アートと書いて「いいわけ」と読む
12月16日(木)
車で1時間半ほどかけて病院の定期検査に向かう。
車の中で聴いていた文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」の「大竹紳士交遊録」には、月1レギュラーのみうらじゅんさんが登場した。
近々発売される『ヌー道』という本の宣伝だったのだが、みうらじゅんさんと辛酸なめ子さんの共著ということで、いやが上にも期待が高まる。
おりしも、「ヌー銅」すなわち女性の裸の銅像彫刻は、近年の美術業界でもまじめに議論している研究テーマであり、それをみうらじゅんさんと辛酸なめ子さんの切り口でどのように語られるのかが楽しみである。
それと、みうらじゅんさんが、「アートと書いて「いいわけ」と読む」と言っていて、なるほど、うまいことをいうなあと思った。
すべてのアートがそうだというわけではないが、なかにはそのような「王様は裸だ」的なアートもあるように思う。ヌードだけに。
僕は芸術家(アーティスト)と呼ばれる友人とか知り合いはいないのだが、完全な僕の偏見として、僕の手には負えない人が多いなあという印象がある。ま、これは考えてみればあたりまえのことで、ものわかりのよいアーティストというのは、形容矛盾なのである。
以前、直接お目にかかったことのない芸術家の方からメールが来て、「ちょっとご相談したいことがあるのでお電話してもいいですか」というので、「いいですよ」と、電話に出られる時間をお伝えしたところ、その時間に本当に電話が来た。聞くと、僕の職場のイベントに興味を持ったみたいなのだが、いま旅先で、イベントを見に行けないというので、「そのイベントに関わるカタログをお送りしますよ」「いいんですか?」「ええ」「いま旅先なので、滞在先に送ってくれませんか?ただし、○日までなので、その日に間に合うように送っていただけると」「わかりました」「できれば、そのイベントを企画した人にお話を聞いてみたいです」「わかりました。紹介しますよ」
で、僕は急いでカタログを用意して、その方の旅先にお送りした。間に合ったのかどうか心配だったが、その後は何の連絡もなく、結局あれはどうなったのだろうと、気になったまま現在に至っている。
聞くとその芸術家は、自分の関心の赴くままに軽やかに旅から旅へと芸術を追い求める人のようで、僕らとは違う時間軸で生きている人なのだろう、と思った。
それからというもの、意識的に芸術家の話す言葉に耳を傾けるようになったのだが、ちょっと僕の理解を超えたところで言葉が行き交っている気がして、自分の芸術的なセンスのなさに落ち込んだものである。こういうのは、頭で理解しようとしてもダメなんだろうな。
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