日記・コラム・つぶやき

立場、って何だろう

先日、ある会合に出席したときに、

「○○さん、△△という立場からコメントをお願いします」

と、4人くらいの人に対して、それぞれの「立場」からのコメントを求めていて、ちょっと違和感を覚えた。

「立場」というのは「属性」という言葉でも置き換えることができて、つまりそのような依頼をするということは、その人をそういう属性の人だと分類している、ということである。

しかし、その人にとってみれば、その「立場」は自分自身の中の一部であって、すべてではない。しかも、その「立場」の人たちを代表しているわけでもないのである。

いまの首相が、大臣に女性を起用したことについて「女性ならではの感性で…」と発言して炎上した。男性に対しては「男性ならではの」という言い方は決してしない。

少し前のテレビのワイドショー番組などでも、司会者が女性のコメンテーターに、「女性の立場としてはどう思いますか」という質問をよく投げかけていた。いまでもそんな質問をしたりしているのだろうか。

男性は「個人」として尊重され、女性はその属性ばかりが強調され、個人が埋没してしまう。

「○○の立場から発言する」というのは、まるで自分がその立場の代表者であるが如く発言する、という意味であり、これは単に男女の問題だけにはとどまらない。ありとあらゆる局面で、個人を埋没させる魔法の言葉なのである。

自分もうっかりと「○○の立場としてはいかがですか」と言ってしまいそうだ。そのように言えば、どんな人物も簡単にあるジャンルに落とし込むことができるからである。これを防ぐためにはまず自分自身が、特定の立場には安住しないと意識することが大事なのかもしれない。

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謎のインタビュー

11月24日(金)

在宅勤務で、午前中と午後のオンライン会議をこなす。合間には、1月末の国際会議の原稿作りを進めるが、なかなか進まない。

そういえば、昨日から一歩も家の外に出ていないことに気づき、午後の会議が終わった夕方に、散歩がてら近くの喫茶店に行くことにした。どうしても読んでおかなければならない本があったことも念頭にあった。

喫茶店、といっても、よくあるチェーン店の手軽なコーヒーショップである。

安価なコーヒーを買って店内の席に座って本を読み始めたのだが、隣の隣の席あたりに、女性二人がやってきて座った。イメージとしては、そうねえ、「OVER THE SUN」の世代。

ふつうに雑談でもするのかと思ったら、ふたりのうちで若干若いと思われる女性のほうが、

「さっきまで、IKKOさんにインタビューしてきたんです」

と言ったので、僕の耳はその人にロックオンされた。

「で、これ、IKKOさんから貰ったものですけれど、よかったらお持ちになりますか?」

と、もう一人の女性に小ぶりの箱を渡した。石鹸とか入浴剤とか、その類いのものと思われた。

もう一人の女性はその箱を受け取り、

「IKKOさんって、肌きれいだよねえ」

としみじみ言い、

「とても61歳には見えません」

と、そのインタビューした女性が相づちを打った。インタビューした女性のほうは、何かの雑誌の編集者だろうか?するとその女性が、

「では、はじめましょうか」

とスマホの音声録音をセットし、鞄からノートと筆記用具を取り出した。

(え?いまから目の前の女性のインタビューをするのか?)

僕は俄然、インタビュアーの女性の目の前にいる女性に興味を持った。有名人なのかもしれないと思ったからである。

しかしどう見ても、僕がまったく知らない人である。

芸能人なのかな?とも思ったが、いわゆる芸能人のオーラというものがまったく見られない。「OVER THE SUN」のふつうの互助会員、といった趣である。

ならば、たとえば小説家とか、ライターとか、そっち方面?そう言われれば、そんな顔立ちをしていらっしゃるようにもみえる。

その女性が語り始めると、インタビュアーの女性は「ふむふむ」とノートを取り始めた。

僕は必死になって聞き耳を立てたのだが、その女性が語っている話というのが、

「夫はああ見えて自分勝手なんですよ」

「息子が中学生になって…」

と、自分の家族の話ばかりしている。というか、ほとんどが家族に対する愚痴である。

それを「ふむふむ」と必死にノートに筆記しているインタビュアー。

このインタビュアーが直前までしていた仕事が、IKKOさんへのインタビューだとしたら、目の前の人もそれくらい有名な人に違いないとだれだって思うじゃないの!しかし目の前にいる女性は、いたってふつうの人のように見える。

いったいこのインタビューは何なのだろう?すべてが謎である。

何週間か経って、そのインタビュー記事が載っている雑誌を偶然僕が見つける、なんてことはあるだろうか?ま、ないだろうな。

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逵さん

先日、NHKのニュースを見ていたら、台湾の総統選挙の話題が取りあげられていた。台湾の総統選挙については、「ヒルカラナンデス」というYouTube番組でも取りあげていて、どうやらおもしろいことになりそうだということだったので、どういうことになっているのだろうと、画面を注視した。

すると、台北支局の支局長が解説者として登場したのだが、お名前を見ると「逵健雄」さんと書いてある。

「逵」???見たことのない漢字だ。一緒に見ていた妻に聞いても、

「あれ、なんて読むの?」

「さあ」

と、やはりわからない。他人の名前をどうこう言うのは気が引けたが、

「日本にない姓だとしたら、ひょっとしてこれは台湾にある姓で、この方は台湾に出自を持つ方なのかもしれない」

「そうかもね」

という、何ともいいかげんな結論で終わってしまった。

なんと読むのか?僕はとっさに「陸羯南」を思い出し、「くが」と詠むのではないかと思ったが、よく考えれば「陸」という文字だし、陸羯南の出身は津軽である。

そんなことも忘れて、今日。

職場で、必要があって、いま取り組んでいるテーマについて図書室から本を借りて、その中にある職業的文章を読むことにした。1960年頃に書かれた職業的文章である。

すると、その文章を書いた人の姓が「逵」とあった。

「逵」…どこかで見たことがあるぞ。

思い出した!昨日だったか一昨日だったか、NHKのニュースで見た台北支局の支局長の姓だ!

わずか数日の間に、僕は「逵」という珍しい苗字の人に2人出会ったことになる。しかも2人の間には、60年以上の開きがあるのだ。

こんな偶然って、ある?

こうなるとますます「逵」を何と読むのか興味がある。調べてみるとすぐにわかった。正解は「つじ」である。ふつうは「辻」と書くのだが、その変形らしい。全国に700人くらいいると、あるサイトには書かれていた。

ところで、「辻」は国字である。つまり日本にしかない姓なのである。ということは、同じく「つじ」と読む「逵」も、同じく日本にしかない姓なのではないだろうか。

これでもう、「逵」という姓を持つ人の名刺をもらっても、「つじさんですね」と即答できるだろう。

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ひとり合宿の楽しみ

11月14日(火)

「ひとり合宿」2日目。

メインイベントが終わり、あとは明日の「高気圧酸素治療」と「解放」を待つばかりである。

ありがたいことに、朝刊と夕刊を部屋に持ってきてもらうサービスがある。朝刊と夕刊は違う新聞社のものなのだが、いずれの新聞も僕の思想信条とは真逆のものなので、ふだんまったく読む機会がない。「ひとり合宿」のときが唯一その機会なので、僕はその2種類の新聞に目を通すことにしている。

とくに注目しているのは、夕刊として渡される某新聞1面のコラムだ。コラム、といっても、新聞社の論説委員みたいな人が書くものではなく、日替わりで大企業の経営者とか作家とか、たぶん新聞社のおめがねにかなった人が選ばれて書いているようである。書いてある内容が、さりげない自慢だったり、無意識に上から目線だったりすると、そこはかとない芳ばしさを感じさせる。

本日の夕刊コラムの執筆者は有名な作家だった。ふだんから権力志向が感じられる人で、どちらかというと僕はちょっと苦手である。内容は曰く、こんな感じである。

自分の財布がパンパンに膨れているのは、現金のせいではなく、さまざまなお店のクーポンカードのせいである。たとえば化粧品売り場で商品を買うと、会員登録させられてカードをもらう。化粧品や洋服だけではなく、スーパーやドラッグストア、焼き肉屋やちょっとしたカフェに至るまで、1回行っただけでポイントカードを勧められ、それが積もり積もって財布を膨らませる。

そこからの作家の文章がすごい。

「それならば断ればいいではないかと言われそうであるが、拒否するととたんに店員さんの態度は冷たくなる。それがイヤで、カードに記入するぐらい、と考えてしまうのである」

ここからその作家は、通りすがりの人として商品を求める自由が許されないのは世の中が窮屈なのではないか、という持論を展開するのだが、僕はこのコラムを違和感なしには読めなかった。僕がその作家に対して偏見を持っていることは認める。そのことを差し引いたとしても、である。

「カードの作成を拒否するととたんに店員さんの態度が冷たくなる」というのは、本当のことだろうか?僕はいままで、そんな店員さんに出会ったことは一度もない。「カードをお作りしましょうか?」「いえ、けっこうです」と答えて、気分を害する店員がいるのだろうか?

いや、僕が言いたいのは、そんなことではない、「自分がカードを作ってしまうのは、店員さんの態度に責任がある」と言わんばかりの論調を何の疑いもなく書いている作家の方に問題があるのではないか、ということなのである。どうしてこんなことをコラムで書けるのかが、僕にはよくわからない。批判は、店員に向けるべきではなく、何らかの目的でそのような仕組みを作って利権に結びつけようとする、より大きな組織に向けられるべきではないのか。その作家がすでに大きな権力を持っている存在なので、攻撃の矛先を店員に向けるのはなおさらおかしい。これだけ有名な作家なのに、そこに対する想像力が欠けているのは至極残念である。

ちなみに僕の財布もカードで膨れ上がっている。しかしそれは僕自身の問題であり、だれのせいでもない。

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最も雑な国際会議

11月10日(金)

以前、韓国の知り合いから、国際会議で何か話をしてくださいと依頼された。

その知り合いは、わざわざ私費で日本に渡航して、僕が手がけた今年春のイベントを見に来てくれたので、断るわけにはいかない。

「どんな話をすればいいのですか?」

「なんでもけっこうです。今年春のイベントについてお話しになってはいかがですか」

なんでもけっこう、って、その国際会議はいちおうテーマがあるんだろうに、なんでもいいということは、国際会議を開くことだけが決まっていて、あとはなりふり構わず登壇者を集めるということなのだな。

韓国では、3カ国以上の人が参加しないと「国際会議」とは名乗れないと聞いたことがあるから、明らかに僕はたんなる「数合わせ」である。

現地参加が原則のようだが、日程を聞くと、僕がとうてい韓国に行くことができない時期である。

「現地参加はできませんが、オンライン参加だったら参加できます」

と条件をつけたら、

「それでけっこうです」

と答えが返ってきた。ホントに、なりふり構わないんだな。

僕は、今年春のイベントにかかわる内容のお話をすることにし、韓国人にもわかるように原稿を作り直して送った。パワポも作ったのだが、先方が求めている内容なのかどうかわからない。

会議は2日間あるそうなのだが、自分がどの日時に発表するのかわからない。こっちは保育園の送り迎えがあるのだ。

しばらくして、「登壇日時は11月10日(金)の16時10分から30分程度です」という答えが返ってきた。と同時に、国際会議の2日間のタイムテーブルも送られてきて、僕のプレゼンは一番最後だということがわかった。ほかのプレゼンターの内容も見てみたのだが、それでもどうもよくわからない。ただ、明らかに僕のプレゼンだけが浮いているということだけはたしかなようである。

いつまで経ってもZoomのアカウントが送られてこないので、催促したら、直前になってアカウントが送られてきた。僕はそれを見てびっくりしたのだが、Zoomの設定、つまりカメラ機材の設定は11日(金)の13時~14時の間におこないますので、その時間に適当に入ってきてくださいとのことだった。

えええっ!!どうやらオンライン参加は僕だけで、僕の登壇時間の付近だけ、Zoomの設定をするということらしい。極端なことをいえば、僕は自分の登壇の時間だけ、この国際会議に顔を出せばよいということなのだ。

それはそれでありがたいが、手を抜きすぎだろ!

で、接続の状況とか画面共有の確認とかの必要上、午後の部が始まる14時少し前に入室したところ、案の定、会場の音声がひどく悪い。マイクを使っても、音声がぼやけていて何を言っているかわからないのである。どうやらZoomのホストアカウント用のノートパソコン1台を雑に置いているだけのようだ。会場の映像も、アサッテの方向を漫然と映し出している。

機材のトラブルを、韓国語で先方とやりとりするというのはかなり難易度が高い。日本語の通訳なんて、当然ながら用意されていないので、頼れるのは僕の貧弱な韓国語しかないのだ。うーむ。これは最大のピンチである。とにかく、自分のプレゼンの前に、ほかの人のプレゼンを見ながら対策を考えるしかない。

14時。午後の部が始まった。

登壇者は韓国人なのに、司会の韓国人はなぜか英語で喋っている。国際会議という体裁のためだろうか。

例によって、僕に会場のぼんやりした画面が見えるだけで、プロジェクタに映し出されたパワポはまったく見えない。だから内容が全然入ってこない。音声も途切れ途切れで聞こえない。この時間はいったい何なのだ?

案の定、各人のプレゼンは順調に予定時間をオーバーしている。こうなると気が気でない。席を離れることができず、ノートパソコンの画面に張り付いて、自分のプレゼンがいつ始まるのかを見極めなければならない。

僕の2人前のアメリカ人は、大げさに身振り手振りをしながら、ミュージカル「ウェストサイドストーリー」の話を延々としているようだった。そういえばスピルバーグ監督がリメイク映画を作っていたしね。話は、「ウェストサイドストーリー」と「ロミオとジュリエット」の近似性についても及んでいるようで、「それ、たしか映画評論家の町山智浩さんが『たまむすび』で言ってたぞ。町山さんの話を聞けば十分なんじゃねえの」といった感じの内容だったのだろう(推測)。

さて、僕の出番は、予定より20分遅れて16時30分からだった。「30分でお願いします」「わかりました」

最初だけ韓国語で挨拶をして、本題に入ると同時に写真いっぱいのパワポを使いながら日本語で話をした。原稿はすでに韓国語訳されているので、内容を理解する分には困らないはずだ。

ちょうど30分でプレゼンを終え、そのあとは討論者による質疑がある。これがいちばんの問題だった。通訳はいないし、会場の音声は途切れ途切れにしか聞こえてこない。その場でのヒアリングは絶望的に難しい。

そんなこともあろうかと、あらかじめ討論者から送られてきた討論文(韓国語)を読み、それに対する回答を考え、それをパワポに簡単な韓国語であらわし、画面共有しながら説明する、という方法を事前に思い付いた。こうすれば、日本語を喋って回答しても、先方が理解できないということはない。僕はまじめにそれを実行した。

討論者のコメントが始まった。予想どおり、討論者は自分のコメントをまくし立てるように早口で喋った。それはあまりに義務的なしゃべり方だった。耳をそばだてて聞いてみると、あらかじめ僕に送付した討論文をひたすら読んでいるようだ。

そのコメントが終わったかな、と思われるタイミングで、こちらもあらかじめ準備していた討論者の質疑に対する答えを、パワポを画面共有しながら説明した。一通りやりとりが終わると拍手が起こった。どうやら無事に終わったようだ。

この最悪で雑な環境で、よく破綻せずに終われたものだと、その奇跡に僕はドッと疲れがでた。画面の共有を停止すると、会場の様子が大きく映し出された。僕はそれを見て驚愕した。

会場には、討論者の先生のほかに、学生とおぼしき若者ばかり8名しかいない!偉い人たちはみんな、俺の話を聞く前に帰っちゃった!

討論者や学生は義務感から仕方なくでていたのだろうけれど、偉い人たちは、最初から僕の話なんぞ聞く気がなかったのだ。それどころか、僕をこの国際会議に呼んだ当事者の人も、会場にいなかった。なんという雑な扱いだ!

僕はいったい、だれに向けて話をしていたのだろう?

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いちばん目立つ車

職場に通勤するときは、片道2時間以上かけて車で通っている。

通勤のたびに何百台、何千台の車を見ることになるのだが、その中でいちばん目立つ車というのは何でしょうか?

正解は「トヨタ・センチュリー」です!

朝、首都高速の入口から入ると、かなりの確率で、気がついたら隣の車線で「センチュリー」が走っている、という場面に出くわす。

「センチュリー」といったらあーた、日本を代表する超高級車ですよ!子どものころ、自動車図鑑みたいなので、高級車の代名詞として必ず紹介されていたので、いくら車に興味がない僕でも、さすがに認識することはできる。黒塗りの車で、専用の運転手さんがいて、VIPが後部座席に乗るものと相場が決まっている。実際、よく見かけるセンチュリーは、後部座席側の窓すべてにカーテンがかかっている。これはもう、とても偉い人が乗っているに違いない。

ナンバープレートをちゃんと確認したわけではないが、僕がよく出くわすセンチュリーは、すべて同じセンチュリーなのだと思う。どんなに首都高が渋滞していても、センチュリーだけは見逃さないから不思議である。

何度かセンチュリーを見かけるうちに、どうやら、そのセンチュリーが僕と同じ入口から首都高に入って、都心へ向かっていることがわかった。そうなるともう、親しみを覚えずにいられない!

いったい、センチュリーに乗っているVIPというのは、だれなのだろう?

そんな想像をしながら出勤するのが常なのだが、今日はなんと、退勤の時に首都高で同じセンチュリーを見たぞ!

今日は職場を少し早めに出たのだが、午後5時前に首都高速を走っていると、同じセンチュリーが隣の車線を走っていることに気づいた。一般的には、退勤時間というには少し早い時間帯である。

なるほど、「重役出勤」というくらいだから、遅く出勤して早く帰るのだな。ますます乗っている人のことが気になった。

予想どおり、センチュリーは僕の車と同じ出口から首都高速を降りたのだった。

謎は深まるばかりだが、冷静に考えてみると、これだけセンチュリーを見かけるということは、俺自身が重役みたいなものなんじゃないだろうか。もっとも、こっちは保育園の送り迎えのために重役出勤にならざるを得ないのだが。

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じじょまる

11月5日(日)

今日から妻が1週間の出張なので、5歳の娘の子守は僕がやることになっている。

平日は保育園に預けるのでどうということはないのだが、問題は休日である。四六時中、目の届く範囲で子どもを遊ばせなければならない。

今日はどこに連れていこうかとノープランだったのだが、朝9時頃、市の防災無線を通じて、住民に向けて放送が流れた。

「本日10時から○○小学校において、防災訓練をおこないます。ふるってご参加ください」

市をあげての防災訓練のようだ。しかも、防災訓練がおこなわれる小学校は、自宅から比較的近い場所にある。午前中、とくに連れていく場所もないし、娘と二人で歩いて行くことにした。

どうせつまらないのだろうな、と思いきや、さにあらず、これがなかなか楽しかった。

校庭にはいくつものテント(運動会などで使うヤツ)が並んでいて、それぞれの場所でクイズに答えたり、訓練体験をしたりするたびに、スタンプが捺される。いわばスタンプラリーのようなもので、合計12コ以上のスタンプが捺されると、防災グッズなどの景品がもらえるというしくみである。

個々の体験は面白かった。火事の時の煙がどれほど恐ろしいかを体験する「煙体験」や、震度の大きい地震を体験する「地震体験」、消火器訓練や放水訓練、消防車乗車体験など、子どもたちをなかなか飽きさせないブース(テント)が並んでいる。非常時に自動販売機の飲料水がボタンを押すだけで無料で出てくるという夢のような機械とか、果ては「炊き出し体験」と称して、防災訓練に訪れた人たちにカレーライスとミネラルウォーターがふるまわれたりする。おかげで、お昼ご飯を炊き出しで済ませることができた。「炊き出し体験」とは、「炊き出しがこんなにありがたいものだと体験する」という意味だったのだ。お昼12時までのたった2時間でこのイベントが終わってしまうのは、なんとももったいない。

それよりも僕が気になったのは、この防災訓練のマスコットキャラクターである。みうらじゅん先生言うところの「ゆるキャラ」なのだが、これれがひどく人気なようで、そのゆるキャラが近づいてくると、各ブースを担当している防災訓練のスタッフたちが気もそぞろになり、訓練参加者への対応をいったん休んで、ゆるキャラの写真を撮りに行く始末。おいおい、訓練だとはいえ、持ち場を離れていいのかよ!

…いや、僕が気になっているのはそんなことではない。そのゆるキャラの名前である。

胸のところの名札を見ると「じじょまる」とある。「じじょまる」って漢字に直すとどうなるのだろう?まさか、「自助丸」?

インターネットで検索してみると、簡単に答えがわかった。やはり「自助丸」である。名前の由来を、公式ホームページでは次のように説明している。

「防災において最も重要な「自助」(自分で自分の身を守る)からじじょまると名付けられた」

僕はこの「自助」という言葉があまり得意ではない。コロナ禍の時に首相だった人が、

「自助、共助、公助、そして絆」

という言葉を何度か口にしており、自助を冒頭に持ってくると言うのは、自己責任論を声高に叫ぶ温床になるのではないかと懸念したものである。

だがよく調べてみると、この「じじょまる」の誕生日は、公式ホームページでは、「2015年10月に突如現れた!」とあるから、コロナ禍よりも前にすでにこの名前が決まっていたということである。

僕はコロナ禍になって「自助」という言葉が生まれたのだろうとてっきり思っていたのだが、そうではなく、それ以前から防災界隈では「自助」という言葉がふつうに使われていたらしい。

それにしても、コロナ禍で「自助」という言葉がいささかマイナスイメージを持ってしまったことは否めない気がする。要は、「だれが言うのか」という問題に尽きるのだろう。

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1勝1敗

11月3日(金)

さあみなさん!今日おこなわれた2つの行事がどうだったのか、気になっていると思いますけども。

まず、保育園有志によるハロウィンパーティー。

パーティー自体は午前中から始まっていたのだが、メインの「ゲームならびにお菓子配り」は午後2時からと聞いていたので、お昼ご飯は別に済ませ、午後から参加することにした。

会場となっている公会堂に行くと、すでに大人たちはデキあがっていた。つまり、父母問わず、お酒がそうとう入っていて、なかにはへべれけになっている人もいる。

うーむ。なかなかのカオスである。2時から開始予定のゲームが、いつになっても始まらない。5歳の娘は、それなりにお友だちと遊んでいるのだが、僕はたちまち手持ち無沙汰になった。

じゃあパパ友の輪に加わろうかと思っても、愚連隊みたいな連中ばかりで、とてもその輪には入っていけない。もとより僕は飛び抜けて年上の保護者なので、僕自身が扱いに困る人間なのである。

1時間ほど経った3時過ぎに、ようやくゲームが始まった。ゲームというのは、スタンプラリーのようなもので、子どもたちが公会堂の中や隣接する公園を探しながら、シールを入手していくというものである。で、シールをコンプリートしたあかつきには、お菓子がもらえるという、そういう遊びなのだ。

僕は、このハロウィンパーティーの準備に一切関わらないと心に決めていたのだけれど、準備をした人はたいへんだったろうなあ。

お菓子をもらったらすぐに娘を連れて帰ろうと思ったのだけれど、そのあとが長かった。隣接する公園で、鬼ごっこが始まり、子どもたちはそれに夢中になったのである。

で、大人たちはというと、再び酒を飲み始めている。ご親切に僕に話しかけてくれる人もいるのだが、ろれつが回らないので何を言ってるのかわからない。

僕は次の予定もあるので、できれば午後4時過ぎに出たいと思っていたのだが、娘は、

「もっと遊びたい!」

と言ってきかない。ま、それは当然であろう。

それでも、「そろそろ帰るよ」と何度か呼びかけるのだが、「ヤダ」といって泣きそうになる始末。

どうにか5時に解散となり、急いで娘を近所に待機していた妻に受け渡して、僕は駅に向かう。高校のクラス会に向かわなければいけないのだ。

高校のクラス会の会場は、高校がある町の駅前にあるイタリア料理店を貸し切っておこなわれていた。

僕が少し遅れて到着すると、すでにみんな集まっていた。

10年ぶりの再会である。

会場に入るなり、アベ君が、

「よお!YouTuber」

といきなり僕をからかった。

「おい、俺はYouTuberじゃないよ」

「だっておまえ、YouTubeに出てただろ?」

「あれは職場の公式YouTubeチャンネルに出させられただけだよ!」

このあともたびたび、

「おい、YouTuber!」

「だからYouTuberじゃないって!」

という会話がくり広げられたのだが、そのやりとりが自分でも可笑しくてたまらなかった。

10年前のクラス会の時にも、

考えてみれば、高校時代、クラスで地味だった私を、「面白いやつだ」と思ってイジッてくれたのが、当時テニス部で、底抜けに明るいアベ君だった。その関係性は、いまでもまったく変わっていない」

と書いたが、その執拗な「イジり」は、さらに10年経ったいまもまったく変わっていない。アベ君は、自分のことはほとんど語らず、まわりを常に引き立てようとする。根本にあるのは優しさである。アベ君がいてくれるおかげで、僕はクラス会に参加できるのである。

クラス会は、実に楽しかった。こんな楽しい会は久しぶりだ。「楽しかったー!」と大声で叫びたいくらいだ。懸念していたプロ野球の話題も出なかったし、当意即妙の会話の応酬は、実に心地よかった。

クラス会の最後に挨拶された担任のKeiさんの言葉が感動的だった。

「自分はもう82歳になるが、いまも20件くらいのプロジェクトに参加していて、2カ月に1度の映画自主上映会も160回を数える」

数あるプロジェクトのなかから、Keiさんが出席者のみんなに披露したのは、keiさんと僕を結びつけたプロジェクトの話だった。

「まさか鬼瓦君の仕事とつながっていたとは、本当に驚きました」と述懐された。

そして最後にこうおっしゃった。

「自分はむかしから身体が弱かったが、そんなことはおくびにも出さず見栄を張って生きてきました。これからも野次馬根性をまる出しにして、好きなことを見つけて遊び続けながら、見栄を張って生きていきます」

この言葉は、僕のこれからの生きる指針になるだろう。いつまでも、恩師は恩師である。

この会場まで車で来たというKeiさんがお店を出た。ほとんどの人がそのお店に残る中、僕とアベ君は車を停めてある駐車場までついて行って、Keiさんをお見送りした。

「さあYouTuber」

「だからYouTuberじゃないって!」

「みんながまだお店で待っている。もう少しつきあえ」

お店に戻ると、10人ほどがまだ残っていた。時間が許すまでワインを飲み直すらしい。

僕一人はウーロン茶だったが、ほかの人たちはみなワインをしこたま飲んで、へべれけになっていた。それでも会話は楽しかった。

「おいYouTuber」

「だから違うって!」

「Keiさんはクラス会に出るのは今回が最後だっておっしゃってたけれど、そんなのはいやだ。来年もクラス会やろうぜ。そのときはおまえが幹事な」

「勘弁してよ!」

最後の最後まで、アベ君は僕をイジっては笑っていた。

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グループLINEの憂鬱

11月2日(木)

うちの保育園は、もともと保護者会があった。

それがコロナ禍に入り、会費を払うばっかりで、保護者会の役割が薄れてきたということで、解体することになった。いまから思えば、この保護者会を残しておくべきだったかも知れない。

保護者会がなくなって落ち着いたかというと、決してそんなことはなかった。「保護者会がなくなると、行事がなくなって子どもたちがかわいそうだから」といって、代わりに有志が立ち上がったのである。

その有志、というのが、つまりはお祭り好きな人たちで、子どもに寂しい思いはさせたくない、という名目で、いろいろな行事を企画するようになった。そしてそのためのグループLINEを作ったのである。

このグループLINEというのが、なぜかママ友だけに限られているというのは、以前に書いたことがある。つまり父親はすっかり蚊帳の外になったのだ。

たまに、妻からグループLINEをみせてもらったりすると、ちょっと具合の悪くなるくらい頻繁なやりとりがおこなわれている。しかもそのメッセージの大半は絵文字で、実際の文字よりも絵文字のほうが多いのではないかというくらいちりばめられていて、僕は吐き気を催すほどである。あれは、文字ばかりだと圧が強いから、絵文字で薄めているんだろうな。おかげで、何が言いたいのかさっぱりわからない内容になる。

自分だけは悪者になりたくないとみんなが思うものだから、メッセージ一つ一つがほとんど中身のない、同調圧力のカタマリのような内容になる。

卒園アルバムの件で僕がひどい目に遭ったということは、前に書いたが、今度は、ハロウィンパーティーをするという計画がグループLINEにまわってきたらしい。それが明日、11月3日の祝日におこなわれるというのだが、もう、ハロウィン、終わってるじゃん!

ハロウィンの段取りは、なぜかテキパキと決まっていく。曰く、午前中は、ママ連中が昼食の準備をしたりゲームの準備をしたりして、その間、パパ連中は子どもたちを公園で遊ばせておき、その見張りをする。そして昼食後は、ゲームとかお菓子を子どもたちに提供したりして、夕方は2次会、と、こういう段取りのようである。何なのこの性別役割分担!?これひとつだけでムカムカする。

「みんなで楽しみましょー!(絵文字)」と書いてあるのだが、おいおい!一日仕事かよ!

保護者会があったころもハロウィンパーティーはおこなわれていたのだが、あくまでゲームをちょっとやって子どもにお菓子あげる、という簡易なもので、ハロウィンの衣装も、仮装が好きな人はそれなりの仮装をしたり、場合によってはふつうの格好でやってくる子どもも多かった。つまりなるべく負担が少ないように、簡易にすませていたのである。

だが保護者会がなくなると、たがが一気に外れた。ママ友有志たちは、子どもが仮装することは前提で、さらにメイクもするというのだ。どろ~んとした目玉もつけるなんて言ってる。めんどくせえ!!

それに加えて、まる一日拘束されるというのだから、たまったものではない。

いちばん気になったのは、前回のバーベキューの時もそうだったが、昼間っからビールだシャンパンだワインだと、大人がお酒を持ち込むことを大歓迎していることである。

保護者会主催の時は、子どもたちの手前、禁酒・禁煙だったものが、いまや無法者の集まりと化したのだ。

本当に子どものためにする行事だったら、絶対に禁酒・禁煙にしなければいけないのだ。つまりこれって、子どもをダシにした、完全な親のエゴだよね!

子どもにしてみたら、お友だちが集まっているのだから参加したいと思わないはずがない。その気持ちを思うと、参加しない、という選択肢も親のエゴになってしまうので、僕は苦しい判断を迫られることになる。

苦肉の策で、前後に予定があるという理由で、午前の昼食までの時間と、夕方以降の時間は参加をせず、メインの、すなわちゲームをしたり子どもたちにお菓子を配ったりする時間のみ、参加することにした。

さて、もう一つ気になったのは、このハロウィンパーティーの段取りが、いつの間にかテキパキと決まった、ということである。

通常の手続きであれば、グループLINEのみんなに呼びかけて意見を聞くはずなのだと思うが、今回の場合は決定事項のみが通達される。これはつまり、グループLINEのほかにもう一つ、コアメンバーによるグループLINEが存在していることを意味するのではないか。

ま、どうでもいいことなんだが、社会の縮図だなあとつくづく感じさせられる。

ママ友とかパパ友って、必要なの?

僕は、「人はむやみに出会ってはいけない」という大林宣彦監督の教えを胸に抱いて生きているので、この年齢になってバカ騒ぎをする友だちなんぞ持ちたくないのだ。

さて、明日(11月3日)は、ハロウィンパーティーを中座して、夕方からもう一つ行事がある。それは高校のクラス会である。

担任の恩師に会いたいという理由だけで参加することにしたのだが、僕はイヤな予感がしている。

高校のクラスの有志たちでグループLINEは、野球の話題で持ちきりである。

なんといっても、阪神が日本シリーズで、しかも日本一に大手がかかっているというのだ。っていうか、「日本一」って、何?

これも以前に書いたが、高校の時、阪神タイガースが日本一になって(だから「日本一」って何?)、阪神タイガースのファンという理由だけで散々馬鹿にされていたK君の形勢が逆転し、マウントを取り始めたことがある。

で、グループLINE上では、そのときのどうでもいいやりとりが、再現されているのである。

またあのどうでもいいやりとりが交わされるのかよ!野球にまったく興味のない僕には、めんどうな話である。

明日のクラス会でもプロ野球の話題で持ちきりなんだろうな。

ええ、もちろん明日は一日中「ピクニックフェイス」で過ごしますよ。しかしせめてその前に、愚痴を言っておきたかった。宮藤さんに言ってもしょうがないんですけど。

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座談会

10月29日(日)

ある出版社のシリーズ企画の本に原稿を書いた。その本というのは、1冊ごとにテーマを決めて複数の執筆者が書くスタイルなのだが、それだけではなくて、巻末には執筆者たちによる座談会を掲載するという、たいへん面倒くさい構成になっている。

どうしてそんなに面倒くさいことをするのかとたずねてみると、「シーズン1」の時にそのスタイルで出版をしたら、本の中でも、座談会のところが一番よく読まれたのです、座談会は、各執筆者の文章を読むための格好な導入になっているのです、という答えだった。ということは、シーズン1のやり方が好評だったからシーズン2の企画が通ったんだなと思ったが、こっちとしてはたまったものではない。僕は座談会というのがそもそも苦手なのである。同業者が集まっての座談会となればなおさらである。

座談会というのは、一種の反射神経を競う競技のようなものである。しかも、自分にそれ相応の実力がないと、ほかの人たちと太刀打ちできない。いちど、業界誌のある企画で鼎談をしたことがあるが、あまり達成感のない結果に終わってしまった。

それと、座談会ということになると、そのときに喋っている一人ひとりの様子が写真に撮られ、「いま語ってますよ」という雰囲気の写真が本に掲載されるわけだが、それもまた苦手である。ほかの人の写真は、見るたびに「いいタイミングで撮られているなあ」とか「いい表情をしているなあ」と思うのだが、いざ自分が撮られるとなると、「いい表情」をする自信が全くない。

原稿を書くだけで勘弁してくれよ、と思うのだが、そこにもうひと手間かけなければいけないわけである。

たいへんなのは執筆者だけではない。座談会を文字起こしして、読める文章にする作業をする編集者もまた、たいへんである。喋った言葉が一字一句、そのまま使える文章になる、ということはまずあり得ない。「座談の名手」は、徳川夢声くらいじゃなかろうか。

出版社は、そんなことはすべてお見通しで、事前に、「緊張しないで、自由に発言してください!」とか、「発言内容は、メモを作ってきても結構ですが、棒読みにならないよう、くれぐれも注意してください。数字や細かい内容にこだわる必要はありません」と釘を刺した注意事項が送られてきた。そうはいっても、僕以外は百戦錬磨の同業者である。こういうときは、

「なんかあっちゃいけねえ」

と考えるのが僕の性分なのだ。

そこで、事前に送られてきた資料を読み込んだり、座談会の展開をイメージトレーニングして想定問答を考えたりと、いろいろと準備をしようと思ったのだが、金曜日は夜遅くに出張から戻り、昨日の土曜日はまる一日、5歳の娘の子守をして、さらに今日の午前中は、娘が「公園に行きたい」と言ってきかないので、公園に連れていったりと、結局何も準備できなかった。

仕方ない、ぶっつけ本番でのぞむかと、午後、都内に移動して、威圧するような出版社の建物を前にしてさらにプレッシャーを感じながら、建物の中に入る。

幸いだったのは、執筆者はいずれも以前からの知り合いで、僕が苦手とする人は一人もいなかった。こっちが多少ヘンなことを言ってもうまく拾ってくれるだろう。

座談会が始まってほどなくすると、

(ははあ~ん、さてはみんな準備してきていないな)

というのがわかり、少し安堵した。もちろん、あらかじめメモを作ってきている人もいなかった。ほかの執筆者たちも「出たとこ勝負」でのぞんでいたようだ。

座談会は2時間ほどで終わったが、僕が編集者だったら、

(うーむ、この数々のカオスな発言を、どのようにして自然な感じの座談会にまとめていけばよいだろうか)

と頭を悩ませるに違いない。そうとうたいへんだぞ。

しかし、そんな心配も杞憂に終わるだろう。なぜならそんなことは百も承知の、百戦錬磨の編集者たちだからだ。あとは、その「ビフォーアフター」とも言うべき編集の妙を楽しみにしていさえすればいいのだ。

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