日記・コラム・つぶやき

背広コレクター

4月13日(土)

僕の住むマンションには本やモノが溢れていて、ふつうならば3人家族には十分な広さなのに、それらが生活空間を圧迫している。少しでもスペースを作らなければ小学生になった子どもの勉強部屋が確保できないという危機感から、まずは衣服の整理からはじめることにした。

もう着る機会がないような服を片っ端から捨てていくという方針だったが、各部屋のクローゼットやハンガーラックなどから、僕が買った大量の背広の上下が出てきた。出るわ出るわ、しかもそれが同じ色調のものばかりで、とくにバリエーションがあるわけでもなく、なぜこんなに大量の背広を買ったのか記憶にない。なかには、買った状態のまま1回も着ていない背広もあった。

そもそも僕は、仕事で背広を着ることがほとんどなく、公式的な行事があるとき、1~2カ月に1度、着るか着ないかといった程度である。頻繁に着るならまだしも、これでは週7日の毎日、各曜日ごとに着る背広を決めてとっかえひっかえして着たとしてもなお、着る機会のない背広が残ってしまう、というほどの数である。

思い切って捨てたいところなのだが、どれもまだ十分に着られるので、もったいなくて捨てずに残すことにした。でもその結果、ハンガーラックの大部分が背広の上下で占領されてしまった。これからいったいどれくらい背広を着る機会があるのだろう?

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PayPayの話

どうやら前回の「花粉症?」という記事で、このブログも4000回を迎えたらしい。といっても、下書き状態にしているものがいくつもあるから、実際に公開されているものは4000記事よりも若干少ない。

むかしは、1000回単位の区切りでベスト・オブ・エピソードみたいなことをやっていたと記憶するが、いまは読者もほとんどいないし、この数年、さしたる出来事を書いているわけでもないから、やっても仕方がない。

今日書こうと思うのは、PayPayのお話しである。

昨年、クラス会に参加したときのことである。高校時代バスケ部にいたIさんという人が、着物を着てクラス会に参加していた。「趣味なのよ」と本人は言っていたが、参加した人のほとんどが普段着に近い服装をしているなかで、ひとり着物で登場するというのは、何より目立つし、そのキリッとした雰囲気にはちょっと圧倒された。各人の挨拶のなかでも、Iさんのご挨拶はビシッと決まっていて、ふだんとても丁寧な生活をしているのだろうなと思わせるたたずまいだった。

クラス会が終わり、同じ店で2次会を行う。10年ぶりのクラス会だったので話は尽きなかったが、いよいよお開きの時間となった。2次会のお金は、ひとりあたり2000円とか、そのくらいの値段だったと思う。僕は現金を準備していると、

「私、現金持ってないのよ」とIさんがスマホを掲げた。「PayPayでもいい?」

そうか、Iさんは財布を持たない生活をしているのか…。もう余計なものは持たないということなのだろう。着物を着こなしていることといい、財布を持たないことといい、何というか、樹木希林さんみたいだなあと感心した(実際に樹木希林さんがそういう生き方をされていたのかはわからない。あくまでも僕の勝手なイメージである)。

それはそうと、支払いはどうするのだろう?と思っていたら、たまたま幹事のY君が、「僕もPayPay使ってますよ」というので、Iさんは「じゃあ、PayPayで支払ってもいいよね?」と提案してきた。最初僕には何が何だかわからなかったのだが、どうやらPayPayには、自分のスマホから他人のスマホに電子マネーを送金することができるようで、つまり現金のやりとりは不要なのである。全然知らなかった。かくして、会計は無事に済んだのである。

PayPayで電子マネーのやりとりをするなんて、アラフィフの間ではフツーのことなのか?

…と思っていたら、例の卒園パーティーの経費を全員で負担するというお知らせが来ていて、だいたいその金額が7000円くらいだった。会計係のママ友に支払うことになるのだが、そのママ友からの連絡によると、「できればPayPayで支払ってください」とあった。えーっ!!僕も妻もPayPayなんて使ってないよ!どうしよう…と思ったときに、先のクラス会での出来事を思い出したのだった。PayPayで支払う、というのは、スマホを使って電子マネーを会計係に送ることなのだろう、と。

これで確信した。PayPayで電子マネーのやりとりをするという行為は、いまやフツーのことなのだ、と。

取り残されているのは僕のほうなのだ。

いまも僕は、お店での支払い方法のほとんどが現金である。もちろんクレジットカードを使うことも多いが、主たる支払い方法は現金なのである。言い訳めくが、地方に出張したときなどは、電子マネーが使えないお店もあったりするので、常に現金は持ち歩かないといけない。しかも、何かあっちゃ困るから、現金は常に余裕をもって携帯している。

これからも、現金での支払いを続けるつもりだ。なにより、PayPayという言葉の響きがあまり好きではないので、なかなかPayPayを使う気になれないのだ。というか、たんにPayPayって言いたいだけじゃないのか?

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関係性の消費

自らをふり返ると、集団のなかで、居心地がよかったという経験があまりない。

いままで属していた集団のほとんどすべてにおいて、アウェイという感覚を拭い去ることができない。

ある会合の休憩時間での会話を聞いていると、僕以外は内輪のノリでみんなが喋っていて笑ったりしているのだが、どこが面白いんだろうと、憮然とした表情を浮かべながら黙って別の作業をしていることが常である。

マキタ・スポーツさんが、たしかそうした笑いを指して「関係性の消費」と言っていたような覚えがあるが、僕はその「関係性の消費の笑い」が好きではないのである。

お笑い芸人についても、「関係性の消費」を前面に出した笑いを得意とする人がいるが、やはり苦手である。

同じ丁々発止でも、内容で笑わせるのは好きだが、個人の属性に頼った、つまり個人をキャラ付けした上でのやりとりというのがダメなのである。笑わせるなら中身で勝負しろよ!と言いたくなる。ま、お笑い芸人はともかく、素人にまでそんな要求を突きつけるのもヘンな話だが。

もちろん僕自身も、そういう内輪のノリの会話で笑わせるということがしばしばあり、他人様のことは言えないので、日々反省はしている。

内輪で笑わしあったり、慰め合ったりしている現場にいると鼻白むことが多いのだが、まあそこはそれ、大人の対応でなんとか乗り切っている。

たまに、「○○さんが××なんですよ」と、さも僕が○○さんのことを知っているかのように話しかけてくれる人がいるのだが、そもそも僕はその○○さんを知らなかったりすることがある。その人にとって、僕はいつの間にか○○さんの仲間だと思っているのだろう。これもまた、説明なしに周囲の人を巻き込む内輪のノリの1つといえる。

しかし、僕と同じ違和感を抱いている人が必ずいるはずで、僕はそういう人と話が合う場合が多いのである。むしろそういう人と結束が固くなる。内輪ノリで親しげに喋っている人同士以上に、である。

内輪ノリの中に入っている方が心地よいのだろうか?僕はその楽しそうな会話を聞いていても、あまり魅力を感じない。居心地の悪いままでいる方が、心地よいと感じることがあるから不思議である。

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無茶なメール

3月11日(月)

そろそろ帰ろうかという17時少し前に、韓国の知り合いからメールが来た。

韓国語の長いメールで、原文を読んでいる時間がないので翻訳サイトで翻訳したものを読んでみたが、正確にはよくわからない。たぶん、先方も相当に焦って書いたメールだろうということが予想できた。

なんとなくわかったのは、11月に大きな会議をやりたいのだが、日本から一人二人見つくろって参加してもらえないだろうか。国からの支援の必要上、11月23日より前に開催することが条件になる、というのである。

僕を含めた3名程度の名前が挙がっていたが、僕はできれば行きたくない。昨年11月の国際会議があまりにもスジが悪くて懲りたからである。だいたいこの知り合いから来た依頼はあまり筋がよくないのだ。だから名前が挙がっていた他の二人にも、この話を切り出すのが難しい。

さらに驚いたのが、長いメールの末尾に、韓国語で次のようなことが書いてあったことである。

「이 메일에 대한 답을 가능하다면 오늘 받으면 좋겠습니다. 갑자기 긴급하게 부탁을 드려 죄송합니다.(このメールへの回答が可能であれば、今日もらいたいと思います。 急に緊急にお願い申し上げます)」

僕は驚愕した。本日中に結論を出して返事をよこせというのは、無茶な話である。

あまりに非常識じゃないか、と思いつつも、そんなことはおくびにも出さず、提案されたことについてこちらがそれに対応することは難しいという内容を長々と書いた。本当は韓国語で書かなければいけないのだが、これも翻訳ソフトを利用して韓国語に翻訳して送った。

先方はわかってくれただろうか?

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2日連続懇親会

3月9日(土)

今週は会議が多くてほんとうに忙しかった。それに加えて確定申告も出さなきゃと思い、水曜日に作成して、木曜日の午前中に税務署に出しに行った。なにしろマイナンバーカードを作る気がないから、「マイナンバーカードがあれば確定申告の書類を作るのも楽ですよ!」という風説とは無縁なのである。

昨日の金曜日は、職場の最高議決会議があり、年度末だったこともあり、会議終了後は職場の近くで懇親会が行われた。社外取締役が何人も参加するので、こちらとしても参加しないわけにはいかない。

そして今日土曜日も朝から都内で会合があった。会合は18時過ぎまでかかり、そのあとはやはり懇親会が行われる。すっかりヘトヘトで帰りたかったが、わざわざ韓国からの4人のお客さんも会合に参加しにきてくれたので、ホスト役の僕としては懇親会に参加しないわけにはいかない。

この会合のために来日したキムさんは、僕が韓国留学時代に韓国語を習ったキム先生のお姉さんである。たまたまこのプロジェクトを立ち上げるときに、余人をもって代えがたいということでプロジェクトに参加してもらったのである。かつて教わった韓国語の先生のお姉さんと一緒に仕事をするというのは、まことに不思議な縁である。キム先生のエネルギッシュな行動力には、いつも敬意を表している。

懇親会の席で久しぶりにいろいろとお話ししたが、なにしろ僕の韓国語がすっかり衰えてしまって、言葉がなかなか出てこなかったり、時制を間違えたり、自分に対して尊敬語を使ったりで、もうボロボロである。それでもそんなボロボロな韓国語でも、意図をちゃんと理解してくれて、コミュニケーションが奇跡的に成立した。もっとも、通訳の人がいてくれたので、込み入った話は通訳の人にお願いしてしまったのだが。

僕が言った一言に、韓国のお客さんたちが何度か爆笑した。これは、僕がヘンな韓国語を使っていたからなのか、あるいは適切なワードを適切なタイミングで発したことが上手くハマった証なのかは、よくわからない。ま、後者としておこう。

ちょっとまわりの人には聞かれたくない話をしたくなり、僕はキムさんに韓国語でその内容をたどたどしく話しかけた。

するとキムさんも同じことを思っていたらしく、僕の言葉に共感してくれ、そのことについてさらに補って話をしてくれた。周りに聞こえないように。

「どうしたんですか?」と、韓国の人たちに聞かれ、

「(まわりの日本人に聞かれてはまずい話ので)韓国語で話したんです」

と言ったら爆笑された。

なるほど、たとえこっちの韓国語が片言でも、日本人よりも韓国人の方が共感してくれるというケースがあるのだな。考えてみれば、日本語の母語話者同士だからといって、決してわかり合えないこともあるのだから、当然といえば当然である。コミュニケーションとは何だろう?と考えさせられる。

「次は夏ごろに韓国でお会いしましょう」

と約束してお別れした。決して社交辞令ではなく、本当に行かなければならないことになりそうだ。

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マジで気が重い2日間

2月17日(土)、18日(日)

前回書いたが、都下の町で大規模な会合があり、2日目の最後には総合討論の司会をしなければならないので、この2日間は緊張を強いられっぱなしだった。参加するだけなら途中で居眠りをすることもできるのだが、司会となると、すべてのプレゼンをしっかり聞いておかないと、まとめることができなくなってしまう。だから1日目から気が抜けないのだ。

1日目が終わると、夕方は懇親会である。100名以上が参加した立食パーティーで、「政治資金パーティー」並みに食べ物がなかったが、何人かの人たちと久しぶりに再会することができて、話をしているうちに2時間が経ってしまった。僕はこの会合では「アウェイ」みたいなものだから、それほど知り合いが多くいるわけではないが、それでも珍しく間が持ったのである。

旧友が遠路上京してきて、久しぶりに会ったのも嬉しかった。「このあと2次会どうです?」といわれ、いつもなら2次会はお断りしているのだが、旧友との再会がとても楽しく、4人の気の合う者同士の2次会だったので、緊張が緩んで、ひたすら爆笑していた。

翌朝、けっこう辛かったが、9時過ぎに会場に着いて、続きのプレゼンを必死に聞いて、午後の総合討論を迎えた。

僕は司会を頼まれるといつも、事前に入念な打合せはあまりせず、本番は淡々と進めるというのが信条なのだが、登壇者にとってはそれが心配らしく、こいつに任せてほんとうに大丈夫なのか、という目で僕を見ていた。しかし壇上に上がれば、司会者は絶対権力者だ。後半は自分の好きなようにやらせてもらった。そして破綻することなく総合討論は終了した。

夕方4時前にようやく大規模な会合が終わり、そのあと、同じ場所で小さな打合せがあったのだが、そこでも司会をやらされた。しかしもう僕は抜け殻も同然である。

もう二度と司会はやらない。

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不適切にもほどがある?

2月15日(木)

今週の土日に、都下の町で大規模な会合がある。僕もその会合に少しかかわっていて、2日目の最後には総合討論の司会をしなければならず、慣れないテーマなのでマジで気が重い。

その会合には、旧友も参加することになっていて、遠路上京することになったのだが、夜になってメッセンジャーにメッセージが入っていた。このやりとりがとても面白かったので、一部表現を改変して引用する。

「こんばんはー。今週の17,18日の会合にはいらっしゃいますか?」

「2日めに司会しなきゃいけないんで2日とも出ます」

「懇親会も出ますか?」

「懇親会も出る予定です。お待ちしてますよ!」

「了解。いま東京にいるかつての同僚とも少し2次会調整してます。もし都合がつけば。ただ弱点は、まだ宿とってないという…」

なんと!今週末の会合なのに、宿をおさえていないのか?!いまの常識だと、宿がとれないか、とれたとしても相当高額だぞ!

「宿大丈夫?なかなかとれないと聞いたけれども」

「えー!まだ大丈夫かと。YouTube見てた(笑)。いま、楽天トラベル行ってきます。最悪、その日に電話しても基本大丈夫な大学の部活の同期の初台のおうちに泊まろうか…。情報ありがとう」

人の家に泊めてもらうなんて、完全に昭和のおじさんのノリだな。ドラマ「不適切にもほどがある」を地で行くようで笑えてしまう。

「初台、遠いなあ。立川あたりが無難だけど、ホテル代がちょっと高いね」

「中央線と京王線がぐちゃぐちゃ。大学生の時はあのあたりは得意だったのに。一回YouTube切りま~す」

「切れ切れ!(笑)」

しばらくしてまた連絡が。

「いま土日の立川のホテルの値段に圧倒されています。これまでは土日に東京で会合があると先輩の同僚にとってもらったり同期の家に泊まっていたから気づかなかった。大丈夫、もう55歳の大人なんだから」

ますますドラマ「不適切にもほどがある」を地で行く人だ。本当に大丈夫だろうか?

「健闘を祈ります」

しばらくして楽天トラベルのスクショが送られてきた。立川のホテルで、値段も高額である。このホテルを予約したということだろうか。

「とれた?よかった」

「まだです。今どこまでお金を出せるかとか喫煙部屋にするかしないかの中で葛藤中。奥さんが横でテレビを観ています。恐くて画面を見せれません。楽天戻ります」

たしかに高いからなあ。僕は少し離れたところも対象にして、安いホテルを探して情報提供をした。しばらくすると、また楽天のスクショの画面が送られてきた。こんどは「予約完了しました」の画面である。

「夜分すみません。お騒がせいたしました。半分業務で行くので、おすすめ魅力的だったのですが、乗り換え酔っ払って迷いそうで、何かあると悪いので近場の立川でとりました。いろいろと情報ありがとうございました。当日は頑張るぞ!」

最終的によい結果に着地した。

「このことは主催者に黙ってて下さい」

といわれたが、大丈夫。ここは利害関係者が読んでいないから。

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続・前のめりな人

以前に「前のめりな人」という文章を書いた。

ふり返れば、40代前半頃までは、僕も前のめりな人間だったのかもしれない。しかし6年半ほど前に大病を患ってからは、あまりガツガツと仕事をすることができなくなった。

タモリさんがよくいう、

「やる気のある者は、去れ!」

という心境が、いまとなってはよく分かる。

なぜそんなに生き急いでいるのですか、と聞きたくなるような人をたまに見かける。限られた時間でいくつもの仕事をこなそうとする。

これもしなければ、あれもしなければ…、と、一日で全部片づけようとする人がいた。自分はこの仕事の第一人者である、という自負があるのか、それとも、功を急いでいるのか、よくわからない。

「そんなに無理する必要はありませんよ。時間はたっぷりあるのですから。なにしろいまはまだ『仕込み』の段階でしょう?そんなに結論を急ぐことはありません。そんなに早く結論を出してしまったら、面白くないでしょう」

というようなニュアンスをにじませた言葉を、やんわりと言ったりするのだが、たぶんそんなニュアンスはまったく伝わっておらず、それでもその人は、使命感に燃えている。

もちろん、前向きに仕事に取り組んでいただけることはこちらとしてもありがたいと思い、つい、その人に頼りっきりにしてしまうこちらの側にも反省はある。

やはりここでも大事なキーワードは「ブレーキ」だ。

いつの間にか、僕がブレーキを踏む側にまわっていることが多いことに気づく。たぶんそれは、いいことなのだろうと思う。

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時間のかかる終活

2月12日(月)

タイトルは宮沢章夫『時間のかかる読書』から一部拝借した。

狭いマンションに住んでいるのだが、職業柄、部屋は本で溢れかえっている。だが娘がこの4月から小学生になるということもあり、娘の勉強部屋を確保しなくてはならず、大幅な本の整理をしなければならなくなった。

それが直接的な理由なのだが、そろそろ人生の終盤が見えてきたこともあり、いまから終活をはじめようかとも思っていた。大病を患っていることもあり、いつ何が起こっても不思議ではない。運よく定年まで命が長らえたとしても、あと10年である。この年齢になると、もう新しい分野に手を広げることはできない。30代の頃は根拠のない万能感が自分を支配していて、関心の赴くままにいろいろな本を買っていたが、もうそんな年齢でもなくなった。「現状維持」を目標にするしかなくなったのである。

それに、定年退職をした人たちにいろいろと話を聞いてみると、やはりいちばん困ったのは蔵書の整理だという。職場に仕事部屋を持っている人は、その部屋に蔵書を押し込めればいいけれど、退職したら職場を追い出され、蔵書もすべて引き取らなければならない。定年後に家を改装して「移動式書棚」を作ったという人の話を聞いたのだが、「定年後にわざわざ移動式書棚を作る必要があるのか…」と自問自答を繰り返している。かといって、段ボールに入れて積んでいても、たぶんその先の人生では絶対に段ボール箱が開けられることはないだろう。

だとすれば、「段ボールに詰めたとして、もう絶対に開かないであろう本」を、仕事が現役のうちにできるだけ有効な処分をしたほうが、後々楽である、ということになる。そんなわけで、いまから終活をはじめることにしたのである。

蔵書整理の方針は、次のようなものである。

1.ほんとうに残す必要があるものについては、自宅に残す。

2.もはや自分が持っている必要がなく、かつ、職場の図書室に入っているのがふさわしい本であるにもかかわらず現時点で職場の図書室に架蔵されていない本については、職場の図書室に寄贈する。

3.もはや自分が持っている必要がなく、職場の図書室に入っているのがふさわしいもので、かつ職場の図書室に架蔵されている本については、しかるべき古書店に引き取ってもらう。

4.仕事に関係のある一般書で、職場の図書室に入れるほどではない本については、とりあえず実家に移動する。

5.仕事と関係のない一般書で、今後絶対に読むことはないだろうという本については、本のリサイクルショップに引き取ってもらう。

この1~5の判断がなかなか難しい。

僕としては、なるべく「2」の判断をしたい。なので、この本は職場の図書室に架蔵されているか否かを、1冊1冊検索をかけて調べて、ないものだけを選り分ける。これにはけっこう時間がかかる。

結局、大部分は「4」になってしまう。今日は段ボール8箱分を、実家に移動した。だがこれは厳密にいえば「終活のための断捨離」ではなく、「問題の先送り」に過ぎない。ただ、あるていど実家に本がたまったら、こんどは実家にある本の中で選別をして、いらない本をリサイクルショップに売らなければならない。

そう考えると、終活には思った以上に時間がかかる。

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ボランティア原稿

今週はほんとうに何もやる気が起きなかった。作成すべき書類はたくさんあるし、今月末締切の原稿もあるのだが、作業がパッタリと止まってしまった。何でもかんでも薬の副作用のせいにするなよ、と叱られるかもしれないが、こればかりは焦ってもどうしようもなく、ひたすら降りてくるのを待つばかりである。

某国のスジの悪いプロジェクトの担当者から、「原稿はどうなっていますでしょうか。進捗状況を教えてください」というさりげない催促が来た。もともと一昨年の年末に出すという約束をしていたが、それどころではなく、1年先延ばしにしてもらったが、やはり昨年末まで仕上げることができず、放っておいたら、先方も忘れておらず、軽い催促と相成ったのである。少しは書いているのだが、モチベーションはまったく上がらない。なにしろかなり長い文章の原稿を書くように指定されて、せっかくがんばって書いても、某国語に翻訳されて、この国はおろか、某国人にもほとんど読まれないのではないかということがわかりきっているのだから、いったい何のために書いているんだろうと空しくなる。

それに、五月雨式に原稿の依頼がいろいろなところから来て、それに応えるだけでも精一杯である。だが書いても書いても、儲かるわけではない。著者は買い叩かれ、雀の涙ほどの印税があるのはまだしも、原稿料が支払われない場合がほとんどである。先日聞いた話では、複数の執筆者によって書かれた本が、原稿料が支払われないだけではなく、たった1冊の本が現物支給されるだけで終わったという事例を聞いた。ふつうの出版社だよ。現物支給はやむを得ないとしても、1冊しかくれないというのは、遂にそこまで追い込まれてしまったかという感を禁じ得ない。本務がある人だったら業務の一環と割り切ってあきらめることもできようが、フリーランスのライターだったら、とても生活していけないではないか。

以前、ある外国人がこの国の出している本に原稿を寄せてくれたのだが、原稿料がなく現物支給であることを知って、「こっちは時間を使って原稿を書いているのに、なぜ原稿料が支払われないのか」とクレームを言ってきたことがあった。「だってしょうがないじゃん」とそのときほ思ったが、そんなことに慣らされている自分たちの方がどうかしているのではないかとも思い始めている。

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