資源エネルギー入門』(平田竹男・著)、『地図でスッと頭に入る世界の資源と争奪戦』(村山秀太郎・監修)、『まるわかりChatGPT&生成AI』(野村総合研究所・編)、『アマテラスの暗号』(伊勢谷武・著)、さらに、村上春樹の長編小説『街とその不確かな壁』など」

と5冊の書名が公開されている。

ほかにもいろいろな記事を見てみたが、これ以上の情報は得られなかった。ある大新聞社の記事には、

首相周辺によると、村上春樹さんの新作長編小説「街とその不確かな壁」や、世界の資源エネルギーに関する解説書、生成AI(人工知能)の入門書などを買ったという」

とあり、村上春樹の新作の書名のほかは、なぜか書名がぼかしてある。

「入門」とか、「スッと頭に入る」とか、「まるわかり」とかいったフレーズが入ったタイトルの本を、書店に行ってこれ見よがしに購入する一国の首相の心理というのは、どういうものなのだろう。というか、首相がいまさら入門を読むのかよ!と心許なくていけない。

せっかくパフォーマンスとして購入する本なのだから、もう少し購入する本の内容とか書名を吟味する必要があったのではないだろうか、と思ったのだが、少し調べてみると、首相は今年の正月休みにも、本を15冊ほど購入していたらしい。

そのなかに『カラマーゾフの兄弟』全5巻があったそうなのだが、ある記事によると、首相は1巻で投げ出し、長男に『読んで内容を教えてくれ』と託した、とあった。

その反省があってなのか、今夏は自分が読めそうな本を選んだ、ということなのだろうか。よくわからない。

休暇前に首相が書店に行って本を購入する、というパフォーマンスが、いつ頃から始まったのか、よくわからない。僕の記憶では、前の前の首相がそんなパフォーマンスをやり、SNSで誇らしげに購入した本を公開していたと記憶する。そのとき僕はそれを見て、明らかに特定の支持者へのアピールだな、と感じたものである。

いまや政治家は知性や教養を誇るという時代ではなくなったということだろうか。幕末の倒幕派を気取る党名を持つ公党のマスコットキャラクターが、当時佐幕派を象徴していた組織の「だんだら羽織」を着ているというデザインなのは、もはや「何でもあり」の世界である。

1993年からその翌年まで首相を務めた細川護熙氏が、首相を務めた時期に書いていたという『内訟録』という日記が出版されていて、この本がめちゃくちゃ面白いのだが、そこには、イヤミなくらいに、惜しみなく自らの知識や教養を端々に披露している。そもそも、文体が文語体なのだ。

首相たるもの、これくらいの教養は身につけておかないといけないという見本のような日記だったのだが、あれから30年たったこの国は、それでも「進歩した」「発展した」と言えるのだろうか。

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踊らにゃ損

踊る阿呆と踊らない阿呆

5年ほど前に上の記事を書いて以来、このお祭りを興味深く見守っている。

毎年夏のこの時期に行われる日本有数の「踊るお祭り」。現在は各地で同名のお祭りが行われているのでややこしいが、僕が注目しているのは、本家本元の地で行われるお祭りである。残念なことに僕は、このお祭りを直接見に行ったことはない。僕が興味があるのは、このお祭りそのものではなく、このお祭りを取り巻くさまざまな人の考えについて、である。

そういう意味では、久しぶりに好事家としての僕の興味をひかずにはいられないニュースがあった。

毎年8月12日~15日にわたって行われるお祭りだそうで、例年100万人を超える観客が見に来るようだが、とくに今年の夏は、新型コロナウイルス感染症が2類から5類に引き下げられたことにより、久しぶりに通常通りの形式で行われるようになったという。

しかしここで新たな問題が浮上する。折しもこの時期に台風7号がその地に接近するという問題である。とくに14日、15日あたりは、台風の進路にあたるという予報が出されていた。

そこで市長は、そのお祭りを取り仕切る実行委員会に、14日のお祭りは中止してほしいという要請を出した。

市長の立場としては当然である。この日は暴風警報が出されていて、「高齢者等避難」の情報も流れていたからである。そんなときに、野外で踊っている場合ではない。

ここで僕は初めて知ったのだが、このお祭りを中止する権限は、市にはなく、お祭りを取り仕切る実行委員会の判断に委ねられているそうなのである。だから、市長はあくまで「要請」という形で、実行委員会におうかがいを立てたのである。

さて、実行委員会は、14日の午後1時に、お祭りを中止するか、予定どおり行うかの会議をはじめた。この会議には、28人の委員のうち17人が参加し、1時間ほど議論をした末、評決をとったところ、開催が9人、中止が7人という結果となり、多数決により予定どおりの開催を決めたという。

「暴風警報とはいっても、そんなに風も強くないし、雨も降ってないよねえ」

「そうねえ。これくらいだったら大丈夫じゃね?」

「せっかくこの日のために練習してきたのだから、これくらいの雨で中止にするには忍びない」

「そうだよねえ」

みたいな話し合いが行われたのだろうか。

ま、そんな見通しで強行開催されたお祭りだが、実際には予報どおりずぶ濡れになりながら踊っていたようで、踊っていた人の中には、「こんなときにふつうはやらないよね」と取材に答えている人がいたようである。観ている人も、傘をさしながら観ていたのだろうか?大雨の中を、ずぶ濡れになりながらどんな気持ちで観ていたのか、興味がある。

踊るほうの当事者たちは決して一枚岩ではなかった。取材に答えていた踊り手の一人も「ふつうはやらないよね」とこたえていたし、実行委員会のメンバーも開催派が9人、中止派が7人と、ほぼ拮抗していたのである。

さて、この14日の午後1時に行われた実行委員会については、いくつかの疑問がある。

新聞記事によると、実行委員は28人おり、そのうちの17人が会議に出席したという。残りの11人はなぜ欠席したのか?

開催の可否を決める重要な会議であるにもかかわらず、欠席者の数が多くないか?

もう一つ、会議に参加した17人のうち、開催派が9人、中止派が7人だったとあるが、票が1人分足りないぞ。残りの一人は、棄権したのか?白票を投じたのか?

「もう、開催していいか、中止にしていいか、わかんないよ~」

と自分でもどうしていいかわからなくなったのだろうか?

三谷幸喜脚本の傑作喜劇「12人の優しい日本人」の中で、陪審員ひとりひとりに、被告人が有罪か無罪かを述べさせるくだりで、陪審員の一人がパニックになるシーンがある。

「…む~ざいです」

「む~ざい?それは有罪なんですか?無罪なんですか?」

「ですからむ~ざいです」

「む~ざいなんて言葉ありませんよ!」

「だってわかんないんだもん、もう鼻血でそう!」

たしかこんなやりとりだったと思うが、出席した実行委員の一人も、そんな感じで、開催か中止かわからなくなり鼻血が出そうになったのだろうか。

そう考えると、開催か中止かを決める重要な会議に28名中11名も欠席した、というのも、判断がつかず最初から棄権したのではないかと勘ぐりたくもなる。

いずれにしても、委員28人のうち、明確に開催を主張した人がたった9人だったにもかかわらず、開催を決定したというのは、いかにも心許ない。

幸い、14日のお祭りは大事には至らなかったようだが、翌15日はさすがに中止を決めたという。この点については、実行委員会の賢明な判断に敬意を表したい。

僕としては、行政の要請に従わない一方で、伝統的なお祭りには殉じるという、この国のおそらく各地の伝統的なお祭りを支えているメンタリティーが今回も発揮されたことを微笑ましく思う。僕の仮説が証明されたという意味において、である。

その一方で、しかしそれは決して一枚岩ではないということが今回の票の割れ方で可視化されたことに、かすかな希望を感じるのである。

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差別の国

6月9日(金)

臆面もなく、差別を公然と肯定する風潮があたりまえになりつつなる。

僕がショックを受けたのは、「名古屋城エレベーター問題」である。

新たに復元するという木造の名古屋城には、バリアフリーの概念をなくし、エレベーターを付けないとする計画がある。理由は、「名古屋城が建てられた当時にはエレベーターがなかったから」だそうだ。

市民討論会に出席した車椅子の男性が、「障害者を排除しているとしか思えない」と訴えると、同じく市民討論会の参加者から、引用するのもおぞましい発言が出た。

平等とわがままを一緒にすんなって話なんですよ。エレベーターも電気もない時代に作られた物を再構築するっていう話なんですよ。その時になんでバリアフリーの話が出てくるのかっていうのが荒唐無稽で。どこまでずうずうしいのって話で、我慢せえよって話なんですよ、おまえが我慢せえよ」

さらに別の男性は、直接的な差別表現を交えて主張する。

「生まれながらにして不平等があって平等なんですよ。(差別用語)で生まれるかもしれないけど、健常者で生まれるかもしれない、それは平等なんですよ。どの税金でメンテナンス毎月するの?そのお金はもったいないと思うけどね」

なんともおぞましい発言である。

しかも驚くべきことに、その場に同席していた市長は、差別発言をした人物をたしなめることなく、あろうことか「熱いトークがあってよかった」と、市民討論会をまとめたのである。まともな神経ではない。

ここで差別されているのは、車椅子の人たちだけではない。たとえば、小さい子どものいる家族はどうだ?ベビーカーで子どもを連れている家族も我慢しろということか?

この僕はどうだ?

僕は、昨冬あたりから両足がすごく痛い。原因ははっきりしていて、そのための治療もおこなっているが、はたしてこの先、この痛みが和らぐのかどうか、まったくわからない。

足が痛くなってからというもの、椅子から立ち上がるときや、階段を上り下りするたびに、足に激痛が走るようになった。平地や坂道を歩く分には、それほど痛くないけれども、それでも歩くスピードは著しく遅くなった。

最近は、駅や公共施設などでは必ずエスカレーターやエレベーターを使う。階段しかない場合は、階段を使わざるをえないのだが、手すりにしがみつき、激痛に耐えながらでないと上ることができない。

僕は自分の足が痛くなってから、町中を歩く人たちの歩き方を観察するようになった。すると、つらそうに歩いている人、あるいは、歩くのがつらい人が、かなりいるのではないか、という仮説を抱くようになった。

市民討論会での差別発言は、目の前にいる車椅子の人だけに向けられたものではなく、エレベーターを利用せずにはいられない人すべてに向けられたものである。

僕は1年前、足がこんなに痛くなるとは思わなかった。それが1年に満たずして、階段を上り下りすることが苦痛になる健康状態になったのである。つまり、いつ、自分が差別される側の人間になるかは、わからないのである。

その差別発言した人が、僕と同じ病気になったら、その発言は撤回されるのだろうか?

それとも、こんどは自分に向けられたその差別を、甘んじて受け入れるのだろうか?

これとまったく同じような発言が、過去にもあった。あろうことか、この国の首相によって、である。

G20大阪サミットの夕食会でのこと、首相は各国の首脳の前で、大阪城は明治維新の混乱により焼失したが、その後、天守閣が復元された。しかしその復元時にエレベーターを設置したことは「大きなミス」だった、という「ジョーク」をとばした。「大阪城を当時の姿のまま忠実に復元したものではないことを『大きなミス』と言ったのだ」と、周囲の幇間たちは火消しに躍起になっていたが、外国の要人たちはどの程度この「ジョーク」を笑えたのだろう?今回の名古屋城のエレベーター問題は、市長がこの首相の発言を真に受けたのではないかと勘ぐりたくなる。

この数日で、差別を公然と容認する法案を成立させてしまうこの国の土俗的で野卑な風土を目の当たりにすると、取り返しのつかない国に成りはててしまったと絶望するばかりである。

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皆既月食

11月8日(火)

皆既月食の日だという。ニュースでは、「皆既食」という言い方をしていたところもあるが、「皆既月食」と「皆既食」の違いって何なの?いまは「皆既月食」とは言わずに「皆既食」ということに決まったのか???よくわからない。

ふだん、夜空なんぞ見上げたことはないのだが、たまたま保育園のお迎えの時間に、皆既月食が始まっていた。

肉眼で見ると、たしかに月の左下の方に大きな影ができていて、それが次第に広がっていくように見える。

自宅に戻り、マンションから皆既月食の様子をスマホで撮影することにした。

ミラーレスカメラみたいなものも持っているのだが、どうもうまく撮れない。僕の持っているスマホは、30倍まで拡大できるので、スマホのカメラ機能の方が、性能がよいようなのである。

ちょうど月が半分くらい欠けたところをスマホで撮影したら、思いのほかよく撮れたので、最近ほとんど放置しているSNSにアップしたら、珍しく「いいね」という反応をもらったり、コメントをもらったりした。

「スマホなの?めっちゃきれいに撮れてますね」

とか、

「すごい」

とか。

得意になった僕は、「「これより欠けてもうまく撮れないし、あまり欠けてないと月食だかなんだかわからないし、ということで、このくらい(注:月が半分くらい隠れている状態)の形がちょうどいいみたいです」などと、ほら、『徒然草』の兼好法師も「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」って言ってるでしょ、ってな感じで、ひどく調子こいたコメントを書いたりした。

しかし、実は僕は皆既月食に関する知識がまったくなかった。月が完全に地球の影になってからが本番なのである。僕はてっきり、月が地球の影にすっぽり隠れると何も見えなくなるのだと思い込んでいたが、そのときに月は神秘的な赤銅色を放つというのだ。

それなのに僕は、半分欠けたところを撮っただけで満足してしまい、その後は家の中に入り、赤銅色に見えるという月の皆既食を一切観察しなかった。メインはそっちだろう!と。

僕は、同じ『徒然草』の中にある「少しのことにも、先達はあらまほしきことなり」という仁和寺の法師の話を思い出した。

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欠席する理由

9月25日(日)

カナダのトルドー首相は、イベントを欠席するそうだ。

カナダ東部に上陸したハリケーンが大きな被害をもたらしており、対応が必要なためという。

たしかに、欠席する理由は、本当にそうなんだろうけれど、僕の邪推では、トルドーさんは、「よかった、これで欠席する理由が見つかった」と安堵したのかも知れない。

あくまでも、僕の邪推ですよ。

トルドーさんは、「出席しま~す」といち早く手をあげたはいいが、周りを見渡すと、G7主要7カ国の首脳のすべてが「欠席しま~す」と表明し、「え?手をあげたの、俺だけ?」ってなった。

で、いろいろ調べてみると、どうもそのイベントはスジが悪い。なにしろ国民のほとんどが反対している。しかも主催者側の醜聞が連日のように取り沙汰されている。

「しかし、外交だしなあ、行かなきゃダメかなあ…」とトルドーさん。

「そりゃあ行かなきゃダメですよ」どこにでも杓子定規な人間はいるものだ。「これは外交なんですから、ちゃんとマナーを守らなければなりません」

「でもさあ、こんなことで義理立ててどうするんだよ…」

困りはてたトルドーさん。そこに訪れたハリケーン。

被害を受けたことは間違いなく深刻だ。「これだ!」とトルドーさんは思った。これなら欠席する理由として、失礼にあたらない。

「ごめんなさい。ちょっとこっちの対応を最優先にしたいので、やっぱり行けません」

と相成ったのではないだろうか。

僕にも心当たりがある。

会合とか飲み会に誘われたとき、義理で行かなきゃ行けないかなあ、イヤだなあ、でも断る理由がないなあ、と思って、とりあえず参加を表明したら、たまたま家族が病気になった。

「すみません。家族が病気になったので、行けません」

これなら、たんに「行きたくない」という理由よりも、失礼にはあたらないだろう。事実だから、後ろめたくなることもない。

トルドーさんも同じで、ちょうどいい理由が見つかったのではないか、と僕は自分の体験に引きつけて想像したのである。

しかし、おかしい。

この国も一昨日から昨日にかけて、台風が猛威を振るってかなり被害が出た地域があったはずである。こっちのリーダーは、その対応を最優先にしないのだろうか?

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国葬雑感

9月20日(火)

抜き差しならない状況が続く。

午前中の定例の作業のあと、矢のようなメールに返信をする。

どれもが、反射神経的に応えればいいメールではなく、ちゃんと確認した上で返信をしなければならない。

「これでよろしいか、確認してください」

「具体的にどことどこを希望なのか、示してください」

みたいなヤツ。この「裏とり」に思いのほか時間がかかる。

あっという間に昼休みになったが、それでもメールの返信が続く。

午後の予定は、13時からオンラインによる定例の全体会議、17時から、僕が進行役のオンライン会議である。

13時からの会議は、ふだんだと、どんなに遅くとも16時には終わるのだが、今日に限って議題が多く、16時51分に終わった。

それから急いで、17時からの会議のZoomに接続する。

そうそうたるメンバーの中で、立場上、僕が進行をしなければならなかったので、プレッシャーがハンパではない。みんな一家言ある人ばかりなので、進行がまずくて怒られたらどうしようと、そればかりが気になって仕方がない。

1時間くらいで終わると思ったが、2時間近くかかって終了した。

その後もいくつか仕事をしたのだが、終わる気がせず、ヘトヘトになって帰宅した。考えてみれば、今週は平日が3日しかなく、3日間の間に、5日分の仕事をしなければならないので、忙しいはずである。

…いや、今日書きたいのは、そんなことではない。

昨日、英国のエリザベス女王の国葬の生中継をぼんやりと観ていた。なんかすげえ厳かで、参列している世界の要人もやんごとなき人たちばかりのように思えた。あのような荘厳な儀式に参加するのだから、それは当然のことなのだろう。

あんな厳粛で荘厳な儀式に、この国の首相は参加を検討したというのだから驚きである。「おまえみたいな凡人の来るところじゃねえ!」と言われるのがオチである。なにしろ格が違うのだ。

僕の記憶違いでなければよいが、エリザベス女王の国葬で、「友人代表の挨拶」とかって、なかったよね?そもそも、スピーチみたいなことは、だれもやらなかったんじゃないの?

冠婚葬祭でスピーチをする文化って、世界でどのくらいあるのだろう?

この国にいると、結婚式の披露宴で必ずスピーチがあるし、お葬式にも弔辞がある。

しかし以前、韓国の結婚式に参加したとき、日本の披露宴にあるようなスピーチは、一切なかった。

聞くところによると、こんどこの国で行う「国葬」では、「友人代表の挨拶」があるそうだ。しかしその「友人」が、ほんとうの「友人」なのかは疑わしい。ほんとうの友人は、もっとほかにもいるのではないだろうか。

あと、エリザベス女王の国葬を観ていて、ロンドンは緑が多いなあと感じた。都心の木を伐採して再開発に躍起になっているどこぞの国とは大違いであるように思うのだが、ロンドンに行ったことがないので、実際のところはよくわからない。

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ボートマッチ普及運動

選挙に行こう!キャンペーン実施中。

こぶぎさんの薦めで、マスコミ各社のボートマッチを試してみたが、これがすこぶる面白い。

25問ていどの質問に答えると、政党や、自分の住む選挙区の候補者との近さを、パーセンテージで教えてくれる。

前回の衆議院選挙だったか、ほら、「最高裁判所裁判官の国民審査」ってあるでしょう?いままではほとんど何も考えずに審査していたのだが、それぞれの裁判官が、いろいろな裁判でどのような判断を下していたか、というまとめサイトみたいなものを、マスコミ各社で示してくれたおかげで、自分の考えに近い裁判官と、そうでない裁判官が可視化された。つまり根拠をもって、○×をつけることができたのである。

これってけっこう大事なことで、たとえばアメリカの連邦最高裁判事は、いま共和党系が6名、民主党系が3名で、ここ最近の連邦最高裁は、じつに偏った判断をしている。町山智浩さんは、「いま、アメリカは南北戦争時代へ逆戻りしている」と警鐘を鳴らしているが、ここ最近は、時代に逆行する最高裁判断が横行しているのである。ま、この国の最高裁判断も同じようなものだけどね。

アメリカの最高裁判事は終身職なので、いちど判事になると、物故するか、自分で引退を決めない限りは、人が入れ替わることはない。

その点、この国には「国民審査」の制度がある。欲を言えば、「国民審査」にも、ボートマッチみたいなシステムがあれば、もっと簡便に○×を判断できるのだがなあ。

それはともかく。

ボートマッチは、各候補者との近さがパーセントで出てくるので、

「この候補者とは、80%くらいわかり合える」

とか、

「この候補者は、嫌いだけど、30%くらいはわかり合えるのかあ」

とか、

「この候補者は、なんとなく好きだけど、意外と50%しかわかり合えない」

といったことがわかるのである。

もちろん、人との近さはパーセントでははかれないことはわかっているのだけれども、どんなに嫌いな人間でも、2~3割くらいは、わかり合えるところがあるのだ、ということを教えてくれる。一般論として、人と人とがまったくわかり合えない、ということはないのだ。

ところが、である。

今回やってみて、一人だけ、0%という候補者がいた。

四半世紀以上前にテレビアイドルとして活躍していた候補者である!

言うに事欠いて、0%というのは酷すぎる。「まったくわかり合えない」ということではないか!!!

おそらく、わかり合えない、というより、話の通じない人なのかもしれない。

それにしても、いったいなぜ、0%などというあり得ない数字が出たのだろう?まさか、アンケートに無回答だったということはないよねえ。

で、僕は考えた。

これからは、ボートマッチを、候補者と有権者の義務としたら、候補者と有権者の双方の意識が変わり、投票率が上がるのではないだろうか?

マイナンバーカードの普及よりも、ボートマッチの普及を!

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贋作・アベノマスク論ザ・ファイナル

贋作・アベノマスク論

以前書いた「贋作・アベノマスク論」の意味が、森達也編著『定点観測・新型コロナウイルスと私たちの社会』(論創社)の中で、武田砂鉄氏が「アベノマスク論」を一貫して書いていることへのオマージュであることは、たぶん読者は誰も気づいていない。

このたび、この本の第4弾「2021年後半」編が出て、そこにも武田砂鉄氏が「アベノマスク論ザ・ファイナル」というタイトルで書いている。

アベノマスクというネタで、およそ2年、全4回にわたって書き続ける、というのは、ひとつの芸である。

この中で武田氏は、自分が大学卒業後に10年間勤務した出版社の思い出を書いている。

新入社員の研修で連れて行かれたのが、埼玉の奥のほうにある倉庫だった。倉庫には、書店から返品されてきた本がうずたかく積み上がっていた。研修の担当者は、「みなさんが編集した本が売れないとこんなになっちゃうんだからね」と笑いながら言った。

自分が実際に編集者になり、あの人たちの顔と声が頭によぎることになる。

「…必要以上の在庫はコストがかかるだけだから、最低限の本を残して断裁されてしまう。定期的に断裁リストが社内で配布される。シンプルに言えば、営業部が『こんな本はこれからも売れないのだから、これくらい残して、あとは全部処分しますからね』と通達してくる。逆らう言葉を探せずに、泣く泣くサインをする。これが市場メカニズムってやつだ」

このあと、「ほとんど誰も使わないものを送りつけ、倉庫に大量に残され、これを維持するために莫大なお金をかけ、それでいて、これは必要だったと言い張っているのだから、会社なら潰れるかもしれないし、社長なら辞任すべき事案なのかもしれない」と、アベノマスク批判が展開される。

僕が以前、自分の書いた本が上記とまったく同じ運命をたどったことを引き合いに出しアベノマスク批判をしたことと、論理展開は同じである。あたりまえである。倉庫に在庫を抱えて売れそうにない本は、コストがかかるので処分する。これは出版界の常識で、使わないアベノマスクを丁重に扱うことは常識の尺度では到底測れない。業界人ならば誰でも不条理に感ずるはずなのである。

もっとも、泣く泣くサインするのは編集者だけではない。著者自身も自分の本の処分に泣く泣くサインしている。いつぞやは、在庫のうち400冊を処分するという通知が来て、それでは自分の本があまりに不憫なので、自腹で100冊を買いとった。僕のように売れない本を書く人間もまた、自分の本の運命とアベノマスクの運命を比較してしまうのである。

それにしても、どうしてこうも、武田砂鉄氏と問題の視点が類似するのか。

思うに、「推し」っているでしょう。僕はとくに「推し」はいないのだが、なぜ「推し」にハマるのか、なぜ、その人が自分にとっての「推し」になるのか?それは、自分が思っていることを、あたかも「推し」が代弁してくれると感じているからではないだろうか。自分の内面を気づかせてくれる存在なのてある。クドいようだが、僕には「推し」がいないのだが。

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贋作・アベノマスク論

12月3日(金)

午前10時から午後5時過ぎまで、職場で途切れなく打合せが続く。その後も、メールの返事やら校正やらをしていたら、帰宅がすっかり遅くなってしまった。

TBSラジオ「アシタノカレッジ 金曜日」をアフタートークまで聴いた後に、誰にも読んでもらえないブログを書くことが、週の終わりのストレス解消法である。

それを自分でよしとしているのだが、その一方で、これだけ長々と書いても誰にも読まれないということに対して、凹まないといえば嘘になる。自分には文才がないのか、華がないのか、あるいはそのどちらともなのか。注目に値しない文章ばかり書いているのだろう。

「世の中でいちばんいい言葉は『重版』って言葉ですよね」

と、「アシタノカレッジ金曜日」のアフタートークの冒頭で、武田砂鉄氏がつぶやいた。

たしかにそうだ。重版。いい言葉だ。

最近僕は、二つの新書に関わった。関わった、といっても、原稿を書いたのはほんの少しだけで、そのうちの1冊(赤い表紙のほう)は、無記名である。どこからどこまでを僕が書いたのかは、読者にはわからない。もう1冊(黄色い表紙のほう)は、記名だが、頼まれてほんの数ページ書いただけである。

この二つの新書が、いずれも発売と同時に、重版がかかったのである。無記名で書いた方(赤い表紙のほう)は、発売前から話題になっていたので宜なるかなと思うのだが、もう1冊の方(黄色い表紙のほう)まで、発売直後に重版になるとは思わなかった。サブタイトルに「眠れなくなるほど面白い」みたいなフレーズが使われているので、おいおい、大きく出たな、と恥ずかしかったのだが、重版がかかったということは、タイトル負けしなかった、ということである。

しかも、僕が無記名で書いた方(赤い表紙のほう)の出版社の新書(赤い表紙の新書)の売れ行きランキングを調べてみたら、1位が僕が無記名で書いた本で、2位が町山智浩さんの書いた本なのだ。おいおい、町山さんに勝っちゃったよ!

ちなみに2冊とも、僕のところには原稿料や印税が入らないので、実のところ、「重版」と聞いても、さほど嬉しくはないのだ。

それに引き換え、である。

僕が単独で書いた本はすべて、重版になったことはない。このブログと同じく、まったく注目されないのだ。死んでから注目されるのだろうか、と一縷の望みをつないでいるのだが、そもそも生きている間に注目されなかった人間なのだから、死んでからも注目されることはないだろう。

いくつかの出版社から、お話はいただいているのだが、そんなわけで、単行本を書く意欲がすっかり削がれてしまっている。どうせ何を書いても売れないんだろう、と。

以前にも書いたかと思うが、あるとき、僕が書いた本の在庫が場所をとって倉庫代がかかるので400冊を廃棄処分します、という連絡があった。世の中でいちばんイヤな言葉は、「在庫本の廃棄処分」である。

僕がどうして、こんな愚痴を延々と書いているかというと、最近のニュースで、久しぶりに「アベノマスク」が脚光を浴びているからである。

ニュースによると、新型コロナウイルス対策で政府が調達した「アベノマスク」を含む8000万枚余の布マスクが使われずに大量に備蓄されている、ということで、厚生労働省が新聞などの取材に応じてマスクが保管されている倉庫を公開したところ、約5200平方メートルの区画内に、マスクの入った約10万箱の段ボールが、最高で約5メートルの高さに積み上げられていたという。そしてその経費は、6億円だというのだ。

これから先も使うあてのない布製の「アベノマスク」の在庫8000万枚が、6億円をかけて、倉庫で保管されるというのは、どう考えても納得できない。

だってそうでしょう?こちとら、苦労して書いた本の在庫を倉庫に保管すると経費がかかるので、400冊を処分しますと言われているんだぜ。6億円かけて保管する8000万枚の「使えないマスク」と、たった400冊すら倉庫に置いておくのが無駄だとして処分された俺の本。どちらが価値があるのか?ってハナシですよ。

僕はすっかり、文章を書く自信をなくしてしまった。どうやったらいい文章が書けるのだろう。

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