文化・芸術

中島敦の絵はがき

自分の仕事に関係する展覧会を見に行くべきなのかも知れないけれど、へそ曲がりというか、現実逃避というか、全然関係のない中島敦展を見に行くことにした。

周知のように、中島敦は33歳の若さでこの世を去るのだが、彼の短い人生に比して、生前の彼に関する資料が、実に数多く残されていることに驚いた。

とくに驚いたのは、南洋庁に赴任した彼が、自分の息子に向けてひっきりなしに南洋の絵はがきを送っていることである。

絵はがきに書くので、1回あたりのメッセージの量は少ない。

「けふ、とてもおいしいミカンとバナナをうんとたべたよ。大きくてあをいんだよ。それであまいんだ」

「ヤップ島でたべたバナナはとてもおいしかったぜ。さたうバナナって名前だってさ。あまいからだね」

「今やっとパラオに着きました。これからおりるところ。空はくもってゐます。とうとうふりだしました」

そのほとんどは、たわいもない報告である。やってることは、LINEと変わりない。もちろん、LINEのように素早く相手の元には届かないのだが、頻繁にはがきを書くということは、いまのSNSでやっていることと、基本的には同じなのではないだろうか。

なんてことはない。いまははがきを頻繁に書く習慣がなくなり、SNSに代わっただけなのだ。相手に伝わるスピードが速くなっただけで、むかしから、どんな遠い場所にいても、伝えたい人がいれば、なんとかして伝えようと手段を講じていたのである。しかもそれが苦ではなかったのだ。

SNSが発達した時代といわれるが、はがきを書かなくなった時代、ともいえる。

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写真展

拝啓 N様

ご無沙汰しております。4月27日(土)の大林宣彦監督の講演会の際にお目にかかった者です。その後に、お手紙をいただいたにもかかわらず、今に至るまで返信が滞ってしまい、大変失礼いたしました。

その際にご紹介いただいた、Nさんが企画協力されたという、野口久光さんと渡辺貞夫の写真展を、初日の8月15日に拝見することができました。残念ながら、その日のトークセッションは聞くことができませんでしたが、写真展を見ながら、とても充実した時間を過ごすことができました。

私事になりますが(4月の大林監督の会の時にも少し立ち話でお話ししましたが)、私は高校生の時に渡辺貞夫さんの音楽に魅せられ、高校の吹奏楽部に入部して、アルトサックスを手にしました。ライブも何度か見に行き、10代の私にとっては神様のような存在でした。その後、前の職場では、顧問をしていた音楽サークルの学生たちとバンドを組み、実に久しぶりにアルトサックスを練習して、学園祭で念願の渡辺貞夫さんの「ナイスショット」という曲を演奏したりしました

大学生になってから、今度は大林宣彦監督の映画にどっぷりとハマり、ほとんどの映画を見ました。映画もそうですが、監督の「言葉」や「語り」にも魅せられ、映画のみならず監督の書かれた本も集めたり、ロケ地をめぐったりしました。大林監督は、やはり青春時代の私にとって神様のような存在でした。

その、10代の私にとっての2人の神様が、「野口久光」という人物を介して結び付いていたことをずいぶん後になってから知り(2014年のポスター展を見たことがきっかけです)、私はその不思議な因縁にたいへん驚き、あわせて、野口久光さんという方の人間的な魅力に思いを致さずにはいられませんでした。

このたびの写真展を拝見して、野口久光さんはパリという都会を、そして渡辺貞夫さんはアフリカやチベットなどの自然を背景にしている点が対照的でしたが、お二人の写真の雰囲気や、そこに写し出された人の表情といったものがとてもよく似ていると感じました。展示場で野口久光さんの写真を見ながら歩いていたら、いつのまにか渡辺貞夫さんの写真を見ていた、といったように、お二人の写真はごく自然な形で展示場の中で共存していたように思います。お二人のまなざしの先には、優しさがありました。写真の横で紹介されていた渡辺貞夫さんのコメントもすばらしく、音楽と同様の優しさが溢れておりました。

たんなる一ファンの戯れ言を書いてしまい、申し訳ございません。ひと言、一ファンの感想をお伝えしようと思い、このような戯れ言を書いた次第です。

今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

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ポーでした!

前々回の話の続き

「すべて我らが見たるもの、また見たりと思いしものは、夢の中の夢にほかならず」

大林宣彦監督の「麗猫伝説」という作品に出てくる詩のフレーズ。劇中ではこれをボードレールの詩の一節だと述べていて、僕は長い間その出典がわからず悩まされていたのだが、こぶぎさんが見事に出典を見つけてくれた

なんと、エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)の「夢の中の夢(A dream within a dream)」という詩の一節だったのである!

All that we see or seem

Is but a dream within a dream.

うーむ。たしかにこれを訳すと、

「すべて我らが見たるもの、また見たりと思いしものは、夢の中の夢にほかならず」

になる。

つまりこれをボードレールの詩の一節だとする「麗猫伝説」のセリフは、まったくの誤りだった、ということになる。

どおりで、ボードレールの詩をいくら探しても、このフレーズが見つからないわけだ。

というか、フランス人ではなく、アメリカ人じゃん!

この作品の脚本を担当した桂千穂が、単純に間違えたのか?

あるいは撮影台本を書いた大林監督が間違えたのか?

それとも、たんにボードレールの名前を出したいために、ボードレールの詩ということにしてしまったのか?

どうしてこんな間違え方をしたのか、まったく謎である。

ただ、たとえ間違えがわかったところで、この「麗猫伝説」という作品自体、ほとんど無名の作品なので、鬼の首を取ったように指摘したとしても、とくにどうということはない。

さて、この「麗猫伝説」には、もう1箇所、ボードレールの詩が引用されている。

「『君よただ美しくあれ もだしてあれ(…と聞き取れる)』」

「……」

「ボードレールです」

はたしてこの詩の一節も、ボードレールなのか、怪しくなってきた。

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とんどさぎちょう

先週の金、土、日と、うちの職場に韓国からお客さんが来た。

実はこのブログには書かなかったが、昨年12月から2月にかけての約3カ月間、うちの職場に滞在した韓国人の方がいた。Jさんである。

私とは違う業界の方だったのだが、Jさんは日本語ができないということで、私が何度かコミュニケーションをとる役割をしたことがあった。

で、先週末に韓国から来たお客さんの中に、Jさんも含まれていて、私はJさんと再会した。そして3日間、土日も関係なしに職場に出向いて、Jさんを含む韓国からのお客さんたちとおつきあいしなければならなかったのである。

Jさんは私に聞いた。

「日本にどんど焼きってのがあるだろう」

「ええ。正月15日にやる行事ですね。」

「韓国にも似たような行事がある。달집 태우기という」

「タルチプ テウギですか?」

「そうだ。調べてみると、韓国では古い時代まではさかのぼらず、近代以降に日本から入ってきたものらしい」

「そうですか」

「日本ではいつごろから始まったのか?」

「さあ、古くからだと思いますよ」

「文献は残っているか?」

「あると思います」

「調べてくれ」

「はぁ」

Jさんのいまの関心は、どんど焼きのようである。私より年上だし、大事なお客さんだから、むげに断るわけに行かない。私は調べた文献をコピーして、Jさんに渡した。

「どんど焼きは、本来「サギチョウ」といいます。「爆竹」と書く場合もあります」

「爆竹?」

「ええ」

「韓国では12月31日に爆竹をするんだが、日本でもするのか?」

「いえ、日本ではしません。ただ正月15日のどんど焼きを「爆竹」という場合もあったそうです」

「爆竹とどんど焼きは別だろう?」

「いえ、日本では一緒のようです」

「爆竹は、竹の焼けるときにポンポン鳴る音が縁起物なのだが、日本にはないのか?」

「12月31日にはやりません。ただ、小正月のどんど焼きの際には、竹が燃えるときに音がしまして、その音に意味があったそうです。だから別名を爆竹といったのでしょう」

「ややこしいな。韓国では爆竹とどんど焼きは別のものだが、日本では同じだということか?」

「どうもそのようです」

畑違いの私が慌てて調べたことなので、なんとも心許ない。その上、それを韓国語で説明しなければならないのだから、かなりつらい。

「サギチョウとどんど焼きは同じものなのか?」Jさんの質問は続く。

「ええ、そのようです」

「いつからどんど焼きと言われるようになったのか?」

「わかりません。ただ、サギチョウについて書いた古い文献に、『洛中の家々、今暁竹を立て、昨日まで飾りたる注連飾を焚き、吉書を焼く。基紙の灰空に翻るときは、手跡上達すという。このとき口々に「とんどサギチョウ」と拍す』とありますから、『とんどサギチョウ』というかけ声に由来するものと思われます」

私の下手な韓国語の説明に、Jさんはわかったようなわからないような顔をした。そもそも私自身もまったくわかっておらず、とりあえず調べたことから私が勝手に作り上げた仮説を述べているに過ぎないのである。どんど焼きがどんな行事で、どんな意味をもつかなどと、いままで真剣に考えたことなどないのだ。

これが先週末の話。

ところが、不思議なこともあるものである。

昨日,出張先の合間に訪れた美術館で、ある高名な学者が趣味で作ったという短歌が小さく紹介されていた。

「厳冬の朝早くからポンポンと邪気払いするトンド正月」

私はこの短歌に釘付けになった。

先週末のJさんとのやりとりがなければ、気にも留めなかった短歌である。

この短歌の中に、どんど焼きのすべてが詰まっているではないか!

これは紛れもなく、小正月のどんど焼きのことを歌った歌である。

「ポンポンと」というのは、竹が燃えてポンポンと音がすることを意味する。つまりどんど焼きでは、竹が燃えるときにポンポンと音がすることに意味があった。なぜならそれは「邪気をはらう音」だからである。

そのことは、どんど焼きがかつて「爆竹」とも呼ばれていたこととも通ずる。

そしてもうひとつは、「トンド正月」。「どんど」ではなく「トンド」

私はいままでずっとどんど焼きと呼んでいたが、「洛中」では「とんど」というらしいことが、先ほど紹介した古い文献からわかる。

「洛中」出身のこの高名な学者も、歌の中で「トンド」と言っている。

呼び名にも地域性があることがわかったのである。

Jさんにこの短歌を紹介すればよかったか…。

…と思ってウィキペディアを見たところ、いま調べたようなことが全部書いてあった。

かくして、私がJさんのために調べたことは、すべて徒労に終わったのであった。

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ホト根ヒーロー

7月31日(日)

またまた旅の空です!

明日朝からの仕事にそなえて、この町にやって来た。

少し早く着いたので、現在開催中のイベントを見に行く。むかしの僧侶について紹介したイベントである。

その僧侶は、人生のすべてを、貧しい人や病気の人の救済に捧げたという。

「貧しい人や病気の人を救いたい」という一心で、損得も顧みず、差別もせず、純粋な心で、人々を救ったのだという。

イベントの内容自体は、非の打ち所のない、すばらしいものだった。この点は、強調しておきたい。

しかし見終わって、ひとつの疑念が生まれてきた。

この僧侶の生前の足跡(そくせき)について、あまりにも物的証拠が多すぎるのである。

それらのほとんどが、その僧侶がいかにすばらしいことをおこなったかを示すものばかりである。

素直に受け取れば、この僧侶がとてもすばらしい人物だったことを示す何よりの証拠ばかりなのだが、ひねくれ者の私は、どうも疑い深くっていけない。

残されていないものの中にこそ、真実があるのではないかと、疑り深い私なんぞは、ついそう思ってしまうのである。

この僧侶が、貧しい人や病気の人を救うためにさまざまな施設を作ったり、人々の往来の便をよくするために道や橋を作ったりしたことは、まぎれもない事実である。

ただ、そのために勝手に人々から通行税を取ったりしてそれを原資にしていることはいただけないと、同時代の有名な僧侶がその僧侶を批判していることにも、耳を傾ける必要がある(誤解のないように書いておくと、このたびのイベントでもこの点についてちゃんと触れている)。

そういえばかつてさる高名な学者が、「そういう部分までちゃんと見ておかないと、たんなる慈悲の心だけでこの時代の宗教を評価してはいけない」と言っていたことを思い出す。

だがこの僧侶については、どんどんと「完全無欠の偉人」の位置にまつりあげられてしまっていて、はては、世界的に有名な女性宗教者に匹敵すると評価する人まであらわれた。

だが、その「世界的に有名な女性宗教者」についても、最近、手放しで聖人視することに対して疑問が出されているのだ。

イベント会場で上映されていた、この僧侶の半生をアニメにした映像を見たのだが、さながらスポ根漫画のヒーローである。この映像は、地元の小学校の道徳教育の教材用として活用することもめざしているという。

人物の評価が、ほとんどひとつの方向に突き進むことは、実に危険である。

くたばれ!偉人伝

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再会!冷泉為恭

4月13日(水)

この町での仕事が予定より早く終わったので、この町で行われている展覧会を見に行くことにした。

展示されていたのはむかしからよく知る作品だったが、あらためてじっくり見ると、すごく面白い!

映画がなかった時代の、映像的表現というべきか。とにかく飽きないのである。

「異時同図」という手法が、じつに見事に活かされている。

3部作構成になっているところも素晴らしい。

やや滑稽な話で始まる第1部、躍動的な第2部、そして感動の第3部。

今回じっくり見て初めて気がついたのだが。

第3部の「感動のラスト」のあとに、最後の最後にあらわれる「アレ」。

じつに心にくい演出ではないか!

ああいう演出は、現代の映像表現にも通ずる手法なのではないだろうか?

…そんなこんなで感心しながら見ていると、ある絵に目がとまった。

この作品を幕末に模写した絵が展示されていたのだが、その作者がなんと冷泉為恭だったのだ!

おおっ、ここで冷泉為恭に再会するとは!

以前、ある展覧会で出会って以来、およそ3年半ぶりの再会である。

そのときにも書いたことがあるが、冷泉為恭は、幕末に生きた京都の絵師である。御所に出仕している一方で、京都所司代にも通じていたことから、最後には攘夷派の長州藩に暗殺されてしまう。

昔のドラマ時代劇「新選組血風録」(NET、現テレビ朝日、1965年)に、「刺客」と題するエピソードがある。司馬遼太郎の原作にはないエピソードだから、たぶん、脚本家の結束信二が書いたオリジナル作品である。

このエピソードの主人公は、冷泉為恭である。彼は御所にも京都所司代にも通じ、幕末の政治的混乱を「食い物」にして生きている「唾棄すべき」人物として、描かれている。たぶん、冷泉為恭がこれほどクローズアップされるドラマは、後にも先にもこれだけだっただろう。私はこのエピソードが大好きだった。

そして驚いたことに、実はこの旅に出る直前に、ふと思い立ってこのエピソードを久しぶりにDVDで見返したばかりだったのである。

なんという偶然!

これは神のお告げか?

もし仮に、再び大学に入学して美術史を専攻することになったら、冷泉為恭を主題にして卒業論文を書け、ということなのか???

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兼好法師その新世界

さて、『徒然草』の作者、兼好法師はどんな人間だったのか?

『徒然草』の一番最後、第243段に、そのヒントが隠されている。

「八才の時、私は父に質問した。

『仏とはどんなものでございますか』

すると父は答えた。

『仏とは、人が悟りを開いてなるものである」

そこで私は再び質問した。

『人はどのようにして悟りを開いて仏になるのでございますか』

すると父は答えた。

『仏の教えによって仏になるのだ』

さらに私は質問した。

『それを教えた仏には、だれが教えたのでございますか」

すると父は答えた。

『それもまた、その前の仏の教えを受けて仏になったのだ』

そこで私は質問した。

『では最初に教えた第一番目の仏はどんな仏でございますか」

すると父は笑って答えた。

『空から降ってきたか、地面から湧いてきたかしたんだろ!」

のちに父は、『息子に質問責めにあって困りました』と人に楽しそうに話していたということである」

これが、『徒然草』の最後の段である。

ここからわかることは、兼好法師は、八歳の頃からかなりの好奇心を持った「屁理屈お化け」だったということである。

その素質があったからこそ、あれほどの硬軟とりまぜた随筆を書くことができたのだ。

もし兼好法師が現代に生きていて、その素質を生かすとしたら、語りの名手といわれるラジオDJになっていたかも知れない。

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まだまだ徒然草

…というわけで、突如自分の中で『徒然草』ブームが巻き起こった。

『徒然草』のすごいところは、滑稽話から湿り気のある話まで、振り幅が大きいということである。

しかもよくよく読んでみると、滑稽話はできるだけ具体的に描写をし、湿り気のある話はできるだけ抽象的な表現を使う、という特徴がある。

これは現代にも通じる話芸や文章術ではないだろうか。不遜ながら私も、このブログでそういう書き分け方をしているのだ。

兼好法師って、私と同様の面倒くさい人間だったんじゃないだろうか?

私がいちばん好きな文章は、第26段の、

「風も吹きあへずうつろふ、人の心の花に、馴れにし年月(としつき)を思へば、あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、我が世の外(ほか)になりゆくならひこそ、亡き人の別れよりもまさりてかなしきものなれ」(第26段より)

(風が吹かないのに散ってしまう花のように、人の心は移り変わってしまう。親しかった頃に、しみじみと感慨深く聞いた一つ一つの言葉を忘れることはできないのに、その人はしだいに自分とはかけ離れた遠い存在になってしまう。これが世のならいだとはいっても、それは故人との別れよりも悲しいものである)

であるというのは、前に書いたが、もうひとつ好きな文章がある。第12段の一節である。

「同じ心ならむ人と、しめやかに物語して、をかしき事も、世のはかなき事も、うらなくいひ慰まんこそ嬉しかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違はざらんと向ひ居たらんは、ただひとりある心地やせん」  

(同じ思いを持つ人と、じっくりと話をして、風流なことも、世の中のはかないことも、心おきなく話してみたら、さぞ楽しいだろう。でもそんな相手はそうめったにはいない。たいていは、気心の知れない人と少しでも意見が違わないようにしようと向き合っていることが多いので、かえって孤独を感じるものである)

つねひごろから私が感じていることを、兼好法師はすでに言い当ててしまっている。

こうした湿り気のある文章を書くかと思えば、第45段みたいに、

「藤原公世(きんよ)の兄である良覚僧正は、非常に短気な人だったそうな。

僧正のすみかの庭に大きな榎木があったことから、人々は『榎木の僧正』なんていうあだ名を付けた。

僧正は、本名で呼ばれず、あだ名で呼ばれることに腹を立て、その木を伐ってしまった。

すると今度は、木の切り株が残ってしまったために、人々は『切り株の僧正』というあだ名を彼に付けた。

良覚僧正は、当然これにもご立腹。「こんなものがあるから、俺はあだ名で呼ばれてしまうんだ」と、今度は切り株を掘り出して捨ててしまった。

すると今度は、掘ったところに水がたまり、池のようになってしまった。そこで人々は「堀池の僧正」とあだ名を付けたそうな」

みたいな、オチがあるんだかないんだか、どーでもいい文章も書き残している。

兼好法師は、俺と似てるんじゃないだろうか?

彼の人となりを解く鍵が、ほかならぬ『徒然草』に残っているのだが、それはまた別の機会に。

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これも徒然草

あらためて読んでみると、『徒然草』はとてもいい。不遜なたとえだが、『徒然草』のひとつひとつの語りは、いまの私が書いているブログみたいなものだ。滑稽な話もあれば、湿り気たっぷりの文章もある。

なかでも、次の文章はとても美しい。

「風も吹きあへずうつろふ、人の心の花に、馴れにし年月(としつき)を思へば、あはれと聞きし言の葉ごとに忘れぬものから、我が世の外(ほか)になりゆくならひこそ、亡き人の別れよりもまさりてかなしきものなれ」(第26段より)

(風が吹かないのに散ってしまう花のように、人の心は移り変わってしまう。親しかった頃に、しみじみと感慨深く聞いた一つ一つの言葉を忘れることはできないのに、その人はしだいに自分とはかけ離れた遠い存在になってしまう。これが世のならいだとはいっても、それは故人との別れよりも悲しいものである)

古典がすばらしいと感じるのは、自分の中に漠然と存在する感情が、研ぎ澄まされた言葉で見事に表現されていることに気づいたときである。

つまり私の中にある思考や感情は、すでに古典の中に存在しているのである。

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先達はあらまほしきことなり

昨年、トラック野郎のおじさんたちと何度も一緒に仕事をした。

いろいろな経験をしているトラック野郎のおじさんたちとは、トラックに同乗して長距離を移動していても、話題が尽きない。

なかでもいちばんベテランのOさんは、50代後半くらいの方だが、知性にあふれていて、私の「トラック野郎」観をくつがえす人だった。

「我々は京都で仕事があるたびに、伏見のホテルに泊まるんですよ」とOさん。

「それはなぜです?」

「そのホテルはトラックが泊められるからです」

「なるほど、京都のまちなかのホテルだと、そうはいきませんよね」

「ええ。で、あるとき、相棒のコウタが、せっかく伏見に来たんだから、伏見稲荷を参拝しようと思ったそうでしてね」

相棒のコウタ、というのは、まだ20代の若いトラック野郎である。

「夕方に伏見に着いて、まだ少し陽があるというので、コウタがひとりで伏見稲荷に参拝に行って、帰ってきたんです」

「ほう」

「『お前、ずいぶん早く戻ってきたな』と言うと、『ちゃんとお詣りしてきましたよ』と答えるので、『山のほうには登ったか?』と聞いたら、『山のほうって、何のことです?』と言いやがった」

「ハハハ」

「まったく、『先達はあらまほしきことなり』ですな、ハハハ」とOさんは言った。

Oさんは『徒然草』の一節を引用して、さらりとこの話をまとめたのである。

もちろん、『徒然草』のこのエピソードは、誰でも知っている有名なものだが、それを自然と会話のなかで使っていることに、感嘆した。

作業着に身を包みながら、さりげなく古典の一節を盛り込んで会話をする。こういうことを、真の知性というのだろう、

こういう会話ができたときは、実に愉快である。

しばらくトラック野郎のおじさんたちと仕事をする機会がないのは、残念である。

「仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩(かち)より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。

さて、かたへの人にあひて、「年比(としごろ)ごろ思ひつること、はたし侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。

少しのことにも、先達はあらまほしきことなり」(徒然草52段)。

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