日記・コラム・つぶやき

前のめりな人

6月16日(木)

われながら、よく働くねえ。

疲れているし、何も書くことがないので、例によってどうでもいい話をする。

「前のめりな人」という表現がピッタリな人がいた。まったく悪い人ではなく、むしろいい人なのだが、あるとき、いっしょに仕事をしていくうちに、どうもこの人は前のめりな人に違いない、と思いはじめた。

おそらく先に先にと、気が回る人なのだろうが、その「勇み足」的な行動が、些細なトラブルを起こし、僕はその尻拭いをしたりすることもあった。もちろん、本人にはそんなことまったく言わないけれど。

たまたま知り合った人と仲良くなるのが得意で、仲良くなると、やたらと仲間に引き入れたくなるらしい。「先日知り合った○○さんという人がとてもおもしろい人なので、こんどその人に仕事をお願いしましょう。なんなら、その人を仲間に引き入れましょう」と、無邪気に提案してくる。

自分が面白いと思ったことは、ほかの人もおもしろいはずだ、自分が気の合う人は、ほかの人もきっと気が合うはずだ、と信じて疑わないようなところのある人で、それ自体は無邪気というか、天真爛漫で悪くはないのだが、それが仕事となると、話は別である。

僕には、「人はむやみに出会ったりしてはいけない」という信条があり、人とすぐに仲良くなるのは危険だと考えている。しかも仲がいいからといって仕事がうまくいくとも限らない。とくにチームで仕事をする場合は、人間関係にムラができてしまっては支障をきたすので、できる限り私情をはさまないのが理想である。まああたりまえのことなのだが。

その人は、ちょいちょいと「前のめりな私情」が見え隠れするような雰囲気を出してくるので、大丈夫かなあと心配していたら、案の定、人間関係のちょっとしたトラブルが起こったことがあった。それ以来、僕はそれとなく、ブレーキをかける役目を勝手に自分に課した。その人の気持ちを傷つけることなく、やんわりと着地させることを心がけたつもりだったが、そう思っているのは僕だけで、ひょっとしたら一人相撲をしていただけだったのかも知れない。

「やんわり」で思い出したが、あるとき、面識のない方から、「やんわりとしたクレーム」が来た。

「決してクレームをつけているわけではありません」と書いてあったが、明らかにクレームである。

僕に答えるべき責任があったので、懇切丁寧に、噛んで含めるように、その方の不信感に対して釈明をした。簡単に言うと、「規則なんだからしょうがないだろ、あんたも業界人ならそういう規則があるくらい知っているだろ」という話なのだが、もちろんそんなことは言えない。あくまでもこちらの落ち度であり、それに対して誠実に対応する、ということを、政治家的な答弁ではなく、クドいくらいに「丁寧な説明」をしたのである。

それだけでかなりのエネルギーを消耗したのだが、それに対して、相手からはいまに至るまで何の反応も来ていないのは、まことに脱力することこの上ない。面識がないだけに、その人の人柄についてしばらく仮説を立ててみたが、そんな仮説を立ててみたところで何の意味もない。まあ自分もメールの返信を怠ったり忘れたりすることがあり、相手にストレスを与えていることもあると思うので、日ごろの自分の行いを顧みるよい機会となった。

…ということで、呆れるほどどうでもいい話である。というか愚痴だな。

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ひな壇芸人の憂鬱

いつぞや、スジの悪い企画の本への依頼が来て、困ったというを書いた。

スジが悪い企画だ、と思ったのは、内容もさることながら、依頼が直接出版社から来たからである。

そんなの、あたりまえじゃないか、と思われるかもしれないが、本来であれば、その企画を立ち上げた編者という人がいて、ま、通常は「○○○○編」みたいに、本の表紙に名前が出る人のことなのだけれど、その編者が、執筆者一人ひとりに企画の趣旨を説明したうえで執筆の依頼をして、内諾をとったあとに、あらためて出版社から正式な承諾の手続きを行う、という流れなのである。

いま僕は、来年のイベントのために、いろいろなところに直接電話なりメールなりで協力をお願いして、内諾をいただいた上で、担当事務から正式な文書を出す、という段取りを進めている。必要に応じては、直接おうかがいして交渉する場合もある。それがけっこうたいへんなのだが、でもそれが、この業界の常識となっており、僕自身も、それくらいやるのは当然だと思っている。

しかしこの本の企画の場合は、編者から一切の連絡もなく、出版社からいきなり依頼状が来ているのである。これは、編者がまじめに考えていない証拠である。最低限、執筆者には編者から事前に一言入れるべきなのだ。

で、つい最近、出版社から「目次が確定しました」とメールが来たのだが、見てみると、執筆者はざっと30人はいる。いろいろなところに目配りをした結果、執筆陣が30人になりました、という感じの目次である。で、なんとなくのイメージでキャスティングしていることが、僕の目から見ても明らかであった。なにしろ僕自身が、なんとなくのイメージでキャスティングされていることが明らかだからである。各人の執筆テーマも、「置きに行っている」感じのテーマばかりで、まったく魅力的ではない。

この本をぜひ作りたい、という編者の思いがまったく伝わってこない本に、魂が吹き込まれるはずはない、と思う。

…と、我ながらひどい愚痴を言っているが、事実なのだから仕方がない。

ここまで書いてくると、ではおまえはなぜそんなひどい企画に乗ったのか?断ればよかったではないか、と言われるだろう。たしかに断ればよかったと、反省している。

だが最近思うのは、優先順位が高くて、絶対に失敗のできない仕事ばかり抱えてしまうと、逃げ場がなくなる。逃げ場がなくなって精神的に追い詰められたら、優先順位の低い、こういうひどい企画の仕事をすれば、失敗してもいいや、と、息抜きになるのである。

これもまたなんともひどい理屈だ。今回も最悪の愚痴だな。反省。

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往復書簡

6月6日(月)

往復書簡を読むのが好きである。

以前、お笑い芸人のオアシズというコンビの『不細工な友情』という本を読んだ。大久保佳代子と光浦靖子による往復書簡をまとめた本なのだが、これがとてもおもしろかったと記憶している。しかし残念なことに、引っ越しの時にその本をブックオフに売ってしまった。いまになってまた読みたくなったが、惜しいことをした。

しかし、『不細工な友情』は、読まれることを前提にした往復書簡で、巷で出版されている往復書簡集は、たいていは、公開を前提としたものなのだろう。さらにおもしろいのは、公開を前提としない往復書簡なのではないだろうか。

昨日のオンライン会合で、1時間から1時間半ていど、話をしなければならなかった。

話す内容は、以前にもこのブログに書いた、米国在住の日本人ジャーナリストから依頼された、手帳の解読についてである。現在までのところ、結論めいたものは得られていないのだが、昨年の夏、苦労して調べたことが埋もれてしまうのがもったいないと思い、せっかくの機会なので、その調査の顛末をお話しすることにしたのである。

しかし、あの複雑な手帳を、どのように調査をして、どのようなことがわかってきたか、第三者にわかるように説明するのは至難の業である。困ったあげく、その米国在住の日本人ジャーナリストと僕との間で交わされたメールのやりとりを紹介して、その試行錯誤の過程を追体験してもらおうと考えた。この種の会合の発表では、ふつうはやらないような禁じ手である。

それぞれがその手帳について調べ、わかったことがあれば、それをメールでお伝えする、というやりとりを、繰り返してきたのだ。つまりはそのメールのやりとりを公開することを考えたのだが、米国在住のジャーナリストに相談すると、

「ぜひお願いします。これで少しは私たちの苦労も日の目を見るでしょう」

という返信をいただいた。

そこで、昨年の夏から秋にかけて交わされた、メールをまとめる作業をした。時候の挨拶とか、あまりに枝葉の部分などは除き、調査に関係のある文章だけを取り出して、編集作業を行った。

あらためて交わされたメールを時系列的に追っていくと、1日に何往復かしている日もある。短期間に、ものすごい勢いでメールのやりとりを行っていたのだということに、我ながら驚いた。

やりとりしたメールを編集してみると、3万字ほどになった。400字詰め原稿用紙で75枚程度である。時候の挨拶とか、わかりにくくて省略したところも含めたら、原稿用紙100枚は優に越えているかも知れない。

もちろんこれは、公開を前提としていないメールなので、第三者が読んでみてもなかなかわかりにくい。しかしそのわかりにくさも含めて、こういうことは一筋縄ではいかないのだ、ということを知ってもらおうとしたのである。

結果的に、この試みは、なかなかうまくいかなかった。僕の体調がいまいちだったこともあり、説明はボロボロになり、おそらく聞いているほうは、「1時間かけていったい何を聞かされているのだ?」という感想を持った人が多かったのではないかと思う。

「おまえのようなド素人があーでもない、こーでもないと考える前に、なぜ最初にその道の専門家に頼らなかったのか?」という趣旨の意見を、やんわりとおっしゃってくれる人もいた。たしかにその通りである。延々と、あーでもない、こーでもないという結論のないメールのやりとりを聞かされても困るというのが、この業界における最も健全な反応である。だからこの方法は「禁じ手」なのである。

しかし、僕にとっては、そんな業界内の健全な常識など、どうでもよかった。僕にとっては、この手帳の謎を解明するために、往復書簡の如くメールをやりとりした事実こそが、重要なのである。それは、ドキュメンタリーであり、メイキングなのだ。

ちなみに、メールをやりとりした米国在住の日本人ジャーナリストとは、まったく面識がない。コロナ禍の影響もあり、その方は日本に帰国する機会を逸しているという。まったく面識のない人と、往復書簡の如くメールのやりとりをしたというのも、なかなか不思議な体験で、何よりそうした往復書簡を読むことが、僕自身、好きなのである。

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週またぎ日記

5月21日(土)

午前、4歳の娘とふたりで過ごす。外は土砂降りだが、公園に行きたいと言い出し、しかもよりによって、自宅から歩いて30分くらいかかる「タイヤ公園」に行きたいという。仕方がないので、カッパを着せて、長靴を履かせて、ストライダーで公園まで連れて行く。

しかし遊戯具は当然のことながらすべて濡れている。ブランコに座らせて、少しだけこいで、公園から自宅のほうへ引き返し、さらに歩いて行って、近所にある沖縄そばの美味しいお店で沖縄そばを食べた。これだけで疲弊した。

帰ってから、「パパがタイヤ公園に行きたいと行ったから仕方なく行った」と言い訳した。人のせいにする術を身につけている。

5月22日(日)

自分が生まれ育った町での会議に参加した。原稿は3月中に苦労して書き上げたのだが、これからがたいへんである。前途多難。

会議が終わってから、会議の列席者としばし雑談する。

その後、その町の図書館に行く。必要があって、大正時代の汽車の時刻を調べているのだが、探している時刻表がその町の図書館にあると知り、さっそく出庫をお願いする。かなりむかしの時刻表なので、最初は見方がわからなかったのだが、見ていくうちにわかってきて、わかってくるとおもしろくなる。時刻表って、見ていると時間を忘れるね。時刻表トリックを考えたくなる気持ちが、よくわかる。

しかし時間が限られているので、必要なところだけをメモして、返却した。

5月23日(月)

午後、久しぶりに、不特定多数の人の前で2時間ほど話をする。といっても、対面ではなく、ウェビナーなので、聴いている人の顔は見えない。ひたすらノートパソコンの画面に向かって、ひとり喋りをする。

もともと、2年前の2020年5月22日に行う予定だったのだが、新型コロナウィルスの影響で、対面での講座ができなくなり、延期となった。2年経って、オンラインという形でようやく実現した。

今日はこれだけで疲弊した。アンケートの感想はまずまず。主催者は、来月からは、対面形式の講座に戻す予定です、とアナウンスしていたが、アンケートでは、このままオンライン形式で続けてほしいという希望が多かった。それはそうだろうな。わざわざ足を運ぶよりも楽だし、説明のためのスライドも、間近でじっくり見ることができる。しかしここの主催者に限らず、コロナ禍の中で手に入れた合理性を手放し、「コロナ禍」より前の状態に戻そうとしたがる人が多いこともまた事実である。

ちょっとここ最近、家族ともども、かなり無理をして仕事をしている。やらなければならないことは多いのだが、休むことを罪悪と思ってはいけないね、といいつつ、今週もまた忙しい。

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ビジネスマナーか、謎ルールか

有名な話だが、小学校の道徳の教科書に、次のような問いがある。

「おはようございますの挨拶の仕方、次の3つのうち、一番礼儀正しいのはどれでしょうか?

1、おはようございます、と言いながらお辞儀をする。

2、おはようございます、と言ってからお辞儀をする。

3、お辞儀をしてから、おはようございます、と言う。

さて、どれが正しいでしょうか?」

僕は正解がわからなかったのだが、たぶん多くの人は、「そんなの、あったりまえじゃん」と、正解がわかったに違いない。

正解は「2、おはようございます、と言ってからお辞儀をする」なのだそうだ。

半世紀以上生きてきて、初めて知った(汗)。

へえ、そうなのかぁと思っていたところ、たまたま見た、NHKの「朝の連続テレビ小説」の1シーン。

レストランの従業員たちが、店長らしき人に向かって、朝の挨拶をしている。それを見て驚いた。

全員が、「おはようございます」と言ってから、お辞儀をしているではないか!!!

僕は長年、フジテレビの朝の情報番組「とくダネ!」で、司会の小倉智昭さんが、

「おはようございます」

と言いながらお辞儀をしている姿を見慣れてきたので、僕も無意識のうちにそのように実践してきたのだが、どうもそれは間違いのようなのである。

NHKの朝ドラの従業員役の人たちは、ごく自然に、「おはようございます」と言ってからお辞儀をしたのだろうか?

それとも、演出家が、「そこは、『おはようございます』と言ってからお辞儀をしてください」と指示したのだろうか?

いずれにしても、「おはようございます」と言ってからお辞儀をするという行為が、道徳の教科書通りに、NHKのドラマの中でそれとなく実践されていることに、驚いたのだった。

ほかのドラマではどうなのだろう?ドラマを見る時間はないのだが、気になって仕方がない。

そもそもこの行為が、どれほどの人に浸透しているのだろう?

調べてみると、こういう挨拶の仕方を、「語先後礼」というそうだ。「言葉を先に、礼を後に」という意味である。

あるサイトを見ると、「接客のお仕事などではこの基本型を徹底している企業もよく見かけます。また、就職活動に於いては必須とも言える挨拶の基本です」とまで書いてある。

就活をしている学生にとっては、誰もが知っている、あたりまえのマナーなのだろうか?

ということはですよ、この挨拶の仕方は、道徳の問題ではなく、たんなるビジネスマナーという「謎ルール」にすぎない、ということになる。

むしろ「ビジネスマナーに縛られず、心のこもった挨拶をしましょう」としたほうが、道徳教育として正しいと思うのだが、違うのかな。

まことにこの世は不可解である。

ビジネスマナーというのは、なかなか苦手である。

先方の会社などに対して「さん」付けするのが、いまだになじめない。あと、自分の職場の同僚を、第三者に対しては呼び捨てにするというルールも、なじめない。これって、世界標準なのか?同僚の中には、このマナーを完璧にマスターしている人がいて、世間知らずの僕は、恥じ入るばかりである。

そのうち、

「隣の小学校さんの○○さま、うちのクラスの××が○○さまのことを好きだと言っていましたよ」

みたいな会話が、小学校で飛び交うのだろうか。

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しるべの星

亡き人を悼むって、どういうことだろう。

まことに残念なことだが、このところ、有名人の突然の逝去のニュースをよく目にする。

僕がなんとなく違和感を抱くのは、「今ごろは天国で、大好きな○○さんと、酒を酌み交わしているのだろうな」とか、「天国にいる○○さんが、さびしくて××さんを呼んだのかもしれないね」みたいなコメントである。ちょっと無責任すぎるコメントだなあと感じるのは、僕だけだろうか。

「なんで私のような人間が生きながらえて、あの人が天に召されてしまうのか」というコメントも、そういうこと、言わない方がいいのに、と思ってしまうのは、僕だけだろうか。

コメントを求められると、言葉にならず、やはりそういったテンプレート的な表現を使わざるを得ないのだろうか。

死を悼む文章で、最近心に残ったのは、小説家の福永武彦が、中島敦について書いた文章である。

「若く死んだ小説家は誰しも、彼らが果すことの出来なかった未来を思ふことで哀惜きはまりないが、中島敦の場合は特にその感が深い。彼は大学を出て女学校の教師となり、教師をやめて南洋のパラオへ行き、帰国して文によって立つ決意をしたところで、忽ち死んだ。しかしその作品は、自我に憑かれ物に憑かれた思想的な小説から、世界の悪意を物語の框のなかに捉へた客観的な小説まで、完結した作品はその完成度によって、未完の作品は内部に含まれた可能性の量によって、すべて今書かれたやうに新鮮で、しかも既に古典と呼ぶにふさはしい。その醒めた眼は、現代の文学的混沌の夜空に輝く、一つのしるべの星である(昭和五十年十二月)」(『秋風日記』新潮社、1978年)

もちろんこれが書かれたのは、中島敦が亡くなって大分経ってからのことなので、親しい者が突然去った直後の気持ちとは異なる。しかし、この短い文章の中に、夭折した中島敦への哀惜と、その作品の永遠性が凝縮されていて、間然するところがない。してみると、亡き人への哀惜を直後に語るのは無理というもので、時間が経ち、気持ちが整理されてからこそ語ることができるのかもしれない。

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仕事仲間

僕がシティーボーイズのファンだと知っている後輩が、「きたろうさんがこんな番組に出てましたよ」と教えてくれた。それはテレビ朝日で日曜日の早朝に放送されている「はい!テレビ朝日です」という番組で、僕は見逃していたのだが、その後輩が動画配信サイトの公式チャンネルのリンクを貼って紹介してくれたおかげで、観ることができた。

アナウンサーがゲストにインタビューをするという形式の番組で、スタジオゲストはきたろうさん一人なのだが、大竹まことさんと斉木しげるさんもVTR出演していて、はからずもシティボーイズの3人の関係性を立体的に知る番組構成になっていた。

その番組の中できたろうさんが、

「3人はいい関係ですよ。今でも2人に出会って嬉しかったと思う。友だちじゃなくてこんなにつきあうってすごいことだよね」

と言っていて、僕はあらためて気づいた。シティボーイズは、友だちではなく、仕事仲間なのだと。

3人の関係はもう50年も続いているが、50年続いても、友だち関係にはならず、仕事仲間としてお互いを認識している、というのは、とても理想的な関係だと思う。それは50年経った今でも、適度な緊張感をもって仕事をしているということを意味する。

ちょっと話はズレるが、大林宣彦監督も、俳優とは極力、撮影現場以外の場所では会わず、映画の撮影現場で再会することを至上の喜びとしていた。それは、俳優を仕事仲間として認識していた証であろう。

ぼくも、その顰みにならって、仕事仲間とは馴れ合いにならず、お互いを尊重しつつ、適度な緊張感をもって接したいと考えているのだが、うまくいっているかどうかはわからない。

では友人は、といえば、僕はそもそも友人に対して不義理をしている場合が多くて何かを言える立場ではないのだが、このブログでは、高校時代の親友のコバヤシがしばしば登場し、コメント欄に頻繁に登場するこぶぎさんも友人である。以前は、コメント欄でこぶぎさんと漫才じみた応酬をしていたが、最近は記事の本文を書くだけで精一杯になり、こぶぎさんのコメントにあまりリアクションをとっていない。事情がわからない人がコメント欄を見たら、亀の絵文字をハンドルネームにしている得体の知れない者が、ただただ一方的にコメント欄を荒らしていると思ってしまうのではないかと心配してしまう。ここではっきり言っておきますが、亀の絵文字でおなじみのこぶぎさんは、友人であり、このブログの貴重な「コメント職人」です。もちろんこの2人以外にも友人はいるのだが、このブログの中では、コバヤシもこぶぎさんも、このブログの文脈上に必要な、ファンタジーとしての友人でもあるのだ。

…何を言っているのかだんだんわからなくなってきたが、あたりまえのことを言うと、仕事上の利害関係のない者同士が友人なのであり、あまりに気の合う仕事仲間を友人視するというのは、ほかの仕事仲間の手前、危険なのではないかと感じるのだが、それはよけいなお世話かもしれない。…って、ますます何を言いたいのかわからない。

そんな他人様のことはともかく、自分は、シティボーイズの関係性とか、大林宣彦監督の仕事論を範としながら、これからも仕事上のいろいろなプロジェクトを続けていこうと思う。

いつも以上にまとまりのない文章である。

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気分は赤毛連盟

5月2日(月)

あいかわらず、時間を見つけては、専門用語を韓国語で説明する辞典の校閲作業を行っているのだが、あんまり根を詰めてやっていると、ゲシュタルト崩壊っていうの?とにかくわけがわからなくなる瞬間がある。あるいは、あるときを境に、まったく頭が受け付けなくなったりもする。

専門用語とは言いながら、「牛乳」という項目などもあり、ふつうに「우유」とそのまま解説していて、それって専門用語か?説明するまでもないだろう、と疑いたくなるような用語も散見される。

しかし、こんな徒労感のともなう仕事は早く終わらせたいと思うあまり、つい根を詰めてしまう。

シャーロック・ホームズが主人公のコナン・ドイルによる短編小説で、「赤毛連盟」というのがある。ある赤毛の人が、赤毛連盟のオーディションに受かって、晴れて赤毛連盟の事務所で仕事をするようになるのだが、その仕事というのが、朝から晩まで、百科事典をひたすら丸写しするという意味のない仕事だった。実はその間にある事件が発生し、シャーロック・ホームズによって事件は解決する。赤毛連盟は、その赤毛の人を陥れるためのダミーの組織で、ある目的を達成するために、その赤毛の人を赤毛連盟の事務所に連れ出して、日がな一日、意味のない仕事をさせたのだった。その人が百科事典の「A」の項目を写し終わったところで事件が解決したので、やたら「A」がつく言葉について詳しくなった、というのがオチだったと記憶している。

ザ・ギースの「アダモさん」というコントは、このコナン・ドイルの小説をモチーフにしているのではないかと思ったが、それは牽強付会というべきであろう。

それはともかく、僕はいま、この「赤毛連盟」に登場する赤毛の人のような心境だ、ということを言いたいのである。わかりにくいね。

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続・ブルシット・ジョブ

4月30日(土)

大型連休は、山籠もりである。

仕事のことは忘れて、好きな本でも読みながら体調を整えようと思っていたのだが、韓国から仕事の依頼が来た。

ここから先は愚痴になりますけど、この仕事が、あまり筋のよくない仕事なのだ。

日本語の専門用語に対して韓国語で語義説明をする辞典を作りたいので、その監修・校閲をお願いしたい、という依頼である。

そう聞くと、なんとなくよさげな仕事に見えるでしょ?

「どのくらいの項目数ですか?」

「3400項目です」

「さ、3400項目!?」

つまり、3400項目の専門用語について、韓国語の解説文の原案を読み、その解説文が適切であるかどうかをチェックし、必要に応じて修正しなければならないのだ。

「期限はいつまでです?」

「5月1日から2カ月間です。契約書を取り交わしますから、きっちり2か月以内に納品してください」

「はぁ」

「断るなら今のうちです。その場合は、他の人を推薦してください」

「他の人って…」

誤解のないように言うと、依頼主も、この仕事の筋がよくないことを自覚しているのだが、上司から命令されて仕方なく僕に依頼してきたのである。僕に依頼してきた、ということは、ほかにあてがない、ということを意味する。仮に他の人を推薦したとすると、僕はそうとう非道な人間ということになってしまう。

僕は依頼主にも恩があり、その上司にも恩があるので、断るという選択肢は、たぶんあり得ない。

それに、これは自慢でも何でもなく率直に言うと、その筋の専門用語がわかり、かつ韓国語がわかる人間は、この国のどこをさがしても、僕くらいしかいないのである。

結局、引き受けることにして、3400項目の韓国語解説文をデータで送ってもらったのだが、プリントアウトすると、A4版で200枚くらいになった。

この校閲を、通常の仕事の合間をみて行うというのは、はっきり言って不可能である。可能にするとしたら、この大型連休中に作業を進めてしまうほかない。

ということで、大型連休中は、この作業に没頭しなければならなくなってしまった。

しかし、この仕事、まったくモチベーションが上がらないのである。

率直に言って、こんな辞典、誰が読むんだ?需要がまったく感じられない辞典なのである。しかし需要がなくても、「大人の事情」で作らなければならないのだろう。これもいわゆる「ブルシット・ジョブ」である。

むかしからよくあるたとえで、囚人が重い石を右から左に運ぶという、徒労感だけの仕事をさせられることがある、という都市伝説が語られることがあるが、この仕事も、それに近い感じの徒労感を抱かせる。

いちおうギャラは出るそうなのだが、それも微々たるものである。

なんでいつもこんな目に遭わなければならないのか。だが愚痴を言っても仕方ない。久しぶりにハングルにどっぷり浸ることができる機会だと割り切って前向きにとらえるしかない。

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移動と打合せの日々

4月13日(水)

新幹線に乗り、西に向かう。日帰り出張である。

今週は、移動と打合せに、大部分の時間がとられる。

昨日は朝から夜8時過ぎまで、職場で打合せが続いた。外からのお客さんとの打合せなので、つきっきりで対応しなければならない。

そして今日は、新幹線と在来線を乗り継いで4時間以上移動して、目的地に着いて早々に、打合せを行う。これもまた、ほとんど休みなく3時間ほど続いた。

打合せ以外の時間は、必然的に移動時間ということになるのだが、職場への通勤には車で2時間。その間はラジオを聴く以外は何もできない。

では新幹線の移動中は仕事できるのかといえば、僕は新幹線の中でパソコンを打とうとすると、酔ってしまうので、何もできない。

つまり出勤にせよ出張にせよ、長い移動時間には何もできない、ということなのである。

移動と打合せの間じゅう、山のようなメール、とまでいうのは極端だけれども、けっこう表現に気を遣って返信しなければならないメールが何件も来ており、返信の内容を考えるだけでも、頭が重くなって、やる気が失せてしまう。

返信しなければならないのだが、どうにも頭脳がストップしてしまうのである。

仕方がない、帰宅してから返信メールを書こう、と、そのときは決意するのだが、いざ帰宅してみると、もう完全に脳が疲労していて、何も書く気が起きなくなる。

では、明日にできるかといえば、明日は朝から夜まで病院をハシゴして検査の旅に出るので、日中は時間がとれそうにない。

金曜日は、やはり朝から職場にお客さんが来るので、早起きして2時間かけて車で移動して、つきっきりで何人かのお客さんと打合せをするので、時間がとれるかどうか。

打合せをすると、打ち合わせしっぱなし、というわけには行かなくて、その打合せをふまえた作業をしなければならないのだが、その作業時間もとれない。

その間にも表現に気を遣って返信しなければならないメールがひっきりなしに来る。つまり雪だるま式に膨れ上がるのである。

これを借金にたとえるとするなら、いつになったら、借金を返すことができるのか、やはり5月の大型連休かなあ。

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