日記・コラム・つぶやき

いかなる人をも軽んじない

前回の「ピンクのマスク」のエピソードが、なぜ印象的だったのかを考えたのだが、

「軽んじられていない」

ことを実感するエピソードだったからだ、ということに気がついた。

人は、自分が「軽んじられていない」と実感したときに、相手を信頼することができるのではないか。

この国の政権担当者が記者会見を開いても、ちっとも心に響かないのは、僕たちを軽んじていることがまるわかりだからである。僕たちだけではない。言葉そのものが、軽んじられているのである。

どんなに政府からいろいろと要請されても、僕たちを軽んじている人の言うことなど、どうして重んじることができようか。

日本テレビの夕方のニュース番組「Every」をたまたま見ていたら、成人式のニュースをやっていた。このコロナ禍で、成人式を中止や延期になる自治体が多かったことを伝えていた。

ニュース映像が流れたあと、スタジオの藤井アナウンサーが、こんなことを言った。

「成人式が中止になって、多くの人が残念に思っていることと思います。話を聞きますと、人によっては時間をかけて髪を伸ばし、友人と振袖が重ならないように準備を進めるんだといいます。決して安くないお金を親に出してもらったという人もいるでしょう。一生に一度のことですから「残念」という言葉では足りないかもしれません。ただ、この新型ウィルスに苦しんだ経験は人の気持ちを理解するうえでとても重要だったと思います。世の中、思い通りにいかなくても誰かを批判するのではなく、誰かのために力を発揮できる強い大人でいてください。成人おめでとうございます」

短いながらも、言葉を選びながら誠実に語りかけた藤井アナの言葉に、少し感動してしまった。僕は成人式なんてクソ食らえ!と思う人間だし、この語りの内容に全面的に賛成というわけではないのだが、それでも、多くの当事者たちが成人式を楽しみにしていたことは事実だし、その機会を奪われたことに対する悲しみは、尊重すべきなのだと思う。そして藤井アナの語りは、その人たちの気持ちに配慮した、言葉を尽くしたメッセージだったと思う。

「いかなる人をも軽んじない」ことが、人との信頼関係を築く最大の条件なのではないか、と、他人を軽んじがちな僕は、肝に銘じたのであった。

話は変わるが、古い仲間がSNSで、高血圧だが医者に行く気はない、とつぶやいたら、コメント欄で同じ世代の仲間が一斉に「医者に診てもらえ」と説得を始めた。それ自体はいいのだが、その理由が、

本来安価な投薬治療で済むはずのものが未必の故意で重症化すると、国民全体の金銭的負担を無責任に増やすことになる。要するに社会人である以上は健康で過ごす責任がある」

会社としてはどこのパーツが欠けたとしても、会社に関わるすべての方(従業員、お取引様、お客様)にご迷惑がかかる」

という言い方をしていて、「たしかに正しいけど、言葉が冷たいなあ」と思わずにはいられなかった。いつぞやの、「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くなら……」というフリーアナウンサーの発言を思い出した。

もちろん、そう考える僕の心がねじ曲がっているのは重々承知なのだが。「社会に迷惑がかかる」(つまり俺たちに迷惑がかかる)という理屈ではなく、「自分自身の身を守るため」とか「自分自身が幸福に生きるために」という理屈で語りかけられないものだろうか。僕自身も、自分の身体をほったらかしにしておいたツケで、大病を患った経験があるので、そんな言い方をされるとよけいに切なくなる。でも、世間にはそんなふうに思っている人がけっこう多いのだということを、これらのコメントを見て、気づかされたのである。

| | コメント (0)

2度目の緊急事態宣言が出された日

1月7日(木)

何度でも書くが、緊急事態宣言が検討されてから発出されるまでの時間は、

「あるある言いたい!」

と言いながら、なかなかあるあるネタを言わないレイザーラモンRGのネタのようなものである。

しかも、今回発出される緊急事態宣言の中身は、具体的にどのように対応したらいいか、判断に困るような中途半端な内容である。

「外出自粛を要請します。午後8時以降は不要不急の外出を自粛してください」

え?そんなことなの?

こっちが知りたいのは、県外との往来を制限するべきかどうかなのだが、それについてはとくに触れていない。うちの職場は仕事柄、県外出張をする人が多いのだが、ほうっておくと、ふつーにみんな出張に行っちゃうぞ!いいのか?

で、緊急事態宣言の対象都県以外の道府県では、飲食店の時短要請がないところもあるから、出張先で会食が行われたりするかもしれないぞ。うちの職場は禁止しているんだけど、守ってくれているかどうか、確かめようがないのだ。

これを「ザル法」と言わずして、なんと言おう。

…いや、今日僕が言いたいのは、そんなことではない。

ちょうど1年前のこと、覚えていますかな?

SNSのタイムラインに誕生日のお祝いコメントが来るのが鬱陶しかったので、誕生日を非公開にしてみたらどうなるか、1年後の誕生日に向けて、実験してみることにしたのであった。

そして1年がたち、今日を迎えました。すると…、

おめでとうございます!お祝いのコメントは0件です!おざなりのお祝いコメントがなくなって、じつに清々しい。

よかったよかった。何がよかったって、タイムライン上はおろか、個人的にも、誰からもお祝いの言葉をもらわなかったことである!これはまさしく快挙である。

夜、仕事から帰宅すると、玄関のドアを開けるなり、お風呂から出たばかりの2歳9か月の娘が全裸で、

「はっぴばーすでい くーゆー はっぴばーすでい くーゆー はっぴばーすでい びあ ぱーぱー はっぴばーすでい くーゆー♪ おめでとう!」

と歌ってくれたのが、唯一の、そして最高のプレゼントだった。

| | コメント (3)

古い友人

古い友人とは、もう長い間会っていなかったりするのだが、ごくたまにメッセージなどをもらうと、こちらの近況を話している、話していないにかかわらず、いまの僕を見透かしたような、それでいてさりげない励ましをくれたりする。

ある友人には、よく愚痴をこぼしたりすることがあるのだが、

「働き過ぎも禁物。代わりがいないと考えがちですが、大丈夫、誰かがなんとかしてくれます。代役の人の仕事ぶりが気に入らなくても、そんなものと割り切るのが肝心」

と、僕の性格や現状をふまえた、短いけれどありがたい助言。

別の友人には、こちらの近況をほとんど伝えておらず、向こうもまたこちらの近況を聞こうともしないのだが、

無理して頑張るのではなく出来ることをきっちりする。これが長期戦を乗り切る術だと思いますので…」

という、これまた、いまの僕の現状を見透かしているようなアドバイスである。

こういう助言をくれるのは、僕の性格をよくわかっているからというだけでなく、その友人自身が仕事で同様の体験をしているからなのだろう。自身の体験が生み出した言葉である。

たまたま同じ時に、同じような内容の励ましを、二人の古い友人からもらったので、些細なことだが書きとめておく。

| | コメント (0)

年賀状会議2020

12月31日(金)

1年の終わりでいちばん憂鬱なことと言えば、年賀状を作成することである。このブログで何度も書いてきた

大晦日になって、ようやく年賀状を作成する時間をとることができた。というか、ほかにやることはたくさんあるのだけれど、年を越す前になんとか仕上げなければ、年を越してしまったら一気にやる気が失せてしまうので、憂鬱だが重い腰を上げて年賀状を作らなければならないのである。

手順としては、まず、裏面のデザインである。子どもが生まれてからは、子どもの写真を中心に2~3枚ほどレイアウトしなければならない。まずはその写真選びから「年賀状会議」が始まる。

写真選びが決まったら、次は裏面全体のデザインを考える。といっても、だいたいは過去に作った年賀状のレイアウトを踏襲する。今回は、「2017年元旦用」のレイアウトをほぼそのまま踏襲することにした。

レイアウトが確定すると、今度は、裏面の印刷に取りかかる。毎年、200枚ていどを、インクジェットのプリンターでプリントアウトする。

裏面の印刷が終わったら、今度は、送付先の吟味である。送付先の名簿はもちろんあるのだが、これを今年の年賀状と照らし合わせ、住所変更がないかをチェックする。あとは、今年もらった喪中はがきと照らし合わせたり、名簿にはあっても年賀状をもらっていない人がいないかをチェックしたりして、送付先を確定していく。ここ最近はなるべく減らす方向で送付先を決めていて、今年はどうやら160通ていどにおさまりそうである。

このときに、今年もらった(つまり1年ほど前にもらった)年賀状を一つ一つじっくり見ていくことになるのだが、もうほとんどの人が、年賀状だけのやりとりしかない。この先も会う予定がないだろうと思われる人ばかりである。なかには苦手な人も含まれる。いっそ出すのをやめてしまいたいと思うのだが、それでも100人のうち2~3人くらいは、後の仕事につながったりすることもあるので、やはりやめることができない。

送付先が確定したら、宛名面の印刷である。住所録の中から確定した送付先にチェックをすると、最終的な送付数がわかる。ここ最近はなるべく減らす方向で送付先を決めていることもあり、今年はどうやら160通ていどにおさまりそうである。

使っている年賀状ソフトが不安定なせいなのか、宛名面の印刷がなかなかうまくいかない。同じ人が2度印刷されてしまうことがある。途中で気がついて、10枚ほど年賀状は無駄になってしまった。もし気がつかなかったら、同じ人に2枚の年賀状を送ってしまったことだろう。

かくして、160枚以上の印刷が終わる。時間にして半日ほどの作業である。ここまでは純然たる機械作業であり、一人ひとりに対する思いだとか、懐かしい気持ちに浸るという時間的・精神的な余裕がまったくない。印刷が終わったらすぐに輪ゴムで束ねて、郵便ポストに投函する。

メールだのLINEだのと、世の中はこれだけデジタルが発達しているのに、どうしてこんなに手間のかかる年賀状が廃らないのだろうか?役所で紙の公文書にハンコを押すことが続いていることにも通じているように思う。よくも悪くもこの国の「紙信仰」のなせる業なのだろう。

| | コメント (0)

おじいちゃんのやかん

12月26日(土)

僕は3年前に大病を患ってからお酒を飲まなくなり、もっぱら家では麦茶を飲んでいる。

2歳9ヶ月になる娘も必ず麦茶を飲む。ただし、僕は「水出し」なのに対して、娘は「煮出し」である。やかんにはいつも麦茶が入っている。

たまに僕の実家に娘を連れて行くときも、実家の母は自分の孫のために必ず麦茶を沸かしておいてくれる。

この日、娘を連れて実家に行ったときも、娘のために麦茶を沸かしておいてくれていた。

「階段の下に物入れがあるでしょう」

「うん」

「そこを片づけていたら、いままで全然見たことがなかったやかんが出てきたのよ」

「やかん?」

「うん。いままで全然使っていないやかん。箱に入っていたのよ」

そう言うと母は、そのやかんを持ってきた。

「麦茶用のやかんよ。今日はそのやかんで麦茶を作ったんだけど」

そう言うと、やかんの蓋を開けた。たしかに、中は麦茶を煮出すために作られている構造のようだった。

「どうしたの?これ」

やかんが入っていた箱を見たらね、お父さんの字で、大きく『麦茶用』と書いてあったのよ。実際、その箱にももともと『麦茶用』って書いてあるんだけどね、小さくて読みにくいから、お父さんがわざわざマジックで『麦茶用』と書いたんだね」

父がずっと前に買ったやかんらしいのだが、結局、使わないままになっていたらしい。

「だいぶいろんなものを処分したつもりだったんだけどね。どうしていままで気づかなかったのかしら」

たしかに不思議である。母もこのやかんの存在はいままで知らなかったのである。

「でもこれで、麦茶を作るのもだいぶ楽になったわよ。いままではふだん使っているやかんで麦茶を沸かしていたから」それまで、麦茶を沸かして飲むなんてことをしてこなかったのだ。

父は3年前、2017年の11月に死んだ。そしてその翌年の3月に娘が生まれた。あと半年、父が生きていれば、父は自分の孫の顔を見ることができたのだが、それがかなわなかった。

父はなぜ、麦茶用のやかんを買ったのだろう?そしてなぜわざわざ「麦茶用」と、大きく書いたのだろう?自分が麦茶を飲むつもりで買ったのかもしれないが、結局は使わないままになってしまっているではないか。

それが3年以上経って、「麦茶用」と書いた父の筆跡とともに突然目の前にあらわれて、僕の娘、つまり父の孫娘の麦茶を沸かすために重宝しているのだ。

おじいちゃんから孫への、時を超えたクリスマスプレゼントなのだろうか?と、ふとそんな感傷的な思いが頭をよぎった。

「おちゃちょーだい!」

娘のコップに、僕は麦茶を注いだ。

| | コメント (0)

とんだ仕事納め

この3日間は、けっこうたいへんだった。

12月23日(水)

久しぶりの、飛行機を使った出張である。今年初めてじゃないだろうか。

コロナがたいへんなので、できれば出張は避けたいところなのだが、先方がどうしてもということで、日程調整したところ、年内ではこの日しか空いていなかった。ふだんならば新幹線を使って行っているのだが、飛行機の方が感染リスクが少ないということだったので、飛行機で往復する日帰り出張と相成ったのである。

久しぶりだから、飛行機の乗り方も忘れてしまった。いまはクレジットカードを自動チェックイン機に入れればチケットを発行してくれるというわけにはいかないんだね。

新幹線で5時間くらいかかるところを、飛行機ならば1時間ほど乗っていれば到着した。新幹線よりもずいぶんと楽である。こんなことならば、今度からは飛行機を使うことにしよう。

仕事相手はむかしからよく知る方だったが、見かけによらず感染防止に気を遣ってくれるタイプの方だったので、安心した。滞在時間は5時間ほどだったが、仕事も順調に進み、短かかったが充実した時間を過ごした。

12月24日(木)

ある雑誌での対談のため、都内の出版社に向かう。

対談の前に、プロのカメラマンが来て、掲載用の写真を撮ってくれるという。出版社の雑然とした部屋の中だと映えないので、外に出て撮りましょうということになり、人通りの多い幹線道路のバス停だとか、小さな公園だとかで、バッシャバッシャ写真を撮った。

そういえば、むかしいちど、同じような体験をしたことがあるのだが、町なかで、プロのカメラマンにすげえ長い望遠レンズとかレフ板を使って写真を撮られるのは、かなり恥ずかしい。道行く人が誰だろうと思って顔を覗くと、(誰だ?こいつ)みたいな顔で通り過ぎていくのだ。

「念のため、出版社の中でも撮りましょう」

外から戻って、雑然とした事務所の片隅で撮影したら、

「これがいちばんいいかもしれませんね」

とカメラマンがつぶやいた。寒い外でのさっきまでの撮影は何だったのだ?

どの写真が採用されるか、半年後のお楽しみである。

さて、対談は3時間くらいに及び、楽しい時間だったのだが、どちらかというと僕が聞き手の役回りであったため、事前にTBSラジオのいろいろなパーソナリティーのゲスト対談のコーナーを聴きまくり、イメージトレーニングをしたにもかかわらず、自分の「聞く力」の拙さにすっかりと落ち込んでしまった。

世に「座談の名手」という言葉があるが、自分にはとても無理だということを実感した。そしてあらためて、何気なくゲストと対談しているラジオパーソナリティーたちの資質の高さに、感嘆したのである。やはり世に出るラジオパーソナリティーというのはそうなる理由があるのだな。

12月25日(金)

実質上の仕事納めである。午後から仕事だったので、比較的ゆったりと出勤したら、着くなり事務職員さんが待ち構えていて、至急に対応しなければならない案件がありますという。ま、最近はそんなことばかりなのだが。

仕事部屋に荷物を置いて、ひと息つく暇もなく、その案件を抱えて社長や副社長に相談に行き、なんとか対応についての結論が出た。

その後引き続き、社長室で打ち合わせをし、ようやく仕事部屋に戻ったのだが、今年中にどうしても片づけなければならない仕事があり、それを一つ一つ片づけていくうちに、あっという間に夜になってしまった。

いつもは僕より遅くまで残っている職員さんが、僕の仕事部屋をノックして、

「私たち、これで失礼します。今年はいろいろとありがとうございました」

「こちらこそ、ありがとうございました。よいお年をお迎えください」

「先生もよいお年を」

と帰って行った。

僕もそれから少しして仕事を切り上げ、車で2時間以上かけて帰宅することにした。車内では、もちろんラジオが友である。

自宅のマンションに着いたのが午後10時過ぎ。ちょうどTBSラジオ「武田砂鉄 アシタノカレッジ」が始まった時間である。

車をマンションの立体駐車場に入れようと、立体駐車場のシャッターを開けようとして鍵を差し込み、タッチパネルを操作すると、けたたましい警報音が鳴り響いた。

ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ、ピ…。

なんだなんだ?何が起こったのか?

タッチパネルを見ると、

「AC200V電源停電」

という、見たこともない表示があらわれた。

こうなるともう、なすすべがない。僕は暗い中を、どこかに連絡先が書いていないかと探し、ようやく立体駐車場の管理会社の電話番号を見つけた。

電話をすると、

「近くの者がこれから対応にうかがいますので、待っていてください」

という。仕方がないので、車の中で待つことにした。

車から流れるラジオでは、武田砂鉄さんと辛酸なめ子さんが対談をしているのだが、立体駐車場のことが気になって、まったく内容が入ってこない。

そのうち、今度は、マンションの警備を担当しているSECOMの人がやってきた。

「どうかしましたか?警報器が鳴ったので駆けつけたのですが」

なるほど、警報器が鳴ると、SECOMが飛んでくるしくみになっているのだな、それにしても迅速な対応だなあと感心しつつ、

「実は、立体駐車場がかくかくしかじかで…すでに立体駐車場の管理会社にも連絡をしています」

と説明した。

「そうですか。ブレーカーが落ちたんですかね?…でも素人が下手にいじらない方がよさそうですね。それでは、その人が来るまで待ちましょう。いつごろ来ると言ってましたか?」

「さあ、いまから向かいますと言ったきりで」

「そうですか…」

僕は急に不安になった。立体駐車場の管理会社の人がどのくらいの時間できてくれるのかが、まったくわからない。ことによると深夜になるのだろうか?そうなったら一晩、車の中で過ごすしかないなあ、と覚悟した。まったく、とんだクリスマスである。

するとそれから10分くらいして、立体駐車場の管理会社の人が到着した。

僕が事情を説明すると、その人は立体駐車場の電気システムみたいなところを操作したり、タッチパネルのところをピピピと操作したりした。いろいろと試みているうちに、シャッターが開きだした。

「ひとまず、開けることはできましたが、根本的な原因がわからないので、また止まってしまう可能性があります」

「はあ」

「今のうちに車を入れてください」

「わかりました」

僕は所定の位置に車を入れて、ようやく解放されたのである。

「どうそご自宅にお帰りください。あとは私たちでやりますので」

立体駐車場の管理会社の人とSECOMの人は、そのあとも残って、立体駐車場の故障の根本的な原因の追求を続けたようだった。まったく、彼らにとってもとんだクリスマスである。

ようやく自宅に帰れたのが夜11時近く。家族はすでに寝ていた。

| | コメント (0)

国際会議・3回目

12月20日(日)

この土日は、今年度3回目のオンライン国際会議である。

オンライン開催があたりまえになってきたからか、コロナ以前よりも、国際会議に参加する回数が例年よりも多い。

3回のうち2回は、職務上、参加して発表しなければならない国際会議だったのだが、今回は、日頃お世話になっている方から頼まれてしまったので、これもまた断ることができない。

今回は発表者ではなく、討論者として参加する。

討論者というのは、発表者の発表に対して、コメントや疑問点を提示する役割である。とくに、発表の疑問点を提示して、発表者に投げかける、というのが、いちばん重要な役割である。

発表者にくらべて討論者に与えられた時間は短く、事前の原稿もそれほど多くないのだが、発表者の原稿を読み、そこから問題点を抽出し、意味のある議論をしなければならないという点で、かえって手間がかかるし、こっちの能力も試されるので、苦労するわりには報われない役割である。

しかも今回の会議のテーマは、僕がまったく門外漢のテーマで、ほかはみんな、この分野の一線で活躍している方たちばかりである。というか、このテーマ、嫌いなんだけどな…。

おまけに、僕が討論を担当する発表者は、韓国でお世話になった有能な友人である。彼の原稿は当然ハングルで書かれているので、あらかじめ送られてくるハングルの原稿を読み込んで、それをふまえて、門外漢の僕がコメントを書かなければならない。もう地獄である。

そこでハタと気がついた。そうか、僕はただたんにハングルが読めるという理由で選ばれたのか、と。たまたまこの国際会議を企画した方が、頼みやすい僕に頼んだということなのだろう。適材適所とは、ほど遠い人選である。

土曜日は午前10時から午後6時半まで、日曜日は午前9時から午後7時まで、という長期戦である。僕が登壇するのは2日目、日曜日の午後3時半頃からなのだが、実質、土日の2日間がこのためにまるまる潰れてしまうことになる。

初日は僕のやることはなかったが、それでも参加しないわけもいかず、適宜休みながら聴いていたとはいえ、結局丸一日、パソコンの周りで過ごしたのだった。

しかも、日本と中国と韓国の3カ国の会議なので、日本人が発表の場合は、日→中、日→韓の通訳(しかも逐語訳)が必要だし、韓国人が発表の場合は韓→中、韓→日、中国人が発表の場合は、中→日、中→韓の通訳が必要なので、発表時間はふだんの3倍かかる。通訳は、日韓間で1人、中韓間で1人、日中間で1人なので、このうちどの人が欠けても、会議はストップしてしまうのだ。

そして2日目。僕が担当する韓国の発表者が朝イチで発表し、それに対する僕のコメントが午後3時半頃からなので、まったく気が抜けない時間が続いた。

予定の時間から30分ほど過ぎて、4時頃に僕の番が来た。

ところが、僕の発言を韓国語に通訳してくれる人が、突然、画面からいなくなってしまった。

慌てたのは、会議の主催者である。日本語から韓国語に通訳できる人は、その人しかいないからである。いくら呼びかけても応答しない。トイレにでも行ったのだろうか?

「鬼瓦先生、すみません。時間がもったいないので、喋った内容を自分で韓国語に通訳してください」

ええええぇぇぇぇっ!!

アドリブに弱いんだよ!俺は!

「わ、わかりました」

自分で喋った内容を、自分で韓国語に通訳したのだが、久しぶりに韓国語を喋ったので、伝わっているのかどうかわからない。

必死で喋っていたら、いつのまにか通訳の方が画面に復帰していた。

「もう大丈夫ですよ」

というわけで、本題に入る前の前置きを喋ったあたりで、通訳を交替できたのだった。

そこでまた、僕は気づいた。

そうか、こういう不測の事態が起こったときに、自分で韓国語の通訳できるヤツがいいということで、選ばれたのだと。

| | コメント (0)

ルノアールのお茶について考える

書くことが何もないので、どうでもいい話をひとつ。

TBSラジオ「アシタノカレッジ」で、武田砂鉄さんと写真家の石川直樹さんが対談していて、最後の方で、喫茶室ルノアールで出されるお茶についての話題になった。あのお茶は、「早く出ていけ」という意味なのか、それとも「どうぞゆっくりしていってください」という意味なのか…。

これはたしかに大問題である。武田砂鉄さんは、番組が終わった後に、自身のTwitterで、

ようやくお会いできた写真家・石川直樹さんと「喫茶室ルノアールで出されたお茶を『ゆっくりしていってください』ととらえるか、『そろそろ……』ととらえるか」という、大切な議論ができて楽しかった。」

と書いていた。

それで思い出したのだが。

いま使っている僕のノートパソコンでは、ずーっと原稿を書いていたりすると、画面の右下の方から、びよ~んとマグカップの絵が顔を出して、

「入力時間が長くなっています。そろそろ休憩しませんか?」

みたいなメッセージがあらわれる。これ、僕のノートパソコンだけに出てくるのかな?

そんなことを無視して、原稿を書き続けていると、そのメッセージは引っ込み、またしばらくして、びよ~んとマグカップが顔出して、

「入力時間が長くなっています。そろそろ休憩しませんか?」

というメッセージがあらわれる。

うるせえな、こっちはそれどころじゃないんだ、と思いつつ、ふたたびそのメッセージを無視して入力し続けていると、どうやら敵はあきらめたらしい。

よかったよかった、と思っていると、今度はしばらくして、メッセージがなく、マグカップの絵だけが、そろ~りと画面の右下に顔を出す。

それがなんとも、申し訳なさそうな感じなのだ。

「あのう…そろそろ…」

とでも言いたがっている感じが伝わってくる。

それでも無視をして入力していると、しばらくしてまた、マグカップの絵だけがそろ~りと画面の右下に顔を出して、

「あのう…そろそろ…、ごめんなさい、決してお仕事の邪魔をしているわけではないんです。ただ、そろそろお疲れかな、と思って…」

という感じであらわれてくるのだ。

それでも無視して入力を続けていると、しばらくしてまた、マグカップの絵だけがそろ~りと画面の右下に顔を出して、

「…ほんとしつこくてごめんなさい。でももうそろそろお茶でも…」

と、かなり申し訳なさそうな感じに思えてくる。

同じマグカップの絵が出てくるだけなのだが、時間が経つにつれて、そろ~り度合いというのか、申し訳なさ度合いというのが、強くなっていくような感じがするのだ。ま、こっちの受け取り方の問題なのだが。

ここで最初のルノアールのお茶に話を戻すと、画面上に出てくるマグカップの絵は、「いいかげん、入力作業をやめろ」というメッセージなので、ルノアールのお茶もやはり、「早く出ていけ」というメッセージとも受け取れるし、その一方で画面上に出てくるマグカップの絵は、「少し休憩したらどうですか」というメッセージでもあるので、ルノアールのお茶も「どうぞゆっくりしていってください」という意味に受け取れる。

結局どっちなのだろう?よくわからない。

| | コメント (1)

いまさらながら、新しい日常について考える

12月18日(金)

今週を振り返ってみる。

14日(月)年休を取り、自宅から片道2時間の病院で定期検査。

15日(火)出勤。午前、会議。午後、全体会議

16日(水)出勤。午後、研究会

17日(木)午前、自宅から片道2時間の病院で診察。そのあと出勤し、午後、最高意志決定会議。

18日(金)出勤。午前、会議。午後、研究会

この間、矢のようなメールが届き、ひたすら打ち返す。そのほか、いろいろな根回しや交渉で職場内を行き来す。

おまけに通勤に往復5時間以上かかるのだから、もうグッタリである。

そんなことはともかく。

いまさらながら、新しい日常ということについて、考えている。

いまや人前でマスクをしていないと、パンツをはいていないのと同じような感覚に陥る、というのは、あるあるなのだろうか?

今月になってようやく、多量のアクリル製衝立がうちの職場に導入されて、会議室などでも、隣の人との間にアクリル製の衝立が立てられるようになった。

不思議なもので、会議や研究会の場で、アクリル製の衝立が間に立っただけで、ずいぶんと落ち着くのだ。感染の不安から、少し解放されたことを意味しているのだろう。これもまた、今までにない感覚である。

大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』の、坂本龍一によるサントラのアルバムのキャッチコピーは、「異常も、日々続くと、正常になる」(仲畑貴志)だったが、まさにいまが、その状況である。

つい最近、Facebook上の「友だち」が、「自分の知り合いが、ぜひ鬼瓦さんと友だちになりたいそうです」と言ってきて、ほどなくしてそのご本人から友だち申請が来たので、承認した。もちろん僕は全然知らない人なのだが、どうも教育のお仕事についておられる方らしい。

友だち申請を承認すると、とたんにその方の記事がタイムライン上に出現してくる。見たところ、どうやら活発なアウトドア派の方のようで、僕とはおよそ真逆のライフスタイルのようであった。

で、僕は、タイムライン上に流れてくる、ここ数日のその方の記事を見て、驚いた。

地元の友人たちとか、学生時代の友人たちとかと、複数で飲み会をしている写真が立て続けにアップされていて、満面の笑顔で、お酒を持ってピースサインをしている。問題なのは、全員、マスクをせずに、しかも数人が体をピタリと寄せ合って、ほろ酔い加減でじつに機嫌良く笑っている写真だということなのだ。コロナ前の写真かな?と思ったが、そうではなく、感染が拡大しているいま現在の写真である。

おいおい!密だよ密!

マスク会食は???

というか、この状況で、会食の写真をあげるってどういうこと?!

いや、会食が悪いというわけではない(僕なら絶対しないけど)。

百歩譲って、会食をしたとしても、その写真を、このタイミングで公開するのは、どうなのだろう?感染者数が過去最多とニュースで言っているタイミングだぜ。

写真を撮っている以外の時間はマスクをしていたのかもしれないけど、写真からはおよそそんなふうには感じられない。いくら気の合う仲間たちだといっても、なにも写真を撮るのにピッタリくっつくことはないだろう!

しかも、その方が、どうも教育を職業としているらしいということにも、引っかかるのだ。

さらに引っかかることは、その人だけでなくその場に一緒にいた人たちの中に、「こういうご時世に、こんな写真を撮るのは、マズいんじゃないの?」と注意する人が誰もいなかったということだ。「類は友を呼ぶ」とは、まさにこのことである。

自分たちはアウトドア派で体鍛えているから感染しない、とでも思っているのかな?…と思いたくなるほど、僕にとっては心がざわつく写真なのだった。

コロナ前だったら、飲み会のふつうの写真で、なんとも思わないんだけどね。いまはすごく不愉快な写真に思えてくる、ということは、これもまた、「新しい日常」なのだろう。

しかし一方で、僕はある仮説を抱きつつある。

それは、この種の人たち、つまり、このコロナ禍の中でも、そんなこととは無関係に、無邪気に飲み会をしている人たちが、実はけっこういるのではないだろうか。

古い価値観をたとえて、「それは昭和の考え方だよ」という言い方をしたりするが、そのうち、古い価値観のたとえとして、

「それはコロナ前の考え方だよ」

という言い方が、近い将来、ふつうに使われるようになるかもしれない。

| | コメント (0)

宅急便についての些細な話

12月14日(月)

年休を取って、病院に検査に行く。例によって、片道2時間かかる病院である。

年休を取ったといっても、職場からは容赦ないメールが次々と届く。提出期限がとっくに過ぎている書類を早く出せとか、海外からの思いもよらぬ連絡が突然来て対応をどうしましょう、とか、経費の使い方をどうすべきかご判断ください、とか。

こっちは薬の副作用もあってしんどいので、「明日考えます」と、問題を先送りにした。

検査が終わると、外は小雨が降っていた。それだけでもう精神的にゲンナリなのだが、(これからまたバスと電車を乗り継いで2時間かけて家に帰るのか)と考えると、余計にしんどい。

そういえば、宅急便を出さなければいけなかったんだった。カバンの中に、出版社に戻す校正を入れた封筒を入れておいたのだった。「着払い」の宅急便の伝票が入っていたので、封筒に伝票を貼って、あとはコンビニで出すだけの状態にしておいた。

病院の停留所にバスが来るまで時間があったので、100mくらい離れたところにあるコンビニまで行って、宅急便を出すことにした。

ちょっと待てよ。たしか宅急便をあつかうコンビニは、限られていたんじゃなかったかな?以前、クロネコヤマトとコンビニ業界が大げんかして、宅急便を扱わないコンビニがあったと記憶している。

あの件はどうなったのだろう?もう時間も経ったことだし、和解した可能性もあるぞ。一か八か、コンビニに行ってみよう。

…ということで、小雨の中、100mほど歩いて、コンビニに着いた。

コンビニのレジには、僕よりもはるかに年上と思われるご婦人、つまりおばちゃんがいた。

「あのう…宅急便扱ってますか?」

僕は念のため聞いてみた。

「ええ、扱ってますよ」

「そうですか」

僕は安心した。

「こちらへどうぞ」

隣のレジに誘導されると、

「郵便局に限られますよ」

とレジのおばちゃんが言う。

「郵便局?」

「ええ」

「ちょ、…ちょっと…宅急便じゃないんですか?」

「ですから、郵便局の宅急便なら扱っています」

おいおい!「宅急便」というのは、ヤマト運輸の登録商標だぞ!映画「魔女の宅急便」の公開に際しても、ヤマト運輸とスポンサー契約を締結したんだ、コンビニで働いているならそれくらいのことは…、と小一時間くらい説教したい気になったが、そうか、大部分の人は、「宅急便」をヤマト運輸の登録商標だということを知らないんだな、と思い直し、グッとこらえた。

僕は、「宅急便は扱っていますか?」と聞くべきではなく、「クロネコヤマトは扱っていますか?」と聞くべきだったのだ。

それに、そのコンビニは、もともとクロネコヤマトを扱っていないことを、あらかじめ知っておくべきだったのだ。

つまり、悪いのは全部僕の方である。

それにしても、である。

着払いだとしても、宅急便だと数枚の校正を封入した封筒を送るだけで830円もかかるのだ。これだったら、郵便で送った方が割安だったんじゃないの?

つまり、悪いのは僕ではなく、出版社ではないだろうか?

| | コメント (0)

より以前の記事一覧