心と体

Yahoo!ニュースの威力

2月18日(木)

定期の診察のため、自宅から車で1時間半以上かかる病院に行く。地域の拠点的な総合病院であることもあり、相変わらずたくさんの患者で待合室があふれかえり、血液検査と尿検査を早めに済ませたのにもかかわらず、診察にはそうとう待たされた。

「尿酸値が高くなってますね。食事とかお酒とかで何かありましたか?」

「いえ、ちょっとかかりつけの病院に行って薬をもらうタイミングを逸してしまって、ここ数日薬を飲んでいないのです」

身体というのは本当に正直である。お酒をやめたといっても、油断をするとすぐに尿酸値が上がる。やはり薬を飲み続けなければならないことを痛感した。

ところでこの先生、僕よりも若いのだが、いつもぶっきらぼうというか、無愛想である。僕の顔を見ずに、パソコンの画面ばかりを見ている。だが僕の命を救ってくれた先生だし、その腕は信頼しているので、僕はとくにそれを不快に思ったことはない。その先生が、おもむろにこんなことを言った。

「鬼瓦さん、先日、Yahoo!ニュースに出ていましたよね

僕は突然のことでビックリした。僕は先生に、自分の職業について話したことは一度もないのだ。

「はぁ、まぁ…」

「拝見しましたよ」

「そうでしたか」

地味なニュースだったにもかかわらず、Yahoo!ニュースの影響力の、なんと大きなことか。それと同時に、この(まるで他人に関心がないようにみえるぶっきらぼうな)先生、意外に患者のことを覚えているんだな、毎日ひっきりなしにいろいろな患者を診察しているのに、ということにも驚いた。

「じゃ、次の検査の日程を決めましょうか」

と、いつものぶっきらぼうな先生に戻った。人間はそう簡単に、心を開くわけではない。

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脱・筋トレ思考

2月12日(金)

まあよくも毎日毎日、職場では重い事案から些細なことまで、いろいろなことが起こるものだ。職場にいる時間のほとんどは、こうしたことに翻弄されている。

あれこれ気の重い職場の打合せが終わるのが夕方のかなり遅い時間。それが終わって、いくつもある締切厳守の仕事に取りかかりたいのだが、結局少ししかできずに、職場を出て、車で2時間以上かけて帰ることにする。

金曜夜の楽しみは、TBSラジオ「アシタノカレッジ」を聴くことである。日付をまたぐあたりの時間に、パーソナリティーの武田砂鉄さんと澤田大樹記者のトークを聴くと、ああ、とりあえず週末は職場に行かなくていいんだな、と、ホッとした気持ちになる。

今日のゲストの、平尾剛さんのお話もとてもよかった。僕はまったくスポーツに疎いので知らなかったのだが、平尾剛さんは、元ラグビーの日本代表で、いまはどこかの大学でスポーツ教育学を教えている研究者なのだそうだ。東京五輪の開催にはっきりと反対の意志表示をされているのが頼もしい。

『脱・筋トレ思考』という本を出されていると知り、僕はそのお話に拍手喝采した。

筋トレを○○回やることで、筋力がつくこと、またはそう考えることは、スポーツにとって必ずしもよいことではない。むしろ諸悪の根源なのだと。

「筋トレをすればなんとかなるという思考は、物事の複雑さを見ずに、簡単に解決しようと考えることに等しい」

「数値目標を立てて、それに合わせて筋トレをして、その結果筋肉がついたからといって、それがいったい何だというのだ。大事なことは、そのスポーツに対してどのようにとりくむかということだ」

という意味のことを語っていて、その通りだよなあと思った。僕なりに言い換えればそれは「思考停止」ということである。

平尾さんもいっていたが、これはスポーツに限ったことではない。この「筋トレ思考」は、この国の社会のあらゆるところにはびこっている。

数値目標を掲げ、その数値目標に達しなければ評価が下がる、という考え方は、いまやこの国の社会ではあたりまえになっている。中身なんてどうだっていいのだ。中身のことを議論しようとすると、そんなことを言ったってダメだよ、数値目標を達成しなければ、何を言ったってダメなんだ、と言われてしまう。筋トレをして筋肉を付けることが大事で、そこに邁進することが自己目的化する。

「脳みそが筋肉」という揶揄の仕方があるが、つまりそれは「筋トレ思考」ということなのではないだろうか。この国の社会は、「一億総筋トレ社会」なのだ!

…う~む。自分が運動嫌いだということを正当化するためにこの理論を絶賛しているような気がしてきたなあ。実際そうなのだが。そういうことは少しでも運動してから言えよ!というハナシである。

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ドキドキ人間ドック

2月5日(金)

TBSラジオリスナーは、澤田大樹記者の話題で持ちきりである。昨日今日あたりは、「澤田大樹記者祭り」といってもよい。

僕は驚いたのだが、TBSラジオの専任の記者というのは、澤田大樹さんと崎山敏也さんの二人だけなのだそうだ。すごくないっすか?(って、誰に向かっていってるんだ?)この二人は、TBSラジオの宝である!

武田砂鉄氏が、以前に澤田大樹記者を「文化系ファイター」と評していたが、昨日の会見での質問はそれを見事に体現したものだった。

そのことについて書きたいのだが、忙しくて書く暇がない。

今日は人生で2度目の人間ドックだったので、その話を書く。

前回の人間ドックの病院が、なかなかよかったので、今回もそこを希望していたのだが、空きがないとのことで、第2希望の病院で受けることになった。前回の病院とくらべると、かなりこぢんまりした病院である。朝9時にその病院の前についたときは、若干の不安を感じた。

そもそも事前に送られてきた書類やキットにも不安が。

事前に採便を2回行うというのはいつものとおりなのだが、そのほかに、ギョウ虫検査みたいなキットと、喀痰検査のキットが送られてきて、これらは初めてである。

とくに喀痰検査というのが面倒くさい。何らかの液体の薬品が入ったビニールの中に、朝、起き抜けに痰を採取するのである。それも3日間分である。

撲は痰を吐くという習慣がないので、どうやって出したらよいのかわからない。とりあえず説明書がついているので、その通りにやってみたのだが、洗面台で、

「オエーッ!」

と嘔吐(えず)きながら、なんとか痰らしきものをその薬品の入ったビニールに吐き出す。

それを大事に保管して、また翌日、

「オエーッ!」

と、朝一番に同じことをするのである。

ま、誰でもやっていることなのだろうが、僕にとってはこれが憂鬱で仕方がない。

そんなこんなで、なんとか事前の採便2回、採痰2回(本当は3回やらなければならないのだが…)を終え、当日を迎えたのである。

前回の病院は、人間ドック専用の建物があったのだが、今回の病院は、2階のワンフロアーしかないので、外来の患者さんと同じところで、人間ドックを受けなければならない。かなり混雑していた。

それでも、一つ一つ決められた検査をして、次の検査を待っていると、

「鬼瓦さ~ん、次は採尿で~す」

と看護師さんが言った。「しまった!」と思った。採尿があることを忘れていたのである!

前回の病院は、あらかじめ自宅で「その日の一番尿」を採取して持って行けばよかったのだが、この病院では、その場で採尿しなければならないのだ。そのことをすっかり忘れていた!すでに自宅を出る直前に、済ませてきてしまったのだ!

しかも、である。

「当日は朝から何も飲まず食わずで来てください」と言われているので、水分をまったく取っていないのだ。

(こまったなあ)

紙コップを渡されたのだが、尿意がうんともすんとも言わない。

とりあえずトイレに入ってみるのだが、まったく尿意がわかないのだ。

(このままトイレに籠城していたら、倒れてるんじゃないかと心配して看護師さんが駆けつけるんじゃないだろうか?)

というくらい長い時間、トイレにこもっていたのだが、もはやあきらめて、

「すみません。家を出る直前に済ませてきてしまったので…」

と、紙コップを看護師さんに返した。

健康診断とか人間ドックとかで、一番恐れているのは、いつもこれなのである。つまり、その場で採尿してくださいと言われ、ちゃんとそれに応えられるか、という不安に、いつもつきまとわれているのである。

「じゃあ先に、別の検査をしましょう」と、看護師さんは半笑いで紙コップを受け取った。

次の検査を待っている間、気になって周囲を見ていると、紙コップは手にしたが、なかなか尿意がもよおさないという人が、一定の割合でいると言うことがわかってきた。

僕の隣に座っていて、外来診療でやって来たおばあさんは、お茶をがぶがぶ飲み、立ったり座ったり、横っ腹をトントン叩いたりしながら尿意を催すのを待っているのだが、いっこうにその気配がないようだった。たまりかねたそのおばあさんは、

「おかしいわねえ。いつもならミルクのみ人形みたいに、お茶を飲んだらすぐ出るんだけど、今日はまったく出る気配がない」

と、看護師さんに訴えていた。看護師さんは笑いながら、

「慌てなくていいですよ。別の日にしてもいいですから」

というのだが、そのおばあさんは、

「もう少しがんばってみます」

と言って、今度は瞑想するように、尿意を引き出そうとしていた。

そのあと僕は、次の検査があったので、そのおばあさんが無事に採尿できたのかどうか、最後まで確認することはできなかった。

さて、その「次の検査」というのは、内視鏡検査である。いわゆる胃カメラだ。

前回の病院では、全身麻酔みたいなことをやってもらって、意識がない間に内視鏡を口から入れてもらったので、ほとんど何も苦しまずに終わったのだが、今回は違った。

ゼリー状の麻酔を喉の奥のところに定着させるだけの簡易なやり方で(どうもこのやり方がふつうらしいのだが)、内視鏡の管を喉に通すときの痛みだけは抑えられるのだが、管が実際に、食道から胃へ、さらに十二指腸に入っていく感覚は、気持ち悪いくらいにわかる。

「オエーッ」

と嘔吐(えずき)きそうになるのをこらえ、なんとか終了した。

昨年の時とは大違いで、「もう2度と胃カメラなんか飲むものか!」と誓ったのであった。

一通り検査が終わると最後に看護師さんが、

「採尿ですよ~」

とニコニコしながら紙コップを持ってきた。

「大丈夫ですか~?」

「がんばってみます」

トイレに入り、なんとか精神を集中して、時間はかかったが採尿に成功した。

「終わりました」

「よかったですね」

検査着から私服に着替えて、病院を出たころには、喉の麻酔もすっかり切れていた。

人間ドック(健康診断)の際に現場で採尿する場合には、自宅を出る直前に済ませてはいけない、という教訓を噛みしめながら、僕は「富士そば」のかけそばをすすった。

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体調不良で休んだ日の午後

1月18日(月)

本当は、出張のため新幹線で北へ向かう予定だったのだが、緊急事態宣言が発出されたので、出張は取りやめになった。

その代わりに、職場で作業がある日だったのだが、今日は体調不良を理由に、その作業も休ませてもらうことにした。

実際、体調がすこぶる悪い。週末も、娘とお散歩に出かけた以外は、ほぼ寝て過ごした。

というか、ここ5年くらい、「今日は快調!」と思える日なんて訪れていない。

先週の「アシタノカレッジ 金曜日」は、ゲストが作家の三浦しをんさんだったのだが、

「(物書きの)プロに必要なことは、締切を守ることと、体調管理につとめること、でも私はどちらもできていない」

と言っていて、自分もまったくそのとおりだなあと思ったのだった。

以下、パーソナリティーの武田砂鉄さんと、三浦しをんさんのやりとり。

武田「依頼を何でも引き受けるのはよくない、とも書いておられますね。僕なんかわりと、どんな依頼でも、はいはいって受けちゃうんですけど、あんまり受けすぎない方がいいですか?」

三浦「お体を大切になさってください」

武田「これを断ると別の人がやると考えてしまうと、自分がやってしまいたいという欲があるんですけど、あまりよろしくないですよね…」

三浦「うん、そうですね。私もそういうふうに思ってました。でもそれをすると、身体を壊しますね」

武田「そうですよね…」

三浦「いつか身体を壊すんで、ほんと気をつけてください」

何気ない会話だが、どちらの考え方にも、激しく同意する。若い頃は砂鉄さんの考え方だったが、いまは三浦さんの考え方に近い。それでもやっぱりホイホイと依頼を受けてしまう自分がいる。

いろいろな依頼をホイホイ受けているうちに、僕のようなキャパシティーの少ない人間は、たちまちに身体を壊してしまうのである。

今年度になって、例年以上に不要不急なイベントや会合には(もちろんオンラインも含めて)顔を出さないことにしているのだが(なぜなら疲れてしまうから)、もともと、どうしてもはずせないオンラインの会議や会合が多すぎて、それだけで疲れてしまうのだ。ましてや息抜きにオンライン飲み会をしましょう、というのは、本末転倒もいいところである。

昨日の午後、たまたま「ザ・ノンフィクション」という番組を見ていたら、「シフォンケーキを売るふたり ~リヤカーを引く夫と妻の10年~」というタイトルの放送をやっていた。

IT企業に勤める夫が、会社の人間関係に悩んだあげく、うつ病になり、会社を辞めた。夫はあるきっかけから、シフォンケーキを売って生きていこう、と決意し、夫婦でシフォンケーキ屋を始める。しかし、いつまた鬱が発症するかわからない。なるべく人と会わないように、リヤカーを引いて、神出鬼没にシフォンケーキを売り歩くことを思いつく。

インタビューを受けている、その夫を見ている限りでは、ごくふつうの人に見えるし、とくにうつ病であるとは感じないのだが、不特定多数の人に会うということに、過度なストレスを感じてしまうらしい。

ある日その夫は、お店のある青梅から、池袋の販売イベント会場までリヤカーを引いていくということを決意するのだが、たくさんの人がいる都会に向かうことへのプレッシャーに押しつぶされそうになり、何度もトイレに駆け込むのである。それでも、最終的にその目的を達成した。

うつ病という病を抱えながら、僕などよりも、はるかに力強く生きている。

僕はとりあえず、組織の中で、なんとか耐えながら仕事をしているが、周りからはふつうに見えても、僕の心は病んでいないのだろうか?僕は自分自身が、わからなくなってしまった。

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ストレスチェック

まあこれは、「あるある」なのかもしれないが。

職場で年に1度行われる「ストレスチェック」。これ自体がストレスである。

忙しいので無視していたら、リマインドのメールが来て、「まだの方は○月○日までに必ず済ませてください」という、これまたストレスがたまるプレッシャーを仕掛けてくる。

くっそ忙しいのに、パソコンに向かって、該当のホームページにログインしなければならない。まずこれがストレスである。「団体ID」とパスワードを入力した後、今度は個人のIDとパスワードを入力しなければならないのだ。一手間ならぬ、四手間もかかるのだ。

で、ようやくチェック項目に応えようと思ったら、全部で57問もある。57問ですよ!

一つ一つに対して、「非常に」「多少」「まあまあ」「まったく」みたいな4択があって、この微妙な選択肢から、自分に合うものをいちいち選ばなければならないこともまた、ストレスである。

こちとら最近、仕事が多すぎて肉体的にも精神的にも疲労困憊しているから、考えるのが面倒になって、選択肢の中でどうしても極端なものを選んでしまう。

「上司や同僚に気軽に相談できますか」という質問に対して「まったくない」と答えるとか。

「非常に憂鬱である」「ひどく疲れている」「何もやる気が起きない」とか、どんどん答えていったら、診断結果が、

「ストレスが高くて、産業医に診てもらうレベル」「軽い鬱症状」

と出た。そりゃあそうだ。かなり極端に答えたんだもの。

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食べることと出すこと

先日のTBSラジオ「荻上チキSession22」の「Main Session」のコーナーで、2回にわたって取り上げられた「特集「話題の新刊『食べることと出すこと』当たり前のことが出来なくなって気付いたこととは?~潰瘍性大腸炎闘病記」の内容が、むちゃくちゃおもしろかった。番組の公式ホームページやラジオクラウドで、音声配信を聴くことができる。

以下、Session22の公式サイトから引用。

「今回のテーマは「潰瘍性大腸炎」。辞任した安倍前総理大臣も患っている病気として、注目を集めました。潰瘍性大腸炎は、大腸の粘膜が炎症を起こして、潰瘍ができる難病指定されている病気。しかしながら、その症状には、同じ患者同士でも分かり合えないことがあるくらいの差があるといいます。そうした中で、難病として指定されている潰瘍性大腸炎の一例だけを知ることで偏見が広がることも懸念されています。そこで、潰瘍性大腸炎とはどのような病気なのか?潰瘍性大腸炎との闘病生活を描いた新刊『食べることと出すこと』の著者である頭木弘樹さんに「食べる」、そして「出す」という、当たり前のことが出来なくなってしまうという病気とどう付き合ってきたのか、そこから気付いたことなどを伺いたいと思います。」

教養と思索に裏打ちされた頭木弘樹さんの闘病体験談は、じつに興味深いものだった。

この放送を聞く前は、「潰瘍性大腸炎」は自分とは無縁の病気だから、その闘病生活の話を聞いても、自分とは関係がないだろうと思っていたのだが、さにあらず。少なくとも僕には、そのお話に共感することばかりだった。

たとえばこんな話。

20代のころに潰瘍性大腸炎を発症した頭木さんは、症状が深刻になり、入院して1か月の絶食を強いられることになる。1か月の間、水1滴も口に入れることができない状況が続いた。

絶食期間が終わり、最初にヨーグルトを口にしたとき、「舌の上で大爆発が起きたような感覚になった」という。1か月の絶食で、舌は「味」を欲していたのだろう。1か月ぶりに食べ物を口にしたことで、「美味しい」を越えた「味の爆発」を感じたというのである。

そして次はいよいよ「おかゆ」である。

最初のヨーグルトであれだけの衝撃を受けたのだから、おかゆを食べたらさぞかし感激するだろうと思って食べてみたら、これがすこぶる不味い。それからというもの、しばらくは何を食べても不味く感じるのである。

なぜ、そう感じたのか?これが健康なときだったらそうは感じなかったのだろうが、絶食という体験を経て舌があまりに敏感になり、いままで感じなかった味の「負の部分」が強調されてしまったのではないだろうか。

潰瘍性大腸炎の患者にとってつらいことの一つは「食べること」である(もちろん、個人差がある)。食べることが苦痛になってしまったり、食べることに制限を強いられてしまったりした場合、どのようなことが起こるか?

まず、会食ができなくなる。「今度食事でもどうですか?」と誘われても、それが苦痛なので、断らざるを得ない。

するとどうなるかというと、そこで人間関係が遮断されることになったりする場合がある。

「共食」とは人間関係構築の手段でもあるわけである。それができないとなると、自分は人間関係から排除されてしまうことになるのだ。しかし無理に共食すると、今度は自分が苦痛を感じてしまう。「食事を伴わない人間関係の構築」が、できないものだろうか?

実は僕も同じような体験がある。

3年前に大病を患ったとき、薬の副作用で、食事の何もかもが不味く感じるという期間が3~4か月以上続いた。これは本当につらかった。試しに自分がいちばん好きなものを食べてみるのだが、それもまた不味い。

病気がだいぶ落ち着いたころ、親しい友人から、「元気を出してもらうために、うなぎをごちそうしてやる」というありがたい誘いをもらった。ただ、僕はまだそのとき、自分の味覚を完全に取り戻したわけではなかったと記憶する。

日程が決まり、友人はお店も予約してくれた。「○月×日の□時に、都内の△△まで来てくれ」と連絡が来た。

しかし、その日が近づくにつれて、体調がすぐれなくなっていく。実はそのとき、僕はもう一つ、薬の副作用を抱えていた。身体の皮膚の各所が炎症を起こし、とくに足の裏の炎症がひどくて、歩くと激痛がはしるようになったのだ。

とてもではないが、指定された都内のお店に行くことができない。それに加えて、味覚にも自信がない。

結局僕は、直前になって、その「うなぎの誘い」をお断りすることにした。

相手からしたら、なんだよ、せっかくうなぎのうまい店を予約してやったのに、と思ったに違いない。僕自身も、断ってしまったことにしばらくは後ろめたさを感じていた。

その後、別の友人から食事の誘いを受けたときも、やはり直前になって、お断りの連絡をしたことがあった。

なぜ、食事の誘いを断ることに後ろめたさを感じてしまうのだろう、と僕はずっと悩んでいたのだが、この社会では、一緒に食事をするということが人間関係の構築と深く関わっているからであるとする頭木さんのお話を聴いて、溜飲が下がった思いがしたのである。

いまは薬の量が減ったこともあり、味覚に問題はなくなったのだが、それでもまだ、会食への抵抗は強い。でもいまは、以前ほどには断ることに対して後ろめたさを感じることはなくなった。

コロナ禍になって、会食なしのコミュニケーションが増えてきたことは喜ばしい、このまま、食事を挟まないコミュニケーションの形態が続いてくれるとよいと思っている、という頭木さんの指摘には、大きくうなずいてしまった。

多くの人が「あたりまえ」と思っていることが、ある人にとっては苦痛で仕方がない、というのは、なにも潰瘍性大腸炎の患者さんだけではない。ほかのいろいろな病気にも通じることである。いや、病気でなくとも、そのように感じる場面はあるはずだ。

そこに対する想像力があるだけで、世の中はずいぶんと変わるのではないかと思うのだが、どうだろう。

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まったくやる気が出ない

この2週間ほど、まったくやる気が出ない。

やらなければいけない仕事は山ほどあるのに、それがまったく手につかない。

というか、コロナ禍による自粛生活が始まって以降、まったくやる気が起きないのである。それに加えてこの夏は、尋常じゃない暑さである。みんなよく仕事をやっているなあ。

困ったなあ、と思い、「まったくやる気が出ない」というワードで検索したら、一番上に来た記事のなかに、その原因の一つとしてこんなことが書かれていた。

「決断することが多過ぎると脳が疲弊する」

なるほど、いまの俺はこれだな。

今年度から、職場に行けば、決断をしなければならないことがあまりにも多くなった。今日だって、午後だけで打ち合わせが3つもあり、いずれも決断をしなければならない局面に追い込まれた。

しかし決断というのは、うまくいかない場合が多く、取り繕ったり謝罪をしたり、なんてことがじつに多い。

こんなことが多いので、決めたことが今後また失敗に終わるのではないかと思うと、そのことばかりが気になって、決断をすること自体が面倒になってしまい、どうしても先送りしたくなってしまう。

さて、この記事を読み進めてみると、

「大きな決断をいくつもしなければならない状況にいると、やる気が急速に失せていきます。米紙ニューヨークタイムズの記事で、John Tiernyさんはその問題について以下のように言っています。

いつもは普通の人が、同僚や家族に急に怒ったり、洋服に散財したり、ジャンクフードを買って食べたり、ディーラーの勧めるままに新車に錆び止めをしたりするのは、決断疲れのせいです。どんなに正気を保とうとがんばっても、決断を変えることはできません。肉体的に疲れているのとは違い、自分が疲れているということに気付かないうちに、精神的なエネルギーが低下しているのです。1日中、選択をすればするほど、脳はどんどん選択することが難しくなり、結局楽な道を探そうとするのです。

これは何も仕事の大きな決断に限ったことではありません。小さな決断をたくさんしなければならない時も、ゆっくりと徐々に同じように疲れていきます。大きさに関係なく、日々自分がしなければならない決断の数を管理できない場合は、繰り返し快楽や衝動に走ることになるでしょう。」

とある。ますますいまの僕にぴったりの症状である。やる気が出ない原因は、決断することが多すぎて、脳が疲弊していたのである。決断疲れで、つい楽な道を探そうとしてしまうのだ。

では、やる気を取り戻すにはどうしたらいいのか?この文章の下に、

「やる気を取り戻す方法」

という項目があった。これだよこれ!さっそく読み進めてみよう。

「やる気を回復させるには、「やる気をなくす原因を断ち切ること」と「やる気を取り戻す最初の一歩」を組み合わせます。社会的に拒絶された場合は、落ち込んで何もしたくなくなりますが、問題と向き合わなければなりません。おそらく、相手が拒絶したくなるようなことを何かやっているのでしょう。もしくは、嫌な人たちと付き合っているだけかもしれません。あなたを拒絶した人と話して、原因を突き止めましょう。自分に原因があるならそれを正す方法を探し、相手に原因があるなら何とか対処してみましょう。問題が解決できなかった場合は、常に社会的に拒絶されているのは健康に良くないので、環境を変えることも考えた方がいいかもしれません。

やる気が出ない理由が、自分の身体的な欲求を満たしていないだけなら、問題を解決するのは簡単です。前述の通り、毎日自分の記録を付ければ、簡単に原因を突き止めることができます。身体的な欲求を満たしていないせいだと分かったら、最初にそれを解決すればいいだけです。

決断ばかりしているせいだとしたら、すべての選択を管理するのは難しいです。この問題を解決するには、タスクではなく決断リストを作りましょう。そうすれば、いつどんな決断に迫られる必要があるか、わかるようになります。その決断をいくつか分けて、1日にたくさんの決断をしなくてもいいようにしましょう。思いがけない決断に迫られたら、できるだけそれを避けます。スーパーやコンビニで何を買おうか考える、というような小さなことでも、決断のうちに入っていることをお忘れなく。

結局、自分が本当にやりたいことが何なのかを見つけることです。部屋をきれいに片付けたいのかもしれないし、ゲームを作るというようなもっとワクワクすることかもしれません。自分の時間を5分作り、どんなことでもいいので、自分がやりたいことをほんの少しでも実現しましょう。次の日には、さらにもう少しだけ前に進めましょう。毎回ほんの少しずつでも何かを実行していけば、おのずと道がひらけます。どんなに小さなことでも、毎日少しずつ実現し始めると、前進させるのがどんどん楽になります。つまり、少しでも始めることが大事なのです。

この方法が、少しでもお役に立てることを願います。やる気をなくしていた原因に勝てれば、すぐにやる気は戻ってきます。

なるほど、じつに明快な答えである。

ただ、「決断リストを作る」こと自体が、憂鬱な行為だなあ。

「自分の時間を5分作り、自分のやりたいことをほんの少しでも実現しましょう」というのは、よくわかる。僕にとってそれは、このブログを書くことである。

ただ、こういう無駄な文章を書くことが、やる気を出すことにつながっているのかどうかは、いまだにわからない。

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俺の中の新規感染者数

7月2日(木)

本日、都内では、新型コロナウィルスの新規感染者数が100名を超えた。5月2日以来、2か月ぶりの100名超えである。

そんなことよりも僕が気になっているのは、「俺の中の新規感染者数」である。

「やはり一進一退、といった感じですね。…ざっとみたところ、一桁くらいですかね」

「やっぱりありましたか」自分でも自覚していたので、覚悟はしていた。

「前回もそうでしたが、当日になってもう一回調べてみると増えている可能性もあります」

「前回は二桁でしたね。そうすると今回も二桁くらいいくでしょうか」

「そうかもしれません」

「俺の中の第二波」は、かなりしつこい。どうやら根絶することはなかなか難しいようだ。とすれば「ウィズコロナ」よろしく、共存していくしかないのだろう。

闘うのではなく、共存していくのである。

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眠れない日々

なかなか眠れない日々が続く。

ようやく眠りについたと思ったら、今度は夢を見る。どちらかというと、あまり愉快ではない夢である。悪夢というべきか。

起きてしばらくすると忘れてしまうのだが、悪い夢だったという記憶だけは残っている。

最近、ラジオ番組をいろいろ聴いていると、パーソナリティーがフリートークで自分が見た夢の話をする、というパターンがよくあるような気がする。気のせいだろうか。外出自粛でとくに喋る話題がないからかもしれないが、そうではなく、行動がかなり制約されているなかで、僕と同じように心が不安定になったりストレスがたまったりして、実際に夢を見る頻度がふだんよりも多いことを意味しているとは考えられないだろうか。専門家でないので、よくわからない。

僕以外の人たちはどうなんだろう。こんな状況の中でも、夢を見ずにぐっすりと眠れているのだろうか。

コロナ禍が起きる前によく見ていた夢は、「前の職場に、僕の仕事部屋がまだ残っている」という夢だった。

もちろんいまは、職場が変わったので、前の職場に自分の仕事部屋が残っているはずはない。それどころか、実際には職場が変わって以降、前の職場を訪ねることは何度かあったものの、自分の仕事部屋があったフロアーには近づきもしなかった。

しかし夢の中ではなぜか、まだ僕の仕事部屋があけ渡されておらず、僕は時々、その仕事部屋を訪れては、早くあけ渡さなくてはと、少しずつ荷物を整理するのである。その間、誰かと会うというわけでもない。

僕は車で、前の職場があった町を走ったり、ときには「前の前の職場」があった町まで運転したりするのだが、それらの町は、僕が知っている町の姿とは微妙に、というかかなり異なっている。だが夢の中では、その町が、自分がかつて住んでいた町だとはっきりと認識しているのだ。

…なんか書いていて頭がグラングランしてきた。夢の話はナンダカヨクワカラナイ。

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親知らずを抜きました

、、3月21日(土)

この1年近く、近所の歯科医院にずっと通っている。

以前に歯科医院に行ったのが、まだ「前の職場」にいた時代で、2013年なので、実に7年ぶりである。

詰め物が取れたことがきっかけで通うことにしたのだが、この際、歯を全部治療してもらおうということになった。

心配なのは、歯科医院での待ち時間である。

7年前に通っていた歯科医院では、予約をしても何時間も待たされ、挙げ句の果てに歯科医の床屋談義を延々と聞かされるという、最悪の体験をしたのだった。

これが、歯医者に対する僕のイメージを、完全に決定づけてしまった。つまり「最悪」というイメージである。歯医者ってのは、どこもそんな感じなんだろうか?

だが、いま通っている歯科医院は決してそんなことはなかった。僕の歯医者に対するイメージは、がらっと変わったのである。

以前通っていたところは個人医院で、歯医者さんが1人だけだったが、いま通っているところは、医者の先生が何人もいる。1人の先生にずっと診てもらうのが理想なのだろうが、シフトの関係で、なかなか同じ先生にあたるということはない。なので、治療日によって先生が替わるなんてことがざらである。向こうは名前を名乗らないし、しかも全員マスクもしているので、なんという先生に診察してもらっているのかが、わからない。

予約した時間は、きっちり守られる。なぜなら、1人あたりの診療時間が、30分と決められているからである。つまり、30分でできる診療がおこなわれるのであり、それを越える場合は、次回の診察にまわされる。まるで「流れ作業」だ。

こうして、ちょっとずつちょっとずつ診察しているので、僕の場合も、すでに1年近く通っていることになるのだ。

これって、ずいぶん儲かるよねえ。1人あたりの診察時間を30分と決めて、何度も通わせるのだから。もっとも僕の場合、たんに治療箇所が多いからだけかも知れない。

それと、ビックリしたのは、全然痛くないのである。

むかしは、歯医者の麻酔があまりにも痛くて、それがトラウマになっていたりしたのだが、いまは、本番の麻酔注射が痛くないように、その前に表面麻酔というのをしている。麻酔注射のための麻酔なのだろう。

僕は以前に通っていた歯医者と、まるで異なるシステムになっていることに、とても驚いた。というか、これがふつうなのか?よくわからない。

さて、僕の歯の治療もいよいよ大詰めである(歯医者だけに)。親知らずを抜くという初体験の大イベントである!

いままで親知らずをほうっておいたのだが、前回の治療のとき、「親知らずを抜いた方がいいですねえ」と言われ、覚悟を決めたのだった。

親知らずを抜いたことがないのでわからないのだが、なんとなくいままでいろんな人の話を聞いたところでは、とても痛い、という噂である。これは困った。僕は痛いのが苦手である。前日の晩から、そのことが気になってよく寝られなかった。

(どんなに歯の治療が進歩しても、親知らずを抜くことだけは痛みが変わらないのではないだろうか…)

と、重い足取りで歯科医院に向かった。

午前10時。診察予定の時間だが、名前が呼ばれない。10分たっても15分たっても呼ばれない。

(おかしいな。いつもはこんなことはないのに)

そのことがよけいに、僕を不安にさせた。

10時17分に名前が呼ばれ、診療台に向かう。

(今日は時間がかかるのだろうか。親知らずを抜くという大事業だから、1時間以上はかかるのかな…)

と不安に思いながら、診療台に座る。

担当の先生は、いままでに診てもらったことのない、初対面の先生である。

(おいおい、今日に限って、初対面の先生かよ!)

このことがさらに僕を不安にさせた。

「これから親知らずを抜きます」

「よろしくお願いします」

「体調は万全ですか?」

「た、体調???あ、はい…。大丈夫だと…思います」

(親知らずを抜くには、体調が万全でないとダメなのかよ!)

僕の不安は頂点に達した。

…しかし、僕の悪い予想は、裏切られた。

いつものように、表面麻酔からの麻酔注射。ここまでは通常どおり。それから親知らずを抜く時間じたいは、1分もかからなかったであろう。

「はい、抜きました」

(えええぇぇぇっ!!!こんだけ???)

「血が出ていますので、15分間は、ガーゼを噛んでいて下さい」

「はい」

「食事は麻酔が切れる2時間後ぐらいからなら大丈夫です」

「はい」

「炎症を抑える薬と、痛み止めを処方しますから、炎症を抑える薬は毎食後に、痛み止めは、痛いときに適宜飲んで下さい」

「わかりました」

麻酔が切れたあと、どんだけ痛いんだろう?と、これまた不安だったが、思ったほどの痛みではなかった。

次回は、もう一つ残っている親知らずを抜くことになっている。今回よりも、少し厄介なのだそうだ。

少し厄介、ということは、今回よりも痛いのだろうか。

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